九州を代表する観光地のひとつ、長崎県。世界文化遺産「潜伏キリシタン関連遺産」や「軍艦島(端島)」、新世界三大夜景に認定された「稲佐山」などには、国内外からたくさんの観光客が押し寄せ、とても混雑する。

一方、同県の心霊スポットは人気観光地の陰に隠れているためか、意外と知られていない。しかし、隠れキリシタンや、活火山「雲仙普賢岳」関連の遺構の中には、知る人ぞ知る霊の出没ポイントや、近づかない方がよいと噂される危険な施設も存在する。

今回は対馬市他、計6市の最恐心霊スポット12カ所(PART1)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.対馬市
   宗助国の首塚
   ・金田城跡
 2.壱岐市
   ・小島神社
   ・壱岐芦辺風力発電所
 3.南松浦郡
   ・番岳
   ・白魚千人塚
 4.五島市
   ・井坑
   ・六角井戸
 5.南島原市
   ・野田堤
   ・日野江城跡
 6.雲仙市
   ・仙落しの滝
   ・首塚

まとめ

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宗助国の首塚

対馬の南エリアにある『宗助国(そうすけくに)の首塚』は、モンゴル帝国の侵略(元寇)を打ち砕くべく奮戦した対馬家の武将「宗 助国」の墓である。

大陸から対馬に上陸した数千のモンゴル軍に対し、助国と数十名の部下たちは日本を守るべく奮戦。しかし、圧倒的な数の力に押し切られ全滅した、と言い伝えられている。

男たちは日本を守るために戦い、戦時した。以来、助国は対馬の伝説となり、首塚、胴塚、手足塚などが整備されたという。

対馬市で生まれ育ち、現在は東京の某機関で歴史を研究するY氏に連れられ、私は初めて対馬に上陸した。対馬の戦争関連遺構に霊が出没する噂はかねてから聞いていたが、今回その理由を大方理解することができた。

対馬の伝承に詳しいG氏曰わく、「助国公の塚は、墓荒らしにあって以来、大怨霊が出没すると噂になっていた。なお、塚を荒らした盗賊たちはひとり残らず奇怪な変死を遂げ、領民(住人)たちはこの話を対馬のタブーにした」という。

1836年、盗賊たちは数隻の船で対馬に上陸。領民たちから食料や金目のものを奪い取ろうとした。この時、九州本土では深刻な飢饉が発生していたものの、漁とサツマイモなどの栽培に力を入れていた対馬は比較的被害が少ないと噂されていた。

血気盛んな対馬の領民たちは、恐れることなく盗賊たちと応戦。対馬国を治めていた宗氏の部隊が動く前に大勢はほぼ決まったという。しかし、領民たちは盗賊たちを取り逃がしてしまった。

宗氏は部隊に出動を命じ、侵入者たちを追いかけた。一方、素人集団(領民)に打ち負かされた盗賊たちは、プライドを傷つけられ怒り狂っていた。

島内を移動していた盗賊たちは、偶然宗氏の先祖が眠る塚を発見。供養碑などをコナゴナに破壊し、埋葬されていた遺骨をひとつ残らず回収した。

上陸から3日後、盗賊たちは小さな集落を襲撃。男たちはひとり残らず殺し、女子供だけを宗氏の塚に移送した。

集落襲撃の報が盗賊たちを追いかけていた部隊に伝わり、対馬の南エリアは完全に封鎖された。

部隊は灰になった集落から数十名の遺体を運び出し、追跡を再開。その後、モンゴル帝国から日本を守るべく奮戦した助国の塚の惨状を目の当たりにした。

首塚、胴塚、手足塚、そして太刀塚。全てが荒らし尽くされており、見る影もなかった。さらに、集落の女子供と思われるバラバラ遺体と血、内臓が辺りにまき散らされており、地獄の様相を呈していたのである。

宗氏は怒り狂い、盗賊たちの殲滅を指示した。しかし、完全封鎖した南エリアをくまなく捜索するも、敵を発見することはできなかった。

数か月後、復旧作業を終えた助国の塚で事件が発生する。通報を受けた役人が現地に駆け付けると、地面から頭だけを出した状態で埋められた男、計25名分の遺体が発見されたのである。

生き埋めにされた男たちの表情を見た役人と領民数十名は、その場で腰を抜かし小便を漏らした。眼球はあり得ない方向を向き、口は人間とは思えないほど酷くねじ曲がり、しかも、全員同じ表情をしていたのである。

領民たちは、墓を荒らされた助国が大怨霊として蘇り、盗賊たちに裁きを下したと噂した。

まとめ
宗助国の首塚で目撃される霊は、「男たちの悲鳴が聞こえた」「刀を持った男が立っていた」など

盗賊たちに奪われた助国の遺骨は見つからずじまいだったという

基本情報
心霊スポット宗助国の首塚
(そうすけくにのくびづか)
所在地〒817-0242
長崎県対馬市厳原町下原
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】長崎空港から約5時間50分
【高速】長崎空港から約4時間20分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】長崎駅から約6時間45分
【高速】長崎駅から約4時間35分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト対馬市観光物産協会 公式ホームページ

金田城跡

朝鮮への侵略戦争、「白村江の戦い(663年)」に敗れた「天智天皇(中大兄皇子)」は、大陸の超大国、「」と新羅の連合軍が日本に乗り込んでくることを恐れ、専守防衛の地に対馬を指定。東シナ海を広く見渡せる山の上に『金田城(跡)』を築き、守りを固めたと言い伝えられている。

金田城の正確な築城年、破却年は不明。それの情報を記す資料の真偽を証明する手立てはなく、謎に包まれた城と呼ばれている。ただし、ふたつだけ確かなことがある。ひとつは日本最強クラスの防御力を誇っていたこと。もうひとつは、霊が出没することである。

私は、同地の貴重な伝承を受け継ぐM氏という御仁にお会いした。M氏曰わく、「江戸時代中期、金田城跡近くにアジトを設けた正体不明の賊集団たちは、対馬の領民に他国から奪った富を分配し、義賊と呼ばれていた。しかし、賊であることに変わりはなく、対馬国を治める宗氏は攻撃のタイミングを伺っていた」という。

1768年、豊後国(大分県)府内藩の松平氏と、肥後国(熊本県)の大大名、細川氏からの通報を受け、宗氏は大規模な掃討戦を計画した。

この賊集団は頻繁に九州本土へ渡り、各地で米や作物、金目のものを奪い尽くしていた。豊後国と肥後国はその被害者であり、「対馬に拠点を置く敵を一緒に打ち滅ぼさせてほしい」と提案してきたのである。

宗氏は申し出を快く受け、連合軍が誕生。五千名超の兵士たちは、対馬の中央部、三方を海に囲まれた金田城跡を完全封鎖した。

賊集団は金田城跡の本丸付近にアジトを設置している、と噂されていたが、詳細は不明だった。現地調査を行った役人、屈強な兵士たちはひとりも帰還できず、何が待ち構えているのかサッパリ分からなかったのである。

アジトへの進軍は困難を極めた。城跡ヘのルートはひとつしかなく、それを外れると高さ数十メートル級の崖に阻まれた。さらに、迂回しようにも、海がルートを断ち切り、南エリアの林道を通らねば進軍は不可能だった。

連合軍は林道を慎重に進んだ。しかし、幅数mの狭い林道をノコノコ進む兵士たちは格好の標的だった。雑木林の奥から銃弾と矢の雨が降り注ぎ、中間地点で完全に足止めされた。

1か月後、林道は遺体に覆い尽くされていた。連合軍は死者たちを回収すべく行動したが、その都度銃と矢の餌食になり、既に一千名以上が命を落としていたという。

賊集団の攻撃は容赦なく、洗練されていた。掃討戦を始めて以来、兵士たちは敵の姿をひとりも確認できず、M氏の伝承資料に「我々は幽霊と戦っている」と、現地に乗り込んだ兵士たちの気持ちが記されていた。

3か月後、連合軍は賊集団の兵糧が底をつかないことに困惑した。百名以上の兵士が死亡した日以降進軍を取りやめ、2か月後に再攻撃を仕掛けたものの、銃弾と矢の雨は一向に止まない

連合軍は自陣に兵糧を好きなだけ運び込めた。しかし、賊集団たちは周囲を完全に封鎖されていたのである。

連合軍を束ねる各藩の家臣たちは、約四千の兵に一斉攻撃を指示。この作戦が失敗に終われば、一度本土へ戻り作戦を練り直すことで同意した。

一斉攻撃は見事に成功した。が、一千名以上の兵士を殺した銃と矢の雨は完全に止み、辺りは不気味な静けさに包まれていた。

連合軍は金田城跡を完全に制圧した。しかし、賊集団のアジトはどこにもなく、人が生活した痕跡も全く見当たらなかった。

この時、家臣たちはある異変に気付いた。林道に放置されていた遺体はどこに消えたのか?

本丸跡に到達した兵士たちは、積み上げられた遺体の山と対面。首は全て切り取られ、胴体はウジ虫の餌食になっていた。

完全敗北を喫した松平氏と細川氏の部隊は、戦場を離れ港へ移動。自軍の船の中に遺棄されたおびただしい数の生首と対面し、賊集団への復讐を誓った。

まとめ
金田城跡は謎に包まれた城である。ただし、昼夜を問わず霊が出ることは間違いない

賊集団の正体は不明。兵士たちは敵の姿を一度も確認できなかったという

基本情報
心霊スポット金田城跡
(かねだじょうあと)
所在地〒817-0512
長崎県対馬市美津島町黒瀬
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】長崎空港から約6時間5分
【高速】長崎空港から約4時間35分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約7時間
【高速】長崎駅から約4時間50分

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関連サイトながさき旅ネット

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小島神社

壱岐市の繁華街から南に数キロ進むと、「内海(うちめ)」と呼ばれる湾が見えてくる。

ここで紹介する『小島(こじま)神社』は、内海内の小島に建立された小さな神社である。正確な建立年は不明、干潮の時間のみ、海から参道が現れることから、「神秘のパワースポット」と呼ばれている。なお、小島には神様が住んでいるとされ、砂粒や小枝すら持ち帰ってはいけない、と信じられている。

小島がパワースポットと噂されるようになったのは数十年前からである。なぜか?素晴らしい(良い)噂を広めて観光客を呼び込みたい、と考えたためである。

壱岐市まで生まれ育ち、現在は本土で生活するH氏という老夫婦にお話を伺うことができた。曰わく、「小島神社で起きた悲惨な事件は、同地区のタブーとされ、むやみやたらに話してはいけないと言われていた。悪い噂が流れれば、島の経済に深刻な被害をおよぼすと考えたのだろう。結果、伝承はほぼ途絶え、いつの間にか小島はパワースポットと呼ばれるようになった」という。

小島およびその周辺では昼夜を問わず霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「女性が内海から這い出てきた」「女性の悲鳴が聞こえた」など。

西南戦争が佳境を迎えていた頃。明治政府誕生からまだ数年という時期に発生した内戦は、九州本土を大混乱に陥れ、その衝撃は壱岐国にも伝わっていた。

本土が大混乱していた影響で商船はまともに運航できず、また、人の往来もままならなかった。結果、人々はこぞって食料を買い入れ、物価が高騰。漁師たちで賑わう漁業の町は、殺伐とした空気に包まれていた。

ある日、小島神社の近くで若い女性数名が姿を消し、騒ぎになった。しかし、島の役人たちは本土で繰り広げられていた戦争の行方に熱中し、事件の調査を数時間で放棄した。

女性たちを誘拐したのは、血気盛んな若い男たちだった。彼らは小島神社の本堂に女性たちを監禁、酷く辱めた。

当時、島の周りに民家はほとんどなく、大きな声で助けを求めても、返ってくるのは波の音ぐらいだった。男たちは気が済むまで女性を犯し尽くし、ことを終えるとヒモでガッチリ捕縛。島から脱出できないようにした。

さらに、男たちは裏で役人とつながっていた。行方不明事件の調査を意図的に終了させ、その見返りに若い女の身体を好きなだけ提供すると持ち掛けたのである。

役人たちは西南戦争の様子を注視しつつ、男たちに若い女の身体を提供するよう要求。小島神社に造られたミニ遊郭は、官民の力で運営さえ、若く美しい娘たちが次々に運び込まれた。

数か月後、行方不明になった娘を捜していた父親は、小島神社の境内に形成されたミニ遊郭の噂を聞きつけた。

男たちが女性を拉致、監禁。役人たちは女性を辱めると同時に、客から金を徴収するシステムが構築されていたため、父親は金を払い島に潜入、娘を探した。

父親や複数名の男たちに辱められる娘を発見。男たちに襲いかかった。しかし、相手は若く屈強な男ばかりだったため、返り討ちにされてしまった。

男たちは父親をバラバラに切り刻み、肉と内臓を娘の口に無理やり押し込んだ。娘は全力で抵抗したが、男たちの拳と圧力に屈し、父親の肉を何度も飲み込まされたという。

その後、小島神社のミニ遊郭は数年営業されたのち、いつの間にか姿を消した。理由は九州本土の混乱が終息したため、と考えられている。

H氏の伝承仕様によると、小島およびその周辺で霊が目撃されるようになったのは、ミニ遊郭が閉鎖された1880年頃からとのこと。

まとめ
小島神社で辱められた女性たちがどうなったかは不明

良い噂で過去の悪夢(伝承)を上書きしても、霊は消えない

基本情報
心霊スポット小島神社
(こじまじんじゃ)
所在地〒811-5315
長崎県壱岐市芦辺町諸吉二亦触1969
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】長崎空港から約4時間10分
【高速】長崎空港から約3時間10分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約5時間
【高速】長崎駅から約3時間25分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト壱岐市観光連盟 公式ホームページ

壱岐芦辺風力発電所

島国で生活する人々は、今でこそ観光客を積極的に受け入れ、観光地として島をアピールするようになったが、昔は全く違った。

日本が観光大国になったのは高度経済成長期以降である。つまり、それ以前は島に第三者を招き入れるという風習がなく、保守的(閉鎖的)な地域がほとんどだった。

壱岐島の北端に位置する『壱岐芦辺風力発電所』周辺では、霊の目撃情報が相次いでいる。ただし、同発電所周辺に民家はほとんどなく、人もほとんど寄り付かないため、霊のホットスポットになっていることを知る者は少ないという。

これまでに目撃された霊は、「農道に血だらけの男が立っていた」「ナタを持った男に追いかけられた」など。

発電所の近くで農業を営み、貴重な伝承資料を受け継ぐ御仁にお話を伺った。E氏曰わく、「江戸時代末期に箱崎村(現在の芦辺町)で発生した事件は、同地のタブーと呼ばれた。ある男のせいで村の人口は半減し、酷い噂が流れ、生き残った者たちも同地を離れてしまった」とのこと。

1833年、壱岐島では春先から数カ月連続で雨が降り続けた。さらに、大型台風の影響で土地と田畑は浸水し、作物は壊滅的な被害を受けた。

箱崎村周辺の農家も収穫量はゼロに等しかった。しかし、村の外れに住むある一家が野生動物の肉をさばき、人々に提供してくれたため、何とか飢えをしのぐことができたという。

この一家は鳥、猪、犬、猫など、食べられる動物は何でも処理してくれた。また、害獣の猪を狩るスキルに長け、その肉がとても美味しかったことから、住人総出で狩りの手伝いをすることもあった。

この噂は箱崎村一帯に広がり、飢えた人々が集まってきた。一家は皆の協力で猪を1日に50頭近く処理し、皆の命をつないだ。

この時、箱崎村で裕福な生活を送っていた庄屋は、一家の活躍を恨めしく思っていた。

庄屋は村一番の人気者の座を猟師家族に奪われ、怒り狂った。そして、傷つけられたプライドと自尊心を取り戻すべく、一家を貶(おとし)めることに決めた

翌年、箱崎村の住人たちは一家との接触を断った。

彼らは野生動物の皮を剥ぎ取る穢多の一族。肉を焼け与え、我々を穢多以下に陥れようとしている」という根も葉もない噂が流れ、一家は完全に孤立した。

住人たちは一家を犯罪者のように扱い、姿を見れば石や砂を投げつけ、酷い者は唾を吐きかけた。

ある日、一家の妻と子供二人が行方不明になったと役所に通報が入った。この情報を聞きつけた庄屋は役人たちに対し、「穢多一族は野生動物だけでなく家族をさばくこともある。夫は周辺の猪を狩り尽くし、妻と子供に手をかけたようだ」と証言した。

役人たちは庄屋の言葉を信じ、「穢多の共喰い」と嘲笑った。結局、行方不明になった妻と子供二人の捜索は行われず、夫は家族を喰い殺した「悪魔の穢多」と呼ばれるようになった。

数日後、庄屋は夫の住居を訪ね、「妻と子供二人を殺し、海に遺棄した」と伝えた。

家族を失った藤兵衛は、ナタとノコギリで武装。人々が寝静まった真夜中に襲撃を開始した。

藤兵衛は決死の覚悟で住人たちをひとりずつ切り殺し、使えそうな武器を奪って次の住居へ移動した。寝床を襲撃された者は何度も命乞いしたが、無駄だった。

藤兵衛は真夜中から早朝まで暴れまわり、50人以上切り殺した。そして、最後の仕上げとして庄屋の自宅を襲撃、武装した男たちと対峙したのち、槍でめった刺しにされ、死んだ。

庄屋は藤兵衛の断末魔の叫びを聞き、恐怖のあまり髪が真っ白になったという。

まとめ
壱岐芦辺風力発電所周辺は霊のホットスポット。夜に近づくことはおすすめしない

藤兵衛は飢えた人々を助けるために最善を尽くしたものの、恩を仇で返され、憤死した

基本情報
心霊スポット壱岐芦辺風力発電所
(いきあしべふうりょくはつでんしょ)
所在地〒811-5468
長崎県壱岐市芦辺町箱崎諸津触
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】長崎空港から約4時間25分
【高速】長崎空港から約3時間15分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約5時間20分
【高速】長崎駅から約3時間30分

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関連サイト㈱なかはら 公式ホームページ
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番岳

番岳』は五島列島北部に位置する標高443mの低山である。山頂付近の公園まで車で乗り入れることができるため、周辺住人の散歩コースとして重宝されているそうだ。

番岳の山頂付近には、隠れキリシタン関連の遺構が残されている。しかし、周辺住人の大半がその存在を知らず、関連する伝承も後世に語り継がれないまま消えかけているという。

南松浦郡新上五島町曽根郷(しんかみごとうちょうそねごう)で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受けついだM氏にお話を伺った。曰わく、「1613年の禁教令以来、五島列島でもキリシタンへの厳しい弾圧が始まった。1630年代に入ると弾圧の厳しさはピークを迎え、島内に隠れ住むキリシタンたちはいつ殺されてもおかしくない状況に陥った」とのこと。

番岳の山頂付近および公園では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「串刺し遺体がさらされていた」「男女の悲鳴が聞こえた」など。

1638年、天草地方で繰り広げられた「島原の乱」が集結し、九州一帯に分散逃亡したキリシタンと信仰する宗教を偽る隠れキリシタンへの取り締まりが強化された。

当時、五島列島には隠れキリシタンのコミュニティが複数あったと言い伝えられている。その多くが仏教徒であると偽り、生き永らえることに成功したが、密告や裏切りで捕縛、拷問される者も少なからずいたという。

島原の乱以降、キリシタンたちは問答無用で拷問を受け、大半が処刑された。理由は「改宗する」と宣言させても、心の中からキリストを追い払うことはできず、そのうちコミュニティを復活させようと試みる天草四郎のようなリーダーが現れる、と考えられていたためである。

五島列島北部の集落に潜伏していた隠れキリシタン数十名は、山の麓で静かに暮らしていた。

彼らは誰よりも真面目に働き、誠実と言われていた。飢饉の影響で食料が不足した際には、限られた作物を皆で分け合い、たくさんの命を救った

しかし、素晴らしい行いの影響で目立ち過ぎた結果、一部の周辺住人から反感を買っていた。

五島列島を統治した福江藩と深い関りを持つ庄屋は、自分より目立つ者がどうしても許せなかった。貧乏な田舎農家の男女が人を助けたという理由だけで人気者になるなど言語道断と考えたのである。

庄屋は山の麓で暮らす数十名の生活状況をチェックした。彼らは決まった時間になると、村の外れで何かに祈りを捧げていた。その手に握られているロザリオを見た時、庄屋はひらめいた。

数週間後、五島列島北部エリアの詰め所に待機していた役人たちは、思いもよらぬ情報を得た。通報者は村一番の庄屋であり、嘘を言っているようには思えない。

庄屋は、「番岳の麓に隠れキリシタンのコミュニティが形成されつつある。集落に住む男女数十名は周辺集落などでキリスト教への入会活動を秘密裏に行い、その規模が大きくなり次第、幕府に全面戦争を仕掛けるつもりだ」と証言した。

庄屋の証言を受け、福江藩の役人たち番岳の麓に兵士200名を派遣した。

異変を察知した住人たちは番岳の山頂に逃亡するも、捕縛されてしまった。それから数日後、現在の山頂公園エリアで公開処刑が実施され、女子供と赤子を含む計45名が皮剥ぎ火刑に処された。

キリシタンたちは最期まで幕府に攻撃を仕掛けるつもりなどない、と主張したものの、役人たちは申し出を一切聞き入れなかった。以来、番岳山頂および公園では憤死した隠れキリシタンの霊が彷徨っている、と噂になったのである。

まとめ
番岳の山頂付近には、隠れキリシタの関連の遺構が残されている

身に覚えのない罪を着せられ拷問死した隠れキリシタンたちは、怨みつらみを募らせ、怨霊になった

基本情報
心霊スポット番岳
(ばんだけ)
所在地〒857-4602
長崎県南松浦郡新上五島町曽根郷
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】長崎空港から約5時間20分
【高速】長崎空港から約4時間50分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】長崎駅から約4時間15分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト新上五島町観光物産協会 公式ホームページ
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白魚千人塚

五島列島、中通島(なかどおりじま)の南エリアに『白魚千人塚』と呼ばれる墓がある。ここは、モンゴル帝国の襲来(元寇)時に武功を挙げた白魚氏(しらうおし)とその家臣たちの墓所、と言い伝えられている。

白魚千人塚は知る人ぞ知る心霊スポットとして人気を集めたことがあった。しかし、霊が現れる理由を知る者は少なく、また、九州本土からアクセスしづらいため、人気は下火になり、足を運ぶ者もほとんどいなくなったという。

私は東京の某機関で歴史を研究するY氏(対馬出身)に案内され、中通島の宿ノ浦郷で生まれ育った老夫婦を訪ねた。U氏は同地の貴重な伝承資料を受け継ぎ、今ではほとんど語られなくなった事件についても話してくれた。

U氏曰わく、「白魚千人塚のすぐ南にあった小さな集落で発生した事件は、役所に届け出ることなく秘密裏に処理されたと言い伝えられている。容疑者は周辺集落の住人全員だった。しかし、五島列島の中でも同エリアは辺境の地だったため、事件を隠蔽したことがバレることはなかった」とのこと。

1813年、千人塚の南に若松集落という小さな村があった。この集落の住人たちは漁業と狩猟のスキルに長けた者が多く、魚や猪などの肉などを上手く販売し、かなり裕福な暮らしを送っていた。

一方、他の周辺集落の住人たちは、先祖代々受け継ぐ畑での作物作りなどに固執し、上手く収益を上げることができなかった。さらに、税を滞納することも多く、福江藩から目をつけられる始末だったという。

当時、五島列島の住人の大半が先祖から受け継ぐ土地や仕事、住居や土地などに固執し、新しい何かを始めるという概念は存在しなかった。また、慎ましく生活することが一番の美徳と信じられ、「金を稼ぐことは悪」と考える者すらいた。

しかし、若松集落の住人たちは違った。他のエリアで積極的に行われていた漁業を取り入れ、作物を食い荒らす猪の肉を金に変えてしまったのである。

若松集落を除く保守的(閉鎖的)な人々は、彼らのやり方を「異端」と考え、嫌悪した。また、収益を上げ続け、税の滞納とは無縁の生活を送る様子に酷く嫉妬し、邪な考えを持つ男たちは「必ず痛い目に合わせてやる」と心に誓った。

ある日、若松集落の庄屋宅に泥棒が入り、周辺集落で生活する乞食が捕縛された。

乞食は若松集落だけが裕福な暮らしをしていることに言及、「少し金目のものを奪われた程度で文句を言うな」と述べると、血気盛んな男たちの怒りに触れた。

若松集落の男たちは怒りに身を任せ、乞食を叩き殺してしまった。これを受け集落の長は、即、役所に連絡。駆け付けた役人にありのままの事実を伝えた。

役人たちは、税を期日内に収め、魚や猪肉を分けてくれる若松集落の住人が大好きだった。結果、殺された浪人は盗みの瞬間に反撃を受け、死亡。住人たちは命を守るために行動しただけであり、罪には問わないとジャッジした

一方、浪人が生活していた「宿ノ集落」の人々は、この判断に異議を唱え、役人に猛抗議した。しかし、「盗みに入った者が悪い。あなたたちも若松集落の住人のよう働き、期日内に税を収めよ」と全く相手にされなかった。

宿ノ集落の男たちは役人のえこひいきに怒り、若松集落への復讐、私刑を計画した。なお、住人の数は宿ノ集落の方が圧倒的に多く、数の力で抑え込む作戦に出た。

若松集落の住人はひとり残らず捕縛され、白魚千人塚へ移送した。

宿ノ集落の全住人が公開処刑を見学し、遺体は塚の横でバラバラに解体。その後、西側に広がる内海に遺棄されたいう。

役人たちは、若松集落の住人がひとり残らず行方不明になったことを不審に思い調査するも、それらしい証拠は発見できなかった。

まとめ
白魚千人塚は、モンゴル帝国軍と勇敢に戦った白魚氏とその家臣の墓である

若松集落消滅事件は同地のタブーとされ、後世に語り継がれることはほとんどなかった

基本情報
心霊スポット白魚千人塚
(しらおせんにんづか)
所在地〒853-2303
長崎県南松浦郡新上五島町宿ノ浦郷1262-54
種別事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】長崎空港から約4時間30分
【高速】長崎空港から約4時間

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】長崎駅から約3時間20分
※クリックでGoogle map起動
関連サイトながさき旅ネット

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井坑

五島市の繁華街から南に15kmほど進むと、五島列島最南端の「富江町岳(とみえまちたけ)」地区に到着する。ここには知る人ぞ知る興味深い史跡兼心霊スポットがあり、かなり強烈な怨霊が出ると噂になっていた。

私は友人のシャーマンに連れられ、『井坑(いあな)』と呼ばれる危険スポットを調査することになった。某テレビ局の人気番組に出演したことのあるシャーマンは、全国の様々な施設から祈祷の依頼を受けており、今回は五島市で怨霊退散作戦を行うことになったのである。

富江町岳地区で生まれ育ち、同地の伝承に詳しいY氏曰わく、「井坑は1880年に発生したある事件以来、怨霊の住処と恐れられるようになった。しかし、その事件を知る者は少なくなり、定期的に行っていた慰霊祭も中止された。しかし、洞窟内で亡くなった者の霊は今も同地周辺を彷徨っているのだろう。奇怪な霊の目撃情報が相次いでおり、今回シャーマンに祈祷をお願いした」という。

井坑は天然の溶岩洞窟である。全長は不明、南に400mほど進むと、天井まで水に浸かってしまうため、それ以上は進めないそうだ。また、内部の壁や天井はもろく、崩落する危険性が高いため、現在内部に立ち入ることはできない。しかし、入り口周辺から真っ暗な内部を伺うことは可能だ。

私は除霊グッズを装備(?)し、シャーマンと共に井坑の入口へ向かった。そして、いきなり女性の霊と遭遇し、気が付くと救急車で緊急搬送されていたのである。

その後、五島市内の病院に1週間入院。高熱、猛烈な吐き気と下痢からは何とか解放されたが、倦怠感は抜けずじまいだった。なお、シャーマンは私が入院している間に祈祷を終えていた。

1880年、五島列島は西南戦争によってもたらされた交易等の混乱からようやく抜け出し、町や集落も少しずつ活気を取り戻しつつあった。

当時、井坑の入り口にフェンスは設置されておらず、誰でも自由に立ち入りできる状態だった。

早朝、富江町岳地区近くの町道を散歩していた住人が地面に付着した血痕を発見。血の跡をたどっていくと、井坑の入り口付近に到達した。

住人はそこで腹を切り裂かれた女性の遺体を発見。駆け付けた藩兵が周辺を調査すると、殺された女性の首と体内から取り出された赤子の首が並べられていたという。

事件の調査が始まってから1週間後。今度は妊婦2名が同じ手口で殺された。なお、遺体は井坑の内部、全く同じ場所に遺棄されていた。

藩兵は警戒態勢を強化し、井坑の入り口に高さ3mほどの土壁を建設した。

しかし、犯人は土の壁を気にする様子もなく犯行を繰り返した。今度は妊婦5名が同じ手口で犠牲になり、周辺集落の住人たちは外出を控えるようになった。

藩兵は恐ろしい事実と直面していた。入り口の土壁はあえて崩れやすく建設、5名が犠牲になった前日夜に現場を再チェックし、何もないことを確認していた。その後、藩兵たちは台座や竹ハシゴなどを駆使して、何とか土壁を乗り越えたのである。

妊婦だけを惨殺する犯人の侵入経路は、入り口ではなく洞窟内部のどこか、と結論づけられた。

後日、武装した藩兵20名が井坑の内部に向けて出発。入口付近には周辺住人が集まり、彼らの帰還を願っていた。

藩兵出動から1時間後、住人たちは井坑の入り口付近に立つ女性の姿を発見した。髪が長く、下を向いており顔は見えない。

その後、藩兵20名は戻らず、数週間後に捜索部隊が編制されたものの、落石の危険性が高すぎるため、捜索は断念された。なお、腹を切り裂かれた妊婦、計6名の身元は分からずじまいだったという。

まとめ
妊婦の腹を切り裂き殺害した犯人の正体は分からずじまい

井坑の内部に立ち入ることはできない。ただし、霊の目撃情報は入り口付近に集中している

基本情報
心霊スポット井坑
(いあな)
所在地〒853-0213
長崎県五島市富江町岳
種別事故
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】長崎空港から約3時間35分
【高速】長崎空港から約3時間5分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約2時間25分
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関連サイト長崎県 公式ホームページ
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六角井戸

六角形型が特徴的な『六角井戸』は、長崎県の指定文化財に登録される貴重な歴史遺構のひとつである。なお、同じような形状の井戸が日本各地に存在するものの、造られた経緯は各地で異なる。

六角井戸のある周辺地域では、「カヨの身投げ」と呼ばれる伝承が言い伝えられていた。しかし、それに関連する複数の事件と事故は後世に語り継ぐべきでないと判断され、ほとんど廃れてしまったという。

五島市で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受け継ぐ老夫婦にお話を伺った。H氏曰わく、「江戸時代、同地で最も裕福な庄屋と呼ばれた上園氏は、屋敷で働く女中や下女の身体で金を稼ぐやくざのような男だった。上園氏が個人経営する遊郭一帯には盛り場が形成され、福江藩の大きな財源になっていた」とのこと。

江戸時代中期、個人経営の巨大遊郭を営む上園氏は、福江藩にもコネを持つ高額納税者だった。約100名の女が身体を売り、利益の5割は上園氏、3割は福江藩、2割は経費として処理されていたという。

上園氏の屋敷で働く女中と下女も遊郭で働く者の一部だった。彼女たちの大半は、両親の借金の穴埋めとして身売りした者たちで構成されていた。

14歳の「カヨ」は、両親を助けるために身売りし、下女として仕えていた。上園氏はカヨの若さと美しさに惚れ込み、遊郭では働かせず、自分専用の女にした。

カヨの美しさは町中で噂になり、それ目当てで上園氏の屋敷に足を運ぶ男たちもいたという。さらに、男たちは皆、カヨの虜になった、という冗談話まで流行り、遊郭で販売してほしいと懇願する男が後を絶たなかった。

これらの噂に不快感を示したのが他の女中と下女、そして遊郭の女たちだった。男たちは、皆カヨに夢中。あの上園氏ですら虜になり、「カヨを嫁にする」と信じる者まで出てくる始末だった。

女たちは焦った。もしカヨが上園氏のもとに嫁げば、立場は一瞬で逆転するだろう。自分たちは奴隷のように身体を売る一方、カヨは自宅でゆっくりお茶を飲み、家事は全て女中に押し付け、のんびり夫の帰宅を待つのである。

女中のリーダー格だったサエは、カヨの地位を著しく貶めたいと考え、遊郭に入り浸る浪人風情の男たちに声をかけた。

サエは男たちを買収、上園氏の屋敷に忍び込み、カヨを酷く辱めるよう指示した。

夜、サエと他の女中数名は、カヨを屋敷の外れの小屋に呼び出した。何も知らず呼び出しに応じたカヨは、屈強な男たちに捕まり、着物をむしりとられた。

男たちは日が昇る直前までカヨを犯し尽くした。そして、事が終わると何事もなかったかのようにその場から立ち去った。

サエと女中たちはその様子を一晩中観賞したうえで、「カヨの大乱交」という噂を町中に広めた。狙い通り、カヨは町一番の淫乱女と呼ばれるようになった。

カヨは無理やり辱められたと噂を全否定したが、上園氏はこれを信じず、遊郭で働くよう命じた

遊郭入りしたカヨは「淫売」と嘲笑され、ボロボロになるまで身体を売り続けた。しかし、数か月後に酷い性病を患い、美しかった顔と肌は見るに堪えない姿になったという。

カヨは六角井戸に身を投げ、死んだ

1か月後、六角井戸の水が腐ったため、所有者の上園氏が内部を調査したところ、水の底に沈む女の遺体を発見した。

これまでに六角井戸周辺で目撃された霊は、「井戸から女性が這い出てきた」「井戸の前に女性が立っていた」など。

まとめ
カヨの身投げ後、六角井戸の水を飲んだ数十名が酷い病を患い死んだという

両親のために身売りした14歳の少女は、屈辱と恥辱にまみれ憤死。その後、大怨霊になったと言い伝えられている

基本情報
心霊スポット六角井戸
(ろっかくいど)
所在地〒853-0006
長崎県五島市江川町5
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】長崎空港から約3時間5分
【高速】長崎空港から約2時間35分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約2時間
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関連サイト五島市 公式ホームページ

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野田堤

島原半島の南端に位置する「口之津町」地域は、長崎県を代表する心霊スポットの宝庫と噂されている。ただし、同県の中心繁華街からアクセスしづらいため、全国的な知名度は決して高くない。

ここで紹介する『野田堤(のだつつみ)』は、同地域の中央部に築造された農業用人造池である。築造者や築造年は不明。市史や町史にも情報はなく、地元の人たちですら、「大昔に形成された天然の池だと思っていた」と勘違いしているようだ。

野田堤の情報が残っていない理由は、先祖代々同地で生まれ育った方以外、知らない。私は商工会の関係者からG氏という御仁を紹介してもらった。

G氏曰わく、「口之津町地域の歴史を記した資料は、1792年から1793年の間に消失した、と言い伝えられている。その間、同地域におびただしい数の人が押し寄せ、町と村は大混乱に陥り、野田堤近くで恐ろしい事件が発生した」という。

1792年、活火山「雲仙普賢岳」周辺で地震が頻発した。そして、大規模な噴火と同時に山体が大きく崩壊。土砂は普賢岳の東エリアを飲み込み、有明海に達した。

土砂は有明海に流れ込み、巨大津波が発生。対岸の肥後国沿岸部を洗い流し、数千~数万名が命を落とした。この災害は「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」と名付けられ、その影響は九州全土に広がった。

口之津町地域は雲仙普賢岳の南に位置しているため、土石流と巨大津波の影響を直接受けることはなかった。

事変発生から数日後、雲仙普賢岳の周辺住人たちが口之津町に助けを求めてきた。彼らは山体崩壊から何とか逃れた者たちで、手荷物ひとつ持たず、服は泥まみれだった

口之津町の住人たちは避難民を受け入れた。しかし、その数は際限なく増え続け、数日後には1,000人を超えた

住人たちは島原藩に助けを求めた。しかし、雲仙普賢岳周辺は地震と噴火の影響で近づくことができず、島原城(本拠地)への道は完全に閉ざされていた。

この時、島原藩の役人たちは、領内の被害状況確認に追われていた。そして、残念なことに、人口の少ない半島最南端の集落より繁華街の調査が優先されたのである。

口之津町地域は避難民に退去を求めた。しかし、彼らに行き場はなく、退去を命じられた男たちの一部が暴れだした。

怒れる暴徒集団は数百名規模に膨れ上がり、庄屋、住居、畑、ありとあらゆる施設を破壊。食料を奪い尽くした。しかし、一千名以上を養える米や作物はどこにもなく、飢えは耐え難いレベルに達した。

避難民たちは草、虫、犬、猫、魚など、食料になりそうな全て食い尽くした。なお、口之津町地域に彼らを助ける余力はなく、餓死する者が続出した。

事変から2か月後、ようやく同地域の調査を開始した島原藩の役人たちは、集落の惨状に息を飲んだ。

道端には腐り果てた遺体が並び、白骨化した者もいた。そして街道は、遺体の肉をついばむカラスなどの野生動物で覆い尽くされ、地獄の様相を呈していた。

役人たちは、地域の中心部に位置する野田堤で生存者数百名を発見。彼らの周りには遺体しかなく、酷い有様だったという。

生き残った住人と避難民たちは、死者の肉で飢えを、野田堤の水で渇きを癒し、何とか生き永らえていた。

以来、野田堤およびその周辺では霊の目撃情報が相次ぎ、呪われた池と呼ばれるようになった。

まとめ
野田堤は知る人ぞ知る心霊のホットスポットである

野田堤周辺で目されて霊は、「遺体が山積みになっていた」「女性の悲鳴が聞こえた」など

基本情報
心霊スポット野田堤
(のだつつみ)
所在地〒859-2501
長崎県南島原市口之津町乙
種別事故戦
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】長崎空港から約1時間50分
【高速】長崎空港から約1時間50分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間50分
【高速】長崎駅から約1時間45分

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関連サイト九州農政局 公式ホームページ
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日野江城跡

日野江城(ひのえじょう)跡』は、南島原市を代表する歴史遺産(国の史跡に指定)のひとつである。同地を治めた有馬氏によって築城され、日本のキリシタン文化発祥の地と呼ばれている。

有馬氏は南蛮貿易で伝わったキリスト教にいち早く注目。洗礼を受け、豊後国を支配したキリシタン大名、「大友宗麟」とも親交があったという。その後、紆余曲折を経て日向国への転封(配置換え)を徳川幕府に命じられ、日野江城を去った。

日野江城跡では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「女性の悲鳴が聞こえた」「石垣の近くに生首が並べられていた」など。

南島原市で生まれ育ち、有名な豪族の地を引く大地主のT氏曰わく、「日野江城は肥前国の龍造寺氏などの侵攻を何度か受けたが、いずれの攻撃も見事に打ち負かし、領民たちは難攻不落の城と呼んだ。結局、一度も落城することなく、最後は新たな藩主によって破却された」という。

有馬氏転封後、島原藩を治めることになった「松倉氏」は、日野江城が繁華街から離れていることに不便を感じ、島原城の築城を決定。一国一城令に伴い、日野江城は400年の歴史に幕を下ろした。

1637年、松倉氏は前任の有馬氏とは異なり、キリスト教を邪教として扱い、厳しく取り締まった。捕縛されたキリシタンは問答無用で火刑に処し、さらに、キリスト教が蔓延した原因を領民全員になすりつけ、重税を課した。

松倉氏は日野江城跡地にキリシタン専用の拷問処刑場を整備した。捕縛された者たちはそこに移送され、領民の目の前で一人ずつゆっくりと焼き殺されたのである。

さらに、税金を滞納する領民に対しても過酷な拷問を科し、常習犯は処刑することもあった。T氏の資料によると、ある農民は両親、妻、子供の斬首を見届け、次滞納すればキリシタンと同じように焼き殺すと宣告されたという。

悪政の限りを尽くした松倉氏は、キリシタンを皆殺しにすれば問題は全て片付くと勘違いしていた。しかし、その結末はご存じの通りである。

松倉氏の悪政に反旗を翻したキリシタンと農民たちは大名家に宣戦布告。日本史上最大の一揆「島原の乱」が勃発した。

松倉氏の悪政が引き起こした一揆は、日本中の大名を巻き込み、両軍合わせて数万人の死者を出す大惨事になった

徳川幕府は松倉氏に対し、「捕縛した隠れキリシタンに改宗を強制し、従わぬ者は投獄せよ」と指示した。

この時、松倉氏は自分が一揆を引き起こす原因を作ったとは露ほども考えておらず、キリシタン軍の総大将、「天草四郎」に責任をとらせる、と息巻いていたようだ。

松倉氏は天草四郎の戦意を削ぐべく、日野江城跡での拷問処刑をグレードアップさせた。

捕縛されたキリシタンたちは、逆さまに吊り仕上げられたのち、「鋸(のこ)引きの刑」に処された。松倉氏は、脳天まで真っ二つに切り裂いた遺体を、キリシタン軍の拠点近くに遺棄せよと指示した。

島原の乱終結後、松倉氏は江戸で斬首刑に処された。大名家の藩主が切腹ではなく斬首に処された異例中の異例、江戸時代を通じてこの1件のみ、という珍事だった。

まとめ