先月、熊本県の歴史を研究しているA氏(某大学教授)と心霊スポットの調査を行った。私は非常に感じやすく(変な意味ではない)、大きな事件やトラブルのあった地点を散策すると、大方”何か”に出くわす。

一方、A氏は全く感じないらしく、真夜中に戦国時代の古戦場跡地をブラブラした際もどこ吹く風だった。しかし、調査を終えてから3日後、A氏から「調査依頼体調が優れず、ひどい吐き気とめまいが収まらない」と問い合わせを受けた。

私はコロナウイルスへの感染を疑い、A氏と一緒にPCR検査を受診したが、共に陰性だった。翌日、A氏が猛烈な倦怠感を訴えたため、私は友人のシャーマン(祈祷師)に連絡、プロに助けを求めた。すると、「彼は呪われている。できる限りのことはするが、ダメだった時は・・・」と脅さたため、二人揃って除霊(5,000円/1回)を行ってもらった。

今回は宇土市他3市2郡の最恐心霊スポット12カ所(PART3)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.宇土市
   ・宇土古城跡
   ・晩免古墳
 2.阿蘇郡
   ・秘境七滝
   ・恐ヶ淵
 3.阿蘇市
   ・笹倉菅原神社
   ・阿蘇望橋
 4.菊池郡
   ・南郷往還
   ・六道塚古墳
 5.合志市
   ・蛇ノ尾公園
   竹迫城跡
 6.菊池市
   ・池ノ尾間歩トンネル
   ・神龍八大龍王神社

まとめ

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宇土古城跡

宇土(うと)市東部、小高い丘の上に位置する『宇土古城跡』は、鎌倉時代の豪族、宇土氏が築城した宇土城跡地である。なお、戦国時代末期に肥後国の一部を治めた小西行長が築城した”新”宇土城との違いを明確にするため、”古城”と呼ばれるようになった。

私は、九州の史跡調査に長年携わってきた某大学の考古学教授および准教授を引き連れ、宇土市内に住むある老婆を訪ねた。老婆は700年以上前から伝わる貴重な伝承資料を保有しており、大変興味深い情報が記されていたため、お願いして再度見せてもらうことになったのだ。

資料には、「応仁の乱(1467年)以降、南薩摩の領土争いは激しくなり、旧宇土城における宇土氏および菊池氏一族の内紛は特にひどいものだった。裏切り、暗殺は当たり前、拷問、処刑、戦争、血で血を洗う争いは100年以上続いた」と書かれていた。

菊池氏の一族である宇土氏は、旧宇都城およびその周辺で繰り広げられた乱戦および裏切りによって滅びたと言い伝えられている。そして、戦いの流れを決めたある豪族の裏切りにより、宇土氏の主およびその家族はことごとく捕らえられ、拷問ののち憤死したのである。

宇土氏は筑後国に逃れ、そこで処刑されたと思われていた。しかし、老婆の資料には旧宇土城正門前で盛大に拷問が催され、それを見た周辺住人たちは、あまりに惨く残虐な仕打ちに一揆を画策したほどだった、と資料に書かれている。

宇土氏の家族は老若男女問わず、全裸状態で磔(はりつけ)にされた。しかし、死ぬことは許されず、少量の食事と水を与えられ、風雨にさらされ続けたという。1週間後、若い男女のみ磔状態から解放され、屈強な兵士たちに酷く弄ばれた。公開姦通(レイプ)は主の目の前で数日続き、挙句、ボロボロにされた男女は首を掻かれ死んだ。

その後、主は死んだ者の血、肉、臓物を無理やり口に押し込まれ、1週間以上生きることになった。残虐な指示を出し続けた豪族は、宇土氏を心の底から憎んでおり、「公開羞恥刑を終えた後は、牢獄に幽閉し、絶対に死なすな。家族の血肉を喰らい生きた男として、私が死ぬまで飼ってやる」と宣言した。

この発言を聞いた主は、猿ぐつわを噛まされた状態であったにもかかわらず、怒りと怨みつらみを極限まで募らせ、自死。この時、主の目、鼻、耳から脳漿(のうしょう)と思われる液体があふれ出したため、民衆は「自分の意思(怒りと怨みつらみ)で脳を溶かし、死んだ」と噂した。

宇土氏の主が自死した翌日、旧宇土城を手に入れた豪族、その家族、家臣団が消え、周辺集落は大騒ぎになった。その後、この騒ぎに乗じて、八代を拠点にしていた豪族が進軍を開始。労せず旧宇土城を手に入れたという。

旧宇土城を手に入れた名和氏は、拷問死した宇土氏の遺骸を近くに川に投げ捨て、処理した。1年後、城内の古井戸から鼻をねじ曲げるほど酷い腐乱臭が漂うようになったため、調査を行ったところ、井戸内に数十名分のバラバラ遺体が収まっていた

以後、旧宇土城内で幾度となく例が目撃されるようになったという。なお、名和氏は日本統一を成し遂げた豊臣軍に逆らい、家族、親族、知人、友人、ひとり残らず処刑され、滅亡。その豊臣家が大坂夏の陣で滅亡した時、周辺住人は、「旧宇土城に関わった者は、死ぬ」と噂した。

まとめ
宇土古城跡は霊のホットスポット。鎧武者や山積みにされた遺体などが目撃されている

酷い拷問を受け憤死した者は、怨みつらみを極限まで募らせ、怨霊になる

基本情報
心霊スポット宇土古城跡
(うとこじょうあと)
所在地〒869-0454
熊本県宇土市古城町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】熊本空港から約55分
【高速】熊本空港から約45分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト宇土市 公式ホームページ

晩免古墳

晩免(ばんめん)古墳』は、宮内庁の管理下に置かれる安徳(あんとく)天皇参考陵墓である。第81安徳天皇は、「壇ノ浦の戦い」で源頼朝(みなもとのよりとも)率いる武士連合軍に追われ、入水自殺。8歳だったと言い伝えられている。

その遺体は当然回収されず、関連品を祀った陵墓が全国各地に点在するため、そのいずれもが宮内庁の管理地となった。なお、晩免古墳を含む陵墓での発掘調査および立ち入りは禁じられている

晩免古墳は古くから霊が出没すると噂さになっていた。目撃された霊は、「生首が古墳の近くに転がっていた」「男が生首を持った状態で襲いかかってきた」など。多くの霊が古墳に近づくことを許さず、まるで何かを守っているように見える、と噂になっていた。

宇土氏立岡町で生まれ育ち、同地で受け継がれる伝承を知るH氏曰わく、「晩免古墳周辺は、もともと荒れ地だった。あの墓が安徳天皇の陵墓と認定されたのはつい最近のこと。1622年、同古墳周辺には賊の拠点が造られ、治安は他に類を見ないほど酷かった」という。

H氏の話によると、晩免古墳周辺は賊の宿営地として利用され、拉致した女子供を辱め、殺す場所だったという。当時、同古墳が天皇陵の一部であるとは誰も知らず、犯罪者たちはタダの墓場と思っていたようだ。

盗賊たちは殺した女子供の遺体を古墳本体内部に遺棄、そこに小便やクソを垂れ、肥溜めにしたという。数年後、古墳の中が糞尿と遺体で満ちたため、賊たちは封(フタ)をし、当たらしい厠(かわや)を探した。

族の被害が一向に収まらないことから、周辺住人たちは肥後国藩主、「加藤忠広(かとうただひろ)」にこの旨を伝える。米や野菜などの収穫に影響が出ていたため、忠弘は家臣に賊討滅を命じた。

晩免古墳を取り囲んだ約500名の大隊は、人の気配が全く感じられないことに違和感を感じ、使者を送り込んだ。しかし、賊たちは忽然と姿を消し、通報した集落住人たちも呆気にとられてしまったという。

周辺を捜索した大隊の一部が、古墳本体内部からあふれる黒い液体の存在に気付いた。数百キロのフタを皆で協力して開けると、中から腐りきった遺体と糞尿がドロッとあふれ出た。その悪臭を嗅いだ兵士および住人たちは、その場で嘔吐し、気を失う者までいたという。

H氏の資料には、「糞尿と遺体から放たれる悪臭(ガス)は数キロ離れた集落まで届き、大変な騒ぎになった」と書かれていた。晩免古墳は修復不可能と判断され、糞尿と遺体を残したまま封印された。

一方、悪事の限りを尽くした賊数十名は、同古墳の東、立岡池で発見された。いずれも全裸で、大量の水を吸い、ブクブクに膨れ上がっていた。遺体を引き上げた集落住人たちは、その異様な死に様に息を飲み、即お祓いが必要と判断した。

どざえもんになった賊たちの顔は、肩幅より大きく膨れ上がり、口が大きくねじれ、目を見開き、瞳がそれぞれ逆方向を向いていたという。住人たちは、賊がおぞましい”何か”を見てショック死したと考え、震え上がった。

住人たちは賊の遺体を埋葬、お祓いを受けたのち、晩免古墳の清掃および修復を行うことに決めた。古墳内の遺体および糞尿を取り除くのに1年もの時間を要し、再度お祓いおよび供養を行ったのち封印

数百年後、その伝承を受け継いだ住人の一人が、同古墳こそ安徳天皇陵墓だという噂を流し、それが肥後国中に伝わったと、言い伝えられている。

まとめ
晩免古墳が安徳天皇の陵墓だという確たる証拠はない

宮内庁の管理地になったことで、封印が解かれる心配は100%なくなった、と伝承を知る者は安堵している

基本情報
心霊スポット晩免古墳
(ばんめんこふん)
所在地〒869-0414
熊本県宇土市立岡町607
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】熊本空港から約50分
【高速】熊本空港から約35分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約30分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト宇土市デジタルミュージアム

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秘境七滝

熊本県中央部、九州山地に端を発する「小田川」の下流に『秘境七滝』と呼ばれるスポットがある。ここは、ホリデーシーズンになると涼を求める観光客が足を運ぶ人気観光地となり、写真撮影にピッタリと評判になった。

山奥を流れる七つの滝が秘境七滝と呼ばれるようになったのは、ごく最近である。同地で生まれ育った老婆曰わく、「目的地までの遊歩道は自治体が整備し、観光客を集めるために秘境という名をつけた、と聞いている。人気観光地になったおかげで人が増え、私たちも嬉しい。小田川が平家の末裔の遺体で埋め尽くされたことを知る者はほとんどいなくなった」と言った。

秘境七滝から1kmほど上流、林の中に建立されたボロボロの社(やしろ)は、平家の末裔と疑われ、惨殺されたある集落の住人を祀ったもの、と言い伝えられている。熊本県内には平家落ち人伝説関連の遺構が数多く残されており、同地の社もそのひとつと考えられている。ただし、この伝承を知る者は非常に少なく、残念ながら社はボロボロに風化し、ひどい有様である。

私は、冒頭で紹介した熊本県の歴史を研究するA氏(某大学教授)と現地調査を行った。なお、地権者にお話を伺ったところ、平家落ち人伝説のことは初めて聞いたらしく、目が点になっていた。

同地の平家落ち人伝説関連資料は、老婆が保存するもの以外発見できずじまいだった。それによると、島原の乱における隠れキリシタン狩りが行われた際、同地の山奥で集落が発見され、大騒ぎになったという。住人数十名は税を納めず、領土内で勝手に田畑を耕した罪に問われ、処罰された。

その際、山奥の集落が税を納めていないと知った一部の者は、住人たちを妬み、羨んだ。そして、当時、隠れキリシタンの捜索が行われていたことと、肥後国内でも問題視されていた平家落ち人伝説を組み合わせ、噂を流した。

この噂により、集落の住人は源氏に対抗し滅びた平家の残党と呼ばれ、さらに、隠れキリシタンを匿っていると疑われてしまった。なお、資料にはあくまで噂と書かれているが、真偽は不明である。

噂は瞬く間に広まり、肥後国藩主「細川忠利」の知ることとなった。キリシタン狩りに執念を燃やしていた忠利は、税を逃れ処罰された者たちに対し、事実であれば今すぐ出頭せよ、と命じた。しかし、この命令は噂を流した者たちの手元で止まり、山奥の集落には届かず、1週間が経過した。

忠利は、藩主の指示を無視した罪、平家の残党であることを隠した罪、そして隠れキリシタン隠匿の罪を償わせるべく、兵1,000名および家臣を引き連れ、自ら同地に向かった。

集落の住人はキリスト教の中で最も重い罪、火刑に処された。男たちは、老人、女子供、赤子が焼かれる様子を最期まで見せつけられ、オオカミのように吠え、発狂したという。

全てを焼き尽くした忠利は、部下のひとりから報告を受け、愕然とする。焼き殺した者たちが平家の末裔である証拠はどこにもなく、また、隠れキリシタンが同地周辺に逃げ込んだという情報はデマだったと言うのだ。

その後、噂を流した者がどうなったかは分からない。ただし、秘境七滝近くにはかつて集落があり、住人たちは火刑に処され、川に投げ捨てられた焼死体で水がせき止められたことは確かだという。

まとめ
秘境七滝は平家落ち人伝説の舞台のひとつ。ただし、その伝承を知る者は非常に少ない

火刑に処された住人たちの噂がデマであれば、数十名は怒りと怨みつらみに支配され憤死、怨霊になったかもしれない

基本情報
心霊スポット秘境七滝
(ひきょうななたき)
所在地〒869-2402
熊本県阿蘇郡南小国町大字満願寺
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間15分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間50分
【高速】熊本駅から約1時間45分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト熊本県観光連盟 公式ホームページ

恐ヶ淵

熊本県最大の観光スポット、「阿蘇カルデラ」の麓およびその周辺には小さな川がいくつも流れている。その中のひとつ、「大谷川」の上流域に形成された『恐ヶ淵(おそろしがふち)』は、知る人ぞ知るスピリチュアルスポットとして人気を集める一方、「滝つぼから女性が這い出てきた」「川に黒焦げの遺体が転がっていた」などのおぞましい霊が出ると噂になっている。

まず、恐ヶ淵という名を聞いて、「楽しそう」「デートにピッタリ」と思う方はまずいないと思う。さらに、この美しい滝には「妖怪蜘蛛女」が出没する、という意味不明な伝説が残されている。なお、妖怪蜘蛛女伝説の真偽を確認する術はないが、少なくとも私はデマだと確信している。

気味の悪い妖怪伝説を流す理由はひとつしかない。同地で起きた”何か”を隠すために、おかしな噂を流し、それを上書きしたのだ。そして、その答えは同地の周辺住民から伺うことができた。

阿蘇カルデラは世界一と断言する歴史家のE氏と共に、阿蘇村で生まれ育ったある夫婦のご自宅を訪ね、400年以上前の伝承資料を見せてもらった。曰わく、「江戸時代、大谷川の最上流域には皮剥ぎ村と呼ばれる小さな集落があった。そこの住人たちは動物などの皮を剥ぎ、肉や皮製品の販売で生計を立てていた。彼らは穢多(えた)とよばれ、ひどい扱いを受けていた」とのこと。

なお、熊本県の同和問題に詳しい某大学教授にお話を伺い、皮剥ぎ村の真偽を確認したところ、「村があったことは事実らしい。ただし、住人が穢多と呼ばれていたか否かは分からないし、資料も残っていない」と教えていただいた。

ご夫婦の伝承資料によると、穢多と呼ばれた人々は、田畑の開墾や皮製品の売買でしっかり生計を立て、標準的な領民よりかなり裕福な暮らしをしていたという。この話が事実であれば、不当に差別された者たちは、文句も言わず一生懸命働き、成果を上げていたことになる。

しかし、邪(よこしま)な考えを持つ周辺住人が悪い噂を流したことで事態は一変する。皮剥ぎ村の穢多たちは、人を殺し、田畑と米を奪い、さらに、殺した者の皮と肉をはぎ取り食料にしていると疑われてしまったのだ。

噂が噂を呼び、この一件は肥後藩主の耳にも届いた。しかし、細川家家臣は小さな村の言い争いに関わっている暇はないと判断し、問い合わせを無視。「他愛もないうわさ話に右往左往するのではなく、黙って田畑を耕せ」と叱責した。

皮剥ぎ村の穢多たちは黙々と働き成果を上げた。ある日、その成功をうらやむ哀れな住人たちは、徒党を組み村を襲撃、数十名を捕縛したうえで、金目のものを全て奪った。

真面目に働いていた皮剥ぎ村の穢多たちは、女子供を残し、全て私刑に処された。金に目のくらんだ住人たちは、男たちを縛り、生きたまま焼き殺したという。そして、女子供は若い男たちの奴隷(慰みもの)となり、人間以下の扱いを受け続けた。

何とも胸糞悪い話だが、穢多にまつわる不当な差別や常軌を逸した酷い話は関西を中心に語り継がれており、嘘と決めつけることはできない。ただし、大谷川上流域に同和地区があったと記す資料はないため、住人たちは穢多ではなく、ただひどい扱いを受け憤死した、もしくは憤死させられたのではないか、と私は思う。

まとめ
恐ヶ淵の伝承は真偽不明。今は存在しない村で何かしらのトラブルがあった、のかもしれない

同和問題関連の心霊スポットは日本各地に存在する。が、近づくことはおすすめしない

基本情報
心霊スポット恐ヶ淵
(おそろしがふち)
所在地〒869-1411
熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字河陰
種別不明
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】熊本空港から約35分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間5分
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関連サイト南阿蘇村 公式ホームページ

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笹倉菅原神社

学問の神様として祀られている「菅原道真(すがわらのみちざね)」は、日本を代表する怨霊神のひとりでもある。道真は身に覚えのない罪を着せられ、都(京都)から大宰府に左遷、最後まで都への復帰と身の潔白を主張し続けたが叶わず、死んだ。

ここで紹介する『笹倉菅原神社』は、住宅街の一角に建立された小さな神社である。その名の通り道真を祀り、受験や試験時期になると近所の学生たちが足を運ぶという。

平安時代、道真は身の潔白を主張し続けた末、憤死。以降、天災、飢饉、疫病などが日本各地で発生するたび、人々は「道真公の呪い」と信じ続けた。そして、道真ゆかりの施設には霊が現れるという噂が流れ、各地で大々的に供養や慰霊祭などが催されたのである。

笹倉菅原神社の霊出没伝説は、道真の死から約800年後、江戸時代中頃から伝承として言い伝えられるようになった。阿蘇氏波野地区で生まれ育ったG氏曰わく「道真公の怨霊伝説は、江戸時代になっても信じられていた。ある日、ひとりの浪人が同社の賽銭箱から銭を盗み出し、お供え物の菓子まで食べてしまった」という。

G氏の保管する伝承資料によると、同社で盗みを働いた浪人は、腹を下し高熱に苦しめられ、半死半生状態に陥った、書かれていた。2日後、浪人を治療した医者は、その目から生気が失せ、死人のようだった、と述べたらしい。

以降、浪人は一言も言葉を発せず、消えた。翌日、笹倉菅原神社の境内で若い男女の遺体が発見された。役人たちは、死体の異様さに驚き、嘔吐する者もいたと言う。記録によると、男女は腹を何かでえぐられ、境内に血肉をぶちまけていた

しかし、一目でそれとわかる臓物(心臓、腸、肝臓など)はどこにもなく、被害者の体内にも残されていなかった。役人は野犬に食われたのだろうと判断し、殺人事件として調査を開始した。

その日の晩、同社からおぞましい悲鳴が聞こえ、周辺住人は震え上がった。しかし、放置するわけにはいかず、体力に自信のある男たちが集まり、カマや包丁を装備したうえで、境内へ向かった。

境内に入った男たちは、「グチャグチャ」と何かを食べる音に気付き、武器を手に取った。目を凝らすと、人間と思われる者が境内の中央付近にうずくまり、何かを食べていた。男たちを明かりをかざしつつ接近。そこには、首を掻き切られた若い女性が二人、倒れていた。

女性の腹に顔を押し付けていた人間と思われる者は、臓物をムシャムシャと喰らっていた。この様子を見た男たちは、その場に倒れこみ腰を抜かしたまま逃げ出したという。しかし、哀れにも逃げ遅れた二人の若い男が境内から出てくることはなかった。

笹倉道真神社で目撃される霊は、「境内に遺体が転がっていた」「全身血みどろの男が襲いかかってきた」「境内から男女の悲鳴が聞こえた」など。なお、狂人化した男は道真の呪いにかけられたと噂され、現代まで同地の伝承として受け継がれているそうだが、真偽不明である。

まとめ
笹倉道真神社の御祭神は、学問の神様兼日本三大怨霊神こと、菅原道真

男が臓物を喰らう狂人に変身した理由は不明。同地の人々は道真の呪い、と信じているようだ

基本情報
心霊スポット笹倉菅原神社
(ささくらすがわらじんじゃ)
所在地〒869-2801
熊本県阿蘇市波野大字小地野1018
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間10分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間45分
【高速】熊本駅から約1時間45分

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関連サイト阿蘇市観光協会 公式ホームページ
画像はイメージです

阿蘇望橋

阿蘇市東部、阿蘇カルデラの麓に建設された『阿蘇望橋(あそぼうばし)』は、国内最長の屋根付き木造トンネル橋である。1999年の運用開始以来、霊の目撃情報が相次いでおり、夜間は近づかない方がよいと噂されるようになった。

同地に足を運んだ方は、阿蘇カルデラの雄大な景色に魅了される一方で、ある事実に気づかない。阿蘇望橋周辺には、民家が全くないのである。一部田畑が広がっているエリアはあるものの、人が住み着いている気配は全くない。

同地の北にはJR豊肥本線および住宅街、西は阿蘇カルデラの町、南と東にも小さな集落が点在している。なぜ橋周辺だけ空き地になってしまったのか。その答えは、阿蘇市波野地区だけに残る伝承が教えてくれた。

熊本県の歴史を研究する某大学教授のA氏曰わく、「阿蘇望橋周辺は、肥後国を代表する戦地のひとつである。周囲には小さな丘や山がいくつも連なっており、防御を固めやすいエリアとして重宝されていた。肥後国の豪族、阿蘇氏が同地に築城した隠れ城は、難攻不落と恐れられた」という。

同地に築城された隠れ城、通称「阿蘇砦(あそとりで)」の所在地は分かっておらず、A氏の研究チームは現在も調査を続けているそうだ。なお、同地の伝承資料によると、数十メートル規模の壁、人ひとりがやっと通れる狭い通路など、籠城戦に特化した城だったと言い伝えられている。

阿蘇氏は最強の城を持っていた。しかし戦国時代末期、肥後国は島津家に支配され、戦に敗れた豪族たちはことごとく滅んだ。なぜ、阿蘇砦は落城したのか。理由は砦の弱点を突かれ、さらに、島津家の調略が大成功したためである。非常にポピュラーな戦法を受けた阿蘇氏の家臣と兵士たちは、苦痛を味わいながら憤死したと言い伝えられている。

1587年、阿蘇氏は島津家に本拠地高森城を奪われた。戦いに敗れた藩主、家臣、兵士約1,300名は高森城を早々に諦め、阿蘇砦へ逃げ込んだという。島津家はこれを追撃し、阿蘇砦へ侵攻。最後の戦いの幕開けであった。

阿蘇氏は島津家の猛攻をことごとく跳ね返した。落石攻撃や落とし穴などのトラップを活かし、敵兵は正門の姿を見ることもできず、打ちのめされた。自軍の大惨敗を受け、鬼島津こと「島津義弘」は攻撃を一時中止、兵糧攻めを開始した。

砦内に食料は十分過ぎるほど備蓄されていた。しかし、阿蘇氏の家臣が島津家に寝返り、米蔵などの兵糧庫に火を放ち、情勢は一変する。2週間後、阿蘇氏は島津家に降伏、開城した。

城内に入ると、ガリガリにやせ細った男たちが死人の肉を奪い合っていた。食料代わりになる雑草、昆虫、やわらかい土はほとんど喰い尽くされていたという。また、湧水点は山の麓にたくさんあったものの、城内には1カ所しかなく、寒さが影響したためか、枯れていた。

阿蘇望橋周辺で目撃される霊は、「鎧武者」「ガリガリに痩せた男が道の真ん中に立っていた」など。A氏は橋の近くに阿蘇砦があったと信じているようだ。そして、この伝承を教えてくれた波野地区の老婆は、「橋周辺で霊が度々目撃されるようになった結果、同地は空き地だらけになり、人が寄り付かなくなった」とのこと。

なお、阿蘇氏は滅亡せず、令和の世になった今もしっかり存続している。

まとめ
阿蘇望橋周辺は霊のホットスポット。古くから霊の目撃情報が絶えず、空き地だらけになってしまった

阿蘇砦の戦い後、阿蘇氏は島津家に従属。紆余曲折を経て、現在に至る

基本情報
心霊スポット阿蘇望橋
(あそぼうばし)
所在地〒869-2806
熊本県阿蘇市波野大字波野
種別戦争
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間5分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト阿蘇市 公式ホームページ

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南郷往還

熊本市と菊池郡菊陽町の境界付近に『南郷往還(なんごうおうかん)』と呼ばれる旧道ある。ただし、数十年前の旧道ではなく、約1,000年前から利用されてきた石畳の道であり、現在は史跡として取り扱われている。

南郷往還は、現在の熊本市と大分市間を結ぶ全長数百キロの「薩北(さつほく)九州街道」の一部である。肥後国の国府と南阿蘇地方間、数十キロの道に石畳が敷かれ、多くの人々が行き来したと言い伝えられている。なお、現在、同ルート入り口からまっすぐ東進すると、熊本空港カントリーに行き当たるため、それ以上先へは進めない。

私は、菊池郡出身のU氏という方から情報提供をいただき、南郷往還に足を運んだ。菊陽町の外れ、住宅街の片隅にあるその入り口は、昼間でも近づき難い不穏な空気に包まれていた。

U氏曰わく、「入り口から150mほど進んだ地点で女性と思われる霊の目撃情報が相次いでおり、お祓いを行ったこともある。しかし、その後も女性の叫び声が聞こえた、血だらけの女性に追いかけられたなど、攻撃的な霊が出没目撃され、困り果てている」とのこと。

ひとまず、除霊は専門外であることを伝え、聞き込み、自治会長や生き字引と呼ばれる方から出来得る限りの情報を集めてみた。すると、E氏という男性から興味深い伝承資料を提供いただき、霊とつながりのある情報を得ることができた。

資料によると、今から約300年前、南郷往還のどこかで、通行人を狙った大量殺人事件およびそれに伴う死体遺棄事件が発生。被害者はいずれも女性、道の横に首を除くバラバラにされた遺体がゴミのように打ち捨てられ、50人以上が犠牲になったと記されていた。

なお、犠牲者の首はひとつも見つからずじまい。ある日を境に事件が発生しなくなったため、死者を祀る慰霊碑や墓、地蔵などを周辺に建立したという。

同地の入り口から150mほど進むと、墓とも慰霊碑ともとれる不思議なモニュメントが設置されている。自治会長と生き字引と呼ばれる御仁、そしてE氏にご同行いただきお話を伺うも、建立理由は一切不明。役場に問い合わせてみたが、詳細は分からなかった。

不思議なモニュメントは竹やぶと雑木に覆われている。が、その周囲2mほどの範囲に雑草は一切生えておらず、つる草もまるでそれをかわすように地面をはっていた。「綺麗に掃除してますね」と自治会長に伺うと、「この道は自治会の掃除エリア外、たまに観光客は出入りするが、我々は基本、近づかない」と述べた。

モニュメント周辺で女性の遺体が発見された、いう証拠はない。提供いただいた伝承資料には南郷往還としか書かれていないため、残念ながら詳細は分からずじまいだった。

数日後、調査を終えた私の元に凶報が届いた。同行いただいた生き字引の御仁が心臓発作、自治会長のご子息が交通事故で亡くなり、そしてE氏の奥様が行方不明(認知症による徘徊として扱われ、現在も捜索中)になってしまったのだ。私は友人のシャーマンに連絡し、不思議なモニュメントでの除霊を敢行した。

まとめ
不思議なモニュメント周辺は異様な雰囲気に包まれている。しかし、詳細は不明

南郷往還周辺には、惨殺された女性たちの怨霊が彷徨っている、かもしれない

基本情報
心霊スポット南郷往還
なんごうおうかん)
所在地〒869-1106
熊本県菊池郡菊陽町
種別怨霊?
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】熊本空港から約10分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト菊陽町 公式ホームページ

六道塚古墳

先に述べた南郷往還(なんごうおうかん)調査後、凶報を受けた私は友人のシャーマンとお世話になった自治会長の元を訪ね、許可を得てご子息のお墓にもお参りさせていただき、「怨霊は必ず成仏させる」と心に誓った。

友人のシャーマンは霊と会話できる、と話題になり、テレビ出演の経験もある。私は南郷往還の不思議なモニュメントに友を案内し、除霊をお願いした。しかし、「霊がいたことは間違いない。しかし、少なくとも、今、ここに霊はおらず、除霊しようがない」と言われてしまった。

予想外の展開に唖然としていると、同地の伝承を提供いただいたE氏から連絡が入り、「別の資料があるので、取りに来てほしい」と依頼された。

翌日、私とシャーマンは『六道塚(ろくどうづか)古墳』と呼ばれる菊陽町の史跡に足を運んだ。E氏の伝承資料によると、同古墳周辺では鎌倉時代から戦国時代の間に幾度となく合戦が繰り広げられ、数百~数千人規模の死者が埋葬されたという。

最初はただの首塚もしくは千人塚かと思ったが、資料によく目を通すと、江戸時代中頃の事案についても記されていることが分かった。そこには、「1727年、六道の田畑近くで女性と思われる生首が大量に発見され、集落は大騒ぎになった。その後、田畑近くで霊を見たという不穏な噂が流れるようになり、事態を重く見た村長は、大楠(おおくす)の根元に鳥居と社(やしろ)の建立を決めた」とある。

六道塚古墳と南郷往還は直線距離で1kmほどしか離れておらず、容疑者が遺体(女性の生首のみ)を運んだ可能性も十分考えられる。また、いまだに霊の目撃情報が相次いでいるらしい。さらに、同古墳周辺の宅地計画が進んだ際、開発事業者の間でこの噂が取り沙汰され、入札は不調、計画も頓挫したという。

同古墳周辺で目撃された霊は、「遺体が山積みにされていた」「女性の生首が道端に並べられていた」「首のない霊が女性の生首(自分の首?)を持っていた」など。300年以上の歴史を持つ合戦場であれば、霊が出るのも当然だと思う。しかし、当時、女性は合戦に参加せず、自宅を守っていた。すなわち、元合戦場に女性の霊が現れるのはどう考えてもおかしいのである。

その日の午後、私はシャーマンの除霊儀式を最後まで見届けた。儀式を終えたシャーマンは霊と会話したと言い、「戦死者および女性の怨霊たちは、社の定期的な手入れ、清掃を望んでいるのかもしれない。この千人塚、元合戦場で死んだ者、遺棄された者たちを成仏されるには、時間をかけて供養と慰霊を行うしかない」と述べた。

夜、儀式および調査結果の報告を行うべく自治会長の元へ向かった。すると、認知症による徘徊で行方不明になっていたE氏の奥様が、隣町の福祉施設で保護されていたことが判明。怪我もなく、二人は無事再開を果たしたという。

自治会関係者は、「除霊儀式のおかげ」と盛り上がっていたものの、怨霊が不幸を起こした、という証拠はない。今回、六道塚古墳と南郷往還をセットで紹介したが、正直、中途半端な気持ちで近づく場所ではないと思った。観光スポットとして見学する際も同様である。

菊陽町は全国屈指の人口増加エリアとして知られ、観光客向けのスポットは他にもたくさんある。わざわざ、危険な心霊スポットに足を運ぶ必要はないだろう。

まとめ
六道塚古墳周辺は元合戦場。数千人規模の遺体が眠っている、と言い伝えられている

怨霊の呪いの影響で不幸に見舞われることはある、と私は思う

基本情報
心霊スポット六道塚古墳
(ろくどうづかこふん)
所在地〒869-1107
熊本県菊池郡菊陽町大字辛川
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
【一般道】熊本空港から約10分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約30分
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関連サイト熊本県観光連盟 公式ホームページ