福岡県の心霊スポットは「九州最強」と恐れられている。何が最強なのか?怖いと勝手に思い込み、噂が独り歩きしたためである。

心霊スポット・心霊・怨霊に最強もクソもない。私は霊と接触し、何度も憑りつかれ、意識不明になり、数週間入院したこともある。それらの経験から導き出した答えは、「半端な気持ちで近づくな」、だ。

しかし、危ないと分かっていても近づきたくなるのが人間の性である。なお、当サイトで紹介する心霊スポットを探索する際は、除霊グッズ等を持参のうえ、自己責任でお願いしたい。

今回は三井郡他、4市2郡の最恐心霊スポット12カ所(PART3)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.三井郡
   ・大刀洗町民グラウンド
   ・十三塚溜池
 2.うきは市
   ・楠名古墳
   ・斧渕の滝
 3.小郡市
   ・小郡官衙遺跡
   ・今朝丸神祠
 4.大川市
   ・筑後津村城跡
   ・大川公園
 5.久留米市
   ・リバーサイドパーク
   ・安田森の天神様
 6.八女郡
   ・広川ダム
   ・白金山

まとめ

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大刀洗町民グラウンド

大刀洗(たちあらい)町民グラウンド』は、九州最大の河川「筑後川」と「小石原川(こいしわらがわ)」に挟まれたグラウンド兼公園である。

南北を川に囲まれた同グラウンドでは霊の目撃情報が相次いでいる。しかし、大半の周辺住人はそこが心霊スポットになった理由を知らず、数百年前から受け継がれてきた伝承はほとんど途絶えてしまったようだ。

これまでに目撃された霊は、「小石原川から女性が這い出てきた」「河川敷に遺体が山積みにされていた」など。

三井郡大刀洗町で生まれ育ち、同地の貴重な伝承を知るF氏にお話を伺った。F氏曰わく、「小石原川の中流域から上流域周辺で発生したある事件の影響で、下流域に位置する同地の河原は悲惨な状況に陥ったと言い伝えられている。そしてこの事件以降、霊の目撃情報が相次いで寄せられるようになった」という。

1835年、東北地方を襲った壊滅的な飢饉は西日本全域に拡大した。筑後国南部、久留米藩の治める領土では、昨年の冬から夏までの間、ほとんど雨が降らなかったと言い伝えられている。

これにより大半の稲と農作物は枯れた。しかし、筑後川および有明海の漁は比較的好調だったため、一部の住人たちは海の幸を食いつなぐことで生き永らえることができた。

一方、山間部の農村地帯では餓死する者が続出し、米騒動や小規模な一揆につながった。久留米藩藩主の有馬氏は、税を免除することでこの危機を乗り越えようとしたが、領民の腹を満たすことはできなかった。

小石原川と筑後川の合流地点付近にあった「水亀(すいき)集落」は、住人総出で魚や藻、食料になる動植物を捕獲し、何とか飢えをしのいでいた。

ある日、住人のひとりが小石原川の河原で水死体を発見した。村長は役所に報告したうえで遺体を引き上げ、水亀集落の住人でないことを確認した。

遺体は女性、ボロボロの着物を身にまとい、肋骨が浮かび上がるほど痩せこけていた。なお、顔は魚に喰われボロボロだったという。

その後、数日たっても役人たちは現れず、久留米藩から「遺体を丁重に埋葬処理してほしい」という文(ふみ)だけが届いた。当時、飢饉は筑後国全体に広まっており、よほどの大ごとでない限り、藩兵が派遣されることはなかったのかもしれない。

遺体発見から1週間後、同じ河原に水死体が12体流れ着いた。小石原川は水亀集落近くで川幅が狭くなり、かつ、そのポイントで水量が大きく減少するため、遺体が河原に流れ着きやすかったと思われる。

住人たちは、腐りかけの遺体を何とか回収し、知人や友人でないことを確認。村長に報告したうえで、「中流もしくは上流域の様子を確認したほうがよい」と警告した。

村長の通報を受け、有馬氏の藩兵はようやく重い腰を上げた。数十名規模の中隊が編制され、小石原川流域の調査を開始したのである。

それからさらに数日後の早朝、小石原川沿いを散策していた住人が、河原の異変に気付いた。

河原にはおびただしい数の水死体が流れ着き、水の流れを完全にせき止めていた。さらに、よく見ると、馬、犬、猫の死骸も混ざっており、まさに死屍累々たる有様だったという。

住人たちは水死体の様子を見てさらに仰天した。遺体はいずれも首を切り取られており、8割以上が女性だったのである。

その後、有馬氏の藩兵が中流および上流域を調査したものの、数千人規模の餓死者が発生していたため、それらが川を流れ、下流域の河原に到達したと結論付けられ、首の切断については不問とされた。

まとめ
水死体の首が切り取られていた理由は不明。その後、遺体は河原に埋葬された

有馬氏および藩兵は遺体調査より飢饉からの復興に力を入れており、事件は闇に葬られた

基本情報
心霊スポット大刀洗町民グラウンド
(たちあらいちょうみんぐらうんど)
所在地〒830-1205
福岡県三井郡大刀洗町大字守部
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間
【高速】福岡空港から約43分

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間10分
【高速】博多駅から約50分

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関連サイト大刀洗町 公式ホームページ
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十三塚溜池

三井郡大刀洗町(たちあらいまち)の北部、朝倉市との境界付近に『十三塚(じゅうさんづか)溜池』と呼ばれる農業用貯水池がある。これは幕末頃に築造され、周辺集落や田畑に水を供給する貴重な水源として重宝されていた。

現在、十三塚溜池は釣り場として人気を集める一方、「霊が出没する」「遺体が浮いていた」などの噂が流れ、心霊スポットとして注目されるようになったという。

私は九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏に連れられ、大刀洗町のある老夫婦を訪ねた。Y夫妻は同地の貴重な伝承資料を保管しており、大変興味深いお話を伺うことができた。

Y氏曰わく、「十三塚溜池が築造される前。同地にあった小さな集落は、隠れキリシタンのコミュニティだったと言い伝えられている。そこの住人たちは目立たず静かに生活していた。しかし、些細なトラブルが大事件に発展し、彼らはひとり残らず処刑されてしまった」という。

1813年、「十三集落」の住人たちは真面目な働き者ばかりで構成されていた。

住人たちは周辺地域イチの商家と呼ばれた「佐熊(さくま)氏」を中心に皆で助け合いながら生活し、村の発展に尽力した。

十三集落の住人たちはキリスト教を信仰する隠れキリシタンだった。彼らは、厳しい弾圧と取り締まりをかいくぐった先代の奮闘から「助け合いの心」を学び、仲間意識が強かった。

一方、その他の村の住人たちは、十三集落の発展をうらやんだ。そして彼らは、あの集落だけ役人から特別扱いされていると勝手に思い込み、酷い仕打ちに打って出たのである。

夜、一部の邪な心を持つ若者たちが十三集落への攻撃を開始した。彼らは住人たちが寝静まったタイミングを見計らい、住居に火を放ったのである。

この放火で集落の4分の1ほどが全焼。しかし、幸い死者は出なかった。若者たちは住居を失っても助け合いの精神を忘れない住人たちの高潔な精神に吐き気を覚え、再攻撃の準備を進めた。

数日後、武装した若者たちは、集落の外れの小さな民家を襲撃。夫と男児はその場で切り捨て、妻と女児2名を酷く辱めた。

この一家は室内に十字架を設置していた。その後、若い男たちは別の民家を急襲、今度は声を上げられる前にひとり残らず切り殺し、部屋の中を物色した。

後日、若い男たちは隠れキリシタンへの攻撃に賛同する有志を集め、最後の攻撃を行った。

当時、隠れキリシタンへの弾圧や取り締まりはほとんど行われていなかった。しかし、キリスト教が禁教であることに変わりはなく、それを信仰していることがバレれば、ただでは済まなかったのである。

有志連合は早朝に十三集落を襲撃。抵抗する者および成人男性を切り殺し、老人と女子供は捕縛した。

有志連合は捕縛した者たちを集落の真ん中に集め、改宗を命じた。そして、成人男性の中で唯一生かした佐熊氏を柱に固縛、火を放ち焼き殺した

捕縛された者たちは「命令に従わねば、子供から焼き殺す」と脅迫され、十字架に自分の糞尿を塗りつけるよう指示された。

老若男女は泣きながらこの指示に従い、全長1mほどの十字架は汚物まみれになった

有史連合は、捕縛した者たちの周囲に油をぶちまけ、火を放った。

この大量殺人で犠牲になった隠れキリシタンは計112名。彼らの遺体と汚物塗れの十字架は、村の真ん中に掘られた穴に遺棄されたという。そして、そこに造られた溜池は「十三集落の墓」、十三塚と呼ばれるようになった。

まとめ
十三塚溜池の底には、信教の自由を奪われ憤死した隠れキリシタンの墓がある

この事件は周辺集落だけの秘密となり、闇に葬られた

基本情報
心霊スポット十三塚溜池
(じゅうさんづかためいけ)
所在地〒830-1212
福岡県三井郡大刀洗町大字甲条1462
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】福岡空港から約53分
【高速】福岡空港から約36分

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間
【高速】博多駅から約40分

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関連サイト大刀洗町 公式ホームページ
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楠名古墳

うきは市の繁華街、「久大(きゅうだい)本線 うきは駅」の南エリア周辺では、古墳時代に築造された円墳や前方後円墳が多数発見されている。

ここで紹介する『楠名(くすみょう)古墳』は同地で発見された古墳のひとつであり、保存状態が特に良いことから国の史跡に指定されている。

同地の周辺住人がこの横穴式古墳の存在に気付いたのは鎌倉時代末期頃だと言い伝えられている。なお、内部ははるか昔に荒らされており、埋葬された者を特定することはできなかったという。

約200年前、この古墳は悲惨な事件の舞台となり、怨霊の住処になったと恐れられた。そして、その記録は後世に伝えるべきでないと考えられ、当時の伝承を知る者はほとんどいなくなった。

うきは市浮羽町で生まれ育ち、同古墳にまつわる伝承資料を保管するT氏曰わく、「江戸時代、楠名古墳は既婚者たちが情事にふける不倫の場として利用されていた。さらに、狭い密室内で男女数組が同時に愛し合うことも珍しくなく、乱交の墓と呼ばれていた」という。

1795年、不倫は重罪に処されるだけでなく、一家の名を貶める愚行と考えられていた。しかし、性欲を抑えられない既婚者は、伴侶だけでなく第三者との出会い、そして情事を求めていた。

同地には、出会いを求める男女の秘密スポットがあった。そこに記された名と特徴をチェックし、現地で落ちあい、情事にふけるのである。なお、同性とのつながりを求める者も多く、役人たちも頻繁に出入りしていたという。

このスポットに出入りする役人たちは、不倫を暗黙の了解として認め、情事にふけった。そして、男女もしくは同姓カップルの愛し合う場(ホテル)に選ばれたのが楠名古墳だったのである。

ある日、20代後半の男女が同古墳内で愛し合っていると、最深部付近から異様な物音が聞こえてきた。T氏の伝承資料によると、別のカップルもその音を聞き、気味が悪かったため近づかなかったという。

男女は古墳内に設置された目隠し布を外し、最深部を伺った。そこには若い女性の遺体を喰らう男がふたりいた

古墳の最深部には、役人もしくはそれに近い地位の者だけが入ることを許可されていた。そこにいたふたりの役人は、若い女性を殺し、新鮮な肉と内臓を喰らっていたのである。

不倫の場に集まる男女は、身バレを恐れ、名を偽り、秘密裏に行動している者がほとんどだった。そして、不倫、同性愛を越える究極の悦楽、「カニバリズム(人喰い)」の域に達した異常者たちは、身元不明の男女であれば喰っても事が公になる可能性は低いと考えた。

カニバリズムを極めた異常者たちは、対象に猿ぐつわを噛ませ、血の巡る温かい肉と内臓を堪能した。その噂は一部の役人、裕福な庄屋などの間でのみやりとりされ、好色者たちの腹を満たした。

最深部を覗き込んだ男女は行方不明になった。男女の身内は、二人が古墳内で喰われたとは夢にも思わなかったはず。なお、役人たちの悪行はエスカレートし、遠く離れた土地で幼児や赤子を誘拐、その肉を求める好色者たちと取引し、利益を上げたという。

楠名古墳は幕末までカニバリズムの場として利用された。しかし、役人同士のいざこざにより事件が発覚。捕縛された異常者たちの証言により、約70年で1,000人以上が捕食されていたことが判明した。

カニバリズムに関わった役人および関係者は全員斬首された。その後、古墳本体を覆う盛り土を掘削したところ、おびただしい数の人骨が見つかり、周辺集落の住人を震え上がらせた。

まとめ
楠名古墳の伝承はタブー視され、知る者はほとんどいなくなった

カニバリズムは、同性愛を越える究極の禁忌として好色者に支持され、日本各地で横行した。が、関連する事件の大半は闇に葬られている

基本情報
心霊スポット楠名古墳
(くすみょうこふん)
所在地〒839-1401
福岡県うきは市浮羽町朝田669
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間25分
【高速】福岡空港から約55分

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間35分
【高速】博多駅から約1時間

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関連サイトうきは市観光ポータルサイト

斧渕の滝

鷹取山の麓に端を発する一級河川「巨瀬川(こせがわ)」の最上流域には、「調音の滝」「魚返りの滝」そして『斧渕(おのぶち)の滝』等の滝(渓谷)が形成され、知る人ぞ知る観光スポットとして人気を集めている。

これらの滝の中で「斧渕の滝のみ」、その名の由来が伝わっていない。理由は、周辺住人が後世に伝えたくない、と考えたためである。しかし、「斧と淵(渕)」のイメージを払拭することはできず、名前だけが後世に伝わったという。

この滝では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「滝つぼの周りに生首が並べられていた」「滝と滝つぼの水が血の色に染まっていた」など。

九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏曰わく、「斧渕の滝のすぐ近くに形成された小さなコミュニティは、平家一族の末裔たちが作ったものと言い伝えられている。ただし、それを証明するものはない。しかし、他の住人たちはその噂を信じ、源頼朝の血を引く徳川家に仇なす危険人物たちで構成されていると考えた」という。

1771年、巨瀬川の渓谷近くに形成された「船永(ふなな)集落」は、人口30人ほどの小さな村だった。しかし、とてつもなく頭の切れる男が数人おり、彼らの活躍で村の財政力は強化され、他の周辺集落を全部合わせても勝負にならないほどの力を得ていた。

船永集落の村長を務める「梅垣氏」は、不思議な用心棒を召し抱えていた。その男は「治左ヱ門」と名乗り、身長は当時の一般男性より50cm以上高かったという。さらに筋骨隆々のたくましい身体を持ち、「クマにも負けない」と噂されていた。

梅垣氏は繁華街の商人だけでなく、役人とも取引を行う実業家だった。彼の活躍で同集落は大きく発展したのである。そして、梅垣氏の横には必ず治左ヱ門がいた。

ある日、周辺集落の男たちが船永集落に大挙して押しよせ、繁華街で購入した品に不良があったと難癖をつけてきた。梅垣氏は自分が卸した品と認め謝罪した。

男たちは大金持ちの村長が気に入らず、難癖をつけたうえで、金をむしりとるつもりだった。しかし、この魂胆に気づいた治左ヱ門は、リーダー格の男を投げ飛ばし、地面に叩きつけた。

男たちは懐に隠していた短刀やナタなどをとり、治左ヱ門に襲いかかった。しかし、身長2m超の巨人が放つ一撃は武装した男たちを圧倒した。

治左ヱ門に叩き伏せられた男たちは復讐を心に誓い、周辺集落の若い男たちに呼びかけた。

彼らは「船永集落の住人たちは平家一族の末裔」であり、「幕府や役人の命を狙う危険人物」という情報を拡散。捕縛もしくは殺害すれば大金を得られると呼びかけた。

この呼びかけに応じた男たち100名超は、夜遅くに船永集落を襲撃した。

数十分後、治左ヱ門は100名超のうち約半数を斧で叩き割り、殺害。圧倒的なパワーで集団を粉砕した。

その後、投降した生存者たちは巨瀬川の滝近くに移送された。男たちは泣きながら詫び、何度も何度も土下座したという。

梅垣氏は生存者に対し、「船永集落は平家一族のコミュニティである」と語り、処刑を宣告した。

治左ヱ門は斧で全員の首を切り落とし、地面に転がったそれを滝つぼの中(深淵の闇)に葬り去った。

以来、同地周辺で最も大きなコミュニティを形成した船永集落は巨瀬川の滝のひとつを、「治左ヱ門が”斧”1本で敵を粉砕し、生首を滝つぼの”淵(渕)”に遺棄した場所」と称え、その秘密は村だけのものになった。

なお、船永集落の結束はとても固く、事件が表沙汰になることは決してなかったという。

まとめ
斧渕の滝近くに形成された船永集落の住人たちは、平家一族の末裔だった

船永集落がその後どうなったかは不明。なお、平家の末裔であることを証明するものはない

基本情報
心霊スポット斧渕の滝
(おのぶちのたき)
所在地〒839-1415
福岡県うきは市浮羽町妹川
種別事故
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間40分
【高速】福岡空港から約1時間5分

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間45分
【高速】博多駅から約1時間10分

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小郡官衙遺跡

小郡(おごおり)市の繁華街、「天神大牟田線」「甘木鉄道」そして「大分自動車車」が交差する住宅街の一角に貴重な歴史遺構が残されている。

小郡官衙(おごおりかんが)遺跡』は国の史跡に指定された1300年ほど前の遺跡で、当時の郡家(役所)の跡と言われているが、詳細は分かっていない。

同遺跡および公園広場では霊の目撃情報が相次いでおり、知る人ぞ知る心霊スポットとして注目を集めているようだ。これまでに目撃されたは、「刀を持った男に追いかけられた」「広場に生首が並べられていた」など。

小郡市の貴重な伝承資料を受け継ぐH氏にお話を伺った。H氏曰わく、「同遺跡公園には周辺住人のために戦った男の伝承が残されている。ただし、彼は重要犯罪人として指名手配され、姿を消した」という。

1790年、同遺跡および周辺は雑木が生い茂る荒れ地(雑木林)だったため、近づく者はほとんどいなかった。

雑木林の北にあった「下田沼(したぬま)集落」は、盗賊と思われるならず者集団からの嫌がらせに頭を悩ませていた。

ならず者集団は、村内の墓や田畑を荒らした。さらに、見回り中の村民が襲われたこともあり、人々は不安な夜を過ごしていた。

下田沼集落が嫌がらせを受け始めた頃、近くの雑木林内に住み始めた大男がいた。彼は「市右衛門」と名乗り、そこに手作りの小屋を建て、野生動物の肉や薪を格安で販売した

市右衛門は農作物の天敵、イノシシを斧1本で次々と狩り、農家を悩ませていた害獣の肉の調理法まで教えてくれた。1か月後、彼は周辺集落イチの人気者と呼ばれるようになった。

ある日の晩、市右衛門は下田沼集落近くの物陰に身を隠し、攻撃のタイミングを伺っていた。村の老夫婦に「ならず者集団の横暴を止めてほしい」と依頼され、裁きを下すと決めたのである。

何も知らずに現れたならず者集団は、背後から市右衛門の襲撃を受け、声を上げる間もなく斧で叩き割られた。

市右衛門は男女計10名の遺体を雑木林の中に運び、バラバラに解体。野生動物のエサにした。

下田沼集落の村民たちは、ならず者集団が現れなくなったと喜び、市右衛門に感謝した。しかし、彼は「自分は何もしていない」と答え、消えたのは偶然だと強調した。

数か月後、市右衛門が解体したならず者集団の仲間と思われる男女が下田沼集落を襲撃。村民たちは身に覚えのない言いがかりをつけられ、暴行された。

男女は高齢者も容赦なく殴り倒し、市右衛門がお世話になった老夫婦も死亡した。

翌日、村民のひとりが雑木林の手前に集積された男女の遺体を発見した。その数は50体を優に超えており、さらに、ひとり残らず首を叩き斬られていた

村民は雑木林の入り口付近で遺体のものと思われる生首を発見。その死に様は想像をはるかに超えていた。

生首は脳天を叩き割られており、頭蓋骨内から脳ミソが掻き出されていた。さらに、その脳ミソは死者の口内に押し込まれており、目、鼻、耳から血と脳汁があふれ出していたのである。

事件を受け、久留米藩は市右衛門を重要犯罪人として指名手配した。なお、その後、彼が捕まったか否かは不明である。

まとめ
小郡官衙遺跡に出没する霊は、市右衛門に叩き割られたならず者集団と思われる

下田沼集落を最初に襲ったならず者集団は、市右衛門が始末した。しかし、その後現れた男女50名を叩き割ったのが彼だという証拠はない

基本情報
心霊スポット小郡官衙遺跡
(おごおりかんがいせき)
所在地〒838-0141
福岡県小郡市小郡552-32
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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【一般道】福岡空港から約50分
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今朝丸神祠

筑紫野市と太宰府市の境界、宝満山(ほうまんざん)の麓に端を発する「宝満川」の下流域には奇怪な伝承が残されており、一部の遺構で霊の目撃情報が相次いでいる。

ここで紹介する『今朝丸神祠(けさまるしんし)』は謎に包まれた遺構と呼ばれている。それに関連する公式記録は一切残っておらず、誰が、いつ、何の目的で建立したのかすら分からないという。

しかし、同地の記録を受け継いだ一部の者たちは、宝満川沿いに建立された小さな祠(ほこら)の意味を理解していた。

私は九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏と共に、ある老夫婦を訪ねた。E氏は宝満川に関連する貴重な伝承資料を保管しており、今朝丸神祠の建立理由も分かりやすく説明してくれた。

E氏は、「今朝丸神祠は同地で憤死した隠れキリシタンを祀る目的で建立されたと言い伝えられている。福岡県内には規模の小さなキリスト教関連の遺構が1,000以上残されており、この祠はそのひとつである」と述べた。

福岡県の隠れキリシタン関連遺構は、長崎県や佐賀県のそれに比べると知名度は低めである。しかし、筑後国、筑前国、そして豊前国は九州最大規模の石高を誇り、人口も多かった。結果、秘かにキリスト教を信仰する隠れキリシタンの数も多くなり、あちこちに遺構が誕生したと考えられている。

1787年、九州北部地方に上陸した台風とそれに伴う長雨の結果、筑後国の農作物は壊滅的な被害を受けた。

同年、同地一帯を治めていた久留米藩の石高は例年の20分の1以下にまで減少。貧しい農民は税どころか、自分の食料を確保することすらできなかった。

宝満川の下流域、川の大きくカーブする地点近くに形成された「童菜(わかな)集落」は、米だけでなく漁と野菜作りに力を入れていたため、飢饉の影響を抑えこむことができた。

住人たちは、限られた野菜と魚を皆で分け合い、餓死者を出すことなく助け合いながら生活していた。また、集落内には井戸が複数箇所あり、さらに宝満川へも数分でアクセスできたため、水に困ることもなかったのである。

飢饉が筑後国一帯に広まってから数か月後。童菜集落の住人たちは、何とか確保した野菜を近隣の村などに分け与え、餓死しかけている者たちをひとりでも多く救おうと考えた。

施しを受けた者たちは童菜集落に感謝した。しかし、一部の者は「同集落の住人たちは隠れキリシタン」だという噂を信じ、食料の配布と同時にキリスト教の布教活動を行っていると考えた。

飢饉は致命的なレベルまで悪化し、餓死する者が続出した。そんな中、キリスト教を邪教と信じる者たちは、隠れキリシタンたちの施しを阻止すべく、童菜集落への襲撃を強行した。

男たちはナタや斧で武装し、同集落の住人を襲った。結果、成人男性の大半が斬死し、老人、女子供、赤子は捕縛された。

飢えの影響で正気を失っていた男たちは、童菜集落の倉庫に保存されていた少量の野菜を見て激高し、「食料の隠し場所を言わねば、ひとり残らず処刑する」と拘束した者たちを脅した。

食料は倉庫にあるものが全てであり、隠してなどいなかった。しかし、男たちはそれを信じず、村長を除く生存者たちに処刑を宣告した。

生存者たちは宝満川沿いの河原に移送。村長を除く全員、幼児や赤子も「串刺し火刑」に処され、地獄の苦しみを味わった挙句、憤死した。

その後、村長がどうなったかは分からない。E氏の伝承資料によると、同地付近に住み着いた者が、幼児や赤子まで処刑されたことに心を痛め今朝丸神祠を建立したという。なお、集落の住人全員がキリシタンだったという証拠はなく、そうでない者まで殺された可能性もあり得る。

まとめ
今朝丸神祠は、同地で憤死した隠れキリシタンを祀るために建立された

処刑により童菜集落は壊滅。隠れキリシタンたちが処刑されたことを知る者は、年月の経過とともに減少した

基本情報
心霊スポット今朝丸神祠
(けさまるしんし)
所在地〒838-0137
福岡県小郡市福童
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】福岡空港から約55分
【高速】福岡空港から約40分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間5分
【高速】博多駅から約45分

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関連サイト小郡市観光協会 公式ホームページ
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筑後津村城跡

筑後津村城跡』は、戦国時代に筑後国を治めた「大友宗麟(そうりん)」の家臣、「津村氏」が築城した平城の跡地である。

津村城の歴史には不明な点が多く、戦国時代末期に他国の侵略を受け落城したと言い伝えられているものの、その他の情報を記す資料はほとんど残っていない。

同城跡およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。しかし、霊が出没する理由を知っている者は非常に少ないという。

大川市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するA氏曰わく、「江戸時代、津村城は柳川藩藩主の家臣によって再興されたと言い伝えられているが、一国一城令により破却。その後、跡地の一部に神社が建立され、藩主の所有する土地として管理された」

「破却から200年後。神社の横に建設された立花氏の家臣の屋敷である事件が発生し、以来、憤死した女性の霊が出没するようになった」という。

1828年、津村城跡地に建設された「笹倉氏」の屋敷は、同地最大の武家屋敷と呼ばれ、何人もの女中や下女(げじょ)が働いていた。

下女として奉公していた「ツル」は、周辺の繁華街や集落で噂になるほどの美貌の持ち主だった。また、性格や人当たりも良く、笹倉氏からも特に可愛がられていたという。

笹倉氏は四男とツルが相思相愛であると知り、異例ではあるが慣習にとらわれず結婚を許可した。しかし、この決定に女中を取りまとめる上女中の「カネ」が猛反発したのである。

カネは最年少かつ最も経験の浅いツルがちやほやされることに腹を立て、散々こき使ってきた。しかし、ツルが笹倉氏に嫁げば、立場は一瞬で逆転し、上女中以下、使いの者たちは彼女の指示に従わねばならなくなる。

カネの願いもむなしく、四男とツルの結婚話はトントン拍子に進んだ。この時、カネ以下の女中および下女全員がふたりの結婚に反対していた

数日後、笹倉家秘蔵の茶器が紛失し、屋敷内は大騒ぎになった。

カネはツルを除く全女中および下女と共謀し、笹倉家秘蔵の茶器を破壊。その欠片をツルの荷物入れの奥底に隠した。

後日、指示を受けた下女のひとりが、茶器を割った者の姿を目撃したと笹倉氏に報告し、事が明るみになった。

ツルは自分にかけられた嫌疑を真っ向から否定した。しかし、証拠の欠片が荷物入れの奥から発見されたこと、そして、カネ以下の全関係者が口裏合わせしたため、涙の訴えは却下された。

コナゴナに砕け散った茶器は、立花家の初代藩主から譲り受けた貴重な品だった。笹倉氏はツルがその事実を隠し、正直に申し出なかったことに腹を立て、結婚話は頓挫した。

その後、ツルには百叩きの刑が科され、さらに髪を一本残らず剃り落とされてしまった

カネはつるつる頭になったツルの耳元で、「茶器を割ったのは私」と告げ、大笑いした。

翌日の早朝、屋敷から追い出されることが決まったツルは、短刀を抜き、カネに襲いかかった。が、不穏な気配に気づいた笹倉氏の四男がこれを阻止。ツルは結婚するはずだった男に斬られ、絶命した。

以来、笹倉氏の屋敷には女性の霊が出没するようになり、周辺住人たちは髪をそり落とされ、挙句、元婚約者に斬り殺されたツルが怨霊になったと噂した。

まとめ
ツルは身に覚えのないの罪を着せられ、挙句、結婚するはずだった男に斬り殺された

卑劣な罠にかかったツルは、カネを怨み、憤死。怨霊になった

基本情報
心霊スポット筑後津村城跡
(ちくごつむらじょうあと)
所在地〒831-0035
福岡県大川市大字津324-3
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間35分
【高速】福岡空港から約1時間10分

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間40分
【高速】博多駅から約1時間15分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト大川観光協会 公式ホームページ

大川公園

大川市の中央部、農業用河川として整備された「花宗川(はなむねがわ)」の下流域に、花見の名所として知られる『大川公園』がある。

同園内には、花宗川を水源とする大きな池および、その麓に築1,800年と言われる神社があり、周辺住民や子供たちの憩いの場になっているようだ。

しかし、憩いの場であるはずの大川公園では霊の目撃情報が相次いでおり、一部のオカルトファンからは「恐怖の怨霊スポット」と呼ばれているという。

同園内および周辺でこれまでに目撃された霊は、「池に遺体が浮いていた」「池から女性が這い出てきた」など。

九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏は、「大川公園は、明治時代初めに発生した事件の記憶を覆い隠すために整備された。しかし、見た目をキレイにし、楽しい噂を流しても、そこに巣くう怨霊を成仏させることはできない」と述べた。

1877年、筑後国は西郷隆盛率いる薩摩藩士が引き起こした内戦、「西南戦争」の影響で大混乱に陥っていた。

筑後国内が戦場になることはなかった。しかし、筑後国を治めていた立花氏は、明治政府軍の貴重な戦力として重宝され、大半の藩兵が戦地で活動していた。結果、国内で活動する役人の数が激減し、治安の悪化、大混乱を招いたのである。

役人および藩兵が減少し、犯罪者たちは好き放題し始めた。彼らは繁華街に近いエリア、追っ手をかわしやすい施設などに潜伏し、悪事を働いた。

花宗川の南、広大な雑木林エリアには30名ほどの集団がたむろし、連日連夜大騒ぎしていた。

数日後、雑木林エリアに陣取った犯罪者集団は、食料と酒を求め繁華街に繰り出した。そして、商店や民家に乗り込み、あらゆるものを奪ったのである。

彼らは食料や酒だけでなく若い女も連れ去り、酷く辱め、奴隷のように扱った。一方、住人たちは役所に何度も被害を届け出たが、役人および藩兵は西南戦争に駆り出されており、取り締まりが行われることはなかった。

犯罪者集団は取り締まりを受けることなく好き放題できることに満足し、さらに過激化した。強盗、殺人、強姦、人身売買などが各地で横行し、住人たちは震え上がった。

ある日、雑木林エリア近くのスペースで「決闘」が行われる、という噂が流れた。これは1対1の殺し合いに金を賭けるギャンブルである。

怖いもの見たさで現地に集まった住人たちは、槍や斧を持った裸の女たちの姿を見て愕然とした。彼女たちは犯罪者集団に誘拐された挙句、賭けの対象として殺し合いを強要されていたのである。

犯罪者集団は、1対1の戦いに勝利した女のみ生かすと宣言。少しでも反抗する素振りを見せれば、その場でふたりとも叩き斬ると警告し、決闘を始めた。

裸の女たちは泣きながら対戦相手を殺した。一方、犯罪者集団は死んだ女を池に投げ込み大笑いした。

この惨劇を見せつけられた住人たちは、決死の覚悟で犯罪者集団に襲いかかった。が、相手はそれを見越していた。

犯罪者集団は、決闘を見学した住人100名超をひとり残らず斬り殺し、遺体は池に遺棄した。そして、必死に戦い生き延びた女たちを酷く辱めた挙句、斬首したという。

この事件を起こした男たちは、西南戦争の混乱に紛れ、消えた。それから100年後、雑木林および池は大川公園として整備され、当時の惨劇を知る者はほとんどいなくなった。

まとめ
大川公園は怨霊のホットスポット。犯罪に巻き込まれ憤死した者たちの霊が彷徨っている

過去の記憶は、良い噂やキレイに整備された施設で覆い隠すことができる。しかし、そこに巣くう怨霊は消えない

基本情報
心霊スポット大川公園
(おおかわこうえん)
所在地〒831-0016
福岡県大川市大字酒見
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間20分
【高速】福岡空港から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間35分
【高速】博多駅から約1時間10分

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関連サイト福岡県観光連盟 公式ホームページ

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リバーサイドパーク

九州最大の河川「筑後川」の下流域周辺には、興味深い遺構や歴史スポットが数えきれないほどある。

久留米市西部、佐賀県三養基(みやき)郡との境界を流れる筑後川の河川敷に整備された『リバーサイドパーク』は、知る人ぞ知る心霊スポットとして私のような心霊マニアに支持されている。

ただし、同園に霊が周勃する理由を知る者は少ない。私は、九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏に連れられ、久留米市の某所でU氏にお会いした。

U氏は同市山間部エリアの大地主で、筑後川に関連する伝承資料を保管している。曰わく、「リバーサイドパークが整備された地点には、平家一族のコミュニティがあったと言い伝えられている。彼らはある事件に巻き込まれ、以来、同地は怨霊の住処になった」という。

壇ノ浦の戦い(1185年)で源頼朝率いる武士連合軍に敗れた平家一族は、戦場となった長門国(山口県)から九州の各地に分散逃亡した。

戦場から最も近い筑前、筑後、豊前国に逃げ込んだ残党の大半は処刑されてしまったが、一部の者は氏名や身分を偽り生き残ったと考えられている。

1801年、筑後川の下流域、現在のリバーサイドパーク付近に「平峯(ひらみね)集落」という40名ほどの小さな村があった。

そこの住人たちは、漁とそれに関連する商いで成功し、村を大きく発展させていた。さらに、農家は米ではなくサツマイモなどの野菜作りに力を入れ、天候不良に強い農業を確立した

平峯集落は台風や干ばつなどの被害を何度も受け、その都度多くの死者を出した。結果、住人たちは学び、それらの悪条件に左右されない土地作りを確立、成功を収めたのである。

一方、他の周辺集落は失敗から学ばず、久留米藩藩主、有馬氏の指示がなければ行動できない者ばかりだった。一部の優秀な商人は自分で考え行動し成功を収めたが、大半の農民は台風などの自然災害に悩まされ、同じ失敗を何度も繰り返した。

向上心のない農民たちは平峯集落の取り組みを笑い、馬鹿にしてきた。しかし彼らが大成功を収め、藩主からも評価されると、今度は嫉妬心を燃やし、その取り組みを邪魔しようと考えた

不良農民たちは平峯集落に乗り込み、因縁をつける、女性を殴るなどの嫌がらせを繰り返した。

これに対し平峯集落の住人たちは、どれだけ酷い嫌がらせを受けても反撃しなかった。手を出せば、自分たちに天罰が下ると信じていたのである。

ある日、不良集団が平峯集落の女性数名を誘拐、筑後川の河川敷で集団暴行の末、殺害するという事件が発生した。

同集落の村長は女性の死を悼んだ。なお、この女性の墓は、現リバーサイドパークの西岸、筑後川沿いにポツンと鎮座している。

事件から数日後、平峯集落の住人数名は不良集団の集落に乗り込み、村民77名をひとり残らず叩き斬った。

事件を起こした住人のリーダーは、身内のひとりも殺したうえで、「私は平家一族の末裔として、平峯集落の住人も叩き斬る」と宣言した。しかし、駆け付けた役人たちに捕縛され、大量殺人の首謀者して処刑されることが決まった。

リーダー格の男は「ひとりで事件を起こした」と主張。役人たちはこの発言を疑ったが、仲間と思われる者はその場にひとりもおらず、78名殺害の罪はリーダー格の男が全て背負うことになった。

この男は平峯集落奥の河川敷で過酷な拷問を受け憤死、頭以外のパーツは細切れにされ、筑後川に遺棄された。

平峯集落の住人たちは、拷問死した男と同じく、平家一族の末裔だった。彼らは平家に降りかかる火の粉を払い、その責任をひとりで背負った男に感謝し、立派な供養碑を河川敷近くに建立した。

まとめ
リバーサイドパークには平家一族のコミュニティがあった

同地に現れる霊は、拷問死した男と彼に殺された78名と噂されている

基本情報
心霊スポットリバーサイドパーク
(りばーさいどぱーく)
所在地〒830-0071
福岡県久留米市安武町武島字ホロメカシ2239-1
種別怨霊
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間
【高速】福岡空港から約50分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間10分
【高速】博多駅から約55分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト久留米市都市公園管理センター 公式ホームページ
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安田森の天神様

久留米市大橋町、国道210号線沿いに残された『安田森の天神様』は謎に満ちた遺構と呼ばれている。

同市の記録によると、それは「安田 作兵衛(安田 国継)」の供養碑として建立されたらしい。しかし、ある伝承を知る老夫婦は、「有名人の墓という噂を意図的に流し、悪い噂を闇に葬った」と主張する。

なお、「安田 作兵衛」は、あの有名な「明智光秀」に仕え、本能寺の変で三英傑のひとり、「織田信長」に槍の一撃を叩き込み、「森蘭丸」の首をとったと言い伝えられている武将であり、遺骨は佐賀県唐津市の寺に祀られている。

同地で生まれ育ち貴重な伝承を伝え聞くK氏は、「安田森の天神様は戦国時代に築造された”千人塚”であり、数百年の間、大切に守られてきた。しかし、江戸時代末期に発生した事件以来、怨霊が現れる、祟(たた)られると噂になり、その記憶を払拭する目的で名を改めた」と述べた。

千人塚が築造された正確な年は不明。K氏の伝承資料には、戦国時代に筑後国周辺で覇権を争った大友氏もしくは龍造寺氏によって築造されたと記されているが、真偽不明である。

1835年、筑後国は壊滅的なレベルの干ばつに見舞われ、一部地域を除き、稲や農作物はことごとく枯れた。

一級河川「巨瀬川(こせがわ)」の下流域、現在の大橋町合楽(あいらく)地域に「的場集落」という小さな村があった。

そこの住人の大半は貧しい農民で構成されており、干ばつの影響をモロに受けた。頼みの稲は枯れ、野菜などの農作物を育てていた者もおらず、村の食料はあっという間に底をついた。

住人たちは土、草、猫、犬、ネズミ、虫、樹皮など、食べられそうなものはすべて口にした。しかし、水不足の影響で大半の雑草は枯れ果てており、動物もあっという間に食い尽くしてしまった

飢餓が本格化してから1か月後、体力のない老人、幼児、子供が最初に飢え死にした。そして、最期を看取った生存者たちは、迷うことなくその肉と内臓を喰らい、腹を満たしたのである。

理性を失った生存者たちは、病気を抱えている者、酷く衰弱している者を殺し、皆で肉を分け合った。

的場集落以外の村も同じような状況だった。しかし、人肉を喰らう者はほとんどおらず、「一線を越えるぐらいなら死を選ぶ」と思っていたようである。

これに対し的場集落の生存者たちは、他の集落に遠征。埋葬された者の遺体を掘り返し、喰らうようになった。

K氏の伝承資料には、「供養された者を地面から引きずり出し、腐りかけの肉を貪る男女の様は、地獄そのものだった」と記されていた。

数か月後、周辺集落の住人も人肉に手を出し、遺体はことごとく食い荒らされてしまった。結果、人肉を得るためには生存者同士で殺し合わねばならず、誰もが疑心暗鬼に陥っていた。

生存者同士の殺し合いが始まると噂されたある日、ひとりの男が「