「霊には攻撃的なものとそうでないものがいる」と私は信じている。
前者は何となくそこら辺をブラブラしている(?)タイプの霊。ただし、攻撃的でなくても、気味が悪いことに変わりはない。
後者は出会ってはいけないタイプの霊。特に危ないのが、何らかの理由で現世に怨みつらみを残し憤死した怨霊と呼ばれるものたちである。
怨霊は人間に攻撃を仕掛けてくる可能性が極めて高い。憑りつかれると体調を激しく崩すだけでなく、「最悪死に至る可能性もあり得る」と私は信じている。ただし、怨霊に憑りつかれ死亡した人に話を伺うことはできないため、死ぬか否かは憑りつかれてみないと分からない。
今回は大宰府市他、計5市の最恐心霊スポット12カ所(PART7)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.太宰府市
・竈門山寺跡
・大佐野スポーツ公園
2.大野城市
・牛頸ダム
・小田浦窯跡群
3.春日市
・寺田池
・元宮公園
4.筑紫野市
・扇滝
・掛林観音
5.福岡市
・花乱の滝
・灘山展望台
・曲渕城跡
・菊池霊社
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竈門山寺跡
『竈門山寺跡(そうもんさんじあと)』は、太宰府市北東部、宝満山(ほうまんざん)の麓に位置する寺跡である。
建立年は1000年以上前、明治時代の廃仏令(廃仏毀釈)で取り壊された。なお、宝満山およびその周辺一帯の関連施設は”国の史跡”に指定されている。
同山寺周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊・情報は、「敷地内に生首が並べられていた」「斧を持った男に追いかけられた」など。
太宰府市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管する某大学教授のU氏にお話を伺った。
U氏:
「江戸時代に筑前国を治めた黒田氏は、キリスト教から真言宗に改宗し、以来、キリシタンと一向宗(浄土真宗)を厳しく弾圧した。なお、一向宗への取り締まりを強化した理由は、織田信長や南薩摩と同じである」
福岡藩の初代藩主「長政」は、父「如水(官兵衛)」と同じく敬虔なキリシタンであり、真言宗への改宗以降も「仏(神)に仕え、教義を固く守る」と宣言、領民にも仏教(主に真言宗)を強く勧めた。
一方、浄土真宗の肉食妻帯、ルール無視(戒律がない)を公然と押し通すやり方には辟易しており、時機を見て対処すると考えていた。
1785年、北九州地方の稲や農作物は、数週間に渡って降り続いた大雨の影響でことごとくダメになり、危機的な食糧不足に陥っていた。
筑前国内の稲や野菜も8割以上が水没し、その年の石高は例年の10分の1以下にまで減少したという。なお、同規模の不作が1783年から続いており、領民たちの飢えと怒りは限界を超えていた。
同じ頃、筑前国御笠郡(現在の大宰府市)の山中に寺を構える一向宗たちは、山でイノシシやシカ、その他の野生動物などを狩り、誰一人死者を出すことなく生活できていた。
信者たちは動物の命を何一つ無駄にせず、骨もすり潰して再利用したと言われている。また、野草やキノコの知識も豊富だったため、「一向宗は裸で山に放り出されても生き延びる」と噂されていた。
一向宗たちは周辺集落に食料を分け与えながら、浄土真宗の教義を説いた。結果、施しを受けた領民たちの一部が浄土真宗への改宗を決めたという。
数週間後、一向宗が領民に食料を与え、それと引き換えに浄土真宗への改宗を迫っている、という噂が福岡藩にも届いた。しかし、藩主の「斉隆(なりたか)」は、一向宗も同じ仏教徒と考えるリベラル派だったため、厳しい取り締まりは行わず、静観することにした。
一方、保守派の家老たちは、歴代藩主と同じように対処すべきと考えたが、斉隆は説得に応じなかった。
数日後、家老たちの命を受けた数名の刺客は、御笠郡の周辺集落で一向宗に関する噂を流した。
U氏の伝承資料によると、「一向宗は食料と引き換えに改宗を迫り、福岡藩との一戦に備え戦力を整えている」という噂が瞬く間に広まり、それに抗議する数百の住人が武器をとったという。
家老たちの狙い通り、一向宗に敵意を抱く住人の一部が山中の寺を襲撃。僧侶40人と住職を捕縛した。
翌日、刺客は一向宗制圧を扇動した住人に対し、「彼らを放置すれば、必ず復讐される」と遠回しに首をとるようアドバイスした。
一向宗たちは寺の境内でひとり残らず斬首された。それを見届けた刺客は本堂などの施設に火を放ち、撤退。家老に作戦終了を伝えた。
以来、竈門山寺跡周辺で霊を目撃したという噂が相次ぎ、現地に近づく者は少なくなったという。なお、家老たちは藩主に対し、「山寺は火災によって焼失、そこにいた僧侶の8割以上が焼死した」と報告し、事件は闇に葬られた。
<まとめ>
◎竈門山寺跡は、浄土真宗の寺と言い伝えられている。なお、そこに放置された僧侶の焼死体は、野生動物のエサになった。
◎この事件以降、浄土真宗(一向宗)への取り締まりは斉隆に伝えられず、秘密裏に遂行されたとう。
基本情報 | |
心霊スポット | 竈門山寺跡 (そうもんさんじあと) |
所在地 | 〒818-0115 福岡県太宰府市大字内山 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約30分 【高速】福岡空港から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約40分 【高速】博多駅から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 太宰府市観光情報サイト |
大佐野スポーツ公園
太宰府市南西部、大佐野(おおざの)地区には農民一揆関連の伝承が残されており、その争いの中で憤死した数十名が怨霊になったと言い伝えられている。
ここで紹介する『大佐野スポーツ公園』は、丘の上に整備された市営スポーツ公園(グラウンド)である。なお、ここで数百名が死亡したことを知る者は少ない。
私は北九州地方の歴史とそれに関連する伝承を研究する某大学教授のE氏の紹介で、同地の伝承資料を受け継ぐA氏にお会いした。
A氏:
「1754年に発生した台風や豪雨の影響で、筑前国の石高は大幅に減少。不作は翌年まで続き、数千人規模の大規模な一揆が発生した。この中で農民の一部が暴徒化し、とんでもない事態に発展、以来、惨殺された者たちが怨霊になったと言い伝えられている」
1754年に北九州地方を襲った台風や豪雨の影響は翌年になっても解消されず、筑前国福岡藩の石高は10分の1以下にまで減少した。
藩主の黒田氏は税の納付期限を延長した。しかし、農家の収穫量は例年の10%以下、ゼロの地域もあったほどで、納めるものが手元になく、明日の食料の確保もままならない状態だったという。
残念なことに、黒田氏は納付期限の延長以外の措置を講じず、滞納者を厳しく罰し始めた。
最初に罰せられた者たちは、娘を遊郭などに売るなどして資金確保に奔走した。しかし、役人たちはさらに取り立てを強化し、納付期限を守らなかった者たちはムチで激しく打たれた。
ある日、ムチ打ちに処された農家の一人娘が自殺した。これを知った同じ集落の農民たちは怒り狂い、決死の覚悟で武器をとった。
ナタや斧などで武装した農民数十名は、女性をムチ打った役人の自宅へ乗り込んだ。その後、農民たちはその役人をムチで打ち続け、殺した。
筑前国御笠郡(現在の太宰府市)の役所は反逆に関わった農民をひとり残らず投獄、主犯格の男たちは打ち首獄門の刑に処された。
この事件がきっかけとなり、各地で米屋や裕福な商家、武士の住居を襲撃する一揆が増発し、その規模は数千人にまで膨れ上がったという。
黒田氏は御笠郡の怒りが他の地域に伝搬することを恐れ、作物の収穫が安定するまで納付期限を無期限延長すると御触れを出した。結果、一揆の抑え込みに成功したのである。
同じ頃、暴徒化した一部の農民は、関係のない近隣集落を襲撃、若い女性ばかりを誘拐した。
被害者の通報を受け、黒田氏は部隊を派遣。1,000人超の大隊が御笠郡の農村部、大佐野地区中央部の丘を包囲した。
暴徒たちは誘拐した女性や女児、計50名を辱めた挙句、殺していたという。
部隊は遺体発見後、暴徒をひとり残らず捕縛、その場で処刑することが決まり、全身の皮を剥いだうえで串刺しの刑に処した。
翌日、福岡藩は罪人約200名を一般公開した。周辺集落の住人たちは、丘の上にさらされたおびただしい数の串刺し遺体に度肝を抜かれたという。
以来、同地は辱められた挙句殺された女性と、暴徒200名の霊が出ると噂されるようになり、誰も近づかなくなった。なお、大佐野スポーツ公園では今でも頻繁に霊が目撃されている。これまでに目撃された霊・情報は、「女性の悲鳴が聞こえた」「斧を持った男に追いかけられた」など。
<まとめ>
◎大佐野スポーツ公園外れの雑木林には、惨殺された女性を祀る墓碑が残されている。
◎串刺しの刑に処された暴徒200名の遺体は、骨が完全に朽ち果てるまで放置されたと言い伝えられている。
基本情報 | |
心霊スポット | 大佐野スポーツ公園 (おおざのすぽーつこうえん) |
所在地 | 〒818-0134 福岡県太宰府市大字大佐野807-142 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
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牛頸ダム
二級河川「牛頸川(うしくびがわ)」の上流域に建設された『牛頸ダム』は、知る人ぞ知る心霊スポットとして注目されている。
同ダムが心霊スポット化した理由は、自殺が頻発したためである。また、”牛頸”という名前も、どこかおどろおどろしい雰囲気を醸し出しており、肝試しの人気スポットになったという。
大野城市牛頸地区の伝承資料を保管するH氏にお話を伺うことができた。同氏は開口一番、「自殺した方たちのことは知らないが、ダムの建設地で起きた事件であれば知っている」と述べた。
H氏:
「江戸時代、牛頸川の上流域付近に形成された集落は、周辺の隠れキリシタンから聖地と呼ばれていた。山の奥の洞窟に立派な教会が建設され、人目を気にせず祈りを捧げることができたためだろう。しかし、教会の情報が外部に漏れた結果、キリシタンたちは悲惨な最期を遂げた」
1638年、天草地方で発生した「島原の乱」終結後、九州地方の隠れキリシタン狩りが本格化した。
筑前国藩主の黒田氏は敬虔なキリスト教信者だったが、幕府の命に従い棄教。真言宗に改宗し、領内のキリシタン狩りを強く推し進めた。
黒田家は幕府から最も信頼される大名家のひとつであり、初代福岡藩藩主の「長政」は、徳川家康から50万石超の大封を受けている。
黒田氏は幕府の信頼を失ってはならないと考え、元キリシタン大名であることを一切感じさせない強烈な弾圧と取り締まりを行った。
同じ頃、牛頸川の上流域に形成された「野首(のくび)集落」は、筑前国御笠郡(現在の大野城市)の隠れキリシタンたちから聖地と崇められていた。
そこに造られた天然洞窟の教会は100名以上を同時に収容し、高さ3m超の巨大な十字架が圧倒的な存在感を放っていたという。
御笠郡のキリシタンたちはそこにこぞって通い、人目を気にせずに祈り、教義を深めたのである。
しかし、頻繁に不特定多数が出入りしたことで、野首集落の噂は外部に漏れてしまった。
H氏の伝承資料によると、黒田氏の家臣「沖野氏」が洞窟教会の情報にたどり着き、隠れキリシタン一掃作戦を実行したという。
沖野氏は自分の刺客を野首集落に送り込み、「黒田氏が祈りを捧げくる」「黒田氏はキリスト教に改宗した」「厳しい取り締まりは間もなく終わる」などの噂を流した。
その後、沖野氏は噂を確たるものにすべく、御笠郡内の集落”だけ”に「キリシタンの取り締まりを終了する」と御触れを出した。
結果、隠れキリシタンたちは心置きなく洞窟教会に足を運び、祈りを捧げるようになったのである。
数週間後、沖野氏の襲撃は計画的だった。洞窟教会に人が多く集まる日、時間、移動ルートなどを細かくチェックし、退路を全て塞いだうえで攻撃を開始した。
洞窟教会およびその周辺に集まっていた約300人はひとり残らず捕縛され、抵抗した者は容赦なく斬り殺された。
沖野氏は藩主に許可を得たうえで、300人を火刑に処した。なお、幼児や赤子のみ、苦しみを長引かせないために、牛頸川上流の河原で斬首されたという。
その他の隠れキリシタンたちは、全身を縄で強く固縛され、一カ所に集められたのち、焼却処理された。その際、300人の悲鳴は数キロ離れた集落まで届き、住人たちを震え上がらせたという。
<まとめ>
◎牛頸ダムの建設地には、野首集落と洞窟教会の跡地があった。
◎約300人の隠れキリシタンを祀った慰霊碑と墓は、牛頸ダムの底に沈んだ。
基本情報 | |
心霊スポット | 牛頸ダム (うしくびだむ) |
所在地 | 〒816-0971 福岡県大野城市大字牛頸 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
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小田浦窯跡群
『小田浦窯跡群(おだうらかまあとぐん)』は、大野城市の南エリア、牛頸(うしくび)地区の住宅街近くで発見された古墳時代頃の窯跡である。
発掘調査の結果、ここで焼かれたと思われる須恵器(すえき)が多数出土し、古墳時代末期頃の遺構であることが判明したという。
同窯跡群およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊・情報は、「古墳(丘)の上に女性が立っていた」「雑木林から女性の悲鳴が聞こえた」など。
先に述べた「牛頸ダム」の伝承を説明してくれたH氏は、小田浦窯跡群で発生した事件についてもご存じだった。
H氏:
「江戸時代末期、雑木林に覆われた小田浦窯跡群は子供たちの遊び場だった。しかし、ある事件以降、そこに近づく者はいなくなり、周囲は木の柵で覆われ完全に区画されてしまったという」
1858年、九州北部の一部地域でコロリ病(コレラ)が大流行し、筑前国内だけで1万以上が死亡。特に城下町から遠く離れた集落の蔓延状況は深刻で、全住人の8割以上が死亡した村もあったという。
牛頸地区の北エリア、山の麓に形成された「短田(たんた)集落」は比較的人口の多い村だった。
そこで生活していた18歳の「ツル」は、許嫁の「庄衛門」と結婚する予定だった。しかし、庄衛門はコロリ病に感染し死亡、ツルも同じ病を患い、生死の境をさまよっていた。
当時、コロリ病の死亡率は50%を軽く超えていたが、ツルは運よく病を克服したのである。
しかし、ツルの身体は極度の低体温、下痢、そして発疹などの影響で見るも無残な状態だった。顔は骸骨のように痩せこけ発疹だらけ、全身の肉は削げ落ち、人間とは思えない姿になっていた。
ツルは自宅に引きこもろうと考えた。しかし、両親がコロリ病で死亡し、生きるために自分の手でお金を稼ぐと決心した。
ツルは知人の紹介で遊郭(風俗店)を訪ねた。しかし、コロリ病を克服した女の姿はあまりに醜く、「客が来なくなる」と追い返されてしまったという。
それから数日後、ある男がツルに救いの手を差し伸べた。伝助と名乗るヤクザは、「変わった風貌の女が高値で取引されている」とツルを唆(そそのか)し、ある場所に案内した。
ツルは短田集落の外れ、雑木林の丘に案内され、待ち構えていた男たちに捕縛された。
男たちは常人とは異なる精神構造をしており、酷く痩せボコボコの肌を持つツルに欲情した。
ツルは真夜中から夜明けまで男たちに犯され続けたものの、思いもよらぬ大金を手に入れた。なお、伝助の取り分は収益の50%だったが、ツルはその要求を受け入れなかったという。
数週間後、ツルの身体を求める変態たちは後を絶たず、売り上げは絶好調。ツル自身もセックスを楽しむようになっていた。
しかし、金儲けの果てに待っていたのは、悲惨な結末だった。
最後にツルを買った男は、カニバリズム(食人)に傾倒した異常者だったと思われる。
周辺集落の住人たちは、雑木林の奥から聞こえる悲鳴に気づいた。しかし、この世のものとは思えぬ凄まじい悲鳴だったため、そこに立ち入る勇気のある者はひとりもいなかった。
翌日、雑木林の奥から内臓だけを喰い尽くされたツルの遺体が発見された。その死に様はあまりに惨たらしく、苦しみのあまり眼球は左右逆を向き、口は人間とは思えぬ角度にねじ曲がっていたという。
<まとめ>
◎小田浦窯跡群横の雑木林は食人事件の舞台。今でも女性の霊が出ると噂されている。
◎ツルは生きたまま内臓だけを喰われ、憤死。怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 小田浦窯跡群 (おだうらかまあとぐん) |
所在地 | 〒816-0971 福岡県大野城市牛頸1-10-20 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
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— 大野城市 (@OnojoCity) September 9, 2014
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寺田池
春日市中西部、住宅街エリアに『寺田池』と呼ばれるため池がある。
これは同地の田畑に水を供給する貴重な水源のひとつとして江戸時代から利用されてきた。しかし、高度経済成長期以降、田畑が住宅街に変わったことで、その役目を終えた。
同池周辺では霊の目撃情報が相次いでおり、池に”何か”が住み着いていると噂になったこともあるという。ただし、水の中に未知の生物が潜んでいる可能性は低いと思う。
これまでに目撃された霊は、「おびただしい数の遺体が浮いていた」「池の中から人間と思われる生物が這い出てきた」など。
私は北九州地方の歴史とそれに関連する伝承を研究する某大学教授のE氏の紹介で、春日市の伝承を研究するT氏にお会いした。
T氏:
「昔、寺田池の周りには田んぼと畑、そして福岡藩藩主”黒田氏”の拷問処刑場があったと言い伝えられている。なお、罪人の遺体は、池の麓に築造された深さ20mほどの巨大な穴に遺棄されたという」
遺体を遺棄、放置すれば腐敗し悪臭を放つことになる。しかし黒田氏は、巨大な穴の底に土や牛糞などを大量に敷き詰めることで遺体の発酵を促し、腐乱臭の発生を防いだ。
さらに、そこで生成された栄養タップリの泥を田畑の肥料に利用した。結果、処刑場周辺の田畑で栽培された農作物はグングン成長し、領民に素晴らしい恩恵をもたらしたのである。
1613年、徳川幕府の禁教令発出に伴い、黒田氏はキリシタン専用の拷問処刑場建設を決めた。
数か月後、寺田池の麓に屋外拷問処刑場が完成し、同時に遺体を遺棄、発酵させる巨大な穴も掘られたという。
「寺田処刑場」はキリシタン専用の拷問処刑施設として運用を開始。その後、領内で罪を犯した者の一部も同処刑場で処理されるようになった。
この時代、処刑は領民の貴重なエンターテイメントだった。T氏の伝承資料によると、元服間近の者はここで処刑を見学することが慣例になっていたという。また、少年少女たちも肝試し感覚で見学し、「罪を犯してはならない」と学習した。
罪人に科せられる刑は、斬首が標準だった。一方、隠れキリシタンには「串刺し火刑」「皮剥ぎ」などが適用され、領民に最も恐れられた刑は「鋸(のこ)引きの刑」だったという。
これは「隠れキリシタンを主導する立場にある者」「親殺し」「主君殺し」などに適用された。
鋸引きの刑は2つに分類される。ひとつは罪人の首を切れ味の悪いノコギリでゴリゴリと切り落とす「標準型」、もうひとつは、逆さまに吊るし上げた罪人の股から脳天までを真っ二つに切り裂く「強化型」だった。
強化型は領民の支持を集め、最高のエンターテイメントショーと呼ばれた。しかし、罪人の死に様があまりに凄まじく、少年少女の見学は禁止された。
その後、遺体は一切供養されることなく深さ20mほどの穴に遺棄され、土と牛糞の中で腐り果てたのである。
寺田池で霊が目撃されるようになったのは、拷問処刑場完成以降と言い伝えられている。
罪人たちは公衆の面前で処刑され、一切供養されずゴミのように打ち捨てられ、腐り、そして怨霊になったのだろう。
寺田池に出没する霊は”攻撃的”と噂されており、釣りをしていた者が池の中に引きずり込まれたという目撃情報も残っているそうだ。
<まとめ>
◎寺田池の麓にあった拷問処刑場では、罪人数千人が処刑され、一切供養されることなく腐り果てた。
◎寺田池の麓には、処刑場閉鎖後に建立された小さな供養碑が残っている。
基本情報 | |
心霊スポット | 寺田池 (てらだいけ) |
所在地 | 〒816-0846 福岡県春日市下白水南2 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約25分 【高速】福岡空港から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 春日市 公式ホームページ |
元宮公園
戦争、大規模災害、飢饉などが発生すると、必ず犯罪行為に手を染める者が現れる。
ここで紹介する『元宮公園』は、連続殺人事件の舞台になった場所である。しかし、わずか100年ほど前の事件であるにも関わらず、その記録はほとんど残されておらず、犯人も捕まっていない。なお、事件発生当時、同地は公園ではなく雑木林に覆われたただの荒れ地だった。
那珂郡(現在の春日市)のごくありふれた土地で発生した連続殺人事件は、周辺住人を震え上がらせ、恐怖のどん底に叩き落した。しかし当時、日本はロシア帝国と戦争を行っており、九州だけでなく日本全土が混乱(興奮)状態にあった。
結果、捜査はずさんになり、未解決のまま闇に葬られたのである。
同地で生まれ育ち、春日市の歴史をよく知るH氏曰わく、「那珂郡の雑木林に遺棄された女性の遺体は、どれも人間がやったとは思えないほどひどい有様だったという。この事件で、10代前半から20代後半の女性、計5名が殺害された」という。
1904年、那珂郡東部、牛頸(うしくび)川沿いは、田畑に囲まれたのどかな田舎町だった。
同年夏、人口数百名の「上曲(うえまがり)地区」は、恐怖のどん底に叩き落とされた。
H氏の資料によると、数日前に失踪した地区の少女のものと思われる”パーツ”が路上に遺棄されており、捜査の結果、雑木林から遺体が発見されたという。
殺害された少女は11歳。発見時、服は着ておらず、両手足は切断されていた。さらに、乳房と女性器をえぐり取られており、目はくりぬかれ、耳と鼻、そして舌と唇まで削ぎ落とされていた。
遺体の表面には容疑者のものと思われる精液が残されており、上曲地区に配備されていた中年警官は強姦殺人事件と断定、捜査を開始すると同時に応援を要請した。
しかし、日露戦争の混乱下にあったことが影響し、地区に警察の増援部隊は配備されず、捜査は中年警官ひとりで行うことになったという。
地区の住人たちは家族や隣人を守るために自警団を結成、犯人が捕まるまで女性の単独行動は原則禁止された。
数週間後、今度は牛頸川の河原で人間のものと思われる臓器が発見された。
この時、上曲地区から行方不明者は出ていなかった。犯人は別の場所で獲物を捕縛し、同地区内に遺棄したのである。
臓器発見の翌日、最初の遺体発見現場と同じ雑木林で女性2名の遺体が発見された。
捜査にあたっていた中年警官は、殺害された2名の異様な姿に恐怖し、同一人物の犯行ではないかもしれないと考えた。
殺害された2人の身元は、若い女性であること以外何も分からなかった。そして、殺害の手口は最初の少女とは全く違ったのである。
2人は腹を真っ二つに切り裂かれ、臓器をひとつ残らずむしり取られていた。さらに、被害者の口内には本人のものと思われる心臓が押し込まれていた。
そして、2人の死顔は全く同じだった。眼球が左右逆を向いた状態で半分飛び出し、この世のものとは思えない”何か”を見た、という状態で硬直しており、中年警官はまともに直視することができなかったという。
1週間後、最初の少女と全く同じ手口で殺害された女性2名が発見され、上曲地区の混乱は頂点に達した。
事件発生から1年後、中年警官は自己都合で退職し、捜査は後任に引き継がれた。しかし、日露戦争の混乱は続いており、捜査は全く進展せず。その後、事件はうやむやになり、闇に葬られたのである。
以来、遺体遺棄現場の雑木林(現在の元宮公園周辺)では霊の目撃情報が相次ぐようになったという。
<まとめ>
◎元宮公園で目撃された霊は、そこで発見された女性たちかもしれない。
◎これまでに目撃された霊・情報は「女性の悲鳴が聞こえた」「血だらけの女性が立っていた」など。
基本情報 | |
心霊スポット | 元宮公園 (もとみやこうえん) |
所在地 | 〒816-0814 福岡県春日市春日3 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 春日市 公式ホームページ |
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扇滝
筑紫野市の山間部、筑後川水系「宝満川(ほうまんがわ)」の上流域に『扇滝(おうぎたき)』と呼ばれる高さ20mほどの滝がある。
この滝の近くに建立された鳥居と「荒熊稲荷神社」は、物悲しく怪しい雰囲気に包まれている。なお、同社の建立理由を知っている者は少ない。
扇滝周辺は霊のホットスポットである。感じやすい人は昼夜を問わず、安易に近づかない方がよい。なお、私は夜間に突撃取材を決行し、何かに憑りつかれ、2週間ほど入院。その後、除霊を受けてようやく苦痛から解放された。
筑紫野市香園(こうぞの)地区で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するO氏にお話を伺った。
O氏:
「香園地区の山間部には平家一族関連の遺構が残されており、荒熊稲荷神社と扇滝の供養碑もそのひとつである。源氏の追撃をかわした落人たちは、同地にコミュニティを形成し、江戸時代末期に姿を消したと言い伝えられている」
1836年、東北地方から全国各地に広まった大飢饉は北九州でも深刻な被害をもたらし、御笠郡(現在の筑紫野市)では二千人以上が餓死したと言われている。
香園地区、宝満川の上流域に形成された人口300人弱の「三上(さんじょう)村」は、稲作より農作物栽培に力を入れ、サツマイモとジャガイモの収穫量は御笠郡随一の規模を誇っていた。
住人たちは過去に何度も深刻な危機を体験し、米より栽培しやすく乾燥させることで長期保存できるサツマイモとジャガイモに可能性を見出した。
結果、三上村は同年の壊滅的な飢饉をあっさり克服したのである。
一方、御笠郡の他の集落は過去の教訓を活かすことができず、事態は悪化の一途をたどっていた。ひどい地域になると、飢えた暴徒が人を襲い、その肉を喰う事件まで発生した。
ある日、三上村に若い男たちが押し入り、食料を奪おうとした。しかし、住人たちはこれを軽々と制圧。男たちを捕縛し、役所に突き出した。その際、暴徒のひとりが「ここは平家一族の村だから何をしてもよい、と噂になっている」と口走った。
O氏の伝承資料によると、「三上村が平家一族によって形成されたコミュニティだという明確な証拠はない」という。ただし、村の外れの扇滝に建立された供養碑には、平家の家紋がしっかり残されており、また、村内の墓地にも落人を連想させる遺構が残されていたのである。
この時、暴徒のひとりが口走った噂は、周辺集落および繁華街にまで広まっていた。
三上村の男衆たちは鎧を着こみ、完全武装したうえで暴徒たちの到着を待ち構えた。
同じ頃、周辺集落に集まった暴徒数百名は、三上村が何らかの方法で飢饉を乗り越えたと知っており、自分たちだけ生き延びようとする平家一族に天誅を加えるべく出陣した。
数日後、通報を受けた役人たちが三上村を調査したところ、扇滝およびその周辺で数百名分の遺体を発見。検分の結果、遺体は周辺集落に集まった暴徒たちだった。
以来、扇滝周辺は霊のホットスポットと噂されるようになった。なお、三上村の住人および倉庫に保管されていたジャガイモとサツマイモは跡形もなく消えていたという。
<まとめ>
◎扇滝およびその周辺には、平家落人伝説の遺構が残されている。
◎三上村の住人がその後どうなったかは不明。なお、村は事件後すぐに閉鎖されたが、当時の遺構(住居跡など)は今も扇滝の近くに残っている。
基本情報 | |
心霊スポット | 扇滝 (おうぎたき) |
所在地 | 〒818-0002 福岡県筑紫野市大字香園 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約50分 【高速】福岡空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間 【高速】博多駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 筑紫野市観光協会 公式ホームページ |
掛林観音
筑紫野市南西部、一級河川「山口川」の中流域には奇怪な伝承が残されている。
ここで紹介する『掛林(かけばやし)観音』は、県道137号線沿い、江戸時代の旧街道近くに建立された観音堂である。
これの建立年、建立者は不明。江戸時代以前からあったと言い伝えられているが、詳細は分かっていない。
掛林観音周辺では頻繁に霊が目撃されている。これまでに目撃された霊・情報は、「血だらけの女性が立っていた」「お堂の前に男女の生首が並べられていた」など。
北九州地方の歴史とそれに関連する伝承を研究する某大学教授のE氏曰わく、「掛林観音の近く、高さ3mほどの滝には、”トクの呪い”と呼ばれる伝承が残されている。18歳のトクは許嫁と結婚したものの、滝の近くでひどく辱められ、憤死した」という。
1818年、御笠郡(現在の筑紫野市)山口地区で生まれ育ったトクは、村から数キロ離れた繁華街で働いていた。
トクは「竹田(たけた)氏」という裕福な商家で働く女中のひとりだった。
竹田家は福岡藩家老の親戚にあたる名家中の名家として知られており、家主の「官兵衛(独身)」は繁華街を代表する色男だったという。
竹田氏の元で働く女中たちは、官兵衛の子を孕(はら)みたいと願っていた。妊娠すれば、名家の家主の妻になれる可能性が高い。実現すれば農民から大名家の家老に出世するようなものである。
一方、トクは許嫁と結婚を約束しており、官兵衛はあくまで雇い主、男として意識したことは一度もなかった。
官兵衛は女中たちの手厚い待遇に満足していた。しかし、彼女たちはあくまで”従業員”、子を孕ませるつもりなど毛頭なく、男女の関係になるなど夢にも思っていなかった。
1818年冬、トクは流行り病に罹った官兵衛を寝る間も惜しんで看病、介抱した。
病から回復した官兵衛は、トクの優しさと愛情に感動し、彼女の虜になった。しかし、トクは家主の誘いを断り、あくまで女中として働くと宣言したのである。
1819年、官兵衛はトクの助言に従い、「夫を陰から支える功の高い女性」と結婚。なお、この結婚相手は名家の出身ではなかったが、人間味に溢れ、誰にでも優しく接することのできる素晴らしい女性だったという。
一方、他の女中たちは、トクが官兵衛に余計な知恵を与えた、と一方的に逆恨みした。
1819年春、トクは生まれ故郷に戻り許嫁と結婚。幸せな家庭を築くつもりだった。しかし、トクを深く恨む3人の女中がこれを許さず、新婚夫婦を地獄の底に叩き落したのである。
女中たちに雇われた浪人たちは、結婚したばかりのトクと夫の住居を襲撃。ふたりを捕縛し、村の近くの滝に移送した。
トクは滝つぼで3人の女中と再開し、初めて自分が恨まれていたと理解した。しかし、時すでに遅しである。
浪人たちは夫の見ている前でトクを何度も辱めた。
ボロボロになったトクにとどめを刺したのは女中たちだった。3人は木にくくりつけたトクの夫を木刀がへし折れるまで叩き伏せ、撲殺。その後、怒りに震えるトクの腹を真っ二つに掻き切り、体内に夫の頭をねじ込んだ。
トクは3人の女中と浪人に怨みつらみを残しながら憤死、掛林観音横の滝は新婚夫婦の血で真っ赤に染まった。なお、ふたりの遺体はバラバラに解体され、お堂の周辺にぶちまけられたという。
<まとめ>
◎トクは女中に逆恨みされた挙句、結婚したばかりの許嫁と共に憤死。大怨霊になった。
◎掛林観音とその横にある滝は霊のホットスポット。立ち寄る際はお花や線香などをお忘れなく。
基本情報 | |
心霊スポット | 掛林観音 (かけばやしかんのん) |
所在地 | 〒818-0046 福岡県筑紫野市大字山口2679-5 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約40分 【高速】福岡空港から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約55分 【高速】博多駅から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 筑紫野市 公式ホームページ |
掛林観音 pic.twitter.com/CSTFFgeN2W
— 天三 (@tensan990) November 3, 2017
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花乱の滝
福岡県の県庁所在地「福岡市」には、興味深い心霊スポットが数多く存在する。
早良区の山中、滝川の上流域に位置する『花乱(からん)の滝』は、知る人ぞ知るパワースポットとして注目されている。
一方、頻繁に霊が目撃されていることでも知られ、「滝つぼに生首が並べられていた」「男性の悲鳴が聞こえた」などの噂が絶えない。
早良区石釜地区で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するT氏にお話を伺った。
T氏:
「江戸時代、滝川の上流域に隠れキリシタンの村があった。そこの住人たちは、誰に対しても優しく親切に接することのできる者ばかりだったという」
1803年、花乱の滝の東に「野間村」という人口100人ほどの小さな集落があった。
そこの住人の8割以上はキリスト教を信仰する熱心なキリシタンだった。なお、残りは他の地域から流れ着いた身寄りのない男女で構成されていたという。
親切な隠れキリシタンたちは流れ着いた者を誰一人見捨てず、無一文でも親切にもてなした。
流れ着いた者の中に「治左ヱ門」と名乗る大男がいた。身長2m弱、腕は丸太のように太く、大木を軽々と運搬する姿を見た住人たちは、彼を「クマさん」と呼んだ。
治左ヱ門は身元不明の浮浪者だった。しかし、野間村の住人たちはクマのような大男に限りある食料を分け与え、寝床まで提供してくれたのである。
住人のひとり、腰の曲がった老婆のチヨは、治左ヱ門を大層可愛がったという。これに対し治左ヱ門は、薪集め、住居の修理、田畑の害獣除去などに精を出し、受けた恩を返した。
ある日、不審な男たちが野間村を襲撃、大騒ぎになった。男たちは「隠れキリシタンに天誅を下す」と叫び、住人に襲いかかったのである。
これを見た治左ヱ門は、拳ひとつで男たちを軽々と粉砕、ひとり残らず捕縛した。
男たちは繁華街近くの集落を寝床にする”ならず者集団”だった、彼らは「隠れキリシタンを斬り殺せば福岡藩から報奨金が出る」と述べ、襲撃の正当性を主張した。
翌日、村長は捕縛した男たちを解放、同じ過ちを犯してはならないと警告した。
襲撃事件から数週間後、雑木林で薪集めを行っていた治左ヱ門は、数キロ離れた野間村から煙が上がっていることに気づいた。
治左ヱ門が駆け戻った時には、全て終わっていた。住人たちはひとり残らず斬り殺され、辺りは血の海になっていたのである。
その後、通報を受けた福岡藩の役人による調査が行われ、野間村の住人、計103名の死亡が確認された。
さらに野間村の東、人口200人ほどの滝尾集落でも同じ頃に大量殺人事件が発生し、成人男性90名の死亡が確認された。
滝尾集落で死亡した90名は、四肢と首をバラバラに引きちぎられ、眼球、耳、鼻、そして舌までむしり取られていたという。なお、目撃証言から、実行犯は巨人のような大男ひとりと判明した。
<まとめ>
◎花乱の滝近くに形成された野間村は、キリスト教を恨むならず者集団によって滅ぼされた。
◎治左ヱ門の消息は不明。滝尾集落で発生した大量殺人事件は、恐らく治左ヱの犯行と思われる。
基本情報 | |
心霊スポット | 花乱の滝 (からんのたき) |
所在地 | 〒811-1132 福岡県福岡市早良区大字石釜 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約55分 【高速】福岡空港から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約55分 【高速】博多駅から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 福岡市公式シティガイド |