日本人は1,000年以上前から怨霊や呪いを恐れてきた。それらから身を守るために神社、鳥居、それと同じ機能を有する施設を建立し、神に祈りを捧げ、”怨霊になる恐れのある者”を祀り崇めてきた。しかし、神域に”無理やり”閉じ込められた者たちが黙って成仏すると思ったら大間違いである。

私は怨霊や呪いを信じており、これまで数えきれないほど霊を目撃してきた。神社、墓場、古墳、史跡、戦争遺構に足を運ぶと、必ずと言っていいほどそこに祀られた者、殺された者、何らかの理由で憤死した者に出会う。

今回は鹿児島県の最恐心霊スポット14カ所を紹介する。なお、現地での実体験をまとめているが、訪れたからといって同じ現象に遭遇する保障はないことをあらかじめご理解いただきたい。

目次

 1.鹿児島市
   ・黒神埋没鳥居
   ・西郷洞窟
 2.日置市
   ・吹上浜
   ・日置八幡神社
 3.いちき串木野市
   ・小水の滝
   ・照島神社
 4.鹿児島郡
   ・鬼界カルデラ
   ・黒島平和公園
 5.枕崎市
   ・平和祈念展望台
   ・南方神社
 6.指宿市
   ・橋牟礼川遺跡
   ・鰻池
 7.南さつま市
   ・別府城跡
   ・旧陸軍万世飛行場裏門跡

まとめ

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黒神埋没鳥居

霊や人魂が目撃されるエリアでは、過去に何かしらの事案が発生している。現世に悔いを残したまま亡くなったり殺されたりすると、死者は当然成仏できない。そして、その中で最も厄介なものが憤死した者たちである。

憤死とは、読んで字の如く「憤慨しながら死ぬこと」。無実の罪を着せられ殺される、誰かに対して強い怨みを持ったまま死亡するなど、この世の中で最も惨い死と言っても過言ではない。憤死した者は成仏できないし、当然するつもりもない。「復習を晴らす」ことを願い死ぬ。慍みが強い者ほど怨霊になった時の力も強く、酷い場合は天災レベルの巨大な厄災(地震、噴火、疫病など)を引き起こしてしまうのだ。

桜島の東部に建立された『黒神(くろかみ)埋没鳥居』は、鹿児島市を代表する心霊スポットのひとつ。1914年に発生した「大正大噴火」で同鳥居は2m以上埋没し、今も当時の姿のまま保存されている。なお、同じく同地に建立された「腹五社(はらごしゃ)神社」は完全に埋没した。

同鳥居と神社があったとされる境内周辺は、昼夜を問わず霊の目撃情報が相次いでいる。大正大噴火では、60名近い島民が溶岩や火砕流に巻き込まれ命を落としている。もしかすると、同地周辺で亡くなった方が、神社の”あった”場所なら成仏できると思い、集まっているのかもしれない。しかし、神社は地面に埋もれ、機能していない。

また周辺住民曰わく、噴火で命を落とした方だけでなく、腹五社神社に祀られていた者(神)たちが地面からはい出し、霊となって街を彷徨っているらしい。この話は大いに理解できる。墓の掃除や手入れをしないと御先祖様に叱られる、という日本に古くから伝わる考えと同じだ。神社に祀られていた者(神)たちは、埋没したまま放置され、参拝客たちを迎え入れることができなくなったことに怒り、現世に姿を現したのだろう。

近年、同鳥居は桜島を代表する観光スポットのひとつとして有名になり、たくさんの観光客が訪れるようになった。また、大変残念なことに、マナーの悪い観光客が増えた頃から霊の目撃情報もそれに比例し増えたという。

大正大噴火で亡くなった方たちが全員憤死したか否かは誰にも分からない。しかし、霊が目撃されている以上、何かしらの遺恨を残して亡くなった者たちが少なからずいたことは確かである。

黒髪埋没鳥居に足を運ぶ際は、花や線香などを準備し、かつ、マナーを守って参拝いただきたい。第二次世界大戦末期、同地で悪行を働いた数名が地面に吸い込まれ、首だけ露出した状態で発見されたという。男たちは顔をゆがめ、動物に生きたまま肉を食われ死亡したそうだ。

まとめ
黒髪埋没鳥居と腹五社神社は、大正大噴火で埋没、歴史を後世に伝える貴重な事故遺産である

同鳥居周辺で悪行を働き地面に吸い込まれた者たちは、生きたまま動物に食われ、死んだ

基本情報
心霊スポット黒神埋没鳥居
(くろかみまいぼつとりい)
所在地〒891-1401
鹿児島県鹿児島市黒神町647
種別事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間20分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト鹿児島県観光サイト 公式ホームページ

西郷洞窟

西郷隆盛」と「大久保利通」は、鹿児島県を代表する偉人である。戦国時代末期、薩摩藩は豊臣秀吉や徳川家康などから受けた数々の”屈辱”を子々孫々に伝え、その意志は300年後に爆発した。西郷と大久保は宿敵徳川幕府を大政奉還という形で滅亡させ、新時代を築いたのである。

ここで紹介する『西郷洞窟』は、日本最後の内戦、「西南戦争終焉の地」である。明治政府vs薩摩藩有志軍の戦いは、ご存じの通り、総司令官西郷の切腹を持って終結した。

西郷洞窟の南にある城山が最終決戦の舞台である。「城山公園」と「同展望台」は鹿児島中央駅から近く、毎年多くの観光客で賑わう人気観光スポットになった。しかし、同洞窟と同じく、この付近で霊を目撃したという情報は後を絶たず、市民の間では有名かつ危険な心霊スポットとして恐れられている。

まず、西郷が憤死したか否かは誰にも分からない。最期まで己の意思を貫き通し、納得した上で切腹したと言い伝えられているが、「盟友たちに裏切られた」と内心苦々しく思っていたかもしれない。しかし、西郷と一緒に戦った歩兵たちの多くは現世に悔いを残し、死んだ。

薩摩藩士は明治維新樹立に大きく貢献した。しかし、その一部は朝敵、天皇に反逆する賊と見なされ、ズタズタに引き裂かれた。戦いに臨んだ者たちは、自分たちこそが正義と信じ、かつての味方に殺されたのだ。

同洞窟に立てこもった西郷と薩摩藩士たちが、この世に一切の悔いを残さず死んだと思う方はまずいない。今でこそ鹿児島市を代表する人気観光スポットになったが、鹿児島の歴史に詳しい方は、見学ではなく薩摩藩士たちの”供養”のために同地へ足を運ぶ。

同洞窟では、鎧を身にまとった兵士や銃を構える霊が数多く目撃されており、周辺に首が転がっていたという情報も寄せられている。西南戦争で死亡した兵士は、両軍合わせて13,000名以上。争いに巻き込まれた市民を含めると、20,000人超(諸説あり)が命を落とした。

私は、総司令官西郷を慕う霊が同洞窟周辺に集まり、姿を現すと考えている。城山展望台から見える夜景は大変素晴らしいので、ぜひ同洞窟にも足を運んでほしい。高確率で鎧武者や銃を持った兵士を目撃できるはず。ただし、間違っても無礼を働かないこと。怨霊への無礼は惨たらしい死や事故につながる。

怨霊たちの恨みつらみは天災となって我々を襲う。大正大噴火、巨大台風、疫病、鹿児島県を襲ったそれらは、憤死した怨霊たちがもたらした、と私は確信している。「あり得ない」と主張する方もいるが、間違いである、と証明することは決してできないだろう。

まとめ
西郷洞窟とその周辺は、有名な心霊スポット。鎧を着た武者や銃を持った兵士たちが目撃されている

朝敵とされ、かつての仲間たちに殺された薩摩藩士たちの怨みは海より深い

基本情報
心霊スポット西郷洞窟
(さいごうどうくつ)
所在地〒892-0853
鹿児島県鹿児島市城山町19
種別戦争
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
鹿児島空港から車で約40分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約10分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト鹿児島市観光ナビ 公式ホームページ

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吹上浜

吹上(ふきあげ)浜」は、東シナ海に面した全長約47kmの砂浜である。毎年多くの観光客(サーフィンや釣り客など)を迎え入れており、南さつま市の吹上浜海浜公園で開催される「砂の祭典」は、同エリアを代表するGWの恒例イベントになった。

海と霊は切っても切れない関係にある。2018年に海の事故で亡くなった方は約700人、昨年も同程度だった。日本各地の砂浜およびその周辺に建立された神社や祠(ほこら)は、海の恵みを祈願すると同時に、水難事故の防止を祈念する役目も担っている。

ここ数年、吹上浜で水難事故は発生していない。しかし、浜と町を隔てる「防風林」では、毎年遭難事故が必ずと言ってよいほど発生している。なお、高齢者が突然行方不明になった場合、吹上浜周辺もしくは海で発見されるケースが多い。また、防風林の中で首を吊る者が後を絶たず、それを思いとどまらせる看板やポスターが各地に設置されている。

1978年、吹上浜を散策していたカップルが北朝鮮工作員に拉致された。2名は今も北朝鮮にいると考えられているが、発見、帰国は実現せず、現在に至る。この事件以降、同浜では心霊の目撃情報が相次いだという。私は吹上町出身だが、両親および祖父母に浜周辺への出入りを固く禁じられていた

霊は砂浜と防風林で目撃されており、それに引きずり込まれ溺死したという恐ろしい話も言い伝えられている。また、同地周辺に住む高齢者の方曰わく、「私は防風林で本物の遺体を発見し、気が付くと私自身も首にロープをかけていた」と証言している。幸い、地元の消防団員に発見され大事には至らなかったが、あと一歩遅れていれば、何者かに首を”吊らされていた”かもしれない。

北朝鮮による拉致事件が発生して以降、吹上浜で目撃された霊は拉致被害者に関連するものだと噂された。しかし2002年、拉致被害者5名が北朝鮮からの帰国を果たし、同浜で拉致された市川氏と増本氏も生存していた、とされる証言が伝えられ、この噂は自然消滅した。

吹上町永吉に建立された”久多島(くたじま)神社”の西12kmに浮かぶ「久多島」は、北朝鮮の工作員が拉致の拠点に利用したと考えられており、この島の見える浜辺では霊の目撃情報が頻発してる。霊は何かを伝えようとしているのか。それとも、憤死した怨みを果たすべく現世にとどまっているのか。

吹上浜沿いには神社や祠が20ほど建立されている。豊漁願い、海の怒りを鎮める、水難事故防止、死者を供養するもしくは祀るなど、理由は様々である。霊にお会いしたい方は、夜に浜辺を歩くと良いだろう。ただし、防風林はかなり広く、野生動物や野犬がうろついており大変危険なので近づかないこと。

まとめ
吹上浜は日本三大砂丘のひとつ。日置市を代表する心霊スポットでもある

防風林から西は夜になると明かりひとつなく、真っ暗になる。立ち入る際は十分注意すること

基本情報
心霊スポット吹上浜
(ふきあげはま)
所在地〒899-3305
鹿児島県日置市吹上町今田
種別事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間5分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約40分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト日置市 公式ホームページ

日置八幡神社

日置市では、江戸時代から受け継がれる「妙円寺詣(みょうえんじまい)り」という行事が毎年10月に開催される。1600年9月15日、島津家藩主「島津惟新入道(いしんにゅうどう)」は天下分け目の戦い「関ケ原合戦」に参戦。石田三成率いる西軍に味方したが、各藩との折り合いや三成との問答の末、合戦には参戦しなかった。

合戦終盤、惟新入道率いる島津家は、東軍の勝利が確定した頃合いを見計らい、敵陣正面を粉砕突破、戦場を離脱した。これを見た徳川家康は怒り狂い、九州征伐を心に誓うのだが、結局それは実現せず、江戸幕府誕生後、大恥をかかされた島津家に72万石を与えたとされる。なお、粉砕突破によって島津家家臣および兵士はことごとく討死、生きて薩摩に戻ったのは1500人中わすか数十名だったと言い伝えられている。

日置市日吉町の『日置八幡神社』は、島津家によって建立された由緒正しき神社である。御祭神は「」の文字を諡(おくりな)として与えられた「応神(おうじん)天皇」や「神功(じんぐう)皇后」など。同神社は日置市に建立された52社の総鎮守(鎮守神)に指定されており、毎年9月から10月末頃になると、惟新入道や兵士の霊があたりをうろつくと噂されている。

先に述べた妙円寺詣りは、関ヶ原で討死した兵士たちへの鎮魂、そして、「徳川家への復讐を必ず成就させよ」という怨みが込められている。その怨みを「明治維新(徳川幕府滅亡)」として成就させたのが西郷隆盛や大久保利通である。なお、妙円寺詣り自体は別の場所で開催されているのだが、9月頃になると、なぜか同神社に鎧を着た霊が現れるのだ。

霊が現れる理由は、同神社が島津家ゆかりの地のひとつであり、かつ、総鎮守に指定されているため、と地元民は考えている。島津惟新入道ならびに関ヶ原で討死した家臣や兵士たちの怨みは、明治維新によって成就された。しかし、今だに彼らの霊が同地周辺を彷徨っているということは、”何かしらの意思表示”を行っているのかもしれない。

私は同神社で鎧武者の霊に幾度となく遭遇したが、不穏な動きや呪いをかけるようなそぶりは一切見せなかった。毎回何も語らず、ただその場に立ち尽くし、槍と島津家の家紋が描かれたた”のぼり”を持っているだけである。

島津惟新入道、通称「鬼島津」は戦国時代を代表する猛将のひとり、”義”に熱く、”仁”を尊び、鬼と呼ばれながらも、親への”孝”を決して忘れなかったという。日置八幡神社は、「男の中の男」とその家臣たちに会える心霊スポットして人気を集めている。興味のある方は9月から10月頃に足を運ぶと良いだろう。

まとめ
日置八幡神社は知る人ぞ知る心霊スポット

同神社に現れる霊が島津惟新入道という証拠はない。ただし、島津家の”のぼり”を持っているため、同家に関連があることは間違いないだろう

基本情報
心霊スポット日置八幡神社
(ひおきはちまん)
所在地〒899-3101
鹿児島県日置市日吉町日置5390
種別怨霊
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト日置市 公式ホームページ

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小水の滝

いちき串木野市の山中に”幻の滝”と呼ばれる『小水(こみず)の滝』はある。同市の住民でもその存在を知る方は少なく、観光客が訪れることは極めてまれだったという。しかし、滝の近くで女性の霊を目撃した、女性の霊が赤ちゃんを滝つぼに捨てた、などのおぞましい噂が流れ、知る人ぞ知る危険心霊スポットとして注目を集めるようになった。

同滝周辺での事件、女性が身投げ(自殺)したと記録される資料は一切残されていない。しかし、戦国時代末期における「九州征伐(島津征伐)」時、同地周辺にあったとされる村で内乱が発生。女性や子供たちが強姦され、その場で斬首されたと言い伝えられていることが分かった。

斬首された女性や子供の遺体は、丁重に葬られることもなく、ひとつの穴にまとめて捨て置かれ、野生動物のエサになった。また、滝付近で強姦された女性もいたらしく、行為が終わった後、赤子と一緒に滝から身投げさせられ、死んだ。これらの残虐行為によって憤死した者たちは、まず間違いなく怨霊になる。

小水の滝周辺は足場が悪く草も伸び放題である。「冠岳展望公園」近くの”小水橋”からその全容を眺めることができるため、接近せず、観賞に徹した方が良いだろう。

私は懐中電灯の光を頼りに、橋と周辺一帯を捜索。滝には近づかず、登山装備フルセット、ヘルメット、鉄板入りの軍足、2週間は野宿できる食料などを準備し、最悪の事態に備えた。

戦国時代末期の残虐行為は、恐らく同地でも行われていたと私は思う。人を寄せ付けない何かが小水の滝周辺にいる。そして、怨霊になった女性や子供、赤子は一人二人ではない。周囲一帯が異様な雰囲気に包まれており、いつ怨霊に出くわしてもおかしくない状況である。

私が見たのは血だらけの状態で赤子を抱く女性の霊だった。髪は顔を覆うように垂れさがっており、表情は全く確認できない。赤子は微動だにせず、身投げしたことで死亡したものと思われる。写真を撮ろうとすると、女性が猛スピードで接近してきたため、矢も盾もたまらず全力で退散し、そのはずみでカメラを壊してしまった。

その後、写真撮影より供養に専念すべきだったと反省し、花と線香を持って再び小水橋まで移動。橋の中央に向かったものの、今度は霊に背後を取られ、退路を断たれてしまった。命の危険を感じたため、その場に花と線香を備え、周囲が明るくなるまで「成仏して下さい成仏して下さい・・・」と供養する羽目になった。

小水の滝周辺に近づく際は、それなりの覚悟と準備が必要である。安易な気持ちで近づくと大変な目に合うだろう。

まとめ
小水の滝周辺で行われた斬首および身投げ強要により、女性や子供、赤子は怨霊になった

滝周辺に近づく際は準備を怠らないこと。また、花や線香などの供養道具もお忘れなく

基本情報
心霊スポット小水の滝
(こみずのたき)
所在地〒896-0078
鹿児島県いちき串木野市生福
種別事故
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間15分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間
※クリックでGoogle map起動
関連サイトいきち串木野総合観光ガイド 公式ホームページ

照島神社

神社は「神を祀る社(やしろ)」であると同時に、「封じ込める」役目も担っている。この風習は飛鳥時代頃から始まり、「聖徳太子」が確立させたと考えられている。

封じ込める理由は、祀る者の”怨霊化”を防ぐためである。非業の死を遂げた者、暗殺された者、無実の罪を着せられ処刑された者、すなわち憤死した者たちは怨霊になる。憤死した者を祀り、神域に封印すれば怨霊化は防げる、と当時の人々は考えた。

出雲大社に祀られている「オオクニヌシ」は、日本史上最強レベルの怨霊神である。理由は割愛するが、それを神域に抑え込み封印したいがために、あれだけ巨大な本堂が建立されたのである。しかし、怨霊の恨みつらみは男女や身分によって大きさや強さが異なる、というものではない。

ここで紹介する「照島(てるしま)神社」は、いちき串木野市を代表する立派な神社である。御祭神は「大己貴命(オオナムチノミコト)」他、日本神話に登場する神たちを祀っている。本殿は照島という名の”浮島”に建立され、朱色の立派な橋を渡ることで簡単に上陸できる。

同神社はパワースポットとして人気を集める一方、霊の目撃情報も非常に多い。既に述べた通り、神社は人々に恐れられた者、怨霊になると考えられた者を封じ込める力を有しており、神社本体が立派(規模が大きく)になるほど、人々は祀られた者を恐れたと判断できるのだ。

同地で悲惨な事故があった、という記録は残されていない。なお、地元民曰わく「古くから伝わる言い伝えによると、海の神の怒りを抑えるために照島神社は建立された」らしい。ただし、同神社の建立年月は不明。それに関連する記録は一切残されておらず、正確な建立理由は誰にも分からないとのこと。

霊の目撃情報は様々。「照島と本土を結ぶ橋上で人魂を見た」「境内に数えきれないほどの生首が祀られていた」「10名ほどの男女が橋から海に飛び込んだものの、遺体はひとつも上がらなかった」など、霊の存在をイメージさせるものばかりである。

先日、同神社周辺を散策したが、不穏な気配に圧倒された。海の神の怒りを抑えるため、という点を念頭に置きつつ浮島の境内へ。案の定、光を放つ人魂のような物体がゆらゆら漂っていた。

結局、生首や怨霊と思われる”何か”には遭遇できなかった。しかし、同地周辺に何かが憑りついていることは確かだろう。なお、いちき串木野市に住む私の友人曰く、「照島神社で粗相を働いた者は、非業の死を遂げる。数十年前、同神社の施設を破壊したとされる数名の若者は、大型車と正面衝突事故を起こし、全員即死した。上半身を粉々に粉砕され、遺族ですら遺体と対面できなかった」とのこと。

まとめ
照島神社は立派な本堂と施設を有している。パワースポットとしても人気

事故や建立に関する記録は残されていない。しかし、同地に何かが憑りついていることは確かである

基本情報
心霊スポット照島神社
(てるしまじんじゃ)
所在地〒896-0032
鹿児島県いちき串木野市西島平町410
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間20分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約40分
※クリックでGoogle map起動
関連サイトいきち串木野総合観光ガイド 公式ホームページ

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鬼界カルデラ

九州本島の南海上に浮かぶ「硫黄島」は、知る人ぞ知る心霊スポットのメッカである。ただし、この島に霊が住み着いた理由は判然としない。なお、私は硫黄島とその東に浮かぶ「竹島」の間に形成された巨大海底火山噴火口「鬼界カルデラ」が関係していると勝手に思っている。

鬼界カルデラは海底深くに形成されており、その全容は謎に包まれている。ただし、巨大噴火口(縦18km、横25km)の概算サイズおよび、約7,300年前にカルデラ破局噴火を起こしたことは専門家の調査で判明している。

カルデラ破局噴火の痕跡は日本各地で発見されており、これによって九州の縄文文明は消滅したと考えられている。その規模は富士山や桜島の噴火とは比べ物にならず、噴煙と火山弾は成層圏を突破し宇宙に到達、灰の雲が地球を覆ったと予想する専門家もいる。

7,300年前の硫黄島に人が住んでいたか否かは誰にも分からない。ひとつ確かなことは、仮に島民がいたとしても、噴火で100%死滅したはず。生き残れたら奇跡である。

硫黄島には鬼界カルデラの”一部”、「硫黄岳」が隆起している。その周辺が有名な心霊スポットなのだが、現役バリバリの活火山なので、不用意に立ち入らないこと。噴火警戒レベルが上がると、麓にすら近づけない可能性もある。

硫黄島の島民は約150人、島の南西部に集落を形成している。硫黄岳の麓につながる道路を進むと、人が住んではいけないことを理解できるはず。ただし、火山が近いから危ないのではない。硫黄岳の麓近くには何かが住みついている。

硫黄岳の西に建立された「岳乃神(たけんかん)神社」は、藪に覆われ、ほとんど手入れもされず放置状態になっている。島民にお話を伺うも、正確な建立年は不明とのこと。大昔の大噴火で島民が大勢亡くなり、それを供養するために造られたとおっしゃる方もいたが、真偽は不明である。

数十年前、数名の男女グループが硫黄島に上陸した。彼らは東部エリアを散策し、数日後何事もなく島を離れたという。しかし、この男女をフェリー乗り場で見かけた者は一人もおらず、不安になった一部の住人が周辺を捜索するも、人の痕跡は見つけられず、「男女を見かけなかったのは偶然である」と結論づけられ、大きな騒動にはならなかった。

私が麓エリアを散策した際、硫黄岳中腹に向けて”行進”する男性3名女性3名のグループを偶然目撃した。ウォーキングというより、軍隊のように規律正しく尾根を上っていたと記憶している。なお、当時島に上陸していた観光客は私一人。フェリー乗り場近くの住人や旅館に確認したので、恐らく間違いないと思う。

まとめ
硫黄島の硫黄岳周辺は、知る人ぞ知る心霊スポット。ただし、麓に近づく際は、噴火警戒レベルや役場の発信する情報をチェックすること

鬼界カルデラの破局噴火で島民が死滅したか否かは誰にも分からない

基本情報
心霊スポット鬼界カルデラ
(きかいかるでら)
所在地〒890-0901
鹿児島県鹿児島郡三島村大字硫黄島
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
鹿児島空港から車とフェリーで約5時間
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②アクセス
鹿児島中央駅から車フェリーで約4時間30分
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関連サイト三島村 公式ホームページ

黒島平和公園

硫黄島の西に位置する「黒島(くろしま)」は、鹿児島郡三島村に属する離島である。知名度の高い観光スポットではないが、自然と海を満喫したい玄人バックパッカーから一定の支持を得ていることで知られる。なお、黒島にレンタカー店はない。島内を散策したい場合は、民宿にお願いして車を借りるもしくは持ち運びできる自転車を用意したい。

黒島の東部に整備された『黒島平和公園』は、ちょっとした心霊スポットになっている。第二次世界大戦末期、同島には九州本土を離陸した特攻隊の戦闘機が幾度となく不時着したという。彼らの標的は沖縄本土に上陸したアメリカ軍だった。

同公園内には、「平和祈念観音像」「平和の鐘」「鎮魂碑」「慰霊碑」などが設置されている。平和祈念観音像は、黒島に不時着した元特攻隊員の”江名氏”が2004年に建立したものである。

黒島および近海に不時着した隊員の多くが命を落としたと考えられている。海に不時着すればまず助からないし、着陸できるスペースを発見できなければ、墜落、死ぬ。運よく生き残った一部の隊員は、島民の加護を受け、幸運にも終戦を迎えることができたのである。

私は黒島平和公園で特攻隊員と思われる若い男性の霊を目撃した。しかし、霊は海に目をやり、怒りや怨みつらみは一切感じなかった。

特攻隊員の多くが現世に悔いを残し命を落とした。黒島周辺に不時着し助からなかった者たちも同じであろう。しかし、怨みより”悔い(後悔)”の気持ちを持った者が多かったことで、現世にとどまった霊たちは、島民の供養に心を洗われ、成仏したと私は信じている。島民たちは戦死者供養の慰霊祭を毎年欠かさず開催しており、さらに、彼らの死を悼む鎮魂碑や慰霊碑はものすごく大切にしているのだ。

霊から怒りや怨みの念は感じられなかったものの、彼らは何かを訴えており、それが成就しないため、同地にとどまっていると私は推察する。平和祈念観音像にお花と線香、お菓子を備えると、若い男性の霊は消えてしまった。

黒島を訪れる予定のある方は、戦死した特攻隊員への供養とお供えを準備しておきたい。なお、私が特攻隊員と思われる霊に遭遇したのは日中だった。夜は真っ暗(街灯はほとんどない)で何も見えず、野生動物に出くわす可能性もあるため、明るい時間に立ち寄って方が良いだろう。

まとめ
黒島平和公園は、戦争で命を落とした特攻隊員および全日本国民の安寧を祈って整備された

霊の目撃情報多数。しかし、私が見た限り、怒りや怨み、悪意は全く感じられなかった

基本情報
心霊スポット黒島平和公園
(くろしまへいわこうえん)
所在地〒890-0902
鹿児島県鹿児島郡三島村大字黒島
種別戦争
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
鹿児島空港から車とフェリーで約6時間30分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車とフェリーで約6時間
※クリックでGoogle map起動
関連サイト三島村 公式ホームページ

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平和祈念展望台

枕崎市南部に整備された『平和祈念展望台』は、霊を呼び寄せる心霊スポットである。ただし、同地に集まる霊を目撃した時、怒りや恨みつらみは一切感じなかった。私は綺麗に整備され手入れの行き届いた広場、死者を供養する数々の慰霊碑や記念碑、毎年欠かさず開催される慰霊祭の場に、彼らが”自主的に”集まってくるのではないかと思っている。

平和祈念展望台から南南西約200kmの地点に、あの「戦艦大和」が沈んでいる。この事実は1985年の海底調査で判明し、同市および商工会、市民団体が協力して同展望台を平和の象徴兼供養所として整備、現在に至る。

アメリカ軍に粉砕された戦艦大和の乗組員たちは、今も海の底に取り残されたままである。彼らは満足したうえで、死を受け入れたのだろうか。恐らく、そうは思わない、という方が大多数を占めるはず。乗組員の大半は本土に家族を残していた。無事帰還したいと考えない方がおかしい。

海に沈んだ彼らの魂は行き場を求め、さまよう。無謀な戦争へと突き進み、日本を滅ぼした大日本帝国軍に怨みを持った者たちは怨霊になったはずだ。数千人分の怒り、悲しみ、恨みつらみが沈没地点および周辺地域をさまっている、と考えただけで恐ろしい。

平和記念展望台が建立される以前、鹿児島県は台風の被害に悩まされていた。1993年の「台風13号(8・6水害)」では、70人以上が死亡している。しかし、2005年に同展望台が建立されて以降、同県は台風による大きな被害を受けずに済んでいる。

大半の方は、「偶然」「防災意識が高まったおかげ」「ダムや河川堤防が増強されたから」と考えるはず。しかし、台風は毎年発生し、鹿児島県近くを通過するものの、風雨が酷くなることは極めて稀である。もちろん、被害がゼロになったわけではない。

地球を襲う自然災害の発生メカニズムは、ほぼすべて解明されていると言ってもよいが、私は、それらの”一部”が怨霊の力によってもたらされていると信じている。平和祈念展望台を建立し、命を落とした乗組員に深い哀悼の意を表した結果、怨霊の一部は成仏し、鹿児島県に接近”させられていた”台風は進路を変えたのである。

怨霊と自然災害の因果関係を証明することは誰にもできない。しかし、「怨霊と自然災害は一切関係ない」と証明することも、今の地球の科学力では絶対できない。死者を供養する行為は尊い。それで怨霊が怒りを鎮めてくれるかは分からないが、「やるに越したことはない」だろう。

まとめ
平和祈念展望台は、平和の象徴兼供養所として建立された

同展望台で目撃した霊から、怒りや恨みつらみは感じられなかった。彼らは、慰霊碑や記念碑の周りに集まり、供養されることを願っているのかもしれない

基本情報
心霊スポット平和祈念展望台
(へいわきねんてんぼうだい)
所在地〒898-0049
鹿児島県枕崎市火之神岬町
種別戦争
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間35分
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鹿児島中央駅から車で約1時間15分
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関連サイト枕崎市 公式ホームページ

南方神社

鹿児島県には『南方(みなみかた)神社』という名の神社が複数存在する。ここでは、知る人ず知る心霊スポットになった枕崎市鹿篭麓町(かごふもとまち)の同神社を紹介しよう。

枕崎市の南方神社は、島津家によって現在の地に移されたと言い伝えられている。また、移設前は”諏訪神社”と呼ばれていたものの、御祭神を”事代主(ことしろぬし)”から”八坂刀売命(やさかとめのかみ)”にすげ替え、それに伴い社名も変更した。

同神社の入口に建立された「並列鳥居」は、全国的にも非常に珍しい奇怪な門である。私はこの並列鳥居が同神社を心霊スポットに変えたと確信している。なお、心霊は昼夜を問わず出現し、人魂や白装束(死に装束)を着た女子供が境内をうろついていた、という情報がもたらされている。

鳥居は現実世界と神域を隔てる門と考えられている。そして、鳥居としめ縄を組み合わせることで、神域一帯に結界を張り巡らし、怨霊や悪魔の侵入を防いでいるのだ。なお、神域から外に出ることは容易ではない。すなわち、本堂に祀られた御祭神自身も鳥居から外に出ることはできないのだ。

しかし、同神社の並列鳥居はそれを許してしまった。門を並んで建立したことにより、ひとつが入口、もう一つが出口になってしまったのだ。ふたつにはそれぞれしめ縄が設置されているものの、私が見た白装束の女子供は境内に向かって左側の鳥居から神域に侵入した。

もしかすると、白装束の女子供は神域への入場を許可されていたのかもしれない。しばらく物陰から伺っていると、今度は反対側の鳥居から首のない侍の霊が境内から外に出てきた。同神社を移設した島津家は、鳥居をふたつ並べれば神域を覆う結界の力が強まると考えたのかもしれない。しかし、結果は全く逆であった。

枕崎市に住む友人曰く、南方神社は「いわくだらけ」の危険スポットだと言う。まず、御祭神をすげ替える意味が分からない。すげ替えるのではなく、二体目の神を祀ればよいだけなのに、なぜ前任の神を捨て置いたのか。

さらに、同神社の境内で女子供が蹂躙、殺害され、それに抗議した侍複数名も斬首された、という伝説が一部の者たちの間で語り継がれてきたそうだ。乱世の治まった江戸時代初期に発生した事件らしいが、真偽は不明、記録も残されていない。しかし、私が見た首のない侍の霊がそれを暗示しているように思える。

良かれと思ってやったこと(御祭神のすげ替え、並列鳥居建立)が、同神社に霊を呼び寄せている。夜間に訪れると高確率でそれらの姿を確認できるので、興味のある方はチェックしてほしい。

まとめ
枕崎市の南方神社は、知る人ぞ知る心霊スポット

御祭神のすげ替えは、前任の神を冒涜する行為。また、並列鳥居建立も意味不明である

基本情報
心霊スポット南方神社
(みなみかたじんじゃ)
所在地〒898-0054
鹿児島県枕崎市鹿篭麓町398
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
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鹿児島空港から車で約1時間25分
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鹿児島中央駅から車で約1時間5分
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関連サイト鹿児島県観光サイト 公式ホームページ

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橋牟礼川遺跡

橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡』は、古代日本の歴史を証明した重要な史跡である。大正時代の調査によって、上層から弥生土器、下層から縄文土器が発掘された。これにより、弥生時代は縄文時代より新しいことが地層学的に初めて立証されたのである。

その後、同遺跡は”国の史跡”に指定され、「指宿橋牟礼川公園」として整備、一般開放され現在に至る。指宿市を代表する史跡は市民の憩いの場となり、そしてなぜか同市内に存在する心霊スポットのひとつにもなった。理由は目撃された霊から容易に想像できる。

まず、遺跡には当時の住人の魂が宿っており、当然墓もあった。もし、自分の住んでいた土地と墓が何者かに掘り返され、荒らされ、墓の内部まで調べられたら、私なら怒る。誰もが怒り狂い、最悪、死人の怨霊化を招く可能性もあるだろう。

恐らく、発掘調査前に清めの儀式などが行われたはず。しかし、それは一過性の儀式に過ぎず、時間が経てば皆忘れてしまう。さらに、公園として整備され不特定多数が遺跡(公園)を出入りするようになった。出入りする者の多くは、同地が「ご先祖様の墓」とは知らず、そこで飲み食いし、唾を吐き、トイレで糞便を垂れる。

そこで死んだ者たちは、己の墓を掘り返され、さらに糞便置き場にされた今の現状をどう思うだろうか。霊を目撃した者は、唾を吐いたりゴミを投棄した直後に背後から襲撃されている。事なきを得たからよいものの、呪い殺されてもおかしくない愚行に対し、縄文もしくは弥生時代の霊は怒ったのだ。

さらに、第二次世界大戦末期の「鹿児島大空襲」によって、同公園および周辺でも多数の死者が出た。命を落とした者たちは、爆風や炎に包まれ、突然の死を理解できていないこともある。防空頭巾をかぶった幼児、身体の半分が損壊した霊の目撃情報がこの事実を物語っている。

同公園内および周辺には、死者を祀る神社や祠(ほこら)、慰霊碑すらない。なお、慰霊碑は別の地に建立されているが、同地で死んだ者を供養したことには当然ならない。結果、大昔のご先祖様たちと戦争で亡くなった者がダブルで出現する危険な心霊スポットになったのである。

人様の墓や住居跡(遺跡)を掘り起こすのであれば、それ相応の対価(神社の建立など)を提しなければならない。戦争被害者に対する供養も同じである。それを放置すれば、侵入者を呪い殺す怨霊たちの住処になってしまう可能性すらあるだろう。

まとめ
橋牟礼川遺跡に眠る者たちは、発掘調査や無礼な振る舞いに怒っている

いかなる理由をこしらえようと、墓を掘り返されれば誰でも怒る。それ相応の対価(神社の建立など)を提供しなければ、彼らは決して納得しないだろう

基本情報
心霊スポット橋牟礼川遺跡
(はしむれがわいせき)
所在地〒891-0403
鹿児島県指宿市十二町2316-2
種別戦争
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
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鰻池

指宿市の中央部に位置する『鰻池(うなぎいけ)』は、5,000年ほど前の火山活動によって形成された池(湖)である。その名の通り、”ウナギ”が捕れることで知られ、大正時代から養殖場にもなっていたが、後継者の問題等をクリアできず、漁は1996年に終了した。

池の地下深くでは今も火山活動が継続していると考えられており、湖畔周辺から湧き出る温泉を利用した「鰻池温泉街」は、鹿児島の英雄、西郷隆盛が利用したことで一躍有名になった。

現在鰻池は、景勝地兼心霊スポットとして人気を集めている。主な目撃情報は、「湖畔近くに立っていた者がそのまま池に飛び込み姿を消した」「子供を抱いた着物姿の女性が身を投げた」など。

同池に関連する事故情報は、インターネットや新聞等には掲載されていない。しかし、周辺住人(老婆)にお話を伺ったところ、「第二次世界大戦末期、鰻池に身を投げた者が複数いた。ただし、地元の者ではなく、遺体が捜索されることもなかった」という事実が判明した。

さらに、自殺者と思われる者の立ち入りが頻繁に確認されるも、漁師たちが遺体を見つけたことは一度たりともなかったという。終戦後、鰻池での漁獲量が右肩上がりで増加し、それらの話はいつの間にか忘れ去られてしまったようだ。

同池で獲れるウナギは脂がのり、サイズもかなり大きく、そして美味しかったらしい。ある漁業関係者の話によると、ウナギをさばいた際、その体内から人間の指と思われる小さな骨が発見されたという。真偽は不明だが、身を投げた者の血と肉がウナギやプランクトンのエサとなり、豊漁をもたらしたという話も言い伝えられている。

ひとりで同地に足を運び、遺書も残さず身を投げてしまえば、そこで自殺があったということに気づく者は恐らくいない。富士の樹海(青木ヶ原)での首つりと同じである。そして、自殺者の多くは現世に不満を抱いている。深い怨みを抱いていた者がいてもおかしくない。つまり、自殺者の一部は怨霊になる可能性を秘めているのだ。

鰻池での遊泳や水遊びは禁止されている。淡水であり、身体が浮きにくいため危険とされているのだが、私に情報提供してくれた老婆は、「池の底から複数の手に絡めとられ、二度と浮き上がってこられない。死体も当然見つからない」と教えてくれた。

まとめ
第二次世界大戦末期、複数名が鰻池で自殺した。しかし、遺体が発見されたことは一度もなかった

鰻池のウナギは自殺者の血肉で成長した、という話の真偽は不明。ただし、タンパク質がプランクトンのエサになることは事実である

基本情報
心霊スポット鰻池
(うなぎいけ)
所在地〒891-0516
鹿児島県指宿市山川成川
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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別府城跡

”壇ノ浦の戦い”で滅んだ「平家」に関連する心霊スポットは、危険なものが多い。歴代最悪の怨霊のひとり「平将門(たいらのまさかど)」の遺構(墓所、首塚など)がその代表である。また、源氏との戦に敗れ落ち延びた者(女、子供、武将など)が処刑された地もかなり危険、怨霊がそこら中にうごめいている。

南さつま市加世田にある『別府城(べっぷじょう)跡』も、実は平家に関連する遺構のひとつ、同市を代表する心霊スポットである。ただし、平家とつながりのある「薩摩平氏(へいし)」の武将、別府氏がそれを建設したとされ、同氏は鎌倉幕府の創始者「源頼朝」とは別の時代の人間である。

同地で目撃される霊は、「鎧武者」「首」「切り刻まれた女性と思われる遺体」など。なお、薩摩平氏も他の平家と同じく滅亡の憂き目にあっているが、これは島津家に臣従(しんじゅう)し、のちに”お家取り壊し”になったものであり、皆殺しにされたわけではない。

それでも別府城跡におどろおどろしい霊が出現する理由は、恐らく源氏への怨みがDNAレベルで彼らの身体に染みついていたため、と考えられる。私は同城跡を夜中に散策し、人間の四肢が浮遊している様子を目撃した。

鎌倉、室町、南北朝時代にこの地で幾度となく戦が繰り広げられたことは確かである。同地周辺には、それらの死者などを祀る「別府神社」「佐岐比佐(さきひさ)神社」「護国神社」「竹田神社」が現存しており、霊の怨みつらみを抑え込むべく、供養や慰霊を目的とした催しも開催されている。しかし、それでも別府氏関連と思われる霊は出現するのだ。

同城跡は公園として整備され、当時の面影はほとんど残っていない。石垣や本丸跡地なども軒並み整地され、初めて訪れた方は、ここに城があったとは到底思わない。ただし、私のように霊を感じやすい方は、同地に今もはびこる「平家の呪い」を肌で感じとることができるだろう。

平家滅亡の原因を作った「平清盛」は、”保元の乱”で敗れた源氏の嫡男(長男)、当時まだ幼かった源頼朝を生かした。そして、頼朝は恩を仇で返し、鎌倉幕府成立に至った。”血で血を洗う争い”に恩も仇もないのだが、平家の源氏に対する怨みが海より深かったことは容易に想像できるはず。

別府城跡に出現する霊が平家に関連するものか否かは誰にも分からない。ただし、何も知らずにうかうか近づいてよい場所でないことは確かだ。今でこそ公園として一般開放されているが、戦や薩摩平氏の歴史を知っている方は、同地で遊ぼうという気持ちには決してならないと思う。

まとめ
南さつま市の別府城跡は、薩摩平氏に関連する遺構である

源氏に滅ぼされた平家の怨みは海より深い。平家関連の遺構に立ち寄る際は、怨霊の呪いに注意すること

基本情報
心霊スポット別府城跡
(べっぷじょうせき)
所在地〒897-0002
鹿児島県南さつま市加世田武田
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
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関連サイト鹿児島県観光サイト 公式ホームページ

旧陸軍万世飛行場裏門跡

第二次世界大戦時、鹿児島県には陸海軍基地およびそれに関連する飛行場が複数個所に分散整備されていた。南さつま市加世田の「万世(ばんせい)飛行場」もそのひとつである。

ここで紹介する『旧陸軍万世飛行場裏門跡』は、同市を代表する心霊スポットである。ただし、怨霊や呪い系ではなく、戦地に赴き死亡した若者の霊が慰めを求めて現れる”慰霊所”と言った方がよいかもしれない。

万世飛行場のあったエリアには、「吹上浜海浜公園」と「鹿児島県立薩南病院」が整備され、当時の面影はほとんど残っていない。しかし、同公園の松林では霊の目撃情報が相次いでおり、「若い少年たちが行進していた」「プロペラ機の離陸音を聞いた」などの不穏な情報がいくつももたらされている。

同飛行場は神風特攻隊の訓練所兼発進基地だった。ここで片道分の燃料を補給し、沖縄などの戦地に向け飛行、彼らが飛行場に戻ってくることはなかったのである。しかし、彼らの魂は同地に戻ってきたと考えられており、特攻隊員たちを供養する慰霊碑、神社、祠(ほこら)などが建立された。

死者は「忘れられる」ことを何より恐れる。恨みつらみによって怨霊になった者たちも同様、皆、「私のことを決して忘れるな」という強い想いを持っている。その結果、霊となって現世に姿を現すのである。

万世飛行場周辺に整備された慰霊碑、「平和記念館」や神社などで催される供養、それに関連するイベントは、特攻隊員への敬意と悲しい記憶を後世に伝える目的を有している。同地に戻ってきた霊は、その様子を見てどう思うだろうか。

恐らく、「皆に覚えてもらっている」「嬉しい」と思うはず。望まぬ死の影響で怨霊になってしまった特攻隊員も、南さつま市民に怒りや怨みの感情をぶつけることはまずない、と私は思う。

最後に、怨霊に関連する施設を探索する際は、花や線香だけでなく、掃除道具なども持参してほしい。墓の持ち主が怨霊になったと考えられていれば、掃除し墓石を磨いてあげる。それらの善行(恩)に対し、怨霊が呪い(仇)で返すことはまずない、と私は信じている。運が良ければ霊に会えるだけでなく、成仏を促すことができるかもしれない。

まとめ
万世飛行場および裏門跡地周辺は、南さつま市を代表する心霊スポットである

飛行場周辺には、神風特攻隊を祀るもしくは供養する施設(慰霊碑、供養所、神社など)が建立された

基本情報
心霊スポット旧陸軍万世飛行場裏門跡
(きゅうりくぐんばんせいひこうじょううらもんあと)
所在地〒897-1123
鹿児島県南さつま市加世田高橋1968-4
種別戦争
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間10分
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②アクセス
鹿児島中央駅から車で約45分
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関連サイト南さつま市観光協会 公式ホームページ

まとめ

今回は鹿児島市他5市1郡の最恐心霊スポット14カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

怨霊になった者を慰めることは非常に難しい。そして、彼らのテリトリーに不用意に立ち入ると、呪われたり、不幸に見舞われる可能性も十分あり得る。今回紹介した施設を探索しようと考えている方は、自己責任、自己完結を徹底してほしい。

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