怪談話や肝試しといえば夏だが、霊には季節も気候も時間もコロナウイルスも関係ない。
そこに巣くう霊や怨霊は秋の涼しい時期になっても、出る。すなわち、心霊スポット探索は年中楽しめる(?)のである。
ただし、9月に入ると日の入りが一気に早まる。薄暗くなると、思いもよらぬトラブル(遭難、滑落、墜落、職質される、殺人鬼に出くわすなど)に遭遇する可能性があるため、時間に余裕を持って行動してほしい。また、懐中電灯などの探索グッズもお忘れなく。
今回は筑後市他、4市2郡の最恐心霊スポット12カ所(PART4)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.筑後市
・四ケ所の石祠
・古島農村公園
2.八女市
・竹谷隧道
・サロジ池
3.築上郡
・城井ノ上城址
・萱切隧道
4.京都郡
・恩塚古墳
・菅原神社
5.豊前市
・凱旋池
・岩洞窟
6.行橋市
・御所ヶ谷神籠石
・姥ヶ懐
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四ケ所の石祠
筑後市と三潴(みずま)郡との境界、クリーク沿いに建立された『四ケ所の石祠(しかしょのせきし)』は、謎に包まれた歴史遺構と呼ばれている。
建立年、建立者、建立理由はいずれも不明。クリーク沿いにポツンと建つ姿がどこか物悲しく、初めてそれを見た者は、間違いなく不安な気持ちにさせられるはずだ。
神を祀る「石の祠(ほこら)」およびその周辺周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「祠の周囲に遺体が放置されていた」「クリークから男と思われる黒焦げの人間が這い出てきた」など。
筑後市および筑後国の歴史を研究する某大学准教授のI氏にお話を伺った。I氏曰わく、「筑後市の四ケ所地区には奇怪な伝承が残されているものの、それを知る者は非常に少ない。ここで数百年前に発生した悲惨な事件はタブー視され、後世に伝えるべきではないと考えられた」という。
1837年、同地一帯を治めていた久留米藩は、古くから伝わる「疱瘡(ほうそう)」とよく似た疫病に悩まされていた。
I氏の伝承資料によると、それに感染した者の半数以上は死亡し、何とか生き残った者も、全身に酷い痘痕(あばた)が残り、かつ、視力や聴力を失ってしまうことが多かったという。
この病の恐ろしい点は、感染力の高さだった。罹患者に触れれば健康な者でも一気に体調を崩し、食器などをシェアすることも危険と噂されたのである。
そして、感染した者は致命的なレベルの差別を受けた。なお、大半の患者は集落から追放されたが、これはマシなケースと言える。
一部の患者は病原菌扱いされ、役人に連行された挙句、不衛生な小屋に押し込まれ、病死。患者たちに食料や水は一切与えられず、そこに連行されれば100%助からないと噂された。
当時、四ケ所地区周辺に集落はなく、クリークと荒れ地だけが広がっていた。
疱瘡の大流行に悩まされていた繁華街の長、庄屋の「鎌田氏」は、役所に相談、許可を得たうえで、四ケ所地区に専用墓地を築造することになった。
鎌田氏は荒れ地に巨大な穴を掘り、遺体を遺棄しようと考えた。しかし、疱瘡の影響で働き手が足りず、穴掘りは困難を極めた。
苦心する鎌田氏の様子を見た友人たちは、「患者に穴を掘らせればよい」と提案。この案は採用され、友人たちは取り締まりを開始した。
武装した男たちは患者に槍や火縄銃を突きつけ、「四ケ所地区での穴掘り」を強制した。こうして、広大な荒れ地の真ん中に、直径30m、最大深さ30mほどのおわん型の死体遺棄施設が完成したのである。
鎌田氏は繁華街および周辺地域に「疱瘡で死亡した者の遺体もしくは”患者”を四ケ所地区に持ち込めば、まとめて処理できる」と御触れを出した。
そこに運び込まれた遺体と患者は500人を超えた。しかし、巨大なおわん型の穴はそれを軽々と飲み込んだ。
鎌田氏と友人たちは、遺体と患者の頭上に枯れ葉、枯れ枝、松ぼっくりを大量に投棄し、油を注いだ。
この時、穴の中に突き落とされた患者の数は約100人。彼らは生き残る可能性があったにも関わらず、遺体と共に焼かれ、ひとり残らず死んだ。
おわん型の穴は想像以上にうまく機能した。患者たちはそこから這い出ようとしたが、急傾斜に阻まれ脱出できない。そして、炭になった遺体の肉片および骨はズリズリと斜面を滑り落ち、底に溜まったのである。
鎌田氏と友人たちが考案した処刑は計9回実施され、処理された遺体と患者は3,000人超と記録されている。その後、別の地区にも同じような穴が掘られ、疱瘡の遺体と患者の処理は各地で行われるようになった。
四ケ所の石祠は、そこで処理された3,000人超の死者を祀るために建立された。なお、巨大なおわん型の穴は肉片および骨で埋め尽くされたため、1mほど土を盛られ、「遺体処理場跡」と呼ばれるようになった。
<まとめ>
◎四ケ所の石祠は、そこで処理された3,000人超の疱瘡患者を祀るために建立された。
◎患者たちは生き残る可能背があったにも関わらず、生きたまま焼かれ、憤死した。
基本情報 | |
心霊スポット | 四ケ所の石祠 (しかしょのせきし) |
所在地 | 〒833-0045 福岡県筑後市大字四ケ所 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間30分 【高速】福岡空港から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間35分 【高速】博多駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 筑後市観光協会 公式ホームページ |
古島農村公園
筑後市中西部、古島(こじま)地区には、「壇ノ浦の戦い(1185年)」で源頼朝率いる武士連合軍に敗れ九州各地に落ち延びた「平家一族」の伝承が残されている。
ここで紹介する『古島農村公園』は、知る人ぞ知る心霊スポットとして人気を集めている。しかし、ここに霊が出没する理由を知る者は少ない。
同園でこれまでに目撃された霊は、「血だらけの男に追いかけられた」「園の端に生首が並べられていた」など。
筑後市で生まれ育ち、同地に関連する貴重な伝承資料を保管するS氏曰わく、「古島農村公園の整備された地点には、小さな村があったと言い伝えられている。しかし、その村はある事件後に消滅。その後、同地には怨霊が巣くっていると噂されるようになった」という。
1732年、西日本はウンカ(イネの害虫)の影響で壊滅的な飢饉に見舞われていた。
筑後国中西部の農村地帯は米の一大生産地だった。しかし、ウンカの影響で稲はことごとく枯れ、その年の石高は例年の50分の1以下にまで減少。貧しい農家は、税金どころか明日食べる食料すら確保できない状態に陥っていた。
古島地区、「大川村」の住人たちは、米と野生動物の狩猟で生計を立てており、ウンカの影響を強く受けた。しかし、彼らはイノシシ、シカ、タヌキなどの狩猟技術に長けており、その皮や骨を加工して作った品は高値で取引されていたという。
大川村の住人たちは、周辺の雑木林に潜む巨大なイノシシを軽々と狩り、その肉や内臓をひとつも無駄にせず皆で分け合った。さらに皮や骨で作った加工品を繁華街に持ち込み販売、その収益で希少な野菜などを購入することに成功した。
一方、他の集落の者たちは、大川村の技術(動物の皮を剥ぎ取り加工する)を嘲笑し、「穢多(えた)族」と差別していた。そして、彼らがその技術で飢餓を乗り切っていると聞くと、今度は酷くうらやんだのである。
周辺集落の者たちは、大川村に「野生動物の肉を配布すべき」と提案した。しかし、不当な差別を受けてきた住人たちは当然この提案を受け入れず、両陣営は激しく対立することになった。
大川村の住人、約50名は、野生動物の肉だけでなく、雑草や昆虫なども一緒に食べ、何とか飢えをしのいでいた。つまり、他の集落に食料を分け与える余裕は全くなかったのである。
対立から数日後、周辺集落の住人は、血気盛んな男たちを数十名招集し、大川村から力ずくで食料を奪うと決めた。
夜、血気盛んな男たちは斧や刀で武装し、大川村に潜入。成人男性と女性を片っ端から斬り捨て、老人、子供、そして赤子は捕縛した。
生存者たちは村の大切な働き手を失い、絶望した。そして、「ここに食料は一切なく、それを生み出す狩猟技術も失われてしまった」と侵略者たちに告げた。
武装した男たちは老人の言葉を信じず、「食料と金の在処を白状しなければ、子供と赤子から殺す」と脅迫した。が、老人たちは申し出を却下、「渡すものなどない」と吐き捨てた。
武装した男たちは、子供と赤子の頭をひとり残らず斧で真っ二つに叩き割った。
これを見た老人たちは決死の覚悟で男たちにとびかかった。しかし、捕縛された状態の老人たちが武器を持った集団に敵うはずもなく、再拘束されてしまった。
その後、老人たちは四肢と首を切れ味の悪いノコギリで1本ずつ切り落とされ、憤死した。
男たちは計53名分の遺体を村の外れに放置、野生動物のエサにしたという。以来、大川村跡地は怨霊の住処になったと噂され、殺された住人と思われる霊が目撃されるようになった。
<まとめ>
◎古島農村公園は怨霊のホットスポット。大川村の住人と思われる霊が頻繁に目撃されている。
◎大川村の住人たちは不当な差別を受けた挙句、残酷な方法で処刑され、怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 古島農村公園 (こじまのうそんこうえん) |
所在地 | 〒833-0035 福岡県筑後市古島186 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間40分 【高速】福岡空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間40分 【高速】博多駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 筑後市 公式ホームページ |
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竹谷隧道
八女市を縦横断する国道442号線の途中に『竹谷隧道(たけたにずいどう)』という50mほどのトンネルがある。
これは1958年に運用を開始したもので、これといった特徴のあるトンネルではない。しかし、運用開始直後から霊が出没すると噂になり、事故が多発したこともあるという。
これまでに目撃された霊は、「車道の真ん中に赤子を抱いた女性が立っていた」「トンネルの側壁から人間が這い出てきた」など。
私は九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏に連れられ、同地の伝承を受け継ぐ老夫婦にお会いした。
M氏曰わく、「竹谷隧道とその北に位置する松瀬ダムの間には小さな集落があった。そこで生活していた住人たちは、全員隠れキリシタンだったと言い伝えられている。彼らは酷く惨い方法で処刑され、以来、同地は呪われた土地と呼ばれるようになった」という。
1638年、島原・天草地方で発生した「島原の乱」は終結し、九州各地で本格的な隠れキリシタン狩りが始まった。
筑後国内でも隠れキリシタンへの取り締まりが一斉に強化された。なお、久留米藩藩主の有馬氏は、それに関連する有益な情報を提供した者に金一封を与えると御触れを出し、領民たちと共に隠れキリシタン狩りを行っていた。
筑後国の山中、大淵(おおぶち)と呼ばれる地域の外れに、「滝浪(たきなみ)集落」と呼ばれる人口20名ほどの小さな村があった。
そこで生活する住人たちは全員隠れキリシタンだった。が、信仰する宗教を上手く偽り、キリスト教に関連する品や施設を表に出すことは決してなかった。
住人たちは島原の乱が終結したという噂を聞き、筑後国内に逃げ込んだ信者を保護したいと考えた。
隠れキリシタンたちは、禁教令(1613年)発布以来、厳しい取り締まりを受け、筑後国内でも数百名が改宗を強制、従わぬ者は処刑された。
そして、島原の乱終結後。「キリスト教は危険極まりない邪教」と決めつけられ、国内で捕縛された者はひとり残らず処刑することが決まったのである。
滝浪集落の住人たちは秘密裏に行動していたつもりだった。しかし、筑後国内では久留米藩と共に徳川幕府の精鋭部隊が取り締まりを行っており、不審者の行動はほぼ筒抜け状態だったと思われる。
幕府の精鋭部隊は、山間部で不審者たちを発見した。しかし、その場でひっ捕らえるのではなく、限界まで泳がせ、アジトもしくは悪事を働く直前に攻撃すべきと判断し、尾行を開始した。
この作戦は見事に成功した。不審者たちは山間部のとある一角で数十名規模の集団と合流。進んできた道を戻り始めたのである。
滝並集落から隠れキリシタンの保護に向かった住人10名および合流したばかりの男女33名は、幕府軍に捕縛された。
その後、幕府軍は滝浪集落を急襲し、残りの住人をひとり残らず捕縛。隠れキリシタン計53名は滝浪集落の外れで過酷な拷問処刑を受けた。
幕府軍は人間一人がスッポリ収まるサイズの窯と足場をセッティングし、薪で湯を沸かした。
幕府軍は隠れキリシタンの両手足をロープで固縛。長いロープを使って足場に吊るし、ボコボコと湯が沸き立つ窯の中に足からゆっくり落とした。
隠れキリシタンたちは、100度近い熱湯の中に首まで落とされ、1分持たずに死んだ。その後、「釜茹で」で処理された計53名の遺体は、滝浪集落の敷地中央部に積み上げられたという。
幕府軍は遺体の供養を許可せず、「骨が朽ち果てるまで放置せよ」と指示を出した。
以来、竹谷隧道とその周辺は呪われた土地と呼ばれるようになり、霊の目撃情報が相次ぐようになったのである。
<まとめ>
◎竹谷隧道の近くには、滝浪集落という隠れキリシタンの村があった。
◎滝浪集落の住人および彼らが保護した33名は、ひとり残らず釜茹での刑に処され、憤死した。
基本情報 | |
心霊スポット | 竹谷隧道 (たけたにずいどう) |
所在地 | 〒834-1202 福岡県八女市黒木町大淵 |
種別 | 事故怨霊戦争 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約2時間10分 【高速】福岡空港から約1時間20分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約2時間20分 【高速】博多駅から約1時間30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 八女市観光オフィシャルサイト |
サロジ池
『サロジ池』は、八女市の山中、標高235m地点に位置する小さな天然の溜池である。なお、池のすぐ向かいに「サロジ池キャンプ場」という名のコテージがあるものの、現在は運用されておらず、空き家状態で放置されている。
サロジ池は周辺住人からも「謎のスポット」と呼ばれており、築造年、築造者、築造目的はいずれも不明だという。そして、それらの記録が後世に伝わらなかった本当の理由を知る者は非常に少ない。
八女市上陽町(じょうようちょう)で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を受け継ぐY氏にお話を伺った。曰わく、「サロジ池は、200年ほど前に偶然形成されたと言い伝えられている。なお、この池にはある秘密があり、何があろうと外部に漏らしてはいけない、と決められていた」という。
1818年、筑後国上妻(かみつま)郡の繁華街エリアで謎の疫病が蔓延し、久留米藩は対応に苦慮していた。
この病に感染すると、全身の皮膚がボコボコに腫れあがったという。さらに、重症化すると、皮膚表面の膿から白い汁が噴き出し、猛烈な倦怠感の後、大半の者が死亡した。
なお、患者の肌や膿を扱う医師に感染しなかったことから、感染源不明の病と恐れられた。
上妻郡の山間部、雑木林と田畑に囲まれた「木田集落」でも、住人の一部が繁華街エリアで発生した謎の疫病に感染し、大騒ぎになっていた。
同集落では昨年に疱瘡(ほうそう)が大流行しかけたものの、何とか抑え込むことに成功した。が、またしても謎の疫病の侵入を許し、住人たちは大きなショックを受けた。
さらに、Y氏の伝承資料によると、木田集落で発生した疫病は繁華街のそれとは明らかに異なり、人から人にうつり、感染者が一気に増加したという。
当初、同集落内で謎の疫病に感染した者は2名だった。しかし、1週間後には6名に増加。1カ月過ぎた頃には、全住人の4分の1にあたる50名が半死半生状態に追いやられた。
村長は繁華街エリアの役所に感染が拡大しつつあることを報告した。しかし、役人の一部も罹患し、無事な者たちは繁華街の治安維持に忙殺されていたため、小さな集落の申し出に対応する余裕はなかった。
木田集落の住人たちは、昨年流行しかけた疱瘡の対処と同じく、「自分たちの力だけで」疫病を抑え込むと決断した。
住人たちは集落の外れに深さ10mほどの大きな穴を掘り、そこに材木、枯れ葉、枯れ枝、松ぼっくりなどの燃えやすいものを敷き詰めた。なお、木田集落の感染者数は70名に増加し、うち20名が10歳以下だったという。
数日後、住人たちは感染者を集落の外れに移送した。なお、歩行可能な患者はそこまで歩いてもらい、70名を一カ所に集めた。
この時、別動隊30名が近くの物陰から感染者に照準を合わせていた。そして、村長の合図と同時に火縄銃30丁が火を噴いたのである。
別動隊は慣れた手つきで次の弾を込め、今度は物陰ではなく感染者の目の前まで移動、引き金を引いた。
歩くことのできた感染者は、弾丸の雨にさらされ、死亡。さらに、半死半生状態で横たわっていた者は、至近距離から致命的な一撃を受け、即死した。
住人たちは血だるまになった遺体を穴の中に遺棄し、火を放った。
疫病を患った70名はひとり残らず射殺、跡形もなく焼き尽くされ、大きな穴は埋め戻された。
数年後、遺体を遺棄した穴の周辺で地盤沈下が発生。近くの水源から水が流入し、サロジ池が形成されたという。
<まとめ>
◎サロジ池は、原因不明の地盤沈下によって形成されたと言い伝えられている。
◎謎の疫病に感染した70名は、仲間たちに裏切られ、射殺。怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | サロジ池 (さろじいけ) |
所在地 | 〒834-1101 福岡県八女市上陽町上横山 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間50分 【高速】福岡空港から約1時間25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約2時間 【高速】博多駅から約1時間30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 八女市 公式ホームページ |
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城井ノ上城址
築上郡の山中、二級河川「城井川(きいがわ)」の上流域近くに『城井ノ上城址(きいのこじょうし)』と呼ばれる山城跡がある。
この城は豊前国(大分県)の大名、宇都宮氏が建立し、天下の名将「黒田如水(官兵衛)」も攻め切ることができなかったと言い伝えられている。なお、当時は「城井谷城(きいだにじょう)」と呼ばれていた。
同地およびその麓に位置する城井川周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「鎧武者に追いかけられた」「林道に生首が並べられていた」など。
築上郡築上町で生まれ育ち、貴重な伝承資料を保管するA氏にお話を伺った。A氏曰わく、「城井谷城は戦国時代末期に破却され、以来、200年以上放置された。そこにたどり着くのがあまりに大変だったため、豊後国を治めた歴代藩主たちも存在自体を忘れていたようである。しかし、ある事件により、城井谷城は改めて難攻不落の城であることを証明し、そして、その怖さを思い出させてくれた」という。
1800年、豊前国の北部地域を治めていた中津藩は、城井川上流域およびその周辺で発生した役人襲撃事件を調査していた。
役人を襲撃した者の正体は不明。早朝に遺体を発見した住人は、「一晩中自宅にいたが、それらしい物音や言い争う声は聞こえなかった」と証言した。
襲撃は主に城井川上流域周辺で行われていた。その後、容疑者は身を隠しやすい山の中で犯行を繰り返していると結論付けられ、大規模な山狩りが実施された。
数日後、犯人につながる証拠は得られなかった。さらに、山狩り終了日に新たな犠牲者が発見され、中津藩はメンツをつぶされた。
しかし、遺体を発見した周辺住人の女性が不審な男を目撃していた。薄暗い雑木林の中から現れた男は、丸太のようにたくましい腕を持ち、恐ろしく背が高かったという。
大男は飛ぶように勢いで山を駆け下り、女性の追跡を一瞬でかわしたのち、姿を消した。
中津藩藩主の奥平氏は、周辺集落から集まった情報をもとに、不審者の潜伏位置を割り出した。
数週間後、約500名の藩兵は城井川上流域近くの城井谷城跡地に向かって侵攻した。しかし、生ぬるい訓練しか行っていなかった藩兵たちは、数百年前とは違い、とても軟弱だった。
城井谷城跡地に続く山道は異様に険しく、藩兵たちは山歩きに悪戦苦闘した。訓練不足、実戦経験皆無、さらに防具などを装着していたため、皆体力を激しく消耗し、途中で倒れる者が続出したのである。
数時間後、城井谷城跡地に続く林道が土砂崩れの影響で完全に崩壊しており、藩兵たちは途方に暮れた。
部隊を率いていた奥平氏の家臣「大村氏」は、疲れ果てた藩兵に喝を入れ、目的地へと続く迂回路を進んだ。しかし、その日、藩兵たちは野宿を余儀なくされた。
数日後、城井川の水を汲んでいた住人が異変に気付いた。川の水がうす紫色に濁り、異臭を放っていたのである。
住人総出で調査を行った結果、城井谷城跡地近くの河原で数百名の遺体が発見された。
大村氏および500名の藩兵はひとり残らず首を切り取られていた。その後、奥平氏の大隊による大規模な山狩りが行われたものの、持ち去られた首は発見できず、事件は闇に葬られたという。
<まとめ>
◎目撃された大男および、藩兵を襲った者(一団?)の正体は不明。
◎この事件以降、城井谷城跡地(城井ノ上城址)には霊が出没すると噂になり、近づく者はほとんどいなくなった。
基本情報 | |
心霊スポット | 城井ノ上城址 (きいのこじょうし) |
所在地 | 〒829-0392 福岡県築上郡築上町大字寒田2005-3 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約2時間 【高速】福岡空港から約1時間35分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約2時間5分 【高速】博多駅から約1時間35分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 築上町 公式ホームページ |
萱切隧道
築上郡と京都(みやこ)郡の境界、「萱切(かやきり)峠」の山頂付近に『萱切隧道』と名付けられた明治時代のトンネルが残されている。
これは、1903年に地元の医師および有志が手掘りで掘り進めたものであり、現在も一応通行できる。ただし、側面および天井は一切補強されておらず土(コケや根に覆われている)がむき出しの状態なので、大雨の後はあまり通行したくない。
医師たちの努力により開通した萱切隧道およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「トンネル内に血だらけの女性が立っていた」「入り口に女性の生首が置かれていた」など。
私は、先述の「城井ノ上城址(きいのこじょうし)」調査で情報提供いただいたA氏に再度お会いし、萱切隧道で発生したある事件の詳細を伺った。
A氏は、「萱切隧道で発生した殺人事件は、ほとんど調査されることなく忘れ去られてしまった。殺害された女性たちの身元が全く分からず、さらに、日露戦争の影響で日本全土が混乱状態にあったため、警察も捜査を行っている余裕がなかったのだろう」と述べた。
1904年秋、大日本帝国はロシア帝国との戦争の真っただ中にあった。
当時、福岡県の繁華街エリアで大きな混乱は発生しなかったと記録されている。しかし、警察や役人の目の届きにくい山間部エリアでは、殺人、強盗、強姦などの凶悪事件が頻発していた。
山間部の村は、凶悪事件を防ぐために自警団を結成。警察、役人、そして軍人はロシア帝国との戦争やそれに関連する任務を行っており、自分たちの力で事件を解決することが当たり前、大日本帝国のためと考えられていたのである。
ある日、萱切峠を通行していた女性が何者かに強姦され、首を切り取られるという事件が発生した。
通報を受け現地に駆けつけた自警団は、女性の異様な死に様に恐怖した。女性は首だけでなく、乳房と女性器をえぐり取られ、さらに、心臓を含むすべての臓器までむしり取られていたのである。
数日後、同じ場所で女性2人と男性2人が何者かに襲撃を受け、死亡した。
女性の死に様は最初の被害者と同じだった。が、今回はさらに異常度が増していた。
2人の女性からむしりとられたと思われる内臓が、同じく殺害された男性2人の腹部に詰め込まれていたのである。そして、男性2人は両目をくりぬかれ、耳、鼻、唇、耳が削ぎ落とされており、人相を判別することは不可能だった。
自警団は猟奇的な殺人に恐怖し、警察への通報を決断。しかし、日露戦争に携わっていない警察官たちは、繁華街エリアでの活動に忙殺されており、田舎町で発生した事件は後回しにされてしまった。
1904年冬、自警団の恐怖は頂点に達した。
その日、萱切峠をパトロールしていた自警団は、うっすら雪の積もるトンネルの入り口付近に並べられた首を発見した。
身元不明の女性10名は、皆、同じ表情で死亡していた。その目は恐怖で見開かれ、口は人間とは思えぬほどねじ曲がり、そこから舌がだらしなく垂れ下がっていたのである。
この死に様を見た自警団は恐怖のあまり腰を抜かし、糞尿を垂れ流す者までいたという。
日露戦争中に萱切峠および萱切隧道で発生した殺人事件は1件も解決されず、全て闇に葬られた。
以来、同地は霊の住処になったと噂された。しかし、数十年経つと県道が新設され、萱切峠を通る者はほとんどいなくなり、その伝承は語り継がれることなく忘れ去られた。
<まとめ>
◎萱切隧道周辺で殺された者たちの霊は行き場を失い、同地周辺を彷徨っているのかもしれない。
◎戦争の混乱期に発生した凶悪事件の多くは解決されず、闇に葬られることがほとんどだった。
基本情報 | |
心霊スポット | 萱切隧道 (かやきりずいどう) |
所在地 | 〒829-0123 福岡県築上郡築上町大字本庄 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間50分 【高速】福岡空港から約1時間25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間50分 【高速】博多駅から約1時間25分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 築上町観光協会 公式ホームページ |
京都郡(目次に戻る
恩塚古墳
福岡県京都(みやこ)郡は、世界でもトップクラスの知名度を誇る超人気観光地、「京都府」に負けないほどの歴史とそれに関連する遺構が残されている。
なお、同郡には天孫降臨伝説や女王卑弥呼が当時した「邪馬台国伝説」などでも有名である。しかし、それらが同地にあったという証拠は見つかっていない。
ここで紹介する『恩塚(おんづか)古墳』は、苅田町の住宅街近くで発見された古墳時代の遺構である。石室がキレイに残っていたことから、町の史跡に指定された。
同古墳の内部および本体を覆う雑木林では霊の目撃情報が相次いでおり、心霊スポットとして注目を集めたこともあったという。これまでに目撃された霊は、「石室から女性の悲鳴が聞こえた」「雑木林の中に血だらけの女性が立っていた」など。
私は九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏のチームと共に、京都郡の貴重な伝承資料を保管する老夫婦のご自宅を訪ねた。
S夫妻は、恩塚古墳で発生した事件の話と資料を見せてくれた。曰わく、「二百年ほど前。裕福な庄屋の女中として仕えていたある女性が、無残な最期を遂げた。その舞台になったのが恩塚古墳であり、事件以降、霊の目撃情報が相次ぐようになった」という。
1839年、京都郡苅田地区で最も裕福と噂された庄屋の「松島氏」に仕える女中たちは、1カ月ほど前に現れた1人の下女に振り回され、怒りを募らせていた。
下女の「シゲ」は、美しい容姿と相反するひねくれた性格の持ち主だった。しかし、その容姿が松島氏の目に留まり、召し抱えられることになったのである。
シゲは屋敷の仕事を女中たちに全て任せ、勝手気ままに1日を過ごし、松島氏に取り入り続けた。
女中たちを取りまとめる上女中の「タキ」は、シゲの傍若無人な振る舞いに怒りを爆発させた。しかし、当人は顔色一つ変えず、「醜い女は口を開くな」と吐き捨て、火に油を注いだ。
数か月後、シゲは松島氏の子を妊娠した。しかし、松島氏には妻の「キヨ」がおり、屋敷は大騒ぎになった。
キヨは夫の行いを恥じ、家を出ていくと騒ぎ立てた。彼女の父親は大名家とつながりのある名家として知られ、妊娠騒動を知られれば松島氏が責任を問われることは間違いなかった。
その日の晩、シゲは就寝中のキヨの口内にそっと毒薬を盛った。
妻を失い途方に暮れる松島氏は、シゲに優しく慰められ、何とか元気を取り戻した。そして数か月後、シゲは元気な男児を出産し、松島氏に嫁ぐことが決まったのである。
上女中のタキは、忌々しい10代の小娘にアゴで使われ、怨みつらみを募らせていた。しかし、シゲは屋敷の主の妻になった身。下手に抵抗すれば、全てを失い路頭に迷う可能性もあった。
一方、シゲはタキに怨まれていることを理解したうえで毎日執拗にいびり、「穢多は屋敷から出ていけ」などと罵声を浴びせ続けた。
執拗な嫌がらせが功を奏し、タキは屋敷から出て行った。それを見届けたシゲは、秘かに雇った浪人を使い、怒れる女を捕縛。近所の恩塚古墳に移送させた。
タキは全裸で固縛され、浪人数名に何度も辱められた。その様子を最後まで鑑賞したシゲは、短刀を手に取り、タキの腹をゆっくり切り裂いた。
タキは憤怒の表情と猛獣のような雄叫びを上げ、憤死。その死に様はすさまじく、怒りのあまり眼球が飛び出し、鼻と耳から血が噴き出したという。
以来、恩塚古墳周辺では霊が出ると噂になり、近づく者はいなくなった。
<まとめ>
◎翌年、シゲは二人目の出産中に出血多量で死亡した。
◎タキは怨みつらみを極限まで募らせ、憤死。怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 恩塚古墳 (おんづかこふん) |
所在地 | 〒800-0344 福岡県京都郡苅田町大字新津1429 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間35分 【高速】福岡空港から約1時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間40分 【高速】博多駅から約1時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 苅田町 公式ホームページ |