長崎県には悲しい歴史を持つ遺構が数多く存在する。その代表が日本史上最大の一揆「島原の乱」と、大噴火および山体崩壊を起こした「雲仙普賢岳」に関連する遺構である。

前者については、同県内だけでなく、九州各地に合戦から逃亡したキリシタンの墓や慰霊碑などが残されている。

同県内に残されているキリシタン関連遺構の数は3,000以上。人里離れた某所の墓の下に数百人分の骨が埋葬されていると聞いた時は心底驚いた。

後者は1792年に発生した大規模な山体崩壊兼噴火と、1991年の大火砕流が有名である。

今回は松浦市他、計6市の最恐心霊スポット12カ所(PART3)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.松浦市
   ・開田の七人塚
   ・刈萱城跡

   ・千人塚
 2.平戸市
   ・だんじく様
   ・安満岳
 3.佐世保市
   ・眼鏡岩
   ・潜竜ヶ滝
   ・岩下洞穴遺跡

 4.西彼杵郡
   ・鳴鼓岳公園
   ・七葉迫堤
 5.長崎市
   ・高浜ダム
   ・曲崎古墳群

まとめ

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開田の七人塚

松浦市の北端、伊万里湾に面する「鷹島(たかしま)」は、モンゴル軍による侵略戦争、「元寇」で激しい戦いが繰り広げられた地である。

鷹島の南にある『開田(ひらきだ)の七人塚』では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「白骨遺体が散乱していた」「道路の真ん中に血だらけの男が立っていた」など。

この塚は、モンゴル兵に殺された7人の住人の遺骨が埋葬されている、と言い伝えられている。なお、殺害された一家はニワトリを飼っており、それが元気よく鳴いたことで敵に居場所を察知され、殺害されたという。それ以来、同地(開田地区)でニワトリを飼うことは禁忌になったそうだ。

私は長崎県の歴史を研究する某大学教授のS氏に連れられ、あるご夫婦の自宅を訪ねた。O氏曰わく、「江戸時代末期、開田の七人塚周辺である事件が発生し、以来、霊が目撃されるようになったと言い伝えられている。なお、事件の舞台になった集落は数名の容疑者以外、ひとり残らず死亡した」という。

1835年、数年前から始まった大規模な飢饉は九州全土に広がり、肥前国でも深刻な被害をもたらしていた。

鷹島を含む松浦郡一帯を治めていた平戸藩の石高は例年の20分の1以下にまで減少し、頼みの漁や野菜などの農作物栽培も不調だった。結果、貯えの乏しい集落、貧困地域の住人たちは飢えた。

鷹島の南、小高い丘の上にあった「開田比名(ひらきだひな)集落」の住人たちは、数年前から貯え始めた米や薬草などで何とか飢えをしのごうとしたが、食料はすぐに底をついた。

住人たちは雑草、土、猫や犬、ありとあらゆるものを食べた。しかし、数週間後には集落全体が腐乱臭に覆われ、酷い有様になっていた。

集落の若い男たちは、飢えを満たすべく遺体を貪り始める。腐った肉を食べた数名が命を落としたものの、死後数時間しか経っていない者のはらわたは飢えを満たし、男たちを狂わせた。

O氏の伝承資料によると、若い男たちが友人や親の内臓を食べている様子は「餓鬼地獄」を連想させたという。

その他の生存者たちは、正気を失った若い男たちから逃れるべく、集落を離れた。しかし、男たちはまだ息のある者を襲い始め、逃亡者をひとり残らず捕縛した。

開田比名集落の住人は、人肉を喰う者以外全滅し、骨と住居だけが残された。

若い男たちは遺体を骨までしゃぶり尽くし、新たな食料を求めて隣の集落に移動した。

他の集落も開田比名集落と同じような状況に陥っていた。道端に死体が溢れ、酷い腐乱臭を放っていたのである。さらに、人肉を喰らう者が散見され、住人同士の殺し合いに発展しているところまであった。

人肉と内臓で飢えを満たしていた若い男たちは、若い女と子供を次々に捕縛、連行した。

男たちは捕縛した者たちを逆さ吊りにしたうえで、耳、こめかみ、頸動脈に穴をあけ、ゆっくりと血を抜いた。こうすることで体内の血液をできる限り排出させ、肉の劣化を防いだのである。

女、子供、そして赤子は、全身の血液をゆっくりと抜かれ、死んだ。その様子を看取った男たちは、老人や成人男性よりみずみずしい肉を喰らい尽くした

その後、若い男たちがどうなったか不明。なお、平戸藩の兵士数名が開田の七人塚に積み上げられた人骨を発見し、その直後、何者かに襲われ死亡するという事件が発生した。

以来、同地周辺は怨霊の住処になっていると噂されるようになったという。

まとめ
開田の七人塚近くの集落では、大規模なカニバリズムが発生した

人肉を喰らった者たちがその後どうなったかは不明。同地周辺に出没する霊は、食料になった者たちと考えられている

基本情報
心霊スポット開田の七人塚
(ひらきだのしちにんづか)
所在地〒859-4308
長崎県松浦市鷹島町舩唐津免766-4
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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【一般道】長崎空港から約2時間15分
【高速】長崎空港から約2時間

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約3時間5分
【高速】長崎駅から約2時間15分

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刈萱城跡

刈萱城(かるかやじょう)跡』は、伊万里湾に面する「星鹿(ほしか)半島」の東部、「城山(じょうやま)」の頂上部にあった山城である。

正確な築城年および破却年は不明。鎌倉幕府の創始者、「源頼朝」の命により加藤氏が築城したと言い伝えられているが、真偽は不明である。

城山の頂上に整備された展望台および同城跡付近では、頻繁に霊が目撃されている。これまでに目撃された霊は、「槍を持った鎧武者に追いかけられた」「男性の悲鳴が聞こえた」など。

同地で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受け継いだI氏曰わく、「星鹿半島には元寇に関連する様々な遺構が残されており、刈萱城跡もそのひとつと考えられている。住人たちは数万人の犠牲を出したそれらの遺構を大切にしてきた。が、同地に移り住んだ者たちは違った」という。

I氏の資料によると、元寇以来、城山は霊山と呼ばれ、一般人の立ち入りを固く禁じていたという。しかし、室町時代に入り世の中が乱れると、星鹿半島で豪族たちによる領土争いが激化。城山周辺でも合戦が勃発したという。

城山の山頂付近に砦を作った豪族は、同半島の西に陣取った戦国大名、「松浦氏」と向かい合っていた。

当時、松浦郡一帯を支配していた松浦氏は、各地で豪族たちと領土争いを繰り広げており、城山付近での戦いが特に激しかったという。

城山の頂部に造られた砦は雑木林と崖に守られ、難攻不落と呼ばれていた。しかし、入り口につながる林道が一本しかないため、兵糧攻めには弱いという弱点も抱えていた。

松浦氏の部隊は狭い林道や崖に阻まれ、何度も撤退を余儀なくされていた。一方の豪族軍は、大量に運びこんだ兵糧のおかげで戦いを優位に進めることができたのである。

しかし、籠城戦は思いもよらぬ展開を見せる。松浦氏は山火事の煙で豪族たちをあぶり出そうと考え、火矢と松明などで雑木林に火を放った。

この作戦は見事に成功する。が、炎は予想以上の速さで広がり、雑木林は跡形もなく焼失。鎮火するまで1週間以上かかったという。

大雨が降り、炎はどうにか鎮火した。しかし、豊かな自然に覆われていた城山は、地肌が丸見えになっていた。

山頂付近にあった砦は跡形もなく消えていた。その後、松浦氏の部隊は豪族の残党を探すべく、城山へ侵攻した。

翌日、周辺集落の住人が異変に気付いた。城山に侵攻した松浦軍の兵士数百名が、山頂付近で折り重なるように倒れていたのである。

城山山頂の地面は、泥炭で覆われていた。理由は不明だが、恐らく元寇時に大量の樹木が集められ、落ち葉や腐葉土の下に隠れてしまったものと思われる。

山火事が起きた結果、山頂付近の地面に埋もれていた泥炭が乾き、発火。ジワジワくすぶっている状態だった。さらに、松浦軍が侵攻した時、風はほとんど吹いていなかったという。

松浦軍の兵士は一酸化炭素中毒と思われる症状で倒れた。その様子を麓で確認した後発隊が救助に向かうも、やはり全滅。城山は死体で溢れ返ったが、泥炭の炎が消えるまでそれを回収することは誰にもできなかった。

数か月後、松浦軍本隊と周辺住人の協力で、山頂付近に一千名近い遺体が埋葬された。

まとめ
城山の山頂付近には、松浦氏と豪族の兵士たちが埋葬されている

住人たちは霊山を焼き尽くした罰が当たったと考え、城山への立ち入りを再び禁じた

基本情報
心霊スポット刈萱城跡
(かるかやじょうあと)
所在地〒859-4744
長崎県松浦市星鹿町岳崎免
種別戦争
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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【一般道】長崎空港から約2時間
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【一般道】長崎駅から約2時間40分
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千人塚

先に述べた「刈萱城(かるかやじょう)跡」のすぐ西に『千人塚』と呼ばれる墓がある。

星鹿(ほしか)半島は、「元寇・弘安の役(1281年)」の舞台のひとつである。最終決戦および撤退するモンゴル軍に対する殲滅戦が行われ、数万人の死者が出たと言い伝えられている。

合戦時、大型台風が九州北部に上陸し、モンゴル軍の船、数百隻が海の藻屑になった。結果、星鹿半島およびその他のエリアには凄まじい数の水死体が流れ着き、それを処理すべく、墓(千塚塚)が各地に設けられたという。

同地の伝承資料を保管するI氏曰わく、「星鹿半島には数万人分の遺体を埋葬する墓が各地に築造され、処理するだけで数カ月かかったと言われている。その後、刈萱城跡のある城山(じょうやま)と同じく、千人塚は霊のたまり場になっていると恐れられ、供養碑や慰霊碑などが何十基も建立された」という。

しかし現在、供養碑や慰霊碑と思われるものはどこにもない。なぜか?不届き者たちによって破壊されたためである。

1877年、長崎県は西郷隆盛軍が引き起こした内戦、「西南戦争」の影響で混沌としていた。なお、同県内でこれに関連する大規模な戦いは発生していないが、政府の目が南九州に集中したことで、その他のエリアの治安は乱れに乱れていた。

ある日、千人塚のある岳崎免(たけざきめん)の住人5名が何者かに切り殺され、周辺集落の長は、殺人事件が発生したと役所に報告した。

しかし、西南戦争の関係で役人の半数以上が出兵しており、田舎町の事件は後回しにされてしまった。

事件から3日後、今度は集落内の千人塚のひとつが粉々に破壊された。供養塔や慰霊碑は完全に打ち砕かれ、地面を掘り起こそうとした形跡まであったという。

住人たちは不届き者たちの犯罪に対処すべく、自警団を結成した。しかし、対抗する姿勢を見せたことがさらなる災いにつながった。

不届き者たちは殺人、強盗、強姦、何でもありの犯罪者集団だった。I氏の伝承資料には、岳崎免で暴れまわった理由について、「たまたま同地に行き着いたため」と記されていた。

住人たちは交代制で見張りを立て、次の犯行に備えた。そして数日後、犯罪者集団の襲撃を受けることになった。

集団は別の千人塚を見回っていた見張りに襲いかかり、捕縛。その後、墓の供養塔と慰霊碑を岩などで打ち砕き、遺体の一部を掘り返した。

捕縛した見張りは1名を除き、皆殺しにされた。

犯罪者集団は唯一生かした見張りを頭だけ出した状態で生き埋めにし、顔面に小便と大便を浴びせ、去った

その後も犯罪者集団による墓荒らしと殺人は続き、唯一魔の手から逃れていた千人塚を守るべく、住人たちは決死の覚悟で見張りを配置した。

しかし、その日を境に犯罪者集団は姿を消した。

数か月後、唯一無事だった千人塚で、男たちの生首と磔にされた遺体、計30体が発見され、辱めを受けた見張りにより、死亡した者たちは犯罪者集団であることが確認された。

なお、この千人塚に設置されていた供養塔と慰霊碑は根元からキレイに掘り返され、跡形もなく消えていたという。

まとめ
星鹿半島に千人塚と呼ばれた墓が何カ所もあった

犯罪者集団を殺した者の正体は分からずじまい。事件は闇に葬られた

基本情報
心霊スポット千人塚
(せんにんづか)
所在地〒859-4744
長崎県松浦市星鹿町岳崎免1713
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
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だんじく様

平戸市の西、東シナ海に浮かぶ「生月島(いきつきしま)」は、隠れキリシタンの聖地と呼ばれている。

江戸時代、生月島で生活する住人たちの結束はとても固く、「仲間を売る」者はひとりもいなかったそうだ。しかし、ある理由で潜伏キリシタンの存在を知られ、島民数名が犠牲になった。

ここで紹介する『だんじく様』と呼ばれる墓には、犠牲になったキリシタン家族三名が埋葬されている、と言い伝えられている。

私は生月島で生まれ育ち、同地の伝承を受け継ぐU氏にお話を伺った。

U氏は、「墓(だんじく様)に埋葬された夫婦は、キリシタンではなかった。彼らは自分たちの命が間もなく尽きることを理解したうえで、住人を守るために命を懸けたのである。なお、幼い赤子も処刑されたと言われているが、夫婦は子供を友人に預けている」と述べた。

1644年、松浦郡一帯を治めていた平戸藩は、徳川幕府の指示に従い、キリスト教への取り締まりをより一層厳しくした。

1638年に終結した「島原の乱」以降、徳川幕府は「隠れキリシタンに改宗の意思はない」と判断し、発見次第、即処刑を指示していた。

また、隠れキリシタンに関連する有益な情報を提供した者には金一封、「より有益な情報であれば税を免除する」という御触れが出回り、キリスト教に関心のない領民たちも大いに盛り上がった。

平戸藩には隠れキリシタンの情報が多数もたらされ、生月島関連のものに注目が集まった。

通報者によると、一部の住人が十字架に祈りを捧げていたという。

平戸藩は生月島に隠れキリシタンが潜伏していると読んでいた。しかし、以前調査を行った際には、関連する証拠を最後まで発見できなかったのである。

生月島の南端付近で生活していた夫婦は、原因不明の病を患っていた。夫は既に両目の視力を失い、ボコボコに腫れあがった肌からは膿が噴き出していた

妻も同じ病に侵されていたが、何とか歩くことはできた。二人は幼い子供を友人に預け、静かに最期の時を迎えようと覚悟を決めていた。

ある日、平戸藩による隠れキリシタン狩りの御触れが生月島に発出された。住人たちは慌ててキリスト教関連の資料や遺構を隠そうとした。が、間に合わなかった。

平戸藩の兵士たちは、大慌てする住人たちを哀れんだ。キリスト教関連の資料や品、遺構などの証拠隠滅時間を一切与えず、急襲は大成功したのである。

この時、一部の隠れキリシタンは仲間をかばうと心に決めていた。しかし、その作戦を実行することはなかった。

兵士たちはとてつもない情報を入手し、騒然とした。ひとりの女性がキリスト教の伝道師を名乗る男に辱められた、と申し出たのである。

この申し出は受理され、生月島の南端に潜伏する疫病を患った男とその妻が捕縛された。二人は司祭のものと思われる祭服に身を包み、ロザリオ、そして、当時ほとんど出回っていなかった聖書を隠し持っていた

視力を失った男は、「九州各地を転々とし、キリスト教の教義を数百名に伝えた」と自供。妻と二人で布教活動を行っていたと認め、火刑に処された。

平戸藩は大捕り物に満足し、狩りの終了を決めた。

なお、生月島の隠れキリシタンたちは処刑された二人をキリスト教の司祭と信じ、「住人たちを守るための芝居」であることは、子供を預かった女性とその夫だけの秘密になった。

まとめ
だんじく様は、キリシタンを救うために行動した夫婦の墓

夫婦の祭服、ロザリオ、そして貴重な聖書は燃やされてしまったが、隠れキリシタンたちは生き永らえることができた

基本情報
心霊スポットだんじく様
(だんじくさま)
所在地〒859-5706
長崎県平戸市生月町南免
種別事故
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
【一般道】長崎空港から約2時間25分
【高速】長崎空港から約2時間5分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約3時間5分
【高速】長崎駅から約2時間20分

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安満岳

平戸島の北部エリアに鎮座する『安満岳(やすまんだけ)』は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のひとつとしてユネスコ世界遺産に選ばれたキリシタンの聖地である。

山の麓や周辺エリアには教会やキリシタン関連の遺構、同じく世界遺産に選ばれた「平戸集落」などがあり、長崎県を代表する観光スポットになった。

安満岳の山頂付近、林道および周辺エリアでは霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「槍を持った鎧武者に追いかけられた」「遺体が山積みにされていた」など。

平戸島で生まれ育ち、同地の貴重な伝承を受け継いだY氏曰わく、「安満岳の山頂付近に豪族の砦があったことを知る者は少ない。戦国時代末期、平戸藩藩主、松浦氏の支配に異議を唱える豪族が土地を占用、砦を造ったと言い伝えられている。これは峻険な地形を活かして作られた素晴らしい砦だった」という。

1587年、現在の長崎県北部エリアを制した松浦氏は、日本を平定した豊臣秀吉に土地を安堵され、藩主になった。しかし、一部の豪族たちは松浦氏を藩主と認めず、激しく抵抗した。

松浦氏はどちらかというとキリスト教反対派だった。この思想は豊臣家の傘下に入ったことでより強くなり、同地のキリシタンは弾圧を受けることになった

キリシタン大名と公言していた小財氏は、豊臣家に尻尾を振る松浦氏を撃ち滅ぼすべく、安満岳を占拠し、山頂付近に砦を造った。

これに対し松浦氏は、「小豪族の些細な抵抗」と鼻で笑い、砦の存在を黙認した。しかし、城下町で「キリシタン大名の砦ができた」「平戸藩はキリスト教を容認した」という噂が流れ、立場を一変させる。

万一、キリスト教を容認したという噂が秀吉に伝われば、良くて切腹、改易(お家取り壊し)という最悪の事態も十分あり得る。

松浦氏は2,000名超の大隊を編成、秀吉に「賊殲滅戦」の許可を得たのち、出兵。これに対し小財氏は、迷うことなく籠城戦を選択した。

小財氏の砦は、三方を崖、唯一のルート(林道)も非常に狭く峻険だったため、籠城戦にピッタリだった。さらに、兵糧は山ほど備蓄しており、水源もある。松浦軍の体力を奪ったのち、一気に本陣を突き崩すと心に決めていた。

数か月後、平戸藩の行く末を懸けた戦いは静かに幕を開けた。松浦氏は安満岳の麓近くに本陣を設置したうえで、唯一の侵攻ルートに見張りを配置した。

小財氏は力のある豪族だった。しかし、石高は松浦氏の10分の1以下である。松浦氏は数百名分の兵糧を1カ月以上まかなうことはできない、と考えた。

松浦氏は不要な戦および無駄を嫌う穏健派だった。本陣設置後、兵士1,000名に周辺集落の農作業と漁を手伝うよう指示。食料をたくさん集めた者に金一封を与えると約束し、兵糧の無駄を限界まで抑えた。

松浦氏はコストをカットしつつ、小財氏がギブアップするまで待った。

1か月後、松浦氏は小財氏の砦に使者を送った。が、砦に近づいても人の気配は一切なかった。

砦内は腐った死体の臭気に満たされ、酷い有様だった。小財氏の兵士たちは、皆、皮膚がボコボコに腫れあがり、そこから白い膿が吹き出していたという。

松浦氏は疫病の蔓延を恐れ、砦とその周囲に火を放ち、ありとあらゆるものを焼き尽くした。なお、小財氏を滅ぼした疫病の正体は不明。Y氏の伝承資料に書かれていた症状から推察すると、「天然痘」「ハンセン病」もしくは、それらのハイブリッドではないか、と私は思う。

まとめ
安満岳を占拠した豪族は、謎の疫病によって滅亡した

疫病に侵された砦は跡形もなく焼失。小財氏および兵士たちの遺体は、土に帰るまで数十年間放置された

基本情報
心霊スポット安満岳
(やすまんだけ)
所在地〒859-5143
長崎県平戸市主師町
種別戦争
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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眼鏡岩

佐世保市中央部、瀬戸越町(せとごえちょう)の住宅街の一角に『眼鏡岩』と呼ばれる不思議な形状の大岩がある。これはその名の通り「眼鏡のような形の岩」で、高さ約10m、横幅約20m、厚みは最大7mほどあり、天然の巨岩とも呼ばれていた。

この岩は同地がまだ海だった頃に形成された、と考えられている。なお、「空海」が岩の足元付近に梵字を刻んだと言い伝えられているものの、真偽は定かではない。

眼鏡岩およびその周辺に整備された「眼鏡岩公園」は霊のホットスポットと呼ばれている。これまでに目撃された霊は、「岩の頂部に人が立っていた」「岩の足元に生首が並べられていた」など。

長崎県の歴史を研究する某大学教授のS氏曰わく、「眼鏡岩の足元付近にある小さな洞穴およびその周辺は、浄土真宗(一向宗)信者の隠れ家だったと言い伝えられている。平戸藩はキリスト教と浄土真宗を同列と見なし、数百年の間、厳しく弾圧した」という。

平戸藩藩主の松浦氏は熱心な仏教徒だった。同地一帯を支配した時からそれは変わらず、自分の支持する宗派以外に対しても比較的寛容な態度をとっていた。

しかし、東北地方で発生した一向一揆や、南九州を制した「島津家」などが浄土真宗を禁教扱いした影響を受け、考えを改めた。

なお、肥前国内にも一定数の浄土真宗信者がいた。しかし、薩摩や肥後国(熊本県)ほど多くはなかったという。

1835年、肥前国は数年前から始まった飢饉に苦しめられていた。さらに、南九州で発生した浄土真宗への大弾圧から逃れた信者が同地に侵入し、結果、藩主はそれらの取り締まりにも力を注ぎ、疲弊していた。

大弾圧から逃れてきた者たちは、肥前国内の潜伏信者に保護された。しかし、集落や繁華街の住人たちは、数十名単位で行動する見知らぬ者たちをチェックし、役所に「不審者がいる」ことをしっかり届け出ていた。

同地一帯を治めていた平戸藩藩主の松浦氏は、「一向宗がよからぬことを考えている」「飢饉に乗じて一向一揆を起こすつもりかもしれない」と考え、他国から流れてきた信者たちの取り締まりを強化した。

同地の浄土真宗信者たちは、新たに迎え入れた同士たちを眼鏡岩の洞穴およびその周辺で匿った。そして、仏に祈りを捧げつつ、飢饉と弾圧の終息を願ったのである。

1835年冬、松浦氏は数百名規模の浄土真宗信者が一カ所に集まっている、という情報を入手し、部隊に出動指示を出した。

松浦氏の部隊は、情報提供者がいる集落に入り、眼鏡橋およびその周辺エリアを完全封鎖した。

信者たちは誰一人武器や防具を持っていなかった。が、松浦氏の部隊は容赦なく先制攻撃を仕掛けた。

抵抗の素振りを見せた信者はひとり残らず切り殺され、眼鏡橋の足元付近に遺体が積み上げられた。

この攻撃で3割ほどが死亡。生存者たちは改宗を迫られ、拒否する者は世にも恐ろしい拷問を受けた。

その後、公開処刑は眼鏡橋近くの広場で実施され、30名ほどが「皮剥ぎの刑」や「鋸(のこ)引きの刑」で処理された。

松浦氏は遺体を眼鏡橋の足元にくくりつけ、骨の回収および埋葬を許さなかった。「見せしめ」として厳しく対処したことで、潜伏信者たちに強烈な圧力をかけたのである。

以来、眼鏡橋とその周辺は、怨みつらみを残して憤死した怨霊が巣くっていると噂されるようになった。

まとめ
眼鏡岩の足元付近にある洞穴は、浄土真宗信者の隠れ家だった

同地の浄土真宗関連資料は禁書扱いされたため、当時の記録がほとんど残っていない

基本情報
心霊スポット眼鏡岩
(めがねいわ)
所在地〒857-0135
長崎県佐世保市瀬戸越町868
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
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【一般道】長崎空港から約1時間25分
【高速】長崎空港から約1時間10分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間55分
【高速】長崎駅から約1時間25分

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『鬼が突き破ってできた岩👹🦶』 . 12月のあかりが灯りはじめ、 慌ただしく踊る街はやっぱり好きですよね☺️⛄🎄✨ . なんか聴いたことあるようなのは気のせいです(笑) . クリスマス→プレゼント→靴下→足ってことで(笑)、長崎の佐世保にある『眼鏡岩公園』にやってきました! . 長崎は、眼鏡橋も有名ですが、こちらは高さ10m、横幅20mの岩は圧巻です🌟 . なんでこんな不思議な穴が開いているかというと、昼寝をしていた大きな鬼が目を覚ますときに背伸びをしながら踏ん張った拍子に穴を開けてしまったそうですよ👹👹🦶 . ってことで、上手くクリスマスと繋がったのでここまでです(笑) . #観光 #観光地 #観光スポット #ファインダー越しの私の世界 #写真好きな人と繋がりたい #カメラ #旅 #旅行 #instatravel #traveling #travelphoto#長崎#佐世保#眼鏡岩#眼鏡岩公園#奇岩

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潜竜ヶ滝

佐世保市吉井町草ノ尾に端を発する二級河川「江迎川(えむかえがわ)」は、竜(ドラゴン)伝説の舞台と言い伝えられてきた。

しかし、残念ながら竜は空想上の生き物であり、恐らく存在しないと思う。ではなぜ、そのような伝説が言い伝えられるようになったのか?

ここで紹介する『潜竜ヶ滝(せんりゅうがたき)』は、江迎川の上流域に形成された滝である。高さは20m以上あり、小河川にしてはなかなかの規模だと思う。

この滝には竜が潜んでいる」と噂され、結果、この名がつけられたそうだ。しかし、既に述べた通り、竜が実在する可能性は極めて低い。

吉井町で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受け継いだH氏曰わく、「あの滝で発生した悲惨な事件は、同地のタブーとされてきた。住人たちは、悲惨な最期を遂げた女性と赤子のことを後世に伝えるべきでない、と考えたのだろう。結果、取って付けたような竜伝説が広まり、事件を知る者は少なくなった」という。

1820年、江迎川の西に「鹿目(しかめ)集落」という小さな村があった。そこで生まれ育った「トメ」は、整った顔と丸みを帯びた美しい身体の持ち主で、集落イチの美人と呼ばれるようになった。

15歳になったトメは鹿目集落を離れ、丸野氏という庄屋の屋敷で女中として働くことになった。

トメの美貌は繁華街中で噂になり、丸野氏もその虜になった

当初、トメは女中として働く予定だったが、丸野氏の提案で庄屋の掃除やお茶出しをすることになった。結果、トメを一目見たいという男たちが押し寄せ、商品やお茶の売り上げ増に大きく貢献したという。

一方、丸野氏の自宅で働いていた他の女中たちは、15歳の小娘ばかりが注目されることに腹を立てていた。

数週間後、「丸野氏がトメを嫁にする」という噂が流れ、女中たちは焦った。もし、それが実現すれば、トメは女中たちの主のひとりになるのだ。

女中たちを取りまとめる「上女中のキク」は、ある男にトメの捕縛と強姦を指示した。

男はキクの案内で庄屋の屋敷に忍び込み、自室にいたトメを捕縛。着物をむしりとり、その場で何度も辱めた。

翌日、キクは丸野氏に「トメが男を連れ込み、一晩中楽しんでいた」と報告。さらに、「主の屋敷に第三者を連れ込み楽しむなどあり得ない」と断罪した。

キクと他の女中たちは、「トメの不貞事件」を繁華街中に広めた。結果、「丸野氏は15歳の小娘に騙されている」という噂が流れ、トメの人気は地に落ちた。

トメは強姦されたことを丸野氏に伝えた。が、数か月後に妊娠が判明し、結婚話は雲散霧消した。

数日後、キクはトメを呼び出し、「自分が男に強姦を指示した」「お腹の中の子はケガレている」と告げた。

これにショックを受けたトメは、大きなお腹を抱えて繁華街から鹿目集落に戻った。しかし、不貞事件のことは両親にも伝わっており、母は「末代までの恥」と泣き、父はトメの頬を何度も叩いた。

数か月後、出産段階に入ったトメは、自分を犯した男に捕縛され、江迎川の滝の頂部に座っていた。この様子を見ていたキクは男に、「女の腹を短刀でかっさばき、赤子を滝つぼに遺棄しろ」と指示した。

男はトメの腹を切り裂き、赤子を無理やり引きずり出した。そして、その脳天に短刀を突き立て、遺棄したのである。

これを見たトメは最期の力を振り絞って抵抗した。が、男の一撃に屈し、首を切り取られた。

この凄惨な殺人を偶然目撃した周辺集落の住人が役人に通報し、その後、キクと共犯者の男は牢獄で処刑された。なお、遺棄されたキクと赤子の遺体は見つからず、以来、滝付近で霊を見たという目撃情報が相次ぐようになった。

まとめ
トメは目の前で子供を殺され、憤死。以来、潜竜ヶ滝では霊の目撃情報が相次ぐようになった

竜伝説は同地のタブーを覆い隠す噂である

基本情報
心霊スポット潜竜ヶ滝
(せんりゅうがたき)
所在地〒859-6301
長崎県佐世保市吉井町草ノ尾
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】長崎空港から約1時間40分
【高速】長崎空港から約1時間30分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約2時間20分
【高速】長崎駅から約1時間45分

※クリックでGoogle map起動
関連サイトさせぼ・おぢかの観光情報サイト

岩下洞穴遺跡

佐賀市中央部、住宅街から数百メートル林道を進んだ先に『岩下洞穴遺跡』と呼ばれる遺跡がある。これは、縄文時代から旧石器時代頃の住居と考えられており、中から人骨、土器、石槍などが出土し話題になった。

この遺跡は東京オリンピックイヤーの1964年に発見された。しかし、住宅街からさほど離れておらず、遺跡前の林道もはるか昔に整備されていたにも関わず、なぜ、それまで発見されていなかったのか。

私は長崎県の歴史を研究する某大学教授のS氏と共に、ある御仁の自宅を訪ねた。S氏曰わく、「松瀬(まつせ)町の外れにある洞穴遺跡は、潜伏キリシタンの隠れ家だった。その事実を知った同地の住人は藩主の命に従い、通報。遺跡近くの相浦川(あいのうらがわ)河川敷で80名以上のキリシタンが処刑され、以来、洞穴に近づいてはいけない、という暗黙のルールが確立された」という。

1639年、徳川幕府はキリスト教との関係が深かったポルトガルとの交易を断絶。前年に終結した「島原の乱」の残党と隠れキリシタン狩りを本格化させた。

平戸藩藩主の松浦氏は、ポルトガルやオランダなどとの交易で力をつけ、藩の財政は大いに潤っていた。しかし、それらを幕府に断ち切られた結果、藩の財政は交易が確立する以前の水準に戻ってしまった。

徳川幕府は平戸藩とキリスト教の関係を疑い、様々な圧力をかけた。しかし、松倉氏はどちらかというとキリスト教反対派だった。交易と宗教は全く異なるもの、と割り切っていたのである。

松倉氏は淡々とキリシタン狩りを進めたが、この様子をチェックしていた徳川幕府のお目付け役は、「平戸藩はキリスト教と裏でつながっている」「幕府の指示に従わない愚か者」と考え、圧力を強めた。

幕府の命令はシンプルだった。「1週間以内に隠れキリシタンを捕縛、公衆の場で処刑すること」「失敗すれば藩主は切腹、領土は全て没収する

この命を受け、松倉氏は初めて隠れキリシタンを哀れんだ。さらに、せっかく確立した海外との交易ルートを強制的に断絶させられたことと、今回の圧力騒動が重なり、幕府に対する怒りを爆発させたという。

しかし、命に背けば家臣もろともあの世行き、当然、戦いを挑んでも勝てる可能性はゼロだった。松倉氏は領民たちの安寧だけを祈り、隠れキリシタンへの攻勢を一気に強めた

数日後、松倉氏の部隊は住人の通報を受理。林道近くの洞穴でキリシタンと思われる男女数十名を発見した。その後、さらに調査を進めた結果、同地周辺の隠れキリシタン計83名の捕縛に成功した。

松倉氏は、捕縛した隠れキリシタンたちを地獄の底に叩き落とすべく、最も過酷な拷問処刑を実行した。

相浦川の河川敷に移送された老若男女は、ひとり残らず「鋸(のこ)引きの刑」に処された。これは、逆さ吊りにした罪人の股に刃こぼれしたノコギリを当て、脳天まで真っ二つに切り裂く拷問処刑である。

幕府のお目付け役は、河川敷で繰り広げられた地獄を全て見届け、その事実を江戸に報告した。将軍はこの結果に大変満足し、平戸藩にかけられた嫌疑は解消した。

以来、相浦川の河川敷と岩下洞穴遺跡周辺では霊が目撃されるようになったという。これまでに目撃された霊は、「川から血だらけの男女が這い出てきた」「洞穴の中から悲鳴が聞こえた」など。

まとめ
岩下洞穴遺跡は隠れキリシタンの隠れ家

洞穴に近づいてはいけない、という暗黙のルールができた結果、隠れキリシタンの伝承は廃れ、洞穴の存在も忘れ去られてしまった

基本情報
心霊スポット岩下洞穴遺跡
(いわしたどうけついせき)
所在地〒857-0102
長崎県佐世保市松瀬町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】長崎空港から約1時間25分
【高速】長崎空港から約1時間15分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】長崎駅から約2時間
【高速】長崎駅から約1時間30分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト長崎県観光連盟 公式ホームページ

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鳴鼓岳公園

標高400mほどの山が連なる「鳴鼓岳(なづみだけ)」は、雄大な大村湾を一望できるロケーションが人気の観光登山スポットとして知られている。

ここで紹介する『鳴鼓岳公園』は、鳴鼓岳の中腹付近に整備された自然公園兼心霊スポットである。これまでに目撃された霊は、「広場に遺体が積み上げられていた」「雑木林の奥から悲鳴が聞こえた」など。

西彼杵郡(にしそのぎぐん)時津町(とぎつちょう)で生まれ育ち、歴史家として活動するE氏にお話を伺った。E氏曰わく、「鳴鼓岳は、230年ほど前に発生した大災害の避難所のひとつである。ただし、避難所といってもベッドやトイレがあるわけではない。大津波から逃れた人々は、繁華街から離れ、偶然この山の中腹にたどり着いた」という。

1792年、雲仙普賢岳で発生した噴火および山体崩壊に伴う土砂災害と大津波、通称「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」は、山の麓と有明海沿岸の集落を粉砕した、と言い伝えられている。

これにより肥前国の南部エリア(高来郡)は壊滅的し、住居や家族を失った人々はひとまず安全な地、隣の彼杵(そのぎ)郡を目指した。

当時、彼杵郡では深刻な飢饉が発生しており、大村藩の石高は例年の半分以下にまで落ち込んでいたという。さらに、米だけでなく農作物も日照不足で不作だったため、領民たちは飢えと戦っていた。

大災害から逃れた高来(たかき)郡の避難者たちは、ひとまず彼杵郡の繁華街、大村藩の役所に向かった。なお、E氏の伝承資料によると、彼らの藩主、肥前藩鍋島氏の本拠地(佐賀市)は遠く、「近場の役人に助けを求めるべき」と判断したらしい。

大村藩に彼杵郡の避難者を受け入れる余力はなかった。しかし、見殺しにすることもできず、「繁華街北の山間部エリアに行けば、水、野草、何らかの農作物が手に入るかもしれない」と助言した。

避難者たちは大村湾沿いの集落を目指して歩き続けた。その際、途中の集落や民家の住人に声をかけたが、皆一様にやせ細り、飢えていた。

数日後、大村湾沿いの集落に到着できた者は全体の8割ほど。残り2割は途中で力尽きてしまった。

避難者たちは湾沿いの集落を見て困惑した。遺体が山のように積み上げられ、酷い匂いを放っていたのである。さらに、遺体を食べる者までいる始末だった。

避難者たちは大村湾沿いから離れ、西に見える山を目指した。山に入れば、水、野草、動物などを捕獲できるかもしれない、と考えたのである。

緩やかな林道を登っていくと、中腹付近の広場から煙が上がり、何かを焼く匂いもした。避難者たちは極度の空腹状態だったため、正確に匂いを感じ取ることができなかったようだ。

広場で焼かれていたものは、動物ではなく人間だった。

男たちは、真っ黒こげになった肉や内臓で腹を満たしていた。そして、偶然たどり着いた避難者たちを「新鮮な食料」と見なし、襲いかかってきたのである。

避難者たちは必死に抵抗した。しかし、腹を満たした男たちに敵うはずもなく、あえなく捕縛された。

男たちは彼杵郡の領民、計80名をひとりずつ丸焼きにし、肉と内臓を心行くまで堪能した。そして、食べ残した遺体は広場の端に遺棄され、野生動物のエサになった。

以来、同地は霊のホットスポットになったと考えられている。が、この伝承を知る者は非常に少ないため、大半の者は「霊が出没する理由」を知らないという。

まとめ
鳴鼓岳は霊のホットスポット。食料になった避難者たちの霊が彷徨っているのかもしれない

普賢岳の山体崩壊による死者は15,000人(推定)。ただし、餓死などの関連死を含めると、その数は10倍~15倍に膨れ上がる、と考えられている

基本情報
心霊スポット