人気観光地と呼ばれる遺構や施設の中には、思いもよらぬ「とんでも心霊スポット」があったりするから不思議である。

インターネットや情報誌などで紹介されている人気観光地のキャッチコピーは、ここ数十年の間に考えられたものがほとんどである。「恋人の聖地」「100万ドルの夜景」などがその代表格だ。

キャッチコピーは、陰鬱かつ陰惨な心霊スポットの記憶や歴史を上書きし、注目の人気観光スポットに変えてくれる。しかし、イケてるキャッチコピーで人気を集めても、記憶や歴史、そして霊は消えない

今回は遠賀郡他、4市2郡の最恐心霊スポット12カ所(PART5)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.遠賀郡
   ・新松原海岸
   ・島津丸山古墳群
 2.中間市
   ・浄花町公園
   ・月瀬八幡宮
 3.北九州市
   ・櫨ヶ峠隧道
   ・津村島
 4.朝倉郡
   ・芝峠
   ・小鷹城山
 5.朝倉市
   ・不動の滝
   ・小田茶臼塚古墳
 6.糸島市
   ・極楽展望台
   ・糸島のトトロの森

まとめ

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新松原海岸

遠賀(おんが)郡の北部エリア、東シナ海に面する海岸はサーフィンの穴場スポットとして人気を集めているそうだ。ただし、離岸流発生ポイント付近は遊泳禁止になっていることをお忘れなく。

ここで紹介する『新松原海岸』は、公共ビーチとして開放されているものの、利用客は決して多くなく、滅多に混雑しないという。

同海岸周辺では霊の目撃情報が相次いでおり、10数年前に「サーファー数名が海に引きずり込まれた」という通報で大騒ぎになったこともある。なお、遺体は発見されなかったため、見間違いとして処理されたようだ。

これまでに目撃された霊は、「生首を持った鎧武者に追いかけられた」「砂浜に生首が並べられていた」など。

遠賀郡岡垣町(おかがきまち)の貴重な伝承資料を受け継ぐ老夫婦にお話を伺った。Y夫妻は、モンゴル帝国の日本侵略戦、「元寇(1281年)」の舞台のひとつになった同地の伝承を詳しく説明してくれた。

Y夫妻:
「日本軍の猛反撃を受け本土を離れたモンゴル軍の船は、悪天候でほとんど沈没。その後、新松原海岸一帯におびただしい数の遺体が流れ着き、住人総出で砂浜に埋葬した。その後、同地は死体を遺棄する土地(エリア)として利用され、戦国時代に入ると拷問処刑場が整備された

1638年、筑前国を治めた福岡藩藩主の黒田氏は、海岸沿いの拷問処刑場で隠れキリシタンたちを痛めつけ、老若男女、乳飲み子さえも処刑したと言い伝えられている。

福岡藩初代藩主の「黒田長政」は、父の「如水(官兵衛)」と同じく、生粋のキリシタン大名だった。しかし、筑前国藩主に任命してくれた徳川家康への大恩を果たすべく棄教(ききょう)。隠れキリシタン狩りを強化し、二代目藩主もその路線を踏襲した。

島原の乱」が勃発したことで、筑前奥の領民はキリシタンを「幕府や藩主に逆らう危険な思想の持ち主」と見なした。同じく黒田氏もキリシタンを放置すれば、大規模な内戦につながる可能性があると判断、弾圧を激化させた。

海岸沿いの拷問処刑場に移送された隠れキリシタンたちは、狭い牢獄に押し込まれた。Y夫妻の伝承資料によると、5メートル四方の牢獄に100名超が押し込まれ、その圧力で身体が持ち上がってしまう者までいたという。

隠れキリシタンたちは数日間そこに放置された。なお、期間中、食事は一切与えられず、押し込まれた者の半数近くが立ったまま死亡したという。

その後、何とか生き残った隠れキリシタンたちには、さらに過酷な現実が待ち構えていた。

兵士たちは女子供および乳飲み子を先に斬首。その肉と内臓をバラバラに切り刻み、男と老人の口に無理やり押し込んだ。

この拷問で体力のない老人はほぼ確実に死亡。生き残った一部の男たちも正気を完全に失い、処刑場内は阿鼻叫喚の地獄絵図状態だったという。

ただし、これらの拷問に耐え抜く意味は正直なかった。黒田氏は隠れキリシタンたちの「改宗する」という言葉を一切信用せず、形だけの改宗宣言にウンザリしていたのである。

最後まで生き残った者は最も信心深く、危険なキリシタンと見なされた。

この拷問処刑場は幕末まで利用され、処刑された数千のキリシタンおよびその他の被告たちを祀る供養碑が海岸の西端に今も残っている。

まとめ
新松原海岸は元寇の舞台のひとつ。砂浜の下に溺死した数千のモンゴル兵が埋葬されている

戦国時代に誕生した拷問処刑場は幕末まで利用された

基本情報
心霊スポット新松原海岸
(しんまつばらかいがん)
所在地〒811-4204
福岡県遠賀郡岡垣町大字手野
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間15分
【高速】福岡空港から約1時間

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間15分
【高速】博多駅から約1時間5分

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関連サイト岡垣町観光協会 公式ホームページ

島津丸山古墳群

島津丸山古墳群』は、一級河川「遠賀川」と「西川」の下流域近くで発見された古墳時代の遺構と考えられている。

現在、同古墳群とその周辺一帯は「丸山歴史自然公園」として整備され、周辺住人の憩いの場になっている。そして、昼夜を問わず霊が出没すると噂になり、知る人ぞ知る心霊スポットとして注目されるようになった。

これまでに目撃された霊および情報は、「園内に血だらけの女性が立っていた」「悲鳴が聞こえた」など。

遠賀郡遠賀町で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を受け継いだT氏曰わく、「島津丸山古墳群は凄惨な殺人事件の舞台になり、以来、霊が出没すると噂されるようになった。なお、事件は未解決のまま闇に葬られた」という。

1869年、九州は「戊辰戦争」の影響で混迷を極めていた。なお、幕府軍に味方する一部の大名家は、領地を放棄したうえで戦争に参戦。役人不在になった土地の治安は酷く乱れた。

筑前国を治めていた黒田氏は新政府軍に属し、戦争中、同地だけでなく周辺国の治安維持にもあたった。結果、自国の全領地に目が行き届かなくなり、治安の悪化を招いた。

遠賀川沿いに形成された島津地区は比較的人口の多い地域だったが、農村部だったこともあり、役人たちの見回りエリアから外されていた。

これに対処すべく、住人たちは自警団を結成。戦争が終わるまでの間、領地の治安を守ろうとした。しかし、盗賊たちは容赦なく攻撃を仕掛けてきたのである。

最初に狙われたのは裕福な庄屋だった。さらに大名家とつながりのある者の屋敷が狙われ、金目の物はことごとく奪われた。

盗賊たちの手口は巧妙だった。男たちは住人をひとり残らず固縛。金目の物だけを奪い、住人に危害は加えなかった

しかし、自警団との衝突で事態は一変する。盗賊たちは武道に長けた住人数十名の急襲を受け、半壊。捕縛された者は役所に連行後、打ち首に処された

数週間後、島津地区の少女、計5名が姿を消し、町は大騒ぎになった。自警団は調査を開始、少女たちの遺体は、島津丸山古墳群の雑木林の中に遺棄されていた。

少女たちは衣服を身に着けておらず、全身あざだらけだった。さらに、大きく切り裂かれた女性器から腸などの臓器が引っ張り出されていたという。

自警団は捕らえ損ねた盗賊たちの犯行と確信し、警戒態勢を強化。しかし、その後も同種の殺人事件が同じ場所で発生し、住人たちは震え上がった。

T氏の伝承資料によると、1869年の春頃から夏にかけて、少女が22名、20歳以上の女性が16名、合わせて38名が島津丸山古墳群の雑木林で遺体となって発見されたという。

以来、周辺住人は同古墳群に近づくことを恐れ、殺人事件に関連する伝承はタブー視されるようになった。

まとめ
島津丸山古墳群周辺は、女性と少女ばかりを狙った殺人事件の舞台

容疑者が盗賊の残党か否かは不明。事件は未解決のまま闇に葬られ、殺された者の怨みつらみだけが残された

基本情報
心霊スポット島津丸山古墳群
(しまづまるやまこふんぐん)
所在地〒811-4301
福岡県遠賀郡遠賀町大字島津
種別事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間20分
【高速】福岡空港から約1時間

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間20分
【高速】博多駅から約1時間

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浄花町公園

中間(なかま)市北部、遠賀郡との境界付近付近に『浄花町(じょうかまち)公園』という小さな児童公園がある。

この小さな公園の”土地”には奇怪な伝承が残されている。なお、同地周辺の住宅地は高度経済成長期頃に開発され、住人たちは200年ほど前にここで発生した事件のことを知らないという。

私は九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏と共に、中間市浄花町の貴重な伝承資料を保管するU氏にお話を伺った。

U氏:
「現在の中間市浄花町付近で発生した奇病は周辺の村や集落に広まり、数千名の命を奪った言い伝えられている。当時、この病に対処する術は確立されておらず、罹患差は運を天に任せるしかなかった」

1859年、遠賀川下流域の「犬飼集落」で原因不明の奇病が発生した。

第一感染者と思われる男性は、数日前に久留米藩の小さな村から帰郷し、体調を崩した。

症状は猛烈な倦怠感と腹痛のみだった。しかし数分おきに下痢と嘔吐を繰り返し、男性は脱水症状と低体温症で数日持たずに死亡した

男性の死後、治療にあたった医師が同じ病に感染。さらに、下痢や吐しゃ物の処理を行った妻と子供にも感染し、集落はパニックに陥った。

この一家および医師は隔離された。しかし、罹患者と距離をとっていた男性複数名が同じく病に感染し、謎の奇病の侵攻を抑えることはできなかった。

数日後、通報を受け集落に駆け付けた福岡藩の役人および藩兵は、悲惨な現状に目を疑った。

感染者は集落の住人の8割以上。そのうち半数が死亡、何とか生き永らえた者も酷く痩せ細り、半死半生状態だったという。役人たちは慎重に調査を進めた、つもりだった。

調査を終えた役人15名中8人が役所もしくは自宅で発症し、奇病は犬飼集落から他のエリアに伝搬したのである。

数週間後、犬飼集落では住人の半数以上が死亡したものの、その他の罹患者はどうにか奇病を克服。復興作業が始まっていた。

一方、他の集落や村の感染状況は思わしくなかった。酷い地域では全住人の9割が死亡。遠賀川流域だけで死者数は2,000人を超えていた

他の集落や村の住人たちは、犬飼集落が奇病を克服したことに憤った。病を広め、自分たちだけ復興を進める生存者たちは、気づかぬうちに怒りを買っていたのである。

福岡藩の役人の一部も、「全ての原因は犬飼集落にある」と決めつけていた。そして、役人たちは思いもよらぬ行動に出る。

後日、犬飼集落の住居や施設はひとつ残らず焼失し、数十名分の遺体が発見された。

この火災により、犬飼集落の住人はひとり残らず死亡。焼け跡には、住居の燃えカスと黒焦げになった遺体だけが残されていた。

数か月後、遠賀川流域一帯に広まった奇病はどうにか終息。役人たちは、秘密裏に焼き払った犬飼集落の北、現在の浄花町公園近くに慰霊碑と墓を建立し、生きたまま焼かれた者たちを祀った。

まとめ
浄花町公園近くにあった犬飼集落は、奇病の発生源として注目を集めた

この奇病で亡くなった者は、遠賀川流域だけで6,000名以上。症状から”コレラ”であることはほぼ間違いないと思われる

基本情報
心霊スポット浄花町公園
(じょうかまちこうえん)
所在地〒809-0038
福岡県中間市浄花町23-23
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間15分
【高速】福岡空港から約55分

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間20分
【高速】博多駅から約55分

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関連サイト中間市 公式ホームページ
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月瀬八幡宮

中間市西部に「猫城址(ねこじょうし)」と呼ばれる遺構がある。これは、その名の通り「猫🐈城」の跡であり、奇抜な名が話題を呼び、同市を代表する人気観光スポットのひとつになった。

ここで紹介する『月瀬八幡宮(つきせはちまんぐう)』は、猫城の城門跡付近に建立された神社である。なお、一部の周辺住人は、猫神社もしくはキャット神社と呼んでいるそうだ。

同社および猫城址付近では、霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊および情報は、「本堂から黒焦げになった人間が這い出てきた」「雑木林の奥から悲鳴が聞こえた」など。

中間市の歴史と伝承を研究する某大学准教授のO氏にお話を伺った。曰わく、「月瀬八幡宮は1638年に福岡藩藩主、黒田氏の命で建立された。なお、建立理由は後世に語り継ぐべきでないと考えられ、知る者はごくわずかになった」という。

1638年、福岡藩二代目藩主の「忠之(ただゆき)」は、父「黒田長政」の意志を受け継ぎ、隠れキリシタンへの取り締まりを激化させていた。

この年、「島原の乱」の影響でキリスト教への風当たりはかつてないほど強くなっていた。

黒田長政およびその父の「如水(官兵衛)」は生粋のキリシタン大名だった。ただし、如水は豊臣秀吉、長政は徳川家康の大躍進に貢献し、キリシタンであることをとがめられることは全くなかった。

一方、忠之は凡庸だった。結果、幕府は黒田家の棄教(ききょう)を疑うようになり、様々な圧力をかけてきたのである。

忠之は正真正銘の小心者かつわがままな男で、キリスト教には露ほども興味を持っていなかった。

島原の乱終結後、あらぬ疑いをかけられた忠之は、これを払拭すべく、隠れキリシタンをひとり残らず捕縛、処刑すると幕府家老に宣言、征夷大将軍の許可を得た。

忠之のやり方は姑息かつ卑劣極まりなかった。まず、隠れキリシタンへの取り締まりを停止し、教徒であることを申し出れば、藩主主催の礼拝に参加できると御触れを出したのである。

忠之の祖父と父がキリシタン大名だったことは周知の事実であり、福岡藩内に潜んでいた隠れキリシタン約200名が二代目藩主の言葉を信じた。

数週間後、藩主主催の礼拝は猫城址の奥に築造された洞窟教会で行われることが決まり、隠れキリシタンたちは意気揚々と地獄の門をくぐった

猫城址の奥で待ち構えていたのは、武装した兵士数百名と拷問処刑道具だった。なお、この時、イベント主催者の忠之は、本拠地の福岡城で碁を打っていたという。

O氏の伝承資料によると、忠之の罠にかかった隠れキリシタンは計230名。福岡藩内の隠れキリシタン全員を捕縛できたか否かは不明だが、征夷大将軍はこの集団処刑に満足し、忠之にかけられていた疑いは無事解かれた。

一方、藩主の嘘に騙された隠れキリシタンたちは、改宗の意思を聞かれることもなく、「串刺し火刑」に処された。

串刺し状態で生きたまま焼かれた隠れキリシタンたちは、忠之への怨みつらみを残し、憤死。猫城址およびその周辺は、人間の血肉が焦げる猛烈な異臭に包まれ、地獄の様相を呈していた。

その後、忠之の家臣が230名の殉教者を祀るべきと進言し、月瀬八幡宮の建立が決まった

まとめ
月瀬八幡宮は、同地で憤死した隠れキリシタンを祀るために建立された

猫城址奥の雑木林の中には、火刑に処された隠れキリシタン、計230名の墓と供養碑が残っている

基本情報
心霊スポット月瀬八幡宮
(つきせはちまんぐう)
所在地〒809-0003
福岡県中間市大字上底井野1696-1
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
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【一般道】福岡空港から約1時間10分
【高速】福岡空港から約50分

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【高速】博多駅から約50分

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関連サイトなかまっぷ

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櫨ヶ峠隧道

北九州市小倉南区と石原町を結ぶ県道28号線の中間部に、『櫨ヶ峠隧道(はぜがとうげずいどう)』と呼ばれるトンネルがある。

これの運用開始年は1931年。なお、内部はコンクリートで吹き付けされているものの、劣化が著しく、補装も荒れ気味である。また道幅も狭いため、探索する際は対向車や歩行者に注意してほしい。

同隧道およびその周辺では名の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊および情報は、「血だらけの男に追いかけられた」「壁面から人間と思われる物体が這い出てきた」など。

北九州市石原町出身、築170年の大きな平屋住宅で生活するY氏に、同地の歴史および伝承をお聞きした。

Y氏:
「県道28号線は旧街道を改修したものであり、同地の主要ルートのひとつだった。しかし、街道の中間部にあった村で悲惨な事件が発生し、以来、周辺住人たちはこの道を避けるようになった。なお、東西の自治体住人は、最近の住宅開発で転居してきた方がほとんどで、事件を知る者はほとんどいない」

1732年、ウンカの大発生に伴い、企救郡(北九州市)の稲は壊滅的な被害を受け、その年の石高は例年の20分の1以下にまで減少した。

企救郡の山間部、「母原村」の農家は、その年に植えた稲をすべて失い、飢えた。

この村の住人たちはひとり残らず貧しく、貯えのある者はいなかった。結果、食料は購入できず、口にできるものは何でも食べたのである。

住人たちは、雑草、昆虫、小動物、犬、猫、樹の皮、土などを食べ、何とか空腹をまぎらわせた。

食料が尽きてから1カ月、体力のない老人や赤子は死に、その他の者たちも半死半生状態だった。

村長は村を存続させるべく、住人たちに「遺体を食べるしかない」と提案。生存者の半数以上がこれに従い、ガリガリにやせ細り、腐りかけた遺体の肉や内臓を喰った。

人肉を受け入れられなかった者たちも、空腹に屈し、家族や子供の遺体を解体。何とか腹を満たし、生存の機会を伺った。

夜、女性の悲鳴が村中に響き渡った。住人たちが現場に駆けつけると、ふたりの若い男が新鮮な肉を無我夢中で喰らっていた。なお、女性は腹を切られ、生きたまま内臓を喰われていたという。

住人たちは凶行に及んだ2名を捕縛、女性を殺害した罪で私刑(斬首刑)に処した。

村長は、斬首した2名および被害者女性の遺体を共同墓地に埋葬すると主張。これに対し一部の住人は「捕食すべき」と提案した。

若い男を中心とした「人肉肯定派」は、村長たちの提案を無視。3名の遺体を無理やり奪い、喰い尽くした。

これを見た村長は激怒し、否定派の仲間たちと武器をとった。しかし、人肉で腹を満たした若い男たちは、村長たちをひとり残らず返り討ちにし、新たな食料の確保に成功した。

数か月後、母原村の住人は1割以下にまで減少。生存者たちは周辺集落を襲い、人肉の確保に努めた。

母原村は旧街道の北、現在の櫨ヶ峠隧道近くにあったと言い伝えられており、消滅した時期は不明。Y氏の伝承資料によると、「享保の飢饉」を何とか乗り切り、別のエリアに移住した可能性が高いという。

まとめ
櫨ヶ峠隧道(旧街道)近くにあった母原村は、「喰人村」とも呼ばれていた

住人たちは100名超の遺体および、
処刑した数十名を喰い、腹を満たした

基本情報
心霊スポット櫨ヶ峠隧道
(はぜがとうげずいどう)
所在地〒803-0266
福岡県北九州市小倉南区
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間30分
【高速】福岡空港から約1時間

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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間40分
【高速】博多駅から約1時間

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関連サイト北九州市 公式ホームページ

津村島

北九州空港」の北に位置する「新門司(しんもじ)港」は、西日本の海の玄関口、「神戸港」に次ぐ規模を誇る九州最大のフェリーターミナルである。

この付近一帯は高度経済成長期に埋め立てられ、物流関係の機関や営業所の進出に伴い大きく発展した。今ではTOYOTA九州の車両搬出基地にもなっており、昼夜を問わず大型貨物船が乗り入れている。

ここで紹介する『津村島』は、新門司港北エリアの外れに位置する小さな島である。

新門司港一帯が造成される以前、津村島では約200人ほどが生活していた。しかし、付近の造成や開発の影響で漁を行うことが難しくなり、移転を余儀なくされたという。

私は九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏の紹介で、津村島の元住人だというH氏にお話しを伺うことができた。

H氏:
「津村島は素晴らしいコミュニティだったが、明治時代に発生した事件以降、閉鎖的な村になった。ただし、住人たちの仲が悪かったわけではない。外部から入ってくる者は信用できない、という考えが浸透したのである」

1877年、九州は西南戦争の影響で混乱状態に陥り、役人の目が届きにくい小さな農村部や漁村の治安は乱れた。

企救郡(北九州市)の東、津村島の住人たちは、戦争の影響をほとんど受けずに生活できていた。米だけが多少入手しにくくなっていたものの、漁は至って順調。食べる物に困ることはなかった。

津村島で一番の漁師と呼ばれた「五郎衛門」は、西南戦争開戦の3年ほど前に移住してきた新参者だった。しかし、誰よりも真面目に働き、人当たりも良かったため、いつの間にか住人のリーダー的な存在になっていたという。

企救郡内で西南戦争に関連する戦いは起きなかった。しかし、明治政府軍の要請で多くの役人が戦争のサポートに駆り出された結果、繁華街から離れた地域の治安は急激に悪化した。

犯罪者たちは、津村島の漁が順調であり、さらに、役人の目が届きにくいことに目をつけた。

ある日、刀や斧で武装した集団が津村島に上陸し、「島民約200名の命を預かる」と宣言した。

島民たちは島からの脱出を試みたものの、港は集団に占拠されており、身動きがとれなくなった。

同じ頃、漁に出ていた五右衛門は津村島の異変に気付き、港から遠く離れた岸に着岸、様子を伺うことにした。

集団は島の女性だけを一カ所に集め、下女のように扱い、ひどく辱めていた。中には人妻や老婆を犯し、事が終わると刀で斬りつける者までいたという。

一方、喧嘩慣れしていない男たちは、島の外れで暴行を受けていた。

五右衛門は身体ひとつで10名超の集団に襲いかかり、女性たちを解放した。しかし、集団に全身を貫かれ、死亡した

その後、女性たちの悲鳴を聞きつけた島の男たちは、決死の覚悟で集団と戦い、数の力で何とか勝利を収めた。

島民たちは、五右衛門の遺体を島の神社に祀った。

その後、島民たち島の入り口に関所を設け、本土から渡る者を厳しく取り締まるようになったという。なお、女性を辱め、五右衛門を殺した集団の遺体は解体、撒き餌として再利用された。

まとめ
津村島への渡島は現在禁止されている

島の周辺エリアでは霊の目撃情報が相次いでいる

基本情報
心霊スポット津村島
(つむらじま)
所在地〒800-0113
福岡県北九州市門司区新門司北3
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】福岡空港から約2時間5分
【高速】福岡空港から約1時間10分

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②アクセス
【一般道】博多駅から約2時間15分
【高速】博多駅から約1時間10分

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関連サイト北九州市観光情報サイト

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芝峠

田川郡と朝倉郡を結ぶ『芝峠』は、標高500mほどの地点を通過する林道である。なお、国道や県道の建設に伴い、この峠を通る車は少なくなった。

芝峠では霊の目撃情報が多数寄せられており、それに気をとられ側壁などに接触する物損事故が相次いだという。これまでに目撃された霊および情報は、「車道に遺体が並べられていた」「斧を持った男が斬りかかってきた」など。

朝倉郡東峰村で生まれ育ち、同地の貴重な伝承を受け継ぐM氏は、「芝峠は上座郡(現在の朝倉郡)の境界に位置する防衛の要所と呼ばれ、筑前国の領土を争う豪族たちが幾度となく合戦を繰り広げた地、と言い伝えられている」と述べた。

芝峠周辺には何もないと思われているが、実は違う。M氏の情報に従い田川郡と朝倉郡の境界地点を調査した結果、供養塔と墓が何基も建立されていた。

戦国時代、筑前国の覇権を争っていた豪族たちは、現在の芝峠周辺で合戦を繰り広げ、その都度おびただしい数の死者が出た。

江戸時代、筑前国の藩主に任命された黒田氏は、芝峠近くの戦場に供養塔と墓、そして小原神社という小さな祠(ほこら)を建立した。

1828年、北九州に上陸した台風は筑前国福岡藩に壊滅的な被害をもたらした。

芝峠の南、標高500mほどの地点に位置する「波松(なみまつ)集落」は、周囲の樹木が防風林の役目を果たし、ひとりの怪我人も出なかった。

一方、さらに南の「蔵多(くらた)集落」は風の通り道に位置していたため、村内の住居は跡形もなく吹き飛び、住人の約半数が死亡。田畑はほぼ全滅状態だったという。

波松集落と蔵多集落の住人たちは、殺し合いに発展してもおかしくないほど仲が悪かった。両者は水源の権利争いでもめており、蔵多集落は波松集落の「一緒に管理する」という提案を却下、妥協点を見いだせずにいた。

台風通過後、波松集落は水源一帯を柵で区画し、その権利を無理やり奪取した。この行いに蔵多集落は激怒したものの、台風の影響で喧嘩をするような余力はどこにもなかった。

水源の奪取に成功した波松集落の住人たちは、それだけでなく川の権利も取得したと主張し、蔵多集落に「水の利用料を納めろ」と要求、挑発した。

蔵多集落の村長は水源および川の権利を諦め、水の使用料を納めると約束。この判断に不満を持つ住人たちは、屈辱的な敗北に涙し、腹を切る者まで現れた

数週間後の夜、蔵多集落の住人たちは波松集落に押し入り、男たちの首をひとり残らず掻き切った。

残された女子供、そして老人たちは、蔵多集落の暴挙に激怒、反撃を試みた。しかし、血気盛んな男たちに粉砕されてしまったという。

その後、襲撃計画を立案した蔵多集落の村長は、波松集落の住人の遺体を、芝峠の小原神社近くに遺棄した。

襲撃から数日後、遺体を遺棄した小原神社近くでがけ崩れが発生し、波松集落跡と蔵多集落は土石流に飲み込まれた。なお、生存者がいたか否かは不明である。以来、芝峠周辺では霊が目撃されるようになった。

まとめ
小原神社は土砂崩れの影響で崩壊、供養塔と墓だけが残された

波松集落は蔵多集落は最期までいがみ合い、消滅した

基本情報
心霊スポット芝峠
(しばとうげ)
所在地〒838-1601
福岡県朝倉郡東峰村
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間30分
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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間35分
【高速】博多駅から約1時間30分

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関連サイト東峰村公式観光情報サイト
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小鷹城山

朝倉郡の西エリア、筑前町弥永(やなが)には奇怪な伝承が残されている。しかし、それを知る者は非常に少なく、伝承資料を保有するE氏は、「私の一族以外、”彼”のことを知っている者はいないかもしれない」と述べた。

E氏が伝承の舞台と言う『小鷹城山(おたかじょうやま)』は、標高200mほどの低山である。なお、「小鷹城」の痕跡は山の中腹付近に残されているが、石垣などの遺構はほとんど消失しており、当時の様子をうかがい知ることはできない。

小鷹城の築城年、破却年、築城者はいずれも不明。同地一帯を治めた「秋月(あきづき)氏」の家臣が城代だったと言い伝えられているものの、各種情報と同じく、詳細は不明である。

E氏:
「200年ほど前。小鷹城山の中腹付近で生活していた男は、卓越した狩猟技術でイノシシやシカを駆除、農家の天敵だった害獣が激減したことで、周辺集落の農民は素晴らしい恩恵を受けた」

1819年、小鷹城山の麓で狩りを行っていた「宗衛門(そうえもん)」は、周辺集落の農家から最も信頼される男のひとりだった。

彼は駆除したイノシシやシカを解体し、皮は加工品に、肉は食料に、内臓は佃煮、そして骨は細かく砕き、肥料を作った。

宗衛門は、それらの商品の一部を貧しい領民に無償で提供した。この行いは周辺一帯で話題になり、彼を真似て狩猟を行う者が後を絶たなかったという。

宗衛門は常人離れした腕力と脚力、そして恵まれた身体で野生動物を次々と狩り、重さ数百キロの巨大イノシシを拳ひとつで粉砕したという逸話まで持っていた。

貧しい領民や農民は宗衛門のことを「仏様」と呼び、彼が集落に現れると大喜びした。

ある日、いつものように小鷹城山で狩りを行っていた宗衛門は、麓の集落から炎と煙が上がっていることに気づいた。

宗衛門は捕獲したイノシシを小鷹城本丸跡に放り投げ、猛スピードで山を駆け下った。

宗衛門がお世話になっていた「笠(かさ)集落」は炎と煙に包まれており、近づくことはできなかった。他の集落の者たちもその様子を心配そうに見守り、住人の無事を祈った。

その後の調査により、笠集落の住人たちは、盗賊と思われる集団に襲撃を受け、切り殺されていたことが分かった。そして盗賊たちは、証拠隠蔽のために火をつけたたのである。

宗衛門はお世話になった住人の遺体を丁重に供養し、狩りを再開した。

後日、周辺集落の住人たちは、盗賊と思われる集団が小鷹城山の麓から林道に入っていくところを目撃した。

数時間後、小鷹城山跡地で爆発と炎が発生し、山の中腹は地獄のように燃えた。住人たちは宗衛門がそこにいないことを信じ、仏様に祈った。

後日、焼け跡の調査を行った役人たちは、そこに散らばったおびただしい数の焼死体に恐怖し、糞尿を垂れ流した者もいたという。

焼死体はひとり残らず首と四肢を切り落とされており、ゴミのように打ち捨てられていた。

116人を殺した「小鷹城山の大火」は、貴重な歴史遺構を焼き払い、周辺一帯を焦土に変えた。なお、宗衛門がそこで焼け死んだか否かは不明である。

まとめ
小鷹城山とその周辺で目撃された霊および情報は、「遺体が山積みにされていた」「生首が転がっていた」など

盗賊集団は宗衛門に切り刻まれたものと思われる。以来、同地は霊のホットスポットになった

基本情報
心霊スポット小鷹城山
(こたかじょうやま)
所在地〒838-0811
福岡県朝倉郡筑前町弥永
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間
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②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間15分
【高速】博多駅から約1時間10分

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関連サイト筑前町 公式ホームページ