心霊スポット探索時、現地の記録を写真や映像で残しておきたいと誰もが思うはず。しかし、私は以前、現地でとんでもない写真を撮った結果、霊に憑りつかれ2週間以上入院した挙句、友人のシャーマンに除霊してもらわねばならなくなったことがある。
「写真を撮ったから霊に憑りつかれた」と断言することはできない。なお、友人のシャーマンに「心霊スポットで余計なことをしたらいけないよ」と注意されたため、以来、現地にカメラは持ち込まないと決めている。
写真や動画を撮影しておくと、探索時の様子を思い出しやすい。しかし、霊に絡まれる可能性を考慮し、心霊スポット探索時の記録は「カメラではなくメモ帳」に残すことをおすすめしたい。
今回は福津市他、4市1郡の最恐心霊スポット12カ所(PART6)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.福津市
・竹尾緑地
・沖田池
2.古賀市
・古賀海岸
・イランタン霊場
3.宗像市
・宗像変電所
・葦木神社
・乳授け地蔵
4.糟屋郡
・猪野ダム
・大福寺池
・神武原第2公園
5.那珂川市
・ホルン展望台
・五ケ山ダム
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竹尾緑地
『竹尾緑地』は福津市南部、古賀市との境界近くに整備された10ヘクタールほどの緑地帯である。
緑地の周囲には住宅街が形成されており、住民たちから「数少ない緑に囲まれたスペース」として大切にされているという。なお、タヌキ、サンショウウオ、日本アマガエルなどの野生動物が多数生息しており、生物保護区としての機能も有しているようだ。
竹尾緑地内では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊・情報は、「血だらけの女性が園内をうろついていた」「通路に生首がさらされていた」など。
福津市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するT氏にお話を伺った。
T氏:
「竹尾緑地の周辺に住宅が建ち始めたのは高度経済成長期頃から。周辺住民は同地のルーツを知らない方ばかり、動植物の宝庫と言われる竹尾緑地で発生したおぞましい事件のことも当然しらない」
1858年、筑前国内でコロリ病(コレラ)が大流行し、宗像郡(現在の福津市)を治めていた福岡藩はその対応に追われていた。なお、竹尾緑地(当時はただの緑地帯だった)のある日蒔野(ひまきの)でもこの病が流行し、多くの死者を出したと言い伝えられている。
広大な緑地の南に、「猪高(いだか)集落」と「松永集落」というふたつの村があった。
両集落は水利権をめぐる問題でもめており、暴徒化した住人による殺し合いまで発生していた。
猪高集落の住人たちは、新参者揃いの松永集落が突然形成されたことに不快感を示していた。また、周辺の住居および農家の増加以降、頻繁に水不足が発生していたという。
1858年の夏、猪高集落でコロリ病が大流行し、住民の3分の1が死亡。これに対し松永集落は、水利権争いで有利に立つべく、ある行動に出た。
松永集落は供給源の池を柵で覆い、猪高集落へと続く水路を遮断した。これに対し、コロリ病でボロボロ状態の猪高集落は、不意を突くやり方に激怒、猛抗議した。
しかし、今まで苦汁をなめさせられてきた松永集落は一歩も引かず、水利権を巡る対立はいつ爆発してもおかしくない状態にまで悪化した。
数日後の夜、猪高集落の暴徒たちは、コロリ病にかかった患者の下痢や吐しゃ物を木桶などに回収。それを松永集落の敷地内にぶちまけた。
犯行におよんだ暴徒たちの一部もコロリ病を患った。しかし、松永集落で発生した蔓延に比べるとはるかに生ぬるいものだったという。
松永集落の住人たちはぶちまけられた下痢や吐しゃ物を素手で触ったため、感染の急拡大を招いたと思われる。
猪高集落の暴徒たちは、最後の攻勢に打って出た。斧やナタで武装し、水利権問題を主導していた男たちに襲いかかったのである。
松永集落の男たちはひとり残らず捕縛、集落の北に位置する緑地帯まで移送され、首を切り落とされた。
生き残った松永集落の女子供、そして老人たちは、猪高集落で穢多(えた)として扱われ、奴隷以下の扱いを受けたという。なお、福岡藩は水利権問題の解決を喜び、そこで繰り広げられた暴挙には目をつぶったと言い伝えられている。
<まとめ>
◎竹尾緑地は霊のホットスポット。そこで斬首された男たちの霊がうろついている。
◎事件後、松永集落は猪高集落の生存者たちを差別し、奴隷のように扱った。
基本情報 | |
心霊スポット | 竹尾緑地 (たけおりょくち) |
所在地 | 〒811-3209 福岡県福津市日蒔野6-32-12 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
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沖田池
福津市の奴山(ぬやま)地区では、古墳時代や旧石器時代に築造された古墳群が多数発見されている。これらは同地区を代表する遺構として高く評価され、「新原(しんばる)・奴山古墳群」などがユネスコ世界文化遺産に登録された。
ここで紹介する『沖田池』は、世界文化遺産のすぐ近くに築造された農業用人造ため池である。なお、正確な築造年は不明。そこで発生した連続殺人事件は同地のタブーとされ、知る者は少なくなったという。
私は北九州地方の歴史とそれに関連する伝承を研究する某大学教授のE氏に連れられ、奴山の伝承資料を保管する老夫婦にお会いした。
M夫妻:
「同地の農業用ため池は、周辺集落の生活を支える重要な水源だった。しかし、そのひとつで殺人事件が発生し、住人たちは恐怖のどん底に叩き落された。そして大変残念なことに、この事件は未解決のまま闇に葬られた」
沖田池周辺では霊の目撃情報が相次いでおり、池本体に近づく者はほとんどいなくなったという。これまでに目撃された霊・情報は、「池に女性と思われる遺体が浮いていた」「女性の悲鳴が聞こえた」など。
1863年春、奴山地区一帯で大霜が発生、植えていた農作物が壊滅的な被害を受けた。
その年、筑前国宗像郡(現在の福津市)は相次ぐ天候不良にたたられていた。結果、石高は大きく減少、福岡藩の役人たちは救済措置等の対応に忙殺され、農村部の犯罪を取り締まることができなくなった。
同年夏、奴山地区で10代の少女3名が同時に失踪、住人たちは自警団を立ち上げ、山狩りを行った。しかし、情報や証拠を得ることはできず、数週間が経過した。
少女たちの遺体を発見したのは、田畑とため池を巡回していた自警団のひとりだった。
3名は築造されたばかりの池に遺棄されていた。いずれも服は着ておらず、全身あざだらけ。さらに乳房、女性器がえぐり取られ、耳と鼻は削ぎ落とされていたという。
村長は福岡藩に事件を届け出た。しかし、当時役詰め所に役人はほとんどおらず、「そのうち調査する」と言われ追い払われてしまった。
住人たちは自警活動を強化、同種の事件発生を防ぎつつ、犯人につながる証拠を探した。
数週間後、今度は少女だけでなく既婚者を含む女性、計8名が失踪。自警団の不安は的中した。
8名の遺体は最初の事件と同じため池で発見された。しかし、殺しの手口は最初より数段残忍になっていた。女性たちは腹を十字に切り裂かれ、内臓をむしりとられていたのである。
女性たちの首には、自分のものと思われる腸が巻き付いており、さらに、内臓の一部と思われる臓器が口内に押し込まれていた。
村長は、犯人につながる情報に私財の一部を提供すると述べ、本格的な事件の調査が始まった。
数日後、自警団は行方不明になっていた村長およびその家族を池の麓で発見した。
村長、妻、子供たちは、樹木の枝に逆さまに吊るしあげられ、股から脳天まで真っ二つに引き裂かれていた。その死に様はすさまじく、第一発見者は恐怖のあまり失神、糞尿を垂れ流した状態で保護されたという。
以来、沖田池は殺人事件の舞台として恐れられるようになり、殺された者の霊が彷徨っていると噂されるようになった。なお、福岡藩の役人は数か月後に事件の調査を開始したが、それらしい証拠を見つけることはできず、事件は未解決のまま闇に葬られた。
<まとめ>
◎沖田池は大量殺人事件の舞台。犯人は捕まらずじまいだった。
◎殺された女性たち、村長とその家族は怨霊になり、沖田池周辺を彷徨っている。
基本情報 | |
心霊スポット | 沖田池 (おきたいけ) |
所在地 | 〒811-3522 福岡県福津市奴山 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
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古賀海岸
古賀市西部、博多湾に面する海岸線沿いには、知る人ぞ知る隠れ観光スポットがある。ただし、そこの海岸一帯は遊泳禁止エリアなので、遊泳やサーフィンなどではなく、散策を楽しむべきだろう。
遊泳禁止エリアの一角に『古賀海岸』と呼ばれる美しい夕日を楽しめる観光スポットがある。ここには「夕陽風景時計」と呼ばれるモニュメントが設置されており、周辺住人の散歩コースになっているようだ。
同海岸の一部エリアは霊の出没スポットになっている、と噂されている。これまでに目撃されて霊・情報は、「浜に生首が並べられていた」「ナタを持った男に追いかけられた」など。
私は北九州地方の歴史とそれに関連する伝承を研究する某大学教授のE氏の紹介で、先祖代々古賀市(旧糟屋郡)出身というY氏に貴重な伝承資料を見せていただいた。
Y氏は、「古賀海岸周辺の住宅街は戦後に整備されたため、そこで起きた事件を知る者はほとんどいない。当時、私の一族は海岸近くに形成された小さな村の住人だったため、凄惨な事件を目撃することになった」と述べた。
1868年、日本は新政府軍vs幕府軍による戦い、「戊辰戦争」の混乱下にあり、北九州地方も荒れに荒れていた。
当時、筑前国を治めていた福岡藩は、戦争の影響で他国の治安維持活動にもあたっており、自国の取り締まりがないがしろにされていたという。
筑前国糟屋(かすや)郡の海岸沿い、防風林の中に形成された「柿山集落」は、イノシシなどの野生動物を捕獲し、その皮や肉を販売することで生計を立てていた。
住人たちは一流の狩人で構成され、警戒心の強いシカ、猿など、ありとあらゆる野生動物を捕縛、解体した。
これに対し、海岸から離れた地に集落を形成した「蓮沼(はすぬま)村」の者たちは、柿山集落の行いを残酷極まりないと非難。動物の皮を剥ぎ取りそれで商売する悪魔たちと名指ししたうえで、「人に非(あら)ず」と差別した。
柿山集落の住人たちは戦争の混乱下にあっても必死で働き、野生動物から得られる恵みで何とか生活することができた。
一方、蓮沼村の者たちは、野生動物の狩りだけで要領よく成果を上げる柿山集落の滅亡を願うようになった。
柿山集落の住人たちは「非人」と呼ばれ、差別された。しかし、彼らをそう呼ぶのは蓮沼村の者だけで、他の集落や村は差別に嫌悪感を抱いていた。
ある日、蓮沼村の血気盛んな男たちが斧とナタで武装、柿山集落を襲撃した。しかし、一流の狩人たちはこの攻撃を軽く受け流し、男たちを叩き伏せたという。
蓮沼村の男たちはプライドを傷つけられ、周辺集落の笑いものになった。その後、「彼らが柿山集落に再攻撃を仕掛ける」という噂が流れた。
周辺集落の住人たちはこの噂を柿山集落に伝え、役所に通報。福岡藩は差別を厳しく取り締まることで知られており、戊辰戦争中の混乱期にも関わらず50名規模の小隊を現地に派遣してくれた。
この時、蓮沼村の住人たちは総出で柿山集落を襲撃。女子供を盾に取り、狩人たちに自害を迫っていた。
福岡藩の小隊は、海岸沿いで蓮沼村の住人たちのバラバラ遺体を発見。その横には柿山集落の住人たちも倒れており、検分の結果、彼らの死因は自害と判明した。
この事件以降、古賀海岸の南エリアは立ち入り禁止になり、現在の遊泳禁止につながったとY氏は述べた。
<まとめ>
◎蓮沼村の住人百数十名は、古賀海岸南エリアでバラバラにされた。
◎この事件により蓮沼村は廃村、柿山集落の住人も全員自害し、古賀海岸南エリアは立ち入り禁止になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 古賀海岸 (こがじんじゃ) |
所在地 | 〒811-3101 福岡県古賀市天神7-6-10 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約40分 【高速】福岡空港から約35分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約45分 【高速】博多駅から約35分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 福岡県観光連盟 公式ホームページ |
古賀海岸
— 古賀市観光協会 (@kogakk) August 1, 2020
波打ち際を歩いていると、小さなアサリたちと遭遇。
歩いてん道浜辺コース、気持ちの良い散歩道です。
7月31日撮影
from スタッフ pic.twitter.com/Gat3ADMA4n
イランタン霊場
古賀市東部、雑木林に覆われた林道の最深部付近に『イランタン霊場』と呼ばれる遺構がある。
これは、仏教寺院、「四国八十八箇所(四国巡礼で有名)」にあやかり設置された「新四国八十八箇所霊場」のひとつ。現地には不動明王、石塔、供養碑などが建立されている。
イランタン霊場は江戸時代中期に建立されたと言い伝えられているが、詳細は不明。なお、そこで発生した「浄土真宗(一向宗)」への拷問処刑を知る者は少ない。
古賀市の伝承を研究する歴史家のA氏曰わく、「イランタン霊場にはもともと小さな祠(ほこら)しかなかった。しかし、厳しい取り締まりからそこに逃れた一向宗が不動明王などを建立、人知れず仏に祈ったと言い伝えられている。なお、一向宗への弾圧は、北九州全域に広まっていた」という。
1840年、筑前国で疱瘡(ほうそう)と呼ばれる原因不明の疫病が蔓延、数千名が死亡した。
当時、患者たちに寄り添っていた医師はこの病をほとんど発症せず、人から人にうつるとは考えられていなかったという。これらの報告を医師から受けた福岡藩藩主の黒田氏は、感染源の特定に心血を注いでいた。
一方、筑前国糟屋郡(現在の古賀市)の住人たちは、キリシタンもしくは一向宗がこの病の感染源だと信じていた。
このような考えに至った理由は不明。住人たちはどこからともなく流れてきた噂を信じ、キリシタンと一向宗を抹殺すれば疱瘡は消えてなくなると信じたのである。
当時、筑後国内には相当数の一向宗がいたと考えられている。彼らは疱瘡の感染源と決めつけられ、厳しい立場に追いやられた。
山間部の集落に「一向宗が潜伏している」という噂を聞いた糟屋郡の暴徒たちは、取り締まりを開始した。
同じ頃、糟屋郡の山中で生活していた一向宗たちは、自分たちの身に迫る危機を察知し、人目に付きにくい雑木林への撤退を始めていた。
信者たちは雑木林に覆われた林道を進み、隠れ家候補のひとつ、イランタン霊場近くに集まった。
その後、村から運んできた不動明王像をイランタン霊場に設置、祈りを捧げ、事態の沈静化を願った。
藩主の黒田氏は浄土真宗への取り締まりを強化していた。しかし、私刑は認めておらず、信者たちが疱瘡の感染源にされたという噂を聞きつけ、「不当な取り締まりを禁ずる」という御触れを出した。
A氏の伝承資料によると、イランタン霊場付近に潜伏していた一向宗数十名は、暴徒化した男たちに捕縛、過酷な拷問を受け、憤死したという。
一向宗たちは全裸で樹木に固縛され、全身の皮を削り取られた。その後、暴徒たちは信者をひとりずつ解体、肉塊を不動明王およびそこに設置された祠(イランタン霊場の本体)に叩きつけ、血と肉で汚した。
1840年、冬、疱瘡は糟屋郡全域に蔓延し、数千名が命を落とした。
その後、イランタン霊場は数十年もの間放置されていたが、明治維新後に浄土真宗への取り締まりは終了。そこに集まった信者たちは、供養塔や墓、石塔などを建立し、惨殺された者たちを供養したという。
<まとめ>
◎イランタン霊場の不動明王や石塔は、浄土真宗の信者が建立した。
◎証拠もなく疱瘡の感染源と決めつけられた一向宗たちは、拷問処刑ののち、憤死した。
基本情報 | |
心霊スポット | イランタン霊場 (いらんたんれいじょう) |
所在地 | 〒811-3123 福岡県古賀市米多比 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間 【高速】博多駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 古賀市観光協会 公式ホームページ |
辿り着く事が出来なかったイランタン霊場に続く山道。沢沿いの獣道がよく分からず引き返した。ネット上には詳しい情報がないからなぁ。 pic.twitter.com/YH0iOplOeb
— masahi (@masahi_d) February 6, 2019
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宗像変電所
『宗像(むなかた)変電所』は九州電力㈱の変電所である。これは、「宗像(むなかた)ユリックス」と呼ばれる古墳公園の外れに建設され、周辺地域への電力の安定供給に今も貢献している。
同変電所周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。なお、九州電力の関係者によると、同変電所構内でも霊を目撃した者が複数いるという。
これまでに目撃されて霊・情報は、「変電所の横に遺体が積み重なっていた」「刀を持った男が立っていた」など。
宗像市で生まれ育ち、同地の希少な伝承資料を受け継ぐH氏曰わく、「宗像郡内で蔓延したコロリ病(コレラ)は同地でも猛威を振るい、数百名が死亡したと言い伝えられている。ただし、ここでは病だけでなく、他の要因が重なり死者が倍増した」という。
1858年、筑前国内で発生したコロリ病は徐々に感染エリアを広め、宗像郡(現在の宗像市)全域に広まりつつあった。
同年秋、久原地区では、夏の大雨および台風の影響で稲が壊滅的な被害を受け、深刻な米不足に陥っていた。
さらに同じ頃、集落のひとつでコロリ病の患者が確認され、住人たちは食糧難と疫病から身を守らねばならなくなったのである。
各集落の長たちは、福岡藩に税の免除およびコロリ病対策を依頼した。これに対し福岡藩は、税の減免は認めてくれたものの、「免除は不可」としたうえで、「コロリ病対策は自所で判断しろ」と命じた。
数週間後、久原地区内のコロリ病患者はジワジワと増加し、他の集落でも感染が報告されていた。感染確認以降、領民たちは極力移動を控えるよう命じられていたが、食料の調達などを禁じることはできず、人の往来は年末が近づくにつれ増加した。
1858年冬、久原地区内の集落で恐ろしい事件が発生した。
「小ケ田(おがた)集落」の住人78名中63人がコロリ病に感染。さらに、食糧難の影響で残り15名も餓死寸前だった。
結局、感染した63人はひとりも助からなかったという。また、ボロボロに痩せ細った15名も全員餓死。小ケ田集落全滅の噂はあっという間に広まり、周辺集落は大混乱に陥った。
この事件以降、食糧難と疫病の侵攻に屈し、自殺する者が相次いだという。さらに、「人を殺してでも生き延びたい」と考える者たちが現れ、地区の治安は急激に悪化した。
集落の長たちは住人に助け合うことを強く呼びかけた。しかし、食糧難と疫病の同時侵攻は住人たちの理性を破壊、最後に残ったのは生存本能だけだった。
生き延びたい者たちは、死者の皮と内臓を喰らった。しかし、感染者の肉を食べた者がコロリ病に感染、死亡するという負のスパイラルが発生。状況はさらに悪化した。
数か月後、久原地区の集落はほぼ壊滅。コロリ病に感染していない死者の肉を食べた数名が生き延びることに成功した。
しかし、生き延びた数名には過酷な運命が待っていた。彼らは殺人の罪で役人に捕縛、市中引きずり回し後、「鋸(のこ)引きの刑」に処されたのである。
以来、同地は霊のホットスポットになり、小ケ田集落跡地に建設された宗像変電所周辺で霊の目撃情報が相次ぐようなったという。
<まとめ>
◎宗像変電所周辺はコロリ病と食糧難の同時攻撃で滅びた小ケ田集落跡地に建設された。
◎久原地区を事前に脱出した者のみが生き残り、その他はひとり残らず死亡した。
基本情報 | |
心霊スポット | 宗像変電所 (むなかたへんでんしょ) |
所在地 | 〒811-3437 福岡県宗像市久原171-1 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約55分 【高速】福岡空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約55分 【高速】博多駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
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葦木神社
二級河川「釣川」の下流域付近では霊の目撃情報が相次いでおり、深田地区周辺に現れるそれらは人間に敵意を向けるものが多いという。
昨年、私は同地区南部の『葦木(あしき)神社』周辺に現れる霊と接触。人間に対する敵意を肌で感じ取り、同地の伝承に興味を持った。
それから数か月後、宗像(むなかた)市の某所から私の友人のシャーマンに除霊依頼が入り、同行させてもらうことになった。なお、依頼主は葦木神社の関係者ではないのであしからず。
私はシャーマンを放置し、宗像市の伝承資料を受け継ぐT氏にお会いした。
T氏:
「釣川の河川敷には福岡藩の拷問処刑場があったと言い伝えられている。それは戦国時代に整備され、江戸時代末期頃まで運用された。なお処刑された者は、葦木神社の裏、当時周辺地域を結ぶ街道の要所として栄えた池の近くにさらされた」
1828年、北九州に上陸した台風の影響で筑前国宗像郡(現在の宗像市)の釣川下流域は洪水に見舞われた。結果、周辺集落の大半が水に浸かり、数十名が死亡。それに伴い治安もひどく悪化し、各地で犯罪が横行した。
福岡藩藩主の黒田氏は、宗像郡の役人に治安維持の強化および、領民に手を出す者が現れれば、「容赦なく処刑せよ」と御触れを出した。
宗像郡の役所を取りまとめていた「桑原(くはら)氏」は、黒田氏の承認を得たうえで、緊急事態下の悪質な犯罪行為に対し、拷問処刑を科すと宣言した。
T氏の伝承資料によると、洪水等で疲弊した地域の領民を狙った犯罪は盗み、強盗、殺人、すべてが処刑の対象になった。ただし、領民間のいざこざ等により発生したもの、情状酌量の余地があると判断されたものはこれに該当せず、「外部から侵入してきた者たち」が特に厳しく取り締まられたという。
黒田氏の御触れは効果を発揮した。洪水で深刻な被害を受けた地域の領民たちは、見覚えのない不審な連中が周辺をうろついていると、すぐ役所に通報。また、自警団による取り締まりを強化する集落まで現れた。
御触れの発出以降、桑原氏は100名以上の犯罪者を捕縛。周辺住人と役所のチームワークは上手く機能し、素晴らしい成果を上げたのである。
桑原氏は捕縛した者の罪を精査したうえで、盗みおよび強盗に対しては「皮剥ぎ火刑」、殺人を犯した者には「鋸(のこ)引きの刑」、そして複数名を殺害した者には、「虫喰いの刑」をプレゼントした。
処刑は釣川沿いの拷問処刑場で一般公開され、周辺住人を大いに沸かせた。
女性1人を集団で強姦、殺害した容疑者たちは、大喝采を浴びながら真っ二つに切り裂かれたという。なお、鋸引きの刑は、罪人を逆さまに吊るし上げ、切れ味の悪いノコギリで股から脳天までをゴリゴリと切り裂く地獄の拷問処刑である。
この刑を受けた罪人たちは心臓付近にノコギリが達するまで死ねず、”運の悪い者”は、脳を切り裂かれるまで地獄の苦しみを味わい続けたという。
そして究極の処刑のひとつと恐れられる「虫食い」は特に惨たらしく、観衆も震え上がるほどの凄まじさだった。
罪人は全裸状態で逆さまに吊るしあげられ、肛門を引き裂かれる。そして、全身および下腹部内にハチミツや砂糖を塗りたくられるのだ。
準備が整ったら、「数日間食事を与えず飢餓状態にしたネズミ数十匹」を罪人の肛門から体内に投入。ネズミたちは罪人の体内で血肉をタップリ喰らうのである。
死亡した罪人たちは、周辺地域を結ぶ街道の要所(葦木神社の裏)などにさらされ、カラスや野犬のエサになった。なお、罪人たちの供養は固く禁じられていたため、骨は周辺の雑木林などに遺棄されたという。
以来、釣川下流域の拷問処刑場跡周辺および葦木神社では霊が目撃されるようになり、明治時代末期頃から死者を祀る墓や供養塔などの建立が順次始まった。
<まとめ>
◎葦木神社の裏(旧街道)には、釣川河川敷で拷問死した罪人の遺体がさらされた。
◎遺体を供養せず雑木林などに遺棄し続けた結果、霊が出没するようになった。
基本情報 | |
心霊スポット | 葦木神社 (あしきじんじゃ) |
所在地 | 〒811-3504 福岡県宗像市深田126 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間5分 【高速】福岡空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間5分 【高速】博多駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 宗像市 公式ホームページ |
乳授け地蔵
宗像市を代表する心霊スポットとして知られる「宗像氏のお家騒動」関連遺構には、興味深い施設がたくさんある。
その中のひとつ『乳授け地蔵』は、「菊姫の首塚」とも呼ばれており、戦国時代に発生したと”言い伝えられている”お家騒動で処刑された菊姫の怨霊が出没するらしい。
しかし、同地の伝承を受け継ぐ住人たちは、お家騒動より恐ろしい事件がここで発生したことを知っている。そして、事件の影響でそこにあった祠(ほこら)は乳授け地蔵と名付けられたという。
宗像氏吉留の住人、E氏:
「乳授け地蔵の北に位置する”平山池”は、江戸時代中期に築造され、その麓にはある家族が眠っていると言い伝えられている。その家族はある集団の襲撃を受け、処刑された」
1784年、東北地方から広まった原因不明の異常気象の影響で、北九州の農作物はことごとく枯れ、致命的なレベルの飢饉が発生した。
筑前国宗像郡(現在の宗像市)の農作物も壊滅的な被害を受けた。しかし、一部の地域は過去に発生した飢饉の教訓から天候の変化に強い農作物の栽培を推し進めていたため、影響を最小限に抑えることができたという。
平山池の麓で生活していた「治左ヱ門」は、隣人農家の「兵右衛門」とサツマイモを栽培していた。
治左ヱ門は同地にフラっと流れ着いた浪人風情の独身男だったが、農作物の栽培だけでなく狩猟、漁、伐採など、何でもこなせるオールラウンダーとして平山池の麓に定着し、そこで出会った兵右衛門一家と静かに暮らしていた。
ある日、平山池から数キロ離れた集落の一団が兵右衛門の自宅に押し寄せ、収穫したばかりのサツマイモを奪おうとした。
異変を察知した治左ヱ門は、兵右衛門と家族を保護したうえで、集落の一団、計20名を拳ひとつで叩き伏せた。
その後、集団は「食料を分けてほしかった」と頭を下げたため、治左ヱ門は自分のサツマイモを全て与え、「同じ過ちを犯してはならない」と警告した。
この時、兵右衛門の妻は妊娠しており、3人の子供も食べ盛りだった。
治左ヱ門は兵右衛門一家の生活を優先し、貴重なサツマイモを全て失った。が、イノシシやシカなどを軽々と狩り、あっという間に新しい食料を調達した。
数週間後、丘陵地帯で狩りをしていた治左ヱ門は、平山池の麓から煙が上がっていることに気づいた。
池の麓の住居はほぼ燃え尽きていた。治左ヱ門は兵右衛門一家の安否を確認したが、遺体はどこにもなかった。
兵右衛門一家は平山池の南、不動明王の祀られている小さな祠にいた。
兵右衛門と3人の子供は斬首。妻の死に様は特にひどく、腹を真っ二つに切り裂かれ、体内から取り出された赤子の頭を口内に押し込まれていた。
この猟奇的な事件を起こしたとされる集落は何者かの襲撃を受け、住人40名はひとり残らず首を切り落とされたという。なお、祠に安置されていた不動明王は行方不明になり、そこは「妊産婦の祠」と呼ばれるようになった。
<まとめ>
◎乳授け地蔵(妊産婦の祠)は、そこで処刑された兵右衛門一家を祀っている。
◎治左ヱ門の消息は不明。なお、平山池の麓には、兵右衛門一家のものと思われる墓標が残されている。
基本情報 | |
心霊スポット | 乳授け地蔵 (ちちさずけじぞう) |
所在地 | 〒811-4153 福岡県宗像市吉留 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約55分 【高速】福岡空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間5分 【高速】博多駅から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 宗像観光協会 公式ホームページ |
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猪野ダム
糟屋(かすや)郡北東部、二級河川「猪野川(いのがわ)」の上流域には、奇怪な伝承が残されている。
ここで紹介する『猪野(いの)ダム』は、猪野川の上流域に建設された多目的ダムである。2000年に運用を開始し、河川の洪水調整だけでなく、住人に水道用水を供給する役目も担っているという。
周辺住人の生活と安全を守っている同ダムでは、霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊・情報は、「女性がダム湖から這い出てきた」「外周道路に血まみれの女性が立っていた」など。
私は北九州地方の歴史とそれに関連する伝承を研究する某大学教授のE氏の紹介で、同地の伝承資料を受け継ぐ老夫婦にお会いした。
A夫妻:
「猪野ダムの建設地点には、ある女性の供養碑が建てられていた。しかし、そこに集落や家屋はなく、ダム工事が始まった時点で、それ自体もかなり風化していた。私は供養碑の残骸を回収し、今も大切に保管している」
1837年、糟屋郡猪野地区、猪野川の上流域近くに形成された小さな集落で育った「ハナ」は、繁華街の裕福な商家、「立元氏」の屋敷で下女として働くことになった。
ハナは特別別嬪(べっぴん)な女ではなかった。しかし、人懐っこく明るい性格のおかげで人付き合いに苦労することはほとんどなかったという。
一方、立元氏の屋敷で上女中(女中の取りまとめ役)を務める「セン」は、ずば抜けた器量の持ち主だった。しかし、性格に少々難があり、他の女中や下女から嫌われていた。
センは新参者のハナを”いびリ”倒し、ストレスを発散させた。一方、周囲が心配するほど嫌がらせを受けたハナは、あまり物事を深く考え込まない性格らしく、泣くほどいびられても、数時間後にはケロっとしていた。
数か月後、ハナの明るい性格は繁華街中に知れ渡り、若い男たちに追いかけ回されるほどの人気を得ていた。
また、立元氏もハナを気に入り、町の会合などにお茶汲みとして同行させていた。
ハナに結婚を申し込んだ男は、筑前国藩主、黒田氏の親戚にあたる名家の四男だった。
ハナは両親と立元氏に承認を得た上で、この縁談を快諾。祝儀の段取りはトントン拍子で進んだ。
同じ頃、センは自分よりはるかに劣るハナが名家に嫁ぐと知り、怒りを爆発させた。そして、今回の縁談話を潰し、性格だけの女を地獄に叩き落すと決めたのである。
夜、センは数日前に雇った腕の立つ浪人と共にハナを捕縛。立元氏の屋敷からハナの生まれ故郷近くに移動した。
センと浪人はハナの両親も捕縛。計3人を猪野川の上流域に移送し、対面させた。
浪人は、捕縛した両親の目の前でハナを何度も辱め、貞操を奪った。さらに、今度はハナの母を辱めた挙句、首を切り落とした。
その後、父親も同じ末路をたどり、両親の処刑を見せつけられたハナは憤怒の炎を燃え上がらせ、発狂した。
その様子を見届けたセンは、自分の短刀をハナの女性器に突き刺し、腹に向かって切り裂いた。
ハナは断末魔の悲鳴を上げ、センの喉元に喰らいつき、憤死。頸動脈を噛み切られたセンも失血死した。
その後、事件の調査を行った役人たちが、死亡した4人の供養碑を建立したという。
<まとめ>
◎猪野川の上流域に埋葬されたハナたちは、ダム湖の底に沈んだ。
◎役人たちはセンが殺人の首謀者であることに気づかず、4人の遺体を同じ墓穴に埋葬した。
基本情報 | |
心霊スポット | 猪野ダム (いのだむ) |
所在地 | 〒811-2503 福岡県糟屋郡久山町大字猪野 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約45分 【高速】博多駅から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 福岡県 公式ホームページ |
大福寺池
JR九州、香椎線新原(しんばる)駅の裏手に広がる『大福寺池』周辺では、霊の目撃情報が相次いでいる。
これまでに目撃された霊・情報は、「遺体が浮いていた」「女性の悲鳴が聞こえた」など。
この池は、周辺集落や田畑に水を供給する貴重な水源のひとつだった。しかし、水道設備が整備され、田畑の数も減少したため、今ではただのため池もしくは釣り場と勘違いしている人もいるという。
糟屋郡宇美町(うみまち)で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するY氏は、「周辺集落の住人たちは、大福寺池近くで発生した事件をタブー視するようになり、それを語り継ぐ人は少なくなった。しかし、事件を葬り去っても、そこに巣くう霊は消えない」と述べた。
1877年、九州は新政府軍vs西郷軍による戦い、「西南戦争」の影響で混乱状態にあった。
福岡県内でこの戦争に関連する戦いや争いは発生しなかった。しかし、元藩兵や役人たちが新政府軍の応援などに駆り出されたことで、役所は極端な人員不足に陥り、戦地以上に治安が悪化したという。
同じ頃、糟屋郡周辺で奇怪な事件が立て続けに発生し、住人たちを震え上がらせていた。
Y氏の伝承資料によると、容疑者たちは十数名で行動し、集落を襲撃。10代前半~30代後半の女性のみを誘拐したという。
女性たちは心臓を含むすべての臓器と脳をむしりとられ、「空っぽ」状態で遺棄されていた。この猟奇的な殺害方法が噂になり、周辺住人たちは眠れない夜を過ごしたのである。
一方、役人たちの取り締まりは西南戦争が激しさを増すにつれ減少。容疑者たちは活動を活発化させ、小さな集落や村を狙った。
大福寺池のある宇美町は、福岡県の繁華街エリアから比較的近い地域だったため、役人たちは「放っておいても大丈夫」と考え、人里離れた地域の取り締まりを強化、容疑者たちはそのスキをついた。
ある日、同池の東に位置する「牧園集落」で10代前半の少女3名が誘拐された。
少女たちはそれぞれ自宅で就寝中に襲撃を受け、家族はひとり残らず切り殺されていたという。
集落の長は事件の発生を役所に報告した。しかし、「人員不足が解消するまで調査は待ってほしい」と言われ、自警団で対処することが決まった。
少女たちの遺体は大福寺池の麓で発見された。その死に様は噂とほぼ同じ、内臓と脳ミソをキレイさっぱり失い、さらに、乳房と女性器までえぐり取られていたという。
数週間後、自警団の活躍で事件は何とか終結した。
容疑者たちは牧園集落だけでなく、他の村や繁華街などからも若い女性をかき集め、大福寺池の麓で10名近くを同時に捕食していた。
この騒ぎに気付いた自警団は、手元の戦力と武器でこれに戦いを挑み、勝利したのである。しかし、誘拐された女性、計30名を救うことはできなかった。
容疑者たちは、女性の両手足を固縛したうえで、生きたまま腹を切り裂き、内臓を喰らっていた。さらに、乳房と女性器はいずれも噛み切られており、手の施しようがない状態だったという。
以来、大福寺池では生きたまま喰われた女性の霊が出没すると噂になり、池の麓に死者を祀る祠(ほこら)と供養碑が建立された。
しかし、事件がタブー視されたことで、祠と供養碑も長年放置されてしまい、今では当時の姿をほとんど残していない。結果、そこに巣くう者の怒りを買い、霊が頻繁に出没するようになった、とY氏は述べた。
<まとめ>
◎大福寺池は、女性ばかり狙った猟奇的な殺人事件の舞台。
◎池の麓には、犠牲になった女性たちを悼む祠と供養碑の跡が残されている。
基本情報 | |
心霊スポット | 大福寺池 (だいふくじいけ) |
所在地 | 〒811-2122 福岡県糟屋郡宇美町明神坂3 |
種別 | 怨霊 |