沖縄県内には興味深い心霊スポットが数多く存在する。ただし、10万人近い民間人が犠牲になった太平洋戦争関連の遺構で霊を見たという噂はあまり聞かない。

今回は糸満市他、4市1郡の最恐心霊スポット12カ所(PART2)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.糸満市
   ・喜屋武岬
   ・米須グスク
   ・国吉神社
 2.豊見城市
   ・饒波のシーサー
   ・英慈王之墓
   ・真玉橋遺構
 3.浦添市
   ・せせらぎ公園
   ・経塚の碑
 4.中頭郡
   ・長浜ダム
   ・チビチリガマ
 5.宜野湾市
   ・野嵩クシヌカー
   ・比屋良川公園

まとめ

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喜屋武岬

沖縄戦最大の激戦地、糸満市の南端付近に『喜屋武岬(きやんみさき)』と呼ばれる国定公園がある。

ここは米軍に追いつめられた住民数百名が自決した場所として有名になり、今では糸満市を代表する観光スポットのひとつになった。

青く透き通った海と断崖絶壁を堪能できる喜屋武岬およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに確認された霊・情報は、「斧を持った男に追いかけられた」「エリア内に生首が並べられていた」など。

糸満市の貴重な伝承資料を保管するT氏にお話を伺った。曰わく、「喜屋武岬は琉球王国時代に発生した事件以降、いわく付きの場所として恐れられ、事件に関連する記録はタブー視された。そして、沖縄戦の激闘でその記録はほぼ潰えた。しかし、記録や記憶が消えても、霊は消えない」という。

1825年、琉球王国の作物は記録的な雨と風の影響でことごとく枯れ、致命的なレベルの飢饉が発生していた。

最も深刻な影響を受けた本島南エリアでは、暴動、食料の奪い合い、米騒動などが発生した。しかし、大半の島民は米粒ひとつ確保することすらできず、犬、猫、虫、雑草、土などを食べて飢えをしのいだという。

同じ頃、本島南端、喜屋武岬近くに形成された「尾浜(おばま)集落」の住民たちは皆の力を合わせて漁に励み、何とか食いつないでいた。

一方、尾浜集落の北、「上高田村(かみこうだそん)」の住民たちは個々で行動する者が多く、飢える者は放置され、死んだ。

ある日、上高田村の住民数名が尾浜集落に押し入り、食料を奪い取ろうとした。しかし、漁で身体を鍛えた屈強な漁師たちは彼らを軽々と捕縛、役所に突き出した。

この行為に上高田村の住民たちは憤慨、「飢えている者たちを叩き伏せ、見殺しにする卑劣極まりない犯行」と激しく反発し、攻撃態勢をとった。

これに対し尾浜集落は、上高田村の自分勝手な略奪行為に抵抗すべく、琉球王国および支配者の島津氏に歎願書を提出。自分勝手な理由で食料を奪い取ろうとする者たちへの処分を要求した。

しかし、薩摩藩はこの要求を却下、「食料を隠し持っているなら、周辺集落と共有しろ」と命じ、その噂は南エリア一帯に流れたという。

お上の承認を得た上高田村は、再度尾浜集落を襲撃、今度は食料だけでなく住民にも襲いかかり、抵抗する男たちをひとり残らず捕縛した

数日後、上高田村の暴徒たちは、捕縛した数十名の男たちを喜屋武岬に移送。「薩摩藩に歯向かう反逆者を粛正する」という名目で男たちの首を叩き切り、海に遺棄したのである。

以来、「喜屋武岬で殺された男たちの霊を目撃した」という情報が相次いで寄せられるようになり、近づく者はほとんどいなくなったという。なお、尾浜集落の生存者たちはこの事件を役所に報告したものの、「自業自得」と嘲笑され、調査らしい調査は全く行われなかった。

まとめ
尾浜集落の住民たちは、汚名を着せられたまま喜屋武岬で斬首、憤死した

尾浜集落の生存者たちは、翌年の飢饉で9割が死亡。その後、集落は取り壊されたという

基本情報
心霊スポット喜屋武岬
(きやんみさき)
所在地〒901-0354
沖縄県糸満市字喜屋武
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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②アクセス
【一般道】那覇港から約30分
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飛び込みスポット #具志川城跡 #喜屋武岬

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米須グスク

沖縄県で最も有名な記念碑”ひめゆりの塔”の東に、知る人ぞ知る城跡がある。

ここで紹介する『米須(こめす)グスク』は、琉球王国時代以前の城跡と言われている。しかし、詳細な発掘調査は行われておらず、分からないことが多いという。

同城跡周辺では昼夜を問わず霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに確認された霊・情報は、「雑木林の奥から女性の悲鳴が聞こえた」「全身血だらけの女性が城門跡近くに立っていた」など。

私は沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏と共に、糸満市の貴重な伝承資料を保管する老夫婦にお会いした。

Y夫妻:
「琉球王国の治安が乱れに乱れた頃、米須グスク近くで発生した連続殺人事件は周辺集落を震え上がらせ、大混乱を引き起こしたと言い伝えられている。なお、犯人は不明、新政権樹立後の騒ぎで役人たちの調査もほとんど行われず、事件は闇に葬られた

1879年、琉球王国は大日本帝国に併合され、その歴史に幕を下ろした。

当時、これに反対する暴動が各地で発生、国内の治安は激しく乱れ、大混乱に陥っていた。さらに、最前線で働く役人たちも暴動に参加し、混乱に拍車をかけたという。

一方、琉球王国と元支配者の鹿児島県は、明治政府との交渉などに時間を取られ、暴動を鎮圧するだけで手一杯だった。結果、個人単位の犯罪は野放し状態になったのである。

同年4月、米須グスク近くの集落で女性4名が同時に姿を消し、後日遺体となって発見された。

被害者はいずれも10代後半。眼球、乳房、女性器をえぐり取られ、耳と鼻は削ぎ落とされていたという。

猟奇的な殺人事件は周辺住民を恐怖のどん底に叩き落した。さらに、事件の調査を役所に依頼するも、「忙しい」「自警団を設置し、自分たちの力で取り締まれ」と罵声を浴び、全く相手にされなかったという。

数日後、今度は別の集落で女児5名が突然失踪。自警団による見回りを開始した直後の出来事だったため、住民たちはひどく落胆した。

その後、5名は最初の被害者と全く同じ姿で発見され、周辺住民の怒りと恐怖、そして混乱が爆発した

半狂乱状態に陥った自警団は、周辺集落に近づく者をひとり残らず捕縛、容疑者と決めつけ拷問した挙句、殺害したのである。

自警団は1週間で50人を処刑。遺体は集落の周囲にさらし、他の村や繁華街の住民を威嚇した。

しかし、その後も女性を標的にした殺人事件を防ぐことはできず、惨殺遺体はいずれも米須グスクの広場やその周辺で発見されたという。

まとめ
米須グスクは連続殺人事件の舞台。ただし、当時の記録は琉球処分の影響でほとんど残っていない

何者かに殺害された女性や女児の霊は、今も同地周辺を彷徨っている

基本情報
心霊スポット米須グスク
(こめすぐすく)
所在地〒901-0335
沖縄県糸満市字米須304
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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国吉神社

国吉神社』は、糸満市の繁華街から少し離れた住宅街の外れに建立された神社である。

同社の北、緑に覆われた丘陵地帯には琉球王国時代以前に築城された「国吉城(グスク)」があったと言い伝えられている。しかし、当時の面影は全く残っておらず、それらしい遺構も確認できない。

国吉神社およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。また、「肝試し中の高校生カップルが行方不明になった」という真偽不明の噂が流れたこともあり、心霊スポットとして注目を集めた時期もあったようだ。

これまでに確認された霊・情報は、「本堂裏の雑木林から男性の悲鳴が聞こえた」「黒焦げになった遺体が鳥居前に積み上げられていた」など。

糸満市国吉地区で生まれ育った元高校教師のU氏にお話を伺った。

U氏:
「国吉神社の本殿は20年ほど前に建て替えられている。なお、旧本殿の建立年は不明、同地で浄土真宗(一向宗)の弾圧が行われた時には、既にあったと記録されている」

1835年、琉球王国を支配していた薩摩藩は、南九州一帯で開始した一向宗への弾圧を本島でも採用、抵抗する者は死刑に処すと御触れを出した。

琉球王国の一向宗勢力は限られていた。しかし、本土の信者は武器を捨てたが、琉球の者たちは教義だけでなく、武芸を磨くことも忘れていなかったという。

一向宗は寺や住職を守るために武装しチームワークも素晴らしかった。薩摩藩藩主の島津氏は織田信長と同じく、日々鍛錬を積む一向宗に恐怖し、国の治安を守るためには排除するほか手はない、と考えたのである。

1835年の秋、琉球王国と薩摩藩の連合軍は国吉地区に建立された浄土真宗の寺を急襲。チームワークで対抗する信者を叩き伏せ、約半数を捕縛した。

一方、急襲を受け命からがら脱出した他の信者たちは、国吉神社の北、国吉城跡に立てこもった。しかし、連合軍の追撃は早く、そして強かった。

その後、連合軍は捕縛した信者に棄教を迫り、拒否した者を「皮剥ぎ火刑」に処したという。

これはその名の通り、容疑者の皮を剥がし(剥ぎ取り)、火あぶりにする拷問処刑である。

数日後、島津氏は棄教に応じた者も全員一律で処刑した。凶行に及んだ理由は、九州各地で棄教すると嘘をつき、何度も取り締まられる信者が後を絶たなかったためと思われる。

拷問処刑は国吉神社の南、鳥居のすぐ近くで行われた。U氏の伝承資料によると、「全身の皮をえぐり取られた状態でジワジワ焼かれた信者たちは、この世のものとは思えないレベルの叫び声を上げたという。なお、処刑は全て公開で実施され、数百人がこの様子を黙って見守った。

まとめ
国吉神社に出没する霊は、同地で処刑された一向宗だと思われる

全身の皮を剥ぎ取られジワジワ焼かれた一向宗たちは、この世に怨みつらみを残し、憤死。怨霊になった

基本情報
心霊スポット国吉神社
(くによしじんじゃ)
所在地〒901-0324
沖縄県糸満市字国吉262
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
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饒波のシーサー

豊見城(とみぐすく)市の住宅街、饒波(のは)地区の西エリアに『饒波のシーサー』と呼ばれる2体のシーサー像が祀られている。

これは周辺地域の人々を厄災から守るためのものであり、琉球王国時代に設置されたと言い伝えられている。なお、1体は沖縄戦の際に失われてしまい、新しく設置し直したものだという。

饒波のシーサー周辺では霊の目撃情報が相次いでいるという。これまでに確認された霊・情報は、「像の周りに生首が置かれていた」「男性の悲鳴が聞こえた」など。

豊見城市に関連する貴重な伝承資料を保管するT氏曰わく、「饒波のシーサーは不届き者たちに破壊されたが、住民の努力で蘇ったと言い伝えられている。なお、像を攻撃した者たちは壮絶な最期を遂げ、シーサーは同地の守り神なった」という。

琉球王国が大日本帝国に併合された1879年、本島ではコロリ病(コレラ)が大流行し、6,000人以上が亡くなった。

本島南エリアの饒波地区でもコロリ病は猛威を振るった。住民たちは併合の混乱と疫病に悩まされ、半死半生状態だったという。

同地区で生活していたある夫婦は、集落の端に設置されたシーサー像の清掃と参拝を毎日欠かさず行い、守り神として崇めていた。

ある日、シーサー像を水洗いしていた夫婦は、盗賊集団と思われる不届き者たちの襲撃を受け、負傷。像を破壊されてしまったという。

事件から数週間後、妻は傷の影響で病を発症し死亡。夫は何とか生き延びたものの、心の傷は癒えなかった。

夫は地区の守り神を取り戻すべく、シーサー像作りを開始。数カ月かけて新しい像を二体作りあげた。

饒波地区集落の端に設置された新しい二体のシーサー像は、住民たちの心を癒した。しかし、夫の努力を無にする悲惨な事件が発生する。

どこからともなく現れた不届き者たちは、新しく設置された二体のシーサー像をコナゴナに破壊、止めに入った夫を叩き伏せ、殺害したのである

周辺住民たちは、殺害された夫と傷の影響で病死した妻の死を悼んだ。そして、二人の意志を継ぎ、新しいシーサー像作りとそのメンテナンスを生涯行うと誓ったという。

数日後、破壊されたシーサー像の設置エリアで男性15名の遺体が発見された。

彼らの死に様はこの世のものとは思えないほどひどく、四肢と首はノコギリのような刃物で切り落とされ、ズタズタだったという。さらに、生首はシーサー像が設置されていた敷地の端に等間隔で配置されており、恐怖に拍車をかけた。

その後、死亡した15名は「老夫婦を殺害した盗賊集団」であることが判明し、遺体は供養されることなくゴミと一緒に焼却処理されたという。

まとめ
饒波のシーサーを破壊した賊集団の詳細は不明である

賊集団を殺害した”もの”の正体も分かっていない。なお、周辺住民たちは「シーサーの怒りに触れた」と噂した

基本情報
心霊スポット饒波のシーサー
(のはのしーはー)
所在地〒901-0211
沖縄県豊見城市字饒波
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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英慈王之墓

豊見城(とみぐすく)市と那覇市の境界を流れる二級河川「長堂川(ながどうがわ)」の麓に建立された『英慈王之墓(えいじおうのはか)』は、知る人ぞ知る心霊スポットとして注目を集めている。

これまでに確認された霊・情報は、「短刀を持った女が襲いかかってきた」「女性の悲鳴が聞こえた」など。

これは琉球王国時代以前に実在した「英慈」と呼ばれる王の墓と言い伝えられている。ただし、当時の記録はほとんど残っておらず、手入れも全く行き届いていないため、存在を認識していない周辺住民も多いという。

沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏曰わく、「英慈王之墓はある事件でひどく汚され、以来、怨霊が出没すると噂になった。なお、役所の怠慢で容疑者たちは捕まらず、事件は闇に葬られた」という。

1844年、嘉数(かかず)地区の「沖集落」で生活していた20歳の「トヨ」は、地区一番の美女と呼ばれていた。しかし、気性が非常に荒く、母親に暴力を振るい、悪い男たちと付き合っていたという。

一方、トヨの幼馴染、標準的な容姿の「タケ」は、穏やかで誰にでも優しく接する女性と言われていた。タケは幼馴染が母親を痛めつけていると数年前から知っており、その身を案じていた。

ある日、トヨは悪い男たちと一緒に病弱だった母親を殴りつけ、殺してしまう。しかし、トヨは欠片ほども反省する様子を見せなかった。

この様子を目撃したタケは役所に通報、トヨに自首するよう促した。しかし、悪い男たちはこの申し出を却下し、タケを捕縛、ひどく辱めたという。

数か月後、タケは「男たちに喜んで辱められ、子を宿した不埒な女」と嘲笑されていた。この噂を流したのはトヨで、自分を貶めようとした女への報復だったと思われる。

タケは誤解を解こうとしたが、「標準的な容姿の好色女」と笑われるばかりで、釈明するほど事態は悪化。その後タケは、一連の嘲笑と誹謗中傷で塞ぎがちになった両親を同時に病で失ってしまう。

長堂川の麓、英慈王之墓を参拝したタケは、短刀を手に取り、トヨへの攻撃のタイミングを伺っていた。しかし、トヨは悪い男たちと共に現れ、タケの急襲を難なくかわした。

妊娠中だったタケは悪い男たちに何度も叩き伏せられた挙句、腹を切り裂かれ死亡。英慈王之墓は奥まった場所にあったため、遺体が発見されるまで1カ月以上かかったという。

役人たちはほぼ白骨化した状態で発見されたタケの不埒な噂を聞き、「頭のイカれた女が英慈王之墓を汚した」と憤慨、身勝手な女の自殺と断定した。

以来、英慈王之墓の墓はタケの血で汚されたと信じられ、そこに足を運ぶ者はほとんどいなくなった。

タケは悪い男たちに辱められ、両親を失い、ボロ雑巾にされた挙句、腹を切り裂かれ、体内に宿した新しい命を失い、憤死。怨霊化し、今も同地周辺を彷徨っている。

まとめ
タケに関連する事件はタブー視され、闇に葬られた

事件を闇に葬っても、そこで憤死した者の怨みつらみは消えない

基本情報
心霊スポット英慈王之墓
(えいじおうのはか)
所在地〒901-0202
沖縄県豊見城市字嘉数
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★★☆☆ 8
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真玉橋遺構

琉球王国が確立したのは1429年。それ以前は北、中央、南エリアを支配した豪族による領土争いが各地で繰り広げられ、多くの死者を出したと言われている。しかし、戦国時代の日本に比べるとその規模ははるかに小さく、琉球王国誕生後は太平の世が続いた。

ここで紹介する『真玉橋遺構(まだんばしいこう)』は、二級河川「国場川(こくばがわ)」の河口近くに現存する琉球王国時代の遺構である。

琉球王国は飢饉や天災に何度も見舞われたが、大きな争いや一揆はほとんど発生せず、日本に比べるとはるかに平和だった。

しかし、罪を犯す者はどこにでもいる。そして、罪人を裁くためには拷問処刑場が必要不可欠であり、平和な国と呼ばれた琉球王国にもそれは存在した。

琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏曰わく、「国場川の河口近くには琉球王国の拷問処刑場があった。そこで処刑された罪人たちは、国場川もしくは河口の漫湖(まんこ)に遺棄され、魚のエサになった」という。

琉球王国の処刑方法は江戸幕府と同じく罪の重さによって異なり、最も重い反逆罪と主殺しを犯した者には、市中引きずり回しと火刑もしくは鋸引きの刑が科された。

薩摩藩の侵攻を許し支配下に置かれると、隠れキリシタンと浄土真宗の取り締まりが始まり、処刑の頻度は大きく増加。公開処刑と晒(さらし)は大衆の貴重なエンターテイメントになった。

薩摩藩藩主の島津氏は罪人を極限まで苦しめ、大衆にさらすことで犯罪の抑止効果を狙ったと言われている。そして、その考えは植民地の琉球王国でも採用され、藩主は琉球王国国王に厳しい拷問や処刑を採用するよう命じたのである。

旧真玉橋(現在の真玉橋遺構)周辺に整備された拷問処刑場は、城下町から近いこともあり、処刑執行時には百名単位の観衆が集まったという。

観衆は処刑後のショーを楽しみにしていた。罪人の遺体はその場でバラバラに解体される。そして、内臓を含む全てのパーツを撒き餌のように国場川や漫湖にばら撒くのである。

国場川下流域および漫湖、その先に続く海は、遺体に群がるプランクトンの影響で水産物がよく育つと言われていた。

罪人の撒き餌」は観衆を盛り上げるだけでなく、重要な食料資源のひとつ、水産物の漁獲量増加に大きく貢献したのである。

しかし、地獄の苦痛を受け、一切供養されることなく切り刻まれた挙句、ゴミのように遺棄された罪人たちは、この世に怨みつらみを残し、憤死。怨霊になった

真玉橋遺構の北、国場川の河川敷に形成された雑木林の中には、そこで処刑された罪人たちを弔った小さな慰霊碑が残っている。

まとめ
真玉橋遺構周辺には琉球王国の拷問処刑場があった

これまでに確認された霊・情報は、「国場川から男が這い出てきた」「遺構の近くに生首が並べられていた」など

基本情報
心霊スポット真玉橋遺構
(まだんばしいこう)
所在地〒901-0201
沖縄県豊見城市字真玉橋
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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せせらぎ公園

浦添市中央部、二級河川「小湾川(こわんがわ)」沿いに整備された『せせらぎ公園』は、市民から住宅街のオアシスと呼ばれている。

同園に遊具はない。しかし、キレイに整備された芝生広場は周辺住民の憩いの広場になっており、日向ぼっこを楽しむ老人や元気よく遊ぶ児童の姿をよく目にするという。

いこいの広場として重宝されているせせらぎ公園では霊の目撃情報が相次いでいる。なお、同地周辺は戦後に開発されたため、土地のルーツと霊の出没理由を知っている人はほとんどいない。

これまでに確認された霊・情報は、「園内に串刺しにされた遺体が並べられていた」「人魂が飛んでいた」など。

浦添市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するG氏にお話を伺った。

G氏
「小湾川沿いに形成された小さな集落の住人たちは隠れキリシタンと噂され、ひとり残らず処刑されたと言い伝えられている。なお、彼らの遺体は数カ月間さらされた後、大きな穴にまとめて埋葬されたという」

1765年、琉球王国本島で発生した大地震は、数千棟の家屋に被害を与えた。

当時、琉球王国は数年周期で発生する自然災害、飢饉、疫病などに悩まされており、「不幸の発生源を突き止め、排除したい」と考えていた。

王国を支配していた薩摩藩は、国王に「隠れキリシタンと浄土真宗(一向宗)をもっと厳しく取り締まれ。彼らの呪いが不幸を招いている」と主張し、弾圧に協力すると約束した。

琉球王国では朝鮮や欧州の文化が根付き、そこから入ってきたキリスト教は比較的身近な存在だったという。しかし、薩摩藩の支配下に入ると、江戸幕府の禁教令(1613年)の影響で取り締まりが強化され、キリシタンたちは信仰する宗教を偽り身を隠した

ある日、小湾川沿いの「牧野集落」に関する奇怪な噂が流れた。G氏の伝承資料によると、「牧野集落の住民たちは全員隠れキリシタンである」という出自不明の噂の影響で、町は大騒ぎになったという。

当時、薩摩藩の役人たちは「キリシタンと一向宗をひとり残らず捕縛すれば、飢饉や疫病は一切発生しなくなる」と言いふらしており、一部の周辺住民は役人の言葉と出自不明の噂を信じた。

暴徒化した数十名の住民は、牧野集落を隠れキリシタンのアジト、そして不幸の発生源と決めつけ、急襲。50人以上を捕縛した。

暴徒たちは琉球王国にかけられた呪いを解くと主張。捕縛した者たちをひとり残らず串刺したうえで、焼いた。

その後、串刺し状態の焼死体は数カ月間小湾川沿いの空き地にさらされたのである。

せせらぎ公園内に植えられた広葉樹の根本付近に処刑された者たちを弔う小さな供養碑が建立されている。

まとめ
せせらぎ公園には、牧野集落の住民を弔う小さな慰霊碑が残っている

牧野集落の住民たちは、隠れキリシタンと決めつけられた挙句、処刑。ひとり残らず憤死した

基本情報
心霊スポットせせらぎ公園
(せせらぎこうえん)
所在地〒901-2126
沖縄県浦添市宮城3-1
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
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経塚の碑

浦添市経塚(きょうづか)地区には奇怪な伝承が残されている。しかし、琉球王国時代末期に発生したその事件を知る者は少なく、伝承はほとんど途絶えかけているという。

ここで紹介する『経塚(きょうづか)の碑』は、「うちょうもう公園」内に建つ琉球王国時代の石碑である。

これは「妖怪を抑え込むために建立された」と言い伝えられている。なお、当時の日本人は妖怪と霊の存在を信じ、それらを抑え込む慰霊碑や供養塔などを各地に建立している。

私は沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏の紹介で、浦添氏の伝承に詳しいA夫妻のお会いした。

A夫妻:
「経塚の碑に妖怪を抑え込む効果があるかどうかは誰にも分からない。しかし、そこで発生したおぞましい事件が真実であることは知っている。なお事件以降、石碑周辺で頻繁に霊が目撃されるようになったという」

1827年、琉球王国では4年連続となる飢饉が発生、本島の死者は2,000人を超えたと言い伝えられている。

経塚地区の作物は大雨と台風の影響で壊滅的な被害を受け、農家の収入は20分の1以下にまで減少。市場に食料が流通せず、住民たちは飢えた

さらに、この年は頼みの漁も不調で、漁獲量は例年の5割ほどにとどまったという。

経塚地区の住民たちは犬と猫を食い尽くし、虫、樹皮、雑草などに手を出した。しかし、食べてはいけないものを口にしたことで体調を崩す者が続出。重度の腹痛で死亡する者が相次いだ

1827年の秋、経塚地区の餓死者は100人を超え、生存者たちもガリガリに痩せ細っていた。しかし、一部の若者たちだけは血色が良く、生気に満ち溢れていたという。

A夫妻の伝承資料によると、一部の若者たちは餓死者の肉を喰い、死にかけている者も殺害。新鮮な食料を確保したという。

若者たちは経塚地区から各地に遠征し、死にかけている者を捕縛。解体は隠れ家で秘密裏に行っていた。

若者たちの暴挙を知った一部の住民は、殺人を思いとどまるよう説得した。しかし、提案は却下され、役人に通報すると言う者がいれば、容赦なく殺したのである。

ある日、経塚の碑周辺を見回っていた同地区の住民は、若者たちに移送される女性の集団を目撃、役所に通報した。

通報者は、役人2名を若者たちのアジトと思われる雑木林周辺に案内した。

この役人2名は人肉を喰らう若者たちと裏で通じており、通報者を殺害。若者たちに遺体を預け、退散した。

その後、若者たちは活動を活発化させ、食料が各地区に行き渡った後も誘拐、捕食を繰り返したという。なお、うちょうもう公園の外れ、雑木林の奥に喰われた者の骨を埋葬した小さな供養碑、通称「千人塚」が残されているものの、その存在を知る者は少ない。

まとめ
経塚の碑周辺では霊の目撃情報が相次いでいる

若者たちに喰われた犠牲者の数は不明。A夫妻の伝承資料には、経塚地区の犠牲者数よりはるかに多い700人と書かれていた

基本情報
心霊スポット経塚の碑
(きょうづかのひ)
所在地〒901-2111
沖縄県浦添市経塚1-2
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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長浜ダム

長浜ダム』は中頭郡読谷村(なかがみぐんよみたんそん)の北部エリアに建設された農業用ロックフィルダムである。

運用開始日は1994年、長浜川を水源とし、読谷村とその他周辺地域に水を供給している。また、公園と多目的広場も併設されているため、周辺住民の憩いの場になっているという。

同ダムおよびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに確認された霊・情報は、「ダム湖に遺体が浮いていた」「園内通路で人魂を見た」など。

読谷村と長浜川に関連する貴重な伝承資料を保管するN氏曰わく、「長浜ダムの”ダム湖”は、琉球王国時代以前から貴重な水源として利用され、汚してはいけないと言い伝えられていた」という。

1879年、琉球王国が大日本帝国に併合される10日前、読谷村の池(ダム湖)である事件が発生した。

N氏の伝承資料によると、この年、本島全域でコロリ病(コレラ)が流行し、北部エリアの被害が特に深刻だったという。

読谷村の池の麓に形成された「上島(うわじま)集落」では、半数以上の住民がコロリ病で死亡し、生存者たちは遺体の処理に追われていた。

当時、コロリ病で死亡した患者を埋葬すると、「土に菌が染み出し凶作になる」という出自不明の噂が流れていた。

読谷村の生存者たちは遺体を処理できず途方に暮れていた。しかし、ある男から「川や海に遺棄すれば、遺体は分解され、魚が集まり、大漁を期待できる」と提案され、言われるがままに採用を受け入れたという。

住民たちは長浜川の水源(池)に供養した遺体を遺棄。感染の終息と豊漁を祈願した。

遺棄から数日後、長浜川の中流域と下流域の集落でコロリ病が大流行し、住民たちは震え上がった。

一方、上島集落では遺体を遺棄した池が大変なことになっていた。そこに生息する魚や虫などがことごとく死に、水面がそれらの死骸で覆い尽くされてしまったのである。

上島集落は遺棄を中止した。しかし、池の水質は一向に改善せず、水面を覆う死骸は長浜川の下流域に向かって流れ出した

中・下流域の住民たちは、長浜川の水がおかしくなったことに気づかず、利用し続けた。

数か月後、中・下流域の住民たちはひとり残らずコロリ病を発症。北部エリアの汚染は悪化の一途をたどり、死者数は3,000人を超えたという。なお、池に遺体を遺棄した上島集落はコロリ病に屈し、壊滅。琉球王国滅亡(大日本帝国に併合)から数日後、廃村が決まった。

以来、池周辺で霊や人魂を見たという目撃情報が相次ぐようになり、上島集落のあった地点周辺は立ち入り禁止エリアになったという。

まとめ
長浜ダムの東、雑木林エリアの一角に、上島集落の死者を祀る慰霊碑が残っている

長浜ダム周辺に現れる霊は、上島集落や中・下流域で病死した住民たちと思われる

基本情報
心霊スポット長浜ダム
(ながはまだむ)
所在地〒904-0324
沖縄県中頭郡読谷村字長浜2803
種別事故
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
【一般道】那覇空港から約55分
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②アクセス
【一般道】那覇港から約55分
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関連サイト読谷村観光協会 公式ホームページ

チビチリガマ

中頭(なかがみ)郡北部、住宅街の外れに『チビチリガマ』と呼ばれる鍾乳洞がある。

ここは沖縄戦における集団自決場所のひとつである。自ら命を絶った住民は82人、内部への立ち入りは遺族の意向により禁止されている。

沖縄戦の現実を後世に伝える遺構周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに確認された霊・情報は、「斧を持った男に追いかけられた」「鍾乳洞の入り口付近に生首が並べられていた」など。

沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏は、「この鍾乳洞(チビチリガマ)にはおぞましい伝承が残されているものの、それを知る者はほとんどいない。なお、そこに逃げ込もうとした浄土真宗(一向宗)信者が惨殺されたのは、琉球王国時代末期である」と述べた。

1852年、宮古島で発生した熱病が本島に到達し、1,000人以上が死亡。さらに、水害と風害の影響で農作物が甚大な影響を受け、人々は病と飢えに苦しめられた

この年、本島北部の中頭郡では奇怪