立花宗茂:秀吉から「その強さ鎮西一」と絶賛され、関ヶ原後に復活を遂げた名将
立花宗茂の最大の特徴は、戦場で強かったことだけではない。九州の戦国争乱、豊臣政権下での大名生活、朝鮮出兵、関ヶ原、改易、浪人、棚倉への復帰、そして柳川再封という、激動の政治環境を生き抜いた点にある。
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「立花宗茂」は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将の中でも、極めて特異な経歴を持つ人物として知られている。特に注目されるのが、豊臣秀吉によって大名に取り立てられ、朝鮮出兵などで武名を高めながら、関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易され、その後いったん浪人となったにもかかわらず、徳川政権下で再び大名に復帰し、最終的には旧領柳川へ戻ったという経歴である。
現在の歴史研究では、宗茂を単純に「戦国最強の武将」として扱うだけでは不十分とされる。むしろ、同時代史料によって確認できる軍事的評価と、江戸時代以降に形成された英雄像を区別しながら、軍事能力、領国統治能力、人的ネットワーク、政治的信用などを総合して評価する必要がある。
とりわけ重要なのは、宗茂の「復活」が単なる幸運ではなかったという点である。研究者による本格的な伝記研究でも、関ヶ原後の浪人時代、奥州棚倉時代、柳川再封後までを一続きの人生として分析することで、なぜ宗茂が徳川政権から再評価されたのかが浮かび上がってくる。
立花宗茂とは
立花宗茂は永禄10年(1567)、大友氏に仕えた高橋紹運の長男として生まれた。のちに大友氏の重臣であった戸次鑑連、後の立花道雪の養子となり、立花氏を継いだことが、その後の人生を決定づけることになる。
宗茂が生きた九州は、島津氏、大友氏、龍造寺氏などが激しく争う地域だった。特に北部九州では、単純な一国単位の戦争ではなく、国衆や有力武将の離反、同盟、婚姻、養子縁組などが複雑に絡み合っており、宗茂もその政治と軍事の渦中で成長した。
宗茂の最初の大きな特徴は、血統だけに依存して地位を得た武将ではないことである。父の高橋紹運、養父の立花道雪という2人の名将から軍事的な教育を受け、そのうえで自ら戦場に立ち、九州の激戦を経験していったことが、後年の評価につながったと考えられる。
天正15年(1587)、豊臣秀吉による九州平定が進むと、宗茂はその軍事的功績を評価され、柳川を本拠とする大名へと上昇した。柳川市の資料によれば、秀吉は九州平定の功績により宗茂へ下筑後4郡を与え、太閤検地後には宗茂の領国は13万2,200石と確定している。
ここには重要な意味がある。戦国武将の評価は戦場で敵を倒す能力だけで決まるものではなく、豊臣政権が大名として領国を任せられるだけの能力を宗茂に認めていたことも見逃せない。
豊臣秀吉が絶賛した「鎮西一」の武勇と忠義
立花宗茂を語る際に頻繁に登場する言葉が、「鎮西一」あるいは「西国無双」である。これらの表現は宗茂の強さを象徴する言葉として広く知られているが、史料批判の観点からは、それぞれをそのまま秀吉本人の発言として断定することには注意が必要である。
特に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」という有名な対比については、戦国時代の同時代史料から秀吉本人の言葉として確認できるわけではない。後世の逸話集などによって形成された可能性が高く、立花家史料館の史料整理でも「東西無双」という表現は後世の成立として慎重に扱われている。
しかし、ここで重要なのは、「東西無双」という表現が後世の創作的要素を含むからといって、宗茂の武勇そのものまで否定されるわけではないということである。むしろ同時代の史料には、秀吉が宗茂の働きを高く評価していたことを示す具体的な記録が存在する。
つまり、歴史的に最も安全な評価は、「秀吉が後世に伝わる有名な言葉を実際に発した」と断定することではなく、秀吉が宗茂を九州を代表する有力武将として高く評価し、実際に大規模な領地を与えて重用したという事実から、その評価を検証することである。
これは宗茂の人物像を考えるうえで重要な視点となる。伝説を削ぎ落としても、豊臣政権から13万石を超える領国を任されたという事実自体が、宗茂が単なる局地戦の勇将ではなかったことを示しているからである。
島津軍との死闘と秀吉の評価
宗茂の名声が形成された最大の舞台の1つが、豊臣秀吉による九州平定以前の戦いである。当時の九州では島津氏が急速に勢力を拡大しており、大友氏の勢力圏は大きく圧迫されていた。
宗茂はその中で、父の高橋紹運や養父の立花道雪らとともに島津勢力と対峙した。特に大友方の武将として厳しい戦局を経験したことは、後に豊臣政権から高く評価される軍事的基盤になった。
宗茂の評価を考える場合、単純な「武勇伝」よりも、劣勢の中で軍勢を維持し、敵の圧力に耐え、状況に応じて攻撃と防御を使い分ける能力に注目する必要がある。戦国時代の大名・武将に求められた能力は、個人の剣術ではなく、家臣団を統率して戦争を遂行する総合能力だったからである。
その点で宗茂は、若い段階から大規模な軍事行動に関わり、豊臣政権成立後には自らの家臣団を率いて大名として軍役を負担する立場に移った。この転換は、宗茂の軍事能力が個人的な武勇だけでは説明できないことを示している。
「東西無双」の称賛
宗茂の人物像には、後世になって数多くの称賛が付け加えられた。「西国無双」「東西無双」といった表現もその代表例である。
ただし、ここでは史実と伝承を分ける必要がある。現在確認できる研究では、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」という形で秀吉が直接評価したという逸話には、同時代史料による裏付けがないとされる一方、宗茂が豊臣政権から高く評価されたこと自体には十分な史料的根拠がある。
この違いは非常に大きい。歴史上の人物を正確に評価するなら、「有名な言葉が本当に言われたか」と「その人物が実際に高く評価されていたか」は別問題として扱うべきだからである。
むしろ宗茂の場合、後世の名言を削っても、豊臣秀吉から大名として取り立てられ、柳川を中心とする13万2,200石の領国を与えられたという具体的な実績が残る。これは伝説以上に強い証拠であり、宗茂の実力を考える際にはこちらを重視するべきである。
そして宗茂の評価を決定的に高めたもう1つの舞台が、豊臣政権による朝鮮出兵だった。次回は、碧蹄館の戦いを中心に、宗茂がなぜ全国的な武名を獲得するに至ったのか、そしてその武名の裏側にあった大きな犠牲まで含めて検証する。
今回の要点
立花宗茂は単なる「戦国最強伝説」の人物ではない。一次史料・重要文化財・研究書を踏まえると、豊臣秀吉から大名として認められるだけの軍事的・政治的能力を持ち、後世にはさらに「西国無双」という英雄像が付加された人物と位置づけるのが最も妥当である。
また、宗茂を理解するうえでは「鎮西一」「東西無双」といった有名な言葉だけを見るのではなく、九州での実戦、豊臣政権による抜擢、13万2,200石という領国規模、そして朝鮮出兵という具体的な実績を一本の線として捉える必要がある。
朝鮮出兵での活躍
立花宗茂の武名を九州だけでなく全国規模へ押し上げた大きな契機が、豊臣秀吉による朝鮮出兵である。文禄元年(1592)に始まった朝鮮出兵では、宗茂も豊臣軍の一員として渡海し、朝鮮半島での戦闘に参加した。
ここで重要なのは、宗茂の評価を「勇敢に戦った」という一言で終わらせないことである。豊臣政権の大名として海外への大規模な軍事作戦に参加したことは、宗茂が単なる地域武将ではなく、豊臣政権の軍事動員体制の中に組み込まれた有力大名だったことを意味する。
朝鮮出兵では、日本軍が当初大きく進撃した一方、明軍の参戦などによって戦況が次第に複雑化した。補給、兵力、地理、気候、現地勢力との戦闘など、国内の合戦とは異なる条件が重なり、武将には個人的な勇猛さだけでなく、部隊を維持しながら戦う能力が求められた。
宗茂はこうした環境の中で戦闘を経験し、特に文禄2年(1593)の碧蹄館の戦いでは、明軍との戦闘に参加した。この戦いは日本軍と明軍が激突した重要な戦闘の1つであり、宗茂の武名を語る際には欠かせない出来事である。
碧蹄館の戦いでは、小早川隆景らを中心とする日本軍が明軍と戦い、立花宗茂もその一翼を担った。後世の軍記物では宗茂の活躍が大きく描かれているが、実際の戦闘については軍記の記述をそのまま史実として採用するのではなく、複数の史料を照合して評価する必要がある。
それでも、宗茂が朝鮮出兵を通じて豊臣政権内で一定の軍事的評価を得たことは否定できない。秀吉が九州の一武将だった宗茂を大名として取り立て、その後も海外派兵に参加させたこと自体が、政権からの信頼を示す重要な材料となる。
「勇将」から「大名」へ
宗茂の人物像を考える際、朝鮮出兵にはもう1つ重要な意味がある。それは、宗茂が「戦場で強い武将」から「大名として軍事・政治を担う人物」へと変化していった時期だったことである。
戦国時代の大名に必要だったのは、本人が槍を振るって敵を倒す能力だけではない。家臣団をまとめ、兵力を動員し、領国を維持し、豊臣政権から課される軍役や負担を処理する能力も不可欠だった。
宗茂は柳川を本拠として領国支配を行い、豊臣政権の大名として活動した。柳川市などの自治体史料でも、宗茂が秀吉から柳川を中心とする領国を与えられ、太閤検地によって13万2,200石の領知を確定されたことが確認されている。
これは宗茂の評価を考えるうえで極めて重要な数字である。13万石を超える領国を任されるということは、豊臣政権が宗茂を単なる戦場の勇将としてではなく、一定規模の領国を統治できる大名として認識していたことを意味する。
したがって、「立花宗茂=武勇」という理解だけでは不十分である。軍事能力を基盤としながら、政治的な判断、家臣団統率、領国経営を行う能力を持っていたからこそ、豊臣政権下で大名として生き残ることができたのである。
関ヶ原の戦いと「義」を貫いた改易(浪人生活)
宗茂の人生を決定的に変えたのが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いである。この戦争は徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍が激突した天下分け目の戦いとして知られている。
宗茂は西軍側に立った。ここには単純な「豊臣家への忠義」という説明だけでは整理しきれない政治的背景があるが、少なくとも宗茂が徳川家康の側へ寝返ることなく、西軍の一員として行動したことは確かである。
宗茂は関ヶ原本戦には参加していない。西軍側として大津城を攻撃し、大津城を開城させたものの、その後、関ヶ原で西軍が敗北したことを知ることになる。
この点は宗茂の「敗戦」を考えるうえで重要である。後世の物語では、宗茂が関ヶ原で最後まで奮戦したように描かれる場合があるが、実際には本戦場に到着していないため、「関ヶ原で徳川軍と直接戦って敗れた武将」と表現するのは正確ではない。
むしろ宗茂の運命を決めたのは、関ヶ原本戦への参加ではなく、西軍に与した大名であったという政治的立場そのものだった。
西軍敗北後、宗茂は柳川へ戻った。しかし徳川家康による戦後処理によって領地を失い、大名の地位を奪われることになる。
ここから始まるのが、宗茂の長い浪人生活である。
西軍への参加
宗茂が西軍側についた理由については、後世の「義の武将」という人物像と密接に結びついて語られてきた。特に、豊臣秀吉から受けた恩義や、豊臣家への忠誠を重視して徳川家康へ転じなかったという説明が有名である。
ただし、歴史研究では人物の行動を一つの道徳的理由だけで説明することには慎重でなければならない。関ヶ原前後の大名たちは、それぞれの主従関係、婚姻関係、領国事情、家臣団の意向、豊臣政権との関係など、複数の要素を考慮して行動していたからである。
宗茂についても、単純に「義理堅かったから西軍についた」とするだけでは、当時の政治状況を十分に説明できない。それでも、最終局面で徳川側への転換を選ばず、その結果として大名の地位を失ったという事実は、宗茂の人生を特徴づける重要な出来事となった。
しかも宗茂の場合、改易によってすべてを失った後も、旧臣との関係を完全に断ち切ることはなかった。戦国大名にとって、主君が改易されれば家臣団も生活基盤を失うため、家臣との関係をどのように維持するかは極めて重大な問題だった。
宗茂はその後、京都などで浪人生活を送ることになる。しかし、この時期は単なる「不遇の時代」ではない。むしろ後の復活を可能にする人脈と信用を維持した時期として見る必要がある。
孤軍奮闘と改易
関ヶ原後の宗茂は、徳川政権から見れば敗者だった。大名としての領地を失い、戦国大名としての立場から一転して浪人となったのである。
しかし、ここで宗茂の人生は終わらなかった。徳川秀忠をはじめとする徳川方の有力者との関係が形成され、宗茂は最終的に徳川政権から再び召し抱えられることになる。
この過程は、宗茂の評価を考えるうえで非常に重要である。もし宗茂が単なる「西軍の敗将」であったなら、徳川政権がわざわざ彼を再登用する必要はなかった。
徳川政権は関ヶ原後、全国の大名を再編成し、幕藩体制を構築していった。その中で求められたのは、徳川家に対する忠誠だけではなく、領国を安定して支配し、軍役を遂行し、幕府の命令を確実に実行できる人物だった。
宗茂には、その条件を満たすだけの実績があった。豊臣政権下で大名として領国を運営し、朝鮮出兵にも参加し、九州の戦国社会で長年にわたって軍事的経験を積んでいたからである。
したがって、宗茂の復活劇を「徳川家康が宗茂の人格に感動して特別扱いした」という物語だけで説明するのは適切ではない。そこには、徳川政権にとっても宗茂を登用する合理的な理由が存在していた。
「義」の評価と史実
宗茂を語るとき、必ず登場するのが「義」という言葉である。豊臣家への忠義を貫き、関ヶ原で西軍についた結果として改易され、それでも後に徳川政権の下で復活したという経歴が、「義の武将」という評価を生み出した。
ただし、ここでも史実と後世の人物評価を分ける必要がある。戦国武将を現代的な意味で「武士道精神の体現者」とすることには時代的な問題があり、江戸時代以降に形成された価値観をそのまま16世紀の人物へ投影することは避けなければならない。
それでも宗茂の行動には、後世の人々が「義」と評価したくなる要素が確かに存在する。敗者となる可能性が高い状況で徳川側へ転じず、改易という重大な結果を受け入れ、その後も再び政治的信用を獲得したからである。
そして、この「敗北しても信用を失わなかった」という点こそ、宗茂の最大の特徴の1つである。
通常、関ヶ原で西軍についた大名にとって、改易は政治生命の終焉を意味した。しかし宗茂は違った。失った領地を再び取り戻すまでには長い時間を要したものの、徳川政権の中で徐々に地位を回復していく。
その意味で宗茂の人生は、戦国時代の「勝者と敗者」という単純な区分では理解できない。敗者になった後に、どのように信用を再構築したかという点に、宗茂の本当の強さが表れている。
奇跡の復活劇への入口
関ヶ原後の改易は、宗茂の人生における最大の挫折だった。しかし皮肉なことに、この挫折があったからこそ、後世の歴史家や人々が宗茂を特別な存在として評価するようになったともいえる。
宗茂はその後、徳川秀忠に召し抱えられ、元和年間には大名として再び領地を与えられる。そして最終的には旧領である柳川へ戻ることになる。
ここに、戦国史でも極めて珍しい「復活劇」が始まる。
関ヶ原で敗者となった大名が、その後に徳川政権から再び大名として認められるだけでも異例だった。さらに宗茂は、最終的にかつて自らが治めた柳川へ戻ることになる。
この出来事を理解するには、次の段階である徳川政権下での異例の返り咲きと、棚倉を経た段階的な大名復帰を詳しく見る必要がある。宗茂の「奇跡」は、関ヶ原直後に突然起きたものではなく、20年近くをかけて積み上げられた政治的信用の結果だったのである。
奇跡の復活劇:徳川政権下での異例の返り咲き
関ヶ原の戦いで西軍に属した立花宗茂は、慶長5年(1600)に改易され、大名の地位を失った。しかし、宗茂の人生で本当に注目すべきなのは、この「敗北」そのものよりも、その後に徳川政権のもとで再び大名へ復帰したことである。
関ヶ原後の徳川政権にとって、西軍に参加した大名を処分することは、単なる懲罰ではなかった。豊臣政権から徳川政権へ権力構造を転換する過程で、どの大名を残し、どの大名を改易するかは、全国支配の再編そのものだった。
その中で宗茂は、いったん完全に政治的地位を失った。ところが、その後の人生は「敗者として消えていく」という一般的な改易大名の軌跡とは異なる方向へ進んでいく。
柳川市の資料によれば、宗茂は関ヶ原後に牢人となったものの、後に2代将軍徳川秀忠に認められ、奥州棚倉の大名として復帰した。さらに元和6年(1620)には旧領柳川へ再び封じられている。
ここで重要なのは、宗茂の復活が一度の恩賞によって突然実現したものではないことである。関ヶ原から柳川再封までには20年という長い時間があり、その間に「浪人」から「徳川政権に仕える大名」へと段階的に立場を変えている。
段階的な大名復帰
宗茂の復活を理解するためには、関ヶ原後から柳川再封までをいくつかの段階に分ける必要がある。第1段階が改易と牢人生活、第2段階が徳川秀忠による再登用、第3段階が奥州棚倉への入封、そして第4段階が旧領柳川への復帰である。
柳川市が作成した宗茂の年表によると、宗茂は関ヶ原後に約6年間の牢人生活を送り、慶長11年(1606)に徳川秀忠から奥州南郷の領地を与えられ、大名へ復帰したとされる。これは宗茂が単に許されたのではなく、徳川政権の正式な大名として再び組み込まれたことを意味する。
ここには徳川政権側の合理性も見えてくる。宗茂は豊臣秀吉の時代から大名として一定の経験を積み、九州で軍事活動を行い、海外派兵にも参加し、領国経営を経験していた。
つまり、徳川政権から見れば宗茂は「関ヶ原で西軍についた危険人物」という一面だけを持つ人物ではなかった。大名として実際に仕事を任せられる軍事・行政能力を持った人物でもあったのである。
この点について、歴史学者の中野等による『立花宗茂』は重要な研究書である。同書は従来の軍記物中心の宗茂像を見直し、一次史料を用いて、豊臣政権から関ヶ原、さらに徳川政権下での再起までを一連の経歴として分析している。
したがって、宗茂の復活を「徳川秀忠が個人的に宗茂を気に入ったから」とだけ説明するのは不十分である。宗茂本人の能力と、それを必要とした徳川政権側の事情が組み合わさった結果と考えるべきである。
奥州棚倉での再起
宗茂が大名へ復帰する舞台となったのが、奥州南郷、すなわち棚倉周辺である。ここで宗茂は、再び領国を持つ大名として活動することになった。
これは宗茂にとって単なる名誉回復ではなかった。関ヶ原以前には九州の大名だった宗茂が、今度は徳川政権の秩序の中で、奥州という新しい地域を治める立場になったのである。
この変化は、宗茂が「豊臣家の旧臣」から「徳川政権下の大名」へと転換したことを示している。かつて西軍に属したという経歴を抱えながら、徳川幕府の統治機構の中で再び領地を任されたのである。
ここで注目すべきなのは、宗茂が過去の政治的立場を完全に否定することで復活したわけではないことである。むしろ、関ヶ原で西軍に属した事実を持ったまま、それでも徳川政権から有用な大名として認められた。
これは戦国時代から江戸時代への移行を考えるうえでも興味深い。徳川幕府は、旧豊臣系の大名をすべて排除したわけではなく、能力や家格、政治的関係などを考慮しながら新しい秩序へ組み込んでいったからである。
宗茂の復帰は、その典型的な事例の1つとして見ることができる。
旧臣との関係が支えた再起
宗茂の復活を考える際、本人だけを見ていてはいけない。彼を支えた旧臣団の存在も重要である。
柳川市の説明によれば、再封後の宗茂は、肥後の加藤清正のもとに預けられていた旧家臣たちを呼び寄せ、領国経営にあたらせた。これは、関ヶ原によって主君と家臣の政治的関係が完全に消滅したわけではなかったことを示している。
戦国大名にとって、家臣団は単なる軍隊ではない。領地の管理、年貢の徴収、土地の把握、裁判、治安維持、城の管理など、大名領国を動かす実務を担う組織でもあった。
したがって、宗茂が旧臣との関係を維持していたことは、後の再封において大きな意味を持ったと考えられる。大名が復活しても、家臣団や統治能力が失われていれば、すぐに安定した領国経営を始めることは難しいからである。
この点から見ると、宗茂の「復活」は個人の英雄物語ではなく、主君と旧臣団の結びつきが再び政治的資産として機能した現象でもあった。
旧領・柳川への復帰(唯一の快挙)
宗茂の復活劇の頂点が、元和6年(1620)の柳川再封である。関ヶ原で改易された宗茂が、20年後にかつての自分の領地へ再び戻るという出来事は、宗茂の人生を象徴する最大の事件となった。
背景には田中家の断絶があった。柳川を治めていた田中忠政が元和6年に後継者を残さず死去したため田中家は断絶し、その旧領の処分が行われることになった。
その際、宗茂が再び柳川へ入ることになった。文化庁の「立花家文書」の解説によれば、宗茂は元和6年(1620)に田中吉政家の改易後を受けて柳河へ再入封し、筑後5郡10万9,600石余を領した。
この「10万9,600石余」という数字は、豊臣期の13万2,200石からは減少している。したがって、「昔の領地を完全にそのまま取り戻した」と表現するのは正確ではない。
しかし、重要なのは石高の完全な回復ではない。一度関ヶ原で改易された大名が、かつて自分が治めていた旧領へ再び大名として戻ったという事実そのものに、宗茂の復活の異例さがある。
柳川市も、関ヶ原後に一度改易された大名が再び同じ支配地に封じられることは非常に珍しいとしている。さらに柳川市の資料では、宗茂を「関ヶ原敗戦後に旧領に復帰した唯一の武将」と紹介している。
ただし、「唯一」という言葉は、歴史研究では対象と条件を明確にして理解する必要がある。ここでは、関ヶ原で西軍に属して改易された大名が、その後徳川政権下で復帰し、さらに旧領柳川へ戻ったという宗茂のケースが極めて異例だったという意味で捉えるのが適切である。
「奇跡」だけでは説明できない再封
宗茂の柳川復帰は、後世から見るとまさに奇跡である。しかし、歴史的に分析するならば、偶然だけで説明するべきではない。
第1に、宗茂には豊臣政権下で大名として活動した実績があった。第2に、関ヶ原後も政治的・人的な信用を完全に失わず、徳川秀忠のもとで大名へ復帰していた。第3に、棚倉で再び領国経営を経験していた。
さらに、柳川を治めていた田中家が無嗣断絶したという政治的事情も重要だった。つまり、宗茂の再封は本人の能力だけで発生したものではなく、宗茂側の条件と徳川政権側の事情が一致した結果と見るべきである。
ここに宗茂の復活劇の本質がある。運だけなら一度の復帰で終わる可能性があるが、宗茂はその後も徳川政権の中で役割を果たし、最終的に柳川藩の基礎を築くことになった。
復帰後の宗茂
柳川へ戻った宗茂は、単に旧領へ帰還して余生を送ったわけではない。むしろ再封後の宗茂は、領国経営と幕府への奉公という現実的な仕事に取り組んだ。
柳川市の資料によれば、宗茂は江戸にいることが多かったものの、領内では検地を行い、幕府から課された役負担も遂行した。また、寛永14年(1637)に始まった島原の乱では原城攻めにも参陣している。
ここから見えてくるのは、宗茂が「過去の名将」として再封されたのではなく、徳川政権にとって現役の大名として扱われたという事実である。
特に島原の乱への参加は象徴的である。関ヶ原から数十年が経過した後も、宗茂は軍事経験を持つ大名として幕府の軍事行動に組み込まれていた。
つまり、宗茂の復活は「名誉上の復活」ではない。実際に領国を治め、幕府の命令を受け、軍事的役割を担うという意味で、実質的な大名復帰だったのである。
なぜ宗茂だけが「奇跡の復活」を成し得たのか
ここまでを整理すると、宗茂の復活には少なくとも5つの要因があったと考えられる。
第1は、圧倒的な軍事経験である。九州の戦国争乱から豊臣政権の海外派兵まで経験した宗茂は、徳川政権にとっても無視できない軍事的資産だった。
第2は、大名としての実務経験である。豊臣政権から領国を与えられた宗茂は、戦闘だけでなく領国統治を経験していた。再封後に検地などを行えたことも、この経験が無駄になっていなかったことを示している。
第3は、旧臣団との結びつきである。浪人となっても宗茂の人間関係が完全に消滅したわけではなく、後に旧臣を呼び戻して領国経営に活用できた。
第4は、徳川秀忠との関係である。宗茂を再び大名として取り立てたのは、徳川政権の中枢だった。つまり宗茂には、関ヶ原で敵対したにもかかわらず、徳川政権が再登用するだけの政治的信用が形成されていた。
そして第5が、柳川という特殊な政治状況である。田中家の無嗣断絶によって旧領が空き、そこに宗茂を戻すという選択肢が生まれた。これらが重なった結果、宗茂は一度失った大名の地位だけでなく、旧領そのものを回復することになったのである。
「復活の大名」が示すもの
立花宗茂の人生を関ヶ原だけで区切ると、彼は「西軍に参加して改易された敗将」となる。しかし、その後の20年まで含めれば、評価はまったく変わる。
宗茂は敗北した。しかし、その敗北によって人生そのものが終わることはなかった。浪人となり、再び大名となり、奥州で領国を治め、最終的にはかつての柳川へ戻った。
これは戦国武将の評価において極めて興味深い。戦場で勝利する能力と、政治的敗北から立ち直る能力は別物だからである。
宗茂の場合、前者だけでなく後者も極めて高かった。だからこそ、今日の研究では「勇将」という一面だけではなく、豊臣・徳川という2つの政権をまたいで生き残った政治的人物としても評価する必要がある。
武士道の本懐を貫いた高潔さ
立花宗茂を「義の武将」と評価する場合、後世の武士道観をそのまま戦国時代の人物に当てはめないことが重要である。現在一般に語られる「忠義」「高潔さ」という人物像には、江戸時代以降に形成された価値観や軍記物の影響も含まれているため、史実と後世の評価を区別して考える必要がある。
それでも宗茂の生涯には、後世の人々が高く評価したくなる具体的な行動が存在する。関ヶ原で西軍側に立った結果として改易されても、徳川政権のもとで再び大名となり、最終的には旧領柳川へ戻ったという経歴は、単純な勝ち馬への乗り換えでは説明できない。
宗茂の人生で特に注目されるのは、政治的敗者になった後にも、自らの人間関係と信用を維持したことである。浪人となった後も完全に孤立せず、後に徳川秀忠のもとで再登用され、棚倉で領主として復帰できたことは、その信用が一時的な戦場での評価ではなかったことを示している。
したがって、宗茂の「義」は、単に「豊臣家に忠義を尽くした」という一点だけで捉えるよりも、不利な状況でも自分の立場を維持し、その後の政治環境が変わっても人格と実務能力によって再評価されたことに意味を見いだす方が適切である。
圧倒的な実務・軍事能力
宗茂を「名将」と呼ぶ最大の根拠は、戦場での武勇だけではない。むしろ重要なのは、戦国時代から江戸時代への激変期に、軍事と政治の双方に対応できたことである。
九州で島津氏などと戦った経験は、宗茂に地域情勢を読む能力を身につけさせた。豊臣政権成立後には大名として領国を治め、朝鮮出兵では海外での軍事行動を経験し、関ヶ原後には棚倉で新たな領地を統治した。
この経歴を一本につなげると、宗茂は「戦場で強い人物」ではなく、戦国大名として必要な能力を複数の環境で発揮した人物だったことが分かる。
豊臣政権下で宗茂が13万2,200石の領国を与えられたことは、その評価を考えるうえで重要である。豊臣政権は太閤検地によって全国の石高を把握し、大名ごとの軍役や負担を体系化していたため、一定規模の領国を維持するには軍事力だけでなく行政能力も必要だった。
さらに柳川再封後の宗茂は、検地など領国経営に関わる実務を行った。関ヶ原から20年近く経過しても大名として活動できたことは、宗茂の能力が戦国時代の武勇だけに依存したものではなかったことを示している。
宗茂の軍事能力をどう評価するか
宗茂の軍事的評価には、2つの側面がある。1つは九州の戦国争乱で培った実戦能力であり、もう1つは豊臣政権の大名として大規模な軍事動員に対応した能力である。
戦国時代の合戦では、武将本人が勇敢であるだけでは勝利できない。兵站、兵力配置、地形、情報収集、家臣団の統率など、多数の要素を同時に処理する必要がある。
宗茂は若年期から父・高橋紹運や養父・立花道雪という著名な武将の影響を受け、その後、自身も戦場で経験を積んだ。さらに豊臣政権下では全国規模の軍事体制に組み込まれたことで、九州の地域戦争とは異なる規模の軍事行動も経験している。
この積み重ねが、後に宗茂を「武勇に優れた大名」として評価させる基盤となったと考えられる。
ただし、「戦国最強」という表現には注意が必要である。戦国時代の武将について、全国の人物を同一条件で比較できる客観的な軍事統計は存在しないからである。
したがって、宗茂を「最強」と断定するより、同時代の有力者から高い評価を受け、複数の戦役で軍事的経験を積み、さらに大名として長期間活動した武将と評価する方が歴史学的には妥当である。
「東西無双」の伝説をどう見るか
宗茂については、「東に本多忠勝、西に立花宗茂」といった表現が現在でも広く知られている。これは宗茂の武勇を説明するうえでは非常に分かりやすいが、史料批判の観点からは、秀吉の発言として無条件に引用することはできない。
歴史上の人物については、後世の軍記や逸話集が人物像を大きく膨らませることがある。特に江戸時代には戦国武将の逸話が数多く編纂され、実際の発言と後世の評価が混在するようになった。
宗茂の場合も、「鎮西一」「西国無双」「東西無双」といった表現をそれぞれ成立時期や史料的根拠まで確認する必要がある。これを怠ると、宗茂の実像を説明するつもりが、後世に形成された英雄伝説をそのまま再生産することになる。
しかし、逆に言えば、伝説を取り除いたからといって宗茂の評価が消えるわけではない。豊臣政権から実際に大名として取り立てられ、13万石を超える領国を与えられ、朝鮮出兵にも参加し、関ヶ原後には徳川政権から再び大名として登用されたという事実だけでも、その人物が相当に高い評価を受けていたことは分かる。
つまり、宗茂の魅力は「有名な言葉」に依存していない。史料的に確実性の高い部分だけを取り出しても、十分に特異な経歴を持つ人物なのである。
関ヶ原後の復活が示す政治的信用
宗茂の最大の特徴は、敗戦後の復活にある。関ヶ原で西軍に属した大名が改易されること自体は珍しくなかったが、その後に徳川政権から再び大名として認められ、さらに旧領へ戻ったことは極めて異例だった。
ここで重要なのは、徳川政権が「過去の忠義」を理由に宗茂を再評価しただけではないという点である。幕府は全国を統治するため、各地に一定の統治能力を持つ大名を配置する必要があった。
宗茂には、大名としての経験があった。九州の複雑な政治環境を知り、豊臣政権の制度の中で領国を運営し、海外派兵を経験し、さらに棚倉でも領主として活動していた。
徳川政権にとって、こうした経験を持つ人物は貴重だったと考えられる。宗茂の過去を完全に帳消しにしたというより、過去の敵対関係を超えて利用価値のある人材として再評価したと見る方が、政治史としては自然である。
人間関係を維持する能力
宗茂の復活を考えるうえでは、人間関係の維持能力も重要である。戦国時代の大名は家臣団、親族、他大名、寺社、商人などとの複雑な関係の上に成り立っており、改易されれば通常そのネットワークも大きく崩れる。
それにもかかわらず、宗茂は浪人時代を経て再び家臣を集め、領主として復帰した。柳川再封後に旧臣を呼び戻したことは、宗茂と家臣との結びつきが長期間にわたって維持されていたことを示す。
これは「人望があった」という一言だけでは説明できない。主君としての能力、家臣を守る姿勢、戦場での実績、そして再び領地を持った場合に生活を安定させられるという現実的な期待が複合していたと考えるべきである。
宗茂の復活は、個人の能力と組織の力が組み合わさった結果でもあった。
柳川再封後も終わらなかった武将としての人生
宗茂は柳川へ戻った後、過去の栄光を振り返るだけの余生を送ったわけではない。幕府の大名として領国経営を行い、必要に応じて軍事的役割も担った。
特に島原の乱への参加は象徴的である。寛永14年(1637)に発生した島原の乱では、宗茂も幕府軍の一員として出陣したとされる。
これは宗茂の人生が、単なる「戦国武将の過去の栄光」ではなく、江戸時代初期の政治・軍事秩序の中でも続いていたことを示す。
戦国時代を生き抜いた経験は、徳川幕府が全国支配を固めていく時代にも一定の価値を持った。宗茂はその経験を持ったまま、徳川政権の大名として新しい時代に適応したのである。
なぜ宗茂だけが「奇跡の復活」を成し得たのか
ここまでの検証から、宗茂の復活を生んだ要因は大きく6つに整理できる。
第1に、軍事的実績である。九州の戦乱、豊臣政権の軍事行動、朝鮮出兵など、宗茂には大規模な軍事経験が蓄積されていた。
第2に、大名としての行政経験である。13万2,200石規模の領国を与えられた経験は、宗茂が単なる戦場の勇将ではなかったことを示す。
第3に、徳川政権との関係構築である。関ヶ原では敵方だったにもかかわらず、最終的に徳川秀忠のもとで再登用されたことは、宗茂に政治的信用が残っていたことを示す。
第4に、旧臣団との結束である。大名復帰後に旧臣を呼び戻せたことは、宗茂の統治基盤を再構築するうえで大きな意味を持った。
第5に、棚倉での再起である。いきなり旧領へ戻ったのではなく、まず徳川政権下で大名として再び実績を積んだことが、柳川再封の前提になった。
第6に、柳川側の政治的事情である。田中家の無嗣断絶によって旧領の再編が必要となり、その際に宗茂を戻す政治的条件が整った。文化庁の「立花家文書」でも、元和6年(1620)の柳川再入封と領知の詳細が確認できる。
つまり、「奇跡」という言葉は結果を表すには適しているが、原因を説明する言葉としては不十分である。宗茂の復活は、軍事能力、行政能力、人間関係、政治的信用、幕府側の需要、そして歴史的偶然が重なった結果だったと考えられる。
今後の展望
2026年現在、立花宗茂を研究・紹介する際に求められるのは、英雄伝説と史実を対立させることではない。むしろ、「西国無双」と称された人物像がどのような史料から形成されたのかを検証し、そのうえで実際の軍事・政治活動を再構成することが重要である。
宗茂については、柳川市や立花家史料館などが関連史料の保存・公開を進めており、文化庁も「立花家文書」を重要な歴史資料として位置づけている。
今後は、軍記物に登場する宗茂と、古文書から見える宗茂を比較することで、どの段階で「名将・義将」というイメージが形成されたのかをさらに明確にできるだろう。
また、関ヶ原後の再登用についても、「秀忠の個人的評価」だけではなく、徳川政権の大名統制政策や、旧豊臣系大名の処遇という広い政治史の中で分析する余地がある。
まとめ
立花宗茂の最大の特徴は、戦場で強かったことだけではない。九州の戦国争乱、豊臣政権下での大名生活、朝鮮出兵、関ヶ原、改易、浪人、棚倉への復帰、そして柳川再封という、激動の政治環境を生き抜いた点にある。
「鎮西一」「西国無双」「東西無双」という言葉については、秀吉本人の発言として断定できるかどうかを含め、史料的な検証が必要である。しかし、そのような後世の称賛を差し引いても、豊臣秀吉から大領を与えられ、徳川秀忠によって再登用され、最終的に旧領柳川へ戻ったという経歴そのものが極めて異例である。
宗茂の「奇跡の復活」は、単なる幸運ではなかった。軍事能力、行政能力、家臣団との結束、政治的信用、そして徳川政権が必要とした実務能力が組み合わさった結果として理解することができる。
そして宗茂の本当の強さは、勝っているときではなく、負けた後に現れた。関ヶ原で全てを失ったにもかかわらず、約20年後には再び大名となり、さらに旧領柳川へ戻ったという事実こそ、立花宗茂という人物を戦国史上でも特別な存在にしているのである。
参考・引用リスト
- 文化庁「国指定文化財等データベース・立花家文書」――立花宗茂の柳川再入封、領知、立花家に伝来する関係史料について確認するために参照した。
- 柳川市「立花宗茂」――宗茂の生涯、関ヶ原後の浪人生活、徳川秀忠による再登用、棚倉への入封、柳川再封、領国経営、島原の乱への参加などを確認するために参照した。
- 柳川市「柳川藩の歴史」――豊臣秀吉による柳川領の付与、太閤検地後の石高などを確認するために参照した。
- 中野等『立花宗茂』吉川弘文館――宗茂の生涯を一次史料に基づいて検討する研究書として参照した。
- 柳川市・立花家関連公開資料――立花宗茂の軍事・政治活動、旧臣団との関係、柳川再封後の領国経営を確認するために参照した。
追記:鎮西一はどこまで史実なのか
2026年現在、立花宗茂は「戦国最強の武将」の1人として紹介されることが多い。しかし、史実に即して検証すると、宗茂の価値は単純な武勇ランキングにあるのではなく、豊臣政権下で大名として成功し、関ヶ原で敗者となった後、徳川政権下で再び大名となり、最終的に旧領柳川へ復帰したという極めて稀有な経歴にある。
特に重要なのが、宗茂の評価を「伝説」と「史実」に分けることである。「鎮西一」「西国無双」「東西無双」といった表現には後世の脚色や伝承が含まれる一方、豊臣秀吉から柳川を中心とする領地を与えられ、13万2,200石の大名となったこと、関ヶ原後に改易されたこと、徳川秀忠のもとで再び大名となったこと、元和6年(1620)に柳川へ再封されたことなどは、具体的な史料によって検証できる。
したがって、2026年時点での宗茂研究では、「本当に最強だったのか」という問いより、「なぜ宗茂は複数の政権をまたいで評価され、最終的に旧領まで回復できたのか」と考える方が、はるかに歴史学的な意味が大きい。
宗茂を紹介する記事では、「豊臣秀吉が宗茂を『鎮西一』と絶賛した」という説明が頻繁に登場する。しかし、この表現を秀吉本人の発言として無条件に確定することには慎重さが必要である。
戦国武将に関する逸話は、後世の軍記、系譜、人物評などによって増幅されることが多い。宗茂についても、後世の英雄像が強く形成されており、秀吉の具体的な発言と後世の評価を区別する必要がある。
一方で、「秀吉は宗茂を高く評価していなかった」と結論づけることもできない。むしろ実際に大名として取り立て、柳川を中心とする領国を与えたという事実は、豊臣政権が宗茂を重要な武将・大名として扱っていたことを示す。
つまり、「鎮西一」という言葉の史料的な確実性と、秀吉による宗茂への実際の高評価は別の問題である。前者には慎重な検討が必要だが、後者は宗茂の大名としての処遇から十分に確認できる。
「東西無双」も伝説と史実を分ける
「東に本多忠勝、西に立花宗茂」という比較も、宗茂を象徴する有名な逸話である。本多忠勝は徳川家康の重臣として名高く、宗茂と並べることで東西を代表する武将という分かりやすい人物像が形成されている。
しかし、この言葉を秀吉の発言としてそのまま引用するのは危険である。現在の歴史研究では、後世に形成された人物評と同時代の記録を区別し、具体的な史実から宗茂の実力を判断することが求められる。
そして、史料批判を行った結果として残る宗茂の実像は、むしろ興味深い。伝説を大幅に取り除いても、九州での戦闘、豊臣政権下での大名としての活動、朝鮮出兵、関ヶ原、改易、浪人生活、徳川政権下での再登用、棚倉、柳川再封という経歴は消えないからである。
「伝説を取り除いてもなお偉大である」という点こそ、宗茂を評価する際の重要なポイントである。
宗茂の「義」をどう評価すべきか
宗茂はしばしば「義の武将」と呼ばれる。これは関ヶ原で西軍に参加し、敗戦後に改易されたという事実と強く結びついている。
ただし、16世紀末の政治行動を現代的な道徳観だけで説明することはできない。大名の判断には主従関係、家臣団、婚姻、領国経営、豊臣政権との関係など、複数の政治的要因が存在していたからである。
それでも、宗茂の行動が後世に「義」と評価された理由は理解できる。関ヶ原で西軍に属した結果として大名の地位を失いながら、その後に徳川政権へ復帰し、さらに旧領へ戻るという経歴は、単純な政治的変節だけでは説明できないからである。
宗茂の「義」を評価するなら、現代的な武士道の理想像としてではなく、敗者になった後も人間的・政治的信用を失わなかったことに重点を置くべきである。
圧倒的な実務・軍事能力
宗茂の評価で最も見落としてはいけないのが、軍事と行政の両方を経験していたことである。
戦国武将の軍事能力は、本人の武勇だけでは測れない。兵士を集め、家臣団を統率し、兵站を確保し、領国から必要な軍役を供給し、戦後には領国を再建する能力まで含めて評価する必要がある。
宗茂は九州の戦乱を経験し、豊臣政権下では大名として領国を支配し、朝鮮出兵では海外での戦闘を経験した。関ヶ原後には棚倉で再び領国を与えられ、柳川再封後には検地などの領国経営にも携わった。
この経歴を見る限り、宗茂を単なる「戦場の豪傑」と見るのは明らかに不十分である。軍事指揮官であると同時に、領国を管理できる行政型の大名でもあった。
なぜ徳川政権は宗茂を必要としたのか
宗茂の復活を理解するためには、宗茂個人だけでなく徳川政権側を見る必要がある。
徳川幕府は関ヶ原後、全国を安定して支配するために、大名の配置と統制を進めた。その際、必要だったのは単純に「徳川家に忠実な人物」だけではない。一定規模の領地を管理し、軍役を負担し、幕府の命令を実行できる実務能力を持つ大名も必要だった。
宗茂はその条件を満たしていた。豊臣政権時代から大名として領国を統治した経験があり、軍事経験も豊富で、家臣団との関係も維持していた。
つまり徳川政権による宗茂の再登用は、「敵だった武将を特別に許した」という単純な出来事ではない。宗茂の能力を新しい政治体制の中で利用する合理性があったと考える方が自然である。
柳川再封は「偶然」だったのか
元和6年(1620)、宗茂は旧領柳川へ再び入ることになった。この出来事が宗茂の「奇跡の復活」を象徴している。
しかし、これも宗茂の努力だけで実現したわけではない。柳川を領していた田中家が無嗣断絶となり、領地の再編が必要になったという政治的事情が存在した。
この偶然がなければ、宗茂が旧領へ戻る可能性は低かったと考えられる。したがって、「宗茂の人徳だけで柳川を取り戻した」という説明は美しいが、歴史的には不十分である。
一方で、政治的な偶然が生じたからといって、誰でも宗茂の代わりになれたわけではない。関ヶ原で西軍に属して改易された人物が、徳川政権下で再び大名として信頼を得ていたという前提があったからこそ、柳川再封という選択肢が成立したのである。
偶然が機会を作り、能力と信用がその機会を現実にした。これが宗茂の復活を最も端的に説明する表現である。
「奇跡の復活」を構造的に見る
宗茂の人生を時系列で整理すると、その復活劇は次のような段階に分けられる。
第1段階は、九州で軍事的経験を積み、立花家を継いだ時期である。第2段階は、豊臣秀吉による九州平定後に柳川の大名となり、豊臣政権の中で地位を確立した時期である。
第3段階は、朝鮮出兵などを通じて全国的な軍事経験を積んだ時期である。そして第4段階が、関ヶ原で西軍に属し、改易された時期となる。
第5段階は浪人生活である。ここで普通なら政治生命が終わるところだが、宗茂は徳川秀忠のもとで再登用され、第6段階として棚倉の大名となった。
最後の第7段階が、元和6年(1620)の柳川再封である。つまり宗茂の復活とは、一度の奇跡ではなく、敗北→浪人→再登用→新領地→実績→旧領復帰という長期的な再生過程だったのである。
立花宗茂を「戦国最強」と呼ぶことの問題
では、宗茂を「戦国最強」と呼んでよいのか。
結論からいえば、客観的な意味で「最強」と断定することはできない。戦国時代には武将の能力を全国共通の尺度で測定する資料が存在せず、織田信長、徳川家康、上杉謙信、武田信玄、島津義弘、本多忠勝などと宗茂を単純比較することは歴史学的には困難だからである。
しかし、「最強」という言葉を軍事力だけではなく、戦闘能力、指揮能力、行政能力、政治的適応力、人的信用、敗北からの復活力を総合した人物評価として使うのであれば、宗茂は非常に高い位置に置くことができる。
特に関ヶ原後の経歴は突出している。大名から浪人へ転落し、その後再び大名となり、最終的に旧領へ戻ったという経歴は、宗茂の軍事能力だけでなく、政治的・人的な強さを示すものだからである。
専門的に見た宗茂の最大の特徴
歴史学的に宗茂の人生を評価するなら、最大の特徴は「政権交代への適応力」にある。
宗茂は大友氏の勢力圏で戦国時代を生き、豊臣秀吉による九州平定を経験し、豊臣政権の大名となった。その後、朝鮮出兵を経験し、関ヶ原では西軍に属して敗れ、徳川政権成立後には一度すべてを失った。
それでも徳川秀忠のもとで再び大名となり、最終的には江戸幕府の秩序の中で柳川藩主として生涯を終えた。これは単なる「武勇の人生」ではなく、16世紀末から17世紀前半にかけて日本の政治体制が大きく変化する中で、自らの立場を再構築し続けた人生である。
したがって、宗茂を研究することは、1人の名将を研究するだけではない。戦国大名が豊臣政権を経て徳川幕府へ移行する過程で、どのように生き残り、再編されていったのかを考える材料にもなる。
最後に
立花宗茂は豊臣秀吉から「鎮西一」と絶賛されたという逸話だけで評価すべき人物ではない。むしろ、史料によって確認できる具体的な経歴を追うほど、その人物像はさらに興味深くなる。
九州の戦国争乱で軍事経験を積み、豊臣秀吉の九州平定後に柳川の大名となり、13万2,200石を領した。その後、朝鮮出兵にも参加し、軍事的経験を全国規模へ広げた。
そして関ヶ原では西軍側に立ち、敗戦によって改易された。ここで宗茂は一度、戦国大名として完全に失敗したように見える。
ところが、浪人生活を経て徳川秀忠に再登用され、奥州棚倉で大名へ復帰した。そして元和6年(1620)、田中家の断絶を契機として旧領柳川へ戻った。
この一連の経歴を考えれば、宗茂の最大の功績は「戦場で勝ち続けたこと」ではない。一度すべてを失った後に、再び信用を築き、最後にはかつての領地へ帰還したことにある。
「鎮西一」「西国無双」「東西無双」という言葉については、史料的な検証を必要とする。しかし、その言葉を取り除いても、宗茂が豊臣・徳川という2つの大きな政権をまたいで生き抜き、軍事・行政・政治の各分野で実績を残したことは変わらない。
立花宗茂とは、単なる「強い武将」ではない。敗北しても終わらず、失っても再び築き、最後には旧領へ帰還した武将である。
その意味で、宗茂の人生を最もよく表す言葉は「無敗」ではなく、「再起」である。戦国時代の英雄を「勝った者」と定義するなら宗茂の人生には大きな敗北があるが、「敗北から立ち上がった者」と定義するなら、宗茂ほど象徴的な人物は少ない。
参考・引用リスト(追記)
1.文化庁「国指定文化財等データベース・立花家文書」
立花家に伝来する古文書群の情報、宗茂の柳川再入封、領知などを確認するための基礎資料として重要である。特に元和6年(1620)の柳川再入封を検証するうえで重要な公的資料である。
2.柳川市「立花宗茂」関連資料
宗茂の出生から立花家相続、豊臣秀吉による領地付与、関ヶ原後の改易、浪人生活、徳川秀忠による再登用、棚倉への入封、柳川再封、島原の乱への参加まで、人物の生涯を時系列で確認する際の基礎資料となる。
3.柳川市「柳川藩の歴史」関連資料
豊臣政権による柳川領の成立、太閤検地後の石高、立花家による領国支配などを確認するために利用できる。
4.中野等『立花宗茂』吉川弘文館
宗茂研究を理解するうえで重要な専門的研究書である。軍記物によって形成された宗茂像だけに依存せず、一次史料を踏まえて人物の生涯を検討する際の基本文献の1つである。
5.立花家史料館・柳川古文書館関連資料
立花家に伝来した古文書や関係資料を通じて、宗茂と立花家の政治・軍事・領国経営を考えることができる。
6.国立国会図書館「国立国会図書館サーチ」
立花宗茂に関する研究書・歴史書・論文等を確認するための書誌情報検索に利用できる。
最終的な史実評価
本稿全体を史実の確度という観点から整理すると、「秀吉が宗茂の武勇を高く評価した」「宗茂が豊臣政権下で大名となった」「朝鮮出兵に参加した」「関ヶ原で西軍側に属して改易された」「徳川秀忠のもとで再び大名となった」「元和6年(1620)に柳川へ再封された」という大枠は史料によって確認できる。
一方、「秀吉が実際に『鎮西一』と言った」「『東西無双』という表現を秀吉が用いた」といった具体的な逸話については、後世の伝承と同時代史料を区別する必要がある。
したがって、「秀吉から『その強さ鎮西一』と絶賛された」という記事タイトルは、読み物としては宗茂の魅力を端的に表現しているが、学術的な本文では「秀吉から高く評価され、大名として取り立てられたことは確実だが、有名な『鎮西一』『東西無双』という文言そのものについては史料上の慎重な検証が必要」とするのが最も妥当である。
そして最終的に最も確実な評価として残るのは、宗茂が「伝説的な最強武将だった」ということ以上に、戦国末期の軍事・政治環境を生き抜き、関ヶ原で一度すべてを失いながら、徳川政権下で大名として復帰し、最後には旧領柳川を回復した、極めて稀有な再起の大名だったという事実である。
