井伊直政:赤備えの精鋭を率いて先陣を切った徳川四天王の一人
井伊直政は戦国時代の有名武将の中でも、出発点と到達点の落差が大きい人物である。幼少期に父を失い、井伊家そのものが存続の危機に置かれる状況を経験した直政は、徳川家康に仕えることで新たな政治的基盤を獲得し、最終的には徳川家の最高幹部級の一人にまで成長した。
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2026年9月現在、「井伊直政」は戦国時代から江戸時代初期への転換を考えるうえで重要な武将として位置付けられている。とりわけ、徳川家康の家臣団の中で急速に地位を上昇させたこと、武田氏滅亡後にその旧臣を率いて「井伊の赤備え」を形成したこと、さらに関ヶ原の戦い後には近江佐和山を与えられたことから、軍事・外交・政治の3方面から評価する必要がある人物である。彦根市も現在、彦根城や彦根城博物館を中心に井伊家の歴史資料を継続的に調査・公開しており、2026年度には彦根城博物館開館40周年を記念する研究・展示事業の一環として、初代直政所用と伝わる甲冑なども紹介している。
直政について一般に知られているのは、「徳川四天王」「赤備え」「井伊の赤鬼」「関ヶ原」という4つの言葉である。しかし、この4語だけで直政の人物像を説明すると、勇猛果敢な戦国武将という側面ばかりが強調され、なぜ家康が若い直政を重用したのか、なぜ武田旧臣が直政のもとに集められたのか、なぜ関ヶ原後に佐和山という重要拠点を任されたのかという本質が見えにくくなる。
特に注意したいのは、「赤備え」を直政個人の武勇の象徴だけとして理解しないことである。赤備えは軍装だけでなく、武田氏から徳川氏へと軍事的な人材と経験が移転したことを示す存在でもあり、直政はその受け皿となった。彦根城博物館の資料によれば、井伊家の赤備えは近世初期の軍法によって甲冑の色や旗などが規定され、単なる戦場での装飾ではなく、組織として維持される軍制へと発展していた。
したがって、井伊直政を理解する場合、「赤い甲冑を着て戦場を駆けた武将」という入口から、徳川家康が直政に何を期待したのかという問題へ進むことが重要である。本稿では、一般的な英雄像をそのまま受け入れるのではなく、自治体の文化財資料、研究書の書誌情報、現存する甲冑や城郭資料などを手掛かりとして、直政の実像を軍事と政治の両面から整理する。
井伊直政とは
井伊直政は永禄4年(1561年)に生まれ、徳川家康の家臣として頭角を現した戦国武将である。井伊氏は遠江国井伊谷を本拠とする有力国人層であったが、戦国時代の動乱によって家の存続そのものが不安定となり、直政自身も安定した家臣団の中で順調に出世した人物ではなかった。
直政の人生を考えるうえで重要なのは、彼が徳川家康の家臣団に入った時点では、後世に「徳川四天王」と呼ばれるほどの地位を持っていなかったことである。家康の家臣団には酒井忠次、本多忠勝、榊原康政など、すでに実績を積み重ねた重臣が存在しており、直政はその中へ比較的若い時期に加わり、短期間で地位を上昇させていった。
この急速な出世は、直政の能力を考えるうえで重要な論点となる。単に戦場で槍を振るう能力だけなら、戦国大名の家臣団には多数の武勇に優れた武将がいたため、家康が直政を特別に重用した理由を説明するには不十分である。
直政には、戦場での積極性に加えて、主君の命令を遂行する能力、他家との交渉に関わる能力、家臣をまとめる能力があったと考えられる。特に武田氏滅亡後の旧臣を取り込む過程では、単なる武勇よりも、人間関係や軍事経験を組織として活用する能力が重要だった。
また、直政の評価を「徳川四天王」という後世の呼称だけから判断することにも注意が必要である。「徳川四天王」という表現は直政個人が生きていた時代の公式な役職名ではなく、後世に徳川家康を支えた代表的な4人の武将をまとめて呼ぶ名称として定着したものだからである。それでも直政が家康の天下統一過程で重要な役割を果たしたこと自体は否定できず、後世の評価と同時代の活動を区別して考えることが必要になる。
知っておくべき主要ポイント
井伊直政について最初に押さえるべきなのは、「若くして家康に仕え、武田旧臣を取り込み、軍事力と政治力の双方で評価を高めた人物」という点である。直政の生涯は、戦国大名の家臣として単に合戦に参加したというものではなく、徳川家が東海地方の大名から全国政権へ発展していく過程と重なっている。
第2のポイントは、武田氏との関係である。武田氏が天正10年(1582年)に滅亡すると、その旧臣たちは各地の大名に吸収されたが、その一部が徳川家康のもとに入り、直政の指揮下に置かれた。この人材配置が後の「井伊の赤備え」につながり、武田軍の軍事的伝統が徳川家臣団の中で別の形で継承されることになった。
第3のポイントは、赤備えが単なる「赤い甲冑の集団」ではないことである。現在確認できる彦根城博物館の説明では、井伊家の軍法において甲冑を赤色とし、大旗を朱地無紋とするなど、戦場における装備や規律が定められていた。つまり赤備えは、視覚的な統一だけでなく、軍団の規律と所属意識を示す制度的側面を持っていた。
第4のポイントは、直政の戦闘姿勢である。直政は戦場で前面に出る積極的な武将として知られ、後世には「井伊の赤鬼」という異名でも語られるようになったが、この呼称の成立時期や同時代性については慎重な検証が必要である。したがって、史料によって確認できる直政の戦場での行動と、後世に形成された英雄的な人物像は分けて扱うべきである。
第5のポイントは、関ヶ原後の政治的役割である。関ヶ原の戦いの後、直政には石田三成の居城だった佐和山城が与えられた。彦根市の資料によれば、直政は慶長6年(1601年)正月に高崎から佐和山へ入り、その後、彦根山に新城を築く計画が進められたが、直政自身は関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化し、慶長7年(1602年)に死去した。
ここには直政の歴史的評価を考えるうえで重要な事実がある。直政自身が完成した彦根城を築いたわけではないが、関ヶ原後に佐和山を与えられたことと、その後の井伊家による彦根城築城は連続した政治過程に位置付けられるのである。彦根城の成立を考える場合、直政は「彦根城を完成させた人物」ではなく、「井伊家が近江の重要拠点へ進出する出発点を作った人物」と捉える方が正確である。
そして第6のポイントが、直政を「武勇の人」だけに限定しないことである。直政の活動には、武田旧臣の編成、家康の命令を受けた交渉、戦場での指揮、関ヶ原後の領地経営への関与など、軍事と政治を結び付ける要素が存在する。後の井伊家が彦根藩主として幕末まで続くことを考えれば、直政の最大の功績は、戦場で敵を破ったことだけではなく、徳川政権の中で井伊家を大名家として再構築する基盤を作ったことにもある。
以上を踏まえると、井伊直政は「赤備えを率いた猛将」という一面的な理解では不十分である。むしろ、旧来の戦国武士団を新しい徳川政権の軍事・政治秩序へ組み込み、その中心人物として急速に成長した武将と捉えることで、直政の歴史的意味が明確になる。
過酷な出自から徳川家臣団のトップへ
井伊直政の生涯を理解するには、まず彼が最初から徳川家の有力家臣だったわけではないことを押さえる必要がある。直政は永禄4年(1561年)、遠江国井伊谷を本拠とした井伊氏に生まれたが、幼少期から家の存続を脅かす政治的・軍事的環境に置かれ、戦国大名の家臣として安定した人生を送れる状況ではなかった。
井伊氏は今川氏の勢力下に置かれており、井伊谷周辺も戦国期の権力争いから逃れることはできなかった。直政の父である井伊直親は、今川氏との関係が悪化した結果、永禄5年(1562年)に殺害され、幼い直政は父を失うことになった。
さらに井伊氏はその後も存続の危機にさらされた。直政自身も幼少期に井伊谷を離れて身を隠す時期を経験しており、こうした環境が後の直政の人生観や主君への忠誠にどの程度影響したのかについては慎重な判断が必要だが、少なくとも彼が通常の武家子弟とは異なる不安定な少年期を過ごしたことは重要である。
直政の再出発において大きな意味を持ったのが、徳川家康との接近である。家康は天正3年(1575年)頃、井伊直政を召し抱えたとされ、直政は徳川家臣団の一員として新しい人生を始めた。
この時点で直政はまだ若く、家康の家臣団には酒井忠次、本多忠勝、榊原康政などの有力武将がすでに存在していた。したがって、直政が後に彼らと並んで徳川四天王と称されるまでに成長したことは、単なる家柄によるものではなく、家康が彼の能力を評価して重要な任務を与えた結果と考えるべきである。
直政が急速に台頭した背景には、徳川家が置かれていた政治環境もあった。織田信長との同盟関係を基礎として勢力を拡大していた家康にとって、東海地方の武士だけでなく、異なる地域や勢力から人材を吸収し、組織として再編することが重要になっていた。
その中で直政は、若さを逆に利点として活用できる位置にいた。既存の有力家臣団とは異なる立場にいたため、家康から新しい役割を与えやすく、直政自身も主君の期待に応えることで急速に存在感を高めていったと考えられる。
天正10年(1582年)、織田信長によって武田勝頼が滅ぼされると、甲斐・信濃を中心とした武田氏の旧領では大規模な政治再編が始まった。この武田氏滅亡が、直政の将来を決定する大きな転機となった。
武田氏には長年にわたって戦場を経験した多数の武士が存在していた。徳川家康は彼らを取り込み、その軍事的経験を自らの勢力に組み込もうとしたが、その際に中心的な役割を担ったのが井伊直政であった。
武田の魂を継承した「赤備え」の率い手
武田氏の軍事力を考える際、「武田軍は最強だった」という後世の単純化には注意する必要がある。武田氏は確かに戦国期を代表する軍事勢力の一つであり、騎馬武者を含む高度な戦闘経験を持つ家臣団を抱えていたが、その軍事力は武田信玄個人の能力だけで成立していたものではなく、多数の武士と長年蓄積された軍事的経験によって形成されていた。
武田氏が滅亡すると、その経験を持つ武士たちは各地に分散することになった。家康はその一部を徳川家臣団へ組み入れ、井伊直政にその統率を担わせた。
ここから生まれたのが、後世に「井伊の赤備え」として知られる軍団である。赤備えそのものは井伊氏が最初に発明したものではなく、戦国時代には武田氏や真田氏など、赤色を基調とする軍装を用いた武将が存在したため、「赤備え=井伊直政」という理解だけでは歴史的経緯を十分に説明できない。
重要なのは、武田氏の旧臣が徳川家に吸収され、その一部が直政の指揮下に編成されたという事実である。つまり直政は武田軍の伝統をそのまま再現したのではなく、武田氏の旧臣が持っていた戦闘経験を徳川家の軍事組織へ移植する役割を果たしたと見る方が適切である。
彦根城博物館の資料では、井伊家の軍装について、甲冑を赤色に統一し、大旗を朱地無紋とするなど、具体的な軍法上の規定が確認されている。こうした資料からも、赤備えが単なる派手な装飾ではなく、軍団の統一性を示す重要な要素として機能していたことが分かる。
赤色には戦場で敵味方を識別しやすくするという実用面もあったと考えられるが、それだけではない。武田氏の旧臣を中心とする軍団にとって、赤い軍装は過去の軍事的伝統を保持する象徴となり、それを徳川家の武将である直政が率いることで、新旧の軍事文化が結び付いたのである。
ここで重要なのは、「武田の魂」という表現を文字どおり精神論として捉えないことである。実際に継承されたのは、武田氏に仕えていた武士の経験、戦闘技術、組織運用の知識、そして武田軍に由来する軍装などであり、それらが徳川家の新しい政治秩序の中に再配置されたと考える方が歴史的には妥当である。
直政にとって、この武田旧臣団の掌握は大きな出世の機会となった。若い直政が経験豊富な武士たちを統率する立場になったことで、彼は単なる一武将ではなく、徳川家臣団の中で独自の軍事集団を率いる存在へと変化した。
「赤備え」が直政にもたらした意味
赤備えの存在は、直政の軍事的評価を一気に高めた。戦国時代の軍団では、武将本人の力量だけでなく、どれだけ優れた家臣を集め、統率し、戦場で機能させられるかが重要であったため、経験豊富な武田旧臣をまとめ上げたこと自体が直政の能力を示す材料となる。
一方で、「武田旧臣を率いたから直政の軍団は無敵だった」とする理解も避けなければならない。戦国時代の合戦結果は兵力、地形、指揮系統、補給、同盟関係、敵軍の状況など複数の要因によって決まるため、赤備えだけを勝敗の理由にすることはできない。
むしろ赤備えの歴史的価値は、徳川家が他勢力の軍事的人材を取り込むことで、自らの軍事組織を強化していったことにある。直政はその象徴的存在となり、武田氏の滅亡を徳川家の軍事力増強へ転換する役割を担った。
この点から見ると、直政の出世は単純な「猛将の立身出世物語」ではない。井伊家という一度は存続が危ぶまれた家の後継者が、徳川家康の勢力拡大と武田氏滅亡という歴史的転換点を利用し、自らの家臣団を形成していった過程でもある。
さらに直政の重要性は、徳川家臣団の中で単なる軍事担当者にとどまらなかった点にある。家康は直政を戦場で使うだけでなく、他大名との交渉や政治的な案件にも関与させており、直政が軍事能力だけでなく対外交渉能力を備えていたことを示す事例が残っている。
この能力が後の関ヶ原前後で大きな意味を持つことになる。徳川家が豊臣政権内部の対立を利用しながら全国的な覇権を確立していく過程では、合戦で勝つだけでなく、諸大名との交渉や降伏・服属を処理する能力が必要だったからである。
したがって、井伊直政の出世を説明する際には、「赤備えを率いたから有名になった」という順序ではなく、家康が直政の能力を評価して抜擢し、武田旧臣という貴重な人材を直政に託し、その軍事的成功と政治的活動がさらに直政の地位を押し上げたという流れで捉える必要がある。
そして、この過程によって直政は、徳川家臣団の中で酒井忠次、本多忠勝、榊原康政らと並ぶ存在へと成長していった。後世に「徳川四天王」と総称される4人の中では直政が最も若く、家康への仕官から短期間で最高幹部級へ到達した点に、彼の異例の出世の特徴がある。
「井伊の赤鬼」と呼ばれた苛烈な戦いぶり
井伊直政を語るとき、最も強烈な印象を残すのが「井伊の赤鬼」という武勇のイメージである。赤い甲冑を統一して戦場に現れる直政の軍団は視覚的な存在感も大きく、直政自身も積極的に戦闘へ参加する武将として知られるようになった。
ただし、「井伊の赤鬼」という呼称をそのまま同時代の公式な評価とみなすことには注意が必要である。現在知られている直政像には、江戸時代以降に成立した軍記や伝承によって強調された部分も含まれており、史料によって確認できる行動と後世の英雄化は区別しなければならない。
それでも、直政が戦場で危険を恐れず前面に出る傾向を持っていたことについては、複数の史料から確認できる。徳川家康の家臣として各地の戦闘に参加し、赤備えを率いて敵陣へ攻撃を加える直政の姿は、徳川軍における攻撃部隊の指揮官という性格を明確に示している。
戦国武将にとって、先陣に立つことは単なる勇気の問題ではない。大将級の武将が自ら危険な場所に出れば、兵士の士気を高められる一方で、本人が負傷すれば指揮系統そのものが揺らぐため、戦場での積極性と指揮官としての安全確保には常に緊張関係が存在していた。
直政の場合、この危険を承知したうえで前線に立つ姿勢が、家臣団の結束と彼自身の武名を高める方向に作用したと考えられる。赤備えという統一された軍装と、先頭に立つ指揮官という組み合わせによって、井伊軍団そのものが徳川家の攻撃力を象徴する存在になっていった。
長久手以後に高まった軍事的評価
直政の武名を考えるうえで重要なのが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。この戦いは、徳川家康・織田信雄の連合軍と羽柴秀吉の勢力が対立したもので、徳川家康が軍事的に秀吉軍へ対抗した代表的な戦いとなった。
直政はこの戦いで武功を挙げ、若い武将ながら存在感を高めたとされる。特に赤い軍装を用いた部隊を率いたことが、後の「赤備えの井伊」というイメージにつながっていった。
もっとも、小牧・長久手の戦いを「直政が一人で勝利を決定づけた戦い」と理解するのは正確ではない。この戦役では徳川軍の各部隊がそれぞれの役割を担っており、直政の武功も家康の全体的な軍事指揮の中で評価する必要がある。
この戦いの後、直政は徳川家臣団における重要性をさらに増した。家康が豊臣秀吉との関係を変化させていく中でも、直政は軍事・外交の双方で活動し、単なる戦場指揮官から徳川政権を支える幹部へと役割を広げていった。
天正18年(1590年)の小田原征伐も、直政の経歴における重要な転換点である。豊臣秀吉による北条氏討伐に徳川家康が参加すると、直政も徳川軍の一員として出陣し、北条氏の領国が解体されるという全国規模の政治変動を経験した。
その後、家康が関東へ移封されると、徳川家の本拠も東海地方から関東へ移った。直政も家康に従って関東へ移り、上野国箕輪城を与えられるなど、家臣団の中で大きな領地と軍事的責任を持つ立場になった。
この時点で直政は、もはや単なる若手の武将ではない。多数の家臣を抱える大名級の家臣として、軍事だけでなく領地の統治にも対応しなければならない段階に入っていた。
直政の「苛烈さ」はどこまで事実なのか
直政には、敵に対して容赦がなく、家臣に対しても厳しい武将だったという人物像が残されている。これが後世の「赤鬼」というイメージと結び付き、非常に攻撃的な武将として語られることが多い。
しかし、歴史上の人物を評価する場合、「怖い武将だった」という後世の人物評だけで判断することはできない。戦国時代の武将にとって厳格な軍規や迅速な処罰は、軍団を維持するための統治手段でもあり、直政だけが特別に苛烈だったと断定することは難しい。
むしろ重要なのは、直政が軍団を効率的に動かすために規律を重視した可能性である。武田旧臣を含む複数の武士を統率するには、出身や旧主への忠誠心が異なる家臣たちを一つの指揮系統に組み込む必要があり、そこでは明確な命令系統と軍規が重要になる。
直政の厳格さは、個人的な性格だけでなく、急速に拡大した井伊軍団を維持するための組織運営とも関係していたと見ることができる。こうした観点から見ると、「井伊の赤鬼」という呼称は、単純な残虐性ではなく、戦場での攻撃性と軍団統率の厳格さを象徴する言葉として理解する方が適切である。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成ら西軍の対立が決定的となり、全国の大名を巻き込む関ヶ原の戦いが発生した。直政にとって、この戦いはそれまで積み重ねてきた軍事的・政治的活動の集大成となると同時に、彼の生涯を終わらせるきっかけにもなった。
関ヶ原では直政は徳川軍の重要な部隊を率いて参加した。直政の行動について特に注目されるのが、戦場での積極的な活動だけではなく、敵方の武将との交渉にも関与していた点である。
直政は戦闘だけを担当する武将ではなく、西軍側の武将を徳川方へ引き込むための交渉にも関わった。戦国時代の合戦では、敵軍を撃破することだけでなく、戦う前に敵の戦力を減らすことが重要であり、直政の外交的役割は軍事的役割と切り離せない。
関ヶ原の戦場では、直政は松平忠吉を補佐しながら行動したとされる。徳川家康の四男である忠吉は若年であり、直政がその後見的な役割を担ったことは、家康からの信頼の大きさを示す材料となる。
そして戦闘が始まると、直政は積極的に軍を動かした。一般には、福島正則隊が先陣を切ることをめぐる問題が有名だが、直政も戦場での主導権を確保しようと動き、最終局面では島津義弘の退却部隊を追撃するなど、激しい戦闘に参加した。
この追撃戦で直政は銃撃を受けて負傷した。ここで重要なのは、直政が関ヶ原の戦いそのもので死亡したわけではないという点である。
直政は重傷を負いながらも生き延びた。関ヶ原の戦いが終わった後も政治活動を続け、佐和山城を拠点として近江の統治や西軍諸将との交渉に関与することになる。
関ヶ原後の佐和山
関ヶ原で徳川家康が勝利すると、石田三成の旧領を含む近江の重要地域は徳川政権の支配下へ組み込まれた。直政には佐和山城が与えられ、徳川家臣団の中でも極めて重要な地位を占めることになった。
佐和山は交通上の要衝であり、東西を結ぶ重要な地域に位置していた。家康が直政をこの場所に置いたことは、彼を単なる戦場の猛将ではなく、徳川政権の西日本方面における重要な統治担当者として評価していたことを示す。
直政は佐和山を拠点として、関ヶ原後の政治的処理に取り組んだ。しかし、関ヶ原で受けた鉄砲傷は深刻であり、その後の生活に大きな影響を与えた。
井伊直政の最期
井伊直政は慶長7年(1602年)2月1日に死去した。享年は42歳であり、関ヶ原の戦いからわずか1年余り後のことであった。
直接の死因については、関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化したことが一般的に説明されている。戦国時代の銃創は現代のような感染症対策や外科治療が存在しなかったため、戦場で生き残ったとしても、その後に傷が悪化して命を落とす危険が高かった。
直政の死によって、徳川家は重要な人材を失った。家康にとって直政は、戦場で勇敢に戦う武将であるだけでなく、武田旧臣を率い、他大名との交渉にも対応できる実務型の幹部だったからである。
直政の死後、井伊家の家督は直継が継承した。その後、井伊家は彦根藩主として徳川政権を支える譜代大名となり、幕末まで続く政治的基盤を築いていく。
ここから見えてくるのは、直政の生涯が戦国時代そのものの縮図でもあるということだ。父を失い、家の存続すら危うい状況から出発した人物が、徳川家康に仕え、武田氏滅亡後の人材を吸収し、全国統一戦争を経験し、関ヶ原後には新しい政権を支える大名級の家臣へ到達したのである。
直政の最期は「戦場で華々しく散った猛将」という物語ではない。むしろ関ヶ原を生き延び、その後の政治的処理に取り組んでいた最中に、戦場で負った傷によって命を落としたという点に、戦国武将の現実が表れている。
そして直政を評価するうえでもう一つ重要なのが、彼が残した行政的・政治的な仕事である。軍事的な功績ばかりに目を向けると、なぜ家康が直政を佐和山という重要拠点に配置したのか、その理由を十分に説明できない。
単なる「武勇の人」に留まらない優れた行政手腕
井伊直政の歴史的評価を考えるうえで、最も修正する必要があるのが「赤備えを率いた猛将」という人物像だけで直政を理解することである。直政は戦場で高い評価を得た一方、徳川家康から重要な政治的任務も与えられており、軍事と外交、さらに領国統治を結び付けて考える必要がある。
直政の政治的能力が特に明確になるのが、関ヶ原の戦い前後である。関ヶ原後、直政は石田三成の旧領である佐和山を与えられ、徳川政権にとって西国への備えとなる重要拠点を担当することになった。彦根市が作成した彦根城の保存活用計画でも、直政は関ヶ原での功績によって18万石を与えられ、北陸の前田家や西国の豊臣方を抑える最前線を治める役割を担ったと整理されている。
ここで注目すべきなのは、佐和山が単なる褒賞として与えられた土地ではなかったことである。佐和山は東西交通を押さえる要衝であり、関ヶ原後の徳川政権にとって、豊臣恩顧の大名が多い西日本に対する警戒線として重要な意味を持っていた。
つまり家康が直政に佐和山を与えたことは、「合戦で活躍したから領地を与えた」というだけではない。直政には、軍事力を背景にしながら新しい領地を安定させ、周辺勢力との関係を調整し、徳川政権の支配を定着させる役割が期待されていたと考えられる。
直政の外交能力
直政の政治的能力を考える際には、島津氏との関係も重要である。関ヶ原の戦いでは島津義弘が敵中突破によって退却し、直政の軍勢がその追撃にあたったが、その後の島津氏と徳川家との関係調整に直政が関与したことが彦根市と鹿児島市の交流資料でも紹介されている。
この事例は、戦場で敵を追撃した武将が、戦後にはその敵対勢力との関係を調整する側に回るという、戦国末期の政治の現実をよく示している。戦国大名の戦争は、敵を完全に滅ぼすことだけを目的とするものではなく、戦後に相手を徳川政権の秩序へ組み込むことまで含めて成立していた。
直政がこのような交渉に関与したことは、彼が単純な戦闘指揮官ではなかったことを示す。戦場での武功と外交上の役割が同じ人物に集中している点こそ、家康が直政を重臣として扱った理由を考えるうえで重要である。
もっとも、直政がすべての外交交渉を単独で主導したと理解するのも適切ではない。徳川家の外交は家康本人や本多正信など複数の重臣によって運営されており、直政もその一翼を担ったと評価する方が史実に即している。
佐和山から彦根へ
直政に与えられた佐和山は、最終的には井伊家の新しい本拠となる彦根へつながっていく。直政は慶長6年(1601年)正月に高崎から佐和山へ入り、その後、関ヶ原で負った鉄砲傷が悪化して翌年に死去した。
直政の死後、家老の木俣守勝らが中心となって新しい城の建設計画が進められた。候補地は佐和山、彦根山、磯山などから検討され、最終的に彦根山が選ばれ、慶長9年(1604年)に築城工事が開始された。
このため、「井伊直政が彦根城を築いた」という説明には注意が必要である。直政自身が完成した彦根城を見ることはなく、実際の築城は死後に進められたため、正確には直政が佐和山に入ったことが井伊家の彦根進出の起点となり、その後を直継・直孝らが引き継いだと理解するべきである。
彦根城はその後、豊臣恩顧の大名が多い西国を監視する重要拠点として整備された。彦根市の資料でも、築城には幕府から奉行が派遣され、近隣諸国の大名に助役が命じられるなど、大規模な天下普請として進められたことが確認できる。
この歴史的展開から考えると、直政の最大の功績を「関ヶ原での武功」だけに限定するのは適切ではない。彼が徳川政権から佐和山という重要拠点を託されたことが、後の彦根藩成立と井伊家の長期的な政治的地位につながった点も評価すべきである。
「徳川四天王」という評価をどう見るか
直政は酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに「徳川四天王」の一人として知られている。この呼称は現在では極めて定着しているが、歴史研究では後世に形成された人物評価と、当時の徳川家臣団における実際の役割を分けて考える必要がある。
直政の場合、4人の中では特に若く、家康への仕官から比較的短期間で重臣層に上昇したことが大きな特徴である。国立国会図書館にも「徳川四天王の一族と系譜」を扱った専門的な記事が収録されており、直政の評価は本人だけでなく、その後の井伊家の歴史と合わせて考えられてきたことが分かる。
また、後世の井伊家は幕府の中で譜代大名として重要な地位を占めた。直政が築いた基盤は、彼の死によって消滅することなく、井伊家の政治的伝統として受け継がれていった。
したがって「徳川四天王」という称号の意味は、単に4人の武将の武勇を比較することではない。徳川家康が天下統一を実現する過程で、異なる能力を持つ重臣たちを組み合わせ、その一角を直政が担ったという意味で捉えるべきである。
今後の展望
2026年現在、井伊直政研究で重要になるのは、従来の英雄的な武将像からさらに踏み込んだ人物評価である。「赤備え」「赤鬼」「徳川四天王」という分かりやすい言葉は直政を知る入口として有効だが、それだけでは戦国時代から近世への移行期に直政が果たした役割を十分に説明できない。
今後は、直政個人の武勇だけでなく、武田旧臣の徳川家への編入、軍団の組織化、家康の外交政策、関ヶ原後の領国再編、佐和山から彦根への城郭政策などを相互に関連させて研究することが重要になる。特に武田旧臣がどのように井伊家の軍事組織へ組み込まれ、その後の井伊家にどのような影響を残したのかは、戦国から近世への人材移動を考えるうえでも興味深い研究テーマである。
また、城郭研究との連携も重要である。国立国会図書館に収録された城郭研究では、佐和山城の歴史と構造、彦根城の縄張り、両城の石垣などが個別に研究されており、直政の政治的役割を城郭の立地と構造から検討する余地がある。
2026年現在の彦根市においても、直政は単なる過去の武将ではなく、彦根の歴史的・文化的アイデンティティーを形成する重要人物として扱われている。彦根市は彦根城を江戸時代の城下町形成と結び付けて説明しており、井伊直政の佐和山入城から始まる井伊家の進出を、現在の彦根の形成史の一部として位置付けている。
さらに、彦根城や井伊家関連資料の保存・公開が進めば、直政の人物像についても、軍記や伝承だけではなく、現存する甲冑、古文書、城郭遺構など複数の史料を組み合わせた検証が可能になる。歴史上の人物を英雄化するのではなく、残された史料から「何が確実に分かり、何が後世の伝承なのか」を切り分けることが、今後の直政研究において重要になる。
まとめ
井伊直政は戦国時代の有名武将の中でも、出発点と到達点の落差が大きい人物である。幼少期に父を失い、井伊家そのものが存続の危機に置かれる状況を経験した直政は、徳川家康に仕えることで新たな政治的基盤を獲得し、最終的には徳川家の最高幹部級の一人にまで成長した。
その出世を支えた重要な要素が、武田氏滅亡後の旧臣団との関係である。直政は武田旧臣を率いて赤備えを形成し、武田氏の軍事的経験を徳川家の軍事力へ取り込む役割を果たした。
直政の武勇も確かに重要である。戦場で前線に立ち、関ヶ原では激しい追撃戦に参加し、そこで受けた鉄砲傷が後の死につながったことからも、彼が戦場で危険を引き受ける武将だったことは明らかである。
しかし、直政を「井伊の赤鬼」という一言だけで説明するのは不十分である。関ヶ原後に佐和山を与えられたこと、島津氏との関係調整に関与したこと、徳川政権の西国への備えを担ったことなどを考えると、彼は軍事と外交を兼ね備えた実務型の重臣だったと評価できる。
さらに重要なのが、直政の死後に井伊家が彦根藩として発展したことである。直政自身が完成した彦根城を築いたわけではないが、佐和山への入城によって井伊家の近江進出の基盤が作られ、その後の彦根城築城と彦根藩の成立につながった。
以上を総合すると、井伊直政の歴史的価値は、「赤備えを率いた猛将」から「徳川政権の軍事・外交・統治を担った重臣」へと視野を広げることで初めて明確になる。武田氏の軍事的伝統を徳川家へ移し、関ヶ原で戦い、戦後には佐和山という要衝を任された直政は、戦国時代から近世国家への移行を象徴する人物の一人である。
参考・引用リスト
- 彦根市「彦根城の歴史・彦根藩の御殿」――井伊直政の佐和山入城、死去、彦根城築城への移行過程を確認するための公的資料。
- 彦根市「特別史跡彦根城跡」――関ヶ原後の井伊直政への領地給付、佐和山の軍事的重要性、彦根城築城の経緯を確認するための資料。
- 彦根市・鹿児島市「彦根市×鹿児島市交流連携協定」――関ヶ原後の井伊直政と島津氏の関係を考える際の自治体資料。
- 国立国会図書館「近江佐和山城・彦根城」――佐和山城・彦根城の構造と歴史を扱う城郭研究資料。中井均らの研究を収録している。
- 国立国会図書館「井伊直政と井伊家一族」――徳川四天王と井伊家の系譜・歴史的位置付けを確認するための文献情報。
- 国立国会図書館「井伊の赤備え――徳川四天王筆頭史譚」――井伊直政と赤備えを題材とした文献情報。なお、収録作品には歴史小説も含まれるため、史実確認の際には一次史料・研究資料と区別して扱う必要がある。
- 彦根市「彦根市について」――井伊直政の佐和山入城から彦根城・城下町の形成へ至る地域史上の位置付けを確認する資料。
追記:「赤鬼」「赤備え」「徳川四天王」をどう評価するか
井伊直政について現在広く知られている人物像は、「赤備えを率いて先陣を駆ける猛将」「井伊の赤鬼」というものである。このイメージには史実を反映した部分がある一方、後世の軍記や人物評価によって強調された部分も含まれているため、すべてを同時代の直政像として扱うことはできない。
特に「赤鬼」という表現については、現代の歴史解説で非常に頻繁に使われるものの、直政が生前から一般的にこの異名で呼ばれていたと単純化するのは危険である。歴史上の人物には、後世の講談、軍記、系譜、地域伝承などによって強烈な人物像が付け加えられることが多く、直政もその例外ではない。
ただし、後世の評価だからといって、その人物像が完全な創作になるわけではない。直政が戦場で積極的に行動したこと、赤備えを率いたこと、関ヶ原で負傷したことなど、人物像の基礎となる事実は確認できるため、そこから後世に「赤鬼」という象徴的なイメージが形成されたと考えるのが妥当である。
したがって、「井伊の赤鬼」という言葉は、直政の全人格を説明する史料的な肩書きではなく、直政の軍事的性格を後世が象徴的に表現した呼称として理解するのが適切である。
「赤備え」は井伊直政の発明ではない
もう一つ注意すべきなのが、「井伊直政が赤備えを作った」という説明である。これは一般向けの記事では簡略化されやすいが、赤色を基調とした軍装は直政以前から存在しており、特に武田氏の軍団と結び付けられて知られている。
武田氏滅亡後、その旧臣の一部が徳川家に取り込まれ、直政の指揮下に入ったことが井伊家の赤備え形成にとって重要だった。つまり直政の功績は、赤色の軍装そのものを発明したことではなく、武田旧臣が持っていた軍事的経験と軍装の伝統を徳川家の軍事組織の中で再編成したことにある。
彦根城博物館が公開する資料からも、後の井伊家では赤色の甲冑や朱地の大旗などについて具体的な軍法が定められていたことが確認できる。これは赤備えが単なる戦場での目立つ装備ではなく、井伊家の軍団を象徴する組織的な制度へ発展していたことを示している。
この点を踏まえると、赤備えには2つの意味があったと考えられる。第一は戦場での識別性を高める軍装としての機能であり、第二は武田旧臣の軍事的伝統を井伊家の軍団へ引き継ぐ象徴としての機能である。
「徳川四天王」は同時代の正式な役職ではない
井伊直政を説明する際に必ず登場する「徳川四天王」という呼称についても、歴史的な意味を正確に理解する必要がある。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人をまとめて徳川四天王と呼ぶことは現在では定着しているが、これは徳川幕府の公式な官職名ではない。
4人にはそれぞれ異なる役割と経歴があった。酒井忠次は家康の初期から支えた最古参の重臣であり、本多忠勝は戦場での武勇によって名声を得て、榊原康政も軍事・政治の両面で徳川家を支えた。
その中で直政は、4人の中では最も若く、徳川家への仕官時期も遅い。にもかかわらず最終的に同じ枠組みで評価されるようになったことは、直政の出世速度と家康からの信頼の強さを示す重要な特徴である。
したがって、「徳川四天王だから最初から徳川家の最高幹部だった」と考えるのではなく、直政が若い時期から家康の信任を獲得し、軍事・外交・統治の実績を積み重ねた結果、後世に徳川四天王の一人として評価されたと理解する必要がある。
関ヶ原で「戦死」したわけではない
井伊直政について最も明確に修正しておきたい誤解の一つが、関ヶ原の戦いで死亡したという理解である。直政は関ヶ原で負傷したものの、その場で死亡したわけではなく、その後も生存して政治活動を続けた。
関ヶ原では直政が島津義弘の退却部隊を追撃した際に銃撃を受けたとされ、その傷が後に悪化した。直政は戦後、佐和山に入り、徳川政権の新しい秩序を近江に定着させる役割を担うことになった。
そして慶長7年(1602年)に死去した。したがって、直政の死を正確に表現するなら、**「関ヶ原で受けた傷が原因となり、その後に死去した」**となる。
この事実は直政の人物評価にも関係する。関ヶ原を最後の戦場として華々しく散った武将ではなく、負傷後も政務を続け、佐和山を統治しようとしていたという点に、直政の政治家としての側面が表れている。
「彦根城を築いた人物」という説明にも注意が必要
現在の彦根と井伊直政の関係を語る場合、「井伊直政が彦根城を築いた」と紹介されることがある。しかし、これも厳密には修正が必要である。
直政が関ヶ原後に与えられたのは佐和山であり、彼は彦根城の完成を見ることなく死去した。彦根城の本格的な築城は直政の死後に始まり、井伊家の次代以降によって進められた。
したがって直政の役割は、彦根城そのものの築城者というより、井伊家を近江の重要拠点へ移す政治的基礎を作った人物と表現する方が正確である。
佐和山から彦根へという移動は、単なる居城変更ではない。関ヶ原によって成立した徳川政権が西国の諸大名を監視し、東西交通を押さえるための政治・軍事政策と結び付いており、井伊家がその重要拠点を担ったことに大きな意味がある。
直政の本当の評価
ここまで検証すると、井伊直政について最も重要なのは「強かったかどうか」という問題ではないことが分かる。もちろん戦場での武勇は直政の重要な特徴だが、それ以上に注目すべきなのは、異なる背景を持つ武士たちを徳川家の新しい秩序へ組み込む役割を担ったことである。
武田氏が滅亡すると、武田旧臣という高度な軍事経験を持つ人材が大量に政治的再編の対象となった。直政はその一部を率いることで、武田氏の軍事的遺産を徳川家へ移す橋渡し役となった。
さらに、関ヶ原後には敵方だった大名との関係調整にも関わり、佐和山という重要拠点を任された。これらを総合すると、直政は「戦う能力」と「戦後を処理する能力」の両方を家康から期待された人物だったと評価できる。
直政の最大の特徴は、戦国武将としての軍事的能力を、徳川家による近世的な支配体制の構築へ接続したことにある。これは単なる武勇とは異なる能力であり、直政が若くして家康の重臣へ上昇した理由を考えるうえで重要である。
2026年から見た井伊直政
2026年現在、井伊直政は単なる戦国武将ではなく、彦根という都市の歴史を理解するための重要人物として位置付けられている。彦根城、彦根城博物館、井伊家関連文化財などを通じて、直政から始まる井伊家の歴史は現在も地域文化の中で継承されている。
同時に、現代の歴史研究では英雄的な人物像だけをそのまま受け入れるのではなく、一次史料、城郭遺構、甲冑などの現存資料、近世の記録、後世の軍記などを比較する姿勢が重視される。直政についても、「赤鬼」という強烈なイメージと、実際に確認できる政治・軍事活動を切り分けることで、より立体的な人物像を描くことができる。
今後さらに重要になるのは、直政個人の生涯だけでなく、彼の周囲にいた武田旧臣、井伊家臣団、徳川家康の側近、近江の国衆などを含めて研究することである。直政を中心に人材の移動を追跡すれば、戦国大名の家臣団がどのように再編され、近世大名の家臣団へ変化していったのかを具体的に見ることができる。
また、佐和山城と彦根城を連続した歴史空間として研究することも重要である。直政が佐和山に入り、死後に彦根城が築かれた経緯を追えば、関ヶ原後の徳川政権が近江をどのように位置付けていたのかがより明確になる。
最後に
井伊直政は戦国時代を代表する「猛将」の一人として知られている。しかし、その実像を掘り下げると、彼の価値は戦場での武勇だけではなく、武田旧臣を徳川家臣団へ組み込み、赤備えという軍事的伝統を再編し、さらに外交や領国統治にも携わった点にある。
直政は幼少期に父を失い、井伊家の存続そのものが危うい状況を経験した。その後、徳川家康に仕え、若くして頭角を現し、武田氏滅亡という大きな歴史的転換を利用して、徳川家臣団の中で独自の軍事基盤を築いた。
赤備えは直政個人の発明ではない。しかし、武田旧臣の軍事的経験を徳川家へ移し、それを井伊家の軍団として再編したことは直政の重要な功績であり、後の井伊家を象徴する軍事文化へ発展した。
関ヶ原では前線で戦い、負傷した。それでも戦後は佐和山を与えられ、徳川政権の西国支配を支える重要な立場に就いたことから、直政が家康から単なる戦闘要員以上の能力を評価されていたことが分かる。
直政は慶長7年(1602年)に死去したが、その死によって井伊家の歴史が終わったわけではない。むしろ佐和山への入部を起点として井伊家は彦根へ進出し、後に彦根藩主として徳川幕府を支える譜代大名へ成長した。
したがって、井伊直政を一言で表すなら、「赤備えを率いた猛将」であると同時に、「戦国武士団を近世徳川政権へ接続した実務型の重臣」という評価が最も適切である。
そして「徳川四天王」という後世の称号、「井伊の赤鬼」という英雄的な異名、「赤備え」という視覚的に強烈な軍団像の3つを史実と伝承に分けて見直すことで、直政の本当の重要性が見えてくる。直政は戦場で目立ったから歴史に残ったのではなく、徳川家康が天下統一へ進む過程で、軍事・外交・統治という複数の役割を短期間で担うことができたからこそ、後世まで評価され続けたのである。
参考・引用リスト(追記)
1.彦根市「彦根城の歴史」
井伊直政の佐和山入城、直政の死去、彦根城築城に至る過程を確認するための自治体公式資料。
2.彦根市「特別史跡彦根城跡」関連資料
関ヶ原後の井伊直政への領地給付、佐和山の軍事的・政治的重要性、彦根城築城の背景を確認する資料。
3.彦根城博物館「井伊の赤備え」関連資料
井伊家の赤備えについて、赤色の甲冑、大旗などの軍装規定を確認するための専門資料。
4.国立国会図書館・国立国会図書館サーチ所収文献
井伊直政、井伊家、徳川四天王、佐和山城、彦根城などに関する研究文献・書誌情報を確認するために使用。
5.国立歴史民俗博物館などの日本中世・近世史研究資料
戦国大名の家臣団編成、武士団の再編、近世大名成立過程を考える際の研究基盤として参照。
6.井伊家関連史料・系譜資料
井伊家の系譜、直政の活動、徳川家との関係を検証するための史料群。ただし、後世に成立した系譜・軍記については、同時代史料と区別して扱う必要がある。
7.城郭研究資料
佐和山城と彦根城の立地、城郭構造、築城過程を検討し、関ヶ原後の徳川政権による近江支配の意味を考察する際に参照。
