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江戸時代:天保の改革の失敗を決定づけた「江戸城・西の丸の怪火」

天保9年(1838年)の江戸城西の丸火災は、大御所・徳川家斉の居館を焼失させた重大な事件だった。西の丸御殿は幕府の政治的権威を象徴する空間であり、その再建には資材や人員の確保を含む大規模な事業が必要となった。
江戸城本丸御殿跡と数寄屋二重櫓(東京都立図書館)

天保9年(1838年)3月、江戸城西の丸御殿を焼失させた大火は、江戸幕府後期の政治と財政を考えるうえで重要な事件である。当時、西の丸には将軍職を退いた徳川家斉が居住しており、家斉は大御所として幕府政治に強い影響力を保持していたため、この火災は単なる将軍家の居住施設の焼失にとどまらなかった。

ただし、最初に確認すべき点がある。この火災が「天保の改革の失敗を決定づけた」とする説明は、歴史を理解するための問題提起としては興味深いものの、火災と改革の失敗を直接結びつけるには慎重な検討が必要である。

天保の改革が本格的に進められたのは、老中・水野忠邦が主導権を握った天保12年(1841年)以降である。西の丸火災はその約3年前に発生しており、改革の失敗を直接引き起こした事件というより、幕府財政の脆弱さ、大御所政治の問題、幕府権威の維持に伴う負担を考察するための重要な前史として位置づけるのが妥当である。

また、「怪火」という言葉にも注意が必要だ。火災が政治的な意味を持ったことと、出火そのものが陰謀や放火によるものだったことは別問題であり、原因を断定するには同時代の記録などによる裏づけが欠かせない。

本稿では、東京都公文書館が公開する『東京市史稿』の目次や、江戸東京博物館の所蔵史料情報、江戸城の火災被害に関する研究資料などを手がかりに、確認できる事実と歴史的解釈を分けて整理する。火災の概要から幕府財政、諸藩への負担、徳川家斉の政治的影響力、水野忠邦の失脚へと論点を広げ、事件が幕府の統治能力を考えるうえで何を意味したのかを検証する。

事件の概要:天保9年の江戸城西の丸火災

天保9年3月10日、江戸城西の丸御殿で火災が発生し、御殿の主要部分が焼失した。西の丸は将軍の後継者や隠居した将軍が居住する場所として用いられ、このときは前年に将軍職を退いた徳川家斉の居館となっていた。

西の丸は、江戸城の付属的な施設ではなかった。将軍職を退いた家斉が居住していたことに加え、家斉が政治に強い影響力を及ぼしていたため、西の丸御殿は幕府中枢の政治的な空間としても重要な意味を持っていた。

家斉は天保8年(1837年)に将軍職を徳川家慶へ譲ったが、隠居後も大御所として権勢を保っていた。したがって、西の丸御殿の焼失は、建物と財産の損失にとどまらず、幕府の威信や政治運営にも関係する重大な出来事だったのである。

発生日時、出火場所、被害、当時の状況

火災が発生したのは、旧暦の天保9年3月10日である。西暦では1838年4月4日にあたり、火元は西の丸御殿の膳所台所に付属する下部屋の2階とされている。

火災被害を整理した研究資料によれば、西の丸御殿はほぼ全焼し、切手門や塀の一部などにも延焼した。一方、西の丸大手門の櫓や書院門番所、坂下門、裏門、太鼓櫓など、焼失を免れた施設もあったとされる。

この被害の規模は、当時の江戸城が抱えていた防火上の問題を示している。木造建築が密集する城郭では、一度火災が発生すると、建物内部から周辺施設へ延焼する危険があり、将軍家の居住空間であっても火災を完全に防ぐことは困難だった。

注目すべきは、焼失後に御殿の再建が必要になったことである。江戸城の御殿を再建するには、木材などの建築資材、職人の確保、運搬、工事の管理など、多くの資金と人員を投入しなければならなかった。

当時の幕府にとって、西の丸御殿の再建は政治的な威信を回復するためにも重要だったと考えられる。しかし、権威ある建物を再建する必要性と、財政支出を抑制しなければならない現実との間には、明らかな緊張関係が存在した。

この矛盾こそ、火災を天保期の幕府政治と関連づけて考える際の重要な出発点である。ただし、再建費用がどの程度幕府財政を圧迫したのか、また、その負担が後年の天保の改革にどこまで影響したのかについては、具体的な財政記録や工事関係史料を用いて別途検証する必要がある。

なぜこれが「天保の改革の失敗を決定づけた」のか

天保9年(1838年)の西の丸火災を、天保の改革の失敗を決定づけた事件として理解するには、火災そのものの被害と、その後の幕府の対応を区別する必要がある。史料から確認できるのは、西の丸御殿の焼失後に再建工事が進められ、幕府が建築資材の調達や工事の組織化に取り組んだことであり、この復旧事業が幕府と諸藩に負担をもたらした点である。

一方、天保の改革は火災から約3年後の天保12年(1841年)に始まった。したがって、火災が改革を直接失敗させたと結論づけるよりも、再建事業が幕府財政や大名統制の問題を浮き彫りにし、その後の改革を考えるための背景となったと捉える方が、歴史的な因果関係を正確に説明できる。

この問題を理解するには、少なくとも3つの観点が必要である。第1に、幕府が倹約を掲げながら大規模な公共事業を実施しなければならなかった財政上の矛盾、第2に、普請手伝によって諸藩へ負担を配分する幕藩体制の仕組み、第3に、将軍職を退いた徳川家斉が政治に強い影響力を持ち続けたことによる意思決定上の問題である。

ただし、これらは相互に関係するものの、同一の問題ではない。火災と再建は財政負担を生み、家斉の存在は政治的な権力構造に影響を与え、天保の改革はそれらを含む広範な政治・経済問題に対処しようとした政策だったのである。

幕府財政の致命的な破綻と「倹約令」の矛盾

江戸幕府の財政問題は、西の丸火災によって突然発生したわけではない。幕府は長期にわたり、米を中心とする年貢収入を基礎としながら、都市経済の発展、貨幣経済の浸透、物価の変動、行政・軍事費の増大などに対応する必要があった。

さらに、幕府の財政問題は単純な収入不足だけでは説明できない。領地から得られる年貢を中心とした収入構造と、都市で必要となる貨幣支出との間にはずれがあり、米の価格や流通事情によって実際に利用できる資金も左右された。

天保期には、天候不順や凶作、農村の困窮、都市社会の不安定化などが重なった。幕府が財政を立て直すには、支出を抑えるだけでなく、農村の生産力や流通の安定、行政機構の運営を含めた対策が必要だった。

そこに西の丸御殿の焼失と再建が加わった。徳川林政史研究所の解説によれば、再建に際しては用材の調達が大きな課題となり、幕府は諸藩などの協力も得ながら工事を進めた。つまり、幕府が負担したのは建物の修復費用だけではなく、資材の確保、運搬、職人の動員、工事の管理などを含む大規模な事業の費用だった。

ここで重要になるのが、倹約政策との矛盾である。幕府が財政支出を抑えようとする一方、将軍家の権威を維持するためには、重要な御殿の再建を長期間放置することが難しかった。政治的な威信を守るための支出が、財政再建の必要性と衝突する構図が生まれていたのである。

天保の改革でも、質素倹約は主要な政策の1つとなった。衣食住や娯楽、商業活動などへの規制を通じて社会を引き締め、幕府の統治秩序を立て直そうとしたが、厳しい規制は庶民や商人の反発を招き、政策の実効性を損なう要因となった。

この点で、西の丸再建と天保の改革には共通する構造的な問題があった。幕府は自らの権威や統治能力を維持するために支出や規制を必要としたが、その負担を支える経済社会にはすでに余裕が乏しくなっていたのである。

ただし、「幕府財政が致命的に破綻した」とまで断定するには、再建費用の総額、幕府の歳入・歳出、借入や臨時収入、他の公共事業との比較を具体的な数値で示す必要がある。現段階で確実に指摘できるのは、西の丸火災が財政危機の唯一の原因だったわけではなく、幕府が権威の維持と財政の節約を同時に追求しなければならない矛盾を示す事例だったということである。

諸藩への過重な負担(お手伝い普請)による反発

西の丸御殿の再建を考えるうえで、重要なのが「お手伝い普請」と呼ばれる制度である。これは、幕府が行う城郭や河川、道路などの大規模工事について、大名に資金や資材、人員などを負担させる仕組みであり、幕府の財政負担を軽減すると同時に、諸藩を幕府の事業に動員する政治的な役割も持っていた。

西の丸御殿の再建でも、諸藩による用材の調達などが行われた。徳川林政史研究所の解説では、尾張藩をはじめとする諸藩と木材調達の関係が取り上げられており、御殿の再建が幕府内部だけで完結する事業ではなかったことが分かる。

お手伝い普請の問題は、幕府が工事の必要性を判断する一方、実際の負担の一部を各藩に配分できたことにある。幕府にとっては財政上の利点があったが、藩にとっては自領の行政や軍事、領内の土木事業などに使うべき資金や人員を、幕府の事業へ振り向けなければならない場合があった。

もっとも、すべての普請が同じ程度の負担を生んだわけではない。工事の規模、割り当てられた役割、藩の財政力、資材の調達条件などによって負担は異なり、西の丸再建についても、各藩の支出額や負担の実態を比較するには個別の史料を確認する必要がある。

それでも、この制度には幕藩体制の特徴が表れている。幕府は全国の大名を統制する立場にありながら、その統治を支えるために大名の経済力を利用していたのである。これは幕府の権力を示す仕組みであると同時に、幕府自身の財政基盤だけでは大規模事業を賄いにくくなっていたことを考える手がかりにもなる。

天保の改革期にも、幕府の命令によって諸藩や領内の人々に倹約や規制が求められた。幕府が自らの財政を立て直そうとする一方、諸藩もまた財政難や領内経済の問題を抱えていたため、中央の政策が地方の実情と衝突する可能性は高かった。

ただし、西の丸再建のお手伝い普請が、後年の天保の改革に対する諸藩の反発を直接引き起こしたと証明することは難しい。重要なのは、幕府が中央の権威を保つために諸藩の資源を動員する体制そのものが、各藩の財政事情と緊張関係を生み得たという点である。

このように考えると、西の丸火災は、幕府と諸藩の関係を理解するための事例となる。火災そのものが幕藩体制を崩壊させたわけではないが、再建事業を通じて、幕府の権威を維持するための費用が誰によって負担されるのかという問題が具体的な形で現れたのである。

大御所・家斉の権勢と「政治の停滞」

西の丸火災が発生した天保9年(1838年)、江戸幕府の政治は、将軍と大御所という2つの権力の関係を抜きにして理解できない状況にあった。徳川家斉は天保8年(1837年)に将軍職を徳川家慶へ譲ったものの、大御所として強い影響力を保ち、幕府の政治運営にも関与していた。

家斉の長期政権は、幕府政治の安定を支えた側面がある一方、側近や縁故を通じた政治的影響力が大きくなり、政策の刷新を難しくする要因にもなったと評価されている。もっとも、家斉の政治を一律に「腐敗」や「停滞」とみなすのは単純化であり、幕府の財政、官僚機構、社会経済の変化を分けて検討する必要がある。

西の丸御殿は、家斉が隠居後に暮らす場所であると同時に、大御所の権威を象徴する空間でもあった。その焼失と再建は、幕府が家斉の地位を維持し、将軍家の威信を保つうえで無視できない問題となったが、火災そのものが家斉の政治的影響力を失わせたわけではない。

家斉が死去したのは天保12年(1841年)である。この時期、幕府は財政難、農村の疲弊、都市の治安問題、対外関係の緊張など、複数の課題に直面していた。家斉の死は、長く続いた大御所政治からの転換を可能にする政治的な節目となった。

家斉の死後、12代将軍家慶のもとで幕政改革を主導したのが、老中首座の水野忠邦である。忠邦は、従来の政治運営を改め、幕府の財政と統治秩序を立て直すことを目指した。

天保の改革は、倹約令、風俗や出版への規制、株仲間の解散、人返しの法、上知令など、多方面にわたる政策を含んでいた。これらは個々の問題への対処であると同時に、幕府が社会経済を強く統制し、財政基盤と支配秩序を回復しようとする試みだった。

しかし、改革の対象は広く、政策の影響を受ける人々も多かった。商人や都市住民に対する規制は経済活動や日常生活への介入となり、大名や旗本に関係する政策も幕府内部の利害と衝突したため、改革を進めるほど反発が強まるという問題が生じた。

ここで西の丸火災との関係を改めて整理すると、火災は天保の改革の直接的な引き金ではない。むしろ、幕府が将軍家の権威を保つための事業を実施する一方で、財政再建と社会統制を迫られていたという、幕政全体の矛盾を考えるための一例として位置づけられる。

水野忠邦の改革はなぜ行き詰まったのか

水野忠邦が改革を急いだ背景には、幕府財政の立て直しだけでなく、社会秩序の動揺と対外危機への対応という課題があった。天保の飢饉、大塩平八郎の乱、外国船の来航などは、幕府の統治能力に対する不安を強め、従来の政策を見直す必要性を浮き彫りにしていた。

忠邦は、倹約や風俗統制によって社会の華美を抑え、農村の復興や流通制度の改革を通じて幕府の基盤を再建しようとした。しかし、幕府が命令や禁止によって社会を統制する手法は、商人や庶民の生活に広く影響し、既得権益を持つ人々だけでなく、日常生活を営む人々からも反発を招く結果となった。

とりわけ上知令は、江戸・大坂周辺などの大名・旗本領を幕府領に編入し、土地支配を再編しようとする政策だった。これは幕府の財政基盤や都市支配を強化する狙いを持っていたが、領地を失う大名や旗本などの強い反対を招き、忠邦の政治的立場を危うくした。

改革の失敗を西の丸火災だけで説明することはできない。政策の範囲が広すぎたこと、既存の利害関係者との調整が不十分だったこと、経済活動への規制が社会の実情と合わなかったこと、そして幕府内部で改革を支える政治的な合意を十分に形成できなかったことが、複合的に作用したと考えられる。

この意味で、西の丸火災は改革失敗の象徴として読むことはできても、失敗の決定的原因と断言することはできない。火災と再建は幕府の財政負担や諸藩との関係を考える材料となるが、忠邦の改革が行き詰まった直接の政治過程は、改革の個別政策と反対勢力の動向に即して分析する必要がある。

その後の結末:水野忠邦の失脚へ

天保の改革が行き詰まった過程を理解するには、改革の象徴的な政策である上知令に注目する必要がある。天保14年(1843年)、水野忠邦は江戸・大坂周辺などの大名や旗本の領地を幕府領に編入し、幕府による土地支配を強化しようとしたが、領地を失う側から強い反発を受けた。

上知令の背景には、幕府の財政基盤と都市支配を強化する狙いがあった。江戸や大坂の周辺地域は、幕府の政治・経済運営にとって重要な場所であり、そこへの支配を強めることは、年貢収入の確保だけでなく、流通や治安の管理にも関係していた。

しかし、土地は大名や旗本にとって領主としての権威と経済基盤を支える重要な資産である。幕府が領地の再編を一方的に進めようとすれば、財政上の利害だけでなく、家の由緒や支配権をめぐる反発も生じる。改革を実行するための権力行使が、逆に幕府内部の協力関係を損なう結果となった。

忠邦の改革は、上知令だけでなく、株仲間の解散、物価統制、倹約令、農村政策などを含む広範なものだった。それぞれの政策には幕府の統治を立て直す目的があったものの、複数の改革を短期間に進めたことで、商人、農民、都市住民、大名、旗本など、異なる立場の人々との摩擦が重なった。

天保14年閏9月、忠邦は老中を罷免され、天保の改革は大きく後退した。失脚の背景には上知令への反対をはじめ、幕府内部の政治的対立、改革の進め方への不満、政策によって不利益を受けた人々の反発があった。したがって、忠邦の失脚は単独の政策の失敗というより、改革を支える政治的な基盤を十分に確保できなかったことの帰結とみるべきである。

ここで西の丸火災との関係を再確認したい。火災が起きたのは1838年、忠邦が失脚したのは1843年であり、両者の間には約5年の隔たりがある。この時間的な距離を踏まえるなら、火災を改革失敗の直接原因とする説明は成り立ちにくく、再建事業を通じて幕府の財政運営と諸藩への負担のあり方を考えることに、歴史的な意義がある。

今後の展望

西の丸火災をめぐる研究では、火災の発生状況だけでなく、再建工事の財政的な仕組み、用材の調達経路、諸藩や商人、職人の関与を総合的に検討することが重要である。東京都公文書館が公開する『東京市史稿』には、火災と再建に関する記事が複数収録されており、同時代の記録を照合することで、工事の実態や幕府の対応をより具体的に把握できる。

また、幕府財政への影響を数量的に評価するには、西の丸再建に関する支出記録と、幕府の通常歳出、他の普請事業、臨時収入などを比較する必要がある。諸藩についても、単に負担を命じられたという事実だけでなく、実際の負担額、調達した資材、工事への関与、負担に対する藩側の反応を個別に調査することが望ましい。

さらに、火災を天保の改革の失敗と結びつける議論では、1838年の再建事業と1841年以降の改革、1843年の水野忠邦の失脚を区別する必要がある。両者を関連づける場合も、単なる時間的な前後関係を因果関係とみなさず、政策決定の記録や財政資料によって、具体的な影響の有無を検証する姿勢が求められる。

まとめ

天保9年(1838年)の江戸城西の丸火災は、大御所・徳川家斉の居館を焼失させた重大な事件だった。西の丸御殿は幕府の政治的権威を象徴する空間であり、その再建には資材や人員の確保を含む大規模な事業が必要となった。

この事件を通じて見えてくるのは、幕府が権威の維持と財政支出の抑制という、相反する課題を抱えていたことである。諸藩の協力を得て再建を進める仕組みは、幕府の統治力を示す一方、中央の事業を支える負担が諸藩にも及ぶ幕藩体制の特徴を表していた。

しかし、西の丸火災が天保の改革の失敗を直接決定づけたとする見方には、史料上の慎重な検証が必要である。改革が本格化したのは火災から約3年後であり、水野忠邦の失脚には、上知令への反発、経済政策の行き詰まり、幕府内部の政治的対立など、複数の要因が関係していた。

したがって、この火災の歴史的な意義は、改革失敗の単独の原因に求めるべきではない。むしろ、幕府の権威を維持するための支出、諸藩への負担の配分、財政再建を目指す政策と社会の実情とのずれを考えるための重要な事例として評価するのが妥当である。

天保の改革の挫折が示すのは、政治権力が強い命令を発することと、その政策を持続的に実行できることは同じではないという事実である。幕府は制度や規制によって秩序を立て直そうとしたが、利害関係者の協力を確保できず、政策の負担を受ける人々の反発を抑えきれなかった。西の丸火災とその再建は、こうした幕府政治の構造的な限界を考えるための一つの手がかりとなる。


参考・引用リスト

一次史料・公的史料

- 東京都公文書館『東京市史稿 皇城篇 第3』。天保9年の西丸殿舎焼失と再建に関する記録を収録。

- 東京都公文書館『東京市史稿 産業篇 第54』。天保期の経済・流通政策、天保の改革の開始などに関する記録を収録。

- 東京都公文書館『東京市史稿 産業篇 第56』。天保14年から弘化2年にかけての経済・流通政策に関する史料を収録。

- 国立公文書館「矢部駿河守御預之節物語之事(弘化雑記)」。天保の改革をめぐる幕府内部の対立と、矢部定謙の失脚に関する解説。

研究機関・専門的解説

- 徳川林政史研究所「林政史コラム集」。西丸御殿の焼失と再建、用材調達に関する解説。

- 清水建設歴史資料館「江戸城に思いをはせる」。西丸再建工事と当時の大工棟梁に関する歴史資料の紹介。

- 「江戸城の火災被害に関する研究」。江戸城内の火災発生日、出火場所、焼失範囲などを整理した研究資料。

天保の改革に関する研究・参考資料

- 国立国会図書館サーチ「水野忠邦天保改革老中日記 第2巻」。水野忠邦の改革期に関する日記史料の書誌情報。

- 富田林市文化財デジタルアーカイブ『富田林市史 第二巻(本文編Ⅱ)』。天保期の御料所改革、上知令、幕府財政政策に関する解説。

- 国立公文書館デジタルアーカイブ「検索結果一覧」。天保14年の上知令と水野忠邦の失脚を風刺した当時の資料などを収録。

- 安藤優一郎「遠江浜松藩 七万石 水野忠邦――天保の改革失敗事件」。『歴史読本』第59巻第1号、2014年、54–57頁。国立国会図書館所蔵。


追記:西の丸火災をめぐる史実の再検証と、天保の改革との因果関係

「怪火」という呼称はどこまで妥当か

西の丸火災を理解するうえで、追加で検討すべきなのが「怪火」という呼称である。火災が政治的に重要な施設で発生したことと、出火原因が不審だったこと、さらに放火や政治的陰謀があったことは、それぞれ別の問題である。

出火場所や焼失範囲が記録されていたとしても、それだけで出火原因を特定できるわけではない。火元とされる場所の状況、当時の火の取り扱い、目撃証言、消火活動の記録、幕府による調査や処分の有無などを照合しなければ、失火だったのか、放火の疑いがあったのかを確実に判断することはできない。

また、後世の解説で「怪火」と表現されていても、その語が同時代の公文書に記された名称なのか、後世の著者が事件の異様さを強調するために使った表現なのかを確認する必要がある。現時点で、政治的陰謀による放火だったと断定できるだけの根拠が示されていないなら、記事の見出しに「怪火」と掲げる場合も、本文では火災原因の確定状況を明示するのが適切である。

史料から確認できる、火災と幕府財政の接点

今回の検証で重要なのは、西の丸火災の直後に、再建に関係する資金や資材の調達と、幕府の倹約政策に関する記録が残されていることである。東京都公文書館の『東京市史稿』には、天保9年3月10日の「西丸火災」に加え、同月19日の「西城造営費献納」や「倹約令」に関する記録が掲載されている。

この記録の並びは、幕府が御殿の再建と財政運営上の節約という、複数の課題に同時に対処していたことを検討するうえで有用である。ただし、記録の日付が近いことだけをもって、再建費用が倹約令の直接的な原因だったと結論づけることはできない。

また、江戸東京博物館の所蔵資料には、天保9年3月の「西丸御普請 掌記」がある。これは再建工事に関連する武家の文書であり、工事の具体的な経過や関係者の役割を調べるための手がかりとなる。

さらに、徳川林政史研究所の解説は、西丸御殿の再建における用材調達を取り上げている。尾張藩などの諸藩が木材の調達に関わったことは、幕府の再建事業が広域的な資源動員に支えられていたことを示している。

これらの史料を組み合わせれば、火災の発生、焼失後の片付け、再建工事、資材調達、資金負担という一連の過程を、より具体的に分析できる。今後は、各藩の記録や幕府の財政関係史料を照合し、負担の規模と分担方法を数量的に把握することが課題となる。

最終評価:火災は改革失敗の原因だったのか

本稿の検証結果をまとめると、西の丸火災は天保の改革の失敗を直接決定づけた事件ではなく、幕府が抱えていた構造的な問題を考えるための重要な事例と評価するのが妥当である。

火災は大御所・徳川家斉の居館を焼失させ、幕府に再建事業を必要とさせた。その復旧には資材や人員の確保が必要となり、諸藩の協力も関係した。この過程は、幕府の権威を維持するための支出と、財政を引き締めなければならないという課題の間に緊張があったことを示している。

しかし、天保の改革の失敗を説明するには、火災だけでなく、水野忠邦が進めた個別政策、上知令への反対、商人や都市住民への規制、幕府内部の政治的対立を分析しなければならない。これらの要因を区別することで、火災を過度に象徴化することなく、天保期の政治を立体的に理解できる。

「怪火」という呼称についても、陰謀や放火を裏づける確実な史料が確認されない限り、政治的な疑惑を史実として扱うべきではない。火災の発生そのもの、再建の実態、幕府財政への影響、改革失敗との因果関係をそれぞれ検証することが、歴史記事としての信頼性を高める。


参考・引用リスト(追記)

- 東京都公文書館『東京市史稿 皇城篇 第3』。西丸殿舎の焼失と再建に関する記録を収録。

- 東京都公文書館『東京市史稿 市街篇 第38』。西丸火災、西城造営費献納、倹約令など、天保9年の関連記録を収録。

- 東京都公文書館『東京市史稿 産業篇 第54』。西丸炎上時の町火消の活動や、焼失跡の片付けに関する記録を収録。

- 徳川林政史研究所「林政史コラム集」。西丸御殿の再建と用材調達に関する解説。

- 江戸東京博物館「西丸御普請 掌記」。天保9年3月の再建工事に関係する所蔵文書。

- 江戸城の火災被害に関する研究。西の丸火災の発生日、出火場所、焼失範囲などを整理した研究資料。

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