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江戸時代:寛政の改革における「豊後国・国東半島の隠し金山疑惑」

豊後国・国東半島の「隠し金山疑惑」をめぐる問題は、江戸時代の鉱山経営、幕府の財政政策、地方領主の支配、地域に残る鉱山伝承を横断して考える必要がある歴史テーマである。ただし、これらの要素が互いに関係していることと、寛政期に特定の隠匿事件が実際に起きたことは、厳密に区別しなければならない。
金山のイメージ

「豊後国・国東半島の隠し金山疑惑」を歴史的に検証する際、最初に確認すべきなのは、国東半島周辺における金山の存在と、寛政期に幕府や領主が金山の産出量を隠蔽したという疑惑は、同じ問題ではないという点である。鉱山が実在したことや、後世に大規模な金の採掘が行われたことだけでは、江戸時代後期に秘密の採掘事業が存在したことの証明にはならない。

2026年10月時点で確認できる自治体の文化財解説や地域史に関する公開情報からは、馬上金山が近代における重要な金山だったことは確認できる一方、寛政の改革期に同金山が幕府の監視を逃れて金を採掘していた、あるいは幕府が秘密の金山の摘発を実施したという一連の事件については、確実な裏付けとなる一次史料を別途確認する必要がある。したがって、本稿では「隠し金山疑惑」を確定した歴史的事件とはみなさず、地域の鉱業史、幕府の財政政策、鉱山管理制度、そして史料の有無という複数の観点から検証する。

この区別は、歴史研究における基本的な手続きでもある。伝承や地域に残る逸話は、過去の人々の認識や土地の記憶を知るうえで重要だが、事件の発生時期、関係者、産出量、隠匿の方法などを確定するには、同時代の公文書、領主の記録、鉱山関係の帳簿、訴状、取締りの記録といった具体的な証拠が求められる。

とりわけ注意したいのは、現在知られる馬上金山の繁栄を、そのまま江戸時代の実績に遡及させないことである。馬上金山の開発・経営によって財を成した成清博愛は1864年生まれであり、同金山が全国有数の金産出を記録したのは1914年であるため、少なくとも近代の隆盛と寛政期の状況は明確に分けて考えなければならない。

時代背景:寛政の改革と鉱山政策

寛政の改革は、老中松平定信を中心として1787年から1793年にかけて進められた幕政改革である。その背景には、天明期の飢饉や農村の荒廃、幕府財政の悪化、社会秩序の動揺があり、幕府は財政の立て直しと支配体制の再建を重要な課題としていた。

天明の飢饉によって農業生産や年貢収入が打撃を受けると、幕府と諸藩は、従来の財政運営を維持することが難しくなった。農村の復興、倹約の奨励、江戸への人口流入への対応、備荒貯蓄の整備などが改革の主要な課題となり、政治の重点は田沼意次時代の政策から、秩序回復と財政規律を重視する方向へと移った。

ただし、寛政の改革を単純な倹約政策として理解するのは適切ではない。幕府にとって必要だったのは支出を抑えることだけではなく、年貢収入を安定させ、貨幣流通を管理し、幕府の権威と行政機構を維持するための経済的基盤を確保することでもあった。

鉱山政策も、この広い財政運営の枠組みの中で考える必要がある。金銀や銅などの鉱産物は貨幣制度、金属加工、武器製造、輸出入などと結びついており、鉱山の操業や産出物の流通は、単に山から資源を掘り出すだけの問題ではなかった。

一方、寛政の改革期に、幕府が全国の金山を一律に秘密裏の摘発対象としたと断定することはできない。鉱山の管理方法は、鉱種、地域の支配関係、採掘権、経営主体、産出物の用途などによって異なり、幕府直轄領と大名領、旗本領などを区別した分析が必要となる。

また、鉱山が存在することと、実際に採掘が継続されていることも区別しなければならない。鉱脈の存在が知られていても、坑道の排水、坑内の安全確保、採掘労働力の確保、選鉱や精錬の費用などの問題から、採算の取れる操業ができるとは限らなかった。

このため、国東半島周辺の金山を検証する場合には、地質的に金を含む鉱床が存在したかという問題に加え、寛政期に実際の採掘が行われたか、誰が経営していたか、産出物がどこへ運ばれたか、領主や幕府への届出がどのように行われていたかを順に確かめる必要がある。これらの論点を分けることで、地域の鉱山伝承を政治的な隠蔽事件へと性急に結びつけることを避けられる。

幕財政の再建と金銀の統制

江戸幕府にとって、金銀の確保と管理は、幕政を維持するうえで重要な課題だった。幕府の収入は年貢を中心としていたが、幕府が直接管理する鉱山からの産出物や、貨幣の鋳造、金銀銅の流通管理も、経済政策と財政運営に関係していた。

江戸時代の貨幣制度は、金貨、銀貨、銭貨が併存する複雑な構造を持っていた。金貨は主に東日本で計数貨幣として用いられ、銀貨は上方を中心に秤量貨幣として流通し、銭貨は日常の小額取引を支えたため、金銀の産出や流通の変化は、単純な鉱山収入の増減にとどまらない影響を及ぼした。

金銀の産出量が増えれば、必ず幕府の財政が改善するわけでもなかった。採掘や精錬には費用がかかり、鉱脈の品位、輸送条件、労働力、坑道の維持費などによって採算は大きく変わるため、地下に鉱石が存在するという事実だけでは、実際に利用できる財源の規模は判断できない。

幕府は佐渡金銀山などの重要鉱山を直轄的に管理し、奉行や代官などを通じて採掘、精錬、産出物の納入を統制した。これに対し、諸藩や旗本などが支配する地域では、領主の権限や鉱山の経営形態によって管理の仕組みが異なり、全国の鉱山が同一の制度で運営されていたわけではない。

寛政の改革において重視された財政再建は、こうした既存の制度と切り離して理解できない。幕府は倹約や財政規律の強化を進めたが、これを直ちに「全国の隠し金山を探し出して金銀を回収する政策」と読み替えることはできず、具体的な鉱山政策については個々の行政記録を確認する必要がある。

さらに、江戸時代後期には金銀の産出条件そのものにも限界があった。鉱脈の枯渇や品位の低下、坑道の深部化による排水・通気の困難、採掘費用の上昇などが経営を圧迫し、鉱山の維持には技術的な対応と継続的な資金投入が必要だった。

この点を踏まえると、国東半島の金山が仮に寛政期に操業していたとしても、その規模や収益性を検討せずに、幕府財政を左右するほどの秘密資源だったと評価することはできない。産出量を示す帳簿、納入記録、鉱山経営者の文書、地域の行政記録などを照合し、鉱山の存在と財政上の重要性を別々に立証する必要がある。

「隠し金山」疑惑の政治的意味

「隠し金山」という言葉には、一般に、領主や経営者が鉱山の存在や産出量を公的な管理から隠し、利益を独占したという意味が含まれる。しかし、歴史研究では、この言葉が同時代の文書に実際に使われていたのか、それとも後世の伝承や研究者の説明によって定着したのかを確認することが重要である。

仮に領主や有力者が金銀の産出を隠していた場合、そこには複数の動機が考えられる。領主が収入を増やそうとした可能性のほか、納入義務や課税負担を避ける目的、採掘権をめぐる争い、他の支配者による介入を防ぐ意図なども想定できるが、これらは一般的な可能性であり、国東半島で実際に起きたことを示す証拠ではない。

幕府側から見れば、金銀の無断採掘や産出物の隠匿が実際に存在した場合、財政上の損失だけでなく、支配権と鉱山管理制度に対する挑戦という問題も生じる。とりわけ鉱山が領主間の境界付近に存在したり、採掘権の帰属が不明確だったりすれば、収益の分配や取締りの権限をめぐって対立が生じる可能性があった。

ただし、幕府の権威が強かったという理由だけで、地方の鉱山がすべて厳格に把握されていたと考えるのも誤りである。江戸時代の行政は、各地の代官、郡役人、村役人、領主の家臣などを介して運営されており、現場の情報が中央に伝わるまでには、地域ごとの事情や報告の精度が影響した。

反対に、地方で採掘が行われていたというだけで、それを幕府への反抗や組織的な隠蔽とみなすこともできない。鉱脈の調査段階、試掘、小規模な採掘、正式な許可を受けた操業、領主の管理下にある採掘など、活動の性格によって法的・政治的な意味は異なる。

したがって、「隠し金山疑惑」の政治的意味を分析するには、まず疑惑の発生源を特定する必要がある。幕府の命令書、奉行所の記録、領主の書状、鉱山関係者の訴状、村方文書などに具体的な記載があるのか、それとも地名や古い坑道、口承伝承などから後世に疑惑が形成されたのかによって、検証の方向性は大きく変わる。

現段階で最も慎重な評価は、隠匿が起きる制度的な可能性と、国東半島で実際に隠匿が起きたという歴史的事実を区別することである。前者は江戸時代の鉱山管理や地方行政の構造から検討できるが、後者には、時期、場所、関係者、採掘規模を特定できる史料が必要となる。

国東半島周辺の金山・鉱山事情の実態

豊後国は現在の大分県の大部分に相当し、国東半島は瀬戸内海に突き出した地域である。この地域の鉱山史を考える際には、国東半島という地理的な範囲だけでなく、杵築、山香、日出など周辺地域との関係や、近世の領主支配の区分を踏まえて検討する必要がある。

国東半島周辺の鉱業史を検証するうえで、重要な事例となるのが馬上金山である。現在の大分県杵築市山香町に位置するこの金山は、近代に成清博愛が開発・経営に成功したことで知られ、1914年には全国一の金産出を記録したと杵築市の人物紹介で説明されている。

しかし、この事実が直接証明するのは、馬上金山が近代に大きな産金実績を上げたということである。寛政期の操業状況、産出量、鉱山の所有関係、幕府への届出の有無については、別の時代の記録によって検証しなければならない。

鉱山の沿革を調べる際には、開発された時期と、鉱脈が存在していた時期を区別することも重要である。ある地域で後世に金鉱床が発見され、大規模な採掘が実現したとしても、それ以前に同じ鉱脈が発見されていたのか、試掘が行われていたのか、採掘の技術や資金が不足していたのかは、個別の史料から判断する必要がある。

馬上金山については、近代の経営史に関する地域資料が比較的詳しく伝えられている。成清博愛は鉱山の買収後、採掘を妨げていた地下水の排出に機械設備を導入し、1910年に開鉱式を行ったとされる一連の経緯は、技術と資本の投入が鉱山の収益性を左右したことを示している。

この近代の事例から読み取れるのは、鉱脈が存在するだけでは金山としての成功は保証されないという点である。地下水の排出が困難であれば坑道を深く掘り進めることができず、採掘費用が増加すれば、金を含む岩石が存在していても経営を継続できない可能性がある。

この事情を江戸時代に当てはめる場合、近代の機械設備を利用できなかった時代の採掘条件を慎重に評価しなければならない。寛政期に馬上金山で採掘が行われていたかどうかを判断するには、坑道の由来、鉱山経営に関する古文書、領主の記録、採掘権に関する文書などを調査し、近代の開発史とは別に近世の実態を復元する必要がある。

また、国東半島周辺の鉱山をすべて金山として扱うことにも注意が必要である。鉱山には金、銀、銅、鉄など異なる鉱産物を対象とするものがあり、鉱種によって採掘方法、精錬技術、流通経路、経済的価値は異なるため、地域に鉱業が存在したという一般的な情報だけでは金の隠匿を裏付けられない。

地域史の研究では、地名や伝承、坑道跡などの現地情報と、文献史料を組み合わせることが有効である。ただし、坑道跡の存在だけでは、開削された年代、採掘された鉱物、操業主体、採掘規模を確定できないため、考古学的調査や地質学的分析、文献資料との照合が求められる。

現段階では、馬上金山の近代における発展は公的な地域資料によって確認できる一方、寛政期の「隠し金山疑惑」を具体的な事件として裏付けるには、さらに直接的な証拠が必要である。

馬上金山の事例

国東半島周辺の「隠し金山疑惑」を検証するうえで、馬上金山の歴史は重要な手掛かりとなる。とりわけ注目すべきなのは、馬上金山が明治時代に初めて発見された鉱山ではなく、江戸時代にさかのぼる採掘の歴史を持つとされている点である。

1972年4月11日の衆議院公害対策並びに環境保全特別委員会では、政府委員が馬上金山について、寛永6年に発見され、元禄時代から享保年間にかけて約70年間にわたり盛んに採掘された後、湧水の多さから休山したという沿革を説明している。この国会答弁は、少なくとも公的な場で、馬上金山の江戸時代における操業歴が説明されていたことを示す重要な手掛かりである。

寛永6年は1629年に当たり、元禄期は1688年から1704年、享保期は1716年から1736年に当たる。したがって、この沿革が示す時系列を前提とすれば、馬上金山は寛政の改革が始まる1787年より数十年以上前に、すでに主要な採掘期を終えていた可能性が高い。

この点は、「寛政期に国東半島の隠し金山が稼働していた」という仮説を検証する際の重要な論点となる。馬上金山の江戸時代の操業歴が確認できることと、寛政期に秘密採掘が続いていたことは別の命題であり、前者から後者を直接導くことはできない。

また、馬上金山が休山した理由として説明されている湧水の問題にも注目したい。坑道に大量の地下水が流入すると、採掘作業の継続が困難になるだけでなく、排水設備の維持や坑道の安全確保にも費用がかかるため、金鉱石が残っていたとしても操業を停止せざるを得ない場合がある。

馬上金山の近代における再開発は、この問題の重要性を裏付ける。杵築市や日出町の地域資料によれば、成清博愛は1907年に馬上金山を買収し、地下水の排出に機械設備を導入したうえで1910年に開鉱式を行い、その後の採掘によって大きな成功を収めた。

つまり、江戸時代の採掘と近代の再開発の間には、技術、設備、資金、操業条件の違いが存在していた。近代に金の産出が急増したという事実を根拠に、寛政期にも同規模の産金が行われていたと推定することはできない。

もっとも、休山という記録があるからといって、その後の小規模な試掘や一時的な採掘が絶対になかったと断定することもできない。休山後の動向を確定するには、鉱山の経営文書、周辺村落の記録、領主の行政文書、採掘権に関する記録などを年代順に調べる必要がある。

ここで必要なのは、疑惑を肯定するための証拠だけを探すことではなく、疑惑を否定する可能性のある史料も含めて検討することである。馬上金山の江戸時代の操業期、休山の時期、寛政期の状況、近代の再開発を分けて整理することが、事実に即した歴史像を組み立てる第一歩となる。

「隠し金山」が生まれやすかった構造

江戸時代に鉱山の産出物や経営実態が公的な記録から把握しにくくなる可能性は、制度上の複雑さから説明できる。鉱山の所在する土地の支配者、採掘を実際に行う経営者、労働者を雇用する請負人、精錬を担う事業者、産出物を売買する商人が必ずしも同一ではなかったためである。

例えば、領主が採掘を認めても、採掘現場の収益や鉱石の搬出量を領主側が常に正確に把握できたとは限らない。採掘の請負人が作成する帳簿と領主側の納入記録に差が生じたり、鉱石の選別や精錬の過程で金属の含有量をめぐる認識に食い違いが生じたりする可能性があった。

しかし、こうした管理上の問題が存在した可能性と、意図的な隠匿が組織的に行われていたことは区別すべきである。帳簿の不一致が発見されたとしても、計算方法の違い、記録の欠落、輸送中の損失、採掘量の見積もり違いなど、複数の原因が考えられるため、直ちに不正の証拠とはならない。

鉱山をめぐる権利関係も、問題を複雑にする要因だった。土地の所有や支配、地下資源の採掘権、領主への納入義務、他領との境界などが絡み合う場合、どの役所が採掘を許可し、どの主体が収益を受け取るべきかについて争いが生じることがあった。

幕府の直轄領と大名領などでは行政上の管轄が異なり、寺社領を含む場合にも個別の調整が必要となることがあった。したがって、鉱山の存在が中央の行政機関に十分伝わっていなかったとしても、それだけで秘密の金山を意図的に隠していたと判断することはできない。

さらに、鉱山は地理的条件によっても管理の難しさが異なった。山間部の鉱山では、坑道や採掘現場の確認に時間がかかり、鉱石の搬出経路が複雑になる場合があった一方、採掘や精錬には多くの労働力と資材が必要であり、一定規模の操業を長期間にわたって完全に秘密にすることも容易ではなかった。

この点は、隠し金山の規模を評価する際に重要である。少量の鉱石を非公式に持ち出す行為と、多数の労働者を雇い、坑道を掘り、精錬設備を稼働させ、大量の金を継続的に生産する事業では、必要な人員、設備、資金、輸送手段が大きく異なる。

大規模な秘密採掘が長期間続いていたとするならば、労働者の雇用、食料や工具の調達、坑道の維持、鉱石の運搬、精錬、金属の換金など、複数の工程が必要となる。こうした活動がどのように周囲の社会と関わり、領主や村役人の目を逃れていたのかを説明できなければ、疑惑の具体性は十分とはいえない。

一方、地域に残る伝承は、公式記録だけでは見えにくい過去の活動を探る手掛かりになる場合がある。伝承を史実として採用するには、成立時期、伝承者、内容の変化、他の記録との一致などを調べ、後世の創作や別の鉱山の記憶が混入していないかを検証する必要がある。

寛政期前後の動向と検証のまとめ

寛政期前後の鉱山政策を理解するには、馬上金山の沿革だけでなく、江戸幕府が鉱山をどのように把握し、採掘を許可し、産出物を管理していたかを確認する必要がある。幕府は17世紀後半以降、私領における金銀銅山の試掘や採掘、産出量の報告などに関する規則を設けており、鉱山管理が寛政期になって初めて始まったわけではない。

東京大学史料編纂所が公開する鉱山関係史料の研究資料には、元禄期や享保期の採掘に関する行政上の申し渡しが整理されている。そこからは、私領内の鉱山について領主や地頭の管轄を認める一方、金銀が大量に産出した場合には幕府への報告を求めるなど、鉱山の開発と管理が既存の行政制度の中で扱われていたことがうかがえる。

こうした制度の存在は、鉱山の産出量をめぐる問題が政治や財政と関係し得たことを示している。しかし、それは国東半島で寛政期に隠匿事件が起きたことを直接示すものではなく、あくまで個別の疑惑を検証するための制度的背景である。

馬上金山については、江戸時代に発見され、元禄期から享保期にかけて採掘され、その後は湧水の問題によって休山したという沿革が公的な国会答弁に残されている。この情報を重視するならば、寛政期に同金山で大規模な採掘が続いていたという説については、追加の証拠を求める必要がある。

今後の検証で特に重要なのは、寛政期の馬上金山について、採掘の再開、鉱山の管理者、産出物の納入、領主への報告、幕府による調査などを示す同時代史料が存在するかどうかである。こうした記録が確認できなければ、疑惑を確定した事件として記述することは避けるべきである。

また、史料が見つからないことと、事件が絶対になかったことも同じではない。古文書の散逸や記録の未発見という問題があるため、現時点での適切な表現は「事件の存在を裏付ける確実な史料を確認できていない」であり、「事件は存在しなかった」と断定するには別の論証が必要となる。

現段階の検証からは、江戸時代の鉱山管理には地域差があり、産出物の把握や報告をめぐる問題が生じる制度的な余地はあったと考えられる。一方、馬上金山の江戸時代の操業歴が確認できることだけでは、寛政期の隠し金山疑惑を裏付けることはできず、事件の具体像を確定するための史料調査が不可欠である。

幕府の厳戒態勢と自治領の保身

寛政の改革期における鉱山管理を考える際、幕府が金銀の産出や流通を重視していたことと、国東半島で特定の金山を対象とした厳戒態勢が敷かれていたことは、明確に区別しなければならない。前者は幕府の財政政策や鉱山行政から検討できるが、後者を史実として認めるには、取締りの命令書、役人の派遣記録、鉱山関係者の供述、処罰に関する記録など、具体的な証拠が必要である。

江戸幕府の支配体制は、全国の土地と人々を中央政府が直接管理する仕組みではなかった。幕府領、藩領、旗本領、寺社領などが併存し、それぞれの支配主体が行政を担っていたため、鉱山に対する権限や報告の経路も地域によって異なっていた。

豊後国においても、地域の支配関係を確認せずに、すべての鉱山を幕府の直接管理下にあったと考えることはできない。国東半島周辺の鉱山について具体的な管理主体を特定するには、寛政期当時の領主配置、村ごとの支配関係、鉱山の所在地、採掘権の帰属を照合する必要がある。

仮に鉱山の収益をめぐって領主と幕府の利害が対立した場合、領主側には自領の財政を守り、幕府側の介入を避けたいと考える動機が生まれる可能性がある。反対に、幕府側には金銀の流通を把握し、貨幣制度や財政に関わる資源を管理したいという行政上の必要があったと考えられる。

しかし、こうした利害の対立が起こり得たことと、国東半島の領主や有力者が実際に金山を隠していたことは別問題である。特定の領主が幕府に対して産出量を偽っていたと主張するならば、当事者の書状、行政機関の照会、納入記録の不一致、摘発や処罰の記録などを確認しなければならない。

また、「自治領」という表現にも注意が必要である。江戸時代の藩は一定の領内統治権を持っていたが、近代国家の独立した自治政府と同じものではなく、幕府の政治秩序の中で領主権を行使していたため、地域の自主性と幕府の統制は両立する場合があった。

鉱山をめぐる保身という観点からは、採掘権の維持、収益の確保、領内経済の保護、他の支配者による介入の回避などが一般的な分析対象となる。ただし、これらは当時の制度から考えられる動機であり、特定の人物や領主が秘密採掘を指示したと認定するには、個別の証拠が欠かせない。

「幕府の厳戒態勢」という表現についても、行政上の一般的な監督と、特定の疑惑を受けて実施された臨時の警備・捜査を区別する必要がある。国東半島の鉱山に対して役人が派遣された記録や、採掘現場を封鎖した記録などが確認されていない段階では、厳戒態勢が敷かれていたと断定するのは適切ではない。

歴史を読み解くうえで重要なのは、当時の政治制度から推測できることを、そのまま実際に起きた事件として描かないことである。幕府と地方領主の利害関係は、疑惑が成立し得る背景を説明するが、事件の発生を証明するものではない。

歴史的真実としての評価

ここまでの検討を踏まえると、「豊後国・国東半島の隠し金山疑惑」は、現時点では確定した歴史的事件として扱うのではなく、地域の鉱山史と江戸幕府の資源管理をめぐる未検証の問題として扱うのが妥当である。馬上金山の江戸時代の操業歴、近代の再開発、幕府による鉱山管理制度はそれぞれ検討に値する事実だが、それらを結びつける具体的な隠匿事件の証拠は別途必要となる。

歴史的な主張の確実性を評価するには、少なくとも3つの段階を区別する必要がある。第1は、鉱山の所在地や操業時期など、文献や現地調査によって確認できる事実である。第2は、当時の制度や地域の経済状況から合理的に推測できる可能性であり、第3は、個別の史料による裏付けがなく、伝承や仮説の段階にとどまる主張である。

馬上金山については、江戸時代に発見され、元禄期から享保期にかけて採掘され、その後に湧水の問題から休山したという沿革が公的な場で説明されている。この沿革が正確であるなら、寛政期に大規模な操業が続いていたという見方には、休山後の再開を示す史料など、追加の裏付けが必要となる。

一方、江戸時代に鉱山の産出物をめぐる利害対立や、管理上の問題が生じる可能性そのものは否定できない。だが、一般的な制度上の可能性を根拠に、国東半島で幕府の目を逃れた金山が稼働し、産出した金が隠匿されていたと結論づけることはできない。

特に注意すべきなのは、「隠し金山」という呼称がどの時代に成立したのかという問題である。同時代の公文書にそのような記述があるのか、近代以降の地域史や郷土伝承で語られるようになったのかによって、疑惑の性格は大きく変わる。

仮に後世の伝承に由来する場合でも、その伝承に歴史的な価値がないわけではない。伝承が形成された背景を調べることで、鉱山の記憶、地域社会の経済的な経験、領主や役人に対する住民の認識などを明らかにできる可能性がある。

ただし、伝承が示すのは、必ずしも伝承の内容どおりの事件が実際に起きたということではない。語り継がれる過程で年代や人物が混同されたり、複数の出来事が一つの物語にまとめられたりすることもあるため、伝承と文献史料、考古学的な調査結果を照合する必要がある。

したがって、現段階での結論は、「寛政期に国東半島で隠し金山が稼働し、幕府がこれを厳重に取り締まった」という主張は、確実な同時代史料が提示されない限り、史実として確定できないというものである。これは事件が絶対になかったと断定するものではなく、現時点で確認できる情報と、証拠によって立証されていない部分を分ける評価である。

今後の展望

今後、疑惑の真偽をより厳密に検証するためには、まず馬上金山に関する史料を年代順に整理する必要がある。寛永期の発見、元禄期から享保期の採掘、休山に至る経緯、寛政期の状況、明治期の再開発を区分し、各時期の情報がどの文献に基づいているかを明確にすることが出発点となる。

次に、寛政期の豊後国における領主支配と行政管轄を調べ、馬上金山の所在地が当時どの支配主体に属していたのかを確認する必要がある。領主の記録、村方文書、郡や代官所に関する文書、鉱山関係の申し渡しなどを調査することで、採掘の許可や報告の仕組みを具体的に把握できる可能性がある。

そのうえで、幕府や領主が金山を調査した記録、産出物の納入に関する帳簿、採掘権をめぐる訴訟、鉱山関係者の処罰記録などを探すことが重要となる。仮に隠匿が行われていたならば、こうした記録のいずれかに関係者、時期、採掘場所、産出物などの具体的な情報が残されている可能性がある。

もっとも、史料が見つからない場合には、その不在をどのように評価するかも問題となる。文書が失われている可能性、未整理の史料群に残っている可能性、そもそも記録を作成する制度がなかった可能性を考慮し、単に検索で見つからなかったという理由だけで事件の不存在を証明したとみなすべきではない。

地質学や鉱山考古学の知見も、文献史料を補う手段となる。坑道跡や採掘痕の年代測定、鉱石や精錬残滓の分析、旧道や搬出経路の調査などによって、どの時代にどの程度の採掘が行われたかについて新たな手掛かりが得られる可能性がある。

また、地域の博物館、自治体の文化財担当部門、大学の日本近世史研究者、鉱山史や産業考古学の専門家が連携すれば、地域に分散している記録を横断的に検討できる。特に、郷土史に掲載された逸話がどの一次史料に由来するのかをたどる作業は、伝承と史実の境界を明らかにするうえで有効である。

今後の研究では、疑惑を裏付ける証拠だけでなく、疑惑と矛盾する証拠も同じ基準で評価する姿勢が求められる。こうした検証を積み重ねることで、馬上金山の実際の操業史をより正確に復元するとともに、国東半島の鉱業史と江戸幕府の財政政策との関係を、推測に依存せずに説明できるようになるだろう。

まとめ

豊後国・国東半島の「隠し金山疑惑」をめぐる問題は、江戸時代の鉱山経営、幕府の財政政策、地方領主の支配、地域に残る鉱山伝承を横断して考える必要がある歴史テーマである。ただし、これらの要素が互いに関係していることと、寛政期に特定の隠匿事件が実際に起きたことは、厳密に区別しなければならない。

寛政の改革は1787年から1793年にかけて松平定信を中心に進められ、財政の立て直しや農村の復興、社会秩序の再建などを課題としていた。金銀の産出と管理は幕府の財政や貨幣制度に関わる重要な問題だったが、改革期に国東半島の金山を対象とした特別な摘発が実施されたとするには、具体的な行政記録や同時代史料による裏付けが必要である。

馬上金山については、江戸時代に発見され、元禄期から享保期にかけて採掘された後、湧水の問題で休山したという沿革が公的な国会答弁に記録されている。また、成清博愛による近代の再開発と1914年の全国一の金産出実績も、自治体の公開資料で確認できる。

しかし、これらの情報から、寛政期に馬上金山で秘密採掘が行われていた、あるいは幕府が隠匿を察知して厳戒態勢を敷いたと結論づけることはできない。現段階では、疑惑を確定した事件として扱うのではなく、史料の有無を含めて検証を続けるべき問題と評価するのが適切である。

歴史研究の目的は、興味深い物語を事実として固定することではなく、確認できる証拠から過去の実態を可能な限り正確に復元することにある。国東半島の鉱山史についても、伝承を排除するのではなく、伝承が何を語り、何を証明できないのかを見極めながら、地域の歴史を多面的に明らかにすることが求められる。


参考・引用リスト

公的機関・一次資料

- 国会会議録検索システム「第68回国会 衆議院 公害対策並びに環境保全特別委員会 第10号」1972年4月11日。馬上金山の発見時期、元禄期から享保期の操業、湧水による休山についての政府委員答弁。

- 杵築市「成清博愛(なりきよ ひろえ)」。成清博愛の生没年、馬上金山の経営、1914年の金産出実績に関する自治体資料。

- 文化庁「旧成清博愛別邸庭園(的山荘庭園)」。馬上金山の開発・経営と成清博愛の事績に関する文化遺産資料。

- 国立公文書館「花月双紙」。松平定信の経歴と寛政の改革に関する基礎情報。

研究・参考資料

- 国立国会図書館サーチ「寛政改革期の蝦夷地政策」。寛政期の幕府政策を新出史料から再検討した研究論文の書誌・概要。国東半島の金山事件を直接扱う研究ではないが、同時期の幕政研究の参考となる。

- 『松平定信政権と寛政改革』。松平定信政権の成立、政策運営、幕政改革の展開を扱う研究書。国東半島の隠し金山疑惑を直接立証する資料ではなく、寛政期の政治的背景を理解するための参考文献。

- 『国史大辞典』「寛政の改革」。寛政の改革の概要と歴史的位置づけを確認するための参考項目。

史料上の限界

上記資料からは、寛政の改革の政治的背景、馬上金山の近世・近代の沿革、成清博愛による近代の鉱山経営を確認できる。一方、寛政期に国東半島で隠し金山が稼働し、幕府がこれを摘発したという事件を直接立証する一次史料は、今回の参照資料の中では確認できていない。

そのため、今後の研究では、大分県内の自治体史、近世の領主文書、村方文書、鉱山関係の行政記録、古文書目録などを追加調査し、疑惑の発生源と史料的根拠を特定することが課題となる。


追記:史料の再点検と、疑惑を検証するための基準

これまでは寛政の改革、幕府の財政と鉱山管理、馬上金山の沿革、そして「隠し金山疑惑」を歴史的事実として評価するための条件を整理してきた。追記では、公開されている公的資料を改めて照合し、どこまでが確認できる事実で、どこからが未検証の推測なのかを明確にする。

最も重要な資料の一つが、1972年4月11日の衆議院公害対策並びに環境保全特別委員会の会議録である。この国会答弁では、政府委員が馬上金山の沿革について、寛永期に発見され、元禄期から享保期にかけて盛んに採掘されたものの、湧水が多いため休山したという趣旨の説明をしている。

ただし、この答弁には年代の表記に注意すべき箇所がある。寛永6年について、答弁の文字起こしには「一九二九年」とあるが、寛永6年は西暦1629年に当たり、1929年ではないため、これは年号換算の誤りと判断できる。

このような誤記が存在することは、国会会議録の価値を否定するものではないが、史料を利用する際には原文の文脈と年代換算を照合しなければならないことを示している。歴史研究では、公的な場で説明された内容であっても、記録されたすべての数字や表現を無条件に正しいものとして扱うのではなく、他の史料との整合性を確認する必要がある。

馬上金山の近代史については、杵築市が公開する成清博愛の人物紹介と、文化庁の国指定文化財等データベースが参考になる。これらの資料は、成清博愛が1864年に生まれ、馬上金山の開発・経営によって財を成し、1914年に全国一の金産出を記録したことなどを伝えている。

一方、これらの公的資料が直接説明しているのは、主として近代における鉱山経営と成清博愛の事績である。寛政期の隠匿事件、幕府による秘密の捜査、領主による産出金の隠蔽について、同じ資料がその発生を立証しているわけではない。

したがって、馬上金山の近世史と近代史を接続するには、江戸時代の操業記録、休山に関する文書、鉱山の権利関係を示す記録、近代の再開発に関する記録を別々に検討する必要がある。近代の産金実績を江戸時代へ遡及させたり、江戸時代に採掘されたという記録だけから寛政期の操業を推定したりする方法は、史料批判の観点から適切ではない。

史実・推測・未確認事項の最終判定

今回のテーマについて、歴史的な確実性を基準に整理すると、次のようになる。

確認できる

寛政の改革の年代と政治的背景

寛政の改革は1787年から1793年にかけて松平定信を中心に進められた。幕府財政、農村復興、社会秩序の再建などが、その背景を理解するための主要な論点となる。
確認できる

馬上金山の近世・近代の沿革に関する公的記録

1972年の国会答弁には、江戸時代の発見・採掘と湧水による休山についての説明がある。また、近代の開発・経営と成清博愛の事績は自治体や文化財関係の公開資料で確認できる。
制度上の可能性

鉱山の産出量や経営実態をめぐる対立

採掘権、納入義務、領主の財政、鉱山経営者の利益などが対立する可能性は、近世の鉱山制度から検討できる。ただし、一般的に起こり得ることと、国東半島で実際に起きたことは別である。
未立証

寛政期の隠し金山事件

国東半島で秘密採掘が行われ、産出した金が隠匿され、幕府がこれを摘発したという一連の事件については、今回確認した資料から直接立証することはできない。

この判定で重要なのは、「未立証」を「絶対になかった」という意味で用いないことである。史料が散逸している場合や、未整理の古文書に関連記録が残っている場合も考えられるため、現段階では事件の存在を断定できないという評価が妥当である。

また、「隠し金山」という呼称そのものについても、同時代の文書に記された名称なのか、後世の郷土史や伝承によって付けられた名称なのかを確かめる必要がある。この呼称の成立過程が判明すれば、疑惑がいつ、どのような根拠から生まれたのかを追跡する重要な手掛かりになる。

今後の研究で優先すべき調査

今後、疑惑をさらに検証する場合、最優先となるのは、寛政期の馬上金山と国東半島周辺の鉱山について、同時代の記録が残っているかを確認することである。具体的には、豊後国の領主関係文書、村方文書、鉱山の採掘権や納入義務に関する記録、代官所や奉行所の行政文書などが調査対象となる。

次に、疑惑が語られるようになった経緯を調べる必要がある。自治体史、郷土史、旧家に伝わる文書、地域の伝承記録などを比較し、どの時点で「隠し金山」という説明が登場したのか、またその説明がどの史料を根拠としているのかを確認することが重要である。

さらに、鉱山考古学や地質学の調査を組み合わせることで、文献だけでは分からない情報を得られる可能性もある。坑道跡、採掘痕、精錬に伴う遺物などを調査すれば、採掘活動の時期や規模について新たな手掛かりが得られる場合があるが、それらの遺構だけで金の隠匿や幕府の取締りを証明できるわけではない。

研究を進めるうえでは、疑惑を肯定する証拠だけでなく、疑惑と矛盾する証拠も同じ基準で評価する必要がある。馬上金山の操業時期や休山の経緯が新たな史料によって修正される可能性もあるため、既存の説明を固定せず、確認された情報に応じて結論を更新する姿勢が求められる。

最後に

豊後国・国東半島の「隠し金山疑惑」は、江戸時代の鉱山行政と地域社会の関係を考えるうえで興味深いテーマである。しかし、歴史的な興味深さと、事件が実際に起きたことを証明する史料の存在は別問題である。

寛政の改革と幕府財政の関係、江戸時代の鉱山管理、馬上金山の近世の採掘歴、成清博愛による近代の再開発については、それぞれ公的資料や研究資料を用いて検討できる。一方、寛政期に国東半島で秘密採掘が継続し、幕府が特別な厳戒態勢を敷いて摘発したという一連の事件については、今回確認した資料から確実な史実として認定することはできない。

したがって、現段階で最も妥当な結論は、馬上金山の歴史と江戸幕府の鉱山管理制度は確認・検討できるが、寛政期の「隠し金山疑惑」は、具体的な同時代史料による裏付けが必要な未検証の主張である、というものである。

今後、関連する古文書や行政記録が発見されれば、事件の有無やその実態について評価が変わる可能性はある。その際にも、確認できた事実、制度から導かれる推測、伝承にとどまる情報を分けて論じることが、国東半島の鉱山史を正確に理解するための基本となる。


参考・引用リスト(追記)

馬上金山の沿革・成清博愛に関する資料

- 国会会議録検索システム「第68回国会 衆議院 公害対策並びに環境保全特別委員会 第10号」1972年4月11日。馬上金山の発見、元禄期から享保期の操業、湧水による休山についての政府委員答弁。寛永6年の西暦換算には記録上の誤りがあるため、年号換算に注意が必要である。

国会会議録検索システム シンプル表示

- 杵築市「成清博愛(なりきよ ひろえ)」。成清博愛の生没年、馬上金山の経営、1914年の金産出実績についての自治体資料。

- 文化庁・国指定文化財等データベース「旧成清博愛別邸庭園(的山荘庭園)」。馬上金山の開発・経営によって財を成した成清博愛の事績と、別邸・庭園の歴史を説明する資料。

江戸時代の貨幣制度・鉱山史に関する資料

- 日本銀行金融研究所・貨幣博物館「日本貨幣史」。近世の金貨・銀貨・銭貨の併存、江戸幕府による貨幣制度の整備、18世紀後半の貨幣流通を理解するための基礎資料。

- 東京大学史料編纂所「大日本史料第十二編之五十八」。江戸時代前期の鉱山開発や運上、佐渡金銀山、豊前呼野村金山などに関する史料を収録した史料集の紹介。近世の鉱山経営を史料から検討する際の参考となる。

- 国立公文書館「花月双紙」。松平定信と寛政の改革に関する歴史的背景を確認するための参考資料。

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