東ティモール民主共和国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

基本情報(目次に戻る

国名:東ティモール民主共和国(Timor-Leste Democratic Republic)

首都:ディリ(Dili)

人口:1,299,412人(2020年推定)

面積:15,007㎢(岩手県とほぼ同じ)

気候:熱帯気候
・気温は1年を通して安定している。(最低:21~24℃、最高:30~32℃)
・雨季は12月~3月。
・乾期は4月~11月。
・年間降雨量は1,200~1,400mm。一部地域は1,000mmを下回ることもある。
・台風の影響を受けやすい地域。

・海水は1年を通して暖かく、いつでも海水浴できる。(27~30℃)
・観光に適した時期は6月~8月。日差しは強いが湿度は低めなので比較的過ごしやすい。

経済:
・開発途上国
GDPは18億ドル(2020年推定)
・主要産業はサービス業と農業。
・主要輸出パートナーはインドネシア(25%)、アメリカ(22%)、ドイツ(14%)
・主要輸入パートナーはインドネシア(32%)、中国(15%)、シンガポール(13%)
・主要農作物はコーヒー、米、トウモロコシ、ココナッツ、キャッサバ、大豆、バナナ、マンゴー、サツマイモ。
・人口の約50%が貧困ライン以下の生活を余儀なくされている。

・失業率は約20%。(2020年推定)
・東ティモール紛争(独立戦争)の後遺症に悩まされている。
・慢性的な貿易赤字に直面している。(2017年輸出:約26億円、輸入:約640億円)
・インフラストラクチャの整備が喫緊の課題。

人種(民族):
・マレーポリネシア人
・パプア人
・ポルトガル人と先住民族の混血
・中国人と先住民族の混血

言語:
・テトゥン語(公用語)
・ポルトガル語(公用語)
・インドネシア語
・英語
・先住民族の言語(16種類確認されている)

宗教:
・ローマカトリック 97.6%(2015年推定)
・プロテスタント 2%
・イスラム教 0.2%
・その他 0.2%

東ティモール民主共和国

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大統領:フランシスコ・グテレス(Francisco Guterres)
首相:タウル・マタン・ルアク(Taur Matan Ruak)

政治体制:共和制
・ポルトガル諸国共同体(CPLP)加盟国。
・2002年の独立以来、行政と政府機関の構築作業を進めている。
・国家元首は大統領、任期は5年、3期まで再選可能。
・一院制、議員定数は65人、任期は5年。
・東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟手続き中。

法律:東ティモール民主共和国の憲法
・ポルトガルの憲法をモデルにしているが、大統領の権限は限られている。
・最高裁判所には議会が指名した裁判官1人と、上級評議会によって任命された数名の判事がいる。
・司法の独立を保障しているが、司法機関はまだ構築段階。
・女性と子供の権利はほとんど尊重されておらず、家庭内暴力と性的虐待が深刻な社会問題になっている。
・教育を受ける権利はほとんど尊重されておらず、人口の約50%は文盲
・司法制度は構築段階にあるため、大半の市民は公正な裁判にアクセスできない。
・女性は教育の機会に恵まれず、結婚を強制され、財産の相続を禁止されている。

東ティモール民主共和国/タウル・マタン・ルアク首相(左)

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渡航情報:
外務省ホームページ
・渡航注意情報発令中(2021年4月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年4月時点)

治安:悪い
・近年、国内でテロ事件は発生していない。
・インドネシアのイスラムジハード組織が国境付近で活動している。
・反政府組織の活動は報告されていない。
・国境付近の管理体制は脆弱で不法入国者が頻繁に往来しているため、近づかない方がよい。
・警察や治安部隊の管理の行き届いていないエリアでは暴力が横行している。
・近年、強盗、傷害、窃盗事件の発生件数が増加している。
・引ったくり、置き引き、スリに注意。
・首都ディリの治安は比較的安定している。
・流しのタクシーには乗車しない方がよい。

マスメディア(目次に戻る

・新聞社は7社。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は1局。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は3局。
・ポルトガル、イギリス、オーストラリアのラジオを視聴できる。
・報道と言論の自由を保障している。
・主要メディア媒体はラジオ。
・インターネット普及率は25~30%。
・検閲はない。

【国営メディア/設立年】
・ラジオテレビジョン東ティモール 2002年

【民間メディア】
・テレビジョン東ティモール

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2021年軍事力ランキング:ー位

・軍人数:2,300人(推定)
  即戦力 2,300人
  予備兵 0人
  準軍組織 0人

・陸軍と空軍を保有。

・国防予算:3,100万ドル(推定)

東ティモール民主共和国/国防軍

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1700年代

・1700年代、現在の東ティモール民主共和国の大部分はポルトガル、一部はオランダの支配下に置かれていた。

・ポルトガルはオセアニアの島のひとつに過ぎない東ティモールへの投資をほとんど行わず、インフラストラクチャ、健康、教育はほとんど開発されなかった。

・1769年、ポルトガルからの独立を求めるグループによる暴動が各地で発生したため、自治政府は首都をリファウからディリに移転した。

・1770年代~1790年代、オランダはポルトガルが占領していない西部地域に自治政府を設立し、植民地体制を確立した。

1800年代

・1800年代、ポルトガルは東ティモールの農業に投資し、コーヒー農園を拡大することで一定の利益を上げた。

・1850年代、ポルトガルの支配に抗議する組織が各地で抗議運動と暴動を展開したが、大半の住民は組織の活動に興味を示さなかったと伝えられている。

・1859年、ポルトガルとオランダがリスボン条約を批准。これにより、ポルトガル領ティモールとオランダ領インドネシアの国境が確立した。

・1870年代、東ティモールはポルトガルから追放された活動家の亡命地になり、左翼運動の中で最も大きな影響力を誇ったアナキスト運動とアナルコサンディカリスト運動のメンバーは、各地でポルトガル政府の支配に反対する抗議活動を煽った。

東ティモール民主共和国/先住民族の住居

1900年~第一次世界大戦

・東ティモールは第一次世界大戦に関与していない。

・1900年代初頭、東ティモールの経済は低迷し、ポルトガル人の植民地支配に抵抗する抗議運動が各地で加熱した。

・1910年代、ポルトガルは東ティモールへの関心をほとんど示さなかったが、自治政府のバックアップは継続した。

・独立派の反政府勢力は自治政府軍に攻撃を仕掛けたが、大半の国民はポルトガルが撤退すれば軍事政権が誕生すると恐れ、反政府勢力の活動をほとんど支持しなかった。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・1939年9月、第二次世界大戦勃発。

・1941年12月、ポルトガル領ティモールは日本の侵略を予期したオーストラリア軍とオランダ軍に占領された。(ポルトガルは中立の立場を維持)これにより、東ティモールは第二次世界大戦に引きずり込まれた。

・1942年2月19日、大日本帝国がティモール島に侵攻。連合軍に宣戦布告した。

・1942年8月、劣勢に立たされていた日本軍に強力な大隊が合流した。

・1942年9月、各地で激しい戦闘が繰り広げられ、連合軍は少しずつ後退を始めた。

・1942年末、連合軍はティモール島の大半を失った。この時、島には約12,000人の日本軍が駐留し、攻撃を激化させていた。

・1943年2月10日、オーストラリア軍がティモール島から退避し、東ティモールおよびインドネシアの一部は日本の占領下に置かれた。なお、ティモール島に戦略的価値はほとんどなかった。

<ティモール島の戦い:連合軍vs大日本帝国>
・両軍参加者:15,000人(推定)
・両軍負傷者:2,000~3,000人(推定)
・両軍死亡者:4,000~4,500人(推定)
・民間人死亡者:40,000~70,000人(推定)

・1945年9月、第二次世界大戦終結。これに伴い、ティモール島は日本の占領から解放された。

東ティモール民主共和国/ビーチ

終戦~現在

・ポルトガル領ティモールは戦後ポルトガルに返還された。しかし、ポルトガル政府は東ティモールにほとんど目を向けず、戦後のインフラストラクチャ、教育、ヘルスケア改革は一向に進まなかった。

・1949年12月、インドネシア共和国がオランダから独立。

・1955年、ポルトガルが東ティモールを海外州に指定。より強い自治権を与えたが、投資はほとんど行わなかった。この時、インドネシアの独裁者スカルノ大統領も東ティモールにほとんど関心を示さなかった。

・1974年4月、ポルトガル革命(カーネーション革命)による軍事政権は打倒された。その後、ポルトガルの文民政府は脱植民地化プロセスを進める中で、東ティモールを事実上放棄した。

・1975年8月11日、東ティモール民主連盟(UDT)がクーデターを決行。自治政府の州知事は離島に逃亡した。インドネシアはポルトガル領東ティモールで発生した混乱とクーデターを厳しく非難した。

・1975年11月28日、UDTがポルトガルからの独立を一方的に宣言。国連はこれを認めなかった。なお、ポルトガルも一方的な独立を却下したが、しばらく様子を静観したうえで対処を決めると楽観的な姿勢を見せたため、国際社会から避難された。

・1975年12月7日、インドネシアが東ティモールへの侵攻を開始。インドネシア軍は、コモド作戦と呼ばれている大規模な空海侵略作戦を仕掛けた。

・1975年12月12日、国連安全保障理事会がインドネシアの東ティモール侵攻を非難する決議を可決。しかし、西側諸国はインドネシアの侵略を支持したため、厳しく非難された。

・西側諸国はインドネシアに武器を提供(アメリカはインドネシアの武器輸入の90%を担ったと伝えられている)し、いくつかの軍事訓練プログラムを支援し、困難に直面した東ティモールの市民の訴えを無視したことで非難された。

・1976年7月、インドネシアが東ティモールの併合を宣言。

・1980年代、インドネシアは東ティモール州の観光業を推進し、インフラストラクチャ開発に多くの予算を投じた。

・1991年11月12日、インドネシア軍は首都ディリのサンタクルス墓地に集まった抗議者を銃撃し、少なくとも200人を殺害した。この事件は映画化され、大恥をかかされたインドネシアの軍事政権は19人の殺害を認めた。

・1991年12月、東ティモールの独立を支持する抗議運動がポルトガル、オーストラリア、そしてアメリカで展開された。これを受け、米国議会はインドネシアの軍事政権に対するIMET訓練への資金提供を停止したが、武器んの販売は継続した。

・東ティモールの独立支持団体は、インドネシアに対する抵抗運動を全国各地で展開し、その間、インドネシア軍による多くの残虐行為と人権侵害が報告された。インドネシア軍は、東ティモールの市民を恐怖に陥れるゲリラ民兵を訓練し、供給したと伝えられている。

・1998年後半、ポルトガルは東ティモールの独立国民投票を認めるようインドネシア政府に圧力をかけた。オーストラリアも10年以内に国民投票を行う機会を与えるよう表明したため、インドネシアのBJハビビ首相は、6か月以内に国民投票を行うと発表した。

・1999年、アメリカがインドネシアに対する武器輸入を含む全ての軍事関係を停止。一方、オーストラリアはインドネシア軍との関係を維持した。

・1999年8月30日、東ティモールの独立の可否を問う国民投票。独立は賛成多数(78.5%)で可決された。

・1999年9月1日、インドネシア軍の支援を受ける東ティモールの反政府ゲリラ民兵とインドネシア兵が報復作戦を開始。

・1999年9月8日、国連代表団がインドネシアの首都ジャカルタでハビビ首相と面会。ハビビ首相は東ティモールで発生した報復作戦と虐殺を「空想上の物語」と却下した。インドネシア軍の暴力はアメリカ、オーストラリア、ポルトガルなどの抗議者の爆発的な怒りを引き起こした。

・1999年9月15日、国連安全保障理事会は東ティモールの平和と安全を回復、保護、および支援する多国籍軍の派遣を求めるUNSC決議1264を全会一致で可決した。

・1999年9月20日、数千人の多国籍軍が東ティモールの首都ディリに到着。これを受け、ゲリラ民兵団は逃走作戦を開始した。ゲリラ民兵は国境を越えてインドネシアに逃亡したが、多国籍軍はこれを追撃し、数百名を捕縛した。

・1999年10月末、多国籍軍が戦闘終了を宣言。国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)を設立し、2年間自治政府を支援すると発表した。

・一連の東ティモール危機では、民間人約1,400人が殺害され、約22万人が西ティモールに非難を余儀なくされた。また、東ティモールの住宅、灌漑(かんがい)システム、給水システム、学校、インフラストラクチャ、電力網は、ほぼ100%破壊された。

<1999年東ティモール紛争:国連vs民兵ゲリラ>
・両軍参加者:約20,000~25,000人(推定)
・両軍負傷者:数百人
・両軍死亡者:約40人
・民間人死亡者:1,400人(推定)
・国内外避難民:22万人(推定)

・2002年5月20日、「東ティモール民主共和国」がインドネシアから独立。シャナナ・グスマンが大統領に就任した。

・2002年9月27日、国連に加盟。

・2006年4月、兵舎を脱走し解雇された東ティモール軍の兵士600人を支援する抗議集会が暴動に発展し、少なくとも5人が死亡、数百人が負傷し、2万人以上が国内避難民になった。

・2006年5月、政府軍と反政府ゲリラ組織による戦闘が勃発。反政府ゲリラを支援したのは、石油資金の分配に不満を持っていた軍と警察の関係者と伝えられている。

・2006年5月末、オーストラリア、ポルトガル、ニュージーランド、マレーシアが東ティモールに軍隊を派遣。暴動の鎮圧を開始した。

・2006年6月21日、シャナナ・グスマン大統領がマリ・アルカティリ首相に辞任を要求。

・2006年6月26日、マリ・アルカティリ首相が戦闘の責任を取り、辞任。

・2006年8月、反政府勢力の指導者、アルフレド・レイナドを含むゲリラ民兵が首都ディリの刑務所から脱獄。

・2007年2月、反政府勢力がマリアナ西部の警察署を襲撃し、自動アサルトライフル、ピストル、弾薬を強奪した。

・2007年4月、グスマン大統領の辞任に伴う大統領選挙。

・2007年5月20日、ホセ・ラモス・ホルタが大統領に就任。ホルタ大統領はグスマン前大統領を首相に任命した。

・2008年2月11日、ホルタ大統領が反政府勢力の銃撃を受け負傷。グスマン首相も銃撃戦に巻き込まれたが、怪我はなかった。暗殺未遂事件の発生を受け、オーストラリアは軍を首都ディリに派遣した。

・2008年2月12日、東ティモール政府は、暗殺未遂事件を主導したレイナドが銃撃戦の末に死亡したと発表した。

・2011年3月、国連が警察の運用管理を東ティモール当局に移管。

・2012年12月31日、国連が東ティモールの平和維持ミッションの終了を宣言。

文化(目次に戻る

・ポルトガルとローマカトリックの影響を強く受けている。

・先住民族の文化はほとんど文書化されておらず、分からないことが多い。

・主食は米。主菜は豚肉、魚、バジル、タマリンド、豆類全般、トウモロコシ、根菜、トロピカルフルーツなど。

・ポルトガル料理と東南アジア料理が人気。

東ティモール民主共和国/学生たち

スポーツ(目次に戻る

・人気スポーツはサッカー。

・その他の人気スポーツはバスケットボール、バドミントン、卓球、競馬、自転車競技。

・スポーツを楽しめる施設やグラウンドは整備されておらず、大多数の市民は運動活動を制限されている。

・2000年のシドニー五輪でオリンピックデビューを果たした。

・オリンピックでメダルを獲得したことはない。

その他(目次に戻る

・1999年の紛争で破壊されたインフラの復旧作業に取り組んでいる。

・一部の議員と民間企業は鉄道システムの導入を提案しているが、資金と専門知識が不足しているため、政府は提案をまだ承認していない

東ティモール民主共和国/首都ディリ
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