心霊スポット探索で大切なことは、現地の歴史も同時に調査することである。周辺住人にそれとなくお話を伺ってもよいし、役場を訪ねるのもアリだと思う。ただし、「歴史に興味がある」という体(てい)を強調し、調査すること。「心霊スポットを探してます」と言えば、恐らく怪訝な顔をされてしまうはずだ。

私は必ず現地の図書館に足を運び、自治体史をチェックする。インターネットで調べても出てこない情報が多々あり、当然信頼度も高い。あとは目的地を絞り、突入するだけである。

今回は北諸県軍(きたもろかたぐん)郡他4市の最恐心霊スポット12カ所(PART2)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.北諸県郡
   ・矢ヶ渕公園
   ・御崎神社
 2.えびの市
   ・陣の池
   ・木崎原古戦場跡
   ・加久藤城跡
 3.西都市
   ・速開都比売神社
   ・千畑古墳
 4.串間市
   ・福島川河川歴史公園
   ・白蛇様
 5.日向市
   ・観音滝
   ・西南の役官軍墓地
   ・耳川下流域

まとめ

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矢ヶ渕公園

北諸県郡三股(みまた)町を横断する「沖水川(おきみずがわ)」の麓に整備された『矢ヶ渕(やがふち)公園』は、夏になると涼を求める若者たちで大変賑わう。しかし、同地に言い伝えられる伝承を知っている者は、川で遊ぼうなどとは夢にも思わない、と言う。

沖水川の周辺地域に伝わる「河童伝説」は、水遊びのリスクを警鐘するものであり、大正時代頃から言い伝えられてきた。しかし、この伝説は水のリスクだけでなく、江戸時代以前に発生した事件を覆い隠す役割も担っていると、同地の歴史に詳しい某大学教授のD氏は言う。

三股町出身のD氏曰わく、「鎌倉時代後期から戦国時代にかけて、矢ヶ渕公園周辺の河川敷では、豪族による罪人の処刑、拷問などが執り行われてきた。また、それ以前の時代においては、荘園制度反対を唱える農民一揆が幾度となく発生、その都度おびただしい数の死者を出した」という。

荘園制度を現代風に説明すると、「金持ちは税金を免除され、庶民がそのツケを負う」という感じになる。この制度に異議を唱えたのが武士による政治を実現した鎌倉幕府の創始者「源頼朝」であり、天皇家や一部の公家に反旗を翻し、天下を治めたのである。

少ない収入に対し重い税を課された農民たちは怒り、一揆を起こした。しかし、南薩摩地方を治めていた豪族たちは自警団を結成しこれを軽々と粉砕。見せしめとして、首謀者や一揆に加担した者の家族を拷問の末、処刑した。なお、張本人である農民本人は、田を耕す大事な労働力であり、死ぬまで過酷な労働を強いられたという。

一揆に加担した農民の家族、特に妻と女児は酷い扱いを受けた。当時の様子を記録した資料によると、木刀で百叩きにされたあと、指を1本ずつ切り落とされ、息絶えるまで激しい責め苦を受け続けたという。斬首は男のみに許された特権であり、身分の低い女性は虫以下として扱われ、憤死した。

地獄の責め苦を受けた妻と女児は、怒りと復讐心、怨みつらみに憑りつかれ、怨霊になる。娘が拷問されるシーンを見た親が、狂い、精神を病み、怒りに燃えるのは当然だろう。非道な行いが日常的に行われた結果、矢ヶ渕公園周辺は怨霊の巣くう土地となり、様々な心霊現象が目撃されるようになった。

目撃された霊は、「川から血だらけの女性が這い出てきた」「この世のものとは思えぬ女性の叫び声が聞こえた」など。女性に関連する霊が多い理由は、D氏の言う通り、彼女たちが酷い扱いを受けてきた証拠かもしれない。

矢ヶ渕公園周辺の河原で行われた拷問や処刑は、後世に負の遺産として語り継がれてきた。しかし、明治時代に入り天皇が主権を取り戻したことで、荘園制度の失敗はタブー視され、その代わりに河童伝説が意図的に広められたとD氏は述べた。

まとめ
矢ヶ渕公園は、豪族の拷問および処刑場跡地に整備された

地獄の責め苦の果てに憤死した女性たちは、怨霊となり同地周辺を彷徨っている

基本情報
心霊スポット矢ヶ渕公園
(やがふちこうえん)
所在地〒889-1911
宮崎県北諸県郡三股町大字長田445
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間5分
【高速】宮崎空港から約40分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】宮崎駅から約1時間10分
【高速】宮崎駅から約45分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト三股町 公式ホームページ

御崎神社

北諸県郡(きたもろかたぐん)北部、大谷山の麓に建立された『御崎(みさき)神社』は、日本史上最強の大怨霊「大国主(オオクニヌシ)」を祀る神社である。なお、大国主伝説については「宮崎県の最恐心霊スポット決定版PART1 都農神社」で紹介したため、割愛する。

御崎神社は、江戸時代中期に発生した事案以降、心霊現象や不幸に見舞われてきたという。しかし、その伝承は不幸を思い起こさせる記憶として忌み嫌われ、社の記録からも抹消された。なお、同社の正確な創建年は不明。伝承によると、室町時代初期の1350年頃に建立された可能性が高い。

三股町出身の某大学教授を務めるD氏の資料を拝見させてもらうと、江戸時代中期の”失態”以降、心霊が同神社に姿を現し、集落に数多くの不幸を招いた、書かれていた。D氏曰わく、「日向国を襲った大不作と飢饉、高すぎる税が農民を苦しめた。そして、米や農作物は市場に出回らなくなり、町の様子は一変した」とのこと。

数年に及んだ大不作の原因は大雨だった。河川や水路が氾濫すると、田畑は水浸しになる。当時、農作物にとって最も過酷な条件は水不足ではなく、水の過多だった。同地はもともと雨量の多い地域であり、飢饉を招いた数年間は溢れんばかりのまとまった雨が連日連夜降り続き、田畑だけでなく集落の住人も飲み込んだのである。

大不作が発生すると、藩の収入は当然減る。これに対し頭の悪い藩主は、不作で被った減収を増税で賄ってしまう。しかし、農民たちは税を払いたくとも米や農作物がない。なけなしの作物を奪われた人々は、飢えた。

餓死者は道端に放置され、野犬や動物のエサになった。さらに、飢餓が極限状態を超えると、人肉を喰らう者が至る所に現れたという。しかし、生きるためには致し方ない。土、草、昆虫、ネズミ、あらゆるものが食料として売買され、同地は世紀末を思わせる悲惨な状態に陥った。

悲惨な事態を目の当たりにした御崎神社の神主と巫女たちは、餓死寸前の周辺住人を境内に招き入れ、草や野菜の葉などを使った料理を振る舞い続けた。なけなしの食料を提供してでも、人々を救おうとしたのである。しかし、限界を超える空腹で正気を失った一部の暴徒が神主と巫女を襲撃。その血肉を喰らったという。

数年に及んだ飢饉は去ったものの、集落住人の大半は餓死。同地にたどり着いた新しい住人たちは、飢餓や御崎神社で起きた惨事をあっという間に忘れ去った。

同神社で目撃される霊は、「境内を行き来する巫女」「ガリガリにやせ細り、皮だけになった男女」など。善行の果てに喰われた神主と巫女は、気の毒としか言いようがない。しかし、不作であるにも関わらず、増税の影響で食料を奪われ、人の血肉を喰わざるを得なかった住人たちも被害者である。

御崎神社にお参りする機会があれば、賽銭と一緒にお菓子や飲み物を供えて欲しい。境内および周辺を彷徨う霊は食料を求めている。

まとめ
江戸時代中期の事案以降、御崎神社は心霊スポットとなり、同地で起きた災いは憤死した神主、巫女、餓死者が招いたと噂されるようになった

飢饉を悪化させた藩主の増税対策は、数千人を餓死させた最低最悪の愚策と揶揄され続けた

基本情報
心霊スポット御崎神社
(みさきじんじゃ)
所在地〒889-1911
宮崎県北諸県郡三股町大字長田字牧
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間
【高速】宮崎空港から約35分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約1時間5分
【高速】宮崎駅から約45分
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陣の池

陣の池』は、えびの市の山中、雑木林の奥深くに治水目的で造られたダム池である。鎌倉時代後期に築造されたと言い伝えられているが、詳細は不明。

池から際限なく湧き出る青く澄んだ水は、周辺の田畑を潤す貴重な資源であり、今でも大切に利用されている。また同地には、「陣の池で泳いではならない」という伝承が古くから言い伝えられてきた。なお、この伝承は住人の生活を支える水を守るために広められたもの、と言われているが、事実ではない。

室町時代末期から戦国時代、仁の池周辺では豪族による激しい領土争いが繰り広げられ、合戦は日常茶飯事だった。同地で生まれ育ち、先祖代々農家として土地を守ってきたF氏曰わく、「陣の池は貴重な水源として重宝されてきたが、一番大切なものは米や作物を生み出す田畑であり、戦場として利用されることも珍しくなかった」という。

合戦時、池の近くに陣を張った武将は、その重要性を認識しつつも、一番大切な田畑(領土)を守るために戦った。結果、陣の池には戦死者や、斬首された者の遺体が遺棄され、水は死人で汚染されたという。

陣の池の水温は季節を問わず一定を保っており、真夏でも12℃~13℃とかなり低い。合戦に明け暮れた豪族たちは、池の水で鎧や刀の汚れを落とし、水の汚染を気にすることなく、敵兵の死体を遺棄し続けた。

魚やプランクトンの多い海や川であれば、遺体はすぐ白骨化し、水に与える影響も少ない。しかし、水温が低く、川魚やプランクトンの少ない人造池であれば話は別である。敵兵の遺体を遺棄し続けた結果、陣の池はブヨブヨに膨れ上がった水死体で溢れかえり、地獄の様相を呈したという。

湧水が水死体に侵されたことで、周辺農家は腐臭を放つ水で作物を育てざるを得なかったが、作物は思いのほか実り、不作に苦しめられることもなかった。ある日、陣の池近くを散策していた住人が水路の水をチェックすると、腐臭が消え去り、清らかな状態に戻っていることに気づいた。

第一発見者が家族や友人を引き連れ池へ向かうと、麓におびただしい数の鎧武者が立っていた。彼らはいずれもブヨブヨに膨れ上がった身体で、顔は見分けがつかないほど腐り果てていた。その後、第一発見者を除く十数名は全員池に引きずり込まれ、行方知れずになったという。

陣の池周辺で目撃された霊は、「鎧武者」「池から男女が這い出てきた」「池が水死体で埋め尽くされていた」など。家族を失いボロボロになった第一発見者の証言を受け、豪族たちは数百名規模の討伐軍を編成し、池に向かった。しかし、そこには青く澄んだ湧水しかなく、遺体を思わせる証拠は一切見つからなかった。

この伝承はF氏の生まれ育った集落で脈々と受け継がれている。子供たちは「陣の池での遊泳は禁止。汚すなど言語道断」と教え込まれ、町と田畑の守り神として大切にすることが当たり前になるそうだ。なお、伝承(伝説)の真偽は不明。霊が出没することを考えると、何かしらのトラブルがあった、と私は思う。

まとめ
陣の池は遊泳禁止。底には無数の白骨遺体が沈んでいると噂されている

伝承(伝説)という名の噂は、事件や事故の事実を隠すために流されることが多い

基本情報
心霊スポット陣の池
(じんのいけ)
所在地〒889-4302
宮崎県えびの市大字末永2439-3
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間40分
【高速】宮崎空港から約1時間10分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約1時間35分
【高速】宮崎駅から約1時間15分
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木崎原古戦場跡

南九州の「関ヶ原合戦」と称される「木崎原(きざきばる)の戦い」により、勝者の島津家は九州の覇者にのし上がった。一方、敗北した伊東家は衰退の道をたどり、九州平定の夢は潰えた。

ここで紹介する『木崎原古戦場跡』は、兵力3,000人の伊東家と同300人の島津家が正面衝突した地である。劣勢と思われた島津家は、鬼島津こと「島津義弘」の調略等が功を奏し、10分の1の兵力で敵を粉砕。自軍も甚大なダメージを受けたが、この合戦により、九州の豪族たちは島津家の力を恐れ、震え上がったという。

同地は非常に有名な心霊スポットである。ただし、古戦場跡地と刻まれた墓石の建つ地点より、その南東に位置する「首塚」の方が危ない、と噂されている。私は二カ所とも真夜中に探索したが、ただならぬ気配と身の危険を感じ、あえなく徹底した。

鬼島津の名を日本中に知らしめた戦いと言えば、「泗川(しせん)の戦い(豊臣連合軍による朝鮮侵略)」が有名である。島津軍は5,000人ほどの兵で20万超の朝鮮連合軍に戦いを挑み、30,000~50,000もの首級を持ち帰ったとされる。朝鮮連合軍を木っ端みじんに打ち砕いた島津家は、「鬼より怖い」と恐れられるようになった。この戦いは、日本史に燦然と輝く伝説の一戦として語り継がれている。

しかし、南薩摩においては「木崎原の戦いこそが鬼島津の真骨頂である」、と言い伝えられている。そして、同地で繰り広げられた壮絶な行いが、恐怖の心霊スポット誕生のきっかけとなった。

300人で合戦に挑んだ島津家の戦死者は何と250人以上。生き残ったのは50人足らずだった。それに対し伊東家は約3分の1、1,000人以上が討取られ、四方八方に斬首された遺体が転がっていたという。

島津家に加担する豪族たちによって、伊藤家の残党はことごとく討ち取られ、斬首ののち、遺体は野生動物のエサにされた。鬼島津の指示は簡潔明瞭である。敵兵に地獄の苦痛を与え、糞尿を垂れ流させたうえで斬首する、という本物の鬼も泣いて逃げるほどの残酷さだった、と言い伝えられている。

敗者が死ぬのは戦国時代の常。しかし、あまりに残酷な仕打ちは、死者の怨霊化を招く。先述の通り、同地には首塚も建立されているが、死者の怨みつらみを抑えるはできなかった。結果、同地は怨霊と化した戦死者たちがうごめく危険スポットになったのである。

島津家の歴史を研究する某大学教授のA氏は、「島津家の兵士は、死をいとわず、鬼のような強さで敵兵を薙ぎ払い、南薩摩に伝説を残した。しかし、合戦後の残酷かつ無慈悲な拷問、処刑、死者を愚弄する行為(遺体の遺棄など)はやめるべきだった」と述べた。

木崎原古戦場跡および同首塚で目撃される霊は、「首なし武者」「人魂」「槍を持った兵士が襲いかかってきた」など。いずれも鬼島津によって粉砕された伊東家の兵士もしくは島津兵の死者と思われる。

まとめ
島津義弘は鬼より怖かった。そして、鬼島津の残した怨霊と言う負の遺産は、後世にしっかり受け継がれている

同地は心霊のホットスポット。真夜中に訪れれば、高確率で何かしらの霊を目撃できるはず

基本情報
心霊スポット木崎原古戦場跡
(きざきこせんじょうあと)
所在地〒889-4303
宮崎県えびの市大字池島
種別戦争
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間40分
【高速】宮崎空港から約1時間10分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約1時間35分
【高速】宮崎駅から約1時間15分
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木崎原古戦場跡② 大軍を率いて乗り込んだ伊東軍が、 少数の兵力しか持っていなかった島津軍から退いていったことがわかる 史跡がたくさんありました(^_^)/ 島津軍の「釣り野伏せ」戦法、 すごいです‼!! ○三角田 -木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで島津義弘が伊東の将、伊東進次郎を槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた島津義弘を退かせるために盾となって久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の6重臣が討死したのもこの場所です- ○池島神社 ○元巣塚 -合戦後、伊東氏の霊を恐れた地元民のため、地頭の伊集院肥前入道元巣が慶長18年に供養した塚です- #木崎原古戦場跡 #三角田 #池島神社 #元巣塚 #木崎原の戦い #覚頭合戦 #加久藤合戦 #伊東義祐 #伊東祐安 #島津義弘 #伊東軍 #島津軍 #日向国 #薩摩国 #えびの市 #宮崎県

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加久藤城跡

先に述べた「木崎原(きざきばる)の戦い」の約10年前、島津家は南薩摩の豪族「北原氏」滅亡後、「加久藤城(かくとうじょう)」を手中に収めた。ここで紹介する『加久藤城跡』は、同城跡地を整備した史指定史跡である。

同地は「木崎原古戦場跡」と同じく、心霊が出没すると恐れられ有名になった。ただし、島津家vs伊東家の合戦から約100年後に起きたある事件がきっかけと言い伝えられており、その事実を知る者は非常に少ない。

同地で生まれ育ったご夫婦に情報提供いただき、資料を拝見させてもらった。それによると、「1693年、薩摩藩に対するクーデターを企てる賊、忍びの生き残りなどが加久藤城跡に陣取り、連日連夜作戦会議を開いていた。なお、加久藤城は一国一城制により破却。同地は空き地になっていたので、悪人たちのたまり場になってしまったのだろう」と書かれていた。

老婆は、「島津藩は住人からの通報を受け、クーデターを察知。数千の兵を率い賊狩りを開始した。藩主の綱貴(つなたか)は、賊の殲滅および首謀者の捕縛を指示。数百名の賊軍に襲い掛かった」

戦いは数時間で終結、島津軍の圧倒的な攻撃にさらされた賊軍は壊滅、ことごとくさらし首にされ、首謀者と思われる侍大将級の者たちは、市中引き回しの刑の後、火刑に処された。

この時、数名の残党が加久藤城跡から逃れ、周辺の空き家に身を隠していたという。逃亡の機会を伺っていると、女性二名が空き家に近づいてきたため、これを捕縛。姦通、尋問の末、喉を掻き切った。

生き残った残党たちは、自分たちの作戦会議を目撃した住人が島津家に密告したこと知り、激高。深夜を狙い、一軒ずつ慎重に襲撃し、老若男女関係なく、殺した。

集落は一カ所に密集しておらず、最寄りの隣家から400~500m離れていることも珍しくなかった。残党たちは闇に紛れ、証拠を残さず住人たちを殺害。遺体は加久藤城の本丸跡地に積み上げられた。

数週間後、隣人たちが姿を消していることに気づいた最後の住人も捕縛、処刑された。これにより、加久藤城跡周辺の集落はゴーストタウンになった。通報された恨みを晴らし、残党たちは最後の大勝負に出る。自ら島津家にこの事実を通報、加久藤城跡に誘いこんだ。

現地調査に訪れた島津軍約100名は、赤々と炎を上げ燃える加久藤城本丸跡に進軍。山積みにされた数百体と思われる遺体が焚火のように燃え上がり、炎の高さは数十メートルに達したという。

集落を滅亡に追いやった賊の残党たちは、痕跡も残さず消えさり、1週間連続で行われた山狩りは徒労に終わった。同地で目撃される霊は、「焼け焦げた男女の遺体」「血みどろの死装束をまとった男女」など。

加久藤城跡周辺で起きた大惨事は、同地で新生活を開始した人々によって語り継がれてきたが、その伝承も徐々に薄れ、今では数世帯の家族だけが知る秘密になった。

まとめ
加久藤城跡周辺の伝承を知る者は少ない

住人を大虐殺した族の残党たちは、結局見つからず

基本情報
心霊スポット加久藤城跡
(かくとうじょうあと)
所在地〒889-4222
宮崎県えびの市大字小田1224
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間45分
【高速】宮崎空港から約1時間5分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約1時間40分
【高速】宮崎駅から約1時間15分
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速開都比売神社

西都(さいと)市の山中、二級河川「一ツ瀬川(ひとつせがわ)」の麓に建立された『速開都比売(はやあきつひめ)神社』は、青色の鳥居が目印の社である。

同社は宗教法人によって建立され、現在に至る。山の奥深くにあるものの、綺麗に手入れされており不気味な気配は感じられないはずだ。しかし、夜になるとその様相は一変する。

同地区で生まれた私の友人が、おぞましい伝承を説明してくれた。曰わく、「速開都比売神社のすぐ近くにある滝と一ツ瀬川では、自殺者が後を絶たず、下流域の住人たちは水死体が発見されるたびに色めき立った。自殺者は女性や子供ばかり、殺害を疑う者もいたが、いずれも自殺として処理された」とのこと。

資料には、「原因不明の疫病」が蔓延し、感染した者は酷い扱いを受けた挙句、皆一様に自殺したと書かれていた。なお、友人はハンセン病と主張しているが、真偽は不明である。また、自殺者が女性と子供ばかりである理由も明確に記されておらず、分からないことが多い。

速開都比売神社は町道から「湯之内吊つり橋」を渡った先にある。同社に足を運んだ方は、「なぜこんな場所に神社を建てたのか?」と不審に思うはず。理由は、自殺した女性および子供を供養するだと私は思う

同社の創建年は不明。奈良時代や江戸時代後期という説があるものの、真偽不明であり、証明する手立てはない。しかし、友人の伝承と目撃される霊から、同社が自殺者供養のために造られたことは、ほぼ間違いないと思う。

資料の後半、水死体は少なくとも鎌倉時代後期から確認され、さらに、謎の疫病も同時期から流行り始めたという。そして、一ツ瀬川の麓に社を建て、死者を祀ったとハッキリ記されていた。しかし、社の名前までは書かれておらず、速開都比売神社だという明確な証拠を見つけることはできなかった。

同社で目撃された霊は、「̪死装束を着た女性」「滝近くに血みどろの女性が立っていた」「女性と子供の悲鳴が聞こえた」など。いずれも女子供に関連するものばかりであり、真夜中に訪れると高確率で霊に遭遇すると恐れられている。

本殿の裏、「百間轟(ひゃっけんとどろき)の滝」で自殺した女子供は、いずれも短刀で首を掻き、息絶えたと言い伝えられている。付近には墓所や祠(ほこら)、水神様を祀る社(やしろ)などがあちこちに建立されており、霊を抑えるべく苦心したことが伺える。

夜、同地に足を運ぶことはおすすめしない。私は湯之内吊つり橋の中央付近で女性の霊と対峙した。この橋が微妙に揺れる。真っ暗闇の中で霊と対峙するのは大変危険なので、やめた方がよいと思う。お供え物を準備したうえで、明るい時間に探索することをおすすめしたい。

まとめ
速開都比売神社は、自殺者を供養するために建立された可能性が高い

女子供は疫病に感染し、百間轟の滝もしくは一ツ瀬川で命を絶ったと言い伝えられている

基本情報
心霊スポット速開都比売神社
(はやあきつひめじんじゃ)
所在地〒881-1122
宮崎県西都市大字大字片内字湯之内11843番地3
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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今日はフォロワーさんと朝から色々回って来ました😃 写真は速開都比売神社の鳥居と滝です✨✨ レンズ: TAMRON 28-75mm F/2.8 Di III RXD 国富町(諏訪神社→籾木池)→西都市(速開都比売神社)→高鍋町(高鍋湿原)と結構回る事が出来たのでかなり充実した1日でした😄 でも諏訪神社の鯉ビームは失敗してるかも😓 #速開都比売神社 #滝 #滝活 #鳥居 #discovermiyazaki #miyazaki_colors #miyazaki_jp #nature_brilliance #best_moments_nature #bestphoto_japan #instagramjapan #tokyocameraclub #東京カメラ部 #キタムラ写真投稿 #カメラ好きな人と繋がりたい #写真好きな人と繋がりたい #写真撮ってる人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #sonya7iii #sonyphotography #sonyalphasclub #sonyalphaphotos

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千畑古墳

日本最大級の古墳群、「西都原(さいとばる)古墳群」は西都市で最も有名な観光スポットである。「国の特別史跡」に指定され、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓も含まれている、と噂になったが、それを証明する遺構や出土物は発見されていない。

ここで紹介する『千畑(ちばたけ)古墳』は、国の史跡に指定され、かつ、心霊が出没することで一躍有名になった。しかし、一部の地元住人は同地に古くから伝わる伝承を恐れ、絶対近づかないという。

西都原古墳群と卑弥呼のつながりを主張する某大学教授のT氏は、ある御仁から提供いただいた資料を使って、私に同地の伝承を説明してくれた。曰わく、「江戸時代、千畑古墳の南側を流れる一ツ瀬川の河原には、上流域で身投げしたと思われる女子供の水死体がよく流れ着いた。当時、同地周辺に集落はなかったのだが、何者かが水死体を千畑古墳近くに運び、肉や臓物を家畜のエサにしていた」という。

人肉を喰らう”カニバリズム嗜好”は、深刻な飢饉などが発生した際に報告されている。しかし、川魚やプランクトンの影響でボロボロになった水死体を解体し家畜のエサにする、という話は生まれてこの方聞いたことがない。T氏の資料には間違いなくそう書かれているが、常軌を逸した噂話のように思えてならない。

千畑古墳およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでおり、「死体の山が遺棄されていた」「女性と思われる腐った遺体が這い出てきた」など、かなりおどろおどろしい霊が目撃されている。遺体を家畜のエサに使ったか否かは分からないが、伝承に近い何かが行われていた可能性は高い、のかもしれない。

古墳周辺を調査している最中、ある老婆から興味深い話をお聞きした。曰わく、「千畑古墳が明治時代に発掘された、という話は間違い。洞穴(当時は古墳と思われていなかった)の中で人食い事件が相次ぎ、豪族による山狩り、犯人探しが行われたと伝えられている。そして、何とも恐ろしい話だが、同地は人間の臓物で作った佃煮の産地と噂されるようになった」という。

島津家も人間の臓物で佃煮を作ったと言い伝えられている。籠城(ろうじょう)戦時の緊急手段(兵糧が尽きた際など)として用いられており、特段驚くようなことでもない。しかし、あくまで緊急手段として用いられた手法のひとつである。戦以外の場で臓物の佃煮を作っていたとすれば、老婆の言う通り恐ろしい。人を殺し肉を喰らい、贓物の佃煮を売りさばく者がいたのかもしれない。

現地で目撃された霊は、水と大量殺人を暗示しているように思える。いずれにしても、霊が出ることは確かであり、何かしらの事件が発生したのだろう。なお、老婆曰わく、「古墳一帯を覆う雑木林の地面を掘ると、人骨がそこら中から出てくる」とのこと。試掘は行っていないが、興味のある方は法務局で地権者を割り出し、許可を得た上で調査してはいかがだろうか。

まとめ
千畑古墳周辺で伝えられてきた伝承と目撃された霊は大方一致する

人間の臓物で作った佃煮は、特段珍しくない。しかし、戦以外の場となると、話は別である

基本情報
心霊スポット千畑古墳
(ちばたけこふん)
所在地〒881-0026
宮崎県西都市大字穂北字桜田
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間5分
【高速】宮崎空港から約50分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約50分
【高速】宮崎駅から約50分
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福島川河川歴史公園

福島川(ふくしまがわ)河川歴史公園』は、ごく普通の標準的な河川公園である。小さな芝生広場があるものの、あとは二級河川「福島川」に沿って堤防道路が整備されているだけ。周辺住人の散歩もしくはランニングコースとして重宝されているようだが、観光地と言えるような場所ではない。

同公園の河原は心霊スポットとして有名である。夏休みになると、意中の女子と肝試しごっこ(?)を楽しむ中高生男子の姿がよく目撃されるという。しかし、同地の伝承を知る住人たちは河原で繰り広げられた地獄を知っているため、「夜に足を運ぶなどあり得ない」と皆、口をそろえて言う。

福島川歴史河川公園が整備された地点は、豪族の拷問場兼処刑場だった。同地で生まれ育ったA氏は、「島津家が南薩摩を支配する以前、豪族たちの領土争いは混迷を極め、戦などで捕らえられた敵兵の扱いは、江戸時代に比べると大変酷いものだった。火刑、股裂き、串刺し、共喰い強要、何でもありだった」と説明してくれた。

天下泰平の礎を築いた織田信長や太閤秀吉は、史上まれに見る残虐な君主だったと恐れられている。しかし、「共喰い」を強要したという資料は恐らく残されていないはず(あったらすみません)。同公園の河川敷では、罪人たちに共喰いを強要し、さらに、「その家族や子供を喰わせる」という身の毛もよだつ刑が執行されていた。

戦に敗れ捕らえられた敵兵および罪人は、死を受け入れねばならない。しかし、罪人の家族も連座制で地獄の苦痛を受ける、という鬼のような所業が許されていいのだろうか。A氏の資料には、「罪人に与えられる最高の極刑は、家族を目の前で殺され、その血肉を無理やり喰わされた上で、数時間におよぶ拷問を受け続けるという惨いものだった」と書かれていた。

人の道を外れた残虐極まりない刑に処された者たちは、怨みつらみを極限まで募らせ、憤死する。家族を目の前で殺され、その血肉を無理やり喰わせれば、どんな善人でもまず間違いなく怨霊になるだろう。

ある日、罪人のひとりが家族だけは巻き込まないでほしいと執行官に懇願した。しかし、連座制の適用は既に決まっており、男は母親、妻、幼女の血しぶきを全身に浴び、その臓物を無理やり口に押し込まれたという。心を破壊する拷問は、観覧客にも恐怖を植え付け、犯罪率の低下に効果を上げた。

他の施設紹介でも述べた通り、地獄の苦痛を受け憤死した者は、怨霊になる。そして、怨霊を放置すれば、出没地域だけでなく、その一帯に甚大な被害をおよぼしかねない。

福島川歴史河川公園で目撃された霊は、「人間の贓物を喰らう餓鬼」「生首を抱える鎧武者」など。元拷問場兼処刑場の名は伊達ではなく、かなりエグイ例の目撃情報もある。

同公園周辺に拷問の末憤死した者を供養する神社や祠(ほこら)、慰霊碑などはない。歴代トップ10に入る残虐な拷問処刑、共喰い強要を受け憤死した者は、今も同地周辺を彷徨い、近づく者に怨みつらみをぶつけようとしている。

まとめ
福島川河川歴史公園は、豪族の拷問場兼処刑場だった

共喰い強要の刑は、心をコナゴナに破壊する残酷極まりない拷問処刑だった

基本情報
心霊スポット福島川河川歴史公園
(ふくしまがわかせんれきしこうえん)
所在地〒888-0007
宮崎県串間市大字大字南方2416-1
種別戦争
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間30分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】宮崎駅から約1時間40分
【高速】宮崎駅から約1時間35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト串間市 公式ホームページ
画像はイメージです

白蛇様

日本には、”良い”もしくは素晴らしい伝承を伝える地やスポットが多い。しかし、「安産、子宝、学業成就、家内安全」といった言い伝えの大半は、プロパガンダと思ってまず間違いない。

拷問、処刑、合戦などのおぞましい歴史を残す地ほど、良い伝承を”意図的に”吹聴したがる。理由は過去の悪夢を振り払い、同時に負のイメージを覆したいと考えるためだ。これは至極当然のことだと思う。しかし、歴史は改変できても、怨霊や呪いを消し去ることはできない。

串間市南部の山中にひっそりとたたずむ『白蛇様(しろへびさま)』は、白蛇/幸運の使者を祀る神社と呼ばれてきた。しかし、鳥居と小さな社は雑草や周囲の木々に浸蝕され、見るも無残な姿をさらしている。

一昔前までは本物の白蛇を社殿に展示し、参拝客で繁盛していたらしいが、今では人を寄せ付けない不気味な雰囲気に包まれ、心霊の出没する地として恐れられている。しかし、同地で繰り広げられた凄惨な過去を知る者はほとんどおらず、一部の周辺住人のみがその伝承を後世に伝えているという。

同地で生まれ育った御仁曰わく、「白蛇様は、食料にされていた御崎馬(みさきうま)と、ある事件を豪族に伝え、解決に奔走した一家を祀っている。御崎馬は今でこそ国の天然記念物に指定されているが、明治時代以前は武士や農民の貴重な食料だった」とのこと。

同地は数万頭の御崎馬が暮らす自然の宝庫だった。しかし、室町時代末期から戦国時代の混迷期にかけて、身体の小さな御崎馬は食料として乱獲されるようになったという。戦国時代に入り、乱獲スピードは一気に加速。1日数百頭が解体されることも珍しくなかった。

ある日、タチの悪い密猟集団が数百頭の御崎馬を矢で射抜き、その首を切り落とした。さらに、首を丘の頂にオブジェの如く並べ、観覧客から物見料を徴収したという。

この事実を知った同地に住むある一家は、大切に見守ってきた御崎馬が物見のために虐殺されたと怒り、密猟集団に抗議すべく豪族を頼った。申し出を受けた豪族は兵士数十名を派遣し現地に乗り込んだ。しかし密猟集団は、「狩猟した馬は全て食料にする」と主張、処罰を免れた。

密猟集団は、豪族に密告した一家を襲撃、家主を除く女子供を切り刻み、海に遺棄した。さらに、捕縛した家主の前で御崎馬数百頭を狩猟、首を切り落とした。

生け捕りにされた家主は、馬の臓物を口に押し込まれ、もがき苦しんだのち、窒息死したという。この事件を見届けた密猟集団のひとりは、あまりの惨さに嫌気が差し、豪族にありのままの事実を申し伝えた。

怒り狂った豪族の長は、数百名規模の討伐軍を編成。密猟集団を殲滅すべく、同地に駆け下った。が、周辺を捜索するも一味を発見することはできず、連日連夜に及んだ山狩りも徒労に終わった。

山狩り最終日の朝、同地の丘に足を運んだ豪族の長は、丘の上に並べられた男たちの首を発見。いずれも鬼の形相を浮かべ、鼻と耳を削がれたうえ、舌まで抜かれていたという。そして、その周りには数十頭の御崎馬が集まり、静かに草を食んでいた。

この怪事件を受け、豪族の長は御崎馬と惨殺された一家を祀る神社の建立を命じた。ただし、同社が白蛇様と呼ばれるようになったのは300年以上先のことである。

まとめ
白蛇様は惨殺された御崎馬と