宮崎県で有名な心霊スポットの大半は、明治時代以前の戦争や事件に関連するものばかりである。ただし、第二次世界大戦における空爆関連遺構でも霊の目撃情報が報告されている。

江戸時代以前の日向国(南九州)は、島津家と日向伊藤家を中心とした群雄割拠の世であり、戦、公開処刑、拷問、何でもありの時代だった。そしてこの時代、怨みつらみを残して憤死する者たちが後を絶たず、それらが怨霊化し、様々な害をもたらしたと言い伝えられている。

今回は西臼杵郡(にしうすきぐん)郡他4郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。強い怨みを持ったまま憤死した死者の霊は、供養もしくは神域に封印されない限り、我々の目の前に姿を現し続けるだろう。

目次

 1.西臼杵郡
   ・夜泣き石
   ・鬼八の首塚
   ・うげの滝
 2.東臼杵郡
   ・山須原ダム
   ・鬼神野溶岩渓谷
   ・八村杉
 3.児湯郡
   ・都豊神社
   ・小川城跡

 4.東諸県郡
   ・籾木池
   ・千尋の滝
 5.西諸県郡
   ・皇子原神社
   ・忠霊塔

まとめ

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夜泣き石

西臼杵郡(にしうすきぐん)高千穂町は、天皇家の祖にして日本神話の神、「天照大神」の孫であるニニギノミコトが降臨した地として語り継がれてきた。古くから同町の中で言い伝えられてきた天孫降臨伝説は、今も生きている。

ここで紹介する『夜泣き石』は、ニニギノミコトの子を宿した”木花開耶姫(このはなさくやびめ)”が、出産時に抱きつき難産の痛みを和らげた、と言われている。また、この石に触れた赤子は、どんなに大泣きしている状態であっても、ピタッと泣き止むという。

夜泣き石伝説は江戸時代末期頃から住人の間で定着、現在に至る。しかし、それ以前の時世においては、大して大事にされることもなく、酷い扱いを受けてきた。高千穂町で生まれ育ち、様々な伝承資料を保管しているA氏にお話を伺うと、「夜泣き石は赤子を泣き止ます石ではなく、赤子や女性の断末魔の叫びを放つ呪われた石として恐れられていた」という。

江戸時代以前、日向国一帯は豪族による争いや戦が絶えず、賊や夜盗も当たり前のように出現、治安は悪化の一途をたどっていた。ある日、夜泣き石の近くで女性と赤子が何者かに襲われた。「女性は輪姦の挙句、全身の皮膚を剥がされ、串刺し状態で放置、動物のエサになった。赤子もそれにならい、石で頭をかち割られ、ゴミのように捨てられていた」

残念なことに、犯人は結局分からずじまい。さらに、同じような惨殺事件が複数回発生し、村民たちは恐怖におののいたという。そして、夜泣き石は女性と赤子のものと思われる断末魔の叫び声を発するようになった。

最初の事件から数か月後、夜泣き石の掃除に訪れた者が、その周辺に規則正しく並べられた数十人分の生首を発見。男たちは、皆一様に目を見開き、この世のものとは思えない断末魔の表情を浮かべていた。

さらに、死んだ男たちの口内には、切り取られた陰茎と睾丸が入っていたという。人間ワザとは思えぬ残虐非道な大量殺人事件に、同地を治めていた豪族も衝撃を受けた。しかし、男たちは賊や夜盗の一員であり、村民たちはその死を歓迎した。

江戸時代、夜泣き石が断末魔の叫びを上げる周期は減少した。村民たちが女性と赤子を供養すべく、石周辺の掃除やお参りを絶やさなかった結果かもしれない。

現代、夜泣き石では心霊と思われる目撃情報が相次いでいる。それらはいずれも、「赤ん坊の泣き声が聞こえた」「女性と赤子の叫び声を聞いた」「生首が並べられていた」など、江戸時代以前を思い起こされるものばかりである。A氏は、「夜泣き石の”本当の”伝承を知る者が少なくなり、死者を供養する機会が減ったことで、霊が復活したのかもしれない」と述べた。

まとめ
夜泣き石は知る人ぞ知る心霊スポット。女性と赤子の断末魔の叫びが聞こえるかもしれない

子供と一緒に殺された女性は怨霊になり、賊や夜盗を皆殺しにした、と考えられている

基本情報
心霊スポット夜泣き石
(よなきいし)
所在地〒882-1101
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井698-4
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約3時間
【高速】宮崎空港から約2時間5分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】宮崎駅から約2時間50分
【高速】宮崎駅から約2時間5分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト高千穂町観光協会 公式ホームページ

鬼八の首塚

先祖代々高千穂町で生まれ、育ってきたというS氏曰わく、「この町に伝わる鬼八(きはち)伝説は、大昔にこの地で発生した戦や処刑などの悲惨な事実を隠すために広められた」という。

昔、鬼八と呼ばれる大蜘蛛の怪物が町に幾度となく害をもたらした。その行いに憤慨した神武天皇(初代天応)の兄「ミケヌノミコト」は、鬼八を捕縛しバラバラに切り刻んだ。しかし、その身体は何度切り刻んでも再生した。

ミケヌノミコトは鬼八の身体を3つに分けて埋葬、封印の呪文を施した。そのひとつが『鬼八の首塚』と呼ばれ、現代に語り継がれている。S氏は、「日本中に伝わる神話、それを思い起こさせる伝承は、不都合な真実を隠すためのもの。鬼八の首塚周辺は、戦場として幾度となく利用され、その都度おびただしい数の死者を出した。そして、戦に勝利した者たちは、数百、数千の首を切り取り、さらした」と述べた。

鬼八の首塚は車の行き交う県道50号線から近く、民家やホテル、飲食店などに囲まれている。しかし、人通りが多いにも関わらず、心霊の目撃情報は後を絶たず、夜に近づくのは危ないと噂されている。目撃された霊は、「死人の首を切り取る鎧武者」「槍を構えた首なし兵」「人魂」など。

同地が戦場に利用されたことを記す資料は残されていない。ただし、江戸時代以前においては、戦や斬首など日常茶飯事、特段珍しいものではなく、九州各地で恐ろしい数の兵士や民間人が殺されてきた。鬼島津の異名を持つ「島津義弘」とその一行は、朝鮮の役で5万以上の敵兵を斬首し、その首や耳を日本に持ち帰ったと言われている。数百、数千人の死者で驚いてはいけない。

不都合な真実を鬼八伝説で覆い隠した同首塚周辺には、憤死した兵士、首を切り取られさらされた死人の怨霊がうごめいている。そして、怨霊たちは同地の住人たちに害を及ぼし始めた。

天孫降臨の地、高千穂地方は、肥沃(ひよく)な地として知られてきたが、江戸時代初期頃から田畑の生育が悪くなり、原因不明の疫病に悩まされた。さらに、河川の氾濫、台風、ネズミやイナゴの大量発生などによって農作物は壊滅、深刻な飢餓が10年以上続いた。

餓死する者が後を絶たず、町は荒れに荒れ、遺体は道端に捨て置かれ、肥沃と言われた地は地獄に変わった。この惨状に日向伊藤家(飫肥藩)は、神社や祠(ほこら)を手当たり次第に建立、神事を執り行い、怨霊の祟(たた)りを収めるべく、できるかぎりのことをしたという。

鬼八の首塚、胴塚、手足塚では、一年の安寧を祈る神事が毎年欠かさず催されている。なお、この神事は鬼八を祀るべく伝承されてきたが、真実は違う。あくまで数百、数千の死者を供養するものであり、それを怠れば、高千穂町は再び暗黒の時代を迎える可能性もあるのだ。

まとめ
鬼八伝説は、高千穂町周辺で発生した不都合な真実を覆い隠すために広められた

鬼八の首塚に伝わる本当の伝承を知る者は少ない

基本情報
心霊スポット鬼八の首塚
(きはちのくびづか)
所在地〒882-1101
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1103-7
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約3時間5分
【高速】宮崎空港から約2時間5分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約2時間50分
【高速】宮崎駅から約2時間5分
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関連サイト高千穂町 公式ホームページ
画像はイメージです

うげの滝

西臼杵郡(にしうすきぐん)五ヶ瀬町の「大仁田山」に端を発する「三ッ所川(みつしょがわ)」上流に形成される『うげの滝』は、知る人ぞ知る心霊スポットである。

同地に古くから伝わる伝承を知る者は非常に少ないらしく、タブー視する住人もいたという。私にその伝承を教えてくれた老夫婦は、事実を後世に伝えることが大切と言った。ご主人曰わく、「三ッ所川上流およびうげの滝周辺は、豪族の処刑場として利用されていた。しかし、一部のタチの悪い者たちが、誘拐した女性や少女たちを次々と連れ込み、犯した挙句殺しては捨てた」という。

同地周辺で生活していた住人たちは、女性や少女たちを哀れみ、豪族に報告した。しかし、通報された悪人たちは罪を認めず、住人たちに恨みを抱いた。小さな集落から順に夜襲が仕掛けられ、一夜のうちに住人が姿を消し、付近の人々は恐怖に震え上がったという。

悪人に捕縛された者たちは、生きたまま焼かれ、遺体は三日三晩うげの滝周辺にさらされた。集落を襲撃した悪人たちは痕跡を一切残さず、次々と住人を捕らえ、最後のひとりも捕縛。老若男女、皆、同じ運命をたどった。

周辺には民家だけが残され、悪人たちはそこを利用し悪事の限りを尽くした。ある日、少女の肉を喰いたい、と言う不審な侍が現れ、悪人たちは生焼けの遺体を提供したという。それを喰らった侍は、「お前らの肉も喰らってやる」と憤怒(ふんぬ)の炎を燃え上がらせ、悪人数十名を切り刻んだ。

異変に気付いたのは、三ッ所川の下流域で暮らす人々だった。川の水が真っ赤に染まり、人間の四肢や胴体が次々と河原に流れ着き、町は大変な騒ぎになったという。その後、豪族たちにより上流域の捜索と山狩りが実施されるも、実行犯につながる証拠は何一つ見つからなかった。

下流域の住人たちは、上流域の集落が無人になっていることを不審に思い、豪族たちに調査を依頼するも、数百名が消えた理由は誰にも分からず、原因不明のまま検分は打ち切られた。

明治維新により新政府が誕生した明治元年、うげの滝周辺を散策していた男性が、滝つぼに飛び込む女性を目撃した。しかし、現地に足を運び様子を伺うも、飛び込んだ女性の姿は確認できなかったという。男性はこの事実を下流域の住人に伝え、捜索を再開した。

再びうげの滝に向かうと、肉の焼けるひどい腐臭が辺りを包み、数十人が我慢できず嘔吐した。そして、滝つぼに降りると、おびただしい数の串刺し遺体が辺りを埋め尽くし、地獄の様相を呈していた。しかし・・・

後日、役人が検分に訪れると、串刺し遺体は跡形もなく消え失せていた。住人達は誤情報を発信したと疑われ、大目玉をくらったという。この事件以降、同地は人を寄せ付けぬ地となり、現在に至る。

まとめ
うげの滝には近寄るべからず。道も整備されておらず、怨霊の住処になっている、と思われる

伝承は後世にしっかり伝えるべき。それを知らずに無茶をする輩が現れれば、悲劇を招く

基本情報
心霊スポットうげの滝
(うげのたき)
所在地〒882-1203
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町大字三ヶ所
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約3時間15分
【高速】宮崎空港から約2時間35分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約3時間5分
【高速】宮崎駅から約2時間35分
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関連サイトごかせ観光協会 公式ホームページ

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山須原ダム

山須原(やますばる)ダム』は、九州電力㈱が二級河川「耳川(みみかわ)」の中流域に建設した発電用ダムである。1926年に工事着工し、1932年に運用を開始、現在に至る。

同ダムは知る人ぞ知る心霊スポットである。しかし、同地に霊が出る理由を知る人は非常に少ない。九州電力の前身、「九州水力電気」がその事実を知っていたか否かは不明だが、「とんでもない”いわくつき”の土地にダムを造ってしまった」と、同地の歴史に詳しいA氏は語った。

戦国時代、耳川の下流域付近において、島津家(鹿児島)と大友家(大分)による大規模な合戦が展開された。「耳川の戦い」における正確な戦死者などは記録に残っていないが、その戦いおよび島津家勝利後の残党殲滅戦は、耳川中流域にまで広がったとされる。

A氏曰わく、「島津家の戦力約20,000人に対し、大友家はその倍の約40,000人。戦いは大友家の圧勝に終わると予想されていたが、フタを開けてみれば島津家の大奮戦、激勝に終わった。大友家の兵士たちは敗北が決定的になると、四方八方に散り、数千人がバラバラになって逃げた」という。なお、この戦いの後、島津家は九州平定を目指し北上するも、豊臣秀吉率いる連合軍に粉砕される。

戦場から離脱した大友家の残党数百名は、耳川中流を目指し西進した。しかし、住人たちに発見され、島津家の兵が大挙して押し寄せた。伝承によると、兵士約300名が捕縛され河原に連行、処刑されたという。

鬼島津の怒りを買った残党たちは、現代の死刑がぬるま湯に感じるほどの拷問、死んだ方がマシと思わせるほどの苦痛を受け、憤死した。生きたまま目をくりぬかれ、舌を抜かれ、鼻と耳を削がれ、生爪を一本ずつ剥がす島津式拷問は、九州中の大名、豪族を震え上がらせた。

さらに、拷問を受けた残党の一部は生きたまま磔(はりつけ)にされ、カラスや動物のエサになったという。この儀式は、自然を荒らしたお詫びとして行われたものであり、動物たちにとっては、生肉を堪能できる素晴らしいイベントだった。しかし、磔にされ、地獄の苦しみの中で怨みつらみを極限まで募らせ憤死した兵士たちは、軒並み怨霊化したものと思われる。

当時、耳川の河原には人骨がゴロゴロ転がっており、「頭蓋骨を見つけたら大当たり」と住人たちは必死に探し回った。そして、織田信長のように頭蓋骨製の食器や杯を作る者が現れ始めた頃から、心霊の目撃情報が報告されるようになったという。

戦に敗れた者は死なねばならない。しかし、死者に対するリスペクトを欠いた結果、山須原ダム周辺には憤死した兵士の怨霊が現れるようになった。「空を飛ぶ生首」「山積みになった遺体」などと言った目撃情報から、耳川の戦いに関連するものであることはほぼ間違いないと思う。

まとめ
山須原ダムは心霊の出没スポット。耳川の戦いで憤死した兵士の怨霊が幾度となく目撃されている

死者へのリスペクトを欠いてはならない。怨霊化した死人は、その地に不幸を招く

基本情報
心霊スポット山須原ダム
(やますばるだむ)
所在地〒883-1301
宮崎県東臼杵郡諸塚村大字家代
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約2時間25分
【高速】宮崎空港から約1時間55分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約2時間10分
【高速】宮崎駅から約1時間55分
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関連サイト九州電力 公式ホームページ

鬼神野溶岩渓谷

東臼杵郡美郷(みさと)町、「龍岩山(たついわやま)」の麓を水源とする「小丸川」上流付近に形成された『鬼神野(きじの)溶岩渓谷』は、知る人ぞ知る心霊スポットである。

同渓谷はフィリピンプレートの大移動(約6000万年前)に伴い隆起した、といわれている。なぜ、同渓谷は心霊スポットとして注目されるようになったのか。

小丸川上流は人里離れた山の中にあり、人の目につきにくい。同地で生まれ育ち、600年以上前の伝承資料を持つY氏にお話を伺った。曰わく、「南北朝時代から戦国時代末期、同地は豪族や有力武将の目を逃れた賊の住処になっていた。賊たちは下流域の田畑を荒らし、誘拐や人身売買も行っていた」という。

戦国時代に入ると、賊たちは数百名規模の徒党を組むようになり、計画的に下流域の集落を荒らし回ったという。なお、当初は農作物や金を奪うだけだったが、若い女性や女児を狙う誘拐の増加に伴い、住人の依頼を受けた豪族による取り締まりが強化された。

豪族たちは賊の本拠地を発見し、鬼神野溶岩渓谷に兵士数百名を派遣、悪漢を討ち取るべく正面から攻撃を仕掛けた。一方、賊たちは土地の形状を知り尽くしており、さらに、恐ろしい数のワナを準備、襲撃に備えた。

戦いは賊の圧勝に終わったという。豪族の兵士たちはワナや急襲をほとんど察知できず、僅か1時間ほどで皆殺しにされた。賊たちは兵士の首をことごとく切り取り、身体は食料にしたと言い伝えられている。人肉を喰らう”カニバリズム”は、飢饉や飢餓の酷い地域ではごく普通に行われていたが、いずれもタブー視され、その事実が表沙汰になることはほとんどない。

賊たちは食人族と恐れられ、規模を拡大し続けた。同地域を支配した豪族たちもただ手をこまねいているわけではなかったが、兵士を大量に動員しても、圧倒的な地の利の悪さに苦しめられ、殲滅はおろか、賊ひとりを討ち取ることもままならなかったという。

しかし、ある日を境に賊たちは活動を停止、下流域の集落に平和が戻った。不審に思った豪族たちは兵士団を現地に派遣、鬼神野溶岩渓谷周辺を徹底的に調査した。

結果、1,000人分以上の頭蓋骨および骨が発見され、兵士たちは恐怖におののいたという。そして、生き残りと思われる男女二名を捕縛。尋問を行った結果、賊たちは精神を病み、共喰いを始めたことが判明した。

同渓谷周辺で目撃された霊は、「汚らしい格好の男女」「山のように積み上げられた人骨」「遺体を喰らう男たち」など。なお、これらの伝承はY氏が継承した資料に書かれているものの、出自および真偽はいずれも不明である。

まとめ
鬼神野溶岩渓谷は、食人族と呼ばれた賊たちの本拠地

賊に殺され喰われた者、共喰いをかけた戦いに敗れ死んだ者が霊となり、同地周辺を彷徨っている

基本情報
心霊スポット鬼神野溶岩渓谷
(きじのようがんけいこく)
所在地〒883-0304
宮崎県東臼杵郡美郷町南郷鬼神野
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約2時間20分
【高速】宮崎空港から約2時間5分
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②アクセス
【一般道】宮崎駅から約2時間5分
【高速】宮崎駅から約2時間5分
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関連サイト美郷町観光情報サイト
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八村杉

東臼杵郡椎葉村(しいばそん)は、「壇ノ浦の戦い(1185年)」に敗れ滅亡した平家の残党が落ち延びた地のひとつである。

源氏との戦いに敗れ同地に土着した平家の残党たちは、集落を起こし、生き伸びた。その後、一定の財力を得ることに成功し、「十根山神社(通称:八村大明神)」を建立したと言い伝えられている。

ここで紹介する『八村杉(やむらすぎ)』は、同神社の境内に根をはる巨木である。樹高約54m、胸高直径約2m、国内最大クラスの高さと規模を誇り、国の天然記念物に指定されている。

この巨木および十根山神社周辺は、心霊スポットとして恐れられてきた。椎葉村の歴史に詳しい某大学のS教授曰わく、「鎌倉幕府による平家の残党狩りは、壇ノ浦の戦いから二十年以上経っても続けられていた。同地に土着した平家の残党は、那須宗久(なすむねひさ)率いる追撃隊に捕縛、討取られた。宗久は平家討滅を祈念し、十根山神社の境内に八村杉(苗木)を植えた」とのこと。

皆殺しにされた(と言われている)平家の落ち人たちは、辛苦の末に建立した同神社が宿敵源氏の手に堕ちたことをどう思っただろうか。当時、神域を汚す行為は禁忌とされ、いかなる理由があろうと、神社や祠(ほこら)は攻撃の対象にならなかった。

宗久率いる源氏軍は、平家討滅を祝い、神域(境内)に八村杉を植え、死人の怒りを買った。S教授によると、杉の苗木を植えた翌年以降、椎葉村は飢饉、飢餓、天災、一揆などに悩まされ、集落の住人たちは、逃げるように同地を去ったという。

江戸時代末期、立派に育った八村杉を伐採しよう、という話が持ち上がった。理由は、平家の落ち人が建立した神社に源氏の植えた樹があるのはおかしい、と一部の住人が指摘したためである。しかし、ご神木と呼ばれる杉を切るのは間違い、と多くが反対した。

八村杉伐採を提案した数名の住人は、平家の血を引く不届き者と噂され、幕府を強く支持する一部の暴徒に切り刻まれた。その後、殺された住人と平家との間につながりはなかったことが判明する。

暴徒化した者たちは罪に問われず、情状酌量を言い渡され、椎葉村に戻った。その直後、十根山神社に巨大な雷が落ち、住人たちは肝を冷やしたという。翌日、住人殺害に関わった男女10名が、村の真ん中で黒焦げになった状態で発見された。

十根山神社および八村杉周辺で確認された心霊は、「黒焦げになった男女が歩いていた」「生首を持った鎧武者」など。いずれも平家落ち人伝説に関係しそうなものばかりである。

まとめ
八村杉は国の天然記念物に指定される巨木。同地の平家残党を討滅した那須宗久が植えたと言い伝えられている

平家の落ち人たちは辛苦の末に十根山神社を建立したが、神域を源氏に汚され、怨霊化した

基本情報
心霊スポット八村杉
(やむらすぎ)
所在地〒883-1601
宮崎県東臼杵郡椎葉村十根川
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約3時間5分
【高速】宮崎空港から約2時間35分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】宮崎駅から約2時間55分
【高速】宮崎駅から約2時間35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト椎葉村観光協会 公式ホームページ

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都農神社

日本最強の大怨霊、「大国主(オオクニヌシ)」を祀る『都農(つの)神社』は、宮崎県でも群を抜く歴史を自負している。ただし、正確な創建年は不明。天照大神の血を受け継ぐ「神武天皇(初代天皇」誕生時(約2700年前)に建立されたと言い伝えられいるが、これはあくまで神話上のお話。事実ではない(と思われる)。

都農神社は、由緒正しき歴史を持つと同時に、1000年以上前から心霊スポットとして恐れられ、様々な伝説を後世に伝えてきた。しかし、怨霊に関する伝承はタブー視され、その事実を知る者はごくわずかだという。

日本最強の大怨霊こと大国主は、日本神話上の絶対神、天皇家の祖である天照大神より巨大かつ立派な「出雲大社」に祀られている。大国主は天照大神の命を受け、冥界(あの世)に追放、怨霊になった。なぜ、冥界に追放された祟り神は、天照大神(伊勢神宮)より立派な社に祀られたのか。

日本最大クラスの規模を誇る出雲大社は、大怨霊大国主を祀り、神域に「封印(縛り付けている)」している。中途半端な神域(?)では強大過ぎる怨みつらみを封印できず、あれほど巨大な社を造らざるを得なかったのである。つまり、出雲大社以下の社に大国主を祀れば、地域一帯が強大な怨みつらみによって支配されてしまうのだ。

都農町で生まれ育った老婆曰わく、「都農神社周辺で発生した飢饉、天災、不作は、全て大国主さまの怨みつらみが原因と言われ、住人たちは同社に足しげく通い、供養を欠かさなかった。しかし、その風習も徐々に廃れてしまったようだ。戦国時代、同社の境内に逃げ込んだ一人の侍大将が、空腹のあまりお供え物を食べてしまった」という。

その直後、侍大将は敵兵たちに発見され、境内で斬首、血しぶきが本堂に降り注いだ。翌朝、神主が境内を見回っていると、本堂前に男たちの首が並べられていた。いずれも目を見開き、口をへの字に曲げ、断末魔の叫びをあげているような表情だったという。

同年、都農神社の境内を掃除していたご夫婦、少女、そして赤子が夜盗に襲撃、惨殺されるという凶悪事件が発生した。集落は悲しみに包まれ、それから三日三晩、雨が降り続いたという。雨が止んだ翌朝、境内に足を運んだ神主は、またしても地獄に遭遇する。

境内の中央付近に男女10名が串刺し状態で放置され、その中心から真っ赤な火柱が上がっていた。いずれもまだ息はあったものの、炎の勢いはあまりに強く、バケツで水をかけても効果はない。やがて男女は断末魔の叫びをあげ、炎に飲み込まれたという。

二つの事件は特に凄惨なものであり、老婆の所有する資料にその事実が淡々と記されていた。犯人は不明、人間の所業とは思えぬ手口から、大怨霊大国主の怒りと噂されたようだ。以降、都農神社は町をあげて大切に守られ、現在に至る。

まとめ
大国主は日本最強の大怨霊。日本史上最高の社、出雲大社に祀られ(封印され)ていることが証拠である

都農神社の怨霊伝説はかなり凄惨。資料に明記されているので事実だと思うが、真偽の確認は不可

基本情報
心霊スポット都農神社
(つのじんじゃ)
所在地〒889-1201
宮崎県児湯郡都農町大字川北13294
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】宮崎空港から約1時間20分
【高速】宮崎空港から約55分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】宮崎駅から約1時間10分
【高速】宮崎駅から約55分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト都農神社 公式ホームページ

小川城跡

菊池一族」は、南薩摩を代表する豪族のひとつである。紆余曲折の末、戦国時代に滅んでしまうのだが、その血は脈々と受け継がれ、「西郷隆盛」も同一族の末裔と言われた。

ここで紹介する『小川城跡』は、菊池一族の末裔を名乗った「米良氏(めらうじ)」の居城跡地である。米良氏は江戸時代に隆盛を極めた豪族のひとつ。一国一城令に従い、同地に小川城を築いた。なお、正確な築城年は不明。破却年は1868年(推定)。

小川城本丸跡地に建設された小学校は廃校となり、おどろおどろしい雰囲気を醸し出している。しかし、心霊スポットとして恐れられてきたのは、廃校ではなくその周辺である。同地は、菊池一族を巡る様々な遺恨が残る呪われた地、と言っても過言ではない。

平安時代末期、菊池一族は平家に属従していた。しかし、「源頼朝」が兵を上げこれに対抗したことで、菊池一族も平家に反旗を翻し、大一番(壇ノ浦の戦い)で寝返ったとされる。

鎌倉時代、菊池一族は幕府転覆を狙った後鳥羽上皇首謀の「承久の乱」にくみし、戦ののち処罰された。お家取り壊しを覚悟しなければならないほどの裏切り行為だったが、幕府の許しを得、以降、様々な戦で武功を立てることになった。

室町時代以降も、同一族は裏切りおよびそれに近い行為を使い分け、弱肉強食の世を生き抜いてきた。しかし、幕府の信頼を失い、大豪族の島津氏、阿蘇氏、大友氏などから調略や戦を仕掛けられ、1504年に藩主が死亡、滅亡した。

児湯(こゆ)郡西米良村(にしめらそん)で生まれ育った元小学校教諭のA氏曰わく、「小川城を築城した米良氏は、一家滅亡の憂き目に遭った菊池一族の怨霊を恐れた。同地では様々な厄災、凄惨な事件が頻発し、酷い有様だった。その中でも特に酷い事件が、大飢饉だった」とのこと。

江戸時代中期、同地は記録的な干ばつに襲われた。A氏の資料によると、半年以上雨が降らず、作物は全滅。道は餓死者で埋めつくされ、過酷な税の取り立てを行っていた米良氏に対する一揆が発生した。

生きるか死ぬかの戦いに勝利したのは当然米良氏だった。一揆に加担した数百名は拷問の末、餓死。遺体は丁重に供養された。その後、米良氏は過酷な税の取り立てを止め、村民の怒りを抑えることに注力したという。

菊池一族による数多くの裏切り行為。その血を受け継ぐ西米良氏の暴挙が同地に怨霊を招き入れたのかもしれない。城跡周辺で目撃された霊は、「鎧武者」「クワを持った農民と思われる男性」「ガリガリにやせ細った少女」など。

裏切りは一族を存続させる常套手段である。しかし、卑怯な行いであることに変わりはなく、結局菊池一族は滅び、小川城を建てた米良氏も江戸時代以降、特に目立つことなく、大飢饉や一揆などの困難に見舞われ続けた。

まとめ
小川城跡地周辺には、菊池一族と米良一族に怨みを持つ怨霊が現れる

本丸跡地の旧小学校(廃校)も心霊スポットとして知られているが、公有地なので無断立ち入り厳禁

基本情報
心霊スポット小川城跡
(おがわじょうあと)
所在地〒881-1302
宮崎県児湯郡西米良村大字小川880
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
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籾木池

籾木池(もみきいけ)』は、東諸県郡(ひがしもろかたぐん)国富町の山中に築造された農地用ダム池である。池の北を流れる「田野川」を水源とし、散策コースも整備されているため、町民の憩いの場になっている。

同池周辺には”いわくつき”の伝承が残されている。国富町で生まれ育ったF氏曰わく、「籾木池は豪族たちが拷問場として利用した地に築造された。江戸時代に処刑方法が確立されるまでの間、同地では想像するのも恐ろしい拷問や処刑が日常的に執り行われ、人気を博していた」とのこと。

江戸時代以前、罪人の拷問や処刑はエンターテイメントであり、大衆が参加し行われる刑も複数存在したと言われている。F氏の保存する資料によると、同地で人気を博した刑は「百叩き」「鋸(のこ)引き」「牛裂き」だったという。

まず、いずれの拷問も、受ければ必ず死ぬ。情状酌量等が認められない限り、助かることはない。百叩きはその名の通りである。鋸引きは非常に惨たらしく、残酷極まりない拷問だった。罪人は手足を縛られ、みぞおちの辺りまで地面に埋められる。

罪人の身体に鋸(ノコギリ)を当て引くのは観覧客だった。順番待ちができるほどの人気で、腕や腹、背中にさび付いた鋸を当て、引く。罪人は命が尽きるまで肉をえぐられる地獄の苦痛を味わい続けるのだ。この拷問に処された者は、1日持たず死ぬのが普通だった。

牛裂きは罪人の両手足の付け根に縄をくくり、それぞれの端を2頭の牛に固定する。2頭は逆方向にゆっくり前進、縄をくくりつけられた罪人の身体はその荷重に耐えきれず、裂ける。腕は千切れるのが一般的、太もものから下腹部にかけて身体が真っ二つに裂け、臓物をまき散らせば、観覧客は大喜びした。

いずれも実際に行われた拷問であり、罪人は切腹や斬首より数段惨い扱いを受けた。地獄すら生ぬるい拷問を受け憤死した者は、当然怨霊になる。同地の拷問場は江戸時代に閉鎖されたが、神社や祠(ほこら)などは一切建立されず、当然、憤死した数千、数百の罪人を供養することもなかった

籾木池周辺で目撃された霊は、「人間とは思えぬ悲鳴を上げる者」「山積みの遺体」「四肢を失い、這いながら移動する男」など。拷問の末憤死した罪人たちは、軒並み怨霊になり、同地を彷徨っているのかもしれない。

籾木池は、”死体の上がらない池”として知られている。終戦直後、中学生だったF氏は池に飛び込んだ男女を目撃、警察に通報した。しかし、数日間捜索が行われたにも関わらず、それらしい痕跡は発見されず、「見間違い」として処理された。

その後も数年周期で入水自殺の瞬間が目撃されている。しかし、いずれのケースも証拠、遺体は発見されずじまいだったという。

まとめ
籾木池は拷問場跡地に築造された。霊の目撃情報多数

地獄すら生ぬるい苦痛の末に憤死した者は怨霊になり、現世に不満や怒りをぶつける

基本情報
心霊スポット籾木池
(もみきいけ)
所在地〒880-1223
宮崎県東諸県郡国富町大字八代南俣
種別事故
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
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