7月4日未明から降り始めた集中豪雨により、熊本県南部地域に甚大な被害が出た。被災された方に謹んでお悔やみ申し上げる。

同県の観光産業は、コロナウイルスの感染拡大により大きな被害を受けている。今回の集中豪雨はそれに追い打ちをかける形となり、被災された方たちの心労、落胆は計り知れない。

当サイトで紹介する心霊スポットに興味を持たれた方は、現地探索を行ったうえで、お土産物店や飲食店に立ち寄っていただきたい。ただし、マスク着用と社会的距離のルールの遵守と、「コロナウイルスを持ち込まない、持ち帰らない」を徹底してほしい。

今回は天草郡他3市2郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.天草郡
   ・袋池神社
   ・富岡吉利支丹供養碑
 2.天草市
   ・殉教戦千人塚
   ・仏木坂古戦場
 3.上天草市
   ・龍ヶ岳
   ・教良木ダム
 4.球磨郡
   ・五木源パーク
   ・網場の瀬
 5.人吉市
   ・かくれ念仏
   ・鹿目の滝
 6.葦北郡
   ・佐敷古城址
   ・芦北太陽光第2発電所

まとめ

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袋池神社

天草郡北西部、富岡地区に残される「富岡城跡」は、同郡を代表する観光スポットである。江戸時代、同地を所領として与えられた寺沢家が築城、その後、藩の編成見直し等が実施されたのち、1670年に破却された。

ここで紹介する『袋池(ふくろいけ)神社』は、富岡城の南、袋池の麓に建立された神社である。同地で生まれ育ち、数々の伝承資料を保管するF氏曰わく、「袋池は富岡城が築城される以前から心霊が出ると噂になっており、事態を重く見た藩主が建立を指示したと言い伝えられている」と述べた。

室町時代末期から戦国時代、袋池の河原は周辺住人、主に女性の風呂場として利用されていた。当時、自宅に浴室を持っている者は限られており、女性は布などで身体を拭き、汚れを落としていたのである。

ある日、河原で身体を清めていた美しい女性が族の集団に襲撃、拉致される事件が発生した。その様子を目撃した老婆たちは、女性の身を案じ、同地を治めていた豪族に通報する。しかし、豪族の長は女性の油断が危機を招いたと指摘、山狩りなどの捜索は一切行われず、時間だけが過ぎた。

事件から数日後、拉致された女性の遺体が河原で発見された。その姿は見るに堪えぬ酷い状態であった。頭と四肢はことごとく切り取られ、全身あざだらけだったという。さらに、腹を切り裂かれ、身ごもっていた胎児までもがバラバラに切り刻まれていた。

妻と子供を失った夫は、悲しみに暮れ、翌日袋池に身を投げ、死んだ。目撃者の通報を受け、水死体は数時間後に引き上げられた。その時、関係者たちは世にも恐ろしいものを目にする。引き上げられた水死体には両手足と頭がなく、切断面から血が出て形跡も一切なかったのだ。

袋池は深くさらに濁っており、パーツ捜索は行われなかった。わずか数時間前に自分の足で自殺した夫の頭と四肢はどこに消えたのか

水死体発見から数日後、袋池で身体を清めていた老婆は、裸の女性が池の底から現れるところを目撃した。女性には頭が二つ、手足が4本ずつ生えており、クモを彷彿とさせる俊敏な動きで林の中に消えたという。

老婆はこの話を豪族に伝えるも、夢を見たのだろうと軽くあしらわれ、一切相手にされなかった。しかし、クモのような女性の目撃情報から3日後、河原を訪れたある夫婦が地獄と化した現場を発見する。

10名以上の男たちが、高さ15mほどの雑木に吊るされ、死んでいた。さらに、四肢は軒並み切断、切り取られた頭が河原に並べれており、皆、この世のものとは思えない苦悶の表情を浮かべていたという。しかも、遺体から取り出された臓物を目、口、鼻の穴、耳などに押し込まれ、屈強な兵士ですら直視できないほどの酷い殺され具合だった。

袋池神社で目撃される霊は、「麓に立ち尽くす女性」「河原にバラバラ遺体が散乱していた」など。なお、F氏の資料に書かれている伝承の真偽は不明である。ただし、目撃された霊は伝承を連想させるものばかりであり、何かがあったことは間違いない、と私は思う。

まとめ
袋池神社は、殺された女性と同じく惨殺された男たちを祀るべく建立された

伝承の真偽は不明。ただし、現在も霊が頻繁に目撃されており、何かがあったことは間違いない、と思う

基本情報
心霊スポット袋池神社
(ふくろいけじんじゃ)
所在地〒863-2507
熊本県天草郡苓北町富岡
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】熊本空港から約3時間
【高速】熊本空港から約2時間40分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間35分
【高速】熊本駅から約2時間25分

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関連サイト苓北町 公式ホームページ
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富岡吉利支丹供養碑

天草・島原地方などで繰り広げられた「島原の乱(1637年)」は、日本史上最大の一揆である。江戸幕府のキリスト教弾圧、藩主による過酷な税の取り立てなどが発端となり、「官軍13万vs賊軍4万(諸説あり)」という関ヶ原合戦規模の戦いが勃発した。

勝者はご存じの通り官軍江戸幕府である。「天草四郎」を総大将とするキリシタンおよび農民などで編成された賊軍は壊滅。しかし、落ち延びた残党たちは九州各地に潜伏し、キリスト教の教えを秘かに説いたという。

天草郡苓北町(れいほくまち)の住宅街に建つ『富岡吉利支丹(とみおかきりしたん)供養碑』、通称千人塚には、島原の乱で戦死した3,000人余りの首が埋葬されており、合戦終結から10年後、同地を治めた代官が死者を哀れみ、建立したと言い伝えられている。

同供養碑周辺は心霊のホットスポットとして有名である。目撃された霊は、「両手に首を持った鎧武者」「生首が道端に転がっていた」など。信教の自由を奪われ、踏み絵や世にも恐ろしい拷問の末に殺されたキリシタンたちは、恐らく成仏などせず、現世を彷徨っているのだろう。

現世に怨みつらみを残して憤死した者は、怨霊になる。キリシタンおよびその戦いに加担し捕縛された農民などは、官軍から世にも恐ろしい拷問を受けた。沸騰したお湯を少しずつ身体にかける「煮え湯地獄」、生きたまま釜で煮る「釜ゆで地獄」、同じく生きたまま全身の肉を削ぐ「皮剥ぎの刑」など、地獄すら生ぬるい拷問処刑によって、彼らは憤死したのだ。

同供養碑は死者を慰め、祀る、すなわち、怨霊化を防ぐために建立された。しかし、3,000人とも言われる死者の魂を小さな供養碑ひとつで抑えることはできなかったのだろう。同地の歴史に詳しい某大学教授のY氏曰わく、「心霊の目撃情報は島原の乱終結頃から始まり、現在に至る。そして、残念ながら、供養碑はそこまで大切にされず、慰霊祭などが執り行われたこともなかった」とのこと。

1792年、同供養碑の扱いを一変させる大事変が発生する。肥前国(長崎県)の雲仙普賢岳が大噴火を起こし、同国および肥後国(熊本県)に壊滅的な被害をもたらした。この大事変は「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」と呼ばれ、15,000人~20,000人(諸説あり)が火砕流とマグマに飲み込まれ、死んだと記録されている。

肥前国と肥後国の藩主は、この大事変を島原の乱で憤死した者たちの呪いと考えた。噂は瞬く間に広まり、キリシタンたちを葬った墓や供養碑が大規模改修の対象になった。施設周辺の雑草や雑木、コケなどは跡形もなく取り除かれ、藩主の命令により慰霊祭が執り行われたという。

天変地異と怨霊の呪いの因果関係を証明することは誰にもできない。しかし、少なくとも当時の人々はそうだと信じ、信教の自由を奪われ、地獄の果てに憤死した死者たちを全力で供養したのである。その成果が出たか否かは分からないが、現在でも心霊が目撃される実情を踏まえると、キリシタンたちは恐らく納得していないのだろう。

まとめ
富岡吉利支丹供養碑は心霊のホットスポット。目撃情報多数

当時の人々は、雲仙普賢岳の大噴火を憤死したキリシタンたちの呪いと考えた

基本情報
心霊スポット富岡吉利支丹供養碑
(とみおかきりしたんくようひ)
所在地〒863-2507
熊本県天草郡苓北町富岡3595
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】熊本空港から約3時間
【高速】熊本空港から約2時間35分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間30分
【高速】熊本駅から約2時間25分

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殉教戦千人塚

上天草市の「殉教公園」に建立された『殉教戦(じゅんきょうせん)千人塚』は、先に述べた「富岡吉利支丹(とみおかきりしたん)供養碑」と同じく、島原の乱で命を落とした死者の首を祀る墓である。

上天草市内には、島原の乱で戦死した者の墓があちこちに点在しており、放置されているものも少なくなかった。第二次世界大戦終結から10年後、当時の市長の指示を受け、墓や慰霊碑の発掘が行われた。そして、集められた約5,000人分(推定)の遺骨を殉教公園の慰霊碑や墓の下に葬り、現在に至る。

殉教公園および殉教戦千人塚周辺では、「遺体が山積みにされていた」「槍を持った男が襲いかかってきた」などの心霊と思われる目撃情報が相次いでいる。同地の歴史に詳しい某大学教授のY氏によると、「殉教公園南の町山口川(まちやまぐちがわ)は、島原の乱で激戦が繰り広げられた地のひとつである。戦いに敗れ河原付近に移送されたキリシタンと農民たちは、ひとりずつゆっくり拷問され、死んだ」という。

Y氏の保管する資料には、「町山口川の河原で1,000人以上が火刑に処され、生焼け状態の遺体は見せしめとして串刺し状態のまま放置された」と書かれている。さらに、火刑は炭を利用して執り行われており、キリシタンに関しては即死を一切認めず、10分以上かけてジワジワ焼き殺したようだ。

火刑は、拷問処刑の中でも3本の指に入る苦痛を対象者に与えることで知られる。ただし、火にさらされる時間の短縮を認められた者(キリシタン以外の農民など)は、下腹部に火薬袋の取り付けを認められた。これに熱が加わった瞬間、下腹部とその周辺は木っ端みじんに砕け散り、ほぼ間違いなく即死できたという。

苦痛の果てに憤死し、さらに弔われることなく遺体をゴミのように扱われたキリシタンたちは、怨みつらみを募らせ怨霊化した。なお、殉教公園周辺には寺、墓、慰霊碑などが何基も建立されているが、死者たちは納得していないのだろう。今も霊となって同地に姿を現しているのがその証拠だと思う。

明治時代末期、町山口川近くに建立された慰霊碑と墓所が何者かに破壊される事案が発生。その後、役人たちによる捜索が行われるも、犯人につながる証拠は見つからなかった。事案発生から1年後、破壊された墓の近くで男女四名の遺体が発見された。いずれも首を切り落とされ、全身の肉が焼け焦げていたという。

殺害された男女四名は、同地で悪さを繰り返していた半端者たちだった。人々はこぞって「慰霊碑と墓を破壊した報いが男女四名に下った。人は騙せても怨霊は騙せない」と噂した。なお、犯行現場に遺留品(足跡、毛髪、血痕、凶器など)は何一つ残されておらず、役人たちも「怨霊の仕業」と噂する始末だった。

この事案は九州一帯に噂となって広がったが、あまりに残虐かつ惨たらしい事件であったため、報道規制が敷かれ、新聞に掲載することも許されなかった。しかし、一部の住人がこの伝承を後世に伝え、怨霊の危険性が認識された結果、殉教公園やと殉教戦千人塚の新設に至ったのである。

まとめ
儒教公園と殉教戦千人塚は昭和31年に完成。なお、その後も心霊の目撃情報は続いている

約5,000人の魂(遺骨)が眠る地で悪さをすれば、それ相応の報いを受ける

基本情報
心霊スポット殉教戦千人塚
(じゅんきょうせんせんにんづか)
所在地〒863-0017
熊本県天草市船之尾町12
種別戦争
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間40分
【高速】熊本空港から約2時間10分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間5分
【高速】熊本駅から約1時間55分

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· 2019.03.10~12 · 天草・熊本に行ってきました . お地蔵さまに十字架(写真3枚目) 教会に畳 協会と神社とお寺セットの御朱印 和洋折衷な文化がとても新鮮でした · ここまで来るのに何万もの犠牲が出たのかと思うと、色々考え深くなるなと 実際に島原天草の乱で合戦があって、当時のまま残ってる祇園橋を渡った時も(写真2枚目)他の橋とは何かが違って渡るのに勇気がいったし 殉教戦千人塚も(写真1枚目)広々としたところにそこだけ大きな力が宿ってるように感じたし もう400年近く前のことだけど、自分達の信念を貫くために戦った人達の心に少しでも寄り添いたいなと あと、去年の夏くらいからキリスト教関連でずっと学ばせてもらって(GODSPELLで)それも何だか不思議な縁だなって改めて思いました(今回何でここに学びに来たかはまだ詳しいことは言えないんだけども😅) · 最終日はどう頑張っても天草には行けなかったので、ホテルからすごく近かった熊本城へ 6枚目の写真は加藤神社で「加藤清正って槍の名手ってだけでかっこよさ倍増でずるいわー」って言っちゃったから、謝罪と仲直り(加藤清正と)の証に清正くんと。笑 · 今年はちょうど3.11の時に日にちは違えど同じく被災にあってしまった熊本に来させてもらったのは何だか感慨深いもので 石垣が崩れてるのがまだ生々しく残ってて 当時熊本にいた人はあんな立派な城ですら崩れるのを見て、本当に怖かっただろうなと 観光ガイドのおじさんが熊本城復興には20年かかるって言ってて、こっちまで気が遠くなりました その頃に厳かな熊本城を見れたらな がんばれ!熊本! · #天草 #熊本 #祇園橋 #殉教戦千人塚 #天草キリシタン館 #崎津集落 #熊本城

小島 優花(@youca_cosima)がシェアした投稿 -

仏木坂古戦場

天草郡苓北町(れいほくまち)の山中を通過するオレンジロードの一角に『仏木坂(ぶっきざか)古戦場』跡と記された碑が建立されている。

1589年、太閤豊臣秀吉に肥後国の一部を与えられた大名「小西行長(こにしゆきなが)」は、同地の豪族に朝鮮出兵を視野に入れた「宇土(うと)城」の築城を指示するも、拒否される。行長は激怒し、肥後国の北を治める賤ケ岳七本槍のひとり、秀吉子飼いの大大名「加藤清正」と共に大軍勢を率いて天草へ侵攻した。

小西&加藤の連合軍vs豪族五人衆」の合戦は「仏木坂の戦い(天草合戦)」と呼ばれ、後世に語り継がれている。天草の豪族たちは、賊軍として太閤秀吉に組する連合軍を迎え撃った。しかし、勝負は数日と持たずに終結する。豪族たちはことごとく討ち取られ、猛将と恐れられた「木山正親(きやままさちか)」は仲間同士で殺し合い憤死する始末。結局、数百名の捕虜を残し、豪族たちは壊滅した。

連合軍は捕虜にした敵兵数百名をひとり残らず処刑。豪族五人衆が治めた町や集落を回り、死者の実家を調べ上げ、遺体を返した。しかし、供養することは一切許さず、串刺しの後、「実家の目の前に1カ月さらせ」と命じた。

非道な行いに憤慨した一部の遺族は、加藤清正の指示を無視、遺体を清め、供養した。この事実を知った清正は、小西行長の助言を無視し、遺族および親族、近隣住民をまとめてひっ捕らえ、皮剥ぎの刑に処した

老人、女、子供、乳飲み子、あらゆる者が刑の対象となり、執行場所となった河原は地獄の様相を呈したという。この時、娘と乳飲み子を目の前で切り刻まれた母親が、「末代まで呪う。加藤家と小西家への怨みは、あの世に行っても忘れない」と叫び、舌を噛み切った。

仏木坂古戦場で目撃される霊は、「槍を持った鎧武者」「首のない赤子を抱いた女性」など。合戦で戦死した者だけでなく、その後に発生した「粛正」を連想させる霊が多数目撃されており、同地は今も不穏な空気に包まれている。

同地に建立された碑は、木山正親と戦死した兵士たち、そして身内の供養すら許されず、拷問の末に自死した女性やその他関係者を祀るべく建立された、と言い伝えられている。なお、建立者は加藤家滅亡後に熊本藩を治めた細川家と言われているが、真偽は不明。

細川家は舌を噛み切って自死した女性の呪いを恐れた。1600年、関ヶ原合戦で西軍に加担した小西行長は、石田三成らと共に斬首された。その後、長男も処刑され、小西家は滅亡した。

1632年、加藤清正の跡を受け継いだ忠広は、徳川家の調略に飲み込まれ、改易。熊本藩52万石の大大名は呆気なく滅亡した。その後を受け継いだ細川家は、自死した女性が小西加藤両家を滅亡させたと信じ、供養したのである。

しかし、仏木坂古戦場跡地はいまだに怨霊の住処として恐れられている。子供二人を目の前で切り刻まれた母親の怒りと無念を、慰霊碑ひとつで供養できると思ってはいけない。同地で生まれ育ち、この伝承をよく知る老婆曰わく、「女性の怒りは一国を与えられても収まらない、と言い伝えられている。私たちは彼女の怨霊を慰め、成仏させるために、慰霊碑のお参りを欠かさず行っている」と述べた。

まとめ
木山元親と戦死した兵士たち、そして拷問の末に自死した女性の怨みつらみが小西加藤両家を滅ぼした、と私も思う

子供二人を目の前で切り刻まれた母親の怒りが、小さな慰霊碑ひとつで収まると思ってはいけない

基本情報
心霊スポット仏木坂古戦場
(ぶっきざかこせんじょう)
所在地〒863-2502
熊本県天草郡苓北町志岐
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間45分
【高速】熊本空港から約2時間25分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間20分
【高速】熊本駅から約2時間10分

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龍ヶ岳

火の国熊本には様々な伝承や伝説が残されている。日本最大のエネルギー量を誇る「阿蘇カルデラ」や手つかずの大秘境が噂に尾ひれをつけ、「邪馬台国発祥の地」「菅原道真の末裔が生き延びていた」などのとてつもない伝説を生みだした、と考えられている。

不知火湾に面する標高約470mの『龍ヶ岳』は、知る人ぞ知る心霊のホットスポットである。しかし、同地に霊が出現する理由を知る者は少なく、400年以上前から受け継がれてきた伝承は途絶えつつあるようだ。

上天草市で生まれ育ち、ご両親から伝承資料を受け継いだA氏にお話を伺うことができた。曰わく、「龍ヶ岳の山頂付近にかつてあった集落は、火縄銃や槍の製造で巨万の富を得たと言い伝えられている。鍛冶屋もしくは鉄砲鍛冶で生計を立てたいと考える男たちが同地に続々と集まり、その規模は1,000人近くにまで膨らんだ」という。

戦国時代末期、肥後国は太閤秀吉に仕える小西行長および加藤清正の領土になっていた。これに反旗を翻した豪族もいたが、天皇家すら軽々と飲み込み、神の称号(豊国大明神)を与えられた秀吉率いる連合軍に敵うわけもなく、この流れは誰にも止められないと思われていた。

龍ヶ岳の山頂に住む鉄砲鍛冶集団、通称「肥薩(ひさつ)連撃隊」は、小西加藤両家の横暴に怒りを爆発させる。1,000人超とも言われる屈強な鍛冶屋と農民たちは、5,000丁の火縄銃を準備したうえで、両軍を壊滅させるべく行軍を開始した。

しかし、朝鮮侵略に先立ち名護屋(佐賀県)で連合軍の手配や出兵段取りを進めていた秀吉の側近兼軍師「石田三成」が、肥薩連撃隊の動きを察知。三成は、九州中に忍びを放ち、諸国の情勢を探らせていた。その網にかかった鉄砲鍛冶集団は、三成および智将「直江兼続」率いる3,000余りの兵が待ち受けているとも知らず、小西加藤両家の居城付近へ移動を開始した。なお、この時小西行長と加藤清正は名古屋周辺で出城の築城に当たっていた。

肥薩連撃隊は火縄銃や槍の使いに長けた鍛冶屋集団で構成されていた。しかし、日本を代表する二人の天才軍師率いる連合軍が相手であれば、敗北は火を見るより明らかであった。1,000人超の鍛冶屋と農民は、両サイドおよび背後から急襲を受け、わずか1時間あまりで壊滅したという。

名護屋にいた加藤清正は、鍛冶屋たちが謀反を企てたと知り、激高。龍ヶ岳に連行された残党100数名を処罰すべく、兵士500名余りを引き連れ、肥後国に駆け下った。

清正は鍛冶屋たちが製造した火縄銃、それで得た金、若い女子供を全て奪った。そして、謀反を企て生き延びた100数名の男たちに巨大な穴を掘らせ、その中に入るよう指示を出した。この様子を見守っていた三成は、鍛冶屋たちの技術を惜しみ、「一部を城で雇ってはどうか」と助言したが、清正はこれを拒否している。

A氏の資料によると、穴の大きさは直径約10m、深さ約5mだったという。その後、穴の中に収容された100数名の頭上に火縄銃の火薬が大量に投入され、清正本人が火を投げ入れた。穴は炎と爆発に飲み込まれ、男たちの悲鳴が龍ヶ岳の麓までこだました、と記録されている。

龍ヶ岳山頂付近で目撃される霊は、「全身焼けただれた男」「山の中から男たちの悲鳴が聞こえてきた」など。穴の中で消し炭にされた男たちは、連合軍への怨みつらみを忘れず、同地を彷徨っているのかもしれない。

まとめ
龍ヶ岳は心霊のホットスポット。しかし、そこに伝わる伝承を知る者は少ない

肥薩連撃隊の記録はほとんど残されていない。恐らく、加藤清正が文書として残すことを許さなかったのだろう

基本情報
心霊スポット龍ヶ岳
(りゅうがたけ)
所在地〒866-0201
熊本県上天草市龍ヶ岳町大道3360
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間35分
【高速】熊本空港から約2時間25分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間10分
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教良木ダム

上天草市の山中に建設された『教良木(きょうらぎ)ダム』は、バス釣りのメッカとして人気を集めた農業用ダム池である。また、池の麓に「観音の池公園」も整備され、市民の憩いの場になっていた。しかし、昭和50年に運用を開始した直後から心霊の目撃情報が相次ぎ、今では恐怖のスポットとして近づきがたい存在になってしまったという。

教良木ダムの水源「祝口川(いわいぐちがわ)」と「祝口観音の滝」は、江戸時代末期まで「岩賀川(いわががわ)」と呼ばれていた。しかし、戦国時代初頭に発生した大事件の呪いを打ち消したいと考えた住人たちにより、名を改められ、縁起の良い「」の字を使うことになったのである。

肥後国の歴史を研究する某大学准教授のE氏は、教良木ダム近くに住む老婆から頂いた貴重な伝承資料を見せてくれた。それには、「戦国時代、岩賀川(祝口川)の河原周辺は盗賊団の住処になっていた。男たちは周辺集落や町を襲い、金目のものを片っ端から奪った。さらに、捕縛した住人たちを河原近くの田畑に移送し、強制労働を強いた」と書かれている。

岩賀川近くの田畑で強制労働を強いられた住人たちは、ぼろ布をまとい、まともな食事も与えられず、土や葉、昆虫などを食べて飢えをしのいだ。盗賊たちは奴隷を人間として扱わず、結果、餓死する者が相次いだという。しかし、ほぼ毎日新しい奴隷が補充されたため、彼らの扱いが改善されることは全くなかった。

奴隷たちは倒れた仲間の血と肉を喰らい、毎日田畑を耕し続けた。盗賊たちが悪事を始めてから約5年後。周辺住民の失踪事件を調査していた豪族の家臣が、盗賊団の悪事を知り、討伐軍を率いて進軍を開始。盗賊約200人に対し、2,500人の大軍が一斉攻撃を仕掛けた。

豪族の一団は、岩賀川の河原を攻撃拠点にすべく同地に陣を設置。直後、すぐ近くで小さな小屋に収容されている50名超の住人を発見する。しかし、これこそが盗賊のワナだった。

狭く小さな小屋の軒下には、数百キロ相当の火薬、松ぼっくりなどがギッシリ敷き詰められていた。盗賊団の長は、数百名の豪族団が小屋に近づいたタイミングを見計らい、火矢を放った。事前に準備していた導火線が着火し、小屋の軒下に到達。天地を揺るがすほどの大爆発が発生し、小屋の周囲50mほどが爆炎に包まれたという。

総大将を失った豪族の一団は、盗賊たちの急襲攻撃により粉砕された。「盗賊団200人vs豪族団2,500人」の戦いは、盗賊団の圧勝に終わった。一方、敗れた豪族団の兵士たちは、ことごとく捕らえられ、足軽クラスの者のみが奴隷として働くことになった。

家臣、侍大将などは、拉致されていた奴隷の生き残り(約20人)の胃に収まった。この時、奴隷たちは限界を超える空腹状態にあり、残党の肉を生きたまま喰らった

この伝承は江戸時代後期頃まで脈々と受け継がれてきた。しかし、河原周辺で恐ろしい数の霊が出ると噂になった。その後、事態の改善を願う声が相次ぎ、熊本藩に上申した結果、岩賀川の名前は改められ祝口川と呼ばれるようになった。

教良木ダム周辺で目撃される霊は、「山積みにされたバラバラ遺体」「四肢と頭を吹き飛ばされた遺体」など。かなりおどろおどろしい目撃情報ばかりなので、立ち寄る際は注意してほしい。

まとめ
教良木ダム周辺には、戦国時代の戦いで爆死した兵士たちの霊が出現する

良い伝承や縁起の良い名を持つ施設は、過去に起きた悪夢を振り払う目的で改名している、ことが多い

基本情報
心霊スポット教良木ダム
(きょうらぎだむ)
所在地〒861-6105
熊本県上天草市松島町教良木
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
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【高速】熊本空港から約1時間50分
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五木源パーク

球磨郡五木村内を流れる清流「五木小川(いつきおがわ)」の上流は、渓流の女王ヤマメの釣りスポットとして人気を集めている。しかし、一級河川「川辺川(かわべがわ)」につながる最下流域周辺は、古くから心霊スポットとして恐れられ、民家や施設などはほとんど建設されず、長年放置されてきた。

ここで紹介する『五木源(ごきげん)パーク』は、五木小川の最下流域南岸に整備された広大な敷地を有す複合公園である。2015年のオープン以来、子供や家族連れから一定の支持を集め、遠足やハイキング、川遊びなどで利用されるようになった。

同地に処刑場兼拷問場があったことを知る者は少ない。過去の悪夢を忘れたいと考えた周辺住人たちは、処刑場の伝承をタブー視するようになり、その事実を後世に伝えていた者は、ほとんど亡くなってしまった。

五木村の伝承および伝承資料を保存する老婆曰わく、「五木源パークが整備された地は、肥後国の処刑場だった。当時、敵兵の斬首は貴重なエンターテイメントであり、その都度100名以上の集落民が集まる人気イベントだったという。しかし、1599年に発生した川辺川大洪水が事態を一変させた」という。

五木小川の処刑場は、同地を治めた豪族が室町時代初期に整備。斬首刑やまた裂き、火刑などを執り行っていた。なお、伝承資料に死者数は書かれていないが、200年以上処刑場として利用されたことを考えると、数千人が刑に処されたと考えてまず間違いないだろう。

1599年、処刑場の東側を流れる川辺川で大洪水が発生。連日連夜降り続いた大雨の影響で、五木小川の水位も猛烈に上昇したという。この時、最も甚大な被害を受けたのが、五木小川と川辺川の合流する地点周辺だった。

当時、処刑場の近くには大小様々な集落が点在していた。また、この付近一帯と川はほぼ同じ地盤レベルであり、水が溢れれば、水没は免れない。集落は大洪水に飲み込まれ、消滅した。

洪水が発生する2日前、処刑場で罪人5名の斬首が執行され、同敷地内の専用エリアに遺体を遺棄する大穴(深さ15mほど)が掘られていた。ただし、埋葬は干乾しが完了したのち行われるため、2週間後の埋葬日まで穴はそのまま放置されることになった。

大洪水は全てを押し流し、川辺川下流および本流の一級河川「球磨川」におびただしい数の水死体が流れ出した。資料には、川幅の狭いカーブ地点に1,000人以上の水死体が流れ着き、町は大騒ぎになったと記されている。

さらに、処刑場でもとんでもないことが起こっていた。洪水2日前に準備した深さ15mの穴が、激流の影響で大きくえぐり取られ、直径200mほどの巨大クレーターを形成。同地に埋葬されていたおびただしい数の白骨遺体が、周辺を埋め尽くしていたという。

五木源パーク周辺で目撃される霊は、「白骨が山積みになっていた」「鎧武者が生首を持って立っていた」など。斬首刑に処された者や川辺川大洪水で亡くなった者、そして、洪水によって墓を失った者が霊となり、同地周辺を彷徨っている、と私は思う。

まとめ
五木源パークは心霊のホットスポット。同地に処刑場兼拷問場があったことを知る者は少ない

川辺川や球磨川下流域へ流れ出した水死体の処理には3カ月以上かかった

基本情報
心霊スポット五木源パーク
(ごきげんぱーく)
所在地〒868-0203
熊本県球磨郡五木村丙
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間45分
【高速】熊本空港から約1時間25分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間35分
【高速】熊本駅から約1時間35分

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関連サイト人吉球磨ガイド

網場の瀬

熊本県内を「Uの字型」に走る一級河川「球磨川」は、日本三大急流のひとつに数えられる”困難河川”である。急流を生かしたラフティングは球磨川の代名詞として人気を集め、ホリデーシーズンになると毎年多くの観光客で賑わう。

ラフティングのメッカと呼ばれる球磨郡球磨村には、『網場の瀬(あばのせ)』と呼ばれる人気スポットがある。この地点は、球磨川の中でも特に川幅の狭いエリアであり、流れがキツイ。すなわち、ラフティングを楽しむにはピッタリのスポットなのだ。しかし、同地で世にも恐ろしい処刑が行われていたことを知る方は少ない。

肥後国の歴史を研究する某大学准教授のE氏曰わく、「室町時代から戦国時代、球磨川の河原には豪族の処刑場が点在していたとされる。その中でも、川の流れの強い網場の瀬周辺は大量の血と臓物を簡単に処理できたため、肥後国の中でも特に残酷な刑が執行されていた」という。

鋸(のこ)引きの刑」は、南薩摩を支配した島津家や日向国(宮崎県)の伊東家なども行っていた地獄の極刑である。逆さまに吊るされた罪人の股に巨大なノコギリを当て、二人がかりでそれを押し引きする。罪人は股から脳天にかけて身体を真っ二つに切り裂かれ、血と肉、臓物をぶちまけ、死ぬ。

鋸引きの刑は、血や臓物を洗い流しやすい河原や滝の近くで執行されることが多かった。一級河川球磨川では水の心配などする必要もなく、さらに流れの強い網場の瀬であれば、臓物は水の底に沈み、魚のエサになる。

E氏の資料によると、鋸引きの刑は最高レベルの極刑であり、敵兵の将(侍大将クラス)、親殺し、殺人犯、盗賊、その他豪族の定めるルールを犯した者にのみ執行された、と書かれている。

この刑の最も恐ろしい点は、心臓が切り裂かれるまで死ねないことにある。逆さ吊りにされると、血液は頭に集中する。股からゆっくりノコギリで引き裂かれても、血は思ったほど出ず、当然即死できない。さらに、脳天に血が集まり過ぎた状態が排血によって徐々に緩和される影響で、気を失うこともできず、地獄の痛みにさらされ続けるという。

網場の瀬周辺では、400年以上前から霊が現れると噂になり、洪水や飢饉が発生する度、「鋸引きで死んだ者たちの祟り」と恐れられるようになった。E氏曰わく、「鋸引きは人の道に反する地獄の極刑と呼ばれ、江戸徳川幕府の命で廃止された。しかし、ほぼ治外法権状態だった南薩摩地方では、江戸時代中頃まで継続されていた」とのこと。

同地周辺で目撃される霊は、「河原に串刺し遺体がさらされていた」「首のない遺体が川から這い出てきた」など。鋸引きの刑は、対象者に地獄の痛みを与えることができる。しかし、人前で惨たらしく殺される苦しみや怒り、執行者への怨みは怨霊化を招く原因になる

E氏の資料には、球磨川で発生した大規模水害の記録が事細かに記されていた。それによると、球磨川流域で大規模な洪水が発生し始めたのは室町時代末期からであり、それ以前は流量の非常に少ない「枯れた大河」と呼ばれていたという。なお、怨霊の祟りと洪水を結びつける証拠は一切ない。鋸引きの刑が始まった時期と洪水が発生し始めた時期が一致するのは恐らく偶然だと思う。

まとめ
網場の瀬周辺の河原では、鋸引きの刑と呼ばれる地獄の極刑が執行されていた

球磨川の流量が増加した時期と、鋸引きの刑が始まった時期は偶然にも一致する

基本情報
心霊スポット網場の瀬
(あばのせ)
所在地〒869-6403
熊本県球磨郡球磨村大字一勝地
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
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【一般道】熊本空港から約2時間5分
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関連サイト球磨村観光サイト
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かくれ念仏

人吉・球磨地方を支配した相良藩による「浄土真宗」の弾圧は、室町時代末期から始まり、明治政府誕生までの約300年に渡って行われた。

浄土真宗弾圧の歴史は、キリシタン関連事件の陰に隠れてしまい、意外と知られていない。しかし、江戸時代後期に発生した「天保の大弾圧」を筆頭に、数十万人もの信者が信教の自由を奪われ、数千人が拷問の末に処刑、憤死したことを忘れてはならない。

ここで紹介する『かくれ念仏』は、人吉市街地を流れる球磨川沿いに建立された供養碑である。既に述べた通り、人吉・球磨地方では300年に渡って浄土真宗が不当に弾圧され、信者は改宗を迫られた。寺やそれに関連する施設はことごとく焼き払われ、改宗せぬ者は拷問ののち処刑されたのである。

改宗すると宣言し、許しを得た者の大半が隠れ浄土真宗信者、通称「一向宗」になった。表向きは仏教を信仰していると思わせつつ、隠れて浄土真宗を支持したのである。それに伴い、関連する施設や寺院なども建立された。

人吉と相良藩の歴史を研究する歴史家のA氏曰わく、「一向宗の団結力の強さは織田信長も恐れたほどであり、噂は日本中に広まっていた。相良藩は仏教に改宗した者たちを許しつつ、監視だけは怠らなかった。結果、浄土真宗の教えを広めようとする隠れ一向宗が定期的に捕縛された。同様の事案が何十回も続いたことに藩主は怒り、一向宗殲滅を決断した」という。

A氏の知人が保管する人吉地区の伝承資料によると、1833年から始まった相良藩の取り締まりで百数名の一向宗が過酷な拷問を受けたという。かくれ念仏碑のある球磨川の河原に移送された一向宗たちは、石打ちや百叩き、水責め拷問などに処された。

この際、多くの一向宗が改宗を誓うと宣言し、執行官たちに許しを請うた。しかし、禁教であることを知ったうえで布教活動を200年以上続けていたこと、また、仏教に改宗した、と藩主を長年欺き続けたことで、「一向宗は信用できない」というイメージが定着していた。

拷問は一向宗の身内に対しても行われた。両親や兄弟、親族なども捕縛され、老若男女関係なく、拷問死させられたという。この時、百叩きの刑に処された娘を守ろうとした母親は、生きたまま串刺しにされた。

ある者はかくれ念仏碑の破壊を強要された。これを拒否すると、両親兄弟もろとも火刑に処され、20人以上が串刺し状態で同時にあぶられた。あまりの惨状に見学者たちも頭を抱え、泣き出す者が後を絶たなかったという。

かくれ念仏碑周辺で目撃された霊は、「僧侶たちが碑の前で念仏を唱えていた」「河原の近くに串刺し遺体が放置されていた」など。

1835年に発生した天保の大弾圧でも、同地は拷問兼処刑場として利用された。信教の自由を奪われ、拷問の末に憤死した者たちは、まず間違いなく怨霊になる。また、霊は令和の時代になっても頻繁に目撃されている。死者たちは納得しておらず、現世に姿を現し続けるのだろう。

まとめ
かくれ念仏碑は、最期まで浄土真宗の教えを守り憤死した信者を祀る供養碑である

浄土真宗大弾圧の歴史はキリシタン関連事件の陰に隠れているが、かなり強烈な規模で実施されていた

基本情報
心霊スポットかくれ念仏
(かくれねんぶつ)
所在地〒868-0041
熊本県人吉市七地町329
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間20分
【高速】熊本空港から約1時間40分
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【一般道】熊本駅から約2時間10分
【高速】熊本駅から約1時間40分

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関連サイト熊本県観光連盟 公式ホームページ
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鹿目の滝

鹿目(かなめ)の滝』は、人吉市鹿目町を流れる「鹿目川」中流域に形成された高さ約35mの滝である。「日本の滝百選」に選ばれたことで知名度が増し、夏になると涼を求める観光客で大変賑わう。

同地で起きたおぞましい伝承を知っている者は、滝はおろか周辺に近づくことすら拒む。人吉の歴史を研究する歴史家のA氏は、戦国時代に発生したある殲滅戦と滝の関係を指摘した。曰わく、「1570年、南薩摩地方で猛威を振るった盗賊団が相良藩の治める集落を襲撃。10の集落が壊滅し、死者は500人以上、女子供は行方不明になった。相良藩は一千人規模の大隊を編成し、盗賊団のアジトを捜索。鹿目川中流域にあることを突き止めた」という。

相良藩の大隊は鹿目の滝へ進軍。滝の上部に裸の女子供たちが立たされている場面に出くわす。不審に思った兵士たちは恐る恐る滝つぼに近づいた。すると、滝上部に身を隠していた盗賊たちが、100人以上の女子供を滝つぼに突き落とした

人質にされていた女子供たちは、ひとり残らず岩や水面に叩きつけられ、死んだ。その直後、盗賊たちによる弓矢と投石攻撃が開始された。兵士たちは必死に身を隠し、ある者は反撃したが、高さ35mのハンデはあまりに大きく、また、足元が悪いことも災いし、相良藩の大隊は壊滅した。

数週間後、相良藩藩主は他の豪族に応援を頼み、3,000人規模の大軍を編成。盗賊たちを血祭りにあげるべく、鹿目の滝を目指した。隊は3分割ののち、逃げ道を完全に封鎖。兵士たちは皆怒り狂い、「盗賊の肉を喰らいつくす」と吠える者までいたという。

目的地付近に到着した兵士たちは、滝つぼの中で折り重なるように積まれた遺体の山を発見。あまりの惨さと悪臭に、兵士の多くがその場で嘔吐し、近づくことすらためらった。

ゆっくり前進すると、ひとりの兵士が恐ろしいことに気づき、悲鳴を上げた。足元を流れる川の水が紫色に濁り、川魚などの生き物が一匹残らず死んでいたのである。A氏の資料には、滝つぼの遺体を処理するのに1カ月以上かかったと書かれていた。

盗賊団と思われる120人の遺体も、同じく滝つぼの中から発見された。さらに、兵士数百名が腐りきった滝つぼの水に触れたことで謎の疫病を発症。相良藩藩主は鹿目川下流域の住人に、川の水の利用を控えるよう命じた。

しかし、下流域でも既に原因不明の疫病が蔓延しており、数百名が死亡。さらに、川の水を田畑に引いたことで、米や野菜などの作物も大打撃を受けた。その年、鹿目集落一帯で発生した大不作、そして大飢饉により、数百名が餓死した。

鹿目の滝周辺で目撃される霊は、「子供を抱いた女性が滝つぼに身を投げた」「滝つぼの中から男や女たちが這い出てきた」など。なお、盗賊団を成敗した者の正体は分からずじまい、人々は怨霊の呪いと噂し、滝に近づくことを恐れるようになった。

まとめ
鹿目の滝の伝承を知る者は少ない。凄惨な伝承が良いうわさ話で上書きされた結果だと思う

腐りきった鹿目川の水の影響で、数百から一千人以上が謎の疫病に感染、命を落とした

基本情報
心霊スポット鹿目の滝
(かなめのたき)
所在地〒868-0078
熊本県人吉市鹿目町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
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【一般道】熊本空港から約2時間25分
【高速】熊本空港から約1時間40分
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【一般道】熊本駅から約2時間10分
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関連サイト人吉球磨観光ガイド

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佐敷古城址

肥後国を治めた「加藤清正」は城造りの名人と言われ、南部地域に築城した「佐敷花岡城(さしきはなおかじょう)」は、攻略不可能な名城と呼ばれた。

佐敷花岡城跡には立派な石垣が今も残る。その歴史的価値を認められ、「国の史跡」にも指定された。しかし、同花岡城の東側に『佐敷古城址(こじょうし)』と呼ばれる戦国時代以前の遺構があることはあまり知られていない。

この遺構はその名の通り、加藤清正が築城した同花岡城誕生以前に存在した古城である。築城年は不明、戦国時代の城主、相良氏(相良藩)と島津家の戦いにより落城したと言い伝えられている。

葦北(あしきた))郡出身で某大学教授を務めるT氏が、同地に古くから伝わる伝承資料を見せてくれた。曰わく、「佐敷古城は相良藩に仕えていた家臣、内ノ原(うちのばる)氏が治めていた。1578年、九州平定を狙う島津家が同古城周辺に侵略し、一戦交えることになった。籠城戦を選んだ内ノ原氏は、島津家の猛攻をことごとく跳ね返し、敵軍に甚大な被害を与えた」とのこと。

鬼島津こと「島津義弘」は、この敗戦に怒り狂った。しかし、正面からぶつかっても堅牢な城は中々落とせないと悟り、内ノ原氏に調略を仕掛けた。翌年、佐敷古城内で内紛が発生したスキを見計らい、島津軍1,500人が正面突破を試みた。

調略は見事に成功し、内ノ原氏は首を献上。さらに裏切りに走った一部の家臣団は、城主の一族全員を捕縛するという離れ業を成し遂げた。これを見た義弘は、河原で公開処刑を行うと指示を出した。

内ノ原氏は勇猛果敢かつ、相良藩への忠義を貫き通した名将として知られ、義弘も「敵将ながらあっぱれ」と賛辞を贈るほどの男だった。公開処刑の日、河原に移送されてきたのは、内ノ原氏を裏切り、その家族まで喜んで手にかけようとした裏切り者の家臣団だった。

島津義弘は調略行為を悔い、謀反によって殺された内ノ原氏を丁重に供養。その家族は、ひとり残らず相良藩に送り届けた。その代わりに、城主をあっさり裏切り、迷うことなく叩き切った家臣団に謝礼として、地獄の拷問死をプレゼントしたという。

家臣団は島津家の実力にひれ伏し謀反を企てたのだが、義弘はこの行為を良しとしなかった。「裏切り者を雇えば、いずれ自分が裏切られる。忠義に欠ける行為を平然と行い、自分だけは助かりたいと考える邪な者に生きる価値はない。格別の死を与えてやる」とT氏の資料に書かれていた。

河原で繰り広げられた凄惨な拷問は、見学者たちを震え上がらせた。家臣団は両手足の爪を引き剥がされ、その後1本ずつ切断。さらに、全身の皮を剥がされたのち串刺し、最後は30分以上かけてじっくり焼き殺されたという。

鬼島津の鬼っぷりを見た住人たちは、「九州は島津の手に落ちる」と確信し、世にも恐ろしい処刑は九州中の噂になったそうだ。なお、落城後荒れ地となった佐敷古城址周辺で目撃される霊は、「血だらけの鎧武者」「人魂」など。

恐らく、地獄の拷問の末に憤死した家臣団たちは怨霊になったはず。古城の南、処刑場として選ばれた「佐敷川」周辺でも霊の目撃情報が相次いでいる。興味のある方は古城址と一緒にチェックしてほしい。

まとめ
佐敷古城址は、内ノ原氏が治めた相良藩の城跡

鬼島津により地獄の拷問は、死者の怨霊化を招いたと言い伝えられている

基本情報
心霊スポット佐敷古城址
(さしきこじょうし)
所在地〒869-5432
熊本県葦北郡芦北町大字宮浦
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間
【高速】熊本空港から約1時間5分
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②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間45分
【高速】熊本駅から約1時間15分

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関連サイト芦北町町観光協会 公式ホームページ
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芦北太陽光第2発電所

芦北太陽光第2発電所』は、葦北(あしきた)郡芦北町(あしきたまち)の山中に建設されたメガソーラー発電所である。スパークス・グリーンエナジー&テクノロジー社(SGET)が建設し、同郡および周辺地域に電力を供給している。

発電所が建設される以前から、同地は心霊スポットとして注目されていた。目撃された霊は、「顔のない男の集団に追いかけられた」「血だるま状態の男が襲いかかってきた」など。侵入者に敵意を向ける霊の目撃情報が多く、危険な雰囲気に包まれている、と噂になっていた。

葦北郡出身の某大学教授T氏曰わく、「同地は九州を代表する流刑地(るけいち)のひとつである。しかし、山の奥に流罪を言い渡された罪人がいることを知っていた住人は少なかったそうだ。江戸時代、流罪によって同地で困窮生活を余儀なくされた80人の男たちは、苦しすぎる自給自足生活に耐え兼ね、逃亡を図った。しかし、それを目撃した住人が役人に通報。罪人たちの逃亡作戦は失敗に終わった」という。

流罪と言えば「島流し」が有名である。しかし、南九州地方では、人目に付きにくい「山奥での幽閉」が一般的だった。そして、「流罪=終身刑」であり、死ぬまで流された土地で生活しなければならない。当然、食事や洗濯は自分で行い、食料も自分の力だけで確保する必要があった。つまり、罪人たちは生き残る可能性の低い過酷な土地に放置され、餓死の恐怖と死ぬまで戦わねばならなかったのである。

流罪を言い渡され、同地で生活していた80人は山を下り、肥後国の繁華街を目指した。しかし、通報を受け待機していた役人たちは逃亡者たちをことごとく捕縛。藩主はこの報を受け、罪人たちに厳しい処罰を下した。

T氏の保管する伝承資料によると、罪人80人は太陽光発電所が建設された地に”かつて”あったとされる高さ50mほどの断崖頂部へ移送。絶対に助からない拷問を受けたのち突き落とされ、死んだと書かれていた。

拷問方法は至ってシンプルである。まず全身を焼かれ、半死半生状態にされる。そのあと、崖から突き落とされるのだ。この処刑方法の最も恐ろしい点は、即死できない可能性があることだった。崖を猛スピードで転がり落ち、頭から地面に叩きつけられれば、死ぬ。しかし、足から落ちるなどした約半数は死ぬことができず、苦しみ続けた。

役人たちは、崖の下が野犬の住処になっていることを知っていた。全身を焼かれ、墜落の影響で骨を砕かれた罪人たちは、野犬に生きたまま喰われ、絶命した。なお、遺体の回収は一切行われず、同地に捨て置くのがルールだった。

芦北太陽光第2発電所周辺に出没する霊は、同地で生きたまま野犬に喰われ憤死した罪人たちの可能性が高い。明治時代、周辺集落でおぞましい霊を見た、という噂が広まり、死者の軍勢が町に不幸をもたらす、と恐れられるようになった。

事態を重く見た当時の役人と集落の長は、流刑地跡地の東に「石神観音」を建立。人間以下の扱いを受け、拷問ののちに憤死した者たちを祀り、怨霊の怒りを収めたという。

まとめ
芦北太陽光第2発電所は心霊のホットスポット。なお、敷地内への立ち入りは関係者以外不可

流刑地で人間以下の扱いを受け、生きたまま野犬に喰われた罪人たちは、怨霊になった

基本情報
心霊スポット芦北太陽光第2発電所
(あしきたたいようこうだい2はつでんしょ)
所在地〒869-5576
熊本県葦北郡芦北町大字高岡
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間30分
【高速】熊本空港から約1時間30分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間20分
【高速】熊本駅から約1時間40分

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関連サイトくまもん 公式ホームページ
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まとめ

今回は天草郡他3市2郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

火の国熊本には、様々な伝承や伝説が残されている。ご先祖様から受け継がれた伝承資料は貴重なものばかりだ。歴史の教科書や文献には載っていない情報が記されていることも珍しくなく、調査の都度驚かされる。

日本中の心霊スポットを巡り、「良い噂や伝承ほど信用できないものはない」と思い知らされた。天照大神や神武天皇、恋愛成就など、人気の出そうな噂を流せば、人が集まる。つまり、「良い噂を流す=悲惨な出来事や悪夢を上書きしたい」のだ。

心霊スポット巡りの旅はまだまだ続く。最後までお読みいただきありがとうございました。

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