心霊スポットの種類は様々である。戦争に関連する遺構、何らかの事件や事故が発生した現場、墓地など、種類を挙げれば枚挙にいとまがない。

共通している点はひとつ。「そこで誰かが命を落とした」ということだ。その中でも、現世に悔いを残して死んだ者、怨みつらみを募らせて憤死した者ほど危ない、と私は信じている。

私は自分の目で何度も怨霊を目撃し、憑りつかれた。その影響で40度超の高熱、吐き気、下痢、倦怠感に襲われ、死にかけたこともなる。

怨霊は当該地に入ってきた者を襲う。心霊スポットを探索する際は、そのことを念頭に置き、行動してほしい。

今回は島原市他、計6市の最恐心霊スポット12カ所(PART2)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.島原市
   ・焼山園地
   ・しまばら火張山公園

 2.大村市
   ・玖島崎古墳
   ・萱瀬ダム
 3.諫早市
   ・平家と大杉の里
   ・五家原岳
 4.東彼杵郡
   ・小峰城址
   ・木葉不浮淵
 5.北松浦郡
   ・小値賀空港
   ・三柱神社
 6.西海市
   ・美崎アパート跡
   ・平原キリシタン墓碑公園

まとめ

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焼山園地

島原市中央部、標高703mの「舞岳」の麓に『焼山(やけやま)園地』と呼ばれる公園がある。なお、園内通路の一部は、「雲仙普賢岳の噴火(1991年)」で破損、通行止めになっている。

焼山園地では霊の目撃情報が相次いでいる。ただし、噂は1991年以前から流れていたため、雲仙普賢岳の噴火災害が原因とは考えられていない。

島原市で生まれ育ち、代々伝わる貴重な伝承資料を保管するT氏にお話を伺った。曰わく、「焼山園地周辺には隠れキリシタン専用の聖堂があったと言い伝えられている。洞窟を利用して造られた聖堂は、同地周辺に潜伏するキリシタンたちの心のよりどころだった」という。

1732年、九州地方は稲穂を食い尽くすウンカ(害虫)が数年前から大量発生し、深刻な食糧不足に苦しめられていた。島原藩も他藩と同じく、米や作物の確保に苦労し、領民たちは酷くやせ細っていた

当時、キリスト教は禁教令(1613年)の施行により、肥後国島原周辺でもかなり厳しく取り締まられていた。しかし、一部の隠れキリシタンたちは信仰する宗教をうまく偽り、弾圧から逃れていた。

焼山園地近くの「花山集落」には、洞窟を利用して造られた隠れキリシタン専用の聖堂があり、信心深い信者たちが住みついていたという。しかし、集落人口が急激に増加したことで、いつしかキリシタンの隠れ家になっていると噂されるようになった。

花山集落の住人たちは、害虫や干ばつに強い作物を好んで育てていた。さらに、食糧難に備えた準備も万全で、野菜などの作物は塩漬けや乾燥させ、大量に備蓄していたという。

島原半島の飢饉が深刻なレベルに達しても、花山集落の生活はほとんど変わらなかった。住人たちは互いに助け合い、備蓄を一切無駄にすることなく飢饉に対処したのである。

ある日、花山集落を取り仕切っていた丸野氏という庄屋が、飢えに苦しむ人々を助けようと住人に提案した。

住人の8割は提案に反対し、賛成したのは2割にも満たなかった。しかし、庄屋はキリストの教義に従い、苦しむ人々を助けるべきだと繰り返し主張した。

反対する者たちを取りまとめる強硬派は、下手に行動すると花山集落を危機に陥れると主張。丸野氏の提案を却下し、集落の同意なしに行動することを禁じた。

後日、丸野氏は数名の仲間を引き連れ、保存食の一部を周辺集落に運ぼうとした。しかし、それを目ざとく見つけた強硬派は、花山集落の出口付近で丸野氏たちを捕縛した。

捕縛された丸野氏は秘密裁判にかけられた。T氏の伝承資料によると、これは強硬派のみが参加できる私刑裁判で、キリスト教の教義から外れた非道行為だったという。

丸野氏は聖堂で祈りを捧げたいと懇願した。しかし、強硬派はこれを拒否。飢える人々を助けたい、という丸野氏の言い分も全て無視した。

数日後、丸野氏とその仲間たちは、全身の皮を剥ぎ取られたうえで、火刑に処された

強硬派は丸野氏たちの処刑を公表せず、遺体は雲仙普賢岳の火口近くまで移送、遺棄したという。

以来、聖堂付近および普賢岳周辺では霊が頻繁に目撃されるようになった。これまでに目撃された霊は、「男たちの悲鳴が聞こえた」「道端に遺体が転がっていた」など。

まとめ
焼山園地の聖堂は、1792年に発生した普賢岳の山体崩壊で破壊された

強硬派たちは厳しい弾圧に怒りを募らせ、仲間たちを処刑するほど過激化した

基本情報
心霊スポット焼山園地
(やけやまえんち)
所在地〒855-0078
長崎県島原市北千本木町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】長崎空港から約1時間20分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間25分
【高速】長崎駅から約1時間20分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト島原市 公式ホームページ

しまばら火張山公園

雲仙普賢岳の東に位置する『しまばら火張山(ひばるやま)公園』一帯は、1792年に発生した「島原大変肥後迷惑(しまばらだいへんひごめいわく)」の被災地である。

この大災害により、島原藩だけで1万人超が死亡。有明海を挟んだ肥後国には高さ数十メートルの津波が襲来し、五千人以上が飲み込まれたと言い伝えられている。

大災害以来、しまばら火張山公園周辺は荒れ果て、人の住み着かない土地になった。しかし、復旧作業を継続した結果、少しずつ住人が戻ってきたという。

私は九州の某大学で教授を務めるA氏に連れられ、島原市上折橋町(かみおりはしまち)在住のU氏というご夫婦を訪ねた。U氏は名家の血を引く大地主である。彼の祖先は島原大変肥後迷惑の難を運よく逃れることができたらしい。

U氏曰わく、「島原大変肥後迷惑から40年後。現在公園のある折原橋地域には、小さな集落が何カ所か形成されていた。土砂災害の傷跡はまだ残っていたものの、作物の収穫に成功する者が増え、集落は40年前の状態に戻りつつあった。しかし、ある災害が発生したことで、集落の住人たちはひとり残らず消え、以来、同地に人が住むことはなかった」という。

1835年、島原藩は1万人以上が死亡した土砂災害から何とか立ち直りつつあった。隣国に避難していた住人たちも少しずつ戻り、住居や田畑の再整備が進められたのである。

1836年、石高回復に向けて尽力する島原藩藩主の松平家は、信じがたい悪夢と対峙していた。関東、東北地方の飢饉が西日本にまで広がり、領民たちを苦しめ始めたのである。

松平氏は、厳しい藩の情勢を踏まえ、領民に「今年の税は全て免除する。可能な限り食料を備蓄せよ」と御触れを出した。

しかし、土砂災害から復興したばかりの町や村に食料を蓄える余力は全くなかった。さらに、数年前から米の収穫量が著しく減少していたため、飢饉は恐ろしい勢いで領民を襲った。

折原橋地域の小さな集落は、飢饉の影響で壊滅寸前だった。住人たちは飢え、雑草や虫、小動物などで何とか飢えをしのいだものの、事態は際限なく悪化した。

餓死寸前の住人たちは島原藩に助けを求めた。しかし、藩は有明海に近い繁華街エリアの飢饉対策に忙殺され、百名程度の集落にかまっている余裕はなかった。

住人たちは付近の雑草、犬、猫、小動物を食い尽くしたが、飢えは満たされず、半死半生状態だった。それでも助けは一切来ない。

死を覚悟した住人たちは、道端に打ち捨てられた遺体を分け合った。しかし、肉や内臓を生で食べた結果、原因不明の疫病が発生。体力のない老人や子供はひとり残らず力尽きた。

生き残った者たちは、死んだ家族や友人の遺体で腹を満たし、ギリギリのところで踏ん張っていた。

しかし、飢饉は半年以上続き、折原橋地域の集落は陥落した。

1年後、島原藩の役人たちによる調査が実施され、集落内で多数の人骨が発見されたという。

しまばら火張山公園周辺で目撃される霊は、「赤子を抱いた女性が立っていた」「人骨が山積みにされていた」など。

まとめ
しまばら火張山公園の周辺エリアは
土砂災害で壊滅。さらに、復興が進んだ直後の飢饉で再び壊滅した
同地周辺は霊のホットスポットである。恐らく、土砂災害と飢饉で死亡した住人たちが霊になって現れるのだと思う

基本情報
心霊スポットしまばら火張山公園
(しまばらひばるやまこうえん)
所在地〒855-0076
長崎県島原市上折橋町1465-2
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】長崎空港から約1時間20分
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②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間25分
【高速】長崎駅から約1時間20分

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玖島崎古墳

長崎県大村市は、鎌倉時代頃から明治時代まで同地を治めた大名、「大村一族」の町である。

大村氏は九州屈指のやり手大名として有名だった。ただし、島津家のように飛びぬけた武勇を持っていたわけではない。この一族は、最も安全と思われるルートを判断する能力に長け、小大名でありながら、厳しい時代を生き抜いたのである。

ここで紹介する『玖島崎(くしまざき)古墳』は、大村湾に面した小さな半島の先端に位置する古墳である。6世紀頃に築造されたと考えられているが、詳細は分かっていない。

この古墳およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。目撃された霊は、「生首を持った鎧武者が立っていた」「大村湾沿いに生首が並べられていた」など。

私は、大村市で生まれ育ち、大村一族と遠い血縁関係にあるというF氏の自宅を訪ねた。F氏曰わく、「玖島崎古墳奥の湾には、大村氏の処刑場があったと言い伝えられている。大村氏は大きな大名家ではなく合戦巧者でもなかったため、戦いはジリ貧の連続、いつ滅んでもおかしくない状況だった。しかし、情報戦の巧みさは九州一と言われ、敵国に恐ろしい噂を流し、侵攻を躊躇させる作戦を好んだ」という。

大村氏は鞍替え(裏切り)の名手だった。豊臣秀吉の九州征伐時には誰よりも早く領土を献上した。しかし、関ヶ原の戦いでは豊臣家をあっさり見限り、東軍(徳川家康)に加担、領土を安堵された。

さらに、明治維新が達成された時には、九州最速で官軍へ忠誠を誓い、西南戦争でも大活躍したのである。この卓抜した鞍替え能力の高さは、戦国時代に形成されたものと考えられている。

戦国時代、大村氏は肥前国周辺の豪族から幾度となく合戦を仕掛けられていた。豪族たちは大村湾の豊かな海の幸を手に入れたいと考え、漁場として整備された大村氏の領土を狙っていたのである。

大村氏はジリ貧ながらも勝利を収め続けた。しかし、豪族家をひとつ滅ぼしても、次の敵がすぐに現れ、新たな合戦が勃発する。

情報戦に長けていた大村氏は、玖島崎古墳に拷問兼処刑場を整備した。そして、敵兵の捕虜を残虐極まりない方法で拷問・処刑し、その噂を周辺に広めたのである。

大村氏は、南九州の覇者、島津家も採用した拷問処刑「鋸(のこ)引きの刑」と火刑を組み合わせた新処刑、「内臓焼き」を導入。公開処刑の様子を見た住人たちは、敵兵が死にゆく様子を庄屋や商人に広めた。

執行人は、逆さ吊りにした敵兵の股間にさび付いた長いノコギリを当て、引く。肉と骨をゴリゴリ削られ、敵兵は痛みのあまり小便と大便を垂れ流したという。

島津家の鋸引きは、そのまま脳天まで真っ二つに切り裂く。しかし、大村氏は痛みと恐怖を倍増させるため、鋸が内臓近くに達した時点で、敵兵の身体を横向きに変え、内臓が飛び出しかけた状態の腹を弱火であぶり焼きにした

F氏の資料によると、腹を焼き始めると、切り裂かれた面(傷)の失血が止まり、痛みと苦痛を長引かせる効果が高かったという。腹を焼き始めてから30分以上生き続けた者もおり、「大村氏に合戦を挑むと大変な目に合う」という噂は瞬く間に広まった。

大村氏は内臓焼きで数百人を葬ったと言い伝えられており、遺体は解体したのち、大村湾に遺棄した。

地獄の拷問を受けて憤死した者は、怨霊になる。惨たらしい最期を迎えた敵兵たちは、今も同地周辺を彷徨っているのかもしれない。

まとめ
玖島崎古墳の近くにあった処刑場では、残虐極まりない拷問処刑が行われていた

大村氏は内臓焼きで数百人を葬り、結果、同地は怨霊のホットスポットになった

基本情報
心霊スポット玖島崎古墳
(くしまざきこふん)
所在地〒856-0834
長崎県大村市玖島1
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】長崎空港から約15分
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②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間
【高速】長崎駅から約35分

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関連サイト大村観光ナビ

萱瀬ダム

萱瀬(かやぜ)ダム』は、郡岳の麓に端を発する「郡川」の上流域に建設された治水ダムである。ダム湖の底に沈んだ「萱瀬村」のことを忘れないために、この名がつけられたという。

私は友人のシャーマン(鹿児島県出身)が萱瀬ダム近くで除霊の依頼を受けたと聞き、同行させてもらうことにした。理由は同ダムが霊のホットスポットになっている、と噂されていたためである。

大村市黒木町在住のY氏は、萱瀬村の最後を見届けたひとりである。Y氏曰わく、「萱瀬村には一部の関係者のみに伝わる言い伝えがあり、他言無用とされてきた。が、これを知る者は私以外、皆死んでしまった」という。

Y氏の話によると、萱瀬村ではかなり頻繁に霊が目撃されていたという。さらに、ダム湖の底に沈んだ後も、霊は健在だった。

これまでに萱瀬ダムで目撃された霊は、「ダム湖から女性が這い出てきた」「赤子を抱いた女性が水面の上に立っていた」など。

1862年、萱瀬村の東側に「田下村」と呼ばれる小さな集落があった。両村は水源の権利を巡って数十年前から争っており、殺し合いに発展することも珍しくなかったという。

ある日、田下村一番の美女と言われた「フミ」が萱瀬村の「長左衛門」と男女の仲になり妊娠、大騒ぎになった。

未婚で貫通しても罪には問われない。しかし、保守的(閉鎖的)な地域では、あっという間に噂が広まり、身分の低い女性は「淫売」「娼婦」などと嘲笑され、酷い場合は殺されてしまうこともあった。

田下村で最も裕福な家庭の四女だったフミは、父親に寵愛されていた。一方、萱瀬村の長左衛門は名のある庄屋の次男だった。

フミの父親は「萱瀬村の百姓風情に娘を強姦された」と怒り狂い、水源確保と敵の殲滅を心に決めた。血の気の多い若者や友人たちはこの案に大賛成し、両村の争いは大規模な騒乱に発展した。

これに対し萱瀬村では、「淫売女に村の大切な男を奪われた」と憤慨。結婚など到底認めることはできず、「フミと赤子を殺せ」という意見が上がった。

数日後の晩、槍や斧で武装した萱瀬村の男たちが田下村を襲撃。これに対し、田下村の住人たちも猛反撃し、死者十数名を出す殺し合いに発展した。

騒乱を制したのは萱瀬村だった。フミの父親と武器を持つ仲間数名、そして女と子供が捕縛された。

長左衛門の父親は、問題を起こした息子に責任を負わせるべく、「田下村の住人をひとり残らず殺し、フミに引導を渡せ」と命じた。

処刑(私刑)は郡川の上流域で行われた。長左衛門は、捕縛された男女計50名の両目をくりぬき、耳と鼻を削ぎ落し、斧で脳天を叩き割った

捕縛された状態で処刑を見届けたフミは、怒りのあまり破水し、いつ出産してもおかしくない状態だった。

長左衛門はフミの腹を横にかっさばき、中から赤子を取り出した。断末魔の悲鳴を上げたフミは、人間とは思えぬほど目を見開き、長左衛門の喉元に喰らいついた

長左衛門は頸動脈を噛み切られ、死亡。魔獣のように怒り狂うフミは、槍で全身を貫かれ、憤死した。

その後、体内から取り出された赤子とフミの遺体は解体、郡川に遺棄された。

まとめ
田下村は萱瀬村の襲撃を受け、壊滅。この惨殺劇は、萱瀬村のタブーになった

ダム湖に現れる女性の霊はフミと思われる

基本情報
心霊スポット萱瀬ダム
(かやぜだむ)
所在地〒856-0012
長崎県大村市黒木町2-5
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】長崎空港から約25分
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②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間15分
【高速】長崎駅から約45分

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平家と大杉の里

平家一族は「壇ノ浦の戦い」で源氏に敗れ、滅びた。しかし、生き延びた家臣や兵士、親族、関係者などが山口県から九州に逃げ込み、落ち人になったと言い伝えられている。

ここで紹介する『平家と大杉の里』は、長崎県に伝わる平家落ち人伝説の地のひとつである。国の天然記念物「女夫木(めおとぎ)の大杉」近くに位置し、小さな広場の中の墓が不穏な空気を醸し出している。

諫早市小川町で生まれ育ち、先祖代々続く伝承資料を受け継いだT氏曰わく、「同地の平家落ち人伝説は、恐らくまゆつば物だと思われる。ただし、平家の血を引く者がいると噂になり、奇怪な事件が発生したことは事実。結果、小さな広場に墓が建立され、死者たちを祀るようになった」という。

平家と大杉の里では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「刃物を持った男に追いかけられた」「墓の近くに生首が並べられていた」など。

1819年、同地の集落で生活していた次郎衛門は、猪や鹿などを狩り、その皮や肉などで生計を立てていた。

彼は誰よりも真面目に働く男だった。狩りだけでなく、農作業、薪の販売などにも力を入れ、独り身とは思えないほど裕福な暮らしをしていたという。

見上げるほどの大男だった次郎衛門は、素晴らしい体躯の持ち主でもあった。山で切った太い丸太を両肩に担ぎ、毎日何キロも運搬していたため、並の侍では手も足も出ないほどの腕力と脚力を有していた。

次郎衛門は集落の男たちに妬まれていた。整った顔と筋骨隆々の身体は周辺集落や繁華街中で話題になり、女性から羨望のまなざしを向けられていたのである。

ある日、浪人と思われる男たちが次郎衛門の自宅を襲撃、集落は大騒ぎになった。

次郎衛門は刀を抜いた男たちに素手で対峙、傷ひとつ負うことなく全員を叩き伏せてしまった。

次郎衛門の大立ち回りは繁華街から城下町に伝わり、珍し者好きの女性たちが筋骨隆々の男を追いかけ回した。しかし、当の本人は騒ぎに一切興味を示さず、黙々と仕事に励んだ。

浪人たちとの大立ち回りから数週間後、城下町は不穏な空気に包まれていた。「次郎衛門は平家の落ち人の末裔」で、肥前藩藩主、鍋島氏の首を狙っている、という噂が流れたのである。

鍋島藩諫早領の役人数十名が次郎衛門の自宅を包囲、投降を促した。

野次馬たちは大立ち回りを期待した。が、次郎衛門は一切抵抗せず、おとなしく捕縛された。

数日後、次郎衛門は厳しい取り調べを受けたものの、平家の落ち人という証拠は見つからず、解放された。城下町はまたしても沸きに沸き、正々堂々と取り調べを受けた男を称賛した。

次郎衛門は平家の落ち人」という噂を流したのは同じ集落の男たちだった。彼らは嫌がらせをさらっと受け流す次郎衛門の態度に怒り、直接攻撃に打って出た。

男たちの遺体は、集落の外れにある広場で発見された。

その死に様はすさまじく、全員目を見開き、口はこの世のものとは思えないほど酷くねじ曲がっていた。さらに、首だけでなく四肢、腰、胴体までバラバラに切り刻まれ、体内からむしりとった内臓が周囲に散乱していた。

次郎衛門は忽然と姿を消し、以来、その姿を見た者はいなかったという。

まとめ
平家と大杉の里内にある墓は、惨殺された男たちを祀るために建立された

次郎衛門はどこからともなく現れ、同地に住み着いた男だったと言い伝えられている

基本情報
心霊スポット平家と大杉の里
(へいけとおおすぎのさと)
所在地〒854-0053
長崎県諫早市小川町
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】長崎空港から約40分
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②アクセス
【一般道】長崎駅から約50分
【高速】長崎駅から約35分

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画像はイメージです

五家原岳

五家原岳(ごがはらだけ)』は、多良山系の南に位置する標高1,057mの山である。山頂まで道路が整備されており、見晴らしの良い展望台は週末になると思いのほか混雑するという。

五家原岳は「霊の住む山」と言い伝えられてきた。しかし、見晴らしの良い山頂はテレビやラジオなどの基地に適していたため、道路と無線アンテナが整備され、霊が出没するという言い伝えは忘れ去られてしまった。

長崎県の歴史を研究する某大学教授のS氏曰わく、「江戸時代、五家原岳に逃げ込んだ隠れキリシタンたちは、山頂付近でひとり残らず捕縛、処刑された。以来、この山は霊山と呼ばれるようになり、近づいてはいけないと教えられた。同地で憤死したキリシタンは100名以上、山頂付近は霊の住処になった」という。

1613年、肥前藩諫早領を治めていた鍋島氏は、禁教令に従い、キリスト教ヘの取り締まりを激化させていた。

五家原岳のはるか南、諫早領の端に「長田集落」という小さな村があった。

長田集落の住人たちは、信仰する宗教を上手く偽り、キリシタンであることを一切表に出さなかった。しかし、火のないところに煙は立たない。間もなく鍋島藩の取り調べが始まる、という噂を聞きつけた住人たちは、隠れ家への退避を決断した。

住人たちは荷物をまとめて五家原岳に向かった。

山の中腹付近に数十年かけて造った手作りの聖堂洞窟は、万一の時のみ、隠れ家として使用すると決められていた。

住人たちはグループに分かれて行動し、目的地を目指した。しかし、鍋島氏の追撃は目の前に迫っており、一刻の猶予のなかった。

長田集落をまとめていた庄屋は、数人の選抜メンバーと共に林道を逆行。住人たちの逃亡時間を稼ごうとした。

しかし、数名の素人が屈強な兵士たちに構うわけもなく、庄屋たちは生け捕りにされてしまった。

部隊は逃亡した住人たちを執拗に探し回ったものの、結局見つけることはできなかった。

数日後、五家原岳の山頂付近に移送された庄屋たちは、住人の隠れ家を白状すれば命だけは助けると最後通告を受けた。

庄屋は最後通告を無視した。しかし、選抜した仲間のひとりが隠れ家の位置を自供。住人約100名はひとり残らず捕縛された。

鍋島藩の取り調べは徹底していた。改宗を誓う者にキリストの絵を踏ませ、さらに、唾と小便をかけるよう指示したのである。

改宗に応じた約半数は、泣きながらキリストの絵を汚した。

応じなかった者たちは全身の皮と肉を削ぎ落され、弱火でジワジワと炙り殺された。彼らの悲鳴は麓も集落まで届き、住人たちを震え上がらせたという。

この時、兵士たちは、改宗に応じた者たちの挙動を見逃さなかった。一人の女性が胸元で十字を切ったのである。

兵士たちは、「キリシタンからキリストの教義を奪うことはできない」と判断した。口では改宗したと誓っても、心の中までチェックすることはできないのである。

結局、改宗に応じた者たちもひとり残らず処刑され、遺体は五家原岳山頂に遺棄、野生動物のエサになった。以来、この山にキリシタンの霊が現れると噂になり、霊山と呼ばれるようになった。

まとめ
五家原岳は霊の住む山と呼ばれていた

鍋島藩は処刑したキリシタンの供養を許さず、死者の怒りを買った、と言い伝えられている

基本情報
心霊スポット五家原岳
(ごかはらだけ)
所在地〒859-0102
長崎県諫早市高来町折山
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】長崎空港から約55分
【高速】長崎空港から約55分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間10分
【高速】長崎駅から約1時間

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東彼杵郡目次に戻る

小峰城址

私は大学教授兼歴史家のK氏に連れられ、東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)川棚町のある老夫婦を訪ねた。

九州各地で様々な事件を起こしたとされる賊集団「跖(せき)」の資料は、これまで熊本県(肥後国)と大分県(豊後国)での調査時に確認していた。

川棚町の中央部を縦断する二級河川「川棚川」沿いに『小峰城址(こみねじょうし)』という城跡がある。小峰城は謎に包まれた山城で、大村藩とつながりのある後藤氏が築城したと言われているが、それを証明する資料は見つかっていない。

同町で生まれ育ち、貴重な伝承を受け継いだM氏曰わく、「小峰城は江戸時代以前に何らかの理由で破却もしくは落城し、石垣や石段などはそのまま残された。同地を治めた大村藩藩主の大村氏も、利用価値のない小峰城跡地を当然放置した」という。

1786年、同地の詰所で休憩していた役人数名が行方不明になり、後日遺体となって発見された。

5人はいずれも首と四肢を切り取られ、陰茎と睾丸までえぐり取られていた。さらに、えぐり取られた陰茎と睾丸は被害者の口内に詰め込まれていたという。

事件発生を受け、大村氏の家臣、前田氏に使える兵士20名が現地に出動、調査を開始した。しかし後日、兵士20名はひとり残らず行方不明になり、全く同じ手口で殺された。

被害者の額には「卍(まんじ)」という文字が刻み込まれていた。しかし、それ以外に手掛かりと言えるようなものは何一つなく、大村氏は大隊による山狩りを指示した。

山狩りは同地を含む彼杵(そのぎ)地方一帯で行われた。なお、有益な情報をもたらした者およびその者が暮らす村は未来永劫税を免除する、と御触れが出回り、領民たちは血眼になって容疑者を探した。

数週間後、容疑者のアジトが判明した。周辺集落の住人が、兵士15名と対峙する容疑者の姿を目撃したのである。

大隊を率いる前田氏は震え上がった。住人によると、容疑者の大男は、たったひとりで15名の兵士を叩き切り、解体したのである。翌日現場を調査したところ、15名分のパーツが発見された。

大男は小峰城跡へと続く林道に入り、姿を消した。前田氏は大隊を三分割し、各地に配置。小山の上に立つ小峰城跡を完全に包囲した。

兵士たちは狭い林道を駆け上がり、小峰城跡めがけて突進した。前田氏は山の麓から侵攻の様子をチェックし、満足した

前田氏は兵士数十名を引き連れ、林道の入り口に向かった。

先頭を進む足軽5名の首が吹き飛び、兵士たちは槍を構えた。目の前に現れた大男は、人間離れした動きで兵士たちを次々と叩き切り、前田氏を除く計30名が首を献上した

大隊は小峰城跡を難なく制圧した。が、そこには崩れかけた石垣や石段以外、何もなかった。

その後、大隊は山を下り、前田氏に仕えていた直属部隊30名の遺体を発見。なお、前田氏の遺体はなかった。

数日後、怖いもの見たさで小峰城跡を訪れた周辺集落の住人が、前田氏の遺体を発見した。

前田氏は顔を除く全身を固い何かで押しつぶされ、肉塊になっていた。そして、額には卍、口内にはえぐり取られた陰茎と睾丸が詰め込まれていたという。

後日、容疑者の大男は跖と名乗る賊集団の頭であることが判明。大村氏は男の首に賞金を懸けた。

まとめ
小峰城址で目撃された霊は、「人魂」「本丸跡に生首が並べられていた」など

大男の正体は分からずじまい。跖がその後どうなったかも不明である

基本情報
心霊スポット小峰城址
(こみねじょうし)
所在地〒859-3612
長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】長崎空港から約45分
【高速】長崎空港から約45分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間40分
【高速】長崎駅から約55分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト川棚町観光ガイド
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木葉不浮淵

多良山系の麓に端を発する二級河川「千綿川(ちわたがわ)」の中流域に『木葉不浮淵(このはうかばずふち)』という不思議なスポットがある。

ここは千綿渓谷内にある48の淵(水がよどみ深くなった場所)のひとつであり、霊の目撃情報が相次いでいる。

これまでに目撃された霊は、「血だらけの妊婦が立っていた」「遺体が浮いていた」など。

同地の伝承に詳しい老夫婦にお話を伺った。K氏曰わく、「江戸時代末期、世の中は乱れ、同地の男女も乱れた。情事を求める男女は、千綿川の中流域、人目に付きにくい淵周辺を密会の場として利用した。しかし、ある男女が悲惨な死を遂げたことで、淵に近づく者はいなくなった」とのこと。

木葉不浮淵は不倫関係にある男女が愛し合うスポットだったらしい。K氏の言う通り、淵周辺は人目に付きにくく、水も使い放題である。池(淵)に入り身体の汚れを落とせば、情事の証拠も消えてなくなるはずだ。

1843年、千綿川の南に「蕪(かぶ)集落」と「木場集落」というふたつの村があった。

蕪集落をまとめていた村原氏の妻、「サエ」は、木場集落の百姓、「五郎右衛門」と不倫関係にあり、夜な夜な密会していた。

五郎右衛門は村一番の美男子で、サエより8歳も若かった。しかし、大地主の村原氏に嫁いだサエも、切れ長の目と白く透き通った肌、そして女性らしい丸みを帯びた身体は、彼杵(そのぎ)の城下町で噂になるほどだった。

サエと五郎右衛門は、人目を気にせずに愛し合える千綿皮の淵で密会を重ねた。情事を終えた後は、淵に入り身体の汚れを落とせば証拠は消える。しかし、二人は監視者がいることに全く気付いていなかった。

村上氏は頻繁に外出するサエの不貞を疑い、腕の立つ元武士に監視を依頼していた。結果、妻は見事に不倫していたのである。

当時、不倫は重罪中の重罪。裏切れた夫が妻と間男を殺害しても罪には一切問われなかった

なお、夫が復讐をためらった場合は、代わりに役人が制裁を下した。ただし、夫が妻の死を望まない場合、示談で解決することもできたという。

村上氏は、示談も役人による斬首刑も望まず、自らの手で裁きを下すと心に誓っていた。

数週間後、何も知らないサエと五郎右衛門は、いつものように千綿川の淵で愛し合った。

その様子を監視していた男たちは、情事が終わったタイミングに合わせて二人を襲撃、捕縛した。

村上氏は現場にサエの両親を招き、「娘の不倫は事実である」と記した書類にサインさせた。

村上氏は五郎右衛門の心臓を突き、殺害した。さらに、男たちに遺体を解体させ、その肉と内臓をサエの口に押し込ませたのである。

サエは、愛した男の肉と内臓を何度も口に押し込まれ、窒息寸前だった。しかし、男たちは手を喉の奥につっこみ、体内に無理やりそれを放り込ませた。数時間におよぶ拷問の結果、サエの腹は妊婦のように膨らみ、破裂しかけていた

満足した村上氏は、サエの腹を何度も踏みつけ、とどめを刺した。

まとめ
木葉不浮淵は霊のホットスポット。感じやすい人は近づかない方がよいかもしれない

拷問死したサエの遺体は、よどんだ淵の底に沈んだ、と言い伝えられている

基本情報
心霊スポット木葉不浮淵
(このはうかばずふち)
所在地〒859-3924
長崎県東彼杵郡東彼杵町太ノ浦郷
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】長崎空港から約35分
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②アクセス
【一般道】長崎駅から約1時間25分
【高速】長崎駅から約50分

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小値賀空港

五島列島の北エリアに位置する「小値賀島(おぢかじま)」は、人口2,200人ほどの小さな島である。

ここで紹介する『小値賀空港』は、同島と九州本土を結んでいた地方空港である。なお、現在定期便は運航しておらず、警察や自衛隊の緊急ヘリの離着陸などでのみ使用されている。

小値賀空港周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。ターミナルビルおよび滑走路エリアに立ち入ることはできないが、施設内も恐らく同じ状況だと思われる。これまでに目撃された霊は、「空港の入り口に生首が転がっていた」「男性の悲鳴が聞こえた」など。

小値賀島で生まれ育ち、現在は長崎市内で生活するU氏にお話を伺った。曰わく、「小値賀島は今でこそ観光客を受け入れているが、昔は閉鎖的(保守的)な島だった。結果、島の伝承や事件は九州本土にはほとんど伝わらず、他言無用とされてきた」という。

小値賀空港は島の南東端に位置し、周辺に民家はほとんどない。しかし、200年ほど前までは集落が密集し、比較的の往来の多いエリアだったという。

1824年、小値賀島の東部、海に面したエリアに「筒間(つつま)集落」と呼ばれる小さな村があった。住人たちは漁や野菜作りなどで生計を立て、慎ましく助け合いながら生活していた。

筒間集落の中でひと際身体の大きい「治右衛門」は、数年前に突然現れた新参者だった。しかし、誰よりも一生懸命働き、困っている高齢者がいれば些細なことでも力を貸すなど、誰にでも優しく接する男だったため、皆に信頼されていた。

治右衛門は朝早く漁に出発し、釣り上げた魚を小値賀島の繁華街、筒間集落の西4kmほどの位置にある漁港エリアなどで販売した。

整った顔と筋骨隆々の身体で魚を売る治右衛門は誰よりも目立ち、特に女性客から圧倒的な人気を集めた。彼が誰にでも分け隔てなく接する優しい大男、という噂は島中に広まっていたのである。

島一番の人気者になった治右衛門は、一部の男たちから妬まれていた。特に若い連中は、島の女性が一人の男を追いかけ回していることが気に食わなかった。

1年後、治右衛門は繁華街で出会った女性と結婚した。

当時、小値賀島の未婚率は3割を超え、特に男性はパートナー探しに苦労していた。島で生まれ育った若い男たちは、新参者の大男に島一番の器量と言われた女性を奪われ、激高した。

若い男たちは木刀などで武装し、筒間集落に乗り込んだ。集落の住人の大半は高齢者であり、黙って様子を見守るしかなかった。

治右衛門は一切抵抗せず、住人たちの目の前でボコボコにされた。暴行は数時間におよび、若者たちが持ち込んだ木刀は治右衛門を打ちのめし過ぎたため、1本残らずへし折れてしまった。

数週間後、治右衛門は何事もなかったかのように仕事を再開した。暴行の後、妻と住人たちがボロボロになった大男を必死に看病したのである。

若い男たちは普段と変わらぬ治右衛門の姿を見てさらに激高し、妻を襲撃した。そして、酷く辱めた上で首を掻き切ったのである。

事件の翌日、治右衛門は小値賀島から姿を消した。

小値賀島を治めていた福江藩は、行方不明になった男たち、計20名分の遺体を筒間集落の外れの海岸で発見した。

男たちの顔は人相を判別できないほど腫れあがり、歯は1本も残っていなかった。さらに、四肢は何かで引きちぎられ、ゴミのように打ち捨てられていたという。

住人たちは犯人を知っていたが、役人たちには知らぬ存ぜぬを通した。

まとめ
小値賀空港は霊のホットスポット。ただし、霊が出没する理由を知る者は少ない

福江藩は犯人探しに奔走したが、未解決のまま闇に葬られた

基本情報
心霊スポット小値賀空港
(おぢかくうこう)
所在地〒857-4704
長崎県北松浦郡小値賀町前方郷
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】長崎空港から約5時間
【高速】長崎空港から約5時間40分

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②アクセス
【一般道】長崎駅から約5時間
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#日本の空港 #小値賀空港 #長崎県 本日、長崎県の小値賀島にある、小値賀空港に行ってきました。 1985年に開港し、福岡・長崎とを結んでいたようですが、残念ながら2006年に定期便が廃止された後、現在まで定期便はありません。 ただ、自家用飛行機の受け入れや救急搬送のヘリでの移送などもあるため、空港職員が常駐しているようで、誰もいないと思ったのでちょっとびっくりしました。 滑走路の周りはもちろんフェンスに覆われて立ち入ることはできませんが、外周を歩くことができ、北側部分などは波打ち際にも非常に近く、滑走路と海の両方を感じることができるという貴重な体験ができます。 今日は天気も良く、とっても心地良い飛行機巡りの旅となりました。

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三柱神社

日本最強の大怨霊神「大国主(オオクニヌシ)」を祀る神社は、霊のホットスポットになっていることが多い、と私は思う。

日本を治めていた大国主は、「天照大神(アマテラス)」の圧力に屈し、現世から冥界へ追放、怨霊になった。そして、現世に甚大な被害(飢饉、洪水、疫病)をもたらし、この怒りを抑えるべく「出雲大社」が建立されたのである。

大国主の祟りを恐れた人々は、「全知全能の神」「天皇家の祖」である天照大神を祀る「伊勢神宮」より巨大かつ立派な出雲大社を、大怨霊神の怒りを抑えるためだけに建立した。それほど大国主を恐れたのである。

北松浦郡佐々町(さざちょう)に建立された『三柱(みはしら)神社』も大国主を祀る神社である。

神社には結界(しめ縄と鳥居)が張られており、霊や怨霊は近づけないと考えられている。しかし、同社は霊のホットスポットになっている。なぜか?

長崎県で生まれ育ち、大学教授兼歴史家として活動するK氏曰わく、「三柱神社で発生した事件は、同地のタブーと言われている。事件を起こした容疑者たちは、酷く疲弊した集落を不幸のどん底に叩き落しただけでなく、あろうことか、三柱神社の境内でおぞましい姿になって発見された。容疑者たちは恥知らずの愚か者と呼ばれ、事件を語り継ぐ者はほとんどいなかった」という。

1836年、東北・関東エリアから広まった飢饉は、九州でも猛威を振るっていた。同地を治めていた平戸藩(ひらどはん)は、領民を守るべく税の免除や米以外の農作物の栽培等を奨励したが、飢えを回避することはできなかった。

三柱神社の東に位置する「小野中集落」の収穫量は例年の5割程度まで減少したが、米や野菜にありつけるだけマシだった。他の集落では雑草や土を食い、餓死した者もいたため、贅沢は言えなかったのである。

小野中集落の住人たちは、平戸藩仲介のもと、米や農作物を他の集落に配分してもらった。この善行に藩主の松浦氏は大変感動し、住人たちを褒め称えたという。

数週間後、素性不明の男たちが小野中集落の庄屋や商店を襲った。男たちは女性数名を捕縛したうえで、「米と作物を全てよこせ」と要求した。

庄屋は要求を拒否できず、貴重な食料を奪い取られてしまった。女性たちは無事だったものの、食料がなければ餓死は避けられない。住人たちは追いつめられた。

小野中集落の噂は周辺集落に伝わり、多くの援助がもたらされた。以前、命を助けてもらった者たちは、山菜と動物の肉を持参し、保存方法まで教えてくれたのである。

しかし、またしても小野中集落は悲劇に見舞われた。数週間前に米と作物を奪った男たちが再び現れたのである。

男たちは「食料を全てよこせ」と要求。しかし、住人たちはこれを拒否し、結果、10名が切り殺された。

村長は大切な友人たちを奪われ、憤怒の炎を燃やした。しかし、高齢であることがたたり、体調を崩してしまう。翌日、村長は涙を流しながら、逝った

生き残った住人数十名は男たちに決死戦を挑むと決め、最期の神頼みを行うべく、三柱神社に向かった。

三柱神社の惨状は想像を絶するほど惨く、悲惨なものだった。それを見た住人たちはその場で嘔吐し、気を失う者までいたという。

男たちの遺体は腹から下が粉々に爆散していた。さらに、吹き飛んだ内臓が口内に押し込まれており、目と鼻と耳からミンチ上になったそれがあふれ出していた。

最も恐ろしかったのは、下半身を吹き飛ばされた遺体が等間隔で配置されていたことだった。

平戸藩は男たちの身元と容疑者を探した。が、容疑者につながる証拠は何一つ見つからず、男たちの素性も分からずじまいだったという。

事件から1年後、住人たちは村長の怨みつらみが事件を解決したと信じ、三柱神社の掃除やお参りを村の大切な行事として執り行うようになった。

まとめ
三柱神社の祭神は日本最強の大怨霊神、大国主である

男たちに裁きを下した者は見つからずじまい。ただし、小野中集落の住人たちは答えを知っていた

基本情報
心霊スポット三柱神社
(みはしらじんじゃ)
所在地〒857-0341
長崎県北松浦郡佐々町羽須和免404
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】長崎空港から約1時間40分
【高速】長崎空港から約1時間10分

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【一般道】長崎駅から約2時間15分
【高速】長崎駅から約1時間25分

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関連サイト佐々町 公式ホームページ
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美崎アパート跡

彼杵(そのぎ)地方の西にある小さな有人島は、九州の高度経済成長期を象徴するエリアである。

有人島のひとつ、「蛎浦島(かきのうらしま)」は炭鉱の島と呼ばれ、昭和30年頃には人口25,000を突破。学校はもちろん、映画館や商業施設、住宅が乱造し、街は熱気に包まれた。

しかし、エネルギー革命の影響で石炭は過去のものとなり、炭鉱は閉山。施設や住宅の大半が姿を消した。ここで紹介する『美崎アパート跡』もそのひとつである。

同アパート跡およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「血だらけの女性が立っていた」「道端に生首が転がっていた」など。

蛎浦島で生まれ育ち、現在は福岡県博多市中央区で生活するT氏にお話を伺った。T氏は、「蠣浦郷(かきのうらきょう)付近は、私たちが生活していた頃から心霊スポットと呼ばれていた。ただし、炭鉱の関係で島に移り住んだ人たちは、霊が出没する理由を知らない。聞いてはいけない、という暗黙のルールがあったためである」と述べた。

聞いてはいけない」と言われると、聞きたくなるのが人間の性(さが)である。

戦国時代、蛎浦島は辺境の島と呼ばれ、島民の数は非常に少なかった。そのため、領土争いしていた豪族たちもそこにはほとんど注意を向けず、ほぼ無政府状態だったという。

当時、島を支配していた豪族くずれの盗賊は、島民と協力して九州本土や他の島に侵略、米や作物、若い女などを略奪していた。

盗賊をまとめていた大男は人間離れした力の持ち主で、武装した兵士50名をひとりで叩き切ったこともある猛者だった。島民たちは大男の陰に隠れ、ありとあらゆる悪事に手を染めたのである。

蛎浦島が若い女の楽園になっているという噂が九州本土に流れると、もの好きな庄屋や武士たちが集まるようになった。盗賊たちは生け捕りにした女の身体で金を稼ぎ、さらにとんでもない娯楽を提供した。

使い物にならなくなった女の「解体ショー」は、東シナ海沿いで行われた。盗賊たちは見物客のリクエストに応え、金を払えば自分で解体を体験することもできたという。

ショーを盛り上げたのは女たちの悲鳴だった。もの好きな変態男たちは、固縛された女の身体を木の枝や棒で何度も叩き、泣き叫ぶ声を聞く度に大喜びした。

変態男たちを一番盛り上げたのは大男だった。

大男は半死半生状態の女の肛門を引き裂き、そこに丸太のような腕を突き立て、内臓を全て引きずり出した。この常軌を逸した処刑は九州本土でも話題になり、客が押し寄せたという。

1586年、九州を平定すべく出陣した豊臣軍は、蛎浦島で行われていた解体ショーの噂を聞き、盗賊たちに「是非、虐殺シーンを見せてほしい」と頼んだ。

盗賊たちは天下人の申し出に嬉々として応じ、若い女を連れて豊臣軍本陣に出頭した。

その後、蛎浦島の盗賊たちはひとり残らず姿を消し、解体ショーに関わった住人たちは、彼杵地方を治めた大村氏に処刑された。なお、九州征伐中の豊臣軍本陣に出頭した大男と部下たちがどうなったかは誰も知らない。

まとめ
解体ショーは三崎アパート跡近くの海岸で行われていた

拷問死した女性たちは怨霊になり、同地周辺を彷徨っている

基本情報
心霊スポット美崎アパート跡
(みさきあぱーとあと)
所在地〒857-3101
長崎県西海市崎戸町蠣浦郷805
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
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平原キリシタン墓碑公園

西海市西彼町(せいひちょう)を水源とする二級河川「大明寺川(だいみょうじがわ)」の上流域に『平原キリシタン墓碑公園』と呼ばれる古墳型の公園がある。

同町は隠れキリシタンの里と呼ばれ、戦国時代末期頃からキリスト教を信仰する者たちが集まり、コミュニティを形成したと言い伝えられている。

同地で生まれ育ったキリスト教信者のO氏は、「平原キリシタン墓碑公園の墓(古墳)は、キリスト教信者のために造られたものではない。同地でひっそり暮らしていた隠れキリシタンたちは、ひとりの男に守られ、生き永らえることができた。彼らはその男のために、巨大な古墳を造ったのである」と述べた。

先に述べた通り、同墓碑公園は古墳型である。すなわち、ひとりの男を祀るために、わざわざ小高い丘(古墳)を造り、その頂部に専用の墓を建立したというのだ。

1830年、平原郷(ひらばるごう)と呼ばれる地域の中に、「居初(いそめ)集落」という小さな村があった。住人たちの先祖は、200年ほど前に同地を切り開き、隠れキリシタンの村を造ったのである。

ある日、やせ細った大男がふらふらと集落の中に入ってきた。住人たちは身の危険を感じ警戒態勢をとったが、大男は言葉を発することなく、倒れてしまった。

住人たちは大男を集会所に運び、寝床と食事を与えた。

1か月後、体力を取り戻した大男の「治左ヱ門」は、住人たちに受けた恩を返すべく、馬車馬のように働いた。畑仕事、漁、狩猟、伐採、何でも軽々とこなし、O氏の伝承資料によると、その様子を見た老婆が「村中の男が束になっても敵わない」と大喜びしたという。

治左ヱ門の常人離れした体力と腕力は、居初集落の宝となり、村は大いに栄えた。

この時、居初集落の様子をコッソリ伺っていた隣村の男がいた。男は住人のひとりが手作りの十字架を持っていることに気づいた。

この男は治左ヱ門を監視しろと指示されていた。が、流れ者の監視をその日のうちに終え、急いで集落に戻った。

男は村長に見たことを全て伝え、「水源奪取の交渉材料になる」と提案。村長も居初集落の脅迫に賛成し、行動を開始した。

居初集落の住人たちは、「水源を譲らねば、藩主に隠れキリシタンが潜んでいることを報告する」という脅迫を受け入れざるを得なかった。

数日後、彼杵地方藩主、大村氏の指示による隠れキリシタン狩りが始まった。

居初集落の住人たちはキリスト教に関連するものを全て処分し、来たるべき時に備えた。しかし、何日経っても大村氏の部隊は現れなかった。

数週間後、大村氏の部隊が現れ、「隣村から奪われた水源は居初集落のものである、と藩主が保証した」と伝え、去っていった。

後日、隣村の村長が脅したことを泣きながら詫び、「治左ヱ門という男に感謝する」と述べた。

治左ヱ門は隣村に潜んでいた数名の隠れキリシタンたちを守るために、大村氏の部隊を襲撃。キリスト教の伝道師であると名乗り、部隊の兵士数十名を素手で叩き伏せ、自首したという。

藩主はキリスト教の伝道師を捕縛したと大喜びし、取り締まりは打ち切られた。

居初集落と隣村のキリシタンたちは、見晴らしのよい大明寺川沿いに数年がかりで丘を造り、その頂に墓を建立した。なお、治左ヱ門の遺骨は回収できなかったため、居初集落に残していった遺品が埋葬されたという。

まとめ
平原キリシタン墓碑公園の墓は、治左ヱ門という流れ者のために建立された

治左ヱ門がキリシタンだったか否かは誰にも分からない

基本情報
心霊スポット平原キリシタン墓碑公園
(ひらばるきりしたんぼひこうえん)
所在地〒851-3315
長崎県西海市西彼町平原郷
種別事故
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
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【一般道】長崎空港から約1時間35分
【高速】長崎空港から約1時間20分

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【一般道】長崎駅から約55分
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まとめ

今回は島原市他、計6市の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

心霊スポットを探索する予定の方は、除霊グッズ、お花、お線香、お供え物をお忘れなく。最後までお読みいただきありがとうございました。

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