コンテンプト・オブ・コート 5-31
アンカレッジの夜は、まだ冬の名残を引きずっていた。
市内を見下ろす丘の上に建つマリベル裁判官の邸宅は、周囲の住宅から距離を置き、濃い針葉樹の陰にひっそりと佇んでいた。門扉の脇には監視カメラが設置され、玄関へ続く石畳の両側には、手入れの行き届いた植え込みが並んでいる。
黒いセダンが門の前に停まった。
コールはコートの襟を立て、インターホンを押した。しばらくして門が開く。コールは慣れた足取りで玄関へ向かった。
ドアを開けたのは、ジューン・アトキンソンだった。裁判官の秘書として長年仕えてきた女は、コールの顔を見るなり、露骨に眉をひそめた。
「裁判官は忙しいの。帰りなさい」
コールは足を止めた。アトキンソンを見下ろすように、口元だけで笑う。
「あなたの許可が必要なのか?」
「あなたのような小者が市長になるなんて、世も末ね」
コールの笑みがわずかに深くなった。
「俺とあなたは同類ですよ。二人とも裁判官の下僕でしょう」
「何ですって?」
アトキンソンの声が鋭くなった。しかし、コールはもう彼女を見ていなかった。
コールは返事を待つこともなく、玄関を抜けて廊下を進んだ。壁には落ち着いた色調の絵画が掛けられ、磨き上げられた床には間接照明が柔らかな光を落としている。どこを見ても隙がない。そこに暮らす主人の性格を、そのまま建物にしたような邸宅だった。
「コール!」
背後からアトキンソンが呼んだが、コールは振り返らなかった。
突き当たりの部屋の扉は、半開きになっていた。
マリベルは書斎の机に向かっていた。眼鏡の奥の目が、コールを静かに捉えた。机の上には書類が整然と積まれ、傍らには手つかずのコーヒーが置かれている。
「珍しく詰めが甘かったわね」
挨拶はなかった。
コールは扉を閉め、部屋の中央まで歩いた。普段は余裕を崩さない男の顔に、ほんのわずかな硬さが残っていた。
「……秘書の名前が出ましたが、裁判官がいれば何の問題もありません。カーターの運命は裁判官次第です」
マリベルは書類から目を上げた。
「世間を甘く見ないことね」
「もちろんです」
コールは両手を軽く広げた。
「特に最近はSNSに要注意だ。あっという間に情報が広がる。誰かが一度投稿すれば、翌朝には何万人もの目に触れる。事実かどうかなんて、その後の話です」
「だから何?」
マリベルは冷ややかに言った。
「あなたは真面目にすべきことをすればいい。私の裁判に口出しは無用よ」
コールは口を閉じた。
その言葉が意味するものを、コールは理解していた。マリベルは自分の領域を侵されることを嫌う。ましてや、法廷で何をどう裁くかについて、外部の人間から指図されることなど許さない。
だが、コールにも譲れないものがあった。
「私は、裁判官の判断を疑っているわけではありません」
「なら、余計な心配をする必要もないでしょう」
マリベルは再び書類に視線を落とした。会話を終わらせる合図だった。
コールはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「承知しました」
廊下に出ると、アトキンソンが壁際に立っていた。彼女は何も言わず、敵意を隠そうともせずにコールを見ていた。
「お互い、忙しいですね」
コールはすれ違いざまに言った。
「あなたと一緒にしないで」
「それは残念だ」
コールは玄関を出た。
冷たい夜気が頬を打つ。門へ向かいながら、コールはポケットから携帯電話を取り出した。画面には新しい通知がいくつも表示されていた。ニュースサイトの速報、SNSの投稿、見知らぬ番号からの着信。
コールは画面を眺め、眉を寄せた。
情報は、金や権力よりも速く動くことがある。一度ネット上に広まった情報を、完全に消し去ることは難しい。
車に乗り込む直前、コールは邸宅を振り返った。
窓の向こうに人影はなかった。
マリベルは、自分の判断に絶対の自信を持っている。コールもまた、自分の政治的な立場が彼女の権力に支えられていることを知っていた。
コールは携帯電話をポケットにしまい、エンジンをかけた。
