コンテンプト・オブ・コート 1-11
アンカレッジ近郊。
午後。
ハイウェイを一台の黒いSUVが走っていた。
運転席にジム。
助手席にマイク・ハンター。
道路の両側には雪が残っている。
四月に入っていたが、アラスカの冬はまだ終わっていない。
雪解け水が路肩を流れ、道路には黒い水たまりが続いていた。
ジムは速度を落とさなかった。
前方に大型トラックが一台。
追い越し車線へ移る。
「寝てないだろ」
ジムが言った。
「寝た」
「何時間?」
「二時間」
「それを寝たとは言わない」
マイクは窓の外を見ていた。
遠くに山が見える。
雪を残した斜面。
その向こうに、低い雲がかかっている。
「あとどれくらいだ?」
「三十分」
「近いな」
「アンカレッジは逃げない」
「昔は逃げた」
ジムがマイクを見る。
「何が?」
「何でもない」
ジムは前を向いた。
しばらく車内にエンジン音だけが続いた。
マイクはポケットから黒い手帳を取り出した。
表紙を開く。
名前。
会社名。
数字。
銀行口座。
いくつもの書き込み。
その中に、アンカレッジの住所がいくつかあった。
マイクは一つずつ確認した。
ジムが横目で見る。
「それが例の手帳か」
「ああ」
「誰が送ってきた?」
「分からない」
「差出人は?」
「ない」
「指紋は?」
「調べた」
「何か出た?」
「何も」
ジムは少し考えた。
「便利な手帳だな」
「そうでもない」
「なぜ?」
「名前しかない」
「名前があれば調べられる」
「問題は、その名前が何を意味するかだ」
マイクは手帳を閉じた。
「誰が味方で、誰が敵かも分からない」
「だから俺がいる」
「頼んでない」
「ヒューイに言え」
マイクは黙った。
ジムが笑う。
「お前とヒューイは昔からああなのか?」
「昔からだ」
「似てるな」
「どこが?」
「二人とも人の話を聞かない」
マイクは窓の外へ視線を戻した。
「お前もな」
「そうかもな」
道路が緩やかに下る。
前方に標識が見えた。
ANCHORAGE。
マイクは標識を見た。
何も言わなかった。
ジムは速度を少し落とした。
「ここから市内だ」
マイクは頷いた。
窓の外に建物が増えていく。
ガソリンスタンド。
倉庫。
自動車販売店。
道路脇には雪を押し固めた跡が残っていた。
アンカレッジの市街地が近づく。
マイクは腕時計を確認した。
「事務所は?」
「候補がある」
「古い建物だ」
「何階建て?」
「四階」
「状態は?」
「よくない」
「家賃は?」
「安い」
マイクは笑った。
「それでいい」
「本当にそこでやるのか?」
「やる」
「弁護士事務所だぞ」
「知ってる」
「探偵事務所でもある」
「それも知ってる」
「看板は?」
「まだ決めてない」
ジムは何も言わなかった。
ハイウェイを降りる。
交差点を抜ける。
市街地へ向かう道路に入った。
マイクは窓を少し開けた。
冷たい空気が車内へ入る。
煙草を吸うためではない。
空気を確かめるように、しばらくそのままにしていた。
ジムが言った。
「寒いぞ」
「分かってる」
「閉めるか?」
「まだいい」
マイクは目を細めた。
街の匂いがした。
雪。
排気ガス。
湿った道路。
そして、記憶に残っている何か。
二十年前。
自分はこの町を出た。
それから一度も戻っていない。
マイクは目を閉じた。
一瞬だけ、古い建物の階段が頭に浮かんだ。
母親の声。
名前を呼ぶ声。
だが、マイクは目を開いた。
「マイク」
ジムの声だった。
「何だ?」
「着いたぞ」
マイクは前を見た。
道路の先に、アンカレッジの市街地が広がっていた。
高層ビルは少ない。
低い建物が道路沿いに並んでいる。
その向こうに山がある。
マイクは手帳をコートの内側へしまった。
「行こう」
ジムがハンドルを切った。
SUVは市街地へ入っていった。
マイクは一度だけ、バックミラーを見た。
追ってくる車はなかった。
だが、それで安心する理由もなかった。
