コンテンプト・オブ・コート 1-16
階段を上がるたびに、床板が鳴った。
四階まで来ると、廊下の空気が変わった。三階までは空室が多かったが、ここだけは人の出入りがある。壁際に段ボール箱が積まれ、古い事務机が二つ置かれていた。煙草の吸い殻が灰皿から溢れている。
ドアの前に男が二人立っていた。
どちらも三十代半ば。コートの下に拳銃を隠しているのが、服の膨らみで分かる。
ジムが足を止めた。
「ここだ」
マイクは二人の男を見た。
「歓迎が早いな」
「いつもこうらしい」
ジムがドアを二度叩いた。
返事はなかった。
もう一度叩く。
「エイダン。入るぞ」
「勝手にしろ」
中から低い声が返ってきた。
ジムがドアを開けた。
部屋は広かった。
窓は二つ。暖房の配管が壁際を走り、中央には大きな木製の机が置かれている。机の上には帳簿、契約書、封筒、現金の束が並んでいた。
壁際には男が三人いた。
一人はソファに座り、二人は立ったままマイクたちを見ている。
そして机の向こうに、エイダン・フォックスがいた。
五十歳前後。
短く刈った髪。厚い首。右眉の上に古い傷がある。
エイダンは椅子に深く座ったまま、マイクを見た。
「そいつが新しいテナントか?」
ジムが答えた。
「そうだ」
「名前は?」
「マイク・ハンター」
エイダンはマイクの顔を数秒見た。
「若いな」
「そうでもない」
「何をする?」
「弁護士だ」
部屋の男たちから小さな笑いが起きた。
エイダンも笑った。
「弁護士がこの建物を選ぶのか?」
「安いからな」
「それだけか?」
「それだけだ」
エイダンは机の上の封筒を一つ手に取った。
中から書類を出し、内容を確認する。
「金貸しだと思ってるか?」
「違うのか?」
「思っていてもいい」
「じゃあ、そういうことにしておく」
マイクは部屋の中を見回した。
古い建物だった。
天井には染みがあり、壁紙はところどころ剥がれている。窓枠には塗装の跡が何層も残っていた。
そのときだった。
マイクの視線が、壁の一角で止まった。
古い壁紙が剥がれた場所。
そこだけ下地が露出している。
鉛筆で書かれた文字があった。
二つの名前。
「リサ・グリーン」
その下に、もう一つ。
「マイク」
マイクは動かなかった。
呼吸も変えない。
ただ、目だけが文字を追った。
二十年前。
記憶の中にある部屋と同じだった。
窓の位置。
壁の傷。
机を置いていた場所。
そして、この名前。
幼い自分が書いたものだ。
母親の名前を書いた。
その隣に自分の名前を書いた。
マイクは右手をポケットに入れた。
指先が黒い手帳に触れた。
「どうした?」
エイダンの声で、マイクは顔を上げた。
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「古い落書きが気になっただけだ」
エイダンが壁を見る。
「それか」
「誰が書いた?」
「知らない」
「長く使ってるんだろ?」
「俺は二年ぐらいだ。この建物自体はもっと古い」
マイクはもう一度、壁を見る。
リサ・グリーン。
マイク。
文字は薄くなっていた。
だが、消えてはいなかった。
「前のテナントは?」
「何人もいる」
「弁護士は?」
エイダンが眉を上げた。
「弁護士がいたのか?」
「聞いてるだけだ」
「知らないな」
マイクはそれ以上聞かなかった。
ジムが部屋の中央に進んだ。
「エイダン。この部屋を借りたい」
「俺がまだ使ってる」
「半分空いてるだろ」
「空いてるから貸すとは言ってない」
「マイクはここで事務所を始める」
エイダンがマイクを見る。
「本気か?」
「ああ」
「この建物で?」
「ああ」
「四階で?」
「ああ」
「俺の隣で?」
「問題があるか?」
エイダンは椅子から立ち上がった。
マイクより頭一つ高い。
肩幅も広い。
元軍人だという話を聞かなくても、それくらいは分かった。
エイダンはマイクの前まで歩いてきた。
「問題はない」
「そうか」
「ただし、俺の邪魔をするな」
「お互い様だ」
エイダンの口元が少し動いた。
「気に入らないな」
「俺もだ」
部屋の男たちが笑った。
エイダンは振り返り、机の上に置いてあった煙草を一本取った。
火をつける。
煙を吐きながら、マイクを見る。
「名前は覚えた」
「それで?」
「好きにしろ」
マイクは頷いた。
「そうする」
だが、部屋を出る前にもう一度だけ壁を見た。
リサ・グリーン。
マイク。
二十年前、自分がここにいた証拠だった。
母親がここで弁護士をしていた。
そして、自分もここにいた。
それだけは間違いなかった。
マイクは何も言わず、部屋を出た。
背後でエイダンの声がした。
「マイク・ハンター」
マイクが振り返る。
「何だ?」
「弁護士なら、覚えておけ」
エイダンは煙草を咥えたまま言った。
「この町じゃ、法律だけで生きていけると思わないほうがいい」
マイクは答えなかった。
ただ、壁に残された自分の名前を一度だけ見た。
そして階段へ向かった。
