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「嫌悪感」は最強の防衛システム?病原体を回避するためのメカニズム

嫌悪感は単なる不快感情ではなく、人類が長い進化史の中で獲得した行動性免疫システムの中核である。
嫌悪感のイメージ(Getty Images)
現状(2026年6月時点)

近年の進化心理学、認知神経科学、感染症学の研究において、「嫌悪感(disgust)」は単なる不快な感情ではなく、人類が病原体から身を守るために進化させた重要な適応システムとして位置付けられている。

特に2000年代以降、「行動性免疫システム(Behavioral Immune System:BIS)」という概念が広く支持されるようになり、嫌悪感は生理学的な免疫系よりも先に作動する“第一防衛線”として理解されるようになった。感染してから病原体と戦う生理的免疫とは異なり、BISは病原体との接触そのものを回避させる予防システムであると考えられている。

コロナパンデミック以降、この研究分野への関心はさらに高まり、人間の衛生行動、社会的距離、偏見形成、道徳判断との関連についても多くの研究が蓄積されている。嫌悪感は感染症回避に有効である一方、社会的排除や差別を引き起こす副作用も持つことが明らかになりつつある。


嫌悪感とは

嫌悪感とは、ある対象や状況に接触することを避けたいという強い回避動機を伴う感情反応である。

腐敗した食品、排泄物、死体、膿、寄生虫などに接した際に生じる「気持ち悪い」「触りたくない」「近づきたくない」という感覚が典型例である。表情としては鼻をしかめる、口を閉じる、身体を後退させるなどの反応が観察される。

従来、嫌悪感は味覚に由来する感情と考えられていたが、現在では視覚、嗅覚、触覚、社会認知など幅広い情報処理に関与する複雑な感情システムであることが知られている。


嫌悪感の核心:行動性免疫システム(BIS)とは?

行動性免疫システム(BIS)とは、病原体感染のリスクを察知し、感染前に回避行動を促す心理学的システムである。

生理学的免疫系は病原体が体内に侵入した後で機能する。しかし免疫反応にはエネルギー消費や組織損傷などのコストが伴う。

一方、BISは病原体らしい手掛かりを見つけると、嫌悪感を発生させ、その対象から離れるよう行動を促す。感染してから戦うのではなく、感染する可能性そのものを減らす点に特徴がある。

研究者らは、嫌悪感を「病原体探知レーダー」と表現することがある。病原体は肉眼で見えないため、人類は進化の過程で感染と相関する手掛かりを利用するようになったと考えられている。


目的

BISの究極的な目的は、生存と繁殖成功率の向上である。

感染症は人類史において最大級の死亡要因の一つであった。抗生物質やワクチンが存在しなかった時代には、病原体との接触を避ける能力そのものが生存確率を左右していた。

そのため自然選択は、感染リスクを示す刺激に敏感に反応する心理メカニズムを形成したと考えられる。嫌悪感は病気の予防行動を促進する進化的適応として理解されている。


コストの低さ

BISの最大の利点はコストの低さである。

免疫反応には発熱、炎症、代謝負荷など多大な生理的コストが伴う。さらに感染が重症化すれば死亡リスクも発生する。

これに対して嫌悪感による回避行動は比較的安価である。腐った食べ物を食べない、病気の兆候がある対象を避ける、不衛生な環境に近づかないといった行動だけで感染リスクを大幅に減少させることができる。


嫌悪感を誘発する「6つのドメイン(領域)」

病原体回避に関する研究では、嫌悪感を誘発する刺激は大きく六つの領域に整理できる。

これらは文化差が存在するものの、多くの社会で共通して観察される傾向がある。


①不衛生

排泄物、腐敗臭、汚染された水、汚れたトイレなどが代表例である。

これらは細菌や寄生虫の存在確率が高い環境であるため、嫌悪感が強く喚起される。鼻をしかめる反応や接触回避行動は感染予防に直結する。

衛生観念の多くは、この領域に基づいて形成されている。


②動物・昆虫

ゴキブリ、ウジ虫、ネズミ、寄生虫などは強い嫌悪感を引き起こす。

これらの生物は歴史的に病原体の媒介者であった可能性が高い。実際、害虫や害獣に対する嫌悪反応は多くの文化圏で共通して認められる。

人間は危険そのものではなく、「感染リスクのシグナル」に反応していると考えられる。


③性的行動

性的接触は繁殖に必要である一方、性感染症のリスクも伴う。

そのため近親交配、病変を伴う性行動、不衛生な性的接触などは強い嫌悪感を誘発する傾向がある。

進化心理学では、性的嫌悪は配偶者選択を最適化する適応機能を持つと考えられている。


④身体の損傷

切断された四肢、露出した内臓、重度外傷などは多くの人に嫌悪感を引き起こす。

こうした反応は単なる恐怖ではなく、感染や組織壊死を示唆するシグナルへの反応でもある。

特に血液や膿への嫌悪感は病原体回避との関連が強いと考えられている。


⑤食べ物

腐敗した食品、カビ、異臭、変色した肉などは代表的な嫌悪刺激である。

食中毒は進化史上きわめて大きな脅威であったため、人間は食品の異常に非常に敏感である。

味覚、嗅覚、視覚を総動員して危険な食品を排除する仕組みが形成されている。


⑥異形・病変

発疹、潰瘍、皮膚病変、腫瘍など病気を想起させる外見的特徴も嫌悪感を誘発する。

重要なのは、これらが実際に感染性である必要はないことである。人間は「病気らしく見える」という手掛かりに反応している。

この特性は後述する社会的偏見や差別の原因にもなり得る。


嫌悪感の脳内メカニズム

嫌悪感は単一の脳部位で処理されるわけではない。

視覚、嗅覚、味覚、記憶、感情評価など複数の神経ネットワークが統合されることで形成される。

その中でも特に重要なのが島皮質と扁桃体である。


島皮質

島皮質(Insula)は嫌悪感研究において最も重要な脳領域の一つである。

島皮質は身体内部の状態をモニタリングする役割を担っており、吐き気、不快感、内臓感覚などと深く関係している。腐敗臭や腐った食べ物を見た際に活性化しやすいことが知られている。

ただし近年の研究では、島皮質は嫌悪感専用の領域ではなく、痛み、共感、予測誤差、感情処理などにも関与することが分かっている。そのため「島皮質が活動した=嫌悪感」と単純には解釈できない。


扁桃体

扁桃体(Amygdala)は脅威検出システムの中核である。

恐怖との関連で有名だが、嫌悪刺激に対しても反応する。特に病原体リスクや危険信号の検出に重要な役割を果たしている。

扁桃体は感覚情報の重要度を迅速に評価し、回避行動を促進する。嫌悪感が生じた際に「近づくな」という警報を出す役割を担う。


システムの特性:「過剰検出」のジレンマ

BISには本質的な問題が存在する。

それは病原体を直接見ることができないため、不完全な情報から推測しなければならないことである。

病原体を見逃すコストは非常に大きい。一方で、誤って安全な対象を避けても損失は比較的小さい。

この非対称性がBISを「過敏なシステム」にしている。


煙探知機の原則

進化心理学ではこれを「煙探知機の原則」と呼ぶ。

火災報知器は実際の火災だけでなく、料理の煙でも鳴ることがある。しかし誤報を減らし過ぎると、本当の火事を見逃してしまう。

嫌悪感も同じである。安全な対象に対して誤作動することはあっても、危険な病原体を見逃すよりは進化的に有利である。

このため人間は実際以上に病原体を警戒する傾向を持つ。


現代社会における功罪(分析と課題)

嫌悪感は感染症予防において極めて有効である。

手洗い、食品衛生、ゴミ処理、下水設備の利用など、多くの公衆衛生行動は嫌悪感と密接に関連している。

一方で現代社会では、感染リスクが低い対象に対しても嫌悪感が作動することがある。ここにBISの副作用が存在する。


心理的・社会的排他(差別の温床)

嫌悪感は病原体だけでなく、人間集団に対しても誤って向けられる場合がある。

病気に見える人、身体障害者、高齢者、異文化集団などに対し、無意識の回避反応が生じることがある。

これは進化的には病原体回避の副産物と考えられるが、現代社会では偏見や差別の温床となり得る。感染症流行時に外国人差別やスティグマが強まる現象も、この枠組みで説明されることがある。


道徳的嫌悪へのスライド

嫌悪感は病原体回避だけに留まらない。

研究者ジョシュア・タイバー(Joshua Tybur)らは、嫌悪感が「病原体」「性的」「道徳的」という三つの主要領域に拡張していると主張している。

人は不正行為や裏切り、近親相姦、虐待などに対しても「気持ち悪い」という表現を用いる。これは本来病原体回避のために進化した感情システムが、社会規範の維持にも利用されるようになった結果と考えられている。


人類が抗体や抗生物質を手に入れる遥か昔から、生命を感染症から守り続けてきた『究極の水際対策』

嫌悪感の本質を一言で表現するなら、この言葉に集約される。

病原体は目に見えず、古代人は細菌やウイルスの存在を知らなかった。しかし、人類は経験的に感染リスクを示す兆候を学習し、それに対して強烈な回避感情を発達させた。

嫌悪感は免疫細胞でも抗体でもない。それにもかかわらず、人類史の大半において感染症死亡率を低下させる重要な役割を果たしてきたと考えられる。

その意味で嫌悪感は、生理的免疫系よりもさらに上流に存在する予防的防衛システムなのである。


今後の展望

今後の研究では、嫌悪感と免疫機能の相互作用が重要テーマになると考えられている。

またAIによる感情解析技術、脳画像研究、公衆衛生学との融合により、嫌悪感が感染症対策や健康行動にどのような影響を与えるかがより精密に解明される可能性がある。

一方で、嫌悪感を利用した情報操作や政治的動員への懸念も存在する。嫌悪感は極めて強力な感情であるため、その社会的利用には慎重な倫理的検討が必要である。


まとめ

嫌悪感は単なる不快感情ではなく、人類が長い進化史の中で獲得した行動性免疫システムの中核である。

その目的は病原体との接触を未然に防ぐことであり、生理学的免疫系よりも低コストで機能する予防的防衛機構である。

不衛生、昆虫、性的リスク、外傷、腐敗食品、病変などに対する嫌悪反応は、感染リスクを低減するために形成された適応戦略と考えられる。

脳内では島皮質や扁桃体を中心とするネットワークが関与し、病原体らしい手掛かりを迅速に検出して回避行動を促す。

しかし、BISは過剰検出を特徴とするため、偏見や差別、道徳的排他といった副作用も生み出す。

したがって現代社会における課題は、嫌悪感の感染症防御機能を活用しながら、その誤作動による社会的コストをいかに抑制するかにある。

嫌悪感は、人類が抗体や抗生物質を獲得する遥か以前から存在し続けてきた「究極の水際対策」であり、今なお私たちの行動や社会を深く規定している心理生物学的システムなのである。


参考・引用リスト

  • Hlay JK, Albert G, Batres C, et al. “The evolution of disgust for pathogen detection and avoidance.” Scientific Reports, 2021.
  • van Leeuwen F, Jaeger B. “Pathogen disgust sensitivity: Individual differences in pathogen perception or pathogen avoidance?” Motivation and Emotion, 2022.
  • Tybur JM, Lieberman D, Kurzban R, DeScioli P. “Disgust: Evolved Function and Structure.” Psychological Review, 2013.
  • Tybur JM, Lieberman D, Griskevicius V. “Microbes, Mating, and Morality: Individual Differences in Three Functional Domains of Disgust.” Journal of Personality and Social Psychology, 2009.
  • Olatunji BO, Adams T, Ciesielski B, et al. “The Three Domains of Disgust Scale.” Assessment, 2012.
  • Fermin ASR, Friston K, Yamawaki S. “Insula Interoception, Active Inference and Feeling Representation.” 2021.
  • Huang Y, Sui L, Zhan L, et al. “Insular intracranial activity identifies multiple facial expressions via diverse temporal patterns.” 2026.
  • Leitman DI, Edgar C, Berman J, et al. “Amygdala and insula contributions to dorsal-ventral pathway integration.” 2016.
  • Judgment and Decision Making. “The relation between disgust sensitivity and risk-taking propensity.” 2022.
  • Behavioral Immune System研究群による進化心理学・感染症回避研究レビュー各種(2009–2026)

なぜ「病原体への警戒」が「他者への差別」に化けるのか?

行動性免疫システム(BIS)の最大の問題は、「病原体そのもの」を検出しているわけではない点にある。

人間は細菌やウイルスを直接見ることができないため、進化の過程で「病気かもしれない」「感染しているかもしれない」という間接的な手掛かりを利用するようになった。発疹、咳、異臭、皮膚の異常、身体の変形などがその代表例である。

しかし、進化において重要なのは「正確性」ではなく「生存率」である。感染者を見逃して死亡するコストは極めて大きい一方、健康な相手を誤って避けるコストは比較的小さい。

そのためBISは本質的に「疑わしきは避ける」という設計思想を持っている。これは感染症対策としては有効だが、社会生活では重大な副作用を生む。

例えば先天性障害、身体障害、火傷痕、皮膚疾患、顔面変形などは感染症と無関係であっても、脳は無意識に「何か異常がある」という警戒信号を受け取る場合がある。

この時、当人は意識的に差別しようとしているわけではない。むしろ本人も理由を説明できないまま、「何となく近寄りたくない」「違和感がある」という感覚を抱くことがある。

進化心理学者のマーク・シャラー(Mark Schaller)らは、この現象を病原体回避システムの副産物として説明している。つまり差別は元々の目的ではなく、「病気を避ける仕組み」が誤った対象に作動した結果なのである。

問題は、人間の脳が後から理由を作り出してしまうことである。

最初は漠然とした嫌悪感や警戒感だったものが、後になって「文化が違うから」「価値観が違うから」「信用できないから」と合理化されることがある。

こうして本来は病原体回避システムの誤作動だったものが、社会的偏見や差別として固定化されるのである。


現代社会における「過剰作動(進化的ミスマッチ)」の検証

進化的ミスマッチとは、人類が進化した環境と現代社会との間に存在するズレを意味する。

人類史の99%以上は狩猟採集時代であり、人間の脳はその環境に適応して形成された。

当時は病原体が最大級の脅威だった。感染症に対する知識もなく、抗生物質もワクチンも存在しなかった。

そのため、

  • 異常な外見
  • 腐敗臭
  • 見慣れない集団
  • 不衛生な環境

に対して敏感であることは生存上有利だった。

しかし、21世紀の先進国社会では状況が大きく異なる。

例えばダウン症候群、白斑、火傷痕、義肢装着者などは感染症とは無関係である。

外国人や異文化集団も病原体リスクとは直接関係しない。

それにもかかわらず、一部の人は無意識の警戒感を抱く場合がある。

これはBISが数十万年前の環境に最適化されたまま動いているためと考えられる。

コロナパンデミックでは、この傾向が顕著に観察された。

実際には感染していない集団に対しても、

  • 外国人
  • 特定地域出身者
  • 医療従事者
  • 回復者

への偏見や回避行動が世界各地で報告された。

病原体回避システムは感染症拡大期に活性化しやすいが、その標的選択は必ずしも合理的ではない。

進化的には合理的だったシステムが、現代社会では誤作動しやすくなっているのである。


「本能的な誤作動」か「合理的な判断」かを見極めるフレーミング

ここで重要なのは、「嫌悪感を感じること」と「差別を正当化すること」は全く別問題だという点である。

人間は感情を選べない。

しかし行動は選べる。

そのため現代社会では、嫌悪感が生じた瞬間に以下のフレームで検証することが重要になる。

第一段階:「私は何に反応しているのか?」

まず自分が反応している対象を特定する。

例えば、

  • 実際の感染リスクか
  • 単なる外見上の特徴か
  • 文化的な違いか
  • 未知への不安か

を区別する。

この段階で既に多くの誤認が明らかになる。


第二段階:「その危険は客観的に存在するか?」

次にエビデンスを確認する。

例えば発疹があったとしても、

  • 感染症なのか
  • アレルギーなのか
  • 自己免疫疾患なのか

は全く異なる。

外国人に対する警戒感も、

  • 実際の感染率
  • 公衆衛生状況
  • 医学的データ

を確認しなければ合理的判断とは言えない。

ここで感情と事実を分離することが重要になる。


第三段階:「私の脳は石器時代モードになっていないか?」

この問いは非常に有効である。

脳が発している警報が、

  • 現実的危険への反応なのか
  • 進化的残存物なのか

を区別する。

現代人は飛行機に乗りながら高所恐怖を感じる。

ジェットコースターで死の恐怖を感じる。

ホラー映画で心拍数が上がる。

しかし実際には安全である。

嫌悪感についても同じである。

感情が存在することと、その感情が正しいことは別問題なのである。


第四段階:「データは感情を支持しているか?」

最終判断は感情ではなく証拠に委ねる。

科学的方法の本質はここにある。

脳は警報を出す。

しかし、裁判官は理性でなければならない。

BISは優秀な警備員ではあるが、最終決定権者にしてはならないのである。


ホモ・サピエンスとしての「次の一歩」

嫌悪感は進化の失敗作ではない。

むしろ人類を数十万年にわたって感染症から守り続けてきた極めて優秀な適応システムである。

問題は、我々の文明が進化速度を遥かに超えて発展してしまったことである。

石器時代に設計された脳が、グローバル化された情報社会を運営している。

ここに人類特有の課題が存在する。

ホモ・サピエンスの最大の特徴は、本能を持ちながら本能を観察できることである。

ライオンは恐怖を分析しない。

ゴリラは怒りをメタ認知しない。

しかし、人間は自分の感情そのものを対象化できる。

これは進化史上極めて特殊な能力である。

嫌悪感研究が示しているのは、「嫌悪感を消せ」ということではない。

むしろ、

  • なぜそれを気持ち悪いと思うのか
  • その感覚は何を守ろうとしているのか
  • その警報は現在も有効なのか

を問い直せということである。

言い換えれば、人類は今、「本能を否定する段階」ではなく、「本能を理解し運用する段階」に入っている。


ホモ・サピエンスとしての「次の一歩」:メタ認知的免疫システム

感染症から身を守るためにBISが進化したように、情報社会では「メタ認知的免疫システム」が必要になる。

これは自分の感情や直感を監視する高次認知機能である。

行動性免疫システムが、「近づくな」と警告した時に、メタ認知システムは「その警告は本当に正しいのか?」と問い返す。

この二重チェックこそが現代社会における適応戦略になる。

進化が与えた嫌悪感を捨てる必要はない。

しかし、嫌悪感を絶対視することも危険である。

本能は優れたセンサーであるが、万能な判断装置ではない。

人類が次に進むべき方向は、「本能か理性か」の二項対立ではなく、本能をデータと理性によって補正することである。

それは生物としてのホモ・サピエンスから、自己理解するホモ・サピエンスへの移行とも言える。

嫌悪感は確かに人類最古級の防衛システムである。しかし、現代社会において真に重要なのは、その警報を鵜呑みにすることではなく、警報の意味を理解し、必要に応じて上書きできる知性を持つことである。そこに、進化が作った脳を超えていく人類の可能性が存在する。


総括

嫌悪感は長らく「不快な感情」の一種として扱われてきた。しかし近年の進化心理学、神経科学、感染症学、行動科学の研究は、その理解を大きく変えた。現在では嫌悪感は単なる感情反応ではなく、人類が数十万年にわたる進化の過程で獲得した高度な防衛システムであり、病原体から生命を守るための行動性免疫システム(Behavioral Immune System:BIS)の中核を構成する機能として理解されている。

人類史の大部分において、感染症は最も深刻な生存上の脅威であった。現代人は抗生物質、ワクチン、公衆衛生、上下水道、医療技術といった恩恵を当然のように享受しているが、その歴史は極めて短い。進化の時間尺度で見れば、人類の脳と心理システムは依然として「病原体が至る所に存在し、感染すれば死に直結する世界」を前提として設計されている。

この環境下において、生理学的免疫系だけでは十分ではなかった。免疫系は病原体が体内へ侵入してから作動するため、発熱、炎症、代謝負荷、組織損傷といった大きなコストを伴う。場合によっては感染そのものが致命的結果を招くこともある。そのため進化は、感染後に戦うシステムだけでなく、感染そのものを回避する予防的システムを発達させた。それが嫌悪感を中核とする行動性免疫システムである。

嫌悪感の役割は極めて単純である。「近づくな」「触るな」「食べるな」「避けろ」という行動指令を発することである。腐敗した食物、排泄物、死体、寄生虫、病変、異臭などに対して強い不快感が生じるのは、それらが歴史的に病原体との関連性を持っていたからである。嫌悪感は病原体を直接検出しているのではなく、病原体の存在を示唆する手掛かりに反応しているのである。

研究の蓄積により、嫌悪感を誘発する刺激は不衛生、動物・昆虫、性的行動、身体の損傷、食べ物、異形・病変など複数のドメインに整理されるようになった。これらはいずれも感染リスクや生存リスクとの関連を持つ刺激であり、文化差は存在するものの、多くの社会で共通する傾向が確認されている。

また、脳科学研究は嫌悪感の神経基盤についても多くの知見を提供している。特に島皮質は身体内部の不快感や内受容感覚の処理に深く関与し、扁桃体は脅威や危険信号の迅速な検出を担う。これら複数の神経回路が協調することで、人間は病原体リスクを瞬時に評価し、回避行動へと結び付けている。

しかし、本研究領域が示す最も重要な知見は、嫌悪感が必ずしも正確なシステムではないという点である。むしろ進化的観点から見れば、嫌悪感は「正確であること」よりも「見逃さないこと」を優先するよう設計されている。

病原体を見逃した場合の損失は極めて大きい。一方で安全な対象を誤って避けた場合の損失は比較的小さい。この非対称性によって、行動性免疫システムは本質的に過剰検出型システムとなっている。進化心理学における「煙探知機の原則」が示すように、誤報が多くても本物の危険を見逃さない方が生存上有利だからである。

この仕組みは感染症環境下では有効だったが、現代社会では新たな問題を生み出している。病原体を避けるために進化したシステムが、病原体とは無関係な対象に対しても作動してしまうのである。身体障害、先天性疾患、外見上の特徴、異文化集団、外国人、高齢者などに対する無意識の警戒感や回避傾向は、その代表例としてしばしば議論される。

重要なのは、こうした反応の多くが必ずしも意図的な差別意識から生じるわけではないという点である。むしろ病原体回避システムが「何か異常があるかもしれない」という曖昧な信号を検出し、その後に人間の認知が合理化を行うことで偏見が形成される場合がある。この意味において、差別はしばしば病原体回避システムの副産物として理解することができる。

特にコロナパンデミックは、この問題を世界規模で可視化した出来事であった。感染拡大期には病原体への警戒が高まり、それに伴って外国人や特定地域出身者、医療従事者、感染回復者に対する偏見や排除行動が各国で報告された。これらは感染症への合理的対応というよりも、行動性免疫システムの過剰作動として理解できる側面を持っている。

ここで重要になるのが「進化的ミスマッチ」という概念である。人類の脳は石器時代の環境に適応して進化したが、現代社会はその想定を大きく超えている。ワクチン、公衆衛生、科学的診断、国際交流、多文化共生といった現代環境は、人類が進化した時代には存在しなかった。その結果、過去には有効だった心理システムが現代では不適切な形で作動することがある。

したがって現代社会における課題は、嫌悪感そのものを否定することではない。嫌悪感は現在でも食品衛生、感染症予防、公衆衛生行動の促進において重要な役割を果たしている。問題は、その警報をどのように解釈し運用するかにある。

この点において、人類の最大の特徴はメタ認知能力である。人間は感情そのものを観察し、評価し、修正することができる。「なぜ私はこれを気持ち悪いと感じるのか」「その感情は何を守ろうとしているのか」「その警報は現在の科学的知見と一致しているのか」という問いを立てることができるのである。

嫌悪感が生じること自体は問題ではない。問題は、その感情を無批判に真実とみなすことである。感情は重要な情報源ではあるが、必ずしも現実を正確に反映しているわけではない。病原体回避システムは優秀なセンサーであっても、最終的な判断者ではないのである。

その意味で、ホモ・サピエンスが今後進むべき方向は「本能か理性か」という二者択一ではない。本能を理解し、その機能と限界を認識しながら、科学的知識と理性的判断によって補正することである。嫌悪感という進化的遺産を活用しつつ、その誤作動を制御する能力こそが、現代人に求められる適応戦略なのである。

結論として、嫌悪感は人類が抗体や抗生物質を獲得する遥か以前から生命を守り続けてきた「究極の水際対策」である。それは病原体との接触を未然に防ぐ極めて洗練された進化的防衛システムであり、人類の生存に大きく貢献してきた。一方で、その仕組みは過剰検出を前提としているため、現代社会では偏見や排除といった副作用を生み出す可能性も持つ。

したがって我々が目指すべきは、嫌悪感を否定することでも、盲信することでもない。嫌悪感の進化的起源と機能を理解した上で、その警報を科学的知識と理性的判断によって検証することである。病原体から身を守るために進化した防衛システムを、情報化・多様化した現代社会に適応させること。それこそが、自己を理解するホモ・サピエンスとしての次の一歩であり、本稿が示唆する最も重要な結論である。

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