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後藤又兵衛:黒田家を飛び出したのち、大坂の陣で真田幸村らとともに奮戦した伝説の豪傑

後藤又兵衛を正しく理解するための最も重要な視点は、「史実か伝説か」の二者択一ではない。史実として確認できる又兵衛が存在し、その人物が劇的な生涯を送ったからこそ、後世の人々が彼を英雄として物語化したという二重構造を理解することである。
『信長の野望』シリーズに登場する戦国武将・後藤又兵衛(コーエーテクモゲームス)

後藤又兵衛」は戦国時代末期から江戸時代初期への転換期を生きた武将であり、黒田官兵衛・黒田長政父子に仕えた後、豊臣秀頼の招きによって大坂城へ入り、1615年の大坂夏の陣で討ち死にした人物として知られている。現在では「黒田二十四騎」の一人としての武勇と、黒田家を出奔した後に大坂方へ加わった劇的な生涯が結び付けられ、真田信繁(幸村)らと並ぶ「大坂の陣の豪傑」として語られることが多い。

一方、2026年現在の歴史研究では、又兵衛の人物像を単純な「豪傑」「忠義の浪人」として理解することには慎重さが求められている。国立国会図書館に登録されている福田千鶴の研究書『後藤又兵衛――大坂の陣で散った戦国武将』も、黒田家時代の武功だけでなく、長政との関係、浪人時代、大坂城への入城、そして後世の歌舞伎・講談などによって形成された人物像までを検討対象としている。

つまり、後藤又兵衛を理解する際には、「実際に何をした人物だったのか」と「なぜ後世にこれほど英雄的な人物として語り継がれたのか」を分けて考える必要がある。特に黒田家からの出奔については、長政との個人的な不仲だけで説明するのではなく、戦国大名家の家臣団統制、武功を挙げた有力家臣の処遇、さらに豊臣政権崩壊後の政治環境まで視野に入れる必要がある。

基本プロフィール

後藤又兵衛は一般に「後藤又兵衛基次」の名で知られる武将である。出身は播磨とされ、若くして黒田官兵衛、すなわち黒田孝高(如水)に仕え、その後は官兵衛の子である黒田長政にも仕えた。

又兵衛は黒田家における有力家臣の一人として戦場で武功を重ね、「黒田二十四騎」の一人に数えられるようになった。福岡市博物館などが所蔵・紹介する黒田家関係資料からも、長政の時代に黒田家が大名として組織化されていく過程と、その中で有力家臣が果たした役割を確認できる。

又兵衛の生涯で重要なのは、単なる一武将として終わらなかった点にある。黒田家を離れた後、長い浪人生活を経て豊臣秀頼の招きに応じ、大坂城へ入ったことで、彼の人生は「一大名家の重臣」から「最後の豊臣政権を支えた浪人武将」へと大きく変化したのである。

黒田家での活躍と「出奔」の背景

又兵衛が歴史上大きな存在感を示すようになるのは、黒田官兵衛・長政父子に仕えた時代である。豊臣秀吉による九州攻めや朝鮮出兵、さらに関ヶ原合戦など、豊臣政権の拡大から徳川政権成立に至る重要な戦争に関わったとされ、武勇に優れた家臣として名を高めた。

国立国会図書館が紹介する福田千鶴の著書の概要でも、又兵衛は秀吉の九州攻め、朝鮮出兵、関ヶ原合戦で活躍した武将として位置付けられている。特に関ヶ原合戦では黒田長政の軍勢の中で戦い、その後、黒田家が筑前福岡へ移封されて大名としての体制を整えていく中でも、又兵衛は有力な家臣であった。

しかし、戦場で高い評価を得たことが、そのまま大名家の中で安定した地位を保証するわけではなかった。戦国時代から近世への移行期には、個々の武将の武勇だけではなく、主君への統制、家臣団内部の秩序、他家との関係などが大きな意味を持つようになっていたからである。

又兵衛の「出奔」は、こうした時代の変化を象徴する事件でもある。後世の物語では、長政との個人的な確執によって「嫌になって黒田家を飛び出した」という印象が強く描かれるが、実際には複数の事情が絡んでいたと考えられている。

輝かしい武功

又兵衛の名を後世まで残した最大の理由は、やはり戦場での武功である。特に黒田家時代の彼は、単に勇敢なだけの武士ではなく、実戦経験を積み重ねた有力武将として評価されていた。

黒田家そのものも、豊臣政権から徳川政権への移行期において重要な軍事経験を持つ大名家だった。福岡市博物館の資料によれば、黒田長政は関ヶ原合戦において鉄砲隊を効果的に運用し、石田三成方の島左近隊を撃退するなど、近世的な軍事編成を進めていた。

このような環境の中で戦場経験を積んだ又兵衛は、後に大坂城へ入った際にも、その経験を活用することになる。大坂冬の陣では鴫野・今福方面の戦いなどで活躍したとされ、徳川方に対抗する豊臣方の有力な浪人武将として存在感を示した。

興味深いのは、又兵衛が黒田家を離れた後も、その武名が失われなかったことである。むしろ浪人となったことで「主家を離れてもなお天下に名を知られた武将」という物語性が生まれ、それが後の大坂の陣における英雄像へとつながっていった。

黒田長政との確執と出奔

後藤又兵衛の人生を決定的に変えたのが、黒田長政との関係悪化である。一般的な説明では、又兵衛が長政と対立して黒田家を離れたことが強調されるが、その背景には家臣団内部の人間関係や、長政が大名として家臣を統制していく過程が存在した。

大阪府柏原市の歴史解説では、又兵衛が長政と対立した背景として、長政と不仲だった細川忠興と又兵衛が親しかったことが紹介されている。また同資料は、徳川家康が又兵衛の武勇を惜しみ、黒田家への復帰を仲介しようとしたことにも触れている。

ここで重要なのは、又兵衛が「能力がなかったから追放された武将」ではないという点である。むしろその逆で、非常に高い戦闘能力を持つ有力家臣だったからこそ、大名である長政との関係が悪化した場合、その存在そのものが家中の秩序に影響を与える可能性があった。

また、徳川家康までが又兵衛の復帰に関与したという伝承・記録が残ることは、彼の武名が当時からかなり高かったことを示す材料となる。最終的に復帰は実現せず、又兵衛は黒田家を離れて浪人となった。

この出奔によって、又兵衛は一度は安定した大名家臣としての人生から外れることになる。しかし皮肉にも、この「主家から離れた」という経歴こそが、後に豊臣秀頼から招かれ、大坂城へ入る際の重要な背景となった。

つまり、後藤又兵衛の人生は「黒田家を捨てた」という単純な物語ではない。黒田家の重臣として築いた武名、長政との関係悪化、浪人としての年月、そして豊臣家からの招聘という複数の出来事が連続した結果として、最終的に大坂の陣という歴史上最後の大舞台へ向かうことになったのである。

大坂の陣への参戦と真田幸村らとの共闘

黒田家を離れた後、後藤又兵衛は各地を転々とする浪人となった。豊臣秀頼が大坂城に諸国の浪人を集めるようになると、又兵衛も豊臣方に加わり、かつて黒田家で培った豊富な戦闘経験を最後の大舞台で発揮することになる。

大坂の陣に集まった浪人武将は、真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登ら、いずれも戦国期を代表する武将やその家臣団だった。彼らは出身も主君も異なっていたが、徳川家康率いる巨大な軍勢に対抗するため、豊臣方の防衛戦力として大坂城に結集した。

この中で又兵衛は、単なる一浪人ではなかった。黒田家時代に積み重ねた戦歴によって武名が広く知られており、大坂城では軍事的な役割を担う有力武将の一人として扱われたと考えられる。

ただし、後世の物語で描かれるような「又兵衛と幸村が常に一体となって作戦を立案していた」というイメージについては注意が必要である。両者が豊臣方の有力武将として同じ戦場に存在したことは確かだが、具体的な命令系統や作戦上の連携については、軍記物や後世の伝承によって脚色された部分も含まれているからである。

大坂城への入城

又兵衛が大坂城へ入ったことは、彼の人生を考えるうえで極めて重要な転換点となった。黒田家を離れてから長く続いた浪人生活が終わり、彼は豊臣家を支えるために再び大規模な軍事組織の中へ身を置くことになった。

当時の大坂城には、又兵衛のような元大名家臣が多数集結していた。彼らはそれぞれ異なる戦歴と人脈を持っていたため、豊臣方には徳川方にはない独特の「浪人連合軍」ともいうべき性格が生まれていた。

一方で、この状況は豊臣方にとって大きな弱点でもあった。浪人衆は個々には優秀な武将が多かったものの、統一された指揮系統を構築することは容易ではなかったからである。

大坂冬の陣では、この問題を抱えながらも豊臣方は大坂城の堅固な防御力を活用し、徳川軍を相手に激しく抵抗した。又兵衛もその一翼を担い、戦国最後期を代表する実戦派武将として再び歴史の表舞台に登場した。

真田幸村との連携

後藤又兵衛を語る際、必ずといってよいほど名前が並ぶのが真田幸村、すなわち真田信繁である。現在では「真田幸村と後藤又兵衛」という組み合わせは大坂の陣を象徴する存在として定着している。

二人には共通点が多かった。ともに有力大名家に仕えた経験を持ち、関ヶ原の戦いを経て主家を離れ、浪人として大坂城に入り、豊臣方の武将として徳川軍と戦うことになったからである。

さらに、二人とも単純な武勇だけではなく、戦場での経験を持つ実戦型の武将だった。このため後世の人々は、二人を「戦国時代最後の名将」として一組にして語るようになった。

しかし、歴史研究上はこの二人の関係を過度に美化するべきではない。現在知られている史料からは、二人が親密な友人であり、常に共同で行動していたと断定できるわけではない。

むしろ注目すべきなのは、異なる経歴を持つ二人の武将が、豊臣方という一つの陣営に集まったことである。又兵衛は黒田家、信繁は真田家という異なる大名家の経験を持っていたため、それぞれの軍事的知識や人脈が大坂城の防衛に投入されたことに意味がある。

大坂夏の陣と徳川軍の進撃

1615年、大坂冬の陣の講和によって一時的に戦闘は終わったものの、豊臣家と徳川家の対立は完全には解消されなかった。翌年の大坂夏の陣では、徳川方が大坂城を最終的に攻め落とすため、大規模な軍事行動を開始した。

豊臣方にとって夏の陣は、冬の陣とは状況が大きく異なっていた。講和の条件によって大坂城の外堀などが埋められ、防御能力が低下していたためである。

そのため豊臣方は、城に籠もって長期戦を行うだけではなく、大坂城外へ兵力を展開して徳川軍を迎撃する必要に迫られた。ここで又兵衛に与えられた役割が重要になる。

又兵衛は河内方面へ出撃する豊臣方の部隊を率い、徳川方の進軍を阻止するために戦うことになった。戦場となったのが、現在の大阪府柏原市周辺にあたる道明寺・小松山一帯である。

最期:道明寺の戦い(大坂夏の陣)

道明寺の戦いは、1615年5月6日に行われた大坂夏の陣を代表する戦闘の一つである。豊臣方は河内方面へ進出し、徳川方の進軍を阻止しようとしたが、霧によって部隊の連携が難しくなるという重大な問題が発生した。

又兵衛隊は先行して小松山方面に展開した。しかし、予定していた豊臣方の他部隊との合流がうまく進まず、又兵衛は実質的に孤立した状態で徳川方の大軍と戦うことになった。

この状況は、又兵衛の最期を理解するうえで非常に重要である。彼が単純に「敵の大軍へ無謀に突撃した」のではなく、戦場の地形、濃霧、部隊間の連絡、各部隊の到着時間など、複数の要素が重なって孤立状態が生まれたと考えられるからである。

大阪府柏原市は、現在の小松山周辺を大坂夏の陣の重要な戦跡として位置付け、又兵衛が小松山に陣を構えて徳川方と戦ったことを紹介している。現地には後藤又兵衛の奮戦を伝える史跡・顕彰碑なども残され、現在に至るまで地域の歴史文化の一部となっている。

小松山の戦いでの孤軍奮闘

小松山に陣を構えた又兵衛は、圧倒的に不利な状況に置かれながら徳川方を迎え撃った。徳川方には水野勝成、松平忠明らをはじめとする大軍が展開しており、豊臣方の又兵衛隊は兵力の面で大きく劣っていた。

それでも又兵衛は戦闘を継続した。彼が長年にわたって培った戦場経験と、部隊を指揮する能力が最後の局面でも発揮されたと考えられる。

ここで後世の「豪傑・又兵衛」というイメージが形成されることになる。大軍に包囲されながらも最後まで戦ったという物語は、戦国武将の理想像である「最後まで主君のために戦う勇将」というイメージと非常に相性がよかった。

しかし、又兵衛が戦った相手は単なる「徳川の大軍」ではない。徳川方には関ヶ原以降に戦国大名として成長した諸大名の軍勢が集結しており、戦国時代を生き抜いてきた実戦部隊も多数存在した。

そのため小松山の戦闘は、戦国期の戦闘技術と近世的な大名軍が最後に激突した戦いの一つとして見ることもできる。又兵衛の死は、一人の武将の最期であると同時に、戦国時代そのものの終焉を象徴する出来事でもあった。

壮絶な討ち死に

小松山で奮戦した又兵衛は、最終的に徳川方の攻撃を受けて討ち死にした。1615年5月6日、後藤又兵衛は長年の戦場人生を終えることになる。

その最期については複数の記録や伝承が存在し、細部には異同がある。しかし、徳川方の圧倒的な兵力を相手に小松山で激しく戦い、戦場で命を落としたという大筋については、後世の又兵衛像の中心となっている。

又兵衛の死は、豊臣方にとっても大きな損失だった。翌5月7日には真田信繁、毛利勝永らも最後の戦いに臨み、豊臣方は追い詰められていく。

ここに「又兵衛、幸村らの最期」という大坂の陣の悲劇的な構図が成立する。もっとも、又兵衛と信繁が同じ場所で一緒に討ち死にしたわけではなく、それぞれ異なる戦場で最後の戦いを行った点は、歴史的事実として区別しておく必要がある。

後藤又兵衛の生涯を振り返ると、彼は最初から「大坂城で死ぬ運命にあった英雄」だったわけではない。黒田家の有力家臣として武功を重ね、長政との関係悪化によって主家を離れ、浪人として生き延びた末に豊臣家へ入り、最後は小松山で討ち死にするという、戦国から近世への激動そのものを体現した武将だったのである。

後世への影響と伝説

後藤又兵衛の名が今日まで広く知られている最大の理由は、その生涯が極めて劇的だったことにある。黒田家の有力家臣として武功を挙げながら主家を離れ、浪人となり、最後には豊臣方の武将として大坂城に入り、小松山で討ち死にするという経歴は、まさに「戦国武将の最期」を象徴する物語になった。

さらに、又兵衛が死んだ1615年は、徳川家康が豊臣家を滅ぼし、戦国時代から近世社会への移行を決定づけた年でもある。そのため彼の最期には、単なる一武将の戦死を超えて、「戦国の武士が最後に輝いた瞬間」という歴史的意味が与えられるようになった。

特に江戸時代以降、軍記物、講談、浄瑠璃、歌舞伎などの芸能によって、大坂の陣に参加した武将たちの人物像は大きく脚色されていった。真田幸村がその代表例であり、実際の真田信繁とは別に、「真田幸村」という英雄像が形成されていったのと同じように、又兵衛にも勇猛果敢な「豪傑」のイメージが付加されていった。

この点は、歴史上の人物を研究する際に非常に重要である。現在知られている「後藤又兵衛像」のすべてが、1615年当時の史料だけから構成されているわけではなく、後世の人々が彼の生涯をどのように記憶し、物語化したかという「記憶の歴史」も含まれているからである。

「もし長政と別れなければ……」のロマン

後藤又兵衛をめぐる歴史ファンの関心の中でも、とりわけ魅力的なのが「もし黒田長政と別れなければ、彼の人生はどうなっていたのか」という歴史的IFである。又兵衛は黒田家を離れたことで浪人となり、最終的に豊臣方へ加わったため、出奔しなければ大坂の陣で豊臣方として戦うこともなかった可能性が高い。

もし黒田家に残っていたなら、又兵衛は福岡藩の有力家臣として近世大名家の成立に参加していた可能性がある。戦国時代の戦場を駆け回る武将ではなく、平和な時代の藩政を支える上級家臣として、その後の人生を送っていたかもしれない。

しかし、この仮説には大きな問題もある。1615年以降の日本では大規模な戦争そのものが急速に減少していくため、又兵衛が持っていた高度な戦闘能力を発揮する機会はほとんどなくなったと考えられるからである。

そう考えると、又兵衛の「出奔」は彼自身にとって悲劇だった一方、後世の歴史にとっては英雄を生み出すきっかけになったともいえる。黒田家を離れたからこそ、大坂城に入り、豊臣家最後の戦いに参加し、小松山で戦死するという伝説的な人生が成立したのである。

もちろん、これは史実ではなく歴史的な仮定である。歴史学では「もしも」を事実として扱うことはできないが、こうしたIFを考えることで、又兵衛の出奔が人生を決定的に変えた重大事件だったことが浮かび上がる。

生存説や異説の誕生

後藤又兵衛のように戦場で壮絶な最期を遂げた人物には、しばしば「実は生き延びたのではないか」という生存説が生まれる。特に大坂の陣では、真田信繁、明石全登、島津豊久など、後世に人気を得た武将についてさまざまな異説が生まれており、又兵衛もその例外ではない。

ただし、生存説については史料的な裏付けを慎重に検討する必要がある。戦場では本人確認が困難になる場合があり、敵味方双方の記録に情報の混乱が生じることもあるが、それだけで「実は生きていた」と結論付けることはできない。

又兵衛については、小松山で徳川方と激戦を繰り広げた末に討ち死にしたという伝承が広く定着している。大阪府柏原市が現在も小松山周辺を又兵衛の最期の地として顕彰していることからも、この地域における歴史的記憶の強さを確認できる。

生存説が魅力的に感じられるのは、又兵衛の人生があまりにも劇的だからでもある。黒田家を飛び出し、豊臣方の最後の戦いに参加した豪傑が戦場で死んだという物語よりも、「実は戦場から脱出して別の土地で生き延びた」という物語のほうが、伝説としては発展しやすい。

ただし、ここでも史実と伝説を分ける必要がある。現段階で一般的な歴史理解として採用されているのは、又兵衛が1615年5月6日の小松山の戦いで討ち死にしたという見解であり、生存説を史実として扱うことはできない。

「真田幸村と並ぶ英雄」というイメージの形成

現在の後藤又兵衛像を考えるうえで、真田幸村とのセット化は非常に重要である。大坂の陣を題材とする作品では、幸村、又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親らが「豊臣方の最後の名将」として描かれることが多い。

しかし、この「五人衆」などのイメージは、必ずしも大坂の陣当時の実際の指揮系統をそのまま反映したものではない。後世の軍記や物語が、それぞれ異なる経歴を持つ浪人武将たちを一つの英雄集団として再構成した側面がある。

その中でも又兵衛と幸村は、非常に対照的でありながら似た存在として描きやすかった。幸村は真田家の名門出身であり、又兵衛は黒田家で武功を積んだ実戦派の武将であるため、「名門の軍略家」と「叩き上げの豪傑」という対比が成立するからである。

そして二人とも、大坂の陣で豊臣方に属して命を落とした。この共通点が、後世の人々に「戦国最後の二人の英雄」というイメージを抱かせる要因になったと考えられる。

「豪傑・後藤又兵衛」はどこまで史実なのか

ここで最も重要なのが、「後藤又兵衛は本当に伝説通りの豪傑だったのか」という問題である。結論からいえば、戦場で高い評価を受けた有力武将だったことは史料からも確認できる一方、後世の物語に登場する超人的な武勇のすべてを史実として認めることはできない。

黒田家時代から大坂の陣に至るまで、又兵衛が複数の戦役を経験したことは彼の武将としての実力を考える重要な材料になる。特に関ヶ原から大坂の陣までの期間は、日本の軍事史が大きく変化する時代であり、そこで生き残り続けた経験そのものが彼の能力を示している。

一方、「一騎で何十人、何百人を討ち取った」といった具体的な武勇譚については、記録の成立時期や記述者の立場を確認しなければならない。戦国武将の軍功を記録した史料には、主君への忠誠や家臣の功績を強調する目的が含まれる場合があり、後世の軍記ではさらに物語的な脚色が加えられることがある。

したがって、歴史上の又兵衛を評価するなら、「超人的な剣豪」としてではなく、豊臣秀吉の時代から関ヶ原、大坂の陣までを経験した、非常に豊富な実戦経験を持つ武将として理解するのが妥当である。

史実と伝説を分けることの意味

後藤又兵衛の魅力は、史実だけを抽出すると消えてしまうわけではない。むしろ史実を確認したうえで、その周囲にどのような伝説が形成されたのかを調べることで、彼がなぜ400年以上にわたって人々を惹きつけてきたのかが見えてくる。

歴史学では、史料によって確認できる出来事と、後世に形成された物語を区別することが基本となる。しかし伝説そのものも無価値ではなく、その時代の人々が「どのような武将を英雄と考えたのか」を知る手掛かりになる。

又兵衛の場合、「主君との確執」「浪人」「最後の豊臣家」「大坂城」「大軍との激戦」「壮絶な討ち死に」という要素が一つにつながっている。これほど劇的な要素が連続する人物であれば、後世の人々が彼を英雄として物語化したのは自然な流れだったともいえる。

したがって、後藤又兵衛を「伝説だから嘘」と切り捨てることも、「伝説だからすべて史実」と受け入れることも適切ではない。重要なのは、史料から確認できる又兵衛と、後世の人々が作り上げた又兵衛を重ね合わせながら、その両方を歴史的な現象として理解することである。

今後の展望

2026年現在、後藤又兵衛をめぐる研究で重要なのは、「豪傑」という後世のイメージだけではなく、彼が生きた社会そのものを復元することである。又兵衛は黒田官兵衛・長政父子の家臣として豊臣政権の軍事行動に参加し、関ヶ原を経験し、その後は大名家臣から浪人へ、さらに豊臣方の武将へと立場を変えているため、一人の人生を追うことで戦国社会から近世社会への転換を見ることができる。

この観点から特に重要なのが、福田千鶴による研究である。国立国会図書館の書誌情報によれば、福田氏の『後藤又兵衛――大坂の陣で散った戦国武将』は2016年に中央公論新社から刊行され、黒田家時代だけでなく、又兵衛がなぜ豊臣方へ参加したのか、大坂の陣でどのように戦ったのか、さらに歌舞伎や講談によってどのような人物像が形成されたのかまでを扱っている。

今後は、又兵衛本人に関係する文書だけでなく、黒田家文書、豊臣家関係史料、徳川方の記録、地域史料を相互に比較することで、人物像をさらに立体的にできる可能性がある。特に大坂の陣については、柏原市が公開している「大坂御陣覚書」のように、実際の戦闘状況を具体的に記した地域史料が存在するため、軍記物だけに依存しない検証が可能になっている。

後藤又兵衛を理解するための四つの視点

第一に見るべきなのは、「黒田家の武将」としての又兵衛である。又兵衛は黒田官兵衛・長政父子に仕え、豊臣秀吉の九州攻め、朝鮮出兵、関ヶ原合戦などを経験したとされるため、単なる一地方武士ではなく、豊臣政権期の大規模な軍事行動を経験した武将だった。

第二は、「黒田家を離れた浪人」としての側面である。又兵衛の出奔は彼の人生を決定的に変えたが、これを単純な個人的喧嘩として理解するだけでは不十分である。戦国大名が近世大名へ変化する過程では、かつて戦場で独立性を持っていた有力家臣を、大名の統制下に再編する必要があり、又兵衛のような武功ある家臣と主君との関係には、戦国期特有の緊張が生じ得た。

第三は、「豊臣方の武将」としての又兵衛である。1614年に大坂城へ入り、豊臣秀頼のために戦うという選択は、彼の人生における最大の転換だった。福田千鶴氏の研究書が「なぜ」又兵衛が劣勢の豊臣陣営に加わったのかを問題としていることからも、この決断は単純な義理や忠義だけでは説明できない重要なテーマである。

第四は、「伝説としての又兵衛」である。後世の歌舞伎や講談などでは、又兵衛は快男児・豪傑として描かれるようになり、現代の一般的なイメージにも大きな影響を与えている。したがって、「史実の又兵衛」と「物語の又兵衛」を区別することが、彼の人物像を正確に理解するための基本条件となる。

道明寺・小松山の戦いをどう評価するか

又兵衛の最期を理解するうえでは、「小松山で孤軍奮闘した」という言葉だけでは足りない。大阪府柏原市の資料によると、1615年5月5日、又兵衛と真田幸村らは翌日の道明寺方面での合流を予定していたが、翌6日未明は濃霧のため他の豊臣方部隊が予定通り到着できず、又兵衛は単独で先行する状況となった。

その後、又兵衛は後続部隊を待つことなく小松山を占領し、徳川方と激突した。柏原市の説明では、後藤隊は約2,800人に対し、徳川方は水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗らを中心に約23,000人とされ、最終的に又兵衛隊は三方から包囲されて壊滅し、又兵衛も討ち死にした。

ここから分かるのは、又兵衛の最期が単純な「無謀な突撃」ではなかったということである。濃霧による連携の失敗、徳川方の先行、地形上の要衝である小松山の確保、後続部隊を待つかどうかという判断など、複数の軍事的要因が重なって最終的な孤立状態が生まれている。

また、柏原市が公開している「大坂御陣覚書」には、後藤又兵衛や徳川方の奥田三郎右衛門らが片山村・小松山一帯で戦った具体的な記述が掲載されている。こうした地域史料は、後世の英雄譚だけでは分からない戦場の具体像を知るうえで重要である。

「壮絶な討ち死に」の意味

又兵衛の死は、豊臣方の敗北を象徴する出来事の一つになった。彼が討ち死にした5月6日の翌日には真田信繁らも最後の戦闘を行い、5月8日には大坂城が落城して豊臣秀頼と淀殿が自害し、豊臣家は滅亡したと柏原市の歴史資料でも整理されている。

つまり又兵衛は、豊臣家が滅亡する直前に戦死した武将である。しかも彼は黒田家という徳川方に属する大名家の有力家臣だった経歴を持ちながら、最後にはその徳川政権と戦う側に立った。

この経歴の劇的な転換が、後藤又兵衛の伝説を強くした。黒田家で武功を挙げた男が主家を去り、浪人となり、豊臣家最後の戦いに身を投じ、戦場で生涯を終えるという筋書きは、後世の物語作者にとって極めて魅力的な素材だったのである。

「もし長政と別れなければ」の最終検証

「もし又兵衛が黒田長政と和解し、黒田家に残っていたら」という仮定には、歴史的な興味がある。黒田家に残れば、福岡藩の成立と藩政の整備に関わる有力家臣として生き、戦場ではなく近世大名家の政治・軍事組織の中で新しい役割を担った可能性がある。

一方で、又兵衛が黒田家を離れたことによって、彼は「戦国最後の戦場」に立つことになった。これは本人にとっては過酷な運命だったが、後世の歴史にとっては、彼を伝説的な存在にする決定的な要因になった。

したがって、「出奔は失敗だった」と単純に評価することも、「英雄になるための運命だった」と考えることもできない。史実として言えるのは、黒田家からの離脱が彼の人生を大きく変え、その後の浪人生活と豊臣家への参加を経て、最終的に小松山での討ち死にへつながったということである。

生存説・異説をどう見るべきか

戦国武将には、戦場で死んだとされながら「実は生き延びた」という伝説が生まれることがある。後藤又兵衛についても、各地に墓や伝承地が残されていることから、後世の人々が彼の最期をめぐってさまざまな物語を形成してきたことが分かる。

ただし、伝承地が複数存在することと、本人が実際に生き延びたことは別問題である。柏原市の歴史資料は玉手山を「後藤又兵衛基次が徳川方の大軍を迎え撃って討ち死にした地」と明確に位置付けており、現在の一般的な歴史理解も1615年5月6日の討ち死にを基本としている。

したがって、生存説については「伝説・異説として存在する」こと自体には歴史的興味があるものの、確実な史実として採用することはできない。歴史研究では、伝承が残っていることと、その伝承の内容が史実であることを分けて考える必要がある。

後藤又兵衛の本当の魅力

結局のところ、後藤又兵衛の魅力は「最強の武将だった」という一言では説明できない。彼の人生には、戦国時代から近世社会への移行という日本史上の巨大な変化が凝縮されている。

黒田官兵衛・長政父子に仕えた時代には、戦国大名の家臣として武功を積み重ねた。ところが、長政との関係が悪化して黒田家を離れ、浪人となったことで、それまでの身分と生活を失った。

その後、豊臣秀頼の招きによって大坂城へ入り、再び戦場に戻った。しかもその戦場は、豊臣家と徳川家が天下の覇権をめぐって最後に激突する大坂の陣だった。

そして1615年5月6日、小松山で徳川方の大軍と戦い、又兵衛は命を落とした。翌日には真田信繁らも最後の戦いに入り、翌8日には大坂城が落城したため、又兵衛の死は「豊臣家最後の日々」とほぼ重なっている。

だからこそ、後藤又兵衛は単なる「黒田二十四騎の一人」では終わらなかった。黒田家の武将、出奔した浪人、豊臣方の武将、大坂夏の陣の戦死者、そして後世に語り継がれた豪傑という複数の顔を持つことで、現在まで強烈な歴史的存在感を保っているのである。

まとめ

後藤又兵衛は、黒田官兵衛・長政父子に仕え、豊臣秀吉の九州攻めや朝鮮出兵、関ヶ原合戦などを経験した実戦派の武将として知られる。その後、黒田長政との関係悪化などを背景として黒田家を離れ、長い浪人生活を経て豊臣秀頼の招きに応じ、大坂城へ入った。

大坂夏の陣では豊臣方の先鋒として河内方面に進出し、1615年5月6日に小松山で徳川方の大軍と激突した。濃霧によって他部隊との連携が崩れる中で孤立しながらも戦い続け、最終的に討ち死にしたというのが、現在の史料・地域史研究に基づく基本的な理解である。

そして後世、又兵衛は真田幸村らとともに「豊臣方最後の豪傑」の一人として記憶されるようになった。ただし、幸村との具体的な関係や超人的な武勇、生存説などについては、史料で確認できる事実と軍記・講談・伝承を区別して考える必要がある。

後藤又兵衛を知るということは、一人の豪傑武将の武勇伝を知るだけではない。それは、戦国大名の家臣として生きた武将が、主家を離れ、浪人となり、最後の豊臣政権に加わり、徳川幕府成立直前の最終決戦で命を落とすという、日本史最大級の時代転換を一人の人生から見ることでもある。

その意味で後藤又兵衛は、「戦国時代最後の豪傑」という表現だけでは捉えきれない人物である。史実と伝説の双方を丁寧に区別して見ることで、彼の本当の魅力はむしろいっそう鮮明になる。

最終検証:後藤又兵衛は「伝説の豪傑」だけではない

ここまで後藤又兵衛の生涯を追ってきたが、最終的に重要なのは、彼を「伝説の豪傑」という一つのイメージだけで理解しないことである。史料から確認できる後藤基次という武将と、江戸時代以降に形成された「後藤又兵衛」という英雄像には重なる部分がある一方、それぞれ異なる歴史的背景が存在する。

福岡市博物館は、後藤基次を「黒田二十四騎」の一人として位置付けている。同館によれば、黒田二十四騎は黒田家創業期を支えた24人の家臣を江戸時代中期以降に顕彰したものであり、又兵衛もその代表的な武将の一人として後世に記憶された。

ここで注目すべきなのは、「黒田二十四騎」という称号自体が、又兵衛が生きていた時代にそのまま存在した固定的な制度ではないという点である。福岡市博物館の解説では、江戸時代中期以降に黒田家創業期の有力家臣が顕彰されるようになり、その中から「二十四騎」という枠組みが形成されていったことが説明されている。

つまり、又兵衛は生前から有名な武将だっただけでなく、死後も「黒田家を代表する武勇の家臣」として再構成されたのである。この死後の顕彰が、大坂の陣での悲劇的な最期と結び付き、現在の「黒田二十四騎の豪傑」というイメージを強固なものにしたと考えられる。

「後藤又兵衛」という名前にも検証の余地がある

後藤又兵衛については、名前そのものにも研究上の論点が存在する。一般には「後藤又兵衛基次」という名前で知られているが、大阪府柏原市の研究紹介では、「正親」という名についても系図などから検討する余地があるとされ、基次から正親へ改名した可能性などが指摘されている。

もちろん、これをもって「又兵衛の本名は正親だった」と断定することはできない。むしろ重要なのは、戦国武将の名前が後世の系図や伝記によって整理される過程で、複数の情報が混在することがあるという事実である。

こうした問題は、又兵衛だけに特有のものではない。戦国武将の場合、幼名、通称、諱、官途名、隠居名などが使い分けられ、後世の記録ではそれらが混同されることもあるため、人物名だけを手掛かりに歴史像を固定するのは危険である。

したがって本稿では、一般に広く定着している「後藤又兵衛」という名称を使用しつつ、研究上は後藤基次など複数の呼称が存在することを前提として扱うのが妥当である。

「小松山の戦い」という名称も後世の問題

さらに興味深いのが、又兵衛の最期として現在広く知られている「小松山の戦い」という名称である。大阪府柏原市の天野忠幸氏による解説では、当時の史料では現在のように一貫して「小松山」と呼ばれていたわけではなく、「片山」という地名が使われていることが指摘されている。

たとえば『大坂御陣覚書』では、後藤又兵衛らが「片山村(小松山)」で戦ったとされる一方、伊達政宗に提出された片倉重綱の覚書では「勝田山」という表記が見られる。さらに『河内鑑名所記』や『御撰大坂記』などでは「片山」と記されており、現在の「小松山」という呼称が当時から固定していたわけではないことが分かる。

この事実は非常に重要である。なぜなら、歴史上の戦闘は後世になると、戦場の地名そのものまで物語の一部として整理されることがあるからである。

「小松山の戦い」という現在の名称は、後藤又兵衛最後の戦いを象徴する言葉として定着している。しかし史料を細かく確認すると、「片山での戦闘」という当時の認識と、後世の「小松山の戦い」という歴史的名称には時間差がある。

このような違いを知ることで、後世の歴史認識がどのように形成されるのかが見えてくる。これは又兵衛の人物像を否定する材料ではなく、むしろ彼の伝説がどのように成立していったかを理解するための重要な手掛かりである。

又兵衛を討った人物にも異説がある

又兵衛の最期については、「誰が彼を討ち取ったのか」という問題にも異説が存在する。大阪府柏原市の資料では、『伊達家文書』に基づき、伊達政宗の家臣である片倉重綱が鉄砲で又兵衛を討ち取ったとする記録が紹介されている。

一方、戦場の記録は必ずしも一種類ではないため、後世の伝承や別系統の記録では異なる説明が生まれている。この点からも、「又兵衛は小松山で壮絶に討ち死にした」という大枠と、「具体的に誰がどの瞬間に討ち取ったのか」という細部は、史料の確度を分けて考える必要がある。

これは歴史研究の基本的な姿勢でもある。大筋で一致している情報については比較的強く評価できる一方、細部について史料が食い違う場合には、無理に一つの物語へ統合するのではなく、「異説が存在する」と明記する方が正確である。

したがって、後藤又兵衛の最期を説明する場合は、「1615年5月6日、道明寺方面の戦闘で小松山・片山一帯に進出し、徳川方の大軍と戦った末に討ち死にした」という大枠を史実として押さえ、その死因や討手については史料によって異なると説明するのが最も慎重な方法である。

生存伝説はなぜ生まれたのか

後藤又兵衛には、「実は戦場から脱出して生き延びた」という伝説も存在する。柏原市の資料には、又兵衛が薩摩まで逃げ延びたという説や、伊予国の道後温泉で入浴中に討ち取られたという説など、複数の伝承が紹介されている。

さらに、一度埋葬した首を掘り起こして伊予国の長泉寺へ移し、供養を依頼したという伝承も残されている。こうした異説は、必ずしも「本当に生き延びた」ことを証明するものではないが、又兵衛の死が後世の人々にとって非常に印象的な出来事だったことを示している。

そもそも大坂夏の陣は、戦国時代最後の大規模内戦であり、多数の武将が戦場で命を落とした。戦闘の混乱の中で個人の最期を完全に確認することは難しく、そこに家臣や地域社会の記憶が加わることで、さまざまな「生存説」が生まれやすかったと考えられる。

しかし、伝説が存在することと、生存が史実であることは別である。現時点で歴史研究上の基本線は、又兵衛が大坂夏の陣で戦死したという理解であり、生存説はあくまで伝承・異説として扱うべきである。

真田幸村との関係をどう評価するか

後藤又兵衛を語る際、真田幸村との関係を無視することはできない。しかし「幸村と又兵衛が親友として常に共同作戦を行った」という現在のイメージについては、慎重な区別が必要である。

両者が豊臣方の有力浪人武将として大坂城に入り、同じ陣営で戦ったことには大きな歴史的意味がある。しかし、後世の作品で描かれるような二人の詳細な会話、個人的な友情、綿密な共同作戦などは、史料によってすべて確認できるわけではない。

むしろ歴史的に興味深いのは、二人がそれぞれ異なる大名家の経験を持ちながら、大坂城という一つの場所に集結したことである。真田信繁は真田家の武将として、又兵衛は黒田家の武将として、それぞれ戦国期の軍事経験を持っており、その経験が豊臣方の防衛戦力に投入された。

そして二人は同じ大坂方として戦ったものの、最後の戦場は異なった。又兵衛は5月6日の道明寺方面の戦闘で討ち死にし、真田信繁は翌7日に天王寺・茶臼山方面で最後の戦闘を行った。

この時間差こそ、後世の物語における「戦国最後の英雄たち」というイメージを考えるうえで重要である。実際には別々の場所で戦った二人が、後世には一つの「大坂の陣英雄物語」の中で並べて語られるようになったのである。

「戦国最後の豪傑」という評価の妥当性

では、後藤又兵衛を「戦国最後の豪傑」と呼ぶことは適切なのだろうか。結論としては、歴史学上の厳密な肩書きというより、彼の生涯を象徴的に表現する歴史的キャッチフレーズとして理解するのが適切である。

又兵衛は確かに戦国末期を代表する実戦経験豊富な武将だった。しかし、彼だけが特別に「最後の武将」だったわけではなく、大坂の陣には毛利勝永、真田信繁、長宗我部盛親、明石全登など、多くの戦国武将経験者が参加していた。

それでも又兵衛の人生が特別に印象的なのは、黒田家の重臣から浪人へ、そして豊臣方の将へという身分・政治的立場の大きな変化を経験したためである。さらに最後には大軍を相手に戦場で命を落としたため、彼の生涯全体が一つの劇的な物語として成立している。

したがって、「豪傑」という言葉を史実上の軍事能力だけに限定するのではなく、「戦国時代の武将としての生涯そのものが後世に英雄化された人物」という意味で使用すれば、非常に適切な表現になる。

後藤又兵衛を知るうえでの五つのポイント

第一に、又兵衛は黒田家における実在の有力武将だったということである。福岡市博物館が紹介する黒田二十四騎には後藤基次が含まれており、黒田家創業期を支えた武将として後世に顕彰されたことは確かである。

第二に、黒田家を離れたことが彼の人生を決定的に変えた。長政との関係悪化や家臣団内部の問題などを背景として出奔したことで、又兵衛は大名家の安定した家臣という立場を失い、浪人という不安定な立場に移った。

第三に、浪人になったことが結果的に大坂城への入城につながった。豊臣秀頼のもとに集まった浪人武将の一人として又兵衛が戦場へ復帰したことは、彼の人生だけでなく、後世の人物評価にも決定的な影響を与えた。

第四に、最期の戦いは現在「小松山の戦い」と呼ばれているが、当時の史料には「片山」など異なる地名表記があり、戦闘名称そのものにも後世の変化がある。これは歴史上の出来事が後世に整理され、名称や物語が固定化される過程を示している。

第五に、又兵衛の伝説は史実と切り離して考えるべきものではない。実在した武将としての豊富な戦歴があったからこそ、後世の人々は彼を豪傑として語り継ぎ、黒田二十四騎、大坂の陣、真田幸村、道明寺・小松山という複数の物語が結び付いて現在の人物像が成立したのである。

総合評価

後藤又兵衛の人生を一言で表現するなら、「戦国社会の終焉を自らの人生で体現した武将」とするのが最も適切である。彼は戦国大名家の家臣として武功を重ね、その後、主家を離れ、浪人となり、最後には豊臣家のために徳川軍と戦った。

彼の人生には、戦国時代の価値観と近世社会の現実との衝突が見える。戦場で武功を挙げることが重要だった時代から、主君への統制と藩政を中心とする時代へ変わる中で、戦国型の武将であった又兵衛の居場所は次第に狭くなっていった。

その結果として彼は豊臣家最後の戦いへ向かい、1615年5月6日、片山・小松山一帯で徳川方の大軍と戦った。『大坂御陣覚書』にも後藤又兵衛が片山で戦ったことが記されており、少なくとも彼がこの戦場で豊臣方の部隊を率いて戦ったことは、後世の伝説だけに依拠するものではない。

一方、現在広く知られる「小松山の戦い」「豪傑又兵衛」「真田幸村との英雄的連携」「生存説」といった要素には、それぞれ後世の記憶や伝承が加わっている。だからこそ、史実と伝説を対立させるのではなく、両者がどのように重なり合って現在の後藤又兵衛像を作ったのかを考える必要がある。

後藤又兵衛は、単なる「強い武将」ではない。彼は黒田家臣団の一員として生きた人物であり、主家との関係に苦しみ、浪人となり、最後の豊臣政権に身を投じ、戦国時代の終幕とともに命を終えた人物なのである。

だからこそ、400年以上が経過した2026年現在でも、後藤又兵衛の名前は消えていない。大阪府柏原市では小松山・玉手山周辺の戦跡として顕彰され、福岡市博物館では黒田二十四騎の一人として資料・人物像が紹介されており、彼は地域史と全国史の双方に残る存在となっている。

そして最も重要なのは、後藤又兵衛の「伝説」を楽しみながらも、その背後にある史実を忘れないことである。伝説は史実を覆い隠すものではなく、なぜその人物が後世の人々に記憶され続けたのかを示す、もう一つの歴史資料なのである。


参考・引用リスト

1.研究書

福田千鶴『後藤又兵衛――大坂の陣で散った戦国武将』中央公論新社〈中公新書2372〉、2016年。国立国会図書館の書誌情報では全230ページの研究書として登録されており、黒田家時代から大坂の陣、さらに後世の歌舞伎・講談による人物像までを扱う。

2.公的機関・地域史資料

大阪府柏原市「玉手山と大坂夏の陣」。小松山の戦いについて、又兵衛が約2,800人を率いて徳川方の大軍と戦ったこと、濃霧による部隊連携の問題、討ち死にに至る経過などを紹介している。

大阪府柏原市「大坂の陣と柏原」。大坂夏の陣の全体像に加え、豊臣方の浪人衆、後藤又兵衛の出撃、小松山の戦い、豊臣方の敗北までを地域史の観点から整理している。

大阪府柏原市「大坂の陣関係文書」。『大坂御陣覚書』を中心に、片山村・小松山一帯での後藤又兵衛隊と徳川方の戦闘を紹介している。又兵衛の戦闘を具体的に検証するうえで重要な地域史料である。

福岡市博物館「黒田二十四騎展4 官兵衛を支えた男たち」。黒田官兵衛・長政を支えた「黒田二十四騎」について紹介する公的な博物館資料であり、又兵衛を含む黒田家臣団を理解するための基礎資料となる。

3.史料・一次史料系資料

『大坂御陣覚書』は、大坂夏の陣における片山・小松山周辺の戦闘を具体的に伝える史料として柏原市の公開資料で紹介されている。後藤又兵衛、奥田三郎右衛門らの戦闘について具体的な記述があり、後世の英雄譚と実際の戦闘記録を比較するうえで重要である。

また、柏原市の解説では、1679年成立の『河内鑑名所記』にも小松山周辺の戦死者や戦場の状況に関する記述が紹介されている。これは戦闘から半世紀以上が経過した後の記録であるため、同時代史料とは性格が異なるが、地域における大坂夏の陣の記憶がどのように残されたかを考えるうえで有用である。

4.総合評価

史実として確度が高い部分は、又兵衛が黒田家の有力家臣として活動し、その後主家を離れ、浪人生活を経て豊臣方に加わり、1615年5月6日の小松山の戦いで討ち死にしたという大きな流れである。一方、「真田幸村との親密な共同作戦」「超人的な個人武勇」「討ち死に後の生存説」などについては、後世の軍記・講談・伝承との関係を考慮し、史実と伝説を区別して扱う必要がある。

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