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江戸時代:八代将軍・徳川吉宗の「生母・浄円院の素性と秘密」

浄円院は、1655年に生まれ、紀州徳川家2代藩主・徳川光貞の側室となり、1684年に後の八代将軍・徳川吉宗を産んだ女性である。
江戸幕府第8代将軍である徳川吉宗の肖像画(Getty Images)
現状(2026年10月時点)

江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗は、享保の改革を進めた政治家として広く知られている。一方、その生母である浄円院(じょうえんいん)は、将軍の母という高い地位にありながら、出自や若い頃の経歴について複数の説が伝えられてきた人物である。

浄円院の素性を検討するうえで重要なのは、将軍家に伝えられた公式の系譜と、後世の随筆や地域の伝承、近年の歴史研究を区別することだ。とりわけ、和歌山大学の藤本清二郎による研究は、浄円院の家族関係や巨勢氏の系譜を史料に基づいて再検討しており、従来の説明をそのまま受け入れずに考えるための重要な手掛かりとなる。

一般向けの解説では、浄円院は紀州徳川家の家臣である巨勢利清の娘と説明される一方、巡礼の女性だったという説や、もともとは町人に近い身分だったという伝承も紹介されている。しかし、これらは同じ確度の史実ではなく、どの史料に何が記されているかを確認しなければ、実像を正しく理解できない。

2026年10月時点での検証においても、浄円院の出自を単純に「名門武家の娘」あるいは「身分の低い女性」と断定するのは適切ではない。現存史料の成立時期、記録の目的、家系を整える必要性、伝承が生まれた背景を比較し、確実に言えることと推測にとどまることを分けて考える必要がある。

本稿では、浄円院の生涯をめぐる主要な論点を整理し、将軍の生母という立場が彼女自身と母方の親族にどのような変化をもたらしたのかを検討する。全体を通じて、確認できる史実、研究者による解釈、後世の逸話を明確に区別し、いわゆる「秘密」を必要以上に劇的に描くことなく、その歴史的な意味を明らかにする。

浄円院の基本プロフィール

浄円院は、紀州徳川家2代藩主・徳川光貞の側室となり、1684年に後の八代将軍・吉宗を産んだ女性である。吉宗は紀州藩主を経て1709年ではなく1705年に紀州徳川家5代藩主となり、1716年に江戸幕府の将軍職に就いたため、浄円院は息子の出世に伴って将軍生母としての立場を得た。

浄円院の生年や没年、吉宗の母であることは、一般的な人物事典でも確認できる基本事項である。ただし、父親が巨勢利清であったのか、実子ではなく養女という関係だったのか、あるいは若年期にどのような境遇にあったのかについては、記述によって違いがある。

また、「お由利の方」は側室としての呼称、「浄円院」は出家後の院号として理解するのが基本となる。史料によって「紋」「お紋」「門姫」などの表記が見られるため、名称の違いだけを根拠に別人と判断するのではなく、それぞれの史料が記す年代や家族関係を照合する必要がある。

浄円院の人生を特徴づけるのは、出生時の身分がどうであったかという問題だけではない。将軍の母となった後、母方の親族が幕府の制度に組み込まれ、家の系譜や社会的な位置づけが変化していったとされる点も、歴史的に重要な検討対象となる。

素性をめぐる「公式記録」と「実態・秘密」の検証

浄円院の出自をめぐる問題は、単に生家の身分を特定するだけでは解決しない。江戸時代の武家社会では、血縁関係、養子縁組、家の継承、奉公先での地位などが複雑に絡み合っており、後世に編纂された系譜が、出生当時の状況をそのまま反映しているとは限らないからである。

特に注意したいのは、「公式記録に記載されていること」と「出生当時に実際に起きたこと」は、必ずしも同一ではないという点だ。系譜は家の由緒や血統を示す重要な史料である一方、家格や相続の正当性を説明する役割も持っていたため、記録の成立事情を踏まえて読む必要がある。

浄円院については、紀州徳川家の家臣・巨勢氏との関係を中心とする系譜上の説明がある一方、京都から紀州へ移動した家族の境遇や、奉公を通じて徳川家に入った経緯を重視する研究も存在する。したがって、ここでいう「秘密」とは、必ずしも誰かが意図的に隠蔽した確定的な事実を意味しない。むしろ、複数の記録の間にある食い違いや、記録されなかった経歴をどこまで復元できるかという歴史研究上の問題である。

2019年に発表された藤本清二郎の論文は、浄円院の家族関係と大工頭中井家との関係を取り上げ、従来の系譜理解を再検討した研究である。こうした研究を踏まえると、浄円院の出自をめぐる問題は、身分の高低だけでなく、家族がどのように移動し、どのような経緯で紀州徳川家に包摂され、後に系譜上で位置づけられたのかという視点から考える必要がある。

歴史的な検証では、少なくとも次の3段階を分けて考えるべきだ。

  • 確認できる事実: 浄円院が吉宗の生母であり、紀州徳川家の側室だったこと。

  • 史料に基づく解釈: 巨勢氏との血縁・養子関係や、浄円院の家族が紀州へ移った経緯について、研究者が史料を比較して導いた説明。

  • 伝承・未確定説: 巡礼の女性だったという話や、町人出身だったという逸話など、史料の性格や裏付けを慎重に評価する必要がある説明。

この区別を怠ると、後世の逸話を確定した歴史的事実として紹介したり、反対に公式系譜だけを無条件に正しいものとして扱ったりする危険がある。浄円院の素性を正確に理解するには、両者を対立させるだけでなく、それぞれがどの時代に、何を伝えるために作られたのかを検討することが重要である。

① 公式記録における系譜――『寛政重修諸家譜』など

浄円院の系譜を考える際に重要な史料の1つが、江戸幕府の命によって編纂された『寛政重修諸家譜』である。同書は寛政年間を中心に編纂された大規模な武家系譜集で、幕臣や諸家の家系、親子関係、家の由緒などを整理したものであり、江戸時代の武家社会における家格や系譜の把握に役立つ。

ただし、同書は浄円院の生誕当時に作成された記録ではない。後の時代に、それまでに伝わっていた記録や家の申告などをもとに編纂されたため、そこに記された系譜を利用する際には、成立時期と編纂目的を考慮する必要がある。

浄円院に関係する巨勢氏の系譜について、藤本の研究は『寛政重修諸家譜』の記載を検討し、浄円院とされる女性や、その兄弟とされる人物の関係に注目している。そこでは、同じ父の子として記載された人物の母親や、京都の女性との関係などが問題となり、単純な父系の系譜だけでは家族の実態を十分に把握できないことが示されている。

この点は、系譜研究において見落とせない。父親の名前が記載されているからといって、その人物が出生時から同じ家に属していたことや、後世に伝えられた家族関係がすべて確実であることまで証明されるわけではないからだ。

さらに、系譜における「娘」という記載と、実際の血縁関係や養子縁組の有無は、個別に検討する必要がある。浄円院のように、後に将軍の母となった人物の場合、家の系譜にどのように組み込まれたかという問題そのものが、家族の社会的な位置づけを理解する手掛かりとなる。

したがって、『寛政重修諸家譜』は浄円院の素性を考えるための重要な基礎史料ではあるが、それだけで出生時の身分や実母、幼少期の生活を完全に確定できるわけではない。公式系譜の記載を出発点としながら、他の記録や研究成果との照合を進めることが、史実に近づくための基本的な方法となる。

② 史料・伝承が暴く「低い出自」と実際の秘密

浄円院の出自をめぐる最大の論点は、彼女が当初から武家の娘として育ったのか、それとも生活に困窮した家族の一員として京都から紀州へ移り、その後に紀州徳川家へ奉公したのかという問題である。ここで重要な手掛かりとなるのが、江戸時代後期の随筆『耳嚢(みみぶくろ)』や、紀州の寺院に伝わった記録、さらに近代以降の歴史研究である。

和歌山大学の藤本清二郎による研究は、浄円院の家族関係を検討し、父とされる巨勢利清の死後、残された家族が京都で困窮し、紀州へ移動した可能性を論じている。これは、浄円院が生まれたときから安定した武家の生活を送っていたと単純に考えるのではなく、家の没落や移住を含めて、その経歴を再構成しようとする研究である。

ただし、「低い出自」という表現には注意が必要だ。江戸時代の身分秩序を現代の価値観だけで評価すると、当時の奉公や家の継承の実態を見誤る恐れがあるうえ、町人や百姓であったことが直ちに本人の能力や人格を示すわけでもない。

浄円院については、武家の系譜に連なる女性という説明と、町人に近い境遇だったという逸話が並存する。しかし、前者が系譜史料に基づく説明であるのに対し、後者には後世の随筆や伝承を通じて広まった話も含まれるため、両者を同じ確実性で扱うことはできない。

「秘密」を探るうえでの核心は、浄円院がどの身分だったかという一点だけではない。家族の生活状況が変化し、紀州徳川家に仕える立場を得て、息子が将軍にまで上り詰めた過程で、彼女と親族の社会的な位置づけがどのように変わったのかという点にある。

百姓・町人説――本当に身分の低い家の出身だったのか

浄円院の出自に関して広く知られる話の1つが、彼女やその親族はもともと町人であり、武家としての家格は後から整えられたという説である。この説の背景には、根岸鎮衛の随筆『耳嚢』に収められた浄円院の逸話がある。

『耳嚢』は、江戸時代後期に幕臣の根岸鎮衛が見聞や伝聞を記録した随筆である。そこには浄円院の徳を称える話とともに、彼女の出自や親族の取り立てに関する記述があり、巨勢家の人々がもともと町人であったという趣旨の話が伝えられている。

この記述が注目されるのは、将軍の母という高い立場にあった女性について、必ずしも名門の出身とは限らないという話が、江戸時代の社会に流通していたことを示しているからだ。ただし、『耳嚢』は浄円院の出生時に作られた戸籍や家族記録ではなく、逸話を収録した随筆であるため、記載された内容をそのまま出生の確定的な証明とすることはできない。

さらに、町人説と百姓説は、厳密には区別する必要がある。町人は都市の商工業などに携わる人々を指し、百姓は農業を中心とする村落社会の住民を指すことが多いが、実際の生活や生業は一様ではなく、移住や奉公によって生計を立てる家族も存在した。

浄円院の家族について、京都での生活、父とされる人物の死後の困窮、母子の紀州移住という説明が正しければ、彼女の生涯は単純な「豪農の娘が大奥に入った」という筋書きでは捉えられないことになる。しかし、その移住の経緯や家族の生業については、伝承と研究上の推定を分け、裏付けのある範囲で論じる必要がある。

現段階で妥当なのは、浄円院が生まれながらにして大名家の姫君だったとする見方にも、確実に百姓や町人の娘だったと断定する見方にも慎重であることだ。系譜史料と随筆、寺院に伝わる話を照合し、どの情報が独立した記録によって裏付けられるのかを確かめることが、出自を検証するうえで最も重要となる。

巡礼説と京都から紀州への移住

浄円院の生い立ちを考えるうえで、見逃せないのが、母子が巡礼として京都から紀州へやって来たという伝承である。この話は、明治時代に大立寺の住職から聞き取った内容を記録した「神野嘉功筆記」に伝えられ、『南紀徳川史』に収録された記録を通じて知られるようになった。

伝承によれば、浄円院の母と子供たちは巡礼の旅で紀州に入り、母親が病気になった際に寺院の世話を受けたという。その後、熊野巡拝を終えて帰る途中にも寺院に立ち寄り、住職らの世話によって和歌山城下で生活するようになったとされる。

この話が事実であれば、浄円院の家族は単に奉公先を求めて移住したのではなく、生活上の困難を抱えながら京都を離れ、寺院や地域社会の支援を受けて新しい生活を築いたことになる。ただし、伝承が記録されたのは出来事から長い時間が経過した明治時代であり、移住の細部まで同時代史料によって確認できるわけではない。

藤本の研究は、巨勢利清の死後に家族が困窮し、京都から移動する状況に置かれた可能性を論じている。巡礼説は、こうした移住の背景を考える手掛かりとなるが、伝承の内容すべてを確定した史実として採用するのではなく、系譜や家族関係の記録と照合して評価する必要がある。

ここで注目すべきなのは、浄円院の出自に関する話が、武家の系譜だけでなく、寺院の記録や地域の記憶にも残されていることである。異なる性格の史料を比較することによって、公式系譜だけでは見えにくい移住や生活困窮の問題を検討できる一方、それぞれの記録が成立した時代や伝承の過程にも目を向けなければならない。

大奥での身分――どのようにして将軍の側室になったのか

浄円院は、紀州徳川家2代藩主・徳川光貞に仕え、1684年に吉宗を産んだ。一般向けの解説では、和歌山城の奥向きで女中奉公をしていた際に光貞の目に留まり、側室になったという経緯が紹介されるが、奉公の具体的な職務や側室となった際の細かな事情については、史料の裏付けを確認して扱う必要がある。

ここでいう「大奥」は、江戸城内の将軍の居住空間だけを意味する言葉として使うべきではない。浄円院が仕えたのは、江戸幕府の将軍家ではなく、紀州徳川家の藩主・光貞のもとに置かれた奥向きであり、両者を混同すると彼女の経歴を誤って理解することになる。

大名家の奥向きには、女性たちが奉公し、衣食住や身辺の用務を担う仕組みがあった。奉公する女性が藩主の側室となる場合もあったが、その経緯は個々の家や人物によって異なり、すべての女中が同じような経路をたどったわけではない。

浄円院が側室となり吉宗を産んだことは、彼女の人生における大きな転機だった。吉宗は光貞の子の1人として生まれたものの、出生時から将軍になることが約束されていたわけではなく、後に紀州藩主を経て将軍に就任したことによって、母である浄円院の立場も大きく変化した。

つまり、浄円院の生涯を「身分の低い女性が将軍の母になった」という物語だけで説明するのは不十分である。紀州徳川家の奥向きという制度、藩主の子供たちの家督継承、吉宗自身の政治的な経歴、そして将軍就任後の母方親族の扱いまで含めて考える必要がある。

ここまでの検証から、浄円院の出自に関する論点は、次のように整理できる。

論点

現時点での評価

巨勢氏との関係

系譜研究で重要な検討対象となっている

町人出身説

『耳嚢』などに伝わるが、出生時の身分を確定するには追加の検討が必要

百姓出身説

町人説と区別し、具体的な根拠を確認する必要がある

巡礼説

後世の寺院伝承に見られるが、細部の確証には限界がある

大名家への奉公

紀州徳川家の側室となった経歴は確認できるが、奉公の細部は慎重に扱うべき

出自の隠蔽・改変

断定するには具体的な史料比較が必要

浄円院の出自については、家系の記録と伝承の間に異なる説明が存在すること自体が、歴史研究上の重要な問題である。ただし、それだけで徳川家が意図的に出生の秘密を隠したと結論づけることはできない。

なぜ出自は「隠され、美化」されたのか?――政治と家格の視点から分析する

浄円院の出自をめぐる議論では、武家の系譜に記された内容と、町人説や巡礼説などの伝承との違いが注目されてきた。そこから「将軍の母にふさわしい家柄を整えるため、出自が隠されたのではないか」という疑問が生まれるが、この仮説を歴史的事実として認定するには、意図的な改変を示す具体的な証拠が必要である。

江戸時代の武家社会では、家の由緒や血統が社会的な地位と密接に結びついていた。家系図や系譜は、先祖から受け継いだ家格を説明し、相続や家臣団の序列を理解するための重要な資料だったため、系譜に記載された内容を検討する際には、その家がどのような立場にあったのかを考える必要がある。

もっとも、後世の系譜に整った家族関係が記されているからといって、それだけで虚偽や隠蔽があったとは言えない。家族関係の記録が不完全だった可能性、養子縁組などによって家の構成が変化した可能性、後世の編纂者が異なる記録を整理した可能性など、複数の説明が考えられる。

浄円院の場合、息子の吉宗が将軍に就任したことで、彼女の家族関係は単なる一女性の経歴を超え、徳川将軍家の系譜に関わる問題となった。母方の親族がどのような家柄に属し、どのような経緯で社会的地位を得たのかは、将軍家を支える人間関係を理解するうえでも意味を持ったと考えられる。

しかし、ここで重要なのは、浄円院本人や徳川家が、どの程度まで出自を意識していたかを断定しないことだ。現存する史料から検討できるのは、記録された家系と伝承の違い、親族の社会的上昇、そして系譜が持った政治的な意味であり、具体的な隠蔽工作があったかどうかは別の問題である。

したがって、「出自の美化」という見方は、結論ではなく検証すべき仮説として扱うのが妥当である。浄円院の家系をめぐる記述が後世に整理されたことと、意図的に身分を偽ったことは同じではなく、両者を区別することが歴史分析の基本となる。

将軍生母としての正統性の確保

徳川吉宗は1684年に紀州徳川家の子として生まれ、1705年に紀州藩主となり、1716年に江戸幕府の八代将軍に就任した。吉宗は徳川将軍家の本家ではなく、紀州徳川家から将軍職を継いだ人物であり、その出自と将軍就任の経緯は、江戸幕府の継承制度を理解するうえで重要である。

吉宗の母である浄円院は、息子が紀州藩主から将軍へと進むにつれて、将軍生母としての高い社会的地位を得た。将軍の母という立場は、単なる家族関係にとどまらず、儀礼や贈答、親族関係、寺社との結びつきなどを通じて、幕府の社会的秩序の一部となるものだった。

ただし、吉宗が将軍になったことと、浄円院の出生時の家格が将軍家にとって問題になったことを、直接結びつけるのは慎重であるべきだ。将軍の正統性は、父母の身分だけで決まるものではなく、徳川家の血縁関係、将軍継承をめぐる政治的判断、幕府や大名たちの支持など、複数の要素によって支えられていた。

吉宗の将軍就任において重要だったのは、先代の徳川家継が幼くして亡くなり、徳川将軍家の継承者が必要になったことである。吉宗は御三家の1つである紀州徳川家の当主であり、徳川家の血統を引く成人男性として将軍に選ばれたため、浄円院の生家の家格だけを将軍就任の正当性の根拠とみなすことはできない。

一方、将軍の生母がどの家に属し、どのような経歴を持っていたかは、幕府の儀礼や親族の扱いに関係する問題だった。将軍の母方の親族が取り立てられたり、系譜上の位置づけが整理されたりする場合、それは将軍家を中心とする人間関係の再編として理解できる。

ここから導けるのは、浄円院の出自に関する記録が、個人の過去を伝えるだけでなく、将軍家と周囲の家々の関係を理解するための材料にもなるということだ。ただし、将軍生母としての権威を確立する必要があったことと、浄円院の家系が意図的に捏造されたことは別の命題であり、後者を主張するには独立した証拠が欠かせない。

親族の引き立てと「身分ロンダリング」

浄円院の出自をめぐる議論で、特に具体的な検討材料となるのが、母方の親族とされる巨勢氏の人々が、吉宗の将軍就任後に高い知行を与えられたという逸話である。『耳嚢』の「浄円院様御賢徳の事」には、浄円院の甥にあたる巨勢家の2家が、それぞれ5,000石を与えられ、将軍の側近として奉公することになったという話が記されている。

この逸話では、親族の取り立てに対する浄円院自身の反応が重要な意味を持つ。彼女は、親族が町人であり、特別な功績や能力がないのに、将軍の母方の親族であるという理由だけで高い禄を与えられることは、政治の道理に反すると吉宗を諫めたとされる。

ただし、この話は浄円院の生前に作成された公式な発言記録ではなく、後世の随筆に収録された逸話である。したがって、発言の一字一句が実際のものだったかどうかは確認できないが、将軍の外戚に対する特別な待遇が、当時の政治倫理や後世の人物評価と結びついて語られたことは読み取れる。

ここで使われる「身分ロンダリング」という表現は、現代的な比喩であり、江戸時代の制度を説明する正式な歴史用語ではない。身分を意図的に偽装したという意味で用いると、史料によって証明されていない行為を断定することになるため、本稿では、親族の社会的地位が変化し、系譜上の位置づけが整理された現象を分析するための比喩として限定的に扱う。

江戸時代の武家社会では、知行や役職を得ることによって家の経済基盤や社会的な位置づけが大きく変化した。将軍の親族が高禄を得れば、その家は経済的にも政治的にも大きな利益を受けることになるため、親族の登用には能力や功績だけでなく、将軍家との血縁関係が影響する場合もあった。

しかし、巨勢氏の親族が取り立てられたという事実だけから、彼らの家系が虚偽だった、あるいは浄円院の出自が意図的に改変されたと結論づけることはできない。ここで確認すべきなのは、親族の登用に関する記録と、巨勢氏の系譜に関する記録がどのように結びついているかであり、家格の変化と系譜の捏造は区別しなければならない。

藤本清二郎の研究が示すように、巨勢氏の家族関係を理解するには、幕臣となった後の記録だけでなく、それ以前の家族構成や他家との関係も検討する必要がある。浄円院の出自をめぐる問題は、単に「身分の低い女性が将軍の母になった」という話ではなく、近世社会における家の継承、親族の登用、血縁関係の記録という複数の問題が交差する事例なのである。

「隠蔽」よりも、記録と社会的上昇の関係に注目する

ここまでの検証では、浄円院の出自をめぐる伝承と、将軍の母となった後の親族の取り立てが、密接に結びついて語られてきたことが分かる。特に『耳嚢』は、浄円院を出自の低い女性として紹介しながら、同時に彼女の慎み深さや政治的な見識を称賛しており、出自と人格を対照させる物語を形成している。

この構造は、後世の人々が浄円院をどのような人物として記憶したかを考えるうえで重要である。高い家柄に生まれたから立派なのではなく、低い身分から将軍の母となっても驕らず、むしろ親族の過度な優遇を戒めたという物語は、理想的な母親像や政治倫理を伝える教訓として機能し得た。

一方、こうした人物像が成立していることと、浄円院の実際の生涯が逸話どおりだったことは別問題である。歴史研究では、逸話が伝える価値観と、そこに描かれた出来事の史実性を切り分ける必要がある。

浄円院の出自について、現時点で最も慎重な説明は、公式系譜、後世の随筆、家族関係に関する研究を相互に照合し、確実な事実と未確定の伝承を分けることである。出自が意図的に隠蔽されたという説を採用する場合にも、その目的や実行者、改変された記録を具体的に示す必要があり、伝承の食い違いだけでは証拠として十分ではない。

知っておくべき歴史的評価と人間像

浄円院を理解するには、出自をめぐる議論だけでなく、後世にどのような人物として記憶されてきたかを検討する必要がある。彼女について伝わる逸話は、将軍の母という高い地位にありながら驕らず、親族の利益よりも政治の公平さを重んじた女性という人物像を形作っている。

ただし、浄円院の人格を伝える逸話の多くは、彼女の生涯を同時代に記録した日記や公的な記録とは性格が異なる。とりわけ『耳嚢』のような随筆は、出来事の記録であると同時に、読者に教訓や感銘を与える話を伝える媒体でもあったため、人物評価と史実の確実性を分けて読むことが大切である。

浄円院に関する逸話が繰り返し語られた背景には、徳川吉宗の政治改革に対する後世の評価も関係していると考えられる。吉宗は倹約や財政再建を重視した将軍として知られ、その母が親族の過度な優遇を戒めたという話は、質素や公平を重んじる政治倫理と結びつきやすかった。

しかし、吉宗の政治姿勢と浄円院の実際の発言を、直接的な因果関係で結ぶことはできない。母親の教えが息子の政治理念を形成したという説明は魅力的だが、それを裏付ける同時代の記録がなければ、後世の解釈として扱うべきである。

歴史上の人物の評価には、少なくとも3つの視点が必要となる。第一に、その人物が実際に行ったと確認できる行為、第二に、同時代の人々がその人物をどう見ていたか、第三に、後世の社会がその人物にどのような道徳的意味を与えたかである。

浄円院の場合、将軍吉宗の生母であったという事実に加え、彼女の出自をめぐる伝承や親族の登用をめぐる逸話が、慎み深さや公平さを象徴する物語へと組み立てられてきた。したがって、彼女を歴史的に評価する際には、伝承に描かれた理想的な母親像をそのまま実像とみなすのではなく、その物語が何を伝えようとしていたのかまで考察する必要がある。

「三万石の時を忘れるな」――浄円院が伝えたとされる教え

浄円院の人物像を象徴する逸話として、後世まで知られているのが「三万石の時を忘れるな」という教えである。『耳嚢』の「浄円院様御賢徳の事」には、吉宗が母のもとを訪ねた帰りに、浄円院がこの言葉を繰り返し伝えたという話が収録されている。

この「三万石」は、吉宗が将軍となる以前の大名としての境遇を指すものと理解されている。吉宗は1697年に越前国丹生郡などを領する3万石の大名となり、後に紀州藩主、さらに将軍へと進んだため、この逸話は、地位が上がっても以前の境遇を忘れてはならないという教訓として読まれてきた。

ただし、逸話に記された言葉が実際に浄円院の口から発せられたかどうかは、同時代の発言記録によって確認されているわけではない。歴史的に確実なのは、後世の随筆がこの言葉を浄円院の教えとして伝えていることであり、その言葉がどの程度まで実際の発言を反映しているかは別途検討する必要がある。

この教えが持つ意味は、単なる倹約の勧めにとどまらない。将軍という最高位に上り詰めた後も、以前の境遇を忘れず、権力や富を当然のものと思わないよう戒める言葉として解釈できるからだ。

吉宗は享保の改革を進め、幕府財政の立て直しや行政の見直しに取り組んだ将軍として知られる。そのため、母が息子に質素や慎みを教えたという逸話は、吉宗の政治姿勢と重ね合わせられ、浄円院を賢母として評価する根拠の1つとなってきた。

しかし、吉宗の政策を浄円院の教えだけで説明することはできない。幕府財政の状況、米価や物価の変動、諸藩や幕臣との関係など、政治を動かした要因は多岐にわたっており、この逸話は当時の政治を直接説明する資料というより、後世に形成された道徳的な人物評価を示すものとして読むのが適切である。

「三万石の時を忘れるな」という言葉が今日まで語られているのは、地位の上昇によって人間の価値観が変わることへの警戒が、時代を超えて理解されやすいからでもある。浄円院の実際の発言だったかどうかという問題と、この言葉が後世に持った教訓的な意味は、分けて評価する必要がある。

「婦中の聖賢」としての称賛――理想の母親像はどう作られたか

『耳嚢』は浄円院を「婦中の聖賢」と称賛している。この表現は、女性の中でも特に優れた徳と賢明さを備えた人物という意味合いを持ち、浄円院の人格を高く評価するために用いられている。

この評価を支えるのが、親族の取り立てをめぐる逸話である。吉宗が将軍となった後、母方の親族とされる巨勢氏の2家がそれぞれ5,000石を与えられた際、浄円院が、将軍との血縁だけを理由に特別な待遇を与えるのは政治の道理に反すると諫めたとされる。

この話が示すのは、浄円院が親族の利益よりも公平な政治を重んじた女性として描かれていることだ。血縁関係によって利益を得ることが当然視されかねない権力社会において、身内であっても特別扱いを避けるべきだという姿勢は、理想的な政治倫理として理解しやすい。

一方で、この逸話には、出自が低かったとされる女性が、将軍の母になっても自らの立場を利用して親族を優遇しなかったという、物語としての対比がある。出自の低さと人格の高さを対照させることで、浄円院の徳が際立つ構成になっているのである。

ここには、歴史上の人物が後世に記憶される仕組みを考えるうえで重要な問題がある。人物の実際の行動だけでなく、その人物を称賛する人々が、どのような価値観を伝えようとしたのかによって、逸話の内容や評価の仕方が形作られるからだ。

『耳嚢』の記述をそのまま浄円院の実像とみなすことはできないが、少なくとも江戸時代後期の随筆において、彼女が慎みと公平さを備えた女性として語られていたことは確認できる。つまり「婦中の聖賢」という評価は、浄円院の人格を直接証明する言葉というより、後世に形成された彼女の道徳的な人物像を示す史料として重要なのである。

また、浄円院の人物像を検討する際には、女性に期待された役割という時代背景も考慮すべきである。母親が子供を正しく導き、権力を得た家族を戒め、家の名誉を守るという物語は、当時の道徳観と結びつきやすく、後世の読者にとっても教訓的な意味を持ったと考えられる。

したがって、浄円院を「賢母」として評価すること自体は、後世の人物評価を理解するうえで意味がある。ただし、彼女が実際にどのような性格で、吉宗にどのような影響を与えたかについては、逸話だけでなく、同時代の記録や家族関係を示す史料を踏まえて慎重に判断する必要がある。

今後の展望――浄円院研究で解明が期待される課題

浄円院の出自をめぐる研究は、将軍の母という著名な人物の経歴を明らかにするだけでなく、江戸時代の家族制度や身分秩序を考えるうえでも重要である。今後の研究では、既存の系譜史料を読み直すとともに、寺院の記録、家臣の家譜、書状、知行や役職に関する記録などを組み合わせ、彼女の家族がどのように社会的な位置を変えていったのかを検討することが期待される。

第一の課題は、巨勢氏の系譜と浄円院の血縁関係をさらに明確にすることである。藤本清二郎の2017年および2019年の研究は、家族構成や系譜の成立過程に疑問を提示しており、従来の説明を再検討する重要な出発点となるが、研究上の推定と確定した事実は区別しなければならない。

第二の課題は、京都から紀州への移住に関する伝承の検証である。巡礼説や寺院の世話を受けたという話について、伝承が記録された時期、語り手と浄円院との関係、他の史料との一致点を調べることで、どの部分が歴史的事実に近く、どの部分が後世に形成された可能性が高いのかを考えられる。

第三の課題は、吉宗の将軍就任後における母方親族の登用を、制度と記録の両面から調べることである。巨勢氏の知行や役職、幕臣としての経歴を同時代の記録から確認できれば、親族の社会的上昇がどのような形で進んだのかを、逸話だけに依存せずに分析できる。

第四の課題は、浄円院の人物像が後世にどのように伝えられたかという問題である。『耳嚢』に見られる「三万石の時を忘れるな」という教えや「婦中の聖賢」という称賛が、後世の歴史書や人物事典、講談、テレビ番組などでどのように紹介されてきたかを比較すれば、史実と教訓的な物語がどのように結びついたのかを明らかにできる。

2026年10月には、藤本清二郎による一般向けの研究書『紀州藩主 徳川吉宗』が吉川弘文館から刊行されている。同書は吉宗の幼少期から青年期、紀州藩主時代の政策、将軍就任に至る過程を扱っており、浄円院の生涯を息子の政治的経歴と切り離さずに理解するための関連研究として注目される。

今後は、浄円院を単に「出自の低い将軍の母」として扱うのではなく、近世の家族、奉公、血縁、家格、女性の社会的地位という複数の視点から研究を進めることが重要である。そうすることで、伝説的な賢母像の背後にある歴史的な実態に、より具体的に近づくことができるだろう。

まとめ――浄円院の「秘密」をどう理解すべきか

浄円院は、1655年に生まれ、紀州徳川家2代藩主・徳川光貞の側室となり、1684年に後の八代将軍・徳川吉宗を産んだ女性である。1726年に没するまでの生涯は、紀州徳川家の奥向き、将軍生母という立場、そして母方親族の社会的上昇という、江戸時代の身分社会を考えるうえで重要な問題と結びついている。

彼女の出自については、巨勢利清の娘または養女とする系譜上の説明がある一方、町人説や巡礼説などの伝承も存在する。和歌山大学の藤本清二郎による研究は、これらの記録を再検討し、浄円院の家族関係や京都から紀州への移動、巨勢氏の系譜の成立過程に新たな視点を提示している。

ただし、浄円院が確実に百姓や町人の娘だったと断定することも、徳川家が将軍生母にふさわしい家格を整えるために意図的な隠蔽を行ったと断定することも、現存する情報だけでは慎重であるべきだ。史料の食い違いは重要な研究課題だが、それだけで虚偽や改ざんの存在が証明されるわけではない。

一方、『耳嚢』に記された「三万石の時を忘れるな」という教えや「婦中の聖賢」という称賛は、浄円院が後世に慎み深く公平な女性として記憶されたことを示している。親族の過度な優遇を戒めたという逸話は、将軍の母という権力に近い立場にありながら、政治の公平さを重視した人物という評価を形成してきた。

最終的に、浄円院の歴史的な重要性は、彼女の出生時の身分が高かったか低かったかという一点だけでは決まらない。家族が困難な状況から紀州徳川家に関わるようになった経緯、吉宗の出世による社会的な変化、親族の登用をめぐる逸話、そして後世の人物評価を総合的に検討することが必要である。

浄円院の「秘密」を歴史的に理解するとは、劇的な隠蔽物語を作り上げることではない。確実な記録と伝承を区別し、残された史料の限界を認識しながら、近世社会において家族と身分、権力と道徳がどのように結びついていたかを明らかにすることである。


参考・引用リスト

主要な研究論文

1. 藤本清二郎「徳川吉宗の母浄円院の家族―幕臣巨勢氏の始原」『紀州経済史文化史研究所紀要』第38号、2017年、19〜44頁。和歌山大学紀州経済史文化史研究所。

2. 藤本清二郎「徳川吉宗の母浄円院の系譜―大工頭中井家との関係」『紀州経済史文化史研究所紀要』第40号、2019年、21〜52頁。和歌山大学紀州経済史文化史研究所。

主要な史料

3. 根岸鎮衛『耳嚢』巻之一「浄円院様御賢徳の事」。浄円院の出自、親族の取り立て、「三万石の時を忘れるな」という教え、「婦中の聖賢」という称賛に関する逸話を収録する。

4. 『寛政重修諸家譜』巨勢氏関係項目。江戸幕府が編纂した武家系譜史料であり、巨勢氏の家族関係を検討するための基礎史料となる。

5. 『徳川実紀』「有徳院殿御実紀」など。徳川吉宗の経歴や浄円院の呼称を確認する際に参照すべき幕府編纂史料である。

6. 『南紀徳川史』所収の浄円院関係記録および「神野嘉功筆記」。京都から紀州への移住に関する伝承を検討するための資料であり、記録の成立時期と伝承の経路に注意して利用する必要がある。

人物事典・関連研究書

7. 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「浄円院」項、講談社。生没年、吉宗との関係、巨勢利清の娘または養女とする説明などを確認するための人物事典。

8. 藤本清二郎『紀州藩主 徳川吉宗』吉川弘文館、2026年。吉宗の生い立ち、紀州藩主時代の政策、将軍就任に至る過程を扱う研究書。


追記:史料の信頼性をどう判断するか

浄円院の素性を検証する際、最も重要なのは、史料に記述があるという事実と、その記述が歴史的事実を正確に伝えているという判断を区別することである。江戸時代の系譜、幕府の編纂史料、随筆、寺院の伝承は、それぞれ成立した時期も目的も異なり、同じ基準で扱うことはできない。

例えば、『寛政重修諸家譜』は武家の家系や由緒を調べるための重要な史料だが、浄円院が生まれた1655年から約1世紀以上を経て編纂された系譜集である。したがって、記載された親子関係や家の由緒は重要な手掛かりとなるものの、それだけで幼少期の生活や出生時の身分をすべて確定することはできない。

一方、根岸鎮衛の『耳嚢』は、浄円院の人格や親族の登用をめぐる逸話を伝える点で重要である。しかし、同書は逸話や見聞を集めた随筆であり、発言の正確な記録や行政上の決定を証明する公文書とは性格が異なるため、そこに記された会話を逐語的な史実として引用することには慎重さが必要となる。

史料を評価する際には、少なくとも次の4点を確認する必要がある。

  • 成立時期: 出来事と記録の成立との間に、どれほどの時間差があるか。

  • 記録者の立場: 直接の目撃者なのか、伝聞を記録した人物なのか。

  • 記録の目的: 家系の説明、行政上の記録、人物の顕彰、教訓の伝達など、何を目的としているか。

  • 独立した裏付け: 別の史料にも同じ出来事や人物関係が記録されているか。

この基準を浄円院の出自に当てはめると、系譜に記された家族関係と、随筆に描かれた町人説や賢母の逸話を、単純にどちらか一方が正しいとして選ぶことはできない。それぞれの史料が何を伝えているのかを確認し、複数の記録が一致する部分と、特定の伝承にしか見られない部分を分けて整理する必要がある。

公式系譜と伝承を比較した最終判定

浄円院の素性について、今回取り上げた史料から導ける結論を、確実性の程度に応じて整理すると次のようになる。

検証項目

最終的な評価

吉宗の生母であること

確認できる基本的事実

生年・没年

1655年・1726年とする記録が広く用いられている

紀州徳川家の側室であったこと

確認できる基本的事実

父が巨勢利清とされること

『寛政重修諸家譜』などに基づく系譜上の説明

町人出身という説

『耳嚢』に明記されるが、出生時の身分を独立して確定するには検討が必要

巡礼として紀州に来たという説

後世の伝承として扱うべきで、細部の確証には限界がある

親族への高禄付与と浄円院の諫言

『耳嚢』に記録された逸話。発言の逐語的な史実性は確定できない

徳川家による意図的な出自の隠蔽

それを断定できる証拠は、今回検討した資料からは確認できない

特に重要なのは、町人説が単なる近代の創作ではなく、江戸時代後期に成立した『耳嚢』そのものに記されていることである。同書は、浄円院の兄弟らが紀州の町人だったと伝え、巨勢氏の親族が高禄を与えられた際に、彼女がそれを批判したという逸話を紹介している。

一方、公式系譜では巨勢氏との関係が記されており、藤本清二郎の研究は、巨勢氏の始原や中井家との関係を含めて系譜を再検討している。したがって、公式記録と伝承は単純にどちらか一方を採用すれば済むものではなく、両者の違いを説明できるかどうかが、今後の研究における重要な課題となる。

また、系譜に記された家柄と、本人が実際にどのような暮らしをしていたかは、必ずしも同じ問題ではない。武家の系譜に連なる家の出身であっても、家の没落や家族の死、移住などによって生活が困難になることはあり得るため、家柄だけから幼少期の生活水準を推測することはできない。

「秘密」の正体は何だったのか

浄円院をめぐる「秘密」という言葉には、いくつかの異なる問題が混在している。第1に、出生時の身分がどのようなものだったのかという問題、第2に、巨勢氏との血縁や養子関係をどのように理解すべきかという問題、第3に、将軍の母となった後に親族の社会的地位が変化したことを、どのような歴史的意味で評価するかという問題である。

このうち、史料に最も直接的に現れているのは、公式系譜と『耳嚢』の記述の違いである。『耳嚢』は浄円院を「至って卑賤」の出身とし、兄弟らも町人だったと伝える一方、公式系譜は巨勢氏との関係を記しており、両者の説明には明確な差がある。

ただし、記述の差が存在するからといって、直ちに誰かが事実を隠したと判断することはできない。記録の目的、成立した時期、伝聞の過程、家族関係の変化など、複数の要因が関係している可能性があるからだ。

浄円院の出自をめぐる議論を、単なる「身分の低い女性が将軍の母になった成功物語」として扱うのも適切ではない。彼女の生涯は、近世社会における女性の奉公、家族の移住、血縁と家格、権力者の親族に対する待遇、そして後世の人物顕彰という、幅広い歴史的問題に関わっている。

したがって、浄円院の「秘密」の正体を一言で表すならば、それは確定した隠蔽事件ではなく、公式の系譜、後世の伝承、将軍生母としての社会的上昇の間に残された、解釈を必要とする歴史的な空白である。史料にない事実を想像で埋めるのではなく、何が分かり、何が分からないのかを明確にすることこそ、浄円院の実像に近づくための正しい方法である。

最後に

浄円院は、徳川吉宗の生母として江戸時代の政治史に関わる重要な女性であるが、その出生や家族関係については、公式系譜と後世の伝承を照合する必要がある。特に『耳嚢』の町人説と、巨勢氏との関係を記した系譜史料の差は、彼女の素性を考えるうえで欠かせない論点となっている。

彼女の出自が意図的に美化されたと断定することはできないものの、将軍の母となったことで、親族の登用や家系の社会的な位置づけが重要な問題となったことは理解できる。また、「三万石の時を忘れるな」という教えや「婦中の聖賢」という称賛は、浄円院が慎みと公平さを重んじる人物として後世に記憶されたことを示している。

浄円院について知っておくべき最も重要なことは、出自の高低を暴くことだけが歴史研究の目的ではないという点だ。系譜と伝承を比較し、社会的な地位の変化を追い、逸話が後世に果たした役割まで検討することで、江戸時代の家族、身分、権力、道徳の関係をより深く理解できるのである。


参考・引用リスト(追記)

1. 藤本清二郎「徳川吉宗の母浄円院の家族―幕臣巨勢氏の始原」『紀州経済史文化史研究所紀要』第38号、2017年、19〜44頁。和歌山大学紀州経済史文化史研究所。

2. 藤本清二郎「徳川吉宗の母浄円院の系譜―大工頭中井家との関係」『紀州経済史文化史研究所紀要』第40号、2019年、21〜52頁。和歌山大学紀州経済史文化史研究所。

3. 根岸鎮衛『耳嚢』巻之一「浄円院様御賢徳の事」。浄円院の出自、巨勢氏の親族への待遇、「三万石の時を忘れるな」という教え、「婦中の聖賢」という評価を伝える随筆史料。

4. 『寛政重修諸家譜』巨勢氏関係項目。江戸幕府編纂の武家系譜史料。家系や親子関係の検証に用いる際には、編纂時期と記載の根拠に留意する必要がある。

5. 『南紀徳川史』所収の浄円院関係記録および「神野嘉功筆記」。浄円院の母子の紀州移住に関する伝承を検討するための資料。伝承の成立時期と伝達経路を考慮して利用する必要がある。

6. 『徳川実紀』「有徳院殿御実紀」など。徳川吉宗の経歴や幕府の公式記録を検討する際の基礎史料。

7. 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「浄円院」項。講談社、コトバンク掲載。

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