ホビ垢女子とは何者なのか、SNS時代を生きる現代人の縮図
ホビ垢女子とは単なる趣味アカウント利用者ではない。彼女たちは現代日本社会における孤独、不安、承認欲求、消費文化を体現する存在である。
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現状(2026年6月時点)
2020年代前半以降、日本のSNS文化において「ホビ垢(趣味アカウント)」は一つの巨大な社会現象となった。特にX(旧Twitter)、Instagram、TikTokを中心として、アニメ、ゲーム、アイドル、2.5次元舞台、声優、K-POP、VTuberなどを応援する女性ユーザーの活動は日常的な光景となっている。
一見すると、ホビ垢女子たちは毎週のようにイベントへ参加し、アフタヌーンティーを楽しみ、高価なグッズを大量購入し、遠征旅行を繰り返し、常に充実した人生を送っているように見える。しかし実際には、その華やかな投稿の裏側にある生活実態は必ずしも豊かではなく、むしろ厳しい労働環境や経済的不安を抱えるケースも少なくない。
SNS上で可視化されるのは「理想化された自己」であり、現実生活の苦労や孤独、経済的制約はほとんど表現されない。その結果、ホビ垢文化は現代日本社会における若年女性の承認欲求、孤独、消費行動、コミュニティ形成を理解する上で重要な研究対象となっている。
ホビ垢とは
ホビ垢とは「趣味専用アカウント」の略称である。本来はリアルの知人向けアカウントと趣味活動を切り分ける目的で作られたが、現在では単なる趣味報告の場を超え、一種の自己表現空間として機能している。
ホビ垢では本名や職業などの現実属性はほぼ消去される。代わりに「推し」「担当」「参戦歴」「グッズ量」「遠征回数」などが個人を示す主要なアイデンティティとなる。
つまりホビ垢とは趣味の記録ではなく、「推し活を中心とした人格」をSNS上に構築する場である。
「ホビ垢女子」の基本定義と分類
ホビ垢女子とは、趣味活動を中心にSNS上で自己表現を行う女性利用者を指す総称である。ただし、実際には多様な属性が混在している。
第一に「鑑賞型」が存在する。アニメやアイドルを視聴し感想を共有することが主目的であり、比較的消費額は少ない。
第二に「収集型」が存在する。グッズ、缶バッジ、アクリルスタンド、トレーディング商品などの収集を中心とする層である。
第三に「現場型」が存在する。ライブ、舞台、イベント参加が活動の中心であり、遠征費用が非常に大きい。
第四に「交流型」が存在する。推し活そのものよりも、SNS上の交流やコミュニティ参加が主目的となる層である。
実際にはこれらの属性が複合的に重なり合っている。
量産型・地雷系オタ層
量産型オタクとは、ピンクや白を基調としたファッション、ブランドバッグ、リボンやレースを多用した服装を好む女性オタク文化を指す。
地雷系はより病み系・退廃系のイメージを取り入れたスタイルであり、メイクや服装によって「傷つきやすさ」や「儚さ」を演出する傾向がある。
これらの文化は単なるファッションではなく、コミュニティ内での所属記号として機能する。つまり服装そのものが「私はこの界隈の人間です」という非言語的コミュニケーションとなっている。
現実社会で目立たない存在であっても、ホビ垢空間では量産型・地雷系という記号によって認識されやすくなる。
アフタヌーンティー(アクスタ)層
近年の推し活文化を象徴するのがアフタヌーンティー文化である。高級ホテルや人気カフェにアクリルスタンドを持ち込み、推しと一緒に食事をしているかのような写真を撮影する。
この行為の本質は食事ではない。写真を通じて「推しのいる理想的な生活空間」を演出することにある。
SNSに投稿された写真は現実の食事記録ではなく、一種の舞台装置である。そこには推しへの愛情だけでなく、美的センスや経済力、生活水準の高さを暗示する側面も含まれている。
遠征・現場至上主義層
ライブや舞台を中心に活動する層では「現場こそ正義」という価値観が強い。
SNS上では「何回参戦したか」「どの公演に入ったか」「最前列だったか」といった情報が暗黙の評価基準となる。
その結果、遠征回数がコミュニティ内の地位と結び付くことがある。北海道から福岡まで全国を移動するような活動も珍しくない。
現場参加は趣味活動であると同時に、コミュニティ内での存在証明として機能している。
画面の内の「虚構」と画面の外の「現実」
SNSに投稿される写真や文章は、多くの場合、人生のハイライトだけを切り取ったものである。
豪華なホテル、高額グッズ、遠征旅行、オタク友達との交流は頻繁に投稿される一方で、長時間労働、節約生活、精神的疲労、借金などはほとんど共有されない。
結果として、閲覧者は「みんな豊かで幸せそうだ」という錯覚を抱く。
しかし実際には、多くのホビ垢女子が現実とのギャップを抱えながら活動している。
無限の資金力に見える投稿
SNS上では大量のグッズ購入報告が日常的に流れている。
缶バッジ100個購入、ライブ全通、全国遠征、高額ホテル宿泊などを見れば、外部からは莫大な可処分所得を持つように見える。
しかし実際には、投稿されるのは支出の結果だけであり、その資金捻出過程は見えない。
SNSは消費の成果を映し出すが、消費の代償は映し出さない。
極限の生活費切り詰めと労働
多くの推し活層は、趣味費用を確保するため生活費を極限まで圧縮している。
昼食をコンビニおにぎり一個で済ませる、自炊を徹底する、衣類購入を控える、実家暮らしを続けるといった行動は珍しくない。
さらに副業、夜勤、シフト増加などによって趣味資金を確保するケースも多い。
SNSでは優雅なアフタヌーンティーが投稿されるが、その裏には数十時間の労働が存在する。
「お友達募集」で繋がる広い人脈
ホビ垢文化では「お友達募集」が頻繁に行われる。
同担、他担、現場同行者などを募集し、短期間で数百人規模のフォロワー関係を形成することもある。
現実社会では得られない趣味仲間との出会いは大きな魅力である。
特に地方在住者にとってSNSは同好の士と接触できる重要なインフラとなっている。
希薄でいつでも切れる人間関係
しかし、その人脈は必ずしも深いものではない。
推し変、界隈移動、トラブル、価値観の違いなどによって関係は容易に断絶する。
現実の友人関係と異なり、趣味という共通項が消えれば繋がりも消滅しやすい。
そのため数百人のフォロワーを抱えながら孤独感を抱くケースも存在する。
常にポジティブで楽しそうな姿
SNSではネガティブな現実よりもポジティブな瞬間が優先的に投稿される。
推しの誕生日、現場参加、グッズ購入、オタ活写真などは大量に共有されるが、失敗や苦悩は可視化されにくい。
結果としてコミュニティ全体が常に幸福そうに見える。
しかしそれは実態ではなく、選別された情報の集合体である。
終わりのない承認欲求と比較による精神的疲労
SNSは比較装置でもある。
他人の祭壇写真、グッズ量、フォロワー数、遠征回数を見るたびに、自分との比較が発生する。
比較対象が無限に存在するため、満足感は長続きしない。
承認を得ても、さらに上位の存在が視界に入るため競争は終わらない。
経済的現実:低賃金労働と「推し活破産」の瀬戸際
日本の若年女性の平均所得は決して高くない。
非正規雇用、サービス業、販売職、事務職など比較的低賃金の職種に従事する層も多く、可処分所得には限界がある。
それにもかかわらず、推し活市場はグッズ、ライブ、配信、遠征、ホテル、飲食コラボなど消費機会を無限に提供する。
結果としてクレジットカード利用や分割払いが増加し、「推し活破産」に近い状態へ陥る危険性が存在する。
精神的現実:承認欲求の無限ループと「マウント」の恐怖
ホビ垢文化では露骨な競争は否定される一方、暗黙の比較文化は強く存在する。
グッズ量、現場回数、認知の有無、フォロワー数などが非公式な評価指標となる。
そのため多くの利用者は「楽しむための趣味」でありながら、常に他者評価を意識している。
承認欲求が満たされる瞬間と不安を感じる瞬間が交互に訪れる構造となっている。
なぜ彼女たちは「ホビ垢」に生きるのか?(心理分析)
現代日本では孤独感や将来不安が拡大している。
終身雇用の崩壊、賃金停滞、結婚率低下などにより、人生設計が不透明化している。
その中でホビ垢は確実な幸福感を得られる空間として機能する。
推しは裏切らず、努力すれば反応が返り、仲間も見つかるためである。
「記号化」された自分への変身(現実逃避)
ホビ垢では本名も学歴も職歴も重要ではない。
重要なのは推しへの熱量や界隈内での活動実績である。
現実社会で評価されない人でも、ホビ垢空間では価値ある存在になれる。
これは一種のアイデンティティ再構築であり、現実逃避であると同時に自己救済でもある。
確実なリターンのある世界
現実社会の努力は報われないことが多い。
しかし、推し活ではグッズを買えば手元に残り、現場に行けば満足感が得られる。
投資に対する心理的リターンが非常に明確である。
この確実性が不確実な現実社会より魅力的に映るのである。
疑似家族・疑似コミュニティ
ホビ垢界隈は疑似家族的機能を持つ。
誕生日を祝い、現場で会い、悩みを共有することで共同体感覚が形成される。
特に単身世帯の増加や地域共同体の衰退が進む現代社会では、その役割は大きい。
しかし同時に、趣味依存型の脆弱な共同体でもある。
ホビ垢女子の構造サイクル
ホビ垢女子を取り巻く構造は、一種の循環システムとして理解できる。
現代社会の閉塞感や孤独感が出発点となり、SNS上で理想化された自己を構築する。そこで承認欲求が一時的に満たされる一方、コミュニティ内部では比較やマウント競争が発生する。
その評価を維持するために現実世界で長時間労働や過度な消費を行い、精神的・経済的負担が増大する。そして疲弊した結果、再びSNSへ逃避し、承認を求める。この循環が繰り返される。
つまりホビ垢は逃避先であると同時に、新たな負荷を生み出す装置でもある。
今後の展望
今後も推し活市場そのものは拡大を続ける可能性が高い。
デジタルグッズ、オンラインイベント、VTuber市場、ファンダム経済などはさらに成長すると予測される。
一方で、若年層の所得停滞や物価上昇は続いており、推し活コストとの矛盾は深刻化する可能性がある。
今後は「少額推し活」「オンライン中心推し活」「コミュニティ重視型推し活」への移行が進む可能性が高い。
またSNS疲れや比較疲労への問題意識も拡大しており、距離感を保ちながら趣味を楽しむ層も増加すると考えられる。
まとめ
ホビ垢女子とは単なる趣味アカウント利用者ではない。彼女たちは現代日本社会における孤独、不安、承認欲求、消費文化を体現する存在である。
SNS上では華やかな遠征、アフタヌーンティー、グッズ収集、広い交友関係が映し出される。しかしその背後には、長時間労働、生活費の切り詰め、経済的不安、比較疲労、承認欲求の競争が存在する。
ホビ垢空間は現実逃避の場でありながら、同時に自己実現の場でもある。そこでは現実社会で得られない評価や居場所が獲得できるため、多くの女性が惹きつけられる。
しかし、その幸福は常に消費と承認に依存する不安定な構造の上に成立している。ホビ垢女子の実態とは、「理想化された自己」と「厳しい現実」の間を行き来しながら生きる現代日本の若年女性像の一つの表れである。
参考・引用リスト
- 総務省『令和5年版情報通信白書』
- 総務省『通信利用動向調査』
- 内閣府『令和6年版男女共同参画白書』
- 厚生労働省『令和5年賃金構造基本統計調査』
- 厚生労働省『国民生活基礎調査』
- 国立社会保障・人口問題研究所『日本の世帯数の将来推計』
- 内閣府『孤独・孤立の実態把握に関する全国調査』
- 公益財団法人日本生産性本部『レジャー白書』
- 一般社団法人コンテンツ海外流通促進機構(CODA)各種調査資料
- 株式会社矢野経済研究所「オタク市場に関する調査」
- 株式会社ハピネット「推し活に関する消費者調査」
- 株式会社CDG・株式会社Oshicoco「推し活実態調査」
- 株式会社博報堂「ファンコミュニティ・推し活研究」
- 株式会社電通「若年層SNS利用実態調査」
- 株式会社MERY「Z世代女性ライフスタイル調査」
- 株式会社サイバーエージェント次世代生活研究所レポート
- NHK『クローズアップ現代』推し活特集各回
- 朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、読売新聞における推し活関連記事
- 学術論文:SNS利用と承認欲求、オンラインコミュニティ、若年女性消費行動、ファンダム研究、オタク文化研究に関する各種先行研究
- 心理学研究(社会的比較理論、自己呈示理論、準社会的関係論、承認欲求研究)
- 社会学研究(消費社会論、アイデンティティ論、コミュニティ論、デジタル社会論)
華やかさという名の「武装」:なぜ鎧をまとう必要があるのか?
ホビ垢文化を理解する上で重要なのは、多くの投稿が単なる自己表現ではなく「自己防衛」の側面を持つという点である。SNS上で見られる華やかな写真、高級ホテルでのアフタヌーンティー、整然と並んだ大量のグッズ、全国各地への遠征記録は、必ずしも純粋な自慢や見栄だけではない。
現代社会では、人間は常に何らかの形で評価される。学歴、勤務先、年収、容姿、結婚状況など、現実社会には数多くの比較軸が存在する。しかし若年層、とりわけ非正規雇用や低所得層、あるいは将来への不安を抱える層にとって、その競争は必ずしも有利なものではない。
その時にホビ垢は別の評価軸を提供する。現実世界では評価されなくても、「推しへの愛」「現場参戦数」「グッズ収集量」「写真センス」「界隈での知名度」などによって価値を獲得できるのである。
つまり華やかな投稿とは、「私はここにいてもいい」という存在証明でもある。
社会学者アーヴィング・ゴッフマンが提唱した「自己呈示論」の観点から見ると、人間は他者の前で一定の役割を演じる存在である。ホビ垢女子が演じる「充実した推し活ライフ」は、まさにSNS時代の自己呈示である。
しかし現代のホビ垢では、その自己呈示は単なる演出を超えている。
それは鎧である。
なぜならSNS空間は極めて残酷な比較空間だからである。
投稿しなければ存在していないのと同じになる。反応が少なければ人気がないと感じる。現場に行かなければ熱量不足と思われる。他人の投稿を見るたびに、自分の立ち位置を確認してしまう。
この環境下では、華やかさは趣味ではなく防御手段になる。
高級ホテルの写真は「私は充実している」という防壁になる。大量のグッズ写真は「私は本気で推している」という証明になる。現場報告は「私はコミュニティから取り残されていない」という安心材料になる。
本来は趣味を楽しむための行動だったものが、いつしか自己防衛のための武装へと変化していく。
その結果、本人ですら「何のためにやっているのか分からない」状態に陥ることがある。
推し活を楽しむために始めたはずなのに、気づけば評価を維持するために活動している。
楽しさよりも義務感が上回る瞬間が生まれるのである。
「脱・ホビ垢」への回帰:鎧を脱ぎ捨てる心理プロセス
興味深いことに、長年ホビ垢を続けた人々の中には、ある時期から徐々にSNS活動を縮小し始める者が少なくない。
これは単なる飽きではない。
むしろ「鎧を脱ぐ過程」として理解した方が実態に近い。
ホビ垢初期は承認が快感として作用する。
フォロワーが増える。いいねが付く。推し仲間ができる。現場で声を掛けられる。
この段階ではSNSは自己肯定感を高める装置として機能する。
しかし年月が経過すると変化が起きる。
比較疲労が蓄積する。
人間関係のトラブルを経験する。
推しの卒業や活動休止に直面する。
金銭的負担が重くなる。
何より、自分自身が年齢を重ねる。
20代前半では自然だった価値観が、30代に近づくにつれて変化していく。
その時、多くの人が気付く。
「私は誰に見せるために生きているのだろう」という疑問である。
この段階で起きるのが「脱・ホビ垢」の心理である。
最初は投稿頻度が減る。
次に現場報告をしなくなる。
フォロワー数が気にならなくなる。
そして最終的には趣味そのものは続けながら、SNS中心の活動から距離を置く。
ここで重要なのは、推しを嫌いになったわけではないという点である。
むしろ逆である。
比較や承認競争から離れることで、純粋に推しを楽しめるようになるケースも多い。
つまり脱・ホビ垢とは趣味からの卒業ではなく、「SNS依存型推し活」からの卒業なのである。
社会心理学的に見るならば、外発的動機から内発的動機への回帰とも解釈できる。
他人からの評価ではなく、自分自身の楽しさを基準にする段階へ移行するのである。
現代の若者が抱える「孤独・承認・消費」の縮図
ホビ垢女子の実態を深く掘り下げると、それは単なるオタク文化の話ではなく、現代日本社会そのものの縮図であることが見えてくる。
現代の若者は歴史上類を見ないほど多くの人と繋がっている。
しかし同時に、歴史上類を見ないほど孤独でもある。
SNSによって常時接続社会が実現した結果、人は24時間誰かと繋がれるようになった。
しかし、その繋がりの多くは断片的で流動的である。
数百人のフォロワーがいても、本当に困った時に助けてくれる人はほとんどいない。
そのため孤独感は解消されない。
孤独を埋めるために承認を求める。
承認を得るために消費する。
消費を見せるために投稿する。
投稿によって承認を得る。
しかし承認は一時的である。
再び孤独になる。
そしてまた消費する。
この循環は現代消費社会そのものの構造と一致している。
ホビ垢文化はその縮小模型である。
推し活に限らず、ブランド品、旅行、カフェ巡り、美容、ファッションなど、多くの現代的消費行動にも同じ構造が存在する。
人々は物を買っているように見えるが、本当に欲しいのは承認なのである。
そして承認の背後には孤独が存在している。
ホビ垢女子は特殊な存在ではない。
むしろ現代社会の本質を最も分かりやすく映し出している存在の一つなのである。
スマートフォンをタップする指の重み
外部から見ると、SNS投稿は極めて軽い行為に見える。
写真を撮る。
加工する。
文章を書く。
投稿ボタンを押す。
わずか数秒の作業である。
しかし当事者にとって、その一回の投稿は決して軽くない。
投稿する前には数多くの判断が行われている。
この写真で大丈夫か。
部屋が汚く見えないか。
グッズ量が少なく見えないか。
フォロワーにどう思われるか。
前回より反応が減らないか。
誰かを不快にしないか。
マウントと思われないか。
逆に地味すぎないか。
こうした無数の計算が行われた末に、ようやく投稿ボタンが押される。
スマートフォンをタップする指は軽い。
しかしその指先には、人間関係への不安、承認への期待、孤独への恐怖、自己否定への抵抗が乗っている。
たった一枚のアクスタ写真の裏にも、その人の生活が存在する。
深夜まで働いたアルバイトの時間がある。
節約した食費がある。
電車での長距離移動がある。
推しを好きになった過去がある。
孤独だった夜がある。
SNSでは結果だけが表示される。
しかし現実には、その一枚の写真の背後に膨大な人生が積み重なっている。
ホビ垢女子の本質とは、華やかな写真そのものではない。
その写真を投稿するに至った人生の重みである。
そしてそれは決して彼女たちだけの問題ではない。
現代社会に生きる私たち全員が、多かれ少なかれ抱えている問題でもある。
スマートフォンをタップするその指先には、現代人が抱える孤独、承認欲求、不安、希望が凝縮されている。
ホビ垢女子を理解するということは、単にオタク文化を理解することではない。
SNS時代を生きる人間そのものを理解することなのである。
総括:ホビ垢女子とは何者なのか――SNS時代を生きる現代人の縮図
本稿では、日本における「ホビ垢女子」の実態について、SNS文化、推し活文化、消費行動、心理学、社会学の観点から多角的に分析してきた。
表面的に見れば、ホビ垢女子とはアニメやゲーム、アイドル、舞台俳優、VTuber、K-POPなどを応援し、その活動をSNSで発信する女性たちである。彼女たちのタイムラインには、アフタヌーンティーとアクリルスタンド、整然と並んだ大量のグッズ、ライブや舞台への遠征、仲間との交流写真などが並び、一見すると華やかで幸福な趣味生活を送っているように見える。
しかし、その姿を詳細に観察すると、そこには単なる趣味活動では説明できない複雑な社会的・心理的構造が存在している。
ホビ垢は本来、「趣味専用アカウント」として誕生したものである。しかし、現在では単なる趣味記録ではなく、SNS上における自己表現の場であり、自己肯定感の供給源であり、コミュニティ参加の場であり、さらには現実社会とは異なる人格を構築するための空間として機能している。
現実社会において、人間は学歴、職業、収入、容姿、家庭環境などによって評価される。しかしホビ垢空間では、それらの属性はほぼ意味を持たない。
代わりに評価されるのは、どれだけ推しを愛しているか、どれだけ現場に足を運んだか、どれだけグッズを集めたか、どれだけ美しく世界観を表現できるかという指標である。
そこでは本名も勤務先も重要ではない。
重要なのは「推し活をしている自分」という存在である。
つまりホビ垢とは、現実社会とは異なる価値基準によって自己を再構築できる空間なのである。
だからこそ、多くの人々がそこへ惹きつけられる。
現代社会は決して生きやすい社会ではない。
若年層の所得停滞、非正規雇用の増加、将来不安の拡大、結婚率の低下、地域共同体の衰退など、多くの人々が漠然とした閉塞感を抱えている。
努力すれば報われるという物語は弱まり、人生設計の予測可能性は低下している。
そのような環境下で、人々は確実な居場所を求める。
ホビ垢はその受け皿となる。
推しは存在する。
仲間も存在する。
活動の成果も可視化できる。
努力に対して一定の反応も返ってくる。
つまり現実社会よりも「分かりやすい成功体験」を得やすい世界なのである。
しかし、その世界は決して理想郷ではない。
ホビ垢空間にも独自の競争が存在する。
誰が最も多くグッズを持っているのか。
誰が最も多く現場に参加しているのか。
誰が最も人気のあるアカウントなのか。
誰が最も推しに近い存在なのか。
表面上は平等で自由なコミュニティに見えながら、実際には数多くの比較軸が存在する。
そしてSNSという仕組み自体が、その比較を加速させる。
人間は他者と比較することで自己を認識する生き物である。
SNSはその比較対象を無限に増殖させる。
以前であれば比較対象は学校や職場の数十人程度であった。
しかし現在では全国、あるいは世界中の人々が比較対象となる。
その結果、「もっとグッズを買わなければならない」「もっと現場へ行かなければならない」「もっと映える写真を撮らなければならない」という心理が生まれる。
そこには承認欲求が存在する。
そして承認欲求の背後には孤独が存在する。
人は承認そのものを求めているのではない。
本当に求めているのは「自分には価値がある」という感覚である。
しかし現代社会では、その感覚を得ることが難しくなっている。
だからこそSNSの「いいね」が重要になる。
フォロワー数が重要になる。
反応数が重要になる。
それらは単なる数字ではなく、「自分が存在してもいい」という確認作業になっているのである。
この構造はホビ垢女子に限らない。
美容アカウントも、旅行アカウントも、グルメアカウントも、本質的には同じ構造を共有している。
ホビ垢女子はその現象が最も分かりやすく表出した存在に過ぎない。
また、本稿では「画面の内」と「画面の外」の対比についても検討した。
SNS上では華やかな写真が並ぶ。
高級ホテル。
遠征旅行。
大量のグッズ。
推しとの幸せな時間。
しかし画面の外には別の現実が存在する。
長時間労働。
低賃金。
生活費の切り詰め。
精神的疲労。
将来への不安。
人々はSNSに人生のハイライトだけを投稿する。
苦労や孤独はほとんど投稿されない。
その結果、タイムラインには幸福だけが並ぶ。
そして他者はそれを見て、自分だけが不幸なのではないかと感じる。
しかし実際には、誰もが何らかの苦労を抱えている。
SNSが見せているのは人生の一部分に過ぎない。
それにもかかわらず、人はその断片を人生全体と誤認してしまう。
そこにSNS時代特有の精神的疲労が生まれるのである。
さらに興味深いのは、多くのホビ垢女子がやがて「脱・ホビ垢」の過程を経験することである。
推しを嫌いになるわけではない。
趣味を辞めるわけでもない。
むしろSNSから距離を置くことで、本来の趣味の楽しさを再発見するケースも少なくない。
この過程は、他者評価中心の生き方から、自分自身の満足を重視する生き方への移行と解釈できる。
言い換えれば、「鎧を脱ぐ過程」である。
華やかな投稿は、自分を守るための武装でもあった。
しかし人は成長とともに、その鎧の重さに気付く。
そして少しずつ手放していく。
それは敗北ではない。
むしろ自己回復の過程である。
最終的に見えてくるのは、ホビ垢女子という存在が決して特殊な存在ではないという事実である。
彼女たちは現代日本社会に生きる若者たちの縮図である。
孤独を抱えながら繋がりを求める。
承認を求めながら比較に苦しむ。
幸福を求めながら消費を繰り返す。
現実に疲れながらも希望を探し続ける。
その姿は、SNSを利用する現代人全体に共通する姿でもある。
スマートフォンの画面に映る一枚の写真。
そこには単なる推し活の記録以上の意味がある。
その背後には労働がある。
生活がある。
孤独がある。
期待がある。
不安がある。
そして何より、「誰かと繋がりたい」「自分の存在を認めてほしい」という普遍的な人間の願いがある。
ホビ垢女子を理解するとは、オタク文化を理解することではない。
SNS時代における人間の欲望と孤独、承認と不安、希望と現実を理解することなのである。
そしてその姿は、決して彼女たちだけの物語ではない。
それはスマートフォンを手にする現代人すべての物語なのである。
