独身=さみしい?、家族という「地雷原」と独身の「不戦勝」
「独身はさみしい」という言説は、家族が孤独を解消するという一面の真実を含んでいる。
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現状(2026年6月時点)
2026年現在、日本社会は未婚化・少子化・単身世帯化が急速に進行している。総世帯に占める単身世帯の割合は過去最高水準に達し、かつて標準モデルとされた「結婚→子育て→老後」という人生設計は、もはや多数派ではあっても唯一の生き方ではなくなった。
一方で、孤独や不安に関する社会的関心は高まっている。内閣府調査では孤独感を抱える人々が一定数存在し、年齢や家族構成を問わず孤独は広く分布していることが確認されている。孤独は「独身者特有の問題」ではなく、社会全体の課題として認識されつつある。
また、不登校児童生徒数は過去最多を更新し続けており、匿名・流動型犯罪グループ(トクリュウ)による若年層の犯罪参加も社会問題化している。家族を持つことが幸福の保証にならない現実が、統計と事件の双方から可視化されている。
「独身=さみしい(不幸)?」
「独身はさみしい」「結婚すれば幸せになれる」という考え方は長らく社会通念として共有されてきた。
その背景には、人間が本質的に社会的存在であり、家族が最も安定した共同体として機能してきた歴史がある。結婚は孤独の解消装置であり、家族は精神的支柱であるという理解は決して間違いではない。
しかし問題は、「家族がある=孤独がない」「独身=孤独で不幸」という単純な図式が現実を説明できなくなっていることである。
実際には、家族の中で深刻な孤独を抱える人もいれば、独身で豊かな人間関係を築き充実した人生を送る人もいる。孤独は婚姻状態そのものよりも、人間関係の質や社会的接続の有無によって左右される。
つまり現代社会では、「独身か既婚か」ではなく、「どのような関係性を持っているか」が幸福度を決定する要因になりつつある。
家族を構成・維持することの潜在的リスク(事例の検証)
家族は安心や愛情をもたらす一方で、大きなリスクも内包する。
独身であれば自分自身の問題で完結する多くの事柄が、家族を持つことで複雑化する。配偶者の病気、失業、精神疾患、事故、犯罪被害、犯罪加害、不登校、自死など、自分では制御できない要素が人生に組み込まれる。
家族は「支え合いの共同体」であると同時に、「他者の運命を引き受ける共同体」でもある。
そのため家族を持つことは幸福の可能性を広げる一方で、苦悩の可能性も同時に拡大する。
不登校に悩む保護者
文部科学省調査では不登校児童生徒数が過去最多を更新している。2024年度には35万人を超え、12年連続で増加した。
子ども本人が苦しむことはもちろんだが、保護者の精神的負担も極めて大きい。
「なぜ学校へ行けないのか」「将来はどうなるのか」「親として何が間違っていたのか」という自責感が継続的に生じる。周囲に理解者が少ない場合、その苦しみはさらに深まる。
特に母親は24時間体制で子どもの状態に向き合うことになりやすく、社会的孤立や抑うつ状態に陥るケースも少なくない。
家族がいるにもかかわらず、保護者は強烈な孤独を感じることがある。
自死(自殺)で夫を失った妻
配偶者の自死は、家族が直面する最も深刻な危機の一つである。
残された妻は悲嘆だけでなく、「なぜ気づけなかったのか」「自分に責任はなかったのか」という罪責感にも苦しむ。
さらに経済的不安、子育て負担、社会的孤立が一気に押し寄せる。
家族は孤独を防ぐ存在であるはずだった。しかし、その中心人物が突然失われることで、かえって独身者以上の孤独が生じる場合もある。
この種の孤独は「誰もいない孤独」ではなく、「いたはずの人がいない孤独」である。
子どもがトクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)事件で逮捕された家族
近年、日本ではトクリュウによる犯罪が急増している。警察庁によると、2025年には1万2000人以上に対する摘発・検挙等が行われ、未成年関与者も1000人を超えた。
保護者にとって、子どもの逮捕は人生を根底から揺るがす出来事である。
被害者への申し訳なさ、社会的非難、地域コミュニティからの孤立、将来への不安が同時に発生する。
しかも近年のトクリュウはSNS経由で若者を勧誘するケースが多く、保護者が子どもの交友関係を把握できない場合も多い。つまり親がどれだけ努力しても完全には防げない。
ここにも「家族を持つことによるコントロール不能性」が現れている。
家族を持つことは、孤独を埋める特効薬であると同時に、自分の精神の平穏を『他者(家族)』というコントロール不可能な存在に委ねるギャンブルでもある
家族は幸福を生む。
しかし家族は、自分以外の意思を持つ独立した人格の集合体でもある。
配偶者も子どもも、自分の思い通りにはならない。
結婚や子育ては愛情の営みであると同時に、「不確実性の受容」でもある。
家族を持つとは、他者の人生と自分の人生を結び付けることであり、その結果として予想外の幸福も予想外の苦痛も引き受けることになる。
「独身のさみしさ」と「家族のなかの孤独」の比較
独身者の孤独と家族内孤独は性質が異なる。
独身者は人がいないことに苦しむ。
家族内孤独は、人がいるのに理解されないことに苦しむ。
前者は数量的欠如であり、後者は質的欠如である。
そして心理学的には後者の方が深刻化しやすい場合がある。
独身における孤独
独身者が感じる孤独の本質は、共有相手の不在にある。
帰宅しても誰もいない。
病気になっても看病してくれる人がいない。
老後への不安も存在する。
これは「存在の不在」に起因する孤独である。
しかしこの孤独は、友人関係や地域活動、趣味コミュニティなどによって一定程度軽減可能である。
家族における孤独
家族内孤独はより複雑である。
夫婦不和、家庭内別居、介護疲れ、子育てストレスなどが生じると、「近くにいるのに心が通わない」という状況が発生する。
この孤独は存在の欠如ではなく関係性の破綻から生まれる。
そのため周囲から理解されにくく、孤立感が深まりやすい。
「独身は本当にさみしい?」に対する構造的結論
結論から言えば、「独身だからさみしい」という命題は成立しない。
成立するのは、「人間関係が貧弱であればさみしい」という命題である。
独身でも豊かな社会的ネットワークを持つ人は少なくない。
逆に既婚者でも深刻な孤独を抱える人は存在する。
問題は婚姻状態ではなく、関係性の質である。
他者に人生をジャックされるリスク
家族を持つと、自分だけでは完結しない人生になる。
子どもの進路、病気、事故、犯罪、配偶者の精神状態など、自分以外の要因が人生を左右する。
これは家族の本質的特徴である。
幸福も共有されるが、不幸も共有される。
家族とは人生を共同経営する組織であり、その共同経営には必然的にリスクが伴う。
私たちが認識すべきシフト
現代社会では価値観の重心が変化している。
かつては結婚が標準であり、独身は例外だった。
しかし、現在では独身も既婚も同等の人生選択肢として存在している。
社会は「結婚するかどうか」ではなく、「どのような関係性を築くか」を問う段階に入っている。
「家族=幸福、独身=不幸」という二項対立の崩壊
高度経済成長期には家族形成が生活安定と直結していた。
しかし現代ではその構図が弱まっている。
家族は幸福の源泉にもなれば苦悩の源泉にもなる。
独身は自由の源泉にもなれば孤独の源泉にもなる。
どちらも万能ではない。
生存のための経済から自己実現のための文化へ
かつて結婚は経済共同体としての意味が強かった。
一人では生きづらかった時代には、家族形成は生存戦略だった。
しかし現代では個人で生活できる。
その結果、人々は生存ではなく自己実現を基準に結婚を考えるようになった。
結婚は義務から選択へ変化したのである。
連帯の再定義
今後重要になるのは家族以外の連帯である。
友人、地域コミュニティ、趣味サークル、オンラインコミュニティなど、多様なつながりが孤独対策として機能する。
孤独を防ぐのは必ずしも婚姻ではない。
継続的な社会的接続である。
独身がさみしいかどうかは、その人が『自由』をどう扱うかによる
独身には自由がある。
時間も金銭も意思決定も自分で管理できる。
しかし自由は空白でもある。
その空白を学習、仕事、趣味、地域活動、人間関係で満たせる人にとって、独身は必ずしも孤独ではない。
反対に自由を持て余せば孤独感は増幅する。
独身の幸福は自由の運用能力に強く依存している。
今後の展望
今後も未婚化・少子化・単身世帯化は続く可能性が高い。
同時に、家族だけに依存しない新しい連帯モデルが求められる。
重要なのは「結婚するか否か」ではなく、「孤立しないかどうか」である。
家族中心社会から関係性中心社会への移行が進む中で、人々は自らのつながりを主体的に設計する必要がある。
まとめ
「独身はさみしい」という言説は、家族が孤独を解消するという一面の真実を含んでいる。
しかし現実には、不登校に苦しむ保護者、自死で配偶者を失った妻、トクリュウ事件で子どもが逮捕された家族など、多くの人々が家族の中で深い孤独を経験している。
家族は幸福の源泉であると同時に、他者の人生を引き受ける共同体でもある。そのため家族を持つことは安心の獲得である一方、不確実性の受容でもある。
独身の孤独は「存在の不在」に由来することが多い。家族内孤独は「関係性の不全」に由来することが多い。両者は異なる形態の孤独であり、単純な優劣は存在しない。
したがって、「独身=不幸」「既婚=幸福」という図式は現代社会では成立しない。幸福や孤独を決定するのは婚姻状態そのものではなく、人間関係の質、社会との接続、そして人生の不確実性をどのように引き受けるかである。
最終的に問われるのは、「結婚したかどうか」ではない。「自分はどのような関係性を築き、どのように自由と孤独を管理しているのか」である。
現代において独身がさみしいかどうかは、その人が自由をどう扱うかによって決まる。そして家族が幸福かどうかは、その家族がどれだけ健全な関係性を維持できるかによって決まる。
孤独の問題は、独身か既婚かの問題ではない。人間が他者とどのようにつながるかという、より根源的な問題なのである。
参考・引用リスト
- 日本政府・内閣府「孤独・孤立に関する実態調査(2025年調査、2026年公表)」
- 文部科学省「児童生徒の問題行動・不登校調査(2024年度)」
- 警察庁「組織犯罪情勢報告(2025年)」およびトクリュウ関連統計
- AP通信「As Japan's yakuza weakens, police focus shifts to unorganized crime hired via social media」
- The Guardian「Tokuryū, the shadowy criminal groups taking over from yakuza in Japan」
- 日本における単身世帯・家族構造関連統計(厚生労働省・国勢調査関連報道)
- Kazuharu Yanagimoto, “A Quantitative Model of Non-Marriage and Fertility: Bargaining over Leisure” (2026)
- 孤独・不安・社会的接続に関する国内外研究および関連社会調査
なぜ「緩やかな繋がり」が鍵となるのか?
現代社会における孤独対策を考える際、多くの人は極端な二択を想定しがちである。
すなわち、「家族がいる状態」か「完全な孤立状態」かである。しかし実際の人間社会は、その中間領域によって支えられている。
近年の孤独研究では、精神的安定を支えるのは必ずしも強固な関係だけではないことが繰り返し指摘されている。むしろ日常的に接触する弱い繋がり、いわゆる「弱い紐帯(Weak Ties)」が重要な役割を果たしている。
例えば、毎週顔を合わせる趣味仲間、行きつけの喫茶店の店員、近所の住民、オンラインコミュニティの常連メンバーなどである。
これらの関係は家族ほど深くない。
しかし深くないからこそ、相手の人生問題を背負わずに済む。
家族関係では相手の失業、病気、精神疾患、借金、犯罪、介護などが自分の問題として流れ込んでくる。
一方で緩やかな繋がりは、孤独を和らげながらも人生のリスクを共有し過ぎない。
これは極めて重要な特徴である。
現代人が抱える問題は、「人との距離が遠すぎること」だけではない。
むしろ「近すぎることによる消耗」も大きな問題になっている。
家族問題の多くは距離の近さから発生する。
不登校も介護も夫婦不和も親子葛藤も、他者との距離が近いからこそ発生する。
その意味で、緩やかな繋がりは孤独と依存の中間に位置する絶妙な社会技術である。
孤立せず、しかし巻き込まれ過ぎない。
現代社会において最も持続可能な人間関係とは、この中間領域に存在している可能性が高い。
独身の「自由」という劇薬の扱い方
独身の最大の特徴は自由である。
しかし自由は一般に考えられているほど単純な恩恵ではない。
自由とは可能性の拡大であると同時に、責任の集中でもある。
結婚生活には制約がある。
配偶者や子どもに配慮しなければならない。
しかしその制約は同時に生活の構造を提供する。
朝起きる理由がある。
働く理由がある。
帰宅する理由がある。
人生の方向性がある。
一方で独身者にはそれが存在しない。
自由だから何でもできる。
だが何をするかは自分で決めなければならない。
自由は幸福の源泉にもなるが、空虚の源泉にもなる。
実際、独身生活で問題になるのは孤独そのものよりも、目的喪失である場合が多い。
休日に何をするか分からない。
退職後に何をすればいいか分からない。
人生の意味が見えない。
これは自由が過剰供給された結果とも言える。
自由とは酒や薬と同じである。
適量なら人生を豊かにする。
しかし過剰摂取すると自己崩壊を招く。
独身生活が充実する人と破綻する人の違いは、この自由という劇薬を管理できるかどうかにある。
自由は放置すると空白になる。
意識的に使うことで初めて価値へ変わる。
家族という「地雷原」と独身の「不戦勝」
家族の幸福について語る際、多くの人は成功事例だけを見る。
愛する配偶者。
健全な子ども。
平和な家庭。
しかし実際には、家族形成とは巨大な不確実性への参加でもある。
結婚した瞬間から人生は共同事業になる。
そして共同事業には必ずリスクが存在する。
配偶者の病気。
配偶者の精神疾患。
離婚。
不倫。
介護。
不登校。
ひきこもり。
依存症。
犯罪被害。
犯罪加害。
自死。
これらは誰にも完全には予測できない。
どれだけ真面目な人でも遭遇し得る。
つまり家族形成とは、本質的にリスクを引き受ける行為なのである。
ここで誤解してはならないのは、「だから結婚するな」という話ではないということである。
重要なのは、家族には幸福だけでなく巨大な不確実性も含まれていると認識することである。
独身者はこのゲームに参加していない。
その結果として、配偶者問題も子ども問題も発生しない。
もちろん独身には独身の孤独や老後不安が存在する。
しかし少なくとも「他人の人生トラブルによって人生が破壊されるリスク」は大幅に低下する。
ある意味では独身とは、不幸にならない保証ではなく、「特定種類の不幸を回避した状態」とも言える。
これは幸福論ではあまり語られない視点である。
「家族」は絶対的な防空壕ではない
家族を持てば安心できる。
家族がいれば孤独にならない。
この考え方は長らく社会常識だった。
しかし現実には、家族そのものが危機の発生源になることがある。
家庭内暴力。
虐待。
モラルハラスメント。
介護疲れ。
夫婦不和。
経済問題。
親子対立。
これらはすべて家族内部で発生する。
つまり家族は防空壕であると同時に、時として戦場そのものにもなり得る。
特に現代社会では、家族に期待される機能が過剰化している。
経済共同体。
育児共同体。
感情共同体。
介護共同体。
精神的支援共同体。
かつて地域や親族が分担していた役割を、核家族だけで担うようになった。
その結果、家族にかかる負荷は歴史的に見ても非常に大きくなっている。
家族が壊れたとき、その衝撃もまた大きくなる。
したがって家族を絶対視する発想は危険である。
家族は重要な支援資源の一つではある。
しかし唯一の支援資源ではない。
家族以外の繋がりを持つことは、家族を補完する安全装置としても機能する。
独身の平穏は「資産」である
現代社会では、幸福はしばしば加算で考えられる。
年収が高い。
配偶者がいる。
子どもがいる。
家がある。
友人が多い。
これらを積み上げることで幸福になると考えられている。
しかし人生には別の見方も存在する。
それは「失わないこと」の価値である。
精神的に安定している。
大きなトラブルがない。
夜に安心して眠れる。
明日を過度に恐れない。
こうした状態は当たり前に見える。
だが実際には極めて貴重である。
不登校問題に苦しむ親。
介護で疲弊する配偶者。
犯罪加害者の家族。
自死遺族。
こうした人々にとって最も欲しいものは、往々にして平穏である。
独身者は何かを持っていないことに目が向きやすい。
配偶者がいない。
子どもがいない。
家庭がない。
しかし別の角度から見れば、多くの重荷も背負っていない。
人生において重要なのは、獲得した幸福だけではない。
回避できた不幸にも価値がある。
この視点は現代社会で過小評価されている。
平穏は退屈ではない。
平穏は人生が大きく破壊されていない状態である。
それは健康と同じで、失って初めて価値が分かる。
独身者が持つ平穏は、単なる現状維持ではない。
それは人生における重要な資産の一つである。
孤独を避けるために家族を持つ時代から、平穏を維持しながら繋がりを設計する時代へ
20世紀型社会では、孤独への対抗策として家族形成が重視された。
実際、それは多くの人に幸福をもたらした。
しかし21世紀の日本では、家族が万能の解決策ではないことが広く可視化されている。
不登校、自死、介護、離婚、トクリュウ問題、精神疾患、経済不安など、多くのリスクが家族内部で発生している。
その結果、「孤独を避けるために結婚する」という発想そのものが揺らぎ始めている。
今後重要になるのは、家族か独身かという二択ではない。
孤立せず、しかし過度に依存もしない関係性をいかに設計するかである。
その中心に位置するのが「緩やかな繋がり」である。
そして独身者にとって最大の課題は孤独そのものではなく、自由という劇薬をどう管理するかである。
自由を目的に変えられる人にとって、独身は孤独な状態ではなく、高い自律性と平穏を享受できる生き方になる。
逆に自由を持て余せば、家族がいなくても孤独は生じる。
したがって現代社会における本質的な問いは、「結婚するべきか」ではない。
「自分はどのような繋がりを持ち、どのような人生のリスクを引き受け、どのように自由を運用するのか」である。
その意味で、独身の平穏は単なる消極的な状態ではない。
それは不確実性の高い時代において、慎重に管理されるべき重要な人生資産なのである。
最後に
本稿では、「独身はさみしいのか」という一見単純な問いを出発点として、現代日本社会における家族、孤独、自由、幸福、不確実性の問題について多角的に検証してきた。
結論から言えば、「独身はさみしい」「結婚すれば幸せになれる」という従来の常識は、もはや現代社会を十分に説明できなくなっている。
かつての日本社会では、結婚と家族形成は生活基盤そのものだった。一人で生きることは経済的にも社会的にも困難であり、結婚は生存戦略として合理性を持っていた。家族は経済共同体であり、介護共同体であり、子育て共同体であり、老後保障システムでもあった。そのため、「家族を持つこと=幸福への道」という考え方には一定の現実的根拠が存在した。
しかし21世紀に入り、その前提条件は大きく変化した。
女性の社会進出、単身生活の一般化、デジタル技術の発達、価値観の多様化、少子高齢化、未婚化などの社会変化によって、人々は家族を持たなくても生きていけるようになった。結婚は義務ではなく選択となり、家族は標準装備ではなく人生の一つの選択肢となった。
その結果、「結婚するかどうか」よりも、「どのような人生を送りたいか」が重要な時代へと移行している。
一方で、家族が万能の幸福装置ではない現実も明らかになっている。
本稿で取り上げた不登校に悩む保護者、自死によって夫を失った妻、トクリュウ事件で子どもが逮捕された家族などの事例は、その象徴である。
これらに共通しているのは、本人に責任があるとは限らないにもかかわらず、家族という関係性を通じて深刻な苦悩を引き受けることになる点である。
親がどれほど愛情を注いでも子どもが不登校になることはある。
配偶者をどれほど支えていても、自死を防げない場合がある。
真面目に子育てをしていても、子どもが犯罪に巻き込まれる可能性はゼロではない。
つまり家族を持つということは、幸福を得る可能性を広げる一方で、自分では制御できない他者の人生リスクを引き受けることでもある。
家族は愛情の共同体であると同時に、不確実性の共同体でもある。
この点は現代社会において極めて重要である。
なぜなら、多くの人が結婚を「孤独の解決策」として考える一方で、家族の中に存在する孤独を見落としがちだからである。
独身者が感じる孤独の多くは、「存在の不在」による孤独である。
帰宅しても誰もいない。
病気になったときに頼れる人がいない。
人生を共有する相手がいない。
こうした孤独は確かに存在する。
しかし家族の中にも別種の孤独が存在する。
それは「関係性の不全」による孤独である。
同じ家に住んでいても理解されない。
毎日顔を合わせていても心が通じない。
夫婦関係が破綻している。
子どもとの関係が崩壊している。
介護や育児によって精神的に追い詰められている。
こうした孤独は、むしろ他者が近くにいるからこそ発生する。
そして多くの場合、「家族がいるのだから孤独ではないはずだ」という社会的思い込みによって、さらに見えにくくなる。
つまり現代社会において重要なのは、独身か既婚かという区分ではない。
本当に重要なのは、その人がどのような関係性の中で生きているかである。
孤独の本質は婚姻状態ではなく、人間関係の質によって決まる。
この視点から見たとき、現代社会において大きな意味を持つのが「緩やかな繋がり」である。
従来の社会は、家族という強い繋がりを中心に構成されていた。
しかし現代では、家族だけに依存することの危険性が明らかになっている。
一方で、完全な孤立もまた人間にとって有害である。
そこで重要になるのが、友人、趣味仲間、地域コミュニティ、オンラインコミュニティなどによる中程度の距離感を持った関係性である。
これらの関係は家族ほど重くない。
相手の人生を背負う必要もない。
しかし孤立を防ぎ、精神的な安定をもたらす機能を持っている。
現代人に求められているのは、依存でも孤立でもない。
適切な距離感を持った連帯である。
また、本稿では独身という生き方についても再検討した。
独身最大の特徴は自由である。
時間の使い方も、お金の使い方も、住む場所も、働き方も、自分で決められる。
しかし自由は無条件に幸福をもたらすわけではない。
自由は可能性の拡大であると同時に、責任の集中でもある。
誰からも制約されないということは、誰も人生の方向性を与えてくれないということでもある。
そのため独身者が直面する最大の課題は、孤独そのものではなく、自由をどう運用するかである。
自由を学習や仕事や趣味や社会参加に転換できる人は、独身生活を豊かなものにできる。
しかし自由を持て余せば、人生は空白化し、孤独感は増大する。
独身がさみしいかどうかは、結局のところ自由を管理できるかどうかに大きく左右されるのである。
さらに重要なのは、「平穏」の価値である。
現代社会では幸福を加算で考える傾向が強い。
配偶者がいる。
子どもがいる。
家がある。
高収入である。
友人が多い。
こうした要素を積み上げることが幸福だと考えられがちである。
しかし人生には別の評価軸も存在する。
それは「大きな不幸が存在しないこと」である。
精神的に安定している。
大きな家庭問題がない。
深刻な対人トラブルがない。
夜に安心して眠れる。
これらは当たり前のようでいて、実は非常に価値が高い。
不登校、介護、離婚、自死、犯罪、依存症などの問題に直面した人々の多くは、幸福よりもまず平穏を求める。
その意味で、独身者が保有している平穏は決して軽視できるものではない。
独身者は配偶者問題や子ども問題を抱えない。
もちろん孤独や老後不安は存在する。
しかし少なくとも、他者の人生によって自分の人生が激しく揺さぶられるリスクは相対的に低い。
これは現代社会において一種の資産と考えることもできる。
最終的に、本稿を通じて浮かび上がるのは、社会そのものの価値観の転換である。
私たちは長らく、「家族=幸福」「独身=不幸」という二項対立の中で生きてきた。
しかし現実はそれほど単純ではない。
家族には幸福もあれば苦悩もある。
独身には自由もあれば孤独もある。
どちらも万能ではない。
どちらもリスクと可能性を同時に抱えている。
だからこそ、現代人が向き合うべき問いは、「結婚するべきか、独身でいるべきか」ではない。
本当に問われるべきなのは、「どのような関係性を築くのか」「どのようなリスクを引き受けるのか」「どのように自由を運用するのか」である。
孤独の問題は婚姻状態の問題ではない。
幸福の問題も婚姻状態の問題ではない。
それは人間がどのように他者と繋がり、どのように人生の不確実性を受け入れ、どのように自らの自由を使いこなすかという問題である。
21世紀の日本社会は、「家族を持てば安心」という時代から、「自ら関係性を設計する時代」へ移行している。
その変化の中で重要になるのは、家族か独身かというラベルではない。
孤立せず、依存し過ぎず、平穏を守りながら、多様な人間関係を構築していく能力である。
そして独身が本当にさみしいかどうかは、婚姻届の有無によって決まるのではない。
その人が自由をどのように使い、どのような繋がりを築き、どのような人生を主体的に設計しているかによって決まるのである。
