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藤堂高虎:主君を何度も変えながら生き残り、津などを豊かにした築城の天才

藤堂高虎は戦国時代の激しい権力変動を生き抜き、最終的に徳川政権下で大大名へ成長した武将である。
『信長の野望』シリーズに登場する藤堂高虎(コーエーテクモゲームス)

藤堂高虎」は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、現在では特に「築城の名手」として知られる人物である。今治城、伊賀上野城、津城などとの関係から、石垣・堀・縄張りを巧みに組み合わせた城郭設計者として語られることが多い。

しかし、高虎を単純に「城を造るのがうまかった武将」と理解するだけでは、その人物像の核心には届かない。高虎の最大の特徴は、戦場で武功を上げるだけではなく、主君を失うたびに自らの立場を再構築し、軍事・行政・土木・都市計画という複数の能力を組み合わせながら大名として生き残った点にある。

とりわけ現代の研究や地域史の視点から重要なのは、高虎を「主君を何度も変えた裏切り者」とする従来型の人物評価から一歩進め、16世紀末から17世紀初頭という激動期の政治構造の中で評価することである。当時は織田・豊臣・徳川という巨大な権力が相次いで台頭し、戦国大名や家臣団の再編が急速に進んでいたため、主従関係そのものが現代とは異なる流動性を持っていた。

さらに高虎の場合、主君を変えた経験そのものが、後の政治的・技術的能力の形成につながった可能性が高い。異なる主家に仕え、戦闘だけでなく普請や行政に携わった経験が、後に大規模な城郭建設や城下町整備を指揮する能力へと結びついていったと考えることができる。

2026年現在、高虎を評価するうえでは「何人の主君に仕えたのか」という数字だけを見るのでは不十分である。むしろ、なぜ主君を変えざるを得なかったのか、各段階でどのような能力を身につけたのか、そして最終的に徳川政権下でどのような役割を果たしたのかを連続したキャリアとして捉える必要がある。

藤堂高虎とは

藤堂高虎は1556年、近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県甲良町周辺に生まれたとされる。身長が高く、体格にも恵まれていたと伝えられ、若い頃から武勇を発揮したが、後世に残した最大の功績は単純な戦闘能力ではなく、政治と土木を結びつけた実務能力にある。

高虎は最終的に伊勢・伊賀を領する大名となり、津藩の基礎を築いた。関ヶ原の戦い後には徳川家康から高く評価され、その後の徳川政権においても重要な役割を果たしている。

高虎の生涯を理解するうえで重要なのは、彼が最初から大大名だったわけではないという点である。むしろ若い時期には所属する主家が安定せず、主君の死や家の没落によって自らの立場を失うという経験を繰り返している。

この経験が高虎に「個人の忠誠だけでは生き残れない」という現実を強く認識させた可能性がある。もちろん、本人の内心を史料から完全に確認することはできないため、これは後世の行動から推測される人物像として慎重に扱う必要がある。

一方、高虎は単に権力者へ近づく人物でもなかった。仕えた主家のもとで戦闘、普請、外交、行政などさまざまな実務を経験し、それらを自らの能力として蓄積していった点に大きな特徴がある。

この意味で高虎は、戦国時代の「武将」という言葉だけでは説明しにくい人物である。戦闘を担当する武士であると同時に、土地を測り、人員を動かし、城を設計し、町を整備し、領国を経営する「総合的な実務家」でもあった。

「主君を何度も変えた」の真相:変節漢か実力主義のプロフェッショナルか

藤堂高虎について最も有名で、同時に誤解されやすいのが「主君を何度も変えた」という経歴である。一般的な高虎像では、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長、秀保、秀吉、徳川家康など、複数の主君に仕えた人物として紹介されることがある。

このため現代的な感覚から見ると、「忠義がなく、強い者に次々と乗り換えた人物」という印象を持ちやすい。しかし、戦国時代の主従関係は現代の会社員と雇用主の関係とは異なり、主家そのものが戦争によって滅亡したり、領地を失ったり、家臣団が解散したりすることが珍しくなかった。

高虎の場合も、自らの意思だけで自由に主君を選び続けたと考えると実像を見誤る。仕えていた主家が滅亡・没落することで、新たな主君を求めざるを得なくなった局面が存在するからである。

特に戦国時代後半になると、武将にとって「どの家に仕えるか」は生命と家の存続に直結する問題だった。戦死、改易、領地没収、主家断絶などによって職を失った武士が、新たな主君を探すことは決して高虎だけの特殊な行動ではない。

むしろ高虎の特殊性は、主家が変わるたびに自分の能力を高め、その経験を次の仕官先で評価させることに成功した点にある。特に後世の評価につながるのは、秀長・秀保の時代に得た経験と、その後の徳川家康との関係である。

したがって、「変節漢」という評価には一定の根拠となる行動がある一方、それだけで高虎の生涯を説明することはできない。より妥当なのは、戦国時代という不安定な社会において、自らの生存と家の存続を優先しながら、能力によって地位を上昇させた「実力主義的なキャリア形成」と見ることである。

もちろん、これは高虎の行動をすべて正当化するという意味ではない。主君への忠誠を重視する価値観から見れば、仕官先を変えた回数の多さは批判の対象になり得るし、後世に「七度主君を変えた」というイメージが形成されたことも事実である。

重要なのは、数字そのものよりも「なぜ変えたのか」である。主家の滅亡や政治情勢の変化によって移動した場合と、単純に自分の利益だけを求めて主君を裏切った場合では、その歴史的意味は大きく異なる。

そして高虎の生涯を見ると、主家の変化と自身の能力形成がほぼ並行して進んでいることが分かる。若年期の流転、豊臣秀長との出会い、豊臣政権下での実務経験、そして徳川家康への接近という流れは、後の「築城の天才」を形成する一連の過程として理解できる。

つまり、高虎の「主君替え」は単なる欠点ではなく、彼の人生そのものを形作った要素でもあった。仕える相手が変わるたびに、新しい政治環境、新しい技術、新しい人脈、新しい仕事を経験し、それを次の段階へ持ち込んだからである。

この観点から見ると、高虎は「忠義の武将」という古典的な評価軸だけでは測りにくい人物になる。戦国という不確実な時代において、自分が置かれた環境を分析し、そこで必要とされる能力を身につけ、次の機会につなげていくという、極めて現実的な生存戦略を実践した武将だったと評価できる。

ただし、高虎の評価を決定的に変えた人物がいる。それが豊臣秀長である。

初期の流転(主家の滅亡・没落)

藤堂高虎の人生を理解するには、まず青年期の不安定な境遇を見る必要がある。1556年に近江国で生まれた高虎は、戦国大名同士の抗争が激化する時代に武士として成長し、早い段階から複数の主家を渡り歩くことになった。

高虎が最初に仕えたとされる浅井氏は、近江を代表する戦国大名であった。しかし、織田信長との対立が激化した結果、1573年に浅井長政が滅亡すると、高虎も仕えるべき主家を失うことになった。

ここで重要なのは、高虎が主君を変えたという事実だけではない。仕えていた大名家そのものが戦争によって消滅すれば、その家臣も生活基盤を失うため、新たな主家を探す必要が生じるからである。

高虎はその後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄などに仕えたとされる。この時期は後年の大名としての高虎から見ると、まさに「流転」の時代であり、安定した領地や家臣団を持たない一武士として、自らの能力を証明し続ける必要があった。

しかし、この不安定さは高虎にとって単なる不幸ではなかった。異なる主家に仕えることで、それぞれの軍事組織や統治方式に接することができ、武勇だけではなく、組織を動かすための実務能力を身につける機会にもなったと考えられる。

戦国時代の武士にとって、戦場で功績を挙げることは重要だったが、それだけで長期的な地位を保証されるわけではなかった。領地を支配し、城を維持し、兵糧を確保し、家臣や領民を統制する能力もまた、大名に近づくほど重要になった。

高虎の後半生を見ると、こうした実務能力が次第に前面へ出てくる。若い頃の流転は、その後の飛躍を準備する「経験の蓄積」として見ることができる。

豊臣秀長との運命的な出会い

高虎の人生における最大の転機の一つが、豊臣秀長への仕官である。秀長は豊臣秀吉の異父弟として知られ、秀吉の天下統一事業を軍事・政治の両面から支えた重要人物であった。

高虎が秀長に仕えた時期については史料上の細部に議論があるものの、1580年代には秀長の家臣として活動していたことが確認できる。ここから高虎の経歴は、それまでの流転型の武士から、豊臣政権を支える有力な実務型武将へと大きく変化していく。

秀長のもとで高虎が経験した仕事は、戦闘だけではなかった。豊臣家の勢力拡大にともなって城郭の整備、領地の支配、兵站、普請など、多種多様な仕事が発生しており、高虎はこうした大規模な事業に関わる機会を得た。

ここで築城家としての高虎を考えるうえで重要な視点が生まれる。城は単なる「戦うための建物」ではなく、軍事拠点、行政拠点、物流拠点、そして城下町形成の中心だったということである。

したがって築城には、石垣を積む技術だけではなく、地形を読む能力、必要な資材を集める能力、人員を配置する能力、工事を短期間で完成させる能力が必要になる。さらに完成後には、城下町の商業や交通を整備し、領国全体を機能させる必要があった。

秀長の領国経営は、こうした実務能力を身につけるうえで高虎にとって非常に重要な環境だったと考えられる。特に大和・紀伊方面を含む広域支配に関わった経験は、後の高虎の行政能力を考える際に無視できない。

高虎が秀長に重用された背景には、武勇だけではなく、命じられた仕事を具体的な成果へ結びつける能力があったとみられる。後に高虎が「築城の名手」として知られるようになることを考えると、この時期は彼のキャリアにおける技術的・組織的な基礎形成期だったと位置づけられる。

さらに秀長は、秀吉の側近として政治的にも重要な人物だった。秀長のもとで働いたことで、高虎は単独の武将としてではなく、大規模な権力機構の中で仕事を進める方法を学んだ可能性がある。

この経験は、後に徳川家康から高く評価される際にも大きな意味を持った。徳川政権が必要としたのは、単純に戦場で強い武将だけではなく、大規模な城郭建設や領国統治を任せられる人物でもあったからである。

主家断絶と出家・そして徳川への傾倒

高虎の人生には、秀長の死という大きな転換点も存在する。秀長は1591年に死去し、その後は養嗣子の秀保が家督を継いだが、秀保も1595年に若くして死去した。

ここで高虎は再び、自らを支えていた主家の大きな変化に直面することになった。若年期に浅井氏の滅亡を経験した高虎にとって、長年仕えた秀長系統の家が事実上消滅していくことは、人生の根本を揺るがす出来事だったと考えられる。

高虎は一時出家して高野山に入ったとされる。この行動は、単なる宗教的信仰だけではなく、武士としての人生を一度終わらせるほどの精神的転換を示すものとして理解されてきた。

しかし、秀吉から還俗を促され、その後も豊臣政権の中で活動することになる。ここでも高虎の特徴が表れている。主家が変化するたびに完全に過去を捨てるのではなく、その時点で得た人脈と経験を新しい政治環境へ持ち込んでいるのである。

やがて高虎は徳川家康との関係を深めていく。豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成らとの対立が深まる中で、高虎は徳川方として行動することになる。

1600年の関ヶ原の戦いは、高虎の人生を決定的に変えた事件であった。高虎は東軍に属して戦い、その功績によって徳川政権における地位を大きく高めていく。

ここで「高虎は強い者に乗り換えた」と単純化するのは適切ではない。徳川家康との関係は、関ヶ原の直前に突然生まれたものではなく、豊臣政権末期から形成された政治的・人的関係の延長として理解する必要がある。

家康にとっても、高虎は単なる一武将ではなかった。豊臣政権の内部事情を知り、大規模な普請を経験し、軍事と行政の両方に対応できる高虎は、徳川が新しい政権を構築していく過程で利用価値の高い人材だった。

そして高虎自身にとっても、徳川家康への接近は自らの家を存続させ、さらに発展させるための重要な選択だったと考えられる。戦国大名の家が次々と消えていく時代において、強固な政権基盤を持つ徳川家に仕えることは、極めて合理的な判断だった。

「築城の天才」の原点と技術的革新

高虎を後世まで特徴づけたのが、城郭建設に対する卓越した能力である。ただし、「高虎が一人で城を設計し、石垣を積み上げた」と考えるのは正しくない。

大規模な築城工事には、普請奉行、石工、大工、土木作業員、運搬担当者など、多数の専門職が必要だった。高虎の能力とは、こうした専門家の技術を理解し、地形・軍事・物流・行政という複数の条件を一つの城郭計画へ統合することにあったと考えられる。

この点で高虎は、現代的にいえば「設計者」であると同時に「プロジェクトマネージャー」に近い側面を持っていた。城そのものの美しさだけではなく、工事を実行し、完成後に城と町を機能させるところまで考える必要があったからである。

高虎が関係した城郭には、今治城、伊賀上野城、津城などがある。さらに江戸城や丹波亀山城など、徳川政権下の大規模な普請事業とも関係しており、彼の築城能力は個人的な趣味ではなく、政権運営を支える実務能力として評価された。

特に注目すべきなのが、海や河川などの自然地形を城郭防御に積極的に取り込んだ点である。今治城は海水を引き入れた堀を持つ代表的な海城として知られ、海上交通と防御機能を結びつけた構造になっている。

これは単純に「堀を深くすれば強い」という発想とは異なる。地形そのものを巨大な防御施設として利用することで、人工的に造成する土木工事を抑えながら、防御力と物流機能を同時に高める考え方である。

高虎の築城を特徴づけるのは、こうした合理性である。地形、石垣、堀、門、道路、港、城下町を別々に考えるのではなく、それぞれを一つの都市システムとして組み合わせていく。

そして、この考え方は高虎の領国経営にもつながっていく。城を強固にするだけではなく、その周囲に人と物が集まり、商業や行政が機能する町を形成することで、城は領国支配の中心へと変わる。

高虎が後に津を本拠地として整備していく際にも、この発想が重要な意味を持った。津城の改修は城だけの工事ではなく、周辺の水系、道路、町割り、交通を含む都市改造として捉える必要がある。

この段階で、高虎の「築城の天才」という評価の本当の意味が見えてくる。彼は石垣を高く積む技術者というより、軍事施設と都市、自然地形と物流、政治権力と土木技術を結びつける総合的な設計者だったのである。

現場(実務)で磨かれた土木・マネジメント力

藤堂高虎の築城能力を理解するうえで重要なのは、彼を単純な「城の設計者」として捉えないことである。大規模な近世城郭は、地形調査、縄張り、石垣普請、堀の造成、建築、資材調達、人員配置、輸送、工程管理など、多数の作業を同時に進めなければ完成しない巨大な公共事業だった。

高虎が評価されたのは、こうした複雑な事業を政治権力と結びつけて実行できた点にある。津市の資料でも、高虎は「縄張り」や「普請」を担った築城の名手として紹介され、平城であっても高い石垣と広い内堀を組み合わせる城づくりを進めたとされている。

特に高虎の経歴を見ると、関ヶ原後の今治城築城だけでなく、近江膳所城、伏見城、江戸城、丹波篠山城、丹波亀山城、伊賀上野城、津城など、徳川政権下の重要な普請に次々と関わっている。津市が公開する略年譜でも、1601年の膳所城、1604年の伏見城、1606~07年の江戸城、1609年の丹波篠山城、1610年の丹波亀山城、1611年の津城・伊賀上野城という流れが確認できる。

この経歴から見えてくるのは、高虎が「一つの城を造る名人」ではなく、複数の大規模普請を任せられるプロフェッショナルだったということである。城郭建設を繰り返し経験することで、異なる地形や政治的条件に応じて設計を変更する能力を蓄積していったと考えられる。

さらに重要なのは、城づくりと人材活用を切り離せないことである。巨大な石垣を築くには石工などの専門技術者が必要であり、木造建築には大工集団が必要となるため、大名自身がすべての技術を持っている必要はない。

むしろ大名に求められたのは、専門家の能力を把握し、適切な場所に配置し、必要な資材と労働力を確保し、政治的に必要な期限までに工事を完成させる統率力だった。現代の言葉に置き換えれば、高虎は「職人」だけではなく、技術者集団を束ねるプロジェクト・マネージャーとしての能力を持っていたと考えることができる。

高虎式築城の主な特徴

「高虎式築城」という言葉を使う場合には注意が必要である。高虎がすべての城に同一の設計思想を適用したという意味ではなく、各地の城を比較すると、高い石垣、広い堀、地形の有効利用、合理的な曲輪配置、交通・水運との連携など、共通して見られる特徴を抽出できるという意味で理解するのが適切である。

特に高虎の築城術を特徴づけるのは、自然地形を敵としてではなく、城郭の一部として利用する発想である。海、河川、湿地などを巧みに組み込めば、すべてを人工的な土木施設で補う必要がなくなり、防御と物流を同時に成立させることができる。

今治城は、この思想を考えるうえで非常に分かりやすい事例である。今治市によれば、今治城は瀬戸内海に面した海岸に築かれた大規模な平城で、海水を引き入れた広大な堀と、城内の港として国内最大級とされる船入を備えていた。

つまり高虎の城は、山頂に築かれた典型的な山城とは異なる方向へ進んでいた。巨大な石垣と水堀を人工的に構築しながら、海や河川という自然条件も防御と輸送のために積極的に利用していたのである。

高い直線的石垣

高虎の城を語るとき、しばしば「高い石垣」が重要な特徴として挙げられる。特に近世城郭の発展期には、戦国時代の山城に多く見られた自然地形中心の防御から、平地に人工的な高石垣と広大な堀を配置する城郭へと大きく変化していった。

高虎が活動した時代は、この転換が進んだ時期と重なる。高虎は平地でも十分な防御力を確保するため、石垣と堀を組み合わせ、城の内部に複数の曲輪を配置する方式を発展させていった。

ただし、「高虎は高くて直線的な石垣を発明した」と断定するのは適切ではない。高石垣や直線的な石垣そのものは高虎以前から存在しており、織豊系城郭の発展過程の中で形成された技術だからである。

高虎の特色は、そうした時代の技術を大規模な城郭計画の中で効果的に組み合わせた点にある。特に伊賀上野城では高い石垣を持つ堅固な城を整備し、津城では高石垣と広い堀を組み合わせて平時の居城としての機能と防御力を両立させた。

海や川の活用(水城)

高虎の築城術を理解するうえで最も分かりやすいのが「水」の利用である。城の防御に水堀を利用すること自体は珍しくないが、高虎の場合、海水や河川、港湾などを城の構造と結びつけた事例が特に注目される。

代表例が今治城である。海岸に築かれた今治城は、海水を堀へ導入し、城内には船が出入りできる船入を設けていたため、防御施設であると同時に海上交通の拠点として機能する構造を持っていた。

これは高虎の合理主義を象徴する構造といえる。敵の侵入を防ぐために堀を利用しながら、同じ水系を物資輸送や船舶の利用にも活用することで、一つの土木施設に複数の役割を持たせているからである。

この考え方は、後の津の町づくりにも見ることができる。津では城下町の東側に堀川を設けて船入として利用し、さらに周辺の水系とつなげる構想が採られていたと津市は説明している。

したがって、高虎の水利用を単純な「防御技術」と見るのは不十分である。水は城を守る障害物であると同時に、人や物を運ぶ交通インフラであり、都市の外縁を形成する境界でもあった。

この発想こそ、高虎の城づくりを都市計画へ発展させる重要な要素だったと考えられる。城だけを強くするのではなく、城下町全体の交通と物流を設計することで、軍事拠点を経済拠点へ変えていくことができたのである。

合理的縄張り(設計)

城郭における「縄張り」とは、単純に城の敷地を決めることではない。本丸、二の丸、三の丸などの曲輪、堀、門、土塁、櫓、道路などをどのように配置し、敵が侵入した場合にどのような防御線を形成するかを計画することである。

高虎が優れていたとされるのは、この縄張りを地形と実際の利用目的に合わせて合理的に組み立てる能力である。城は戦争のためだけに存在するわけではなく、平時には藩主の居所、行政機関、倉庫、家臣の居住空間として機能しなければならない。

津城は、この考え方をよく示している。高虎による1611年の大改修では、本丸を拡張し、東之丸・西之丸を設け、広い内堀を配置し、その外側に二之丸や外堀を設ける大規模な構成へと改められた。

津市の説明では、改修後の津城は本丸、内堀、二の丸、外堀を「回」の字のように巡らせる輪郭式の近世城郭となった。内堀も広く取られ、平城でありながら堅固な防御構造を持つ城へ変貌したとされる。

ここで注目すべきなのは、高虎が「攻撃されることだけ」を想定して城を造っていない点である。平時に大名が暮らし、家臣が勤務し、行政を行い、町人が商売をする場所として機能させる必要があった。

つまり、高虎の縄張りは「戦争に強い城」という一面的な設計から、「政治・軍事・経済を一体化した都市システム」へ向かっていた。これが、後の津城と城下町の大改造につながっていく。

津藩32万石の礎:津城と城下町の大改造

1608年、高虎は伊予今治から伊賀・伊勢へ移封された。津市の資料によれば、この時点の津城は関ヶ原の戦いによる損傷が残り、国持大名にふさわしい規模へ拡張する必要があった。

高虎が津城の本格的な改修に着手したのは1611年である。伊賀上野城の修築と並行して津城の大改修を行い、本丸を拡張し、高石垣を築き、櫓や堀を整備し、外郭まで含めた大規模な城郭へと変えていった。

特筆されるのは工事のスピードである。津市の資料では、1611年正月から開始された津城の改修は、わずか半年で外郭がほぼ完成したとされている。これが事実なら、設計だけでなく、大量の資材・労働力・専門技術者を組織して工事を進める高虎の実務能力を考えるうえで重要な材料となる。

さらに、この大改修は城だけで終わらなかった。高虎は城下町についても大規模な再編を進め、津を伊勢における政治・交通・商業の中心の一つとして発展させる基礎を築いていった。

藤堂高虎による津の整備を考える場合、津城だけを独立した軍事施設として見るのでは不十分である。高虎が行った改修は、城郭を中心として道路、水路、堀、武家地、町人地などを組み合わせ、領国支配の中心となる都市を形成する事業だったと理解する必要がある。

1608年、高虎は伊勢・伊賀へ移封され、津を本拠とする大名となった。津は伊勢湾に近く、東海道や伊勢街道などの交通との関係も深い場所であり、伊勢国を支配するうえで軍事的にも経済的にも重要な位置を占めていた。

高虎はこうした地理的条件を踏まえ、津城を大規模に改修した。津市の資料によると、1611年の大改修では本丸の拡張、高石垣の構築、東之丸・西之丸などの整備、内堀・外堀の整備が行われ、近世城郭としての津城の基本的な姿が形成された。

ここで重要なのは、高虎が既存の津城を単純に拡大したわけではない点である。既存の地形や町の状況を利用しながら、防御、行政、交通、物流という複数の機能を組み込んだ都市構造へと改造していった。

津城は平地に築かれた平城だったため、山城のように急峻な地形そのものを防御に利用することが難しかった。そのため高虎は、高い石垣と広い堀を組み合わせることで、人工的な防御線を構築した。

さらに城の周囲に曲輪を配置し、それぞれを堀によって区切ることで、敵が一気に本丸へ到達できない構造を形成した。これは近世城郭における防御思想の典型的な発展形であり、高虎はそれを津の地形に合わせて実現したと評価できる。

地形・水運の制御

高虎の都市設計を理解するうえで、「水」の存在は極めて重要である。津は伊勢湾に近く、古くから海上交通との関係を持つ地域だったため、水路を単なる排水設備としてではなく、交通、防御、物流を支えるインフラとして活用する余地があった。

津市の資料では、城下町の東側に堀川を設け、船入として利用する構想が示されている。さらに水路を周辺の河川や海と関連づけることで、城下町に物資を運び込むための水運機能を確保しようとしたことが分かる。

この発想は今治城にも共通している。今治城では海水を引き入れた堀と船入が一体化しており、防御施設と港湾機能を同時に成立させていた。

つまり高虎の水利用は、「敵を近づけないための堀」という一つの目的に限定されていなかった。水を防御線として使いながら、同時に船を通し、物資を運び、都市の経済活動を支えるという多目的な設計だったのである。

これは高虎の合理主義を象徴する考え方といえる。一つの施設に複数の役割を持たせれば、限られた土地や資材を効率的に利用できるからである。

また、水路や堀は都市の境界を明確にする役割も持っていた。城郭と城下町を堀や水路によって区切ることで、防御上の区画を形成すると同時に、人や物の移動を管理しやすくすることができた。

したがって、高虎の築城術を評価するときには、石垣の高さだけを見るべきではない。地形そのものを読み取り、海・河川・湿地などを人工構造物と組み合わせる「環境利用型の土木技術」にも注目する必要がある。

城郭の拡張(輪郭式)

津城の大改修を特徴づけるものの一つが、輪郭式の城郭構造である。輪郭式とは、本丸を中心として二の丸、三の丸などの曲輪を同心的に配置し、それぞれを堀などによって囲む形式を指す。

津市の説明では、高虎による改修後の津城は、本丸、内堀、二の丸、外堀などが「回」の字のように配置される構造となった。これは本丸を一つの巨大な防御施設として孤立させるのではなく、複数の防御線によって段階的に守る考え方である。

この構造には軍事的な合理性がある。外側の防御線が突破されたとしても、敵はすぐに中心部へ到達できず、さらに別の堀や門、曲輪を突破しなければならないからである。

また、複数の曲輪は軍事目的だけでなく、行政や居住のための空間としても利用できる。大名、家臣、役人、兵士などを適切に配置することで、城そのものを政治機構の中心として機能させられる。

高虎が生きた時代は、戦国時代の山城から、近世的な平城・平山城へと城郭の性格が変化する時期だった。戦闘だけを目的とする城から、領国支配と政治権力を象徴する巨大施設へと城の役割が拡大していたのである。

そのため、津城の大改修も「戦争に備えるためだけの工事」と理解するのは狭すぎる。徳川政権下で大名が領国を統治するための政治的中心を形成するという意味も大きかった。

城下町の再編

城が完成しても、城下町が機能しなければ大名領国は効率的に運営できない。高虎が津で行った事業を評価するうえでは、城郭と城下町を一体として整備した点が重要になる。

城下町には、武士が居住する武家地、商人や職人が活動する町人地、寺社など、異なる機能を持つ空間が存在した。これらを無秩序に配置するのではなく、道路や堀、町割りによって区画することは、都市の治安と行政効率を高めるうえで重要だった。

高虎の都市政策は、こうした城下町の構造化とも結びついていたと考えられる。城を中心に主要道路を配置し、交通の流れを管理し、商業活動が行われる区域を形成することで、津を領国経営の拠点として発展させる基盤が整えられた。

また、城下町には領内から人や物資が集まってくる。農村から米や農産物が運び込まれ、商人が商品を扱い、職人が生産活動を行うことで、城下町は単なる居住地ではなく経済活動の中心となる。

このような都市では、交通網と水運が極めて重要になる。陸路だけに依存するよりも、水路や港湾を利用して大量の物資を運搬できれば、輸送コストや労力を抑えられるからである。

高虎が今治や津で水運を重視した背景には、このような軍事と経済を同時に成立させる発想があったと考えられる。城下町の発展は藩の財政基盤を強化し、その財政力はさらに城や道路、水路などの公共事業を支えることになる。

ここに高虎の都市政策の循環構造がある。城を整備する→交通と水運を整える→人と物を集める→商業を活性化する→領国の経済基盤を強化する→さらに都市を維持・発展させるという関係である。

ただし、「高虎が津を豊かにした」という表現には注意も必要である。都市経済の発展は高虎一人の功績によって生じたものではなく、伊勢の地理的条件、既存の交通網、商人や職人、農村の生産力、江戸時代の平和といった複数の要因が重なって成立したものだからである。

それでも高虎の役割が重要だったことは否定できない。彼は既存の地理的・社会的条件を利用しながら、津を政治・軍事・経済の中心として機能させるための都市基盤を大規模に整備したのである。

高虎の「築城」は都市経営だった

ここまで見てくると、高虎の築城術に対する評価を少し修正する必要がある。高虎は「石垣を高く積むのがうまい武将」だっただけではなく、城郭を中心とした都市全体を設計する能力に優れていたと考えるべきである。

その設計思想には、三つの要素が存在する。第一に石垣や堀による軍事的防御、第二に海・河川・水路を利用した物流、第三に城下町を計画的に配置する行政・経済機能である。

この三つを統合することで、城は単なる戦闘施設から「領国を動かす中枢」へ変化する。高虎が徳川政権の中で重用された理由も、こうした総合的な能力にあったと考えることができる。

また、高虎の仕事には時間という要素も存在した。徳川政権成立前後には、多数の大名が城郭整備を競うように進めており、天下普請などでは大量の人員と資材を短期間で動員する必要があった。

そのため、優れた設計図を描くだけでは不十分だった。工事現場を統率し、各地から集めた労働力や専門家を組織し、政治的に必要な時期までに施設を完成させる能力が求められた。

高虎の生涯を通じて蓄積された流転の経験は、ここで一つの形になる。若い頃に主家を失い続けた経験、秀長のもとで大規模な仕事を経験したこと、豊臣政権での政治経験、徳川家康との関係、そして関ヶ原後の大規模普請が一本の線につながっていくのである。

したがって、「主君を何度も変えた人物」と「築城の天才」は別々の評価ではない。むしろ、環境が変わるたびに新しい能力と人脈を獲得していった高虎のキャリアそのものが、最終的な築城・都市経営能力を形成したと考えられる。

人生観と後世への遺産

高虎の生涯を振り返ると、そこには戦国武将としてはかなり現実的な人生観が浮かび上がる。主家の滅亡を経験し、仕官先を変え、出家まで経験しながら、最終的には徳川家康の信頼を得て大名としての地位を確立した。

この過程からは、時代の変化に対して柔軟に対応する姿勢を見ることができる。自分の過去の立場に固執するのではなく、新しい政治秩序が生まれるたびに、その中で自分が果たせる役割を見つけていったのである。

同時に、高虎は単なる「勝ち馬に乗った人物」でもない。新しい主君に仕えるたびに、その期待に応えられるだけの実務能力を示し続けたからこそ、最終的に大名として生き残ることができた。

この点で高虎の生涯は、戦国時代から近世社会への移行そのものを象徴している。武勇中心の価値観から、行政、土木、都市計画、外交、組織運営などを総合的に扱える人材が求められる時代へ変化していたのである。

そして、その能力が最も目に見える形で残ったものが城郭と城下町である。津城、今治城、伊賀上野城などに見られる構造は、高虎という一人の武将が生きた時代の政治・軍事・経済を現在に伝える歴史的遺産となっている。

藤堂高虎の生涯を最後まで追うと、彼が単なる戦国武将ではなく、戦国から近世への社会変化に適応した「実務型の大名」だったことが見えてくる。1556年に近江で生まれ、浅井氏への仕官から始まり、豊臣秀長、秀保、秀吉、そして徳川家康へと政治的環境を変えながら、最終的には伊勢・伊賀を領する32万石余の大名へ到達した。

高虎の人生で特徴的なのは、環境が変わるたびに自らの能力を変化させていったことである。若い頃には戦場で武功を立て、秀長のもとでは大規模な軍事・行政活動を経験し、豊臣政権では大名として活動し、徳川政権下では築城、普請、外交、領国経営など幅広い仕事を担った。

この経歴を考えると、「主君を何度も変えた」という事実だけを取り出して高虎を評価することには限界がある。むしろ、主家の滅亡や政権交代という巨大な環境変化に直面するたび、自らの能力を再構築して生き残った人物として見る方が、彼の生涯を立体的に理解できる。

そして高虎の最も大きな遺産は、本人の武勇伝そのものよりも、城郭や城下町という「形に残る仕事」にある。今治城や津城などに代表される城郭整備は、軍事施設を造るだけでなく、その周囲に人・物・情報を集め、領国支配を安定させる都市基盤を形成する事業だった。

現在の今治市も、藤堂高虎が今治城と城下町を築いたことを、現在の都市の原型につながる歴史として位置づけている。高虎の都市計画が、その後数百年にわたる地域の発展と直接・間接に結びついている点は重要である。

「死番」の覚悟

高虎の人物像を理解するうえで興味深いのが、「死番」という言葉で知られる覚悟である。津市が紹介する「高山公遺訓二百ヶ条」には、朝に寝室を出る段階から、その日を死ぬ番だと考えて行動する趣旨の教訓が収録されている。

これは単純な「死を恐れない」という精神論だけではない。死を常に意識することによって、目先の恐怖や迷いに支配されず、その日に果たすべき役割へ集中するという、非常に実務的な人生観として読むことができる。

高虎の人生には、実際に何度も「昨日までの立場がなくなる」経験があった。主家の滅亡、秀長の死、秀保の死、豊臣政権の終焉など、自分の意思だけでは回避できない巨大な変化を経験してきたからこそ、将来を完全に予測することより、目の前の状況に対応することを重視したとも考えられる。

この意味で「死番」は、高虎の合理主義と相性がよい。明日何が起きるか分からないなら、今日できる仕事を確実に遂行するという発想であり、戦国武将としての危機管理意識と結びついている。

ただし、遺訓は高虎本人がその場で直接書いた文章なのか、後世に家臣によって整理されたものなのかという史料上の問題も考慮する必要がある。したがって、そこに書かれた言葉を高虎の「生の発言」として断定するのではなく、藤堂家に伝えられた高虎の人物像・教訓を知る史料として扱うのが適切である。

合理主義と人間味の共存

高虎の遺訓でもう一つ注目されるのが、人の使い方に関する考え方である。津市が紹介する遺訓には、家臣や部下を一律に評価するのではなく、それぞれの長所を見つけ、能力に応じて使うべきだという趣旨の教えが残されている。

これは高虎の築城・土木能力とも深くつながっている。巨大な城を造る場合、一人ですべてを行うことはできず、石工、大工、普請担当者、運搬担当者、兵士、農民など、異なる能力を持つ多数の人間を組織する必要があるからである。

したがって高虎の「人を見る能力」は、単なる処世術ではなく、領国経営の技術そのものだったと考えられる。適材適所によって人間の能力を引き出し、組織全体として成果を出すという発想は、現代の組織論にも通じる部分を持つ。

一方で、高虎を現代的な「合理主義者」とだけ評価するのも適切ではない。彼の行動には主家への忠誠、個人的な恩義、武士としての名誉、家の存続など、合理性だけでは説明できない価値観も存在していた。

特に豊臣秀長との関係は、高虎の人生を考えるうえで重要である。秀長に見いだされ、武将として大きく成長した経験は、その後の高虎の政治的人脈と自己認識を形成したと考えられる。

つまり高虎は、「利益になるから主君を変える」という単純な人物ではない。人との関係を重視しながらも、政治情勢が変われば新しい現実に適応し、自らの役割を再構築するという、柔軟な現実主義者だったと評価する方が妥当である。

高虎は本当に「築城の天才」だったのか

ここまでの検証から、「築城の天才」という評価には相応の根拠がある。ただし、この表現は高虎がすべての城を自ら設計・施工したという意味ではなく、縄張り、普請、技術者の統率、地形利用、城下町整備などを総合的に指揮できた能力を評価したものと考えるべきである。

津市は、高虎が縄張りや普請を行った城を全国で20余りとし、豊臣秀吉と徳川家康の双方から築城能力を高く評価された人物として紹介している。

今治城は、その能力を最も象徴的に示す事例の一つである。1602年に築城が始まり、海水を引き入れた広大な堀と国内最大級とされる船入を備えた海城として構築され、軍事と海上交通を組み合わせた特徴的な城郭となった。

しかも今治城は単なる軍事拠点ではない。今治市の港湾史では、高虎による築城と城下町建設、城北隅の船入・船頭町の整備が、現在の今治港につながる歴史の一部として説明されている。

これは高虎の城づくりを理解するうえで極めて重要である。高虎が設計した城郭は、城そのものだけを見るよりも、城・港・水路・道路・城下町を一つのシステムとして見ることで、その合理性が明確になる。

津城についても同様である。高虎は1611年に本格的な修築に着手し、津城を平時の居城として必要な規模にすると同時に、伊勢街道の重要都市としての体面と機能を備えた町づくりを進めたと津市は説明している。

したがって、「築城の天才」という言葉をより正確に言い換えるなら、高虎は城郭を中心とした軍事・行政・物流・都市計画を統合することに長けた大名だったと評価できる。

今後の展望

2026年現在、高虎研究や地域史の発信において重要なのは、彼を単純な「偉人」あるいは「変節漢」のどちらかに固定しないことである。主君替え、築城、領国経営、都市整備、徳川政権への参加という複数の側面を同時に検証する必要がある。

特に今後は、城郭そのものだけではなく、城下町の道路、水路、港、商業地、武家地などを含めた「都市システム」として高虎の仕事を分析することが重要になる。現存する石垣や堀だけでなく、古地図、発掘調査、地形情報、文献史料を組み合わせれば、当時の都市構造をより具体的に復元できる可能性がある。

また、今治城や津城だけでなく、高虎が関わった複数の城を比較することも有効である。城ごとに地形や政治的役割が異なるため、それぞれの共通点と相違点を比較すれば、「高虎式」と呼べる築城思想がどこまで存在したのかを、より厳密に検証できる。

さらに、現代の地域振興との関係も無視できない。今治城では現在も高虎を前面に出した展示・観光発信が続いており、2026年にも高虎関連商品の販売など、新しい形で歴史資源を活用する動きが見られる。

ただし、観光資源として高虎を紹介する際には、後世に形成された伝説と史料によって確認できる事実を区別することが必要である。「築城の名手」という評価には具体的な城郭遺構という裏付けがある一方、「七度主君を変えた」などの有名な表現は、その数字や意味を史料ごとに検討する必要がある。

この区別を明確にすることは、高虎の価値を低下させるものではない。むしろ、伝説に頼らず史実と遺構から人物像を再構築することで、藤堂高虎という人物の本当の凄さがより明確になる。

まとめ

藤堂高虎は戦国時代の激しい権力変動を生き抜き、最終的に徳川政権下で大大名へ成長した武将である。彼の人生は「主君を何度も変えた」という一見すると否定的な事実だけでは説明できず、主家の滅亡や政権交代に適応しながら、軍事・行政・土木・外交などの能力を蓄積したキャリアとして理解する必要がある。

高虎の転機となったのが豊臣秀長との出会いだった。秀長のもとで大規模な軍事・行政活動を経験したことが、その後の高虎を「戦える武将」から「大規模な事業を任せられる実務家」へ成長させる重要な土台になったと考えられる。

その後、高虎は豊臣秀保の死、豊臣政権の動揺、徳川家康との関係強化、関ヶ原の戦いという巨大な歴史的変動を経て、徳川政権における重要人物となった。最終的には伊勢・伊賀を領する大名となり、津を本拠として領国経営を行った。

そして高虎を歴史に残した最大の功績の一つが築城と都市整備である。今治城では海水を利用した広大な堀と船入を実現し、津城では高石垣、広い堀、曲輪を組み合わせた近世城郭を整備するとともに、城下町の道路や町割り、水運などを含めた都市改造を進めた。

ここから導かれる結論は明確である。高虎は単なる「築城の名人」ではなく、地形を読み、技術者を動かし、城を造り、町を整備し、人と物の流れを設計し、政治的な目的を都市空間に落とし込む総合的なプロフェッショナルだったのである。

また、「津などを豊かにした」という評価についても、高虎一人が地域経済を作り上げたと考えるべきではない。伊勢という地理的条件、街道や海上交通、地域の商人・職人、農業生産、江戸時代の長期的な平和など、多くの条件が重なって津の発展を支えた。

そのうえで高虎の功績を評価するなら、彼は既に存在していた地域の潜在力を、城・道路・水路・町割りという具体的なインフラに組み込むことで、領国経営に適した都市へ発展させる方向を示した人物だったといえる。

高虎の人生には、戦国武将らしい武勇と、近世大名らしい合理性が同居している。だからこそ彼は、「忠義か裏切りか」「武将か築城家か」という二択では捉えきれない。

藤堂高虎の本質は、変化する時代に合わせて自分自身を変え、その経験を軍事・政治・土木・都市経営という具体的な成果へ転換したことにある。 その意味で高虎は、戦国時代を生き残った人物というだけでなく、戦国から近世へ社会が変わる過程を、自らのキャリアと城郭・都市という形で体現した人物だったと評価できる。


参考・引用リスト

  • 津市教育委員会・生涯学習課文化財担当「津藩祖 藤堂高虎」
    藤堂高虎の出生、浅井氏への仕官、豊臣秀長との関係、築城・まちづくり、遺訓二百ヶ条などを確認するための基礎資料。
  • 津市教育委員会・生涯学習課文化財担当「藤堂高虎」
    高虎の生年、初陣、秀長への仕官、関ヶ原、今治20万石、伊賀・伊勢への転封、津藩の石高など、略歴の確認に使用した資料。
  • 津市教育委員会・生涯学習課文化財担当「津城の大改修」
    1608年の転封後の津城の状況、1611年の大改修、高虎による津の城郭・城下町整備についての資料。
  • 今治市文化振興課「今治城について」
    今治城の築城時期、藤堂高虎との関係、海水を利用した堀、船入、城郭の構造などを確認するために使用した資料。
  • 今治市「今治城」
    今治城の築城、高虎による海岸平城の整備、現在の城郭施設などについての観光・文化財資料。
  • 今治市「今治市の概要」
    高虎による今治城・城下町建設と、現在の今治市街地の形成との歴史的関係を確認するための資料。
  • 今治市港湾漁港課「今治港の歴史」
    高虎による今治城築城、城下町建設、船入・船頭町と今治港の歴史的関係を確認するための資料。
  • 今治市「今治城」関連資料・2024年プレスリリース補足資料
    今治城の海城としての特徴、海水を引き入れた堀、船入など、高虎の築城思想を考察するための補助資料。
  • 今治市文化振興課「今治城イベント・展覧会」
    2025~2026年の高虎関連展示・商品・観光発信など、2026年現在における高虎の歴史資源としての活用状況を確認するための資料。
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