コンテンプト・オブ・コート 1-5
2018年3月。ニューヨーク市マンハッタン。連邦裁判所。午後4時18分。
法廷は静かだった。
傍聴席には記者が数人いる。
最前列には被告人の母親と、まだ幼い二人の子供が座っていた。
被告人席には一人の女がいる。
エミリー・カーター。
三十七歳。
夫を殺害した罪に問われていた。
その隣にローリー・ブルックスが座っている。
黒いスーツ。
髪は後ろでまとめていた。
机の上には弁護側の最終資料が置かれている。
ローリーは資料を閉じた。
すでに弁護側の最終弁論は終わっている。
証拠も出した。
証人も呼んだ。
夫から受けていた暴力についても、何度も説明した。
救急記録。
警察への通報記録。
近隣住民の証言。
子供たちの学校から提出された記録。
それでも、ローリーには嫌な予感があった。
法廷の正面。
裁判官が入ってくる。
「全員、起立」
書記官の声。
全員が立った。
ローリーも立つ。
裁判官が席につく。
「着席してください」
全員が座った。
ローリーは被告人を見た。
エミリーは両手を握りしめている。
指先が白くなっていた。
ローリーが小さな声で言った。
「大丈夫」
エミリーはローリーを見る。
「先生……」
「ここにいる」
それだけ言った。
裁判官が書類を確認する。
「被告人、エミリー・カーター」
「はい」
「あなたは夫、ロバート・カーターを殺害したことについて有罪判決を受けています」
法廷が静まる。
「本件について、裁判所は証拠を検討した」
ローリーは裁判官を見る。
「被告人が長期間にわたり夫から暴力を受けていた事実について、裁判所は認定する」
ローリーの目がわずかに動く。
そこまでは想定内だった。
しかし次の言葉で、表情が変わった。
「しかし、それが殺人を正当化するものではない」
ローリーは黙っている。
裁判官が続ける。
「被告人には子供がいた」
「はい」
「その事実も裁判所は考慮した」
「……」
「しかし、法の下では生命を奪った責任を免れることはできない」
ローリーの手が机の下で強く握られた。
エミリーが震えた。
「裁判長……」
ローリーが小声で止める。
「まだ終わってない」
裁判官は量刑理由を読み上げる。
「被告人に対し、禁錮三十年を言い渡す」
法廷の空気が止まった。
エミリーが立ち上がった。
「三十年……?」
書記官が近づく。
ローリーも立った。
「待ってください」
裁判官は顔を上げる。
「ブルックス弁護士」
「量刑について異議を申し立てます」
「手続きに従ってください」
「手続きの話をしているんじゃありません」
裁判官の表情が変わった。
「弁護士」
ローリーは止まらない。
「この女性は何年も夫に殴られていた。警察にも何度も通報している。保護を求めていた」
「裁判所はそれを考慮した」
「考慮した結果が三十年ですか?」
「ブルックス弁護士」
「夫が子供の前で母親を殴っていたことも証明されています」
「十分に聞いた」
「なら、なぜ――」
「法廷で感情的にならないように」
その言葉でローリーの顔が変わった。
「感情的?」
裁判官は書類を閉じた。
「本日の手続きは終了します」
「裁判長」
「弁護士」
「この判決は間違っています」
傍聴席がざわつく。
裁判官は立ち上がった。
「警告します」
「私は警告なんか必要ありません」
「ブルックス弁護士」
「この人は夫を殺したんじゃない」
ローリーの声が法廷に響いた。
「子供を守ったんです」
「それを判断するのはあなたではない」
「では誰が判断するんですか?」
裁判官がローリーを見る。
「裁判所です」
「なら、裁判所は何を見ていたんです?」
「これ以上は許しません」
「被告人が何度助けを求めたか知っていますか?」
ローリーは机の上の資料を叩いた。
「警察に何度も電話している。病院にも行っている。保護施設にも相談している。それでも夫は戻ってきた」
裁判官は無言だった。
「そして最後に、この人が死んだ」
ローリーはエミリーを見る。
「あなたは何をしろと言うんですか?」
エミリーの目から涙が落ちた。
ローリーは裁判官へ向き直る。
「子供たちが殺されるまで待てと言うんですか?」
「ブルックス弁護士」
「それが法律ですか?」
「警告は二度目です」
「三十年?」
ローリーは笑った。
笑顔ではなかった。
「馬鹿げてる」
裁判官が書記官に目配せした。
「警備員を」
ローリーの隣にいた別の弁護士が小声で言った。
「ローリー、やめろ」
「黙ってて」
「これ以上はまずい」
「もう十分まずいわ」
裁判官が退廷しようとする。
ローリーが前へ出た。
「待ってください」
裁判官が振り返る。
「何ですか」
「あなたは間違っている」
「それは控訴審で主張してください」
「控訴する」
「なら法廷で争いなさい」
「そうする」
ローリーは一歩近づいた。
「でも、その前に言わせてもらいます」
「何を?」
「あなたはこの人を見ていない」
裁判官の顔が険しくなる。
「見ているのは書類だけ」
ローリーは指を差した。
「夫を殺した女という一行だけ見ている」
「警備員」
「あなたが殺したようなものよ」
法廷が凍りついた。
誰も声を出さない。
ローリーは裁判官を睨んだ。
「誤判野郎」
隣の弁護士が立ち上がる。
「ローリー!」
裁判官が一歩下がった。
警備員が近づいてくる。
ローリーはエミリーの前に立った。
「この人には子供がいる」
エミリーがローリーの腕をつかむ。
「先生、もういいです」
「よくない」
「お願いします」
「あなたは悪くない」
ローリーはそう言ってから、再び裁判官を見る。
裁判官が法廷を出ようとする。
ローリーが追った。
「待ちなさい!」
警備員が間に入る。
「弁護士、下がってください」
「どいて!」
ローリーが警備員の腕を払いのける。
裁判官が振り返る。
「ブルックス弁護士、これ以上続けるなら――」
ローリーの右手が動いた。
裁判官の肩を押した。
一瞬だった。
裁判官の身体がよろめく。
法廷内から悲鳴が上がった。
「何をしている!」
警備員がローリーを取り押さえる。
ローリーは抵抗した。
「離して!」
「弁護士、落ち着いて!」
「離せ!」
「ローリー!」
同僚の声が響く。
ローリーは裁判官を見た。
その目に後悔はなかった。
「間違っているのは私じゃない」
警備員に腕を押さえられながら、ローリーは言った。
「あなたよ」
裁判官は何も答えなかった。
ただ、ローリーを見ていた。
法廷の扉が閉まる。
その向こうへ、エミリーと二人の子供が残された。
ローリーはそれを見ながら、ようやく動きを止めた。
しかし、その顔に後悔はなかった。
