コンテンプト・オブ・コート 1-7
2018年3月。ニューヨーク市マンハッタン。午後9時26分。
ボクシングジムの壁時計が九時二十六分を指していた。
マイク・ハンターはリングの中にいた。
白いTシャツは汗で濡れている。
グローブを外し、ロープに背を預けた。
向かいの男が息を切らしている。
「今日は終わりだ」
マイクが言った。
「まだやれる」
「顔を見ろ」
「どうだ?」
「赤い」
男は笑った。
「お前もだ」
マイクはグローブを外した。
「俺は慣れてる」
「弁護士が毎晩ボクシングか?」
「探偵もやってる」
「忙しいな」
「暇な弁護士よりはいい」
男が笑う。
マイクはリングを降りた。
タオルで顔を拭く。
ロッカールームへ向かった。
シャワーを浴び、着替える。
黒いシャツ。
黒いジャケット。
机の上に置いた携帯電話を確認する。
着信はなかった。
マイクは携帯電話をポケットに入れた。
ジムを出る。
外は雨だった。
ニューヨークの道路は濡れている。
タクシーが水を跳ね上げながら走っていく。
マイクは歩道を歩いた。
数分後、マンションに着いた。
エレベーターに乗る。
七階。
ドアが開く。
廊下には誰もいなかった。
自分の部屋の前まで歩く。
郵便受けを見る。
請求書。
広告。
封筒が一通。
差出人の名前がない。
マイクは封筒を手に取った。
宛名には、
MICHAEL HUNTER
それだけが書かれていた。
部屋に入る。
電気をつける。
ジャケットを脱ぎ、椅子に掛けた。
封筒を机の上に置く。
しばらく見た。
普通の封筒だった。
切手はない。
消印もない。
郵便で送られたものではない。
誰かが直接、郵便受けに入れた。
マイクは封筒を開けた。
中から小さな黒い手帳が出てきた。
表紙には何も書かれていない。
名前もない。
ロゴもない。
傷がいくつかある。
古い手帳だった。
マイクは机の椅子に座った。
手帳を開く。
最初のページ。
何もない。
二ページ目。
何もない。
三ページ目。
数字が並んでいる。
日付。
金額。
会社名。
人名。
マイクは目を止めた。
「……」
ページをめくる。
また数字。
銀行口座。
送金。
不動産。
弁護士。
政治家。
警察。
マイクは手帳を机に置いた。
もう一度、最初から見る。
書き方には規則性があった。
同じ人物が何度も出てくる。
名前の横には数字。
数字の横には短い記号。
マイクはペンを取った。
紙の端に書く。
「会社」
その下に、
「金」
さらに、
「人」
三つを線でつないだ。
手帳に書かれた情報が、一つの関係図になっていく。
しかし、中心がない。
誰が書いたのかも分からない。
マイクは次のページを開いた。
そこには一つの地名が書かれていた。
ANCHORAGE
マイクの手が止まった。
アラスカ州。
アンカレッジ。
二十年前に母親を失った町。
マイクは椅子の背にもたれた。
しばらく手帳を見ていた。
そして、ページをめくった。
また名前。
今度は母親の名前ではなかった。
だが、マイクには意味が分かった。
母親が生前に関わっていた案件と同じ会社名がある。
マイクは立ち上がった。
棚の前へ行く。
古い段ボール箱を取り出す。
蓋を開ける。
中には書類が入っていた。
新聞記事。
古い写真。
母親の事務所から持ち出したもの。
マイクは一枚の新聞記事を取り出した。
二十年前の記事。
見出しには、弁護士殺害事件とある。
写真には若いリサ・グリーンが写っている。
マイクは写真を見た。
その顔を長い間、見つめる。
手帳に戻る。
ページの端に小さな記号があった。
マイクは眉を寄せた。
その記号を見たことがある。
記憶の中に残っている。
母親の古い書類。
事件当時の資料。
どこかに同じ印があった。
マイクは箱の中を探した。
一枚。
また一枚。
古いメモ。
領収書。
名刺。
そして、一枚のコピー。
マイクはそれを手に取った。
同じ記号があった。
「偶然じゃない」
マイクは呟いた。
手帳を閉じる。
部屋の中が静かだった。
時計の音だけが聞こえる。
午後10時03分。
マイクは再び手帳を開いた。
最後のページまでめくる。
そこには文章が一行だけ書かれていた。
RETURN TO ANCHORAGE.
マイクは動かなかった。
数秒後、手帳を閉じた。
窓の外を見る。
雨が降り続いている。
マンハッタンの夜景。
高層ビル。
車のライト。
人の声。
すべてがいつもの夜だった。
だが、マイクには違って見えた。
二十年前。
母親は殺された。
犯人は捕まっていない。
事件の資料も消えている。
そして今、誰かが手帳を送ってきた。
アンカレッジへ戻れ。
マイクは机の引き出しを開けた。
拳銃を取り出す。
弾倉を確認する。
戻す。
次にパスポートを取り出した。
それを机の上に置いた。
黒い手帳も、その横に置く。
マイクは椅子に座った。
「帰るか」
誰に言うでもなく呟いた。
その夜、マイク・ハンターは二十年ぶりに故郷へ戻ることを決めた。
