日本が北方領土を永遠に奪還できない理由、最大の問題は・・・
北方領土問題が長期化している最大の理由は、ロシアが単に領土を「欲しがっている」からではない。北方四島がロシアの歴史認識、国家主権、極東軍事戦略、オホーツク海の防衛、戦略核戦力、国内政治と結びついているためである。
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現状(2026年8月時点)
2026年8月時点において、日本政府は北方四島、すなわち択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島を「我が国固有の領土」と位置づけ、ロシアによる占拠を不法占拠と評価している。日本政府の基本方針は、北方四島の帰属問題を解決したうえでロシアとの平和条約を締結するというものであり、領土問題そのものを外交交渉によって解決する姿勢は維持されている。
しかし、現実の国際政治を見ると、北方領土問題は「日本の領土をロシアから返還させる」という単純な二国間紛争ではなくなっている。ロシア側による長期間の実効支配、軍事的要塞化、オホーツク海を中心とする核戦略、さらに2020年の憲法改正による領土割譲への法的制約が重なり、ロシア政府が自発的に四島を日本へ返還するための政治的余地は極めて小さくなっている。
特に2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、日本とロシアの関係は決定的に悪化した。ロシアは日本の対露制裁を理由として平和条約交渉の停止を表明し、従来存在した「領土問題を経済協力と平和条約の交渉によって段階的に解決する」という外交的枠組みは事実上崩壊した。2026年現在、北方領土問題をめぐる日露交渉は、少なくとも従来型の外交プロセスにおいて再開の条件が整っているとは言い難い。
ここで重要なのは、「永遠に奪還できない」という表現を文字通りの未来予言として理解してはならないことである。国際政治に絶対的な未来はなく、ロシア国内の政治体制が変化したり、大規模な国際秩序の転換が起きたりすれば、領土問題の条件が変わる可能性は残されているためである。
したがって本稿でいう「永遠に奪還できない」とは、現在の国際秩序、ロシアの政治体制、軍事態勢、核戦略、日露関係が大きく変化しないという前提に立った場合、日本が北方四島を「実力によって取り戻す」ことが現実的に不可能に近いという意味で捉えるべきである。むしろ問題の核心は、日本側の法的主張が弱いということではなく、法的主張を現実の領土支配へ転換するための政治的・軍事的手段が存在しないことにある。
歴史的・法的な非対称性と初期条件の不利
北方領土問題を理解するためには、まず日本とロシアがまったく異なる「歴史の起点」を持っていることを理解する必要がある。日本政府の説明によれば、日魯通好条約によって1855年に択捉島とウルップ島の間が国境として確認され、その後の樺太千島交換条約によって日本は千島列島を取得したが、現在の北方四島については日本が領有してきたという位置づけになる。
日本側から見ると、北方四島は「第二次世界大戦の結果として日本が放棄した領土」ではなく、戦後処理の過程でソ連に占領された日本固有の領土である。このため日本政府は、サンフランシスコ平和条約によって日本が放棄した「千島列島」に北方四島は含まれていないという論理を一貫して採用している。
一方、ロシア側は第二次世界大戦の結果として南クリル諸島、すなわち日本が北方四島と呼ぶ地域を自国領とする立場を取っている。この立場に立てば、現在のロシアによる統治は「占領の継続」ではなく、第二次世界大戦の戦後処理によって確定した領土秩序の維持ということになる。
ここに最初の大きな非対称性が存在する。日本は「歴史的・法的に自国領であるものを返還させる」という立場だが、ロシアは「戦争によって確定した領土を維持する」という立場であり、両国が同じ出来事を全く異なる法的・歴史的意味として認識しているのである。
さらに重要なのは、領土紛争では「過去に誰が正当な権原を持っていたか」だけでなく、「現在誰が統治しているか」が極めて大きな意味を持つことである。国際法上、単純に長期間占有していれば自動的に領土が合法化されるわけではないが、実効支配は外交交渉や紛争解決における現実的な交渉力を大きく左右する。
北方四島では、1945年以降、ロシア側が行政機構を設置し、住民を居住させ、インフラを整備し、警察・軍事組織を配置してきた。つまり、日本側は「法的権原」を主張する一方、ロシア側は「現実の統治機構」を70年以上にわたって積み重ねてきたのである。
この差は極めて大きい。仮に明日、日露間で政治的合意が成立したとしても、単純に島の旗を交換すれば問題が終了するわけではないからである。住民の帰属、行政制度、財産権、インフラ、漁業権、軍事施設、国境線、海洋権益など、長期間の実効支配によって形成された巨大な既成事実を処理しなければならない。
サンフランシスコ平和条約の解釈の相違
北方領土問題を複雑にしている最大の法的論点の一つが、1951年のサンフランシスコ平和条約である。同条約第2条では、日本が「千島列島」に対するすべての権利、権原および請求権を放棄すると定められたが、条約本文には「千島列島」の範囲が具体的に列挙されていない。
日本政府は、この「千島列島」に北方四島は含まれないとの立場を取っている。外務省の説明では、1855年の日魯通好条約以来、北方四島は千島列島とは別に扱われてきたため、日本が1951年に放棄した領域には四島は含まれないという整理になる。
ここで注意すべきなのは、「日本が千島列島を放棄した」という事実と、「北方四島まで放棄した」という結論は同じではないという点である。日本政府は前者を認めつつ、後者を否定しているのであり、まさにこの条約上の地理的範囲の解釈が北方領土問題の重要な法的争点になっている。
さらに、ソ連はサンフランシスコ平和条約そのものに署名していない。このため、同条約だけを根拠にして日本とソ連の間の領土帰属を最終決定することは困難であり、日露双方の戦後外交、二国間合意、国際法上の戦後処理などを総合的に検討する必要がある。
つまり、サンフランシスコ平和条約は日本にとって「北方四島を放棄したことを証明する文書」ではなく、むしろ「何を放棄し、何を放棄していないのか」という解釈問題を残した文書なのである。この曖昧さが後の日ソ・日露交渉における法的・外交的争点の一つとなった。
そして、この問題は単なる歴史認識の違いではない。領土問題では、法的主張が完全に一致しないまま数十年にわたって実効支配が継続すると、時間の経過そのものが外交交渉を複雑化させるためである。
法的継承性と実効支配の継続
北方領土問題をさらに難しくしているのが、ソ連崩壊後のロシアがソ連の国際法上・外交上の地位を引き継いだことである。1991年にソ連が解体すると、ロシア連邦はソ連の国際的な継承国として、国際機関における地位や多数の条約上の権利・義務を引き継いだ。
2020年にロシア憲法へ追加された第67条の1では、ロシア連邦が「ソ連の領域における法的承継者」であることに加え、国際機関への参加や国際条約上の権利・義務などについてもソ連の継承国であることが明記された。これは北方領土そのものの帰属を自動的に確定させる規定ではないが、ロシアがソ連時代から続く国家的・法的立場を現在のロシアへ連続させるという国家認識を明確にした点で重要である。
一方、日本にとって重要なのは、ソ連による1945年以降の占領と、その後のロシアによる統治が長期間継続していることである。日本政府は現在も北方四島について「我が国固有の領土」であり、ロシアによる占拠は不法占拠であるとの立場を維持しているが、現実にはロシア側が行政、警察、インフラ、教育、医療、経済活動などを継続的に運用してきた。
ここで国際法上の「権原」と国際政治上の「実効支配」を区別する必要がある。領土を長期間支配していることだけを理由として、国際法上の領有権が自動的に発生するわけではないが、長期的な実効支配は外交交渉における現状そのものとなり、領土変更に必要な政治的コストを大きく引き上げる。
北方領土の場合、この現象が特に顕著である。1945年から2026年までを単純に計算すれば、ソ連・ロシアによる実効支配は80年以上に及ぶことになる。この期間に生まれたロシア人住民にとっては、北方四島は「占領した土地」ではなく、自分たちが生活し、行政サービスを受けてきた場所として認識される可能性が高い。
したがって、日本が将来返還を実現するとしても、問題は単なる「国境線の変更」では済まない。住民の法的地位、土地・住宅の所有、漁業権、行政機構、インフラ、軍事施設、墓地、教育制度、通貨、税制など、数十年間に形成された社会そのものを再編する必要が生じるからである。
この意味で、時間は日本に有利には働いていない。日本の法的主張が時間の経過によって直ちに消滅するわけではない一方、ロシアによる実効支配の歴史が長くなればなるほど、返還に伴う政治的・社会的コストは増大する。
ロシアにとっての圧倒的な地政学的・軍事的重要性
北方領土問題を単純な領土紛争として理解すると、なぜロシアが四島の返還に強硬なのかを十分に説明できない。北方四島を含む千島列島は、ロシア極東の軍事地理において、太平洋側とオホーツク海を結ぶ巨大な「門」のような役割を果たしている。
千島列島は北海道からカムチャツカ半島に向かって弧状に伸びており、オホーツク海と太平洋を隔てる地理的位置にある。そのため、この列島を支配することは、単に島の土地を所有するという意味を超え、艦艇や航空機が太平洋へ進出する際の経路、海域監視、ミサイル配備、航空基地、情報収集などに影響を与える。CSISも、千島列島がオホーツク海と太平洋を分け、ロシア太平洋艦隊にとって重要な出口となる位置にあると分析している。
日本から見ると、択捉島や国後島などは北海道の北東に位置する島々である。しかしロシア側から見ると、これらはカムチャツカ半島、千島列島、サハリンと連続した極東防衛網の一部である。この認識の違いが、両国の領土問題に対する温度差を生み出している。
特に重要なのがオホーツク海である。ロシアにとってオホーツク海は、単なる漁場や海上交通路ではなく、戦略核戦力を運用する海域として重要性を持っている。防衛省は、ロシアが戦略原子力潜水艦の活動海域であるオホーツク海周辺一帯の防衛を重視し、北方領土や千島列島、南樺太、カムチャツカ半島などで軍事態勢を強化していると分析している。
このため、ロシアにとって北方四島の問題は「日本に島を返すかどうか」という外交問題だけではない。より大きな枠組みでは、極東の防衛線と核抑止力をどのように維持するかという安全保障問題なのである。
オホーツク海の「内海化」と戦略原子力潜水艦(SSBN)の保全
ロシアの核戦略を考える場合、戦略原子力潜水艦、すなわちSSBNの存在を無視することはできない。SSBNは弾道ミサイルを搭載し、海中に潜伏することで相手から発見・攻撃されにくい状態を維持するため、核抑止力の中核を構成する兵器体系の一つである。
ロシアは北方艦隊だけでなく太平洋艦隊にも戦略原潜を配備しており、オホーツク海周辺はその活動海域の一つとなっている。防衛省の2025年版防衛白書は、2021年以降、新型「ボレイA」級SSBNが毎年配備され、計5隻体制になっているとみられるほか、既存の原潜についても近代化改修が進められていると分析している。
SSBNにとって重要なのは、敵国の対潜水艦戦力から安全な距離を確保できる海域である。その観点からオホーツク海は、千島列島という天然の障壁によって太平洋側から区切られた広大な海域を形成しており、ロシアがここを戦略的な防護海域として利用する合理性がある。
もちろん、「オホーツク海が完全なロシアの内海である」という表現は国際法上の正式な意味での内海というわけではない。より正確には、ロシアが千島列島やサハリン、カムチャツカなどを利用して、オホーツク海への他国軍の接近を制限し、戦略核戦力を防護しようとする「要塞化された海域」に近い構造を形成していると理解するべきである。
防衛省は、ロシアが択捉島や国後島、南樺太、千島列島などに地対艦ミサイル「バスチオン」や「バル」、地対空ミサイル「S-400」などを配備していることについて、オホーツク海一帯への他国軍の接近を阻止する、いわゆる「バスチオン」戦略の一環とみている。
ここから導かれる結論は重要である。仮に日本が北方四島の返還を要求すると、それはロシア側から見れば単なる土地の返還要求ではなく、オホーツク海周辺の軍事態勢と戦略核戦力の防護構造に変更を迫る要求として認識される可能性がある。
そのため、ロシア政府が北方四島を簡単に手放すことには、極めて大きな安全保障上の抵抗が働く。領土問題が軍事戦略と結びついた瞬間、外交交渉の難易度は一段階上がる。
軍事要塞化の進行
北方領土そのものの軍事化も、返還を難しくする重要な要素である。防衛省によれば、ロシアは国後島と択捉島に地上部隊を配置し、戦車、装甲車、火砲、対空ミサイル、偵察用無人機などを配備しているほか、施設整備を進め、沿岸ミサイルや戦闘機などの装備も配置している。
さらに、2021年には択捉島、国後島、南樺太などで1万人以上の兵員、約500両の地上装備・機材、32機の航空機、12隻の艦艇が参加する大規模な着上陸・対着上陸対抗演習が実施された。これは北方領土が単なる行政区域ではなく、実際の軍事作戦を想定した地域として扱われていることを示している。
また、ロシアは南樺太や千島列島にもS-400やバスチオンなどを配備してきた。防空・対艦能力を組み合わせることで、千島列島からオホーツク海にかけて接近する艦艇や航空機に対して多層的な拒否能力を構築しようとしていると考えられる。
この軍事化は、北方領土の返還交渉にもう一つの問題を発生させる。仮にロシアが四島を返還する場合、軍事施設を撤去し、部隊を移転し、ミサイルや航空機などを撤収させる必要が生じるからである。
しかも、その撤収は単なる基地閉鎖ではない。ロシアがオホーツク海を防護するために構築してきた軍事ネットワークの一部を縮小することを意味するため、軍部や安全保障機関から強い反発を受ける可能性が高い。
つまり、北方領土問題は時間の経過とともに「領土問題」から「領土+住民+経済+軍事+核戦略」の複合問題へ変化している。これこそが、日本が外交交渉だけで問題を解決することを困難にしている根本的な理由の一つである。
さらに決定的なのが、2020年以降のロシア国内法と政治思想の変化である。
ロシア憲法改正と国家イデオロギーの壁
北方領土問題を現在のロシア国内政治から考えると、2020年の憲法改正は極めて重要な転換点となる。それ以前からロシア政府は北方四島を自国領として扱っていたが、憲法改正によって領土の維持そのものが国家の基本原則として強く位置づけられた。
2020年7月に発効したロシア憲法改正では、第67条に「ロシア連邦の領土の一部を譲渡することを目的とする行為、およびそのような行為を求めることは認められない」とする規定が追加された。さらに、国境画定など一定の例外を除き、ロシア領土の一体性を損なう行為を認めないという考え方が憲法レベルで明文化された。
この規定が北方領土問題にとって重要なのは、領土交渉の「出口」を狭める可能性があるからである。外交交渉において政府が妥協案を提示する場合、通常は条約や議会承認などの政治的手続きによって決定することができるが、憲法そのものが領土譲渡を強く制限している場合、その妥協案は国内法との整合性を問われる。
もっとも、この憲法規定だけを理由に「ロシアは法的にいかなる領土変更もできない」と断定するのは正確ではない。国境画定や国境線の変更などについて一定の法的余地が残されており、国際法上の領土変更そのものが全面的に禁止されたわけでもないからである。
しかし、政治的な意味は非常に大きい。北方四島の返還を「ロシア領の一部を外国へ譲渡する行為」と受け止める政治環境が強まれば、大統領が日本との外交合意を単独で決断するだけでは済まなくなる。
つまり、北方領土問題は2020年以降、「外交政策上の妥協可能な問題」から「ロシア国家の領土的一体性に関わる問題」へと、国内政治上の位置づけがさらに強化されたのである。
領土割譲の違法化(2020年憲法改正)
2020年憲法改正のもう一つの重要な側面は、領土問題をロシアの国家主権と結びつけたことである。ロシア憲法第67条は、ロシア連邦が「ソ連の領域における法的承継者」であることを明記し、そのうえで領土の一体性を維持することを強く打ち出している。
ここにはロシアの戦後史に対する独特の国家観が表れている。ソ連崩壊によってロシアは巨大な領域を失ったが、現在のロシア政治では、その経験が「領土を失うことへの警戒」と結びつきやすい。
この文脈で北方領土を考えると、日本への返還は単に「日本との関係を改善するための外交的譲歩」ではなく、「ロシアが自国領土を外国へ引き渡す」という象徴的な行為として扱われる危険性がある。特にウラジーミル・プーチン政権が国家主権、歴史認識、領土的一体性を重視するようになったことで、この問題の政治的コストは以前より大きくなった。
さらに2022年以降、ロシアはウクライナの占領・併合をめぐって「領土保全」と「歴史的領土」という概念を強く主張するようになった。これは国際社会から広く批判されているが、ロシア国内政治の観点では、領土をめぐる妥協をより困難にする方向へ作用している。
ここで重要なのは、北方四島とウクライナの占領地域を国際法上同一視してはならないことである。両者には歴史的経緯も法的争点も異なるが、ロシア国内の政治言説において「領土を守る国家」というイメージが強化されたことは、北方領土交渉にも間接的な影響を及ぼしている。
したがって、現在のロシア政府にとって、日本への北方四島返還は「外交上の小さな譲歩」ではなく、国内世論、憲法、国家主権、戦争の記憶、政権の正統性などが複雑に絡み合う問題になっている。
「祖国の防衛」というナショナリズム
領土問題が解決困難になるもう一つの理由は、北方領土がロシアのナショナリズムと結びついていることである。ロシアでは第二次世界大戦、特にナチス・ドイツに対する「大祖国戦争」の勝利が国家アイデンティティの重要な柱となっている。
第二次世界大戦の勝利は、ロシア政府にとって単なる過去の軍事的勝利ではない。現在のロシア国家の正統性、軍隊の名誉、犠牲者の記憶、国家主権を守るという理念を支える歴史的記憶として機能している。
そのため、1945年の対日戦争の結果としてソ連が獲得したとロシア側が認識する領土を日本へ返還することは、国内政治上かなり敏感な問題となる。ロシア側が「第二次世界大戦の結果を覆す動き」として受け止めれば、単なる外交交渉ではなく「戦争の勝利を否定する行為」という政治的意味を帯びる可能性がある。
実際、プーチン政権は第二次世界大戦の歴史認識を国家政策の重要な要素として位置づけてきた。2020年憲法改正でも、祖国防衛者の記憶と歴史的真実の擁護を国家の重要な責務として位置づける規定が盛り込まれており、歴史認識と国家主権の結合が強まっている。
もちろん、ロシア国民全員が北方領土返還に反対しているという意味ではない。ロシア国内の世論は複雑であり、経済状況や対日関係によっても変化し得るが、少なくとも政権側が領土返還を「国家の弱さ」と結びつけて批判されるリスクは無視できない。
ここに外交政策と国内政治の矛盾が生じる。仮に日本がロシアに経済的利益を提示しても、ロシア政府が「領土を返還する代わりに経済協力を得る」という構図を受け入れれば、国内では「国家主権を金銭と交換した」と批判される可能性がある。
したがって、北方領土問題では経済的利益だけでは十分なインセンティブにならない。ロシア側にとって必要なのは「返還しても国家的敗北にはならない」と国内政治上説明できる枠組みであり、現在の政治環境では、そのような説明を成立させることが極めて難しい。
外交・経済的インセンティブの欠如と力関係の限界
北方領土問題では、過去に日本側が外交・経済協力を通じてロシアとの関係を改善し、その延長線上で領土問題を前進させようとした時期が存在した。特に2016年以降、日本とロシアは北方四島における共同経済活動や元島民の墓参などを進め、2018年には1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速することで両首脳が合意した。
この時期の日本外交には、「対立だけではロシアを動かせないため、経済協力や人的交流によって信頼関係を構築し、領土問題を解決できる環境をつくる」という発想があった。2016年以降、共同経済活動の候補事業や墓参などの人道的措置について具体的な協議が進められたことは、その試みを象徴している。
しかし、この外交モデルには根本的な限界があった。ロシアにとって日本との経済協力は魅力的ではあっても、北方四島の領有権を変更するほどの利益をもたらすものではなかったからである。
ロシアはエネルギー資源、鉱物資源、漁業、極東開発などの経済的利益を日本から得ることができる一方、領土を保持したままでも中国、インド、その他の国々との経済関係を拡大する選択肢を持っている。特に2022年以降は、西側諸国との対立を背景にロシア経済の対外関係そのものが大きく変化した。
つまり、日本が「経済協力」というカードを切っても、ロシア側が必ずしもそれに依存するわけではない。外交交渉では、相手国が自分の提案を拒否した場合にどれほど困るかという「相互依存の非対称性」が重要になるが、北方領土問題では日本側の経済カードだけでロシアの領土政策を変えるには限界がある。
さらにロシアにとって北方四島は、経済資産である以上に軍事・地政学的資産である。このため、経済協力によって得られる利益と、領土を維持することによって得られる安全保障上の利益を比較すると、後者の方がはるかに大きいとロシア側が判断する可能性が高い。
「平和条約」と「経済協力」の不成立
2016~2019年にかけて進められた日露交渉は、北方領土問題をめぐる外交努力として重要な意味を持っていた。2018年11月には安倍晋三首相とプーチン大統領が、1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速することで合意し、その後も外相・高官レベルの協議が続いた。
この交渉が示したのは、北方領土問題に「外交的解決の窓」が存在した時期が確かにあったという事実である。したがって、北方領土問題を「ロシアは歴史上、一度も交渉する意思を示したことがない」と理解するのは誤りである。
しかし、交渉が進んでも、最終的な領土帰属について両国の隔たりは残った。日本側は四島の帰属問題を解決することを基本方針とし、ロシア側には1956年共同宣言に基づく歯舞群島・色丹島の扱いなど、異なる法的・政治的立場が存在していた。
ここから分かるのは、経済協力や人的交流は「交渉環境を改善する手段」にはなっても、「領土問題そのものを解決する手段」には必ずしもならないということである。領土問題では、相手が何を得る代わりに何を失うのかという交換条件が明確でなければ、経済協力だけでは最終合意に到達しにくい。
しかも、北方四島の共同経済活動には主権問題という根本的な障害があった。日本側が共同活動を行う際に日本の法的立場を害さないようにする必要がある一方、ロシア側は自国の主権を前提とした活動を望むため、制度設計そのものが難しかった。
その結果、2016年以降の「新しいアプローチ」は、一定の人的交流や共同活動を実現したものの、領土問題を決定的に前進させるまでには至らなかった。そこへ2022年のウクライナ侵攻が発生し、日露関係そのものが大きく変化することになる。
ウクライナ情勢による決定的な断絶
2022年2月のロシアによるウクライナへの大規模侵攻は、北方領土問題の外交環境を根本的に変えた。日本はG7などと歩調を合わせてロシアへの制裁を実施し、ロシア側はこれを「非友好的な措置」と位置づけ、日本に対する対抗措置を発表した。
2022年3月、ロシア政府は日本との平和条約交渉を継続しないこと、北方四島に関する共同経済活動の協議から離脱すること、四島交流や自由訪問を終了することなどを発表した。日本外務省によれば、これはロシア側がウクライナ情勢に関連する日本の措置を理由として一方的に決定したものである。
この決定は単なる一時的な交渉中断とは意味が異なる。2016年以降に積み上げられてきた「経済協力→人的交流→信頼醸成→平和条約」という外交モデルそのものが崩壊したからである。
日本政府はその後も、北方四島の帰属問題を解決して平和条約を締結するという基本方針を維持している。しかし2025年版外交青書でも、ロシアが2022年3月に平和条約交渉を中止し、四島交流などを停止したことが確認されており、従来型の交渉が復活していない状況が示されている。
ここで北方領土問題は、「交渉が難しい」という段階から「交渉するための政治的環境そのものが失われた」という段階へ移行したと評価できる。
しかもウクライナ戦争は、日本とロシアの二国間関係だけでなく、欧州・米国・NATO・中国などを含む国際安全保障環境を大きく変化させた。ロシアが西側諸国との対立を深めるほど、日本との領土交渉を経済協力のために進める戦略的必要性は低下する。
この意味で2022年は、北方領土問題における大きな「分水嶺」である。2016~2019年には少なくとも外交交渉を通じて限定的な前進を模索する余地が存在したが、2022年以降、その余地は大幅に縮小した。
そして次の問題は、日本側にはロシアに対してどのような「圧力」をかけることができるのかという点である。日本は経済制裁、外交的圧力、国際世論への働きかけなどを行えるが、それだけでロシアに領土を返還させることはできない。
さらに、日本が軍事力によって北方領土を「奪還」するという選択肢を考えた場合、憲法第9条、自衛隊の法的性格、日米同盟、ロシアの核戦力、北海道周辺の軍事バランスという巨大な問題に直面する。
憲法第9条と軍事的制約
ここまで見てきたように、北方領土問題を外交だけで解決することは極めて難しくなっている。そこで次に考えるべきなのが、日本が自衛隊を用いて北方四島を武力で取り戻す、いわゆる「実力行使(奪還)」という選択肢である。
結論から言えば、現在の日本にとってこの選択肢は、法的にも政治的にも軍事的にも成立しないと考えるべきである。その最大の理由の一つが、日本国憲法第9条と、それを前提として形成されてきた日本の安全保障政策である。
憲法第9条は、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、戦力の不保持と交戦権の否認を規定している。他方、政府は一貫して、憲法第9条の下でも日本が自国を防衛するための必要最小限度の実力を保持することは認められるとの解釈を採用してきた。
したがって、自衛隊には日本への武力攻撃に対処するための防衛能力が認められている。しかし、「自国領だと主張している地域を、現在そこを実効支配している外国から武力で奪い返す」という行為が、通常の個別的自衛権の行使として当然に認められるわけではない。
ここには非常に重要な違いがある。日本本土が武力攻撃を受けた場合にこれを排除することと、日本が領土問題を解決するために先に軍事作戦を開始することは、法的にも政治的にも全く異なる問題である。
北方四島について日本政府が領有権を主張していること自体は事実であるが、現在の日本政府は外交交渉による問題解決を基本方針としている。防衛省も、北方領土問題については「領土問題を解決して平和条約を締結する」とする政府の基本方針を確認している。
したがって、自衛隊が北方四島に上陸してロシア軍を排除するような作戦を実施すれば、それは日本政府が現在採用している外交・安全保障政策の枠組みを根本から転換することになる。
さらに問題なのは、日本が軍事作戦を開始した場合、ロシア側がどのように反応するかである。北方領土にはロシア軍部隊が配備され、地上部隊だけでなく、沿岸防衛ミサイルや防空システム、航空戦力などが展開している。
つまり日本が「島を奪還する」ためには、単に無人島へ上陸するのではなく、ロシア軍が防衛態勢を敷いている地域に対して軍事作戦を行うことになる。この時点で、領土問題は外交問題から武力紛争へと完全に変質する。
国際法上の「武力による現状変更」という壁
さらに重要なのが、第二次世界大戦後に形成された国際秩序である。国連憲章は、国家間の紛争解決における武力による威嚇または武力行使を原則として禁止しており、領土問題を軍事力によって一方的に解決することには極めて大きな法的問題が生じる。
日本が北方四島を自国領と考えていることと、そこを武力で占領しているロシア軍を日本が攻撃できることは同義ではない。国際法上の領有権に関する主張と、武力行使が合法かどうかという問題は別々に検討しなければならない。
この点は、ロシアによるウクライナ侵略をめぐる国際社会の反応を見ると明確になる。防衛省も、ロシアによるウクライナ侵略について、ウクライナの主権と領土一体性を侵害し、武力行使を禁ずる国連憲章を含む国際法に対する重大な違反であると評価している。
この原則を北方領土問題にも適用すれば、日本が「自国領である」という主張だけを根拠に軍事攻撃を開始することは、国際社会から容易に支持されない。日本が自らの領土権を主張することと、その権利を武力で実現することは、別の問題だからである。
むしろ日本にとって重要なのは、国際法と外交を利用して「ロシアによる実効支配を認めない」という立場を維持することである。これは時間がかかるが、日本が戦後国際秩序の擁護者として自らの立場を維持するうえでは、軍事的奪還よりはるかに整合的な政策となる。
同盟国(米国)の関与の限界
では、日本が単独で軍事的に奪還できないのであれば、米国が支援すれば可能になるのだろうか。この問いについても、答えは単純な「はい」にはならない。
日米安全保障条約第5条は、日本国の施政下にある領域に対する武力攻撃が発生した場合、日米両国が共通の危険に対処することを規定している。つまり、米国には日本防衛について重要なコミットメントが存在する。
しかし、この規定は「日本が外国領土を軍事的に奪還する場合、米国が自動的に攻撃作戦へ参加する」という意味ではない。条約の対象となるのは、日本国の施政下にある領域への武力攻撃であり、日本が自ら攻撃を開始して領土問題を解決しようとする場合とは性質が異なる。
ここは北方領土問題を考える際の非常に重要なポイントである。北方四島は日本政府が自国領と主張しているものの、現在の行政・軍事的な実効支配はロシア側にあるため、日米安保条約第5条の通常の適用対象と同じように考えることはできない。
さらに米国が日本の軍事的奪還作戦を支援すれば、米露間の直接軍事衝突に発展する危険がある。ロシアは核兵器を保有する大国であり、しかもオホーツク海周辺は戦略原子力潜水艦の活動海域として重要視されている。防衛省は、ロシアがオホーツク海一帯への他国軍の接近を阻止する「バスチオン」戦略を重視していると分析している。
米国にとっても、北方四島をめぐる局地的な領土問題のためにロシアとの全面的な軍事衝突へ進むことは、極めて重大な戦略判断になる。したがって、「日本には米国という強大な同盟国がいるから軍事的奪還が可能」という考え方は、日米同盟の仕組みを過度に単純化したものと言える。
日本の「実力行使(奪還)」の不可能性
軍事的な観点から見ると、北方四島の奪還作戦には複数の難題が存在する。まず北海道から遠隔地にある島嶼へ部隊を展開し、海上輸送と航空輸送を維持しながら、ロシア側の防空・対艦・地上部隊に対処しなければならない。
しかも島嶼戦では、上陸そのものよりも上陸後の補給と継戦能力が重要になる。日本が仮に一時的に島へ部隊を展開できたとしても、その部隊を長期間維持するためには、制海権、航空優勢、輸送能力、防空能力、補給線の確保が必要になる。
北方領土にはロシア軍の地上部隊が存在し、戦車、装甲車、火砲、対空ミサイル、偵察用無人機などが配備されている。また、沿岸ミサイルや戦闘機の配備、施設整備、大規模演習も続けられている。
さらに北方領土は単独の島ではない。択捉島、国後島を含む千島列島全体がロシアの軍事的ネットワークの一部となっているため、日本が四島だけを攻撃して占領すれば問題が終わるわけではない。
日本側が攻撃を開始すれば、ロシアが北海道周辺や日本海、オホーツク海など別の地域に軍事的圧力を拡大する可能性も考慮する必要がある。さらにロシアは中国との軍事協力を強化しており、東アジア全体の安全保障環境まで不安定化する可能性がある。防衛省も、ロシアと中国による艦艇の共同航行や爆撃機の共同飛行など、軍事面での連携強化を指摘している。
つまり、北方四島を軍事的に奪還することは「四島を占領できるか」という問題ではない。実際には、ロシアとの大規模な軍事衝突に耐えられるか、日本本土を防衛しながら作戦を継続できるか、米国がどこまで関与するか、ロシアが核兵器を使用するリスクをどこまで許容できるかという、はるかに大きな問題になる。
「軍事力を持てば返還交渉が有利になる」という考えの限界
ここで注意すべきなのは、日本の防衛力強化そのものを否定することではない。日本が十分な防衛力を保持することは、ロシアを含む周辺国による武力行使を抑止するうえで重要である。
しかし、「防衛力を強化すれば、そのまま北方領土を奪還できる」という論理には飛躍がある。防衛力の第一の目的は日本への攻撃を抑止・対処することであり、領土問題を軍事的に解決するための攻撃能力とは必ずしも同じではない。
むしろ北方領土問題では、日本の防衛力強化が外交交渉の背景として機能する可能性はあっても、それ自体が領土返還を実現する直接的な手段になるわけではない。軍事力は外交を支える一つの要素にはなり得るが、ロシアが領土を保持する政治的・法的・戦略的理由そのものを消滅させるものではないからである。
この点は「力の限界」という国際政治の基本問題につながる。相手国より軍事的に強くなれば必ず領土問題を解決できるのであれば、世界の領土紛争の多くは軍事力によって解決されているはずである。しかし実際には、核兵器、大国間抑止、同盟関係、国際法、経済制裁、国内世論などが複雑に絡み、軍事力だけでは解決できない問題が数多く存在する。
北方領土はその典型例である。日本には自衛隊という高度な軍事組織があり、日米同盟という強力な安全保障体制も存在するが、それでもロシアから四島を武力で取り戻すことは、得られる利益に対して戦争のリスクがあまりにも大きい。
「奪還できない」と「返還されない」は同じではない
ここまでの議論から、一つ重要な区別が必要になる。「日本が軍事的に奪還できない」ということと、「北方領土が将来にわたって絶対に日本へ返還されない」ということは同じではない。
国際政治では、政権交代、経済危機、戦争終結、国際秩序の変化、同盟関係の再編などによって、数十年間固定されていた領土問題が突然動くことがある。したがって、北方領土が現在の状態から永久に変化しないと断言することは、学術的には適切ではない。
問題は、現在存在する条件のままでは、日本が軍事力によって問題を解決することが極めて困難であるという点にある。そして外交的解決についても、ロシア国内法、軍事戦略、ナショナリズム、ウクライナ情勢による対立によって、従来よりはるかに難しくなっている。
したがって、日本が現実的に取り得る政策は、「いつか軍事力で取り戻す」という発想ではなく、領土問題に関する法的・外交的立場を維持しながら、日本自身の防衛力と日米同盟を強化し、将来的に外交的解決が可能になる環境を長期的に維持することになる。
今後の展望
ここまでの分析を総合すると、2026年8月時点で日本が北方四島をロシアから「実力によって奪還する」可能性は、極めて低いと評価せざるを得ない。その理由は、日本の軍事力が不足しているという単純な問題ではなく、国際法、日米同盟、ロシアの核抑止、北方四島の軍事化、ロシア国内法、ナショナリズム、そしてウクライナ情勢によって形成された複合的な構造にある。
一方で、「永遠に奪還できない」という表現を文字通りに受け取ることにも注意が必要である。国際政治において「永遠」という概念を実証的に証明することはできず、政権交代、戦争終結、経済危機、国際秩序の変化、ロシア国内政治の転換などによって、現在の領土問題の条件が変わる可能性は残されている。
したがって、より正確な表現は、「現在の国際秩序とロシアの国家体制が大きく変化しない限り、日本による北方四島の軍事的奪還は現実的な政策選択肢ではない」ということである。この点を明確にすることが、北方領土問題を感情論ではなく国際政治の問題として分析するために重要となる。
最大の問題は「領土」そのものではなく、領土を支える構造にある
北方領土問題を考える際、日本国内では「なぜロシアは島を返さないのか」という問いがしばしば中心となる。しかし、より本質的な問いは「なぜロシアが島を返さなくても困らないのか」である。
ロシアにとって北方四島は、経済的資産であると同時に軍事的・地政学的資産でもある。特に択捉島、国後島などは、千島列島全体の防衛構造、オホーツク海へのアクセス、太平洋艦隊の活動、戦略原子力潜水艦の安全確保などと結びついている。
防衛省は、ロシアがオホーツク海周辺を戦略原潜の活動海域として重視し、千島列島などに対艦・対空ミサイルを配備していると分析している。したがって、日本への領土返還はロシア側から見れば、単なる外交上の譲歩ではなく、極東の安全保障体系の一部を変更することを意味する。
さらに、ロシア国内では2020年憲法改正によって領土的一体性を重視する法的枠組みが強化された。憲法第67条の規定は、ロシア領土の一部を譲渡することを目的とする行為を認めないという原則を明記しており、北方四島を日本へ返還する政治的決定には大きな国内政治上のハードルが存在する。
つまり、日本が直面しているのは「ロシア政府が意地を張っている」という単純な問題ではない。ロシアにとって北方四島を保持することには、軍事、安全保障、国内政治、歴史認識という複数の合理的な動機が存在するのである。
ウクライナ戦争が残した長期的影響
2022年以降のウクライナ戦争は、北方領土問題をめぐる環境を決定的に悪化させた。ロシアによるウクライナ侵攻を受け、日本は米国や欧州諸国と連携してロシアへの制裁を実施し、ロシア側は日本を「非友好的な国」の側に位置づけた。
ロシア政府は2022年3月、日本との平和条約交渉を継続しないこと、北方四島に関する共同経済活動の協議から離脱すること、四島交流などを停止することを表明した。日本外務省も、これらのロシア側措置によって従来の平和条約交渉や人的交流が停止したことを確認している。
この結果、北方領土問題は「日露二国間の領土交渉」から「ロシアと西側諸国の対立の一部」へと変化した。日本がロシアと北方領土だけを切り離して交渉することは、以前より難しくなっている。
特に日本はG7の一員であり、ウクライナの主権と領土一体性を支持し、ロシアによる武力による現状変更を認めない立場を取っている。この立場は北方領土問題について日本が主張してきた「力による領土変更を認めない」という原則とも整合する。
したがって、日本がロシアとの関係改善を急ぐあまりウクライナ問題について大幅な譲歩を行えば、日本自身が北方領土問題で掲げてきた国際法・主権・領土一体性の原則との間に矛盾を生じさせる可能性がある。
ここに日本外交の難しさがある。北方領土を取り戻したいという目的と、ロシアによるウクライナ侵攻を認めないという原則は、現在の国際環境では切り離すことが難しい。
ロシアの政権交代は「最大の変数」だが、保証ではない
北方領土問題が将来動く可能性を考える場合、最大の変数の一つはロシア国内政治である。プーチン政権が将来的に終わり、別の政権が成立すれば、対日政策が変化する可能性は理論上存在する。
しかし、「プーチン後なら北方領土が返還される」と考えるのも単純化しすぎている。北方領土問題はプーチン個人だけが作り出したものではなく、ロシアの軍事戦略、国家安全保障、第二次世界大戦に関する歴史認識、極東政策、国内法など複数の構造に支えられているからである。
仮に新政権が対日関係の改善を望んだとしても、北方四島を全面返還すれば国内から「領土を売り渡した」と批判される可能性がある。特に2020年以降の憲法体制を考えると、政権交代だけで領土問題が自動的に解決するとは考えにくい。
それでも政権交代が重要なのは、国家の優先順位を変更できる可能性があるからである。例えば、ロシアが将来、極東開発、日本との経済関係、アジア太平洋地域との関係改善を安全保障上の重要課題と判断すれば、北方四島をめぐる交渉姿勢が変化する余地は生まれる。
したがって、ロシア国内政治は「返還の保証」ではないが、「外交的な窓が再び開く可能性」を左右する最大級の変数の一つである。
中国要因と東アジアの安全保障環境
北方領土問題を考える際には、中国の存在も無視できない。ロシアと中国は近年、政治・経済・軍事面で関係を深めており、ロシアにとって中国は欧米との対立が続く中で重要な外交・経済パートナーとなっている。
日本から見ると、ロシアとの関係悪化は北方領土だけの問題ではない。北海道周辺、オホーツク海、日本海、東シナ海などを含む広範な安全保障環境の中で、ロシアと中国の軍事協力が進むことは、日本の戦略環境を複雑にする。
防衛省も、ロシアと中国が爆撃機の共同飛行や艦艇の共同航行などを実施しており、両国の軍事協力が深化していると分析している。
このため、日本が北方領土問題を軍事的に解決しようとすれば、日露関係だけでなく、東アジア全体の安全保障バランスを不安定化させる可能性がある。日本にとって合理的な戦略は、北方領土問題を単独の軍事目標として扱うことではなく、北海道防衛、ミサイル防衛、海空域の監視、日米同盟、地域外交を総合的に強化することである。
日本に残された現実的な選択肢
では、日本には何ができるのか。第一に重要なのは、北方四島に関する日本政府の法的立場を維持することである。
外交上の主張は、長期的な国際政治において重要な意味を持つ。現在ロシアが実効支配しているからといって、日本が自らの領土主張を放棄すれば、将来の外交環境が変化した際に日本が利用できる政策的余地を自ら狭めることになる。
第二に必要なのは、北方領土問題を「返還要求」だけに限定せず、元島民やその家族の問題として維持することである。墓参や四島交流などの人的交流は、政治関係が悪化している現在でも重要な意味を持つ。
第三に、日本自身の防衛力を維持・強化する必要がある。これは「北方領土を攻撃するため」ではなく、日本本土への武力攻撃を抑止し、ロシアを含む周辺国との軍事的誤算を防ぐためである。
第四に、ロシアとの外交チャンネルを完全に消滅させないことも重要である。現在の関係が悪化していても、将来の国際環境が変化した場合に交渉を再開できる最低限の連絡経路を残すことには戦略的価値がある。
そして第五に、日本は「今すぐ返還」という短期的目標だけではなく、「将来返還交渉が可能になる条件を維持する」という長期戦略を考える必要がある。
「四島一括返還」だけが唯一の現実的解ではないのか
北方領土問題の最大の難しさは、日本側の基本方針とロシア側の受け入れ可能な条件との距離が極めて大きいことである。日本政府は四島の帰属問題を解決したうえで平和条約を締結するという立場を維持しているが、ロシア側の主張とは根本的に対立している。
過去の日露交渉では、1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を進める考え方も提示された。共同宣言第9項では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すことが規定されている。
ただし、この規定がそのまま現在の政治状況で実現する保証はない。ロシアはその後の交渉において独自の解釈を示し、2022年には平和条約交渉そのものを停止しているからである。
したがって、将来交渉が再開されたとしても、どのような順序、条件、主権・施政権の組み合わせによって合意するかは予測できない。重要なのは、現在の条件だけを前提に「絶対に四島が返らない」と断定することでも、「必ず四島が返還される」と期待することでもない。
外交では、解決の可能性が低いからこそ、相手国が受け入れ可能な条件を長期的に探す必要がある。これは日本が領土主張を放棄することとは異なり、最終的な解決へ向けた交渉余地を確保することを意味する。
「日本が北方領土を永遠に奪還できない理由」の総合評価
ここまでの分析を整理すると、日本が北方領土を「奪還できない」最大の理由は、一つの要因ではない。
第一に、サンフランシスコ平和条約をめぐる「千島列島」の範囲について日露間に根本的な解釈の相違が存在する。第二に、1945年以来80年以上にわたるロシア側の実効支配が既成事実として積み重なっている。
第三に、北方四島はオホーツク海と太平洋を結ぶ千島列島の一部として、ロシアの極東軍事戦略に組み込まれている。第四に、戦略原子力潜水艦の活動海域を防護するという核戦略上の意味が存在する。
第五に、2020年のロシア憲法改正によって領土の一体性が強く位置づけられ、領土譲渡を政治的に行うことが難しくなった。第六に、第二次世界大戦の勝利と「祖国防衛」を重視するロシアのナショナリズムが、領土返還への政治的抵抗を強めている。
第七に、2016年以降に試みられた経済協力・人的交流・平和条約交渉は、領土問題を解決するには至らなかった。第八に、2022年のウクライナ侵攻によって日本とロシアの外交関係が決定的に悪化し、従来の交渉枠組みが崩壊した。
そして第九に、日本が軍事力によって北方四島を取り戻すことは、憲法、国際法、日米同盟、ロシア軍の軍事態勢、核抑止という複数の壁に阻まれる。特にロシアが核保有大国である以上、北方四島をめぐる軍事衝突は、日本にとって許容できないほど大きなエスカレーションリスクを伴う。
以上を総合すれば、「日本は北方領土を永遠に奪還できない」という命題は、文字通りの未来予測としては成立しない。しかし、2026年8月時点の国際政治・安全保障環境を前提とするなら、日本が軍事力によって北方四島を奪還することは現実的ではなく、外交的返還の可能性も極めて狭いという評価は十分に合理的である。
むしろ現在の日本に必要なのは、「奪還」という言葉を軍事的意味だけで捉えないことである。領土問題を国際社会における法的・外交的課題として維持し、日本の防衛力と同盟を強化し、元島民の問題を継続し、将来ロシア国内外の環境が変化した際に交渉できる状態を残すことこそ、現実的な長期戦略となる。
北方領土問題は、軍事力だけで解決できない典型的な領土問題である。そこには歴史認識、国際法、実効支配、核戦略、国内政治、ナショナリズム、大国間競争という複数の層が重なっており、一つの政策だけで突破できる「壁」ではない。
だからこそ、北方領土問題を考える際に必要なのは、「どうすれば明日にでも奪還できるか」という発想ではなく、「どのような国際環境が生まれれば、ロシアが領土問題について再び交渉する合理性を持つのか」という長期的視点である。
「永遠に」という言葉を外せば、結論はより明確になる。北方領土が日本へ戻る可能性はゼロではないが、その可能性を実現する手段は軍事的奪還ではなく、国際環境とロシア国内政治の変化を見据えた長期的な外交戦略にある。
まとめ
北方領土問題が長期化している最大の理由は、ロシアが単に領土を「欲しがっている」からではない。北方四島がロシアの歴史認識、国家主権、極東軍事戦略、オホーツク海の防衛、戦略核戦力、国内政治と結びついているためである。
日本側には歴史的・法的な領土主張があり、それを維持することには十分な意味がある。しかし、法的主張と実効支配を変更する能力は別物であり、現在の日本にはロシアの実効支配を軍事的に覆すことのできる、かつ国際的に正当化できる手段は存在しない。
したがって、北方領土問題の現実的な評価は、「日本が永久に失った」とすることでも、「近い将来に返還される」と期待することでもない。現在の条件下では解決が極めて困難であるが、国際政治が変化する可能性を考慮し、外交的解決の余地を長期的に維持する問題と位置づけることが最も妥当である。
そして、この問題が示しているのは、領土問題において「正当性」と「実力」と「時間」が必ずしも同じ方向に働くわけではないという国際政治の厳しい現実である。日本にとっての課題は、領土主張を維持しながら、軍事衝突を避け、将来の国際環境の変化に備えるという、極めて長期的な国家戦略を構築することにある。
参考・引用リスト
日本政府・公的機関
- 外務省「北方領土問題」
外務省「北方領土問題の経緯」
外務省「北方領土問題に関するQ&A」
外務省『外交青書2025』
防衛省『令和7年版防衛白書』
外務省「日米安全保障条約」
ロシア政府・法令資料
- ロシア連邦大統領府「ロシア連邦憲法」および2020年憲法改正関連資料
国際機関・国際法
- United Nations, Charter of the United Nations
- United Nations, United Nations Treaty Collection
研究機関・専門分析
- Center for Strategic and International Studies(CSIS), Russia’s Militarization of the Kuril Islands
- 日本国際フォーラム(JFIR)・日露関係および北方領土問題に関する研究資料
