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がん克服への道①:ゲノム医療と分子標的薬の飛躍的進歩

今後のがん医療では、ゲノム解析の精度向上、治療薬の開発、診療体制の改善を個別に進めるだけでなく、これらを連携させて患者の利益へ結び付けることが重要となる。
患者と医師のイメージ
現状(2026年10月時点)

がん医療は、腫瘍の発生部位や組織型を中心に治療法を選択する従来型の医療から、腫瘍細胞に生じた遺伝子異常、分子生物学的特性、免疫環境などを総合的に評価し、個々の患者に適した治療を選択する医療へと移行している。その中核を担うのが、がんゲノム医療、分子標的薬、免疫療法、抗体薬物複合体などの発展であり、これらは従来の治療では十分な効果が得られなかった患者にも、新たな治療機会をもたらしている。

一方、2026年10月時点においても、がんをあらゆる患者で克服できる段階には達していない。治療効果はがん種、病期、遺伝子異常、腫瘍内の不均一性、患者の全身状態などによって大きく異なり、薬剤が有効な患者が存在することと、集団全体の生存率が改善することは区別して評価する必要がある。

日本のがんゲノム医療については、国立がん研究センターなどの研究グループが2026年1月、2019年6月から2024年6月までに保険診療で遺伝子パネル検査を受けた固形がん患者54,185例のデータを解析した研究を公表した。治療標的となり得る遺伝子異常が検出された患者は72.7%に達した一方、検査結果に基づいて新たに標的治療を受けた患者は全体の8.0%にとどまり、検査技術の進歩と実際の治療機会との間に大きな隔たりがあることが明らかになった。

この結果が示す重要な点は、がんゲノム医療の成果を検査件数や遺伝子異常の検出数だけで評価することは不十分だということである。検査結果に対応する薬剤が存在するか、その薬剤が国内で承認されているか、患者が治療を受けられる時期に全身状態を維持できているか、さらに治療によって生存期間や生活の質が改善するかという一連の過程を、統合的に評価しなければならない。

したがって、現在のがん医療は、基礎研究によって発見された分子機構を臨床検査へ応用し、診断結果を治療選択へ結び付け、その効果と安全性を実臨床データによって検証する段階にある。今後の中心的課題は、個別化医療の科学的可能性を、より多くの患者が実際に享受できる医療上の利益へ転換することである。

がん治療のパラダイムシフト

従来のがん治療は、手術、放射線治療、細胞障害性抗がん薬を主要な手段として発展してきた。手術と放射線治療は局所の腫瘍制御に優れ、細胞障害性抗がん薬は全身に広がったがん細胞を攻撃できる一方、正常細胞にも影響を及ぼすため、骨髄抑制、消化器症状、脱毛、末梢神経障害などの有害事象が治療上の制約となってきた。

分子生物学と遺伝子解析技術の進歩は、がんを単一の疾患群として扱う考え方に根本的な修正を迫った。同じ臓器に発生した腫瘍であっても、増殖や生存を支える分子機構が異なれば薬剤への感受性も異なり、反対に異なる臓器に発生した腫瘍でも、共通する遺伝子異常が特定の薬剤に対する感受性を生み出す場合がある。

この変化は、臓器別分類を完全に放棄することを意味しない。病理組織型、発生部位、病期、転移の分布などは依然として治療選択の基本であり、ゲノム情報はそれらを補完して治療方針を精密化する情報として位置付けられる。

例えば、上皮成長因子受容体の遺伝子変異を有する一部の肺がんでは、当該分子を阻害する薬剤によって腫瘍の増殖を抑制できる。また、特定の遺伝子融合を有する腫瘍では、その異常な分子の働きを抑える薬剤が有効となる場合があり、治療選択の基準は腫瘍の発生部位だけでは説明できない段階に達している。

さらに、免疫チェックポイント阻害薬の登場によって、治療対象は腫瘍細胞そのものにとどまらず、腫瘍が免疫反応を回避する仕組みにまで拡張された。がん細胞の分子機構を直接攻撃する治療と、患者自身の免疫機能を利用する治療は、作用原理が異なるものの、患者ごとの生物学的特徴に基づいて選択するという点で共通している。

このような変化は、治療の成功を単純な腫瘍縮小だけで判断しない方向への転換も促している。無増悪生存期間、全生存期間、症状の軽減、治療に伴う有害事象、日常生活の維持などを総合的に検討し、治療の利益と負担を患者ごとに評価することが重要である。

ただし、個別化医療は必ずしも治癒率の一律な上昇を意味しない。特定の遺伝子異常を持つ患者に大きな効果をもたらす薬剤であっても、その異常を持たない患者には効果が期待できない場合があり、対象を適切に選別する診断技術と、治療後の耐性を見越した戦略が不可欠となる。

ゲノム医療と分子標的薬の飛躍的進歩

がんゲノム医療とは、腫瘍細胞に生じた遺伝子変異、遺伝子増幅、遺伝子融合、染色体の構造変化などを解析し、その結果を診断、治療選択、予後評価などに活用する医療である。遺伝子異常のすべてが治療標的になるわけではなく、腫瘍の発生や維持に関与する異常と、治療効果を予測する根拠の強さを区別することが重要となる。

分子標的薬は、がん細胞の増殖、生存、血管新生などに関わる特定の分子を阻害する薬剤の総称である。従来の細胞障害性抗がん薬が細胞分裂などの過程を広く妨げるのに対し、分子標的薬は特定の分子経路への依存性を利用するため、適切な患者を選択できれば高い治療効果を得られる可能性がある。

代表的な標的には、細胞の増殖信号を伝達する受容体や酵素、細胞内の信号伝達経路、異常な遺伝子融合によって生じるタンパク質などが含まれる。これらの分子を阻害する薬剤の開発により、一部のがんでは従来の治療に比べて高い奏効率や長期的な病勢制御が実現し、進行がんの治療成績を改善する選択肢が拡大してきた。

重要なのは、遺伝子異常と薬剤の関係を単純な対応表として理解しないことである。同じ遺伝子に異常があっても、変異の種類、腫瘍内での異常細胞の割合、併存する遺伝子異常、薬剤が作用する分子機構などによって治療効果は変わり得るため、検出された異常の臨床的意義を個別に判断しなければならない。

また、分子標的薬による治療は、耐性の問題を伴う。治療開始時には薬剤に感受性を示した腫瘍でも、標的分子自体の二次変異、別の増殖経路の活性化、薬剤の作用を回避する細胞集団の選択などによって、治療効果が低下することがある。

このため、がんゲノム医療の役割は治療開始前の薬剤選択だけではない。治療中や再発時に生じる分子変化を把握し、治療の切り替えや併用療法の検討に役立てることも、今後の重要な課題となる。

網羅的ゲノムプロファイリングの普及

網羅的ゲノムプロファイリングとは、腫瘍組織や血液から得られた遺伝情報を解析し、多数の遺伝子に生じた変異、遺伝子融合、コピー数の増減などを一度に調べる手法である。従来の検査が特定の遺伝子異常の有無を個別に確認することを主な目的としていたのに対し、この手法は複数の治療標的候補を同時に探索できるため、希少な遺伝子異常の発見や、患者ごとの治療選択肢の拡大に寄与している。

日本では2019年6月から、一定の条件を満たす固形がん患者を対象に、がん遺伝子パネル検査が公的医療保険の適用となった。検査によって得られたゲノム情報と臨床情報は、患者の同意に基づいて国立がん研究センターのがんゲノム情報管理センターに集約され、個別の診療だけでなく、治療成績の検証や新たな治療標的の探索にも活用されている。

この制度の意義は、遺伝子解析を個々の医療機関の研究的な取り組みにとどめず、全国規模の診療基盤へ発展させた点にある。多数の患者の検査結果と治療経過を統合して分析することで、希少ながんにおける遺伝子異常の頻度、薬剤の実臨床での有効性、治療導入を妨げる要因などを、従来より大きな集団で検討できるようになった。

2026年1月に公表された大規模研究では、2019年6月から2024年6月までに検査を受けた固形がん患者54,185例が解析された。治療標的となり得る遺伝子異常は72.7%に認められた一方、検査結果に基づいて新たに標的治療を受けた患者は全体の8.0%であり、検査による発見と実際の治療実施との間には大きな隔たりが存在した。

この隔たりを理解するには、検出された遺伝子異常の数と、臨床的に治療可能な異常の数を区別する必要がある。遺伝子異常が見つかっても、その異常が腫瘍の増殖に直接関与するとは限らず、対応する薬剤の有効性を示す十分な根拠がない場合や、国内で使用可能な薬剤が存在しない場合もある。

また、検査を受ける時期も重要である。日本の保険診療では、がん遺伝子パネル検査が標準治療終了後などの条件下で実施されることが多く、結果が判明した時点で患者の全身状態が悪化していれば、推奨された治療を受けられない可能性がある。

したがって、網羅的ゲノムプロファイリングの普及を評価する際には、検査件数や遺伝子異常の検出率だけでなく、検査結果が治療方針の変更につながった割合、治療を受けられた患者の転帰、患者の生活の質、医療費への影響などを総合的に検証しなければならない。検査技術の高度化を患者の利益へ結び付けるには、適切な検査時期、専門家による解釈、薬剤へのアクセス、治療後の追跡を一体的に整備する必要がある。

検査技術の高度化と解釈上の問題

網羅的ゲノムプロファイリングでは、遺伝子の配列変化だけでなく、遺伝子の欠失や増幅、異なる遺伝子同士が結合して生じる融合、場合によっては遺伝子の働きに影響する別の分子情報も解析対象となる。解析対象の拡大は、従来の単一遺伝子検査では見逃されていた治療標的の発見に役立つ一方、検出された異常の意味を正確に判断するための専門的知識を必要とする。

遺伝子異常の臨床的意義は、科学的根拠の強さによって段階的に評価される。対象となるがん種で有効性が確立した薬剤が存在する異常と、他のがん種でのみ有効性が示されている異常、前臨床研究や少数の症例報告にとどまる異常とでは、治療を推奨する根拠が大きく異なる。

さらに、検査結果には、生まれつき持つ遺伝的特徴に由来する可能性がある情報が含まれることもある。こうした情報は、本人だけでなく血縁者の健康管理にも関係する場合があるため、必要に応じて遺伝カウンセリングや確認検査につなげ、腫瘍に後天的に生じた異常と生まれつきの遺伝的特徴を慎重に区別する必要がある。

網羅的ゲノムプロファイリングは、単に多くの遺伝子を測定する技術ではなく、得られた情報を診療上の意思決定へ変換する仕組みである。その有用性を最大化するには、検査の精度管理、結果を解釈する専門家、患者への説明、治療選択肢への接続を含む包括的な医療体制が不可欠である。

分子標的薬・抗体薬物複合体(ADC)の進化

分子標的薬の発展は、がん細胞の増殖や生存を支える分子機構を詳細に解明する研究と密接に結び付いている。特定の遺伝子異常が腫瘍の成長を強く支えている場合、その異常によって活性化した分子を阻害することで、がん細胞の増殖を抑制したり、細胞死を誘導したりできる。

この治療戦略では、標的となる分子の存在だけでなく、その分子が腫瘍の生存にどの程度重要かを判断することが重要である。腫瘍の増殖に直接関与する異常であれば治療効果が期待できる場合がある一方、腫瘍と関連して検出されただけの異常では、対応する薬剤を投与しても十分な効果が得られない可能性がある。

近年の薬剤開発では、標的分子の働きを阻害する低分子薬に加えて、標的分子に結合する抗体、細胞表面の分子を利用して薬剤を腫瘍へ届ける技術などが発展している。その中でも抗体薬物複合体は、標的を認識する抗体と、細胞を傷害する薬物を結合させることで、薬物を腫瘍細胞へ選択的に届けることを目指した治療技術である。

抗体薬物複合体は、標的分子への結合、細胞内への取り込み、薬物の放出、細胞傷害という複数の過程によって作用する。抗体が標的分子を認識する性質と、結合された薬物の強い細胞傷害作用を組み合わせることで、従来の薬剤とは異なる治療効果を実現できる可能性がある。

ただし、抗体薬物複合体は、単純にがん細胞だけを攻撃する薬剤ではない。標的分子が正常組織にも存在する場合や、薬物が腫瘍周辺の細胞へ広がる場合には、正常組織への傷害が生じることがあるため、標的分子の発現状況、薬物の特性、投与量、投与間隔を含めた慎重な管理が必要となる。

抗体薬物複合体の技術革新と臨床的意義

抗体薬物複合体の進化を支える技術要素は、標的分子を認識する抗体、抗体と薬物をつなぐリンカー、細胞傷害作用を担う薬物の3つに大別できる。抗体の結合特異性を高めるだけでなく、血液中では薬物が過剰に放出されず、標的細胞に到達した後に適切に放出されるよう設計することが、安全性と有効性の両立に直結する。

また、細胞内で放出された薬物が周辺の腫瘍細胞にも作用する性質は、腫瘍内で標的分子の発現が不均一な場合に有利に働くことがある。しかし、この作用が常に治療効果を高めるわけではなく、正常組織への影響や薬物の分布も含めて、個々の薬剤の特性を評価する必要がある。

代表例として、乳がんや胃がんなどで重要な標的となるヒト上皮成長因子受容体2に対する抗体薬物複合体が挙げられる。従来は標的分子の発現量が高い患者を主な治療対象としていたが、薬剤の設計や臨床試験の進歩によって、発現量が比較的低い患者群でも有効性が確認された薬剤が登場し、治療対象の拡大につながっている。

こうした進歩は、標的分子の発現を単純に陽性・陰性の2つに分けるだけでは、薬剤の効果を十分に予測できないことを示している。発現量の測定方法、判定基準、検体の採取時期、腫瘍内の不均一性などが治療選択に影響するため、病理検査と分子診断を適切に組み合わせることが重要である。

一方、抗体薬物複合体には、薬剤ごとに異なる重大な有害事象がある。薬物の種類や投与条件によっては、間質性肺疾患、骨髄抑制、悪心、末梢神経障害、眼障害などが問題となるため、治療効果だけでなく、有害事象の発生頻度、重症度、発症時期、回復可能性を踏まえた管理が求められる。

特に間質性肺疾患は、早期発見と迅速な対応が重要な有害事象である。患者への症状説明、定期的な診察、必要に応じた画像検査、疑いが生じた場合の休薬や治療中止などを適切に行わなければ、重篤な転帰を招く可能性がある。

薬剤耐性と次世代治療の開発

分子標的薬と抗体薬物複合体の発展によって治療成績が改善しても、腫瘍が治療への抵抗性を獲得する問題は残る。治療前から存在する耐性細胞が選択される場合もあれば、治療中に新たな遺伝子変異が生じたり、腫瘍が別の増殖経路を利用するようになったりする場合もある。

この問題に対しては、異なる作用機序を持つ薬剤の併用、耐性が生じた後の再解析、標的分子の発現変化に応じた薬剤の切り替えなどが研究されている。ただし、併用療法は有効性を高める可能性がある一方で、有害事象の増加や医療費の上昇を招くこともあるため、臨床試験による利益とリスクの検証が不可欠である。

今後は、治療前に得られた検体だけでなく、治療中や再発時の検体も利用し、腫瘍の進化を継続的に把握する医療が重要になる。腫瘍の遺伝的特徴を一度測定して固定的な情報として扱うのではなく、時間とともに変化する生物学的情報として評価することが、長期的な病勢制御につながる可能性がある。

現在の課題と臨床的限界

がんゲノム医療と分子標的薬の発展は、がん治療に新たな可能性をもたらしたが、技術的な進歩がそのまま患者全体の治療成績の改善に結び付くわけではない。治療効果を左右するのは、標的となる遺伝子異常の有無だけではなく、腫瘍の生物学的特性、患者の全身状態、治療薬の承認状況、医療提供体制、費用負担など、複数の要因である。

2026年1月に公表された国立がん研究センターと慶應義塾大学医学部の研究では、日本で保険診療による遺伝子パネル検査を受けた固形がん患者54,185例のうち、治療標的となり得る遺伝子異常が72.7%で検出された一方、検査結果に基づいて新たに標的治療を受けた患者は8.0%だった。さらに、標的治療の導入率はがん種によって大きく異なり、甲状腺がんでは34.8%、非小細胞肺がんでは20.3%だったのに対し、膵がんでは1.3%、肝臓がんでは1.8%にとどまった。

この結果は、がんゲノム医療の成果を一律に評価することの難しさを示している。特定の遺伝子異常に対する有効な薬剤が豊富に存在するがん種では治療へ結び付きやすい一方、治療標的が発見されても対応する薬剤が開発されていないがん種では、検査によって得られた情報を臨床上の利益へ変換することが困難である。

臨床的限界の第1は、腫瘍の遺伝的・生物学的不均一性である。同一の患者の腫瘍であっても、原発巣と転移巣、あるいは腫瘍内部の異なる領域で遺伝子異常やタンパク質の発現状況が異なることがあり、1つの検体から得られた結果が腫瘍全体の性質を完全に反映するとは限らない。

第2は、治療抵抗性の獲得である。分子標的薬によって特定の細胞集団が抑制されても、別の遺伝子異常を持つ細胞が生き残ったり、代替的な増殖経路が活性化したりすれば、腫瘍が再び増大する可能性がある。このため、治療開始時に有効性が期待された薬剤であっても、効果が永続するとは限らず、治療経過に応じた再評価が必要となる。

第3は、治療効果と有害事象の均衡である。分子標的薬や抗体薬物複合体は、従来型の抗がん薬とは異なる作用機序を持つが、正常組織への影響が完全になくなるわけではない。治療の選択に当たっては、腫瘍縮小の可能性だけでなく、重篤な有害事象のリスク、生活の質、通院負担、患者本人の価値観などを総合的に考慮しなければならない。

第4は、臨床試験の結果を実際の診療へ適用する際の限界である。臨床試験では、一定の全身状態や臓器機能などの条件を満たす患者が選ばれることが多いため、実臨床における高齢者、複数の疾患を抱える患者、臓器機能が低下した患者などでは、試験で示された有効性や安全性がそのまま再現されるとは限らない。

さらに、希少ながんや患者数の少ない遺伝子異常では、十分な規模の臨床試験を実施すること自体が難しい。小規模な研究や単群試験から有望な結果が得られた場合でも、比較対象を置いた試験での有効性、長期的な生存利益、最適な投与方法などが未確定であることがあり、科学的な不確実性を明示したうえで治療方針を決定する必要がある。

以上から、がんゲノム医療の発展を評価する際には、遺伝子異常の検出率や新薬の承認数だけでなく、患者が治療を受けられた割合、治療後の生存期間、症状の改善、有害事象、生活の質などを含む複合的な評価指標が必要である。技術的な可能性と臨床的に実証された利益を区別することが、患者にとって有益な医療を確立するための基本となる。

治療到達率の低さと検査のタイミング

がんゲノム医療における治療到達率とは、検査によって提示された治療候補のうち、実際に患者がその治療を受けることができた割合を示す指標である。ただし、研究によって分母や対象となる治療の定義が異なるため、数値を比較する際には、検査対象、治療候補の判定基準、未承認薬や適応外薬の扱いを確認する必要がある。

厚生労働科学研究の報告では、2022年9月から2023年8月までの1年間に、がんゲノム医療の専門家会議で検討された22,554例について、治療到達率は7.1%と報告された。これは、専門家が治療候補を検討し、実施可能な治療を提案したとしても、実際に治療を受けられる患者は限られていることを示す。

治療到達率が低い背景には、複数の要因がある。対応する薬剤が国内で承認されていない、対象となる臨床試験が近隣に存在しない、試験の参加条件を満たさない、薬剤の費用負担が困難である、あるいは検査結果が得られるまでに患者の全身状態が悪化するといった問題が重なっている。

特に重要なのが、検査の実施時期である。がん遺伝子パネル検査は、標準治療が終了した患者や、終了が見込まれる患者に実施されることが多いため、検査結果が判明した段階で、次の治療に耐えられる体力や臓器機能が維持されていない場合がある。

検査には、検体の準備、解析、結果の解釈、専門家会議での検討、患者への説明、薬剤や臨床試験の調整など、複数の工程が必要となる。これらの過程に時間を要すれば、科学的には適切な治療候補が見つかっても、臨床的に投与可能な期間を逃してしまうおそれがある。

したがって、検査の実施時期を検討する際には、単に早く検査を行えばよいと考えるのではなく、患者が検査結果を受けて実際に治療を受けられる可能性を考慮する必要がある。標準治療の選択肢が残されている段階で検査を行う意義、検査費用と医療資源の配分、治療方針の決定に必要な時間などを、がん種や病状に応じて評価することが求められる。

また、治療到達率を高めるためには、検査を実施する医療機関と、治療を提供できる医療機関との連携が不可欠である。検査結果が得られてから臨床試験を探すのではなく、検査の段階から候補となる試験や薬剤へのアクセスを確認し、必要に応じて患者を速やかに紹介できる体制が望まれる。

一方、治療到達率を高めること自体を最終目的にしてはならない。効果が不確かな薬剤を投与する患者を増やすことではなく、十分な科学的根拠と患者の希望に基づき、実際に利益が期待できる治療へつなげることが重要である。

薬事承認の遅れ(ドラッグ・ロス/ドラッグ・ラグ)

ドラッグ・ラグとは、海外で承認された医薬品が日本で承認されるまでに時間差が生じる問題を指す。一方、ドラッグ・ロスとは、海外で承認された薬剤が日本では開発されず、承認申請や国内での使用に至らない状態を指し、両者は区別して対策を検討する必要がある。

ドラッグ・ラグが生じる要因には、国内外での臨床試験の実施時期の違い、日本人患者における有効性や安全性の評価、承認申請に必要な資料の準備、審査手続きなどがある。近年は、海外での開発が進んでいるにもかかわらず、日本企業や海外企業が国内開発を開始しない薬剤が問題となっており、単なる審査期間の短縮だけでは解決できない構造的な課題が顕在化している。

2026年に公表された薬事制度に関する研究では、欧米で承認されたものの、日本で開発が開始されていない薬剤が86品目に上ると報告された。そのうち48品目は新興企業などが開発した薬剤、40品目は希少疾病用医薬品、32品目は小児向け医薬品に該当しており、開発資金や事業上の優先順位が国内導入に影響していることが示唆される。

がん領域では、特定の遺伝子異常を有する患者が少ない場合、薬剤の対象患者数が限られるため、企業が国内臨床試験や申請に必要な費用を回収できると判断しにくいことがある。特に希少がんや、複数のがん種にまたがる希少な遺伝子異常を対象とする薬剤では、従来の臓器別の開発戦略だけでは十分な市場規模を確保できない場合がある。

一方、海外で有効性が示された薬剤を国内へ導入する際には、承認の迅速化だけでなく、科学的根拠の質を維持することも重要である。海外の臨床試験結果を日本人患者に適用できるか、投与量や有害事象の発生状況に違いがあるか、国内の標準治療と比較して臨床的な利益があるかを適切に評価しなければならない。

対策としては、国際共同治験への日本の参加を早期に促進すること、国内の治験実施施設の能力を強化すること、希少がんや小児がんの開発を支援すること、海外で得られた臨床データを適切に活用することなどが考えられる。加えて、大学や研究機関、製薬企業、規制当局が早い段階から協力し、国内開発の障壁を把握して対応する仕組みも重要となる。

また、国内未承認薬や適応外薬を必要とする患者については、治験や患者申出療養制度などの制度を通じて、科学的根拠と安全性を確認しながらアクセスを確保することが課題となる。ただし、こうした制度は、承認薬による標準治療や適切な治験の代わりとして無条件に利用できるものではなく、患者の病状、治療候補の根拠、費用負担、実施可能性を個別に検討する必要がある。

ドラッグ・ロス/ドラッグ・ラグは、医薬品の流通だけに関わる問題ではない。ゲノム検査によって治療標的が特定されても、対応する薬剤が国内で使用できなければ、個別化医療の科学的成果が患者の治療機会へ転換されないため、医薬品開発政策とがんゲノム医療政策を一体的に進める必要がある。

医療従事者の負担と体制整備

がんゲノム医療は、遺伝子解析技術だけで成立するものではなく、検体採取、病理診断、遺伝子解析、結果の解釈、専門家会議、患者への説明、治療の実施、治療後の追跡までをつなぐ医療体制を必要とする。各工程には異なる専門性が求められるため、個々の医療従事者の努力に依存するのではなく、組織的な連携と役割分担を確立することが不可欠である。

中心的な役割を担う仕組みの1つが、複数の専門家によって検査結果を検討する専門家会議である。会議では、遺伝子異常の臨床的意義、対応する薬剤の有効性に関する根拠、国内での承認状況、臨床試験への参加可能性などを総合的に評価する。

しかし、こうした検討には相当な時間と人員が必要となる。厚生労働科学研究の報告では、1症例当たりの専門家会議に関わる所要時間は、中核拠点病院で平均69.2分、拠点病院で平均96.0分とされており、症例数の増加に伴って医師、薬剤師、遺伝医療の専門職、医療情報担当者などの負担が大きくなることが懸念される。

さらに、検査結果を患者へ説明する際には、医学的な情報を正確に伝えるだけでなく、治療効果の不確実性、未承認薬の可能性、遺伝性腫瘍に関する情報、血縁者への影響などにも配慮しなければならない。患者が理解しやすい説明を行い、治療方針について十分な意思決定支援を提供することは、ゲノム医療の質を左右する重要な要素である。

医療機関によって専門人材や設備、治験へのアクセス、地域の医療連携に差があることも課題となる。大規模な専門施設では多くの症例を経験しやすい一方、地域の医療機関では専門家会議への参加や遺伝カウンセリングの提供、患者の紹介に必要な体制を確保しにくい場合がある。

このような地域差を縮小するには、専門施設と地域医療機関との間で、検査結果、治療候補、紹介先、治療後の情報を適切に共有できる仕組みが必要である。遠隔での専門家会議や相談体制を活用することに加え、地域の医療従事者に対する研修や教育を充実させ、専門施設への患者集中を緩和しながら質の高い医療を提供することが望まれる。

また、専門家会議の負担を軽減するためには、定型的な情報整理や候補薬の検索、臨床試験情報の照合などを情報技術によって効率化することが考えられる。ただし、遺伝子異常の臨床的意義や治療方針の最終判断を機械的な処理に委ねることは適切ではなく、専門家が判断すべき事項と自動化できる作業を明確に区別する必要がある。

医療体制の整備においては、検査を実施する能力だけでなく、検査後の治療まで一貫して支援する能力が重要である。人材育成、業務の効率化、地域連携、患者への説明支援、臨床試験への紹介を組み合わせることで、ゲノム医療を持続可能な診療体制へ発展させる必要がある。

今後の展望と解決へのアプローチ

がんゲノム医療の次の発展段階では、遺伝子異常を検出する能力を高めるだけでなく、得られた情報を患者の治療選択へ迅速かつ確実に結び付けることが重要となる。全ゲノム解析、リキッドバイオプシー、人工知能、医療情報のデジタル化は、その実現を支える技術として期待されているが、それぞれの技術が臨床的に有効であるかどうかは、実際の患者の転帰や医療上の利益に基づいて検証しなければならない。

2026年6月に開催された厚生労働省の全ゲノム解析等の推進に関する専門委員会では、がん・難病全ゲノム解析等実行プログラムの進捗が報告された。がん領域では、全ゲノム解析の実施数が11,982例に達し、解析結果から治療標的となり得る変異が検出された割合は57.9%、治療薬の選択肢が提示された割合は26.2%と報告されており、全ゲノム解析を研究から診療へつなげるための基盤整備が進んでいる。

ただし、全ゲノム解析によって治療標的が検出されることと、患者が実際に治療を受けられることは同じではない。解析結果の解釈、薬剤の開発状況、国内での承認、患者の全身状態、治療施設へのアクセスなどが、引き続き治療導入を左右する。

このため、今後の政策では、検査技術の開発、薬剤の研究開発、臨床試験への参加機会、患者への情報提供、診療データの蓄積を一体的に推進する必要がある。技術導入の評価指標も、解析件数や検出率にとどめず、治療到達率、生存期間、生活の質、医療費、地域間の格差などを含む形へ拡張することが望ましい。

全ゲノム解析(WGS)の実装

全ゲノム解析は、ヒトの遺伝情報を構成する約30億塩基対を対象として、遺伝子の配列変化だけでなく、広範なゲノム領域に生じた変異や複雑な構造変化を調べる技術である。多数の遺伝子を対象とする遺伝子パネル検査と比べ、解析対象となる領域が広いため、従来の検査では捉えにくかった異常を発見できる可能性がある。

遺伝子パネル検査は、臨床的に重要な遺伝子を選択して解析するため、結果の解釈や検査の運用を比較的集約しやすい。一方、全ゲノム解析は、タンパク質を作る領域以外に存在する変異、複雑な染色体構造変化、特定のウイルス由来の配列など、幅広い情報を検討できる可能性があるが、情報量が多いほど臨床的意義が確立していない変異の解釈も課題となる。

全ゲノム解析の重要な意義の1つは、がんの発生や進展に関わる分子機構をより広範に理解できる点にある。遺伝子パネル検査で治療標的が見つからなかった患者についても、構造変化や非コード領域の変異などを解析することで、新たな研究対象や治療標的候補が見つかる可能性がある。

また、全ゲノム解析は、希少がんや治療抵抗性を示すがんの研究にも有用である。症例数が限られる疾患では、個々の医療機関だけで十分な知見を蓄積することが難しいため、全国規模のデータ基盤を整備し、臨床情報とゲノム情報を統合して分析することが、病態の理解や新薬開発の促進につながる。

日本では、全ゲノム解析等実行プログラムを通じて、解析結果を患者に還元する仕組みと、研究や創薬に活用する情報基盤の整備が進められている。2026年3月には日本ゲノム医療推進機構が発足し、解析結果の医療への還元、個別化医療の推進、情報基盤の運用、患者・市民参画、倫理的・法的・社会的課題への対応、人材育成などが役割として掲げられた。

今後の実装においては、解析費用と計算資源の確保、検体の品質管理、データの標準化、解析結果の解釈を担う人材の育成が重要となる。加えて、遺伝情報は個人や血縁者に関係する機微な情報であるため、利用目的、同意の範囲、情報の保管期間、研究利用、第三者提供、情報漏えいへの対策などを明確にし、患者の信頼を確保しなければならない。

全ゲノム解析を広く実装するためには、すべての患者に一律に実施することを目標とするのではなく、どの患者にどの検査が最も有益かを明らかにする必要がある。遺伝子パネル検査で十分な情報が得られる患者と、より広範な解析によって診断や治療方針が変わる可能性が高い患者を適切に区別し、臨床的な有用性と費用対効果を踏まえて検査を選択することが求められる。

リキッドバイオプシー(血液中遊離DNA検査)の活用

リキッドバイオプシーは、血液などの体液から得られる情報を利用して、がんの存在や分子生物学的特徴を調べる検査技術である。がん細胞から血液中へ放出される遊離DNAのうち、腫瘍に由来するものを解析する方法は、腫瘍組織を直接採取することが難しい患者や、治療に伴う分子変化を継続的に把握したい患者にとって有用な選択肢となる。

血液中の腫瘍由来DNAは、腫瘍の大きさ、がん種、転移の状況、腫瘍細胞の性質などによって検出されやすさが異なる。血液中に十分な量の腫瘍由来DNAが存在しない場合には、実際に遺伝子異常が存在していても検出できないことがあるため、陰性結果だけを根拠に異常の存在を否定することはできない。

リキッドバイオプシーの利点は、組織採取に伴う身体的負担を抑えながら検査を実施できる点にある。特に、腫瘍組織の再採取が難しい場合や、治療中に生じた耐性変異を調べたい場合には、血液検体を用いることで、腫瘍の分子変化を比較的容易に追跡できる可能性がある。

日本における血液を用いた網羅的遺伝子解析の実臨床データを検討した研究では、2019年6月から2023年6月までの検査記録7,461例が解析された。専門家による検討後、新たな治療を受けた患者は5.8%であり、治療開始までの検体採取からの期間は中央値63日だったことから、血液検査の導入だけでは治療への到達が自動的に実現しないことが示されている。

リキッドバイオプシーの活用が期待される領域の1つは、治療抵抗性の把握である。治療前には検出されなかった遺伝子変異が治療後に血液中で検出される場合、耐性の発生や腫瘍の進化を示す手掛かりとなり、治療変更の検討に役立つ可能性がある。

もう1つの重要な応用領域は、手術後などに体内へ残存する微量のがんを検出することである。画像検査では明確に確認できない微小な残存病変を、血液中の腫瘍由来DNAなどから評価する手法は、分子的残存病変の検査として研究が進んでいる。

分子的残存病変の検査は、再発リスクの評価や術後治療の最適化に役立つ可能性があるが、検査陽性という結果だけで、治療の開始や変更を一律に決めることはできない。検査結果に基づいて治療方針を変更することが、実際に再発率や生存率を改善するかについては、がん種や病期、検査方法ごとに臨床的な検証が必要である。

また、血液中の遊離DNAには、腫瘍以外の細胞に由来する遺伝子変異が含まれることもある。例えば、加齢などに伴って血液細胞に生じた体細胞変異が検出される場合があり、これを腫瘍由来の変異と誤認すると、治療標的の判定や病状の評価を誤るおそれがある。

したがって、リキッドバイオプシーは組織検査を全面的に置き換える技術というより、両者の長所と限界を踏まえて使い分ける補完的な手段として位置付けることが適切である。検査の目的、検出感度、陰性結果の解釈、必要に応じた組織検査との併用を明確にし、得られた情報を適切な臨床判断へ結び付けることが重要となる。

AIとDXによる効率化

人工知能と医療のデジタル化は、がんゲノム医療における大量の情報を整理し、医療従事者の判断を支援する技術として期待されている。遺伝子解析、病理検査、画像診断、診療記録、治療経過などの情報を統合して分析することで、人間が個別に処理するには負担の大きいデータから、治療選択や予後評価に関係する特徴を抽出できる可能性がある。

人工知能の応用領域には、病理画像の解析、画像検査による腫瘍の特徴抽出、遺伝子異常と薬剤感受性の関連予測、臨床試験の候補患者の探索、有害事象の早期検知などが含まれる。こうした技術は、診断の補助や情報整理の迅速化に役立つ可能性があるが、各用途で必要となる精度や検証方法は異なるため、単一の評価基準ですべての応用を判断することはできない。

特に、がんゲノム医療の専門家会議では、遺伝子異常の臨床的意義、対応する薬剤の根拠、国内での承認状況、臨床試験の参加条件など、多数の情報を照合する必要がある。人工知能を用いて情報の整理や候補の提示を支援すれば、専門家が判断に集中できる時間を増やし、検査結果の説明や治療選択までの時間を短縮できる可能性がある。

2026年に公表された腫瘍診療における人工知能支援システムのシミュレーション研究では、複数国の腫瘍専門医26人が模擬症例を用いて診療情報を要約したところ、大規模言語モデルを用いた支援システムでは、作業時間が従来方式の平均8分47秒から6分55秒へ短縮された。要約の完全性も高く評価された一方、研究は模擬症例を用いた小規模な評価であり、実際の患者の治療成績や安全性を改善することまで証明したものではない。

人工知能の導入では、作業時間の短縮だけでなく、情報の正確性、誤りの発生頻度、医療従事者による修正の必要性、患者への説明の質などを評価する必要がある。誤った情報や古い承認情報に基づいて治療候補が提示されれば、効率化によって得られる利益を上回る危険が生じるため、根拠となる資料を確認できる仕組みや、最終判断を担う専門家による確認が不可欠である。

また、人工知能の予測性能は、学習に用いたデータの特性に影響される。特定の地域、年齢層、がん種の患者が過度に多いデータで開発されたモデルは、異なる患者集団では精度が低下する可能性があり、外部データによる検証や導入後の性能監視が必要となる。

医療のデジタル化では、人工知能そのものに加えて、医療機関間で情報を共有するための標準化も重要である。遺伝子検査結果、病理診断、薬剤の使用歴、臨床試験情報などが異なる形式で管理されていれば、情報の統合に余分な時間がかかり、患者紹介や治療方針の検討が遅れる原因となる。

今後は、電子診療記録とゲノム情報基盤の相互運用性を高め、検査結果の取得から専門家会議、患者への説明、治療開始までの情報連携を円滑にすることが望まれる。人工知能とデジタル化は医療従事者を置き換えることを目的とするのではなく、情報処理の負担を軽減し、専門家が患者ごとの判断や意思決定支援に十分な時間を割けるようにする手段として活用すべきである。

今後の展望

今後のがん医療では、ゲノム解析の精度向上、治療薬の開発、診療体制の改善を個別に進めるだけでなく、これらを連携させて患者の利益へ結び付けることが重要となる。全ゲノム解析によって新たな治療標的を発見し、リキッドバイオプシーによって治療中の分子変化を追跡し、人工知能によって膨大な診療情報を整理するという相互補完的な仕組みが、将来の個別化医療の基盤となる可能性がある。

しかし、技術の高度化だけでは、がんを克服するという目標には到達できない。検査結果に対応する薬剤が存在しない問題、治療抵抗性の獲得、医療費の負担、地域間の格差、専門人材の不足などを同時に解決しなければ、先端技術の恩恵を受けられる患者は限定されたままとなる。

研究開発では、遺伝子異常と薬剤の関係を明らかにする基礎研究に加え、希少がんや治療選択肢の少ないがんを対象とした臨床試験を推進する必要がある。さらに、国内外の研究機関や製薬企業が連携し、国際共同治験、臨床データの共有、薬剤開発の効率化を進めることで、国内の患者が新たな治療へアクセスできる機会を拡大することが期待される。

臨床現場では、治療効果を示す指標を多面的に評価することが求められる。腫瘍の縮小率や無増悪生存期間だけでなく、全生存期間、症状の軽減、治療に伴う負担、患者が日常生活を維持できる期間などを考慮し、医学的な有効性と患者にとっての実質的な利益を区別せずに評価することが重要である。

医療制度の面では、検査費用や薬剤費の適正化、専門家会議の効率化、治療到達率の改善、地域の医療機関との連携を並行して進める必要がある。特に、検査によって治療候補が判明した患者を迅速に治験や適切な治療施設へ紹介できる体制は、ゲノム医療の実効性を高めるための優先課題となる。

また、患者への情報提供と意思決定支援も欠かせない。ゲノム解析の結果から治療候補が見つかっても、その薬剤が必ず有効であるとは限らず、治療効果や有害事象には不確実性が残るため、患者が利益とリスクを理解したうえで治療方針を選択できる環境を整える必要がある。

最終的に目指すべきなのは、すべてのがんを単一の技術で治療することではなく、がんの種類、分子生物学的特徴、病期、患者の状態に応じて最も適切な治療を選択できる医療体制の構築である。予防、早期発見、適切な診断、個別化治療、再発監視、長期的な生活支援を連続した医療として整備することが、がんによる死亡や苦痛を減らし、患者の生活の質を向上させるための現実的な道筋となる。

まとめ

本稿では2026年10月時点のがん医療を対象として、ゲノム医療と分子標的薬の進歩、網羅的ゲノムプロファイリング、抗体薬物複合体、臨床的限界、治療到達率、薬事承認制度、医療提供体制、全ゲノム解析、リキッドバイオプシー、人工知能と医療のデジタル化について検証した。これらの技術は、がんを単一の疾患群として扱うのではなく、腫瘍の分子生物学的特徴に基づいて治療を選択する医療への転換を促している。

ゲノム医療の最大の意義は、腫瘍の発生部位や病理組織型だけでは把握できなかった分子異常を特定し、治療選択の精度を高められる点にある。特定の遺伝子異常に対する分子標的薬や、標的分子を利用して細胞傷害性薬物を届ける抗体薬物複合体などの発展によって、従来の治療では十分な効果を得られなかった患者にも、新たな治療の可能性が生まれている。

しかし、ゲノム解析によって治療標的が見つかることと、患者が有効な治療を受けられることは同義ではない。日本の大規模な実臨床研究では、治療標的となり得る遺伝子異常が72.7%の患者で検出された一方、検査後に新たな標的治療を受けた患者は8.0%にとどまっており、技術的な可能性と臨床上の利益との間に大きな隔たりが存在する。

この隔たりを解消するためには、治療薬の開発、国内での薬事承認、臨床試験への参加機会、検査の実施時期、専門家による結果の解釈、患者の全身状態などを一体的に改善する必要がある。特に、検査結果が得られた時点で患者の状態が悪化している問題や、対応する薬剤が国内で使用できない問題は、検査技術だけでは解決できない制度的課題である。

全ゲノム解析は、従来の遺伝子パネル検査では十分に評価できなかったゲノム領域や複雑な構造変化を調べ、新たな治療標的を探索する手段となる。一方、リキッドバイオプシーは血液を用いて腫瘍の分子変化を追跡する可能性を広げ、人工知能と医療のデジタル化は、情報処理の効率化や診療上の意思決定の支援に寄与すると期待される。

ただし、これらの技術には、それぞれ固有の限界がある。全ゲノム解析では情報量の増大に伴って解釈の難しい変異が増え、リキッドバイオプシーでは腫瘍由来の情報を検出できない場合があり、人工知能では誤情報や学習データの偏りが判断を誤らせる危険があるため、技術ごとの臨床的有用性を独立して検証することが不可欠である。

今後の研究開発では、遺伝子異常と薬剤の関係を解明する基礎研究に加え、希少がんや治療抵抗性を示すがんを対象とした臨床試験を推進し、薬剤耐性の克服と治療対象の拡大を目指す必要がある。同時に、国際共同治験、国内外のデータ共有、医療従事者の育成、患者への意思決定支援を進め、先端医療へのアクセスが地域や経済状況によって大きく左右されない体制を整えることが重要である。

がん克服への道は、単一の新薬や検査技術によって完成するものではない。予防、早期発見、精密診断、適切な治療、再発監視、長期的な生活支援を連続した医療として発展させ、科学的な成果を実際の患者の生存期間と生活の質の改善へつなげることが、今後のがん医療に求められる基本的な方向性である。


参考・引用リスト

公的機関・国内の研究資料

  • 国立研究開発法人国立がん研究センター・慶應義塾大学医学部「がん遺伝子パネル検査の実臨床における有用性を解明―標的治療の実態と効果、患者さんの予後改善が明らかに―」2026年1月8日。

  • 国立研究開発法人国立がん研究センター「日本人のがんゲノム異常の全体像を解明―約5万例のがん遺伝子パネル検査データを解析―」2024年2月29日、2026年5月訂正。

  • 厚生労働省「全ゲノム解析等の推進に関する専門委員会」2026年6月29日。

  • 厚生労働省「全ゲノム解析等の推進に関する専門委員会・日本ゲノム医療推進機構の検討状況」2026年6月。

  • 国立がん研究センター「がんゲノム情報管理センター」。

査読付き学術論文・臨床研究

  • Saito, Y. et al. “Real-world clinical utility of comprehensive genomic profiling in advanced solid tumors.” Nature Medicine, 2026, 32, 690–701.

  • Nakano, Y., Igarashi, A. and Esaki, M. “Cancer-type-specific gaps between treatment recommendation and implementation following comprehensive genomic profiling: a nationwide real-world study.” Oncology, 2026年10月7日公開。

  • “Nationwide Real-World Usage of Blood-Based (Liquid) Biomarker Testing in Japan.” Cancer Science, 2025, 116(11), 3113–3124.

  • “Simulation-Based Evaluation of a Large Language Model–Enabled Clinical Decision Support Platform in Oncology.” JCO Clinical Cancer Informatics, 2026.

国際的な専門機関・薬事規制資料

  • 米国国立がん研究所。がんゲノム、分子標的治療、免疫療法に関する専門情報。

  • 米国食品医薬品局。抗がん薬の承認情報、臨床試験、薬剤安全性に関する資料。

  • 欧州医薬品庁。医薬品の評価、承認情報、安全性に関する資料。

  • 米国国立医学図書館。医学論文データベース。

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