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壁ぺったんもダメ?、不適切保育をめぐり保育士困惑、「過剰な安全・人権意識」が現場を破壊するメカニズム

もし今後も現場へ責任を集中させ続けるならば、保育士不足はさらに深刻化し、保育の持続可能性は失われていく可能性が高い。
保育園のイメージ(Getty Images)
現状(2026年6月時点)

2020年代に入り、日本の保育業界では「不適切保育」の問題が急速に社会的関心を集めるようになった。特に2022年の静岡県裾野市における保育士による園児虐待事件は大きな転換点となり、それまで業界内部で処理されていた保育現場の問題が全国的な議論の対象となった。

その後、こども家庭庁や自治体、保育団体は不適切保育の防止に向けたガイドライン整備を進めたが、その過程で現場からは「どこまでが適切で、どこからが不適切なのか分からない」という戸惑いの声が相次いだ。

近年ではSNSや保護者コミュニティを通じて保育現場の行為が可視化されやすくなり、以前なら問題視されなかった行為まで批判対象となるケースが増加している。その象徴的な事例として議論になったのが「壁ぺったん」である。

現在の保育現場では、虐待防止や人権尊重の重要性に異論はほとんど存在しない一方、「安全確保のための指導」と「人格を傷つける不適切な関わり」の境界線をめぐる混乱が続いている状況にある。


議論の背景と「壁ぺったん」を巡る状況

日本の保育は長年、「子ども中心保育」「非権威的保育」「主体性尊重」へと舵を切ってきた。欧米の発達心理学や子どもの権利条約の影響もあり、強制や威圧を避けることが重視されるようになった。

一方で保育現場は慢性的な人手不足に直面している。少人数の職員で多数の乳幼児を管理しなければならず、理想と現実の間には大きな乖離が存在する。

その中で注目されたのが「壁ぺったん」である。ある自治体や研修資料において、「壁ぺったん」が不適切保育として例示されたことが報じられると、多くの保育士が驚きを示した。

SNS上では「壁ぺったんまで禁止されたら現場は回らない」「安全管理はどうするのか」といった声が噴出した。他方で、「子どもを物のように扱う行為だ」「人格を尊重していない」と問題視する意見も存在した。

議論は単なる保育技術論を超え、日本社会全体のリスク管理や責任のあり方を問う問題へ発展していった。


「不適切保育」ガイドラインの策定

不適切保育への関心が高まった背景には、保育施設における虐待事件や重大事故が相次いだことがある。国や自治体は再発防止策としてガイドラインの整備を進めた。

こども家庭庁や各自治体が示した考え方では、不適切保育とは必ずしも虐待そのものを意味しない。虐待に至る前段階の行為や、子どもの人格を損なう可能性のある関わり方も含まれる。

例えば、大声で叱責する行為、無視する行為、羞恥心を与える行為、威圧的な態度などが典型例として挙げられる。これらは身体的暴力ではないが、心理的な悪影響を及ぼす可能性があるとされる。

問題は、ガイドラインが予防的観点から広範囲の行為を対象にしているため、現場で運用する際に解釈の幅が大きくなっている点である。


「壁ぺったん」とは何か

「壁ぺったん」とは、子どもたちを一時的に壁際へ並ばせ、壁に背中や手を付けた状態で待機させる保育技術を指す俗称である。

主に散歩前後、移動時、緊急時、職員が別の対応を行う必要がある場面などで用いられてきた。保育現場では長年にわたり一般的な安全管理手法の一つとして認識されてきた。

特に複数の子どもを同時に管理する必要がある場面では、子どもたちの位置を固定し、飛び出しや衝突を防ぐ効果があるとされている。

そのため多くの保育士にとって「壁ぺったん」は懲罰ではなく、安全確保のための実務的手法として理解されてきた。


なぜ問題視(NG化)されたのか

問題視された理由は主として人権尊重の観点にある。

批判的立場からは、子どもを壁に向かわせて静止させる行為が、一種の管理的・統制的な対応であり、子どもの主体性を軽視していると指摘される。

また、一部の現場では「壁ぺったん」が単なる待機ではなく、罰や反省を強いる手段として利用されていた事例も報告されている。こうしたケースでは精神的苦痛を伴う可能性がある。

さらに保育学の近年の潮流では、「言うことを聞かせる」よりも「子ども自身が理解し行動できる環境づくり」が重視される。そのため統制型の保育技術全般が再検討される流れの中で、「壁ぺったん」も議論の対象となった。


保育士が直面する「困惑」の分析

現場の困惑は単なる抵抗感ではない。

多くの保育士は虐待防止の必要性を理解している。しかし同時に、「代替手段が示されないまま従来技術だけが否定されている」と感じている。

理論上は対話的保育が理想であっても、現実には十数人から数十人の子どもを少人数で管理している。理想論と実務の間に大きなギャップが存在する。

結果として、「事故が起きても責任を取らされる」「統制しても不適切と言われる」という板挟み状態が生まれている。


現場の過酷な現実

保育現場は一般に想像される以上に高負荷な労働環境である。

保育士は子どもの世話だけでなく、記録作成、保護者対応、行事準備、衛生管理、事故防止、発達支援など多岐にわたる業務を担っている。

しかも対象は自己管理能力を持たない乳幼児である。わずか数秒の隙が重大事故につながる可能性がある。

そのため現場では常に高い緊張状態が続いている。


圧倒的な人員不足と多忙

日本の保育業界は慢性的な人材不足に苦しんでいる。

保育士資格保有者は多数存在するが、待遇や労働環境の問題から離職率が高い。結果として現場では最低限の人員配置で運営されるケースが少なくない。

配置基準自体も長年にわたり国際比較で低い水準にあると指摘されてきた。

人員が不足するほど、個別対応よりも集団管理への依存度が高まる。その結果、「壁ぺったん」のような手法が生まれやすくなる構造が存在する。


「絶対に怪我をさせてはならない」重圧

保育士には極めて強い安全責任が課されている。

子どもが転倒しただけでも保護者から説明を求められ、重大事故であれば行政監査や訴訟リスクも発生する。

しかし、子どもは本質的に転び、ぶつかり、失敗しながら成長する存在でもある。

この矛盾の中で保育士は「事故を防げ」と「自由に育てろ」という二つの要求を同時に背負わされている。


現場の具体的な声

現場からは「理想論だけでは子どもは守れない」という声が多く聞かれる。

「散歩前に30人の子どもを並ばせる方法を具体的に示してほしい」「人員を増やさずに禁止事項だけ増やされても対応できない」という意見は少なくない。

また、「何が不適切か分からないので常に萎縮してしまう」「保護者やSNSからの批判が怖い」という心理的負担も指摘されている。

こうした状況は保育士の離職や人材流出をさらに加速させる要因となっている。


自分の首を絞める日本人:ゼロリスク信仰と「加点」なき「減点」主義

この問題の背景には日本社会特有のゼロリスク志向が存在する。

事故が起きれば激しく批判される一方、事故を防ぎ続けている努力はほとんど評価されない。成功は当たり前であり、失敗だけが可視化される。

これは典型的な減点主義である。

保育現場に限らず、日本社会では「ミスをしないこと」が重視される傾向が強い。その結果、現場は過剰防衛的になり、柔軟な判断が困難になる。


保育への「過度なサービス化」と消費者意識

保育は本来、家庭・地域・社会が共同で担う子育て支援である。

しかし、近年は保育サービスの市場化が進み、一部では保護者が消費者として振る舞う傾向が強まった。

サービス提供者としての保育園に対し、「完璧な安全」「完璧な教育」「完璧な対応」が求められるようになっている。

だが現実には、子どもを相手にする以上、完全な安全も完全な満足も実現不可能である。


システムの不備(人災)を現場の「精神論・倫理観」に回収する構造

最も重要な問題はここにある。

人員不足、低賃金、過重労働、配置基準の問題は本来制度設計の問題である。

しかし、社会はしばしば制度的欠陥を直視せず、「保育士の意識改革」「倫理観向上」「研修強化」といった精神論へ問題を還元する。

もちろん倫理教育は重要である。しかし構造問題を放置したまま倫理だけを求めれば、現場の負担は増加する一方である。

これは典型的な人災の構造といえる。


本質的な課題と解決への方向性

本質的課題は「不適切保育をなくすこと」と「現場が機能すること」を両立させる点にある。

どちらか一方だけを追求すると失敗する。

人権尊重を徹底しても現場が崩壊すれば意味がない。逆に効率だけを優先すれば虐待リスクが高まる。

必要なのは現実的かつ持続可能なバランスである。


「不適切」の定義のグラデーション化

現在の議論では、不適切保育が白黒二元論で語られやすい。

しかし実際には虐待、重大な不適切行為、改善が必要な対応、状況依存的な対応など複数のレベルが存在する。

例えば暴力行為と壁ぺったんを同列に扱えば現場は混乱する。

リスクの程度に応じたグラデーション評価を導入し、改善指導と処分を区別することが重要である。


配置基準の大幅な引き上げと処遇改善

最も効果的な対策は人員増加である。

保育士一人当たりが担当する子どもの数が減れば、個別対応の余裕が生まれる。

また賃金や労働条件を改善することで離職率を低下させ、経験豊富な人材を確保できる。

制度改革なくして不適切保育問題の根本解決は困難である。


社会的な「寛容さ」の醸成

社会全体にも変化が求められる。

子どもが転ぶことも、失敗することも、ある程度は成長過程の一部として受け入れる必要がある。

保育士を監視対象としてのみ見るのではなく、子育てを支える専門職として信頼する姿勢も重要である。

ゼロリスク幻想を手放さなければ、現場の萎縮は続く。


今後の展望

今後はAI記録支援やICT化の進展によって事務負担が軽減される可能性がある。

また配置基準の見直しや処遇改善も徐々に進められている。

しかし根本的には、社会が「子どもをどう育てるか」「リスクをどこまで許容するか」という価値観の問題に向き合う必要がある。

「壁ぺったん」論争は単なる保育技術の話ではなく、日本社会のリスク観と責任観を映し出す鏡なのである。


まとめ

「壁ぺったん」論争は、不適切保育をめぐる近年の議論を象徴する事例である。子どもの権利尊重や虐待防止という理念は極めて重要であり、その方向性自体に大きな異論は存在しない。

しかし、現場では慢性的な人員不足と過重労働が続いており、理想論だけでは運営が成り立たない現実がある。安全管理のために長年使われてきた技術が一律に問題視されることで、保育士たちは「何をしても批判される」という萎縮状態に置かれている。

背景には、日本社会特有のゼロリスク志向と減点主義が存在する。事故は許されず、同時に統制も許されないという二重拘束が現場を追い込んでいる。また、本来は制度設計の問題である人員不足や低待遇が、しばしば保育士個人の倫理や意識の問題へとすり替えられている。

今後求められるのは、不適切保育の概念をグラデーション化し、虐待と現場判断を区別することである。同時に配置基準の引き上げ、処遇改善、業務負担軽減を進め、保育士が理想的な保育を実践できる環境を整備しなければならない。

そして何より重要なのは、社会全体が「完璧な保育」を求める幻想から脱却することである。子どもの成長には一定の失敗やリスクが伴い、保育には限界が存在する。その現実を受け入れたうえで、子ども・保護者・保育士が共に支え合う社会を構築できるかが、今後の日本の保育政策の成否を左右することになる。


参考・引用リスト

  • こども家庭庁『保育所等における虐待等の防止及び対応に関する手引き』
  • こども家庭庁『保育所保育指針』
  • 全国保育士会 各種提言・調査資料
  • 日本保育学会 学会誌・研究報告
  • 厚生労働省 保育士確保施策資料
  • こども家庭庁 保育政策関連資料
  • OECD Early Childhood Education and Care関連統計
  • ユニセフ 子どもの権利条約関連資料
  • 裾野市保育園虐待事件に関する各種行政報告書
  • NHK、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞等による不適切保育・保育士不足関連報道
  • 保育事故検証委員会報告書
  • 各自治体の不適切保育防止ガイドラインおよび研修資料
  • 子どもの権利条約(Convention on the Rights of the Child)
  • 保育政策・保育労働・保育の質に関する国内外の学術論文・研究報告書

「過剰な安全・人権意識」が現場を破壊するメカニズム

本来、安全意識や人権意識そのものは否定されるべきものではない。むしろ現代保育においては不可欠な価値観であり、過去に存在した体罰や威圧的保育を抑制する上で大きな役割を果たしてきた。

しかし問題は、「安全」や「人権」が絶対化され、現実の運営条件や人的資源を無視したまま適用される場合である。理念は現実を方向付けるための羅針盤であって、現実を無視して独走するためのものではない。

保育現場には常にトレードオフが存在する。例えば、一人の子どもに十分な対話的対応を行えば、その間は他の子どもへの注意が薄くなる。逆に全体の安全管理を優先すれば、一人ひとりへの個別対応は制限される。

つまり保育とは本質的に「複数の善を同時に追求する調整作業」であり、絶対的な正解は存在しない。

ところが近年の議論では、「子どもの権利」や「心理的安全性」が単独で最大化される傾向がある。その結果、保育士は現場の判断余地を失い、「何もしない方が安全」という消極的防衛へ追い込まれる。

これは社会学でいう「リスク回避の逆説」に近い現象である。

事故をゼロにしようとすると、子どもの挑戦機会が減る。苦情をゼロにしようとすると、保育士の裁量が失われる。不適切保育をゼロにしようとすると、保育士が子どもと積極的に関わること自体を恐れるようになる。

結果として表面的な安全性は向上しても、保育そのものの質は低下する。

さらに問題なのは、「結果責任」と「手段制限」が同時に強化されることである。

社会は保育士に対して、「事故を起こすな」「怪我をさせるな」「虐待するな」「人格を傷つけるな」「子どもの主体性を尊重しろ」と要求する。

しかしその一方で、子どもを制止する方法、集団を管理する方法、問題行動を抑制する方法については次々と制限を加える。

これは例えるなら、「絶対に飛行機を墜落させるな。しかし操縦桿には触れるな」と命じるようなものである。

現場が困惑するのは当然である。


「現場の不条理な労働環境」とシステムの機能不全

保育を巡る議論では、しばしば保育士個人の資質や倫理観が焦点になる。

しかし実際には、多くの問題は構造的問題として理解しなければならない。

保育士一人ひとりが善意を持ち、高い専門性を備えていたとしても、制度そのものが機能不全であれば限界がある。

日本の保育現場は長年にわたり、「低賃金」「高責任」「慢性的な人員不足」という三重苦を抱えてきた。

その一方で社会的要求は増え続けている。

保育園は単なる託児施設ではなくなった。

発達支援機関であり、教育機関であり、福祉機関であり、虐待発見機関であり、子育て支援拠点であり、地域コミュニティ拠点でもある。

つまり期待される役割だけが拡大し続けている。

しかし、投入される人的資源や予算は、その拡大に比例して増えていない。

この状況は経営学的には典型的な「過負荷システム」である。

システムが過負荷になると、現場はまず余裕を失う。

余裕を失うとコミュニケーションが減る。

コミュニケーションが減るとミスが増える。

ミスが増えると監視と規制が強化される。

監視と規制が強化されると現場負担が増える。

その結果、さらに余裕が失われる。

こうして悪循環が形成される。

現在の保育現場で起きていることの多くは、個人の失敗ではなくシステムの失敗なのである。


「完璧主義の負のスパイラル」を断ち切るための深掘り

現代日本社会は極めて強い完璧主義文化を持つ。

保育の世界も例外ではない。

保護者は事故ゼロを望む。

行政は不祥事ゼロを望む。

メディアは失敗を大きく報道する。

SNSはミスを拡散する。

その結果、現場は「失敗してはならない」という強烈な圧力を受ける。

しかし現実には、人間が人間を育てる以上、失敗は必ず起きる。

子どもは転ぶ。

喧嘩をする。

泣く。

時には怪我もする。

これは保育の失敗ではなく、子どもが成長する過程そのものである。

問題は、日本社会がこの当たり前の事実を受け入れにくくなっている点にある。

完璧主義が強まるほど、現場は防衛的になる。

防衛的になるほど、自由な保育はできなくなる。

自由な保育ができなくなるほど、子どもの成長機会は減少する。

その結果、保育本来の目的が失われていく。

これが完璧主義の負のスパイラルである。

この連鎖を断ち切るためには、「許容可能な失敗」という考え方が必要になる。

航空業界や医療業界では、安全を重視しながらも「人間はミスをする」という前提で制度設計が行われている。

保育も同様である。

重要なのは失敗を完全になくすことではない。

失敗が起きても重大事故へ発展しない仕組みを構築することである。

つまり「ゼロリスク」ではなく「リスクマネジメント」への発想転換が求められる。


「共に子どもを育てる福祉・インフラ」という視点

保育を巡る最大の誤解の一つは、「保育園が子育てを請け負う」という発想である。

本来、子育ては家庭だけの責任でもなければ、保育園だけの責任でもない。

地域社会全体が担う共同作業である。

欧州の福祉国家では、保育は社会インフラとして位置付けられている。

道路や水道と同じく、社会を維持するための公共基盤なのである。

保育がなければ親は働けない。

親が働けなければ経済は回らない。

つまり保育は単なるサービス業ではなく、社会を支える基幹インフラなのである。

ところが日本では、保育がしばしば「子どもを預かるサービス」として消費される傾向がある。

その結果、「料金を払っているのだから完璧なサービスを提供しろ」という発想が生まれやすい。

しかし、保育はレストランでもホテルでもない。

子どもという予測不能な存在を相手にする福祉事業である。

本来必要なのは、「サービス提供者と顧客」という関係ではなく、「共に子どもを育てる協働者」という関係性である。

保護者と保育士は対立する存在ではない。

行政と保育士も対立する存在ではない。

社会全体が協力して次世代を育てるという視点が不可欠である。

その意味で、「壁ぺったん」論争が提起している問題は単なる保育技術論ではない。

それは、日本社会が子育てを誰の責任として位置付けるのかという根本的な問いである。

保育士個人へ責任を集中させる社会であり続けるのか。それとも、子どもの成長に伴うリスクや不完全性を社会全体で引き受ける福祉国家的発想へ転換するのか。

今後の議論の核心はまさにそこにある。


最後に

「壁ぺったんもダメなのか」という問いは、一見すると保育現場における特定の指導方法の是非を巡る小さな議論のように見える。しかし、その背後には現代日本社会が抱える複数の構造的問題が凝縮されている。したがって、この問題を単なる保育技術論や保育士個人の資質の問題として捉えることは、本質を見誤ることになる。

近年、日本では不適切保育への関心が急速に高まった。保育施設における虐待事件や不祥事が社会問題化し、行政や保育業界は再発防止に向けたガイドライン整備を進めてきた。その方向性自体は極めて重要であり、子どもの人権を守り、保育の質を向上させるという目的に異論は存在しない。かつて当然視されていた威圧的な指導や体罰的な関わりを見直し、子ども一人ひとりの人格を尊重する保育へと移行する流れは、社会全体として歓迎すべき変化である。

しかし同時に、「不適切保育」という概念が拡大する過程で、現場では深刻な混乱が生じている。特に象徴的なのが「壁ぺったん」を巡る議論である。壁ぺったんは本来、多数の子どもを安全に管理するための実務的な手法として長年用いられてきた。多くの保育士にとって、それは罰や威圧ではなく、事故防止や移動時の安全確保を目的とした日常的な保育技術であった。

ところが、人権尊重や主体性尊重の観点から問題視されるようになると、現場では「どこまでが適切で、どこからが不適切なのか分からない」という戸惑いが広がった。虐待防止の必要性を理解しながらも、「代替手段が示されないまま従来の方法だけが否定される」という感覚を持つ保育士は少なくない。

この背景には、保育現場が置かれている極めて厳しい労働環境が存在する。日本の保育は慢性的な人員不足と低賃金、高い離職率に長年苦しんできた。保育士は子どもの世話だけではなく、保護者対応、発達支援、事務作業、行事運営、衛生管理、安全管理など多岐にわたる業務を担っている。その上で、重大事故を防ぎながら質の高い保育を実現することが求められている。

つまり、保育士たちは極めて限られた人的資源の中で、多数の子どもを同時に見守り、安全を確保し、個別の発達支援まで行わなければならないのである。このような状況下で、安全管理のために用いられてきた手法が次々と否定されるならば、現場が困惑するのは当然である。

さらに問題を複雑にしているのが、日本社会に根強く存在するゼロリスク信仰である。

現代日本では、事故が起きれば厳しく批判される一方で、事故を防ぎ続けている努力はほとんど評価されない。成功は当然とされ、失敗だけが可視化される。この減点主義的な社会構造の中で、保育士は「絶対に怪我をさせるな」「事故を起こすな」「虐待をするな」「人格を傷つけるな」という無数の要求を背負わされている。

しかし現実には、子どもは転び、ぶつかり、失敗しながら成長する存在である。保育とは本質的に不確実性を伴う営みであり、あらゆるリスクをゼロにすることは不可能である。それにもかかわらず、社会はしばしば保育現場に対して「完璧な安全」と「完璧な自由」を同時に要求する。

ここに大きな矛盾が存在する。

事故は起こすな。しかし子どもを制限するな。

怪我はさせるな。しかし自由に遊ばせろ。

トラブルは防げ。しかし叱るな。

集団を管理しろ。しかし統制するな。

こうした相反する要求が積み重なることで、保育士は身動きが取れなくなっていく。

その結果として生じるのが、保育現場の萎縮である。

何をしても批判される可能性があるなら、積極的な関わりを避ける方が安全になる。判断すること自体がリスクとなり、「何もしないこと」が最も合理的な選択になる。だが、その状態は保育の質の向上ではなく、むしろ保育機能の低下を意味する。

これは「過剰な安全意識」や「過剰な人権意識」が持つ逆説的な側面である。

安全や人権は重要な価値である。しかし、それらを絶対化し、現実の運営条件を無視して適用すると、現場の裁量や柔軟性を奪い、結果として保育そのものを成立困難にしてしまう。

また、この問題は保育業界だけの特殊事情ではない。

日本社会ではしばしば、制度やシステムの欠陥が個人の努力や倫理観の問題へと置き換えられる。

本来であれば、人員不足や低待遇、配置基準の問題は制度設計の課題である。しかし実際には、「保育士の意識改革」「倫理研修の充実」「資質向上」といった形で個人責任へ還元されることが少なくない。

もちろん専門職としての倫理は重要である。しかし、構造的問題を放置したまま精神論だけを強化しても根本的解決にはならない。

むしろ現場にさらなる負担を押し付ける結果となる。

この構造は、保育に限らず医療、介護、教育など日本の対人支援職全般に共通する問題である。

そして、この状況を改善するためには発想の転換が必要となる。

第一に、「不適切保育」の概念を白黒二元論ではなく、グラデーションとして理解することである。

明確な虐待行為と、改善の余地がある保育技術上の問題と、状況によって評価が変わる現場判断を同列に扱うべきではない。リスクや悪質性の程度に応じて区別しなければ、現場の混乱は続く。

第二に、配置基準の引き上げや処遇改善を通じて、人員的余裕を確保することである。

保育士が十分な時間と余裕を持って子どもと関われる環境が整わなければ、理想的な保育は実現できない。制度改革なくして不適切保育問題の根本的解決はあり得ない。

第三に、社会全体がゼロリスク幻想から脱却することである。

子どもの成長には失敗や挑戦が伴う。保育とは本来、一定のリスクを受け入れながら行われる営みである。重要なのはリスクをゼロにすることではなく、重大事故を防ぎながら適切に管理することである。

そして最後に最も重要なのは、保育を「サービス」ではなく「社会インフラ」として再認識することである。

保育はレストランやホテルのような消費サービスではない。社会全体で次世代を育てるための福祉基盤であり、公共インフラである。保護者は顧客ではなく協働者であり、保育士はサービス提供者ではなく子育ての専門職である。

本来、子どもを育てる責任は家庭だけにも、保育園だけにも存在しない。地域社会、行政、企業、そして国全体が支えるべきものである。

「壁ぺったん」論争が最終的に私たちへ突き付けているのは、保育技術の是非ではない。

それは、「子育てを誰が支えるのか」「失敗やリスクをどこまで社会が引き受けるのか」「保育をどのような公共的価値として位置付けるのか」という、日本社会そのものの在り方に関する問いである。

もし今後も現場へ責任を集中させ続けるならば、保育士不足はさらに深刻化し、保育の持続可能性は失われていく可能性が高い。

逆に、保育を社会全体で支える公共インフラとして位置付け、適切な資源投入と現実的なリスク認識を共有できるならば、子どもの権利尊重と現場の持続可能性を両立する道は開かれる。

「壁ぺったん」が象徴する論争の本質は、まさにその分岐点に日本社会が立たされていることを示しているのである。

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