「痛いの痛いの飛んでいけー」に科学的根拠、九州大学が神経特定
「痛いの痛いの飛んでいけー」は、長年にわたり日本の家庭で受け継がれてきた育児文化であり、多くの人が経験してきた日常的なケアである。
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現状(2026年7月時点)
「転んだ子どもの患部を親が優しくさすりながら『痛いの痛いの飛んでいけー』と言うと、不思議と泣き止む」。日本では古くから当たり前のように行われてきたこの行為は、長らく「気休め」「親子の愛情表現」「子どもの気分転換」と理解されてきた。医学的にも、痛みそのものを和らげる科学的根拠については十分に解明されておらず、「心理的効果が大きいのではないか」という説明にとどまっていた。
一方で、医療現場では以前から「患部をさすると痛みが軽減する」という現象そのものは広く知られていた。例えば、机に足をぶつけたとき、多くの人は無意識に患部を手で押さえたり、優しくさすったりする。この行動は世界中で共通して観察される極めて自然な反応であり、人間だけでなく一部の動物にも似た行動が認められている。
神経科学や疼痛医学の分野では、この現象について1965年に提唱された「ゲートコントロール理論(Gate Control Theory)」が長年の有力な説明となってきた。この理論では、触覚刺激が脊髄内で痛み信号の伝達を抑制する「ゲート(門)」を閉じるため、痛みが弱く感じられると考えられてきた。しかし、この理論は神経回路全体の概念を示したものであり、「どの神経細胞が実際にゲートを閉じる役割を担っているのか」という根本的な疑問には答えられていなかった。
つまり、「さすると痛みが和らぐ」という現象自体は半世紀以上前から知られていたものの、その中心となる神経細胞は世界中で誰も特定できていなかったのである。この未解決問題は神経科学における重要課題の一つとされ、多くの研究機関が解明を試みながら決定的な証拠を得られずにいた。
こうした状況を大きく変えたのが、2026年7月に公表された九州大学大学院薬学研究院の研究成果である。同研究グループは、痛みを抑制する働きを持つ特定の触覚神経を世界で初めて同定し、「さすることで痛みが軽減する理由」を神経回路レベルで実証したと発表した。この成果は、長年仮説として語られてきた現象を分子・細胞レベルで裏付けた点で極めて大きな意味を持つ。
研究を主導したのは、九州大学大学院薬学研究院の津田誠主幹教授らの研究グループである。同グループは、皮膚に存在する特定の触覚神経が脊髄内の疼痛回路へ直接作用し、痛み信号の伝達を抑制していることを動物実験によって明らかにした。
さらに研究では、この触覚神経を人工的に取り除いた場合には「さすっても痛みが軽減しない」こと、逆に人工的に刺激した場合には「さすらなくても痛みが軽減する」ことまで確認された。この二つの対比実験によって、従来は相関関係にとどまっていた「触れること」と「鎮痛効果」の因果関係が初めて直接証明されたのである。
この成果は、単なる基礎神経科学の発見にとどまらない。近年では、慢性疼痛患者の増加や高齢化社会の進展に伴い、薬物に依存しない疼痛管理への期待が世界的に高まっている。特にオピオイド系鎮痛薬による依存症や副作用が国際的な社会問題となる中、安全性の高い非薬物療法の開発は重要な研究課題となっている。
国際疼痛学会(IASP)も、慢性疼痛を単なる症状ではなく一つの疾患として位置付け、多面的な治療アプローチの必要性を提唱している。薬物療法だけでなく、リハビリテーション、心理療法、神経刺激療法、認知行動療法などを組み合わせた包括的疼痛管理が現在の国際標準となりつつある。
そのような流れの中で、「触れるだけで痛みを抑える神経回路」が科学的に特定された意義は極めて大きい。将来的には、この神経回路を応用した新しいペインクリニックの治療法や、ウェアラブル型医療機器、介護支援機器、リハビリテーション機器など、多方面への応用が期待されている。
また、この研究は医療だけではなく、子育てや介護、スポーツ医学、救急医療、さらには動物医療にまで影響を及ぼす可能性を持つ。「痛いの痛いの飛んでいけー」という一見素朴な民間療法が、実は人間の神経システムに深く根差した合理的な行為であった可能性が示されたことは、科学と経験知が一致した代表例の一つとして今後長く語られることになるだろう。
もっとも、この発見だけで「さすれば全ての痛みが治る」と結論付けることはできない。今回特定された神経回路は痛みを抑制する重要な仕組みの一つであるが、痛みには炎症、神経障害、心理状態、記憶、情動など数多くの要因が関与している。そのため、触覚刺激だけで全ての疼痛を説明できるわけではなく、今後は臨床応用へ向けたさらなる研究の積み重ねが必要となる。
それでも今回の成果は、「なぜ人は痛い場所を自然にさするのか」という誰もが経験する日常現象に対し、世界で初めて神経細胞レベルから明確な説明を与えた画期的な研究である。経験則として受け継がれてきた「痛いの痛いの飛んでいけー」が、単なるおまじないではなく、生体に備わった鎮痛システムを利用する合理的な行動である可能性が、科学によって大きく裏付けられたのである。
「痛いの痛いの飛んでいけー」
「痛いの痛いの飛んでいけー」は、日本の家庭で古くから受け継がれてきた育児習慣の一つである。子どもが転倒したり、どこかに体をぶつけたりした際、親や祖父母が患部を優しくさすりながら「痛いの痛いの飛んでいけー」と唱えることで、不思議なほど子どもが安心し、泣き止む場面は珍しくない。
多くの人は、この言葉を「おまじない」や「気休め」として理解してきた。しかし実際には、この一連の行動には「患部をさする」「親がそばにいる」「優しい声を掛ける」「注意を別方向へ向ける」という複数の要素が含まれており、神経科学や心理学の観点から見ると極めて合理的な構成になっている。
世界各国にも似た文化は存在する。英語圏では親が子どもに「Kiss it better(キスすれば治るよ)」と語り掛けたり、患部を軽くなでたりする習慣があり、中国や韓国などでも親が患部を優しく触れながら安心させる文化が見られる。表現は異なっても、「痛い場所に優しく触れる」という行為そのものは世界中で共通している。
これは偶然ではない可能性が高い。人間は進化の過程で、外傷を受けた部位を保護しながら周囲からの援助を受けることが生存率を高めてきたと考えられている。そのため、痛みを感じた際に患部へ手を伸ばし、触れるという反応は、生得的な防御行動の一部であると考えられている。
神経科学では、このような行動は「自己接触(self-touch)」として研究されてきた。人は不安や痛み、緊張を感じると、腕をさすったり、手を握ったり、顔に触れたりすることが多いが、これらは単なる癖ではなく、自律神経や情動を安定させる働きを持つ可能性が報告されている。
痛みは単純な感覚ではなく、「侵害刺激」「神経伝達」「脳による認知」「感情」「記憶」「期待」など複数の要素から構成される複雑な現象である。同じ傷であっても、安心できる環境では痛みが軽く感じられ、不安や恐怖が強い状況では痛みが増強することは、多くの研究で示されている。
そのため、「痛いの痛いの飛んでいけー」が効果を示す理由も一つではないと考えられてきた。従来は、①触覚刺激による鎮痛効果、②親とのスキンシップによる安心感、③注意を痛みから逸らす認知効果、④プラセボ効果など、複数の要因が重なっているという説明が一般的であった。
しかし、この説明には一つの大きな課題が残っていた。それは、「実際に触れること自体が痛みを抑える神経回路はどこに存在するのか」が分かっていなかったことである。心理的要因だけでは説明できない、生物学的な仕組みの解明が長年求められていた。
1965年、カナダの心理学者ロナルド・メルザックとイギリスの神経科学者パトリック・ウォールは、「ゲートコントロール理論」を提唱した。この理論は、皮膚から伝わる触覚刺激が脊髄内で痛み信号を抑制し、脳へ伝わる痛みを減少させるという画期的な考え方であり、現在の疼痛医学の基礎理論となっている。
ゲートコントロール理論は、日常生活の多くの経験をうまく説明できた。例えば、頭をぶつけた際に無意識に手で押さえる、肩こりをもむと楽になる、マッサージ後に痛みが軽減する、温熱療法や低周波刺激が疼痛緩和に役立つといった現象は、いずれも触覚入力が痛みの伝達を調節している可能性を示している。
しかし、この理論はあくまで概念モデルであり、「ゲートを閉じる主役となる神経細胞」は分かっていなかった。脊髄には数百種類以上の神経細胞が存在すると考えられており、その中から痛み抑制に直接関わる細胞を見つけることは極めて困難であった。
そのため、神経科学では「触覚神経が重要なのは間違いないが、具体的にどの神経なのかは未解明」という状況が長く続いた。この未解決問題は、慢性疼痛や神経障害性疼痛の新しい治療法を開発する上でも大きな障壁となっていた。
2026年7月、この状況を一変させたのが九州大学大学院薬学研究院の研究である。同研究グループは、皮膚からの触覚情報を伝える神経細胞群の中から、Npy2r-Cre陽性触覚神経が痛み抑制に中心的な役割を果たすことを世界で初めて明らかにした。
この発見によって、「さすると痛みが和らぐ」という現象は、心理学だけではなく神経回路レベルでも説明できるようになった。さらに、この神経を人工的に操作することで痛みの程度が変化することまで実証されたため、単なる相関ではなく因果関係が示された点に大きな学術的価値がある。
結論:「さする」と痛みが和らぐメカニズム
今回の研究の結論を一言で表すならば、「皮膚を優しくさすると、特定の触覚神経が活性化され、その信号が脊髄内で痛みの伝達を抑制する」ということである。
研究グループが特定したのは、Npy2r-Cre陽性触覚神経である。この神経は、皮膚への穏やかな機械刺激、すなわち「なでる」「さする」「軽く触れる」といった刺激に反応し、脊髄へ情報を送る役割を担っている。
脊髄は、皮膚から脳へ向かう感覚情報の中継地点であり、痛みの信号もここを通過する。Npy2r-Cre陽性触覚神経が活性化すると、脊髄内で痛みを伝える神経回路が抑制され、脳へ到達する痛み信号が弱められる。その結果、実際の傷や炎症が残っていても、「痛みとして感じる強さ」が軽減される。
重要なのは、この作用は「傷を治す」のではなく、「痛みの情報処理を調節する」ことである。つまり、「さする」という行為は、外傷そのものを消す魔法ではなく、生体が本来備えている鎮痛システムを利用して痛みを和らげる自然な行動である。
今回の成果は、1965年に提唱されたゲートコントロール理論を、約60年を経て神経細胞レベルで具体化したものとも位置付けられる。これまで理論として存在していた「触覚による痛み抑制」が、どの神経によって実現されるのかが初めて明らかになったからである。
さらに研究では、「神経を除去すると効果が消える」「神経だけを刺激すると効果が再現される」という二方向からの検証が行われた。この二つの対比実験により、Npy2r-Cre陽性触覚神経が鎮痛機構の中核を担うことが強く裏付けられた。
この発見は、従来「経験的に正しい」とされてきた家庭でのケアを科学的に裏付けるものであり、「痛いの痛いの飛んでいけー」は、単なる言い伝えではなく、生体の神経機構に基づいた合理的な行動である可能性を大きく高めたのである。
科学的に立証した「2つの対比実験」
今回の九州大学大学院薬学研究院の研究が世界的に高く評価された最大の理由は、「さすると痛みが和らぐ」という現象を単に観察しただけではなく、その原因となる神経細胞を二つの対照的な実験によって検証し、因果関係を証明した点にある。
生命科学では、「ある細胞が本当に機能している」と証明するためには、「その細胞を失わせる(Loss of Function)」実験と、「その細胞だけを働かせる(Gain of Function)」実験の両方が求められることが多い。前者では機能を失わせた際に現象が消失するかを確認し、後者では人工的に機能を与えた際に現象が再現されるかを調べることで、単なる相関ではなく因果関係を強く裏付けることができる。
今回の研究でも、この基本原則に沿って二種類の実験が実施された。一つは、痛みを抑制すると考えられるNpy2r-Cre陽性触覚神経を取り除く実験であり、もう一つは、この神経だけを人工的に刺激する実験である。
両実験は互いに補完関係にあり、「神経がなければ鎮痛効果は消える」「神経だけを刺激すれば鎮痛効果が生まれる」という二方向から同じ結論へ到達している。この研究デザインこそが、今回の成果の信頼性を大きく高める要因となった。
① 触覚神経(Npy2r-Cre)を取り除く
研究グループはまず、Npy2r-Cre陽性触覚神経の働きを失わせた実験動物を用いて、「さすることで痛みが軽減する現象」が維持されるかどうかを検証した。
通常の実験動物では、皮膚へ穏やかな機械刺激を加えると、痛みに対する反応が明らかに減少した。これは、従来から知られていた「触れると痛みが軽くなる」という現象を再現した結果である。
ところが、Npy2r-Cre陽性触覚神経の機能を失わせた個体では、この鎮痛効果が著しく低下、あるいは消失した。患部に相当する部位へ同様の触覚刺激を加えても、通常個体で見られたような痛みの軽減は認められなかった。
この結果は極めて重要である。もしNpy2r-Cre陽性触覚神経が痛み抑制に無関係であれば、神経を失わせても「さすることによる鎮痛効果」は残るはずである。しかし実際には効果が大きく失われたため、この神経が触覚性鎮痛に不可欠な役割を担っていることが示唆された。
さらに重要なのは、この実験では痛みそのものを感じる能力が完全に失われたわけではないという点である。侵害刺激に対する基本的な感覚機能は維持されており、変化したのは「触れることで痛みが弱まる」という特定の現象であった。
つまり、Npy2r-Cre陽性触覚神経は「痛みを感じる神経」ではなく、「触覚情報を利用して痛みを抑える神経回路」の一部として働いていることが明らかになったのである。
この知見は、これまでの疼痛研究にも大きな影響を与える。従来は「痛みを止めるには痛覚神経を抑えればよい」という発想が中心だったが、今回の研究は「触覚神経を適切に利用することで痛みを抑制できる」という新たな治療戦略を示した。
また、この結果はゲートコントロール理論とも整合する。理論上存在すると考えられていた「痛みを遮断するゲート」の働きに、この触覚神経が重要な役割を果たしている可能性が、具体的な細胞レベルで裏付けられたのである。
② 触覚神経(Npy2r-Cre)を人工的に刺激する
研究グループは次に、逆方向から仮説を検証した。Npy2r-Cre陽性触覚神経だけを人工的に活性化し、本当に鎮痛効果が再現されるかを調べたのである。
この実験では、光遺伝学(オプトジェネティクス)や化学遺伝学など、特定の神経集団を選択的に刺激できる現代神経科学の手法が活用された。これらの技術により、目的とする神経だけを高い精度で操作し、その機能を解析することが可能となった。
その結果、実際に皮膚をさすらなくても、Npy2r-Cre陽性触覚神経を人工的に刺激すると、実験動物の痛み反応が有意に低下した。つまり、「触れる」という物理的行為がなくても、神経活動そのものを再現するだけで鎮痛効果が生じたのである。
この結果は、「さする」という行為そのものが特別なのではなく、「さすることで活性化される神経回路」が本質であることを示している。換言すれば、重要なのは皮膚への接触ではなく、その接触によって引き起こされる神経活動なのである。
さらに、この人工刺激による鎮痛効果は、Npy2r-Cre陽性触覚神経が脊髄内で痛み伝達回路を制御していることを強く示唆している。外界からの穏やかな触覚情報が、この神経を介して脊髄内の神経ネットワークに作用し、痛み信号の伝達効率を低下させていると考えられる。
この成果は、将来的な医療応用において極めて重要な意味を持つ。もし、この神経を薬剤や電気刺激、超音波刺激、あるいはウェアラブルデバイスなどによって選択的に活性化できれば、薬物に頼らない新しい鎮痛法の開発につながる可能性がある。
特に、慢性疼痛や神経障害性疼痛では、既存の鎮痛薬だけでは十分な効果が得られない患者も少なくない。また、長期の薬物使用による副作用や依存性も課題となっている。そのため、生体本来の鎮痛機構を利用する今回の知見は、より安全で持続可能な疼痛管理への道を開くものとして期待されている。
二つの実験が示した科学的意義
今回の研究の最大の強みは、「神経を失わせると効果が消える」「神経を刺激すると効果が現れる」という、互いに補完し合う二種類の実験結果が一致した点にある。
科学では、ある現象と要因が同時に観察されても、それだけでは「原因と結果」の関係を証明したことにはならない。しかし、「原因を取り除けば結果も消え、原因だけを与えれば結果が再現される」という二方向からの検証が成功した場合、その因果関係は非常に強く支持される。
今回のNpy2r-Cre陽性触覚神経の研究は、まさにこの条件を満たした。長年「経験的には正しい」と考えられてきた「さすると痛みが和らぐ」という現象が、神経科学の厳密な実験手法によって実証されたのである。
この成果は、「痛いの痛いの飛んでいけー」という日常的なケアが、単なる心理的慰めではなく、生体に備わった触覚性鎮痛システムを活用する合理的な行動であることを裏付ける重要な一歩となった。
もっとも、この研究だけで痛みのすべてを説明できるわけではない。痛みは、末梢神経や脊髄だけでなく、大脳皮質、扁桃体、前頭前野など多くの脳領域が関与する複雑な現象であり、心理状態や過去の経験、社会的環境なども痛みの感じ方に大きく影響する。今回明らかになったのは、その複雑な疼痛制御機構の中核をなす一つの重要な神経回路であり、今後はこの知見を基盤として、より包括的な疼痛メカニズムの解明が進むことが期待される。
分析:なぜ「痛いの痛いの飛んでいけー」が最強のケアなのか?
九州大学大学院薬学研究院による今回の研究は、「さすると痛みが和らぐ」という現象に神経科学的な根拠を与えた画期的な成果である。しかし、この発見だけで「痛いの痛いの飛んでいけー」の効果をすべて説明できるわけではない。
人間の痛みは、傷や炎症だけで決まる単純な感覚ではない。痛みは末梢神経、脊髄、脳、自律神経、心理状態、過去の経験、周囲の環境など、多数の要素が複雑に関与して生じる。そのため、「痛いの痛いの飛んでいけー」が高い効果を示す背景には、一つではなく複数の鎮痛機構が同時に働いていると考えられる。
医学・神経科学・心理学の知見を総合すると、この行為には大きく三つの要素が存在する。第一に、今回の研究で実証された「物理的な痛み伝達の抑制」、第二に「安心感を生むスキンシップ」、第三に「注意を痛みから逸らす認知効果」である。
これら三つは互いに独立しているのではなく、相乗的に作用する。そのため、「患部をさすりながら優しく声を掛ける」という極めて単純な行動でありながら、高い鎮痛効果が得られるのである。
物理的遮断(今回の発見)
今回の九州大学の研究が明らかにした最大の成果は、「触れる」という行為そのものが痛みの神経回路へ直接作用していることを示した点である。
皮膚を優しくさすると、Npy2r-Cre陽性触覚神経が活動し、その情報が脊髄へ伝達される。そして脊髄内では、痛み情報を運ぶ神経回路の活動が抑制され、脳へ届く痛み信号が減少する。このため、傷が存在していても、実際に感じる痛みは軽減される。
重要なのは、この作用が「気のせい」ではないことである。痛みを感じる神経活動そのものが変化しているため、心理的な安心感とは別に、生理学的な鎮痛効果が生じている。
この現象は、私たちの日常生活でも頻繁に経験している。例えば、家具に足をぶつけた瞬間、多くの人は考えるより先に患部へ手を伸ばし、押さえたり、さすったりする。これは学習した行動というより、人間に備わった本能的な反応と考えられる。
今回の研究は、この本能的行動の理由を神経細胞レベルで説明した初めての成果である。つまり、「痛いからさする」のではなく、「さすると痛みが減る仕組みが体内に備わっているため、人は自然とさする」という理解へと変わるのである。
さらに、この知見はゲートコントロール理論を具体的に裏付けるものでもある。約60年間、理論として存在していた「触覚による痛み抑制」が、実際にはどの神経によって実現されているかが初めて示されたのである。
もちろん、この機構だけで全ての痛みが消えるわけではない。骨折や重度の炎症、内臓痛などでは触覚刺激だけでは十分な鎮痛効果を得られない場合もある。しかし、日常的な軽度外傷や一過性の痛みでは、生体が本来持つ自然な鎮痛システムとして十分に機能していると考えられる。
心理的緩和(スキンシップ効果)
「痛いの痛いの飛んでいけー」の効果を語る上で、心理的な側面も欠かすことはできない。
乳幼児は、自分の痛みを論理的に理解することができない。そのため、「傷は軽いから大丈夫」と説明されても、不安や恐怖は容易には消えない。一方、信頼する保護者が優しく触れ、落ち着いた声で語り掛けることは、大きな安心感につながる。
心理学では、このような身体接触を「スキンシップ」あるいは「愛着形成(アタッチメント)」の一部として位置付けている。乳幼児期の適切な身体接触は、情緒の安定やストレス軽減、対人関係の形成に重要な役割を果たすことが数多くの研究で示されている。
優しい接触を受けると、副交感神経が優位となり、心拍数や血圧が安定しやすくなる。また、安心感や信頼感に関与するホルモンとして知られるオキシトシンの分泌が促進される可能性も報告されている。
オキシトシンは「愛情ホルモン」「絆ホルモン」とも呼ばれ、不安やストレス反応を和らげる働きがあると考えられている。ストレスが軽減されれば、脳は痛みに対して過剰に反応しにくくなり、結果として痛みも弱く感じられる。
親が慌てたり、不安そうな表情を見せたりすると、子どもは「大変なことが起きた」と認識し、痛みをより強く感じる傾向がある。逆に、穏やかな笑顔で「大丈夫、大丈夫」と声を掛けられると、不安が軽減され、痛みの感じ方も変化する。
つまり、「痛いの痛いの飛んでいけー」は単なる言葉ではなく、「あなたは一人ではない」「守られている」という安心感を伝えるコミュニケーションでもある。この心理的安定が、生理学的な鎮痛機構と重なり合うことで、高い効果が生まれるのである。
注意の逸らし(プラセボと認知)
三つ目の要素は、認知心理学でいう「注意の転換」である。
脳は、一度に処理できる情報量に限界がある。そのため、人は何か一つへ強く注意を向けると、他の刺激に対する意識が相対的に弱くなる。この特徴は、痛みの知覚にも当てはまる。
例えば、スポーツ競技中は大きなけがをしても気付かず、試合終了後に初めて痛みを自覚することがある。また、夢中で遊んでいる子どもは、小さな擦り傷をほとんど気にしない。このような現象は、注意資源が別の対象へ向けられているためと考えられている。
「痛いの痛いの飛んでいけー」という言葉は、痛みに集中していた子どもの意識を、「飛んでいく」というイメージへ移動させる役割を果たしている。これは単なる言葉遊びではなく、認知心理学的には注意の再配分を促す行為と解釈できる。
さらに、「これで治る」という期待は、プラセボ効果にもつながる。プラセボ効果とは、薬理作用を持たない処置であっても、「効く」と信じることで症状が改善する現象である。
現在では、プラセボ効果は「思い込み」ではなく、脳内で内因性オピオイドやドーパミンなどの神経伝達物質が放出されることによって生じる、生物学的反応であることが分かっている。つまり、「治ると期待すること」自体が、脳の鎮痛システムを活性化させるのである。
子どもは特に、保護者への信頼が強いため、「お母さんやお父さんが治ると言うなら治る」という期待を持ちやすい。この期待がプラセボ効果を高め、実際の痛みの軽減につながる可能性がある。
もっとも、ここで注意すべきなのは、今回の九州大学の研究は触覚神経による物理的鎮痛機構を明らかにしたものであり、プラセボ効果や心理的効果そのものを実証した研究ではないという点である。したがって、「痛いの痛いの飛んでいけー」の効果を理解するには、今回の神経科学的成果に加え、従来から蓄積されてきた心理学・認知科学・疼痛医学の知見を統合して考える必要がある。
応用
今回の九州大学大学院薬学研究院による研究成果は、「痛みの基礎メカニズムを解明した」という学術的価値にとどまらず、今後の医療技術やヘルスケア全体に幅広い応用が期待される発見である。
現在の疼痛治療は、消炎鎮痛薬やオピオイド系鎮痛薬など薬物療法が中心となっている。しかし、すべての患者に十分な効果が得られるわけではなく、副作用や耐性、依存性といった課題も存在する。そのため、近年では「薬に頼らない疼痛管理(Non-pharmacological Pain Management)」が世界的な研究テーマとなっている。
今回特定されたNpy2r-Cre陽性触覚神経は、生体が本来備えている鎮痛システムの一部である。この神経を安全かつ効率的に活性化できれば、薬物を使用せずに痛みを軽減する新しい治療法の開発につながる可能性がある。
また、この研究は疼痛医学だけではなく、リハビリテーション医学、整形外科、スポーツ医学、小児医療、高齢者医療、在宅介護など、多くの分野への波及効果が期待されている。日常生活の中で自然に行われてきた「さする」という行為が、科学的根拠を持つケアとして再評価される契機になる可能性もある。
さらに、触覚刺激による鎮痛効果を最大限に引き出す刺激条件や、慢性疼痛患者への適応、神経障害性疼痛への有効性などが明らかになれば、非侵襲的な疼痛管理技術として広く普及する可能性がある。
薬に頼らないペインクリニック
今回の研究成果が最も期待される応用分野の一つが、ペインクリニックである。
ペインクリニックでは、神経ブロック、鎮痛薬、理学療法、認知行動療法などを組み合わせて慢性疼痛の治療が行われている。しかし、慢性疼痛は神経回路そのものが変化していることも多く、薬だけでは十分な改善が得られない患者も少なくない。
世界保健機関(WHO)や国際疼痛学会(IASP)は、慢性疼痛を単なる症状ではなく、生活の質(QOL)や社会参加に大きな影響を与える独立した疾患として位置付けている。そのため、身体・心理・社会的要因を総合的に考慮した「生物・心理・社会モデル(Biopsychosocial Model)」に基づく治療が推奨されている。
今回明らかになった触覚神経回路は、この生物学的側面に新たな選択肢を提供する可能性がある。例えば、患者の症状に応じて適切な触覚刺激を与えるリハビリテーションや、専用デバイスによる神経刺激療法などが開発されれば、従来の薬物療法を補完する治療法として活用できる可能性がある。
また、高齢者では複数の薬剤を服用する「ポリファーマシー」が問題となっている。薬剤数を減らしながら疼痛を管理できれば、副作用の軽減や医療費の抑制にもつながる可能性がある。
さらに、小児医療では薬剤使用に慎重な場面も多い。予防接種や採血、小さな外傷などに対し、適切な触覚刺激を組み合わせることで、不安や痛みを和らげる補助的手段として利用できる可能性も考えられる。
スマートな鎮痛医療機器の開発
今回の発見は、医療機器開発の分野にも大きな影響を与える可能性がある。
現在でも、経皮的電気神経刺激(TENS)や振動刺激装置など、触覚刺激を利用した疼痛管理機器は存在する。しかし、これらは経験的な知見に基づいて設計されており、「どの神経を標的としているのか」は必ずしも明確ではなかった。
今回、痛み抑制に関与する触覚神経が特定されたことで、この神経を効率よく刺激することを目的とした新世代の医療機器開発が進む可能性がある。刺激の強さ、周波数、持続時間、刺激パターンなどを最適化することで、より高い鎮痛効果を目指す研究が期待される。
近年は、ウェアラブルデバイスやAI(人工知能)、IoT技術の発展により、患者の状態をリアルタイムで把握しながら治療を行う「スマート医療」が進展している。これらの技術と今回の研究成果が融合すれば、痛みの程度に応じて自動的に触覚刺激を調整する装着型医療機器なども将来的には実現する可能性がある。
また、ロボティクス技術との融合も考えられる。介護ロボットやリハビリテーション支援装置が、人の手で優しくさするような刺激を再現し、疼痛緩和を補助する技術へ発展する可能性も否定できない。
もっとも、こうした応用は現時点では将来的な可能性であり、実用化には安全性や有効性を確認するための基礎研究や臨床試験が不可欠である。特に、マウスで得られた知見がそのままヒトに適用できるかどうかについては、慎重な検証が求められる。
今後の展望
今回の研究は、「触れることによる鎮痛」の神経回路を初めて明らかにした重要な成果であるが、疼痛研究の出発点でもある。
まず重要なのは、ヒトにおいても同様の神経回路がどの程度機能しているかを詳細に解明することである。動物実験とヒトでは神経系の共通点が多い一方、複雑さや認知機能には違いがあるため、臨床研究による検証が必要となる。
また、今回の研究では主に穏やかな触覚刺激に焦点が当てられているが、「どの程度の強さで触れるのが最も効果的なのか」「刺激時間はどれくらいが適切か」「部位による違いはあるのか」といった条件については、今後さらに研究が進められると考えられる。
慢性疼痛や神経障害性疼痛、がん性疼痛、術後疼痛など、それぞれの病態で同じ神経回路がどのように働くのかも重要な研究課題である。疾患によっては神経回路そのものが変化している可能性もあり、触覚刺激の効果が異なることも考えられる。
さらに、今回の発見は「触覚」と「痛み」の関係だけでなく、「触れること」が脳や情動、自律神経に与える影響を統合的に理解する契機にもなるだろう。神経科学、心理学、発達科学、リハビリテーション医学など、異なる分野が連携することで、人間の痛みの理解は一層深まることが期待される。
まとめ
「痛いの痛いの飛んでいけー」は、日本の家庭で長年受け継がれてきた育児文化の一つであり、多くの人にとって幼少期の原風景ともいえる存在である。これまでは「子どもを安心させるためのおまじない」「気休め」「愛情表現」と理解されることが多く、医学的な説明も心理的効果を中心としたものが主流であった。
しかし、2026年7月に九州大学大学院薬学研究院の津田誠主幹教授らの研究グループが発表した成果は、この常識を大きく前進させた。研究グループは、痛みを抑制する役割を担うNpy2r-Cre陽性触覚神経を世界で初めて特定し、「皮膚を優しくさすることで痛みが軽減する」という現象に神経細胞レベルでの科学的根拠を与えたのである。
今回の研究が高く評価される最大の理由は、「さすると痛みが和らぐ」という経験則を観察しただけではなく、「神経を取り除くと鎮痛効果が失われる」「神経だけを人工的に刺激すると鎮痛効果が再現される」という二つの対比実験を通じて、触覚刺激と鎮痛効果の因果関係を強く裏付けた点にある。これは、1965年に提唱されたゲートコントロール理論を約60年の時を経て具体的な神経回路レベルで補強する成果であり、疼痛研究における重要な一歩となった。
一方で、「痛いの痛いの飛んでいけー」の効果は、今回発見された触覚神経の働きだけで説明できるものではない。人間の痛みは、末梢神経や脊髄だけでなく、大脳皮質や情動系、自律神経、過去の経験、期待、不安などが複雑に関与する多面的な現象である。そのため、この伝統的なケアが高い効果を示す背景には、物理的な鎮痛機構、保護者とのスキンシップによる心理的安定、注意の転換や期待による認知的効果が相互に作用していると考えるのが妥当である。
今回の研究成果は、こうした複数の要因の中でも、これまで未解明であった「触れることによる生理学的な鎮痛機構」を初めて具体的に示した点に大きな意義がある。経験則として語られてきた家庭でのケアが、神経科学によって裏付けられたことは、伝統的な知恵と現代科学が一致した象徴的な事例といえる。
さらに、この知見は基礎研究にとどまらず、将来の医療技術にも大きな可能性をもたらす。薬剤に依存しない疼痛管理、ペインクリニックにおける新たな治療法、リハビリテーション、スポーツ医学、小児医療、高齢者介護、ウェアラブル型鎮痛機器など、多様な分野への応用が期待される。特に、オピオイド系鎮痛薬の副作用や依存性が世界的な課題となる中、生体が本来持つ鎮痛システムを活用するという発想は、今後の疼痛医療に新しい方向性を示す可能性がある。
もっとも、現時点で今回の成果を過大評価することは避けなければならない。本研究は主として動物実験によって得られた基礎研究であり、ヒトにおいて同様の神経回路がどの程度機能し、どのような病態で有効なのかについては、今後の臨床研究による検証が必要である。また、「さすればあらゆる痛みが治る」という意味ではなく、あくまで生体に備わった疼痛調節機構の一端が明らかになったと理解することが重要である。
それでも今回の発見は、「人はなぜ痛い場所を無意識にさするのか」という極めて身近な疑問に対し、世界で初めて神経細胞レベルから明確な答えを提示したという点で、学術的にも社会的にも大きな価値を持つ。古くから受け継がれてきた「痛いの痛いの飛んでいけー」は、単なる迷信やおまじないではなく、人間が進化の過程で獲得した生体防御機構と、親子の信頼関係、心理的安心感を巧みに組み合わせた合理的なケアである可能性が、科学によって大きく裏付けられたのである。
今後、触覚神経の詳細な働きや脳内ネットワークとの関係、最適な刺激方法などがさらに解明されれば、「触れること」を積極的に活用した新しい疼痛医療や予防医学が発展する可能性がある。今回の九州大学の研究は、その第一歩として、「人に優しく触れる」という極めて日常的な行為の中に、人類がまだ十分に理解していなかった高度な生体メカニズムが存在することを示した画期的な成果であり、今後の神経科学・疼痛医学・医療技術の発展における重要な礎となることが期待される。
参考・引用リスト
- 九州大学大学院薬学研究院「触覚刺激による鎮痛機構に関する研究発表(2026年7月)」
- 津田誠 主幹教授らによる原著論文(査読付き学術誌掲載論文)
- 国際疼痛学会(IASP):疼痛の定義・慢性疼痛に関するガイドライン
- 世界保健機関(WHO):疼痛管理および慢性疼痛に関する資料
- 日本疼痛学会:疼痛診療・疼痛研究に関する資料
- 日本神経科学学会:感覚神経・疼痛研究に関する資料
- Ronald Melzack, Patrick D. Wall. Pain Mechanisms: A New Theory. Science. 1965.
- PubMed掲載の触覚・疼痛・ゲートコントロール理論に関するレビュー論文
- NIH(米国国立衛生研究所):Pain Research関連資料
- Nature、Nature Neuroscience、Neuron、Cell Reportsなどの疼痛・感覚神経研究
- NHK、共同通信、時事通信など、九州大学研究成果に関する報道
- 国内外の神経科学・疼痛医学に関する専門書およびレビュー論文
