「好き」「嫌い」の脳内メカニズム、東大チームがマウス実験で解明、分かっていること
東京大学定量生命科学研究所を中心とする研究グループが2026年7月に発表した研究は、「好き」「嫌い」という情動が経験時に活動した神経細胞群によって形成され、その価値判断が後から書き換え可能であることをマウス実験で示した。
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現状(2026年7月時点)
人間は毎日、無数の「好き」と「嫌い」を判断しながら生活している。好きな食べ物、嫌いな匂い、信頼できる人物、避けたい場所、恋愛感情、恐怖体験など、そのほとんどは脳が瞬時に価値判断を行った結果である。しかし長年の神経科学研究において、「出来事を覚える記憶」と「その出来事に伴う好き・嫌いという感情」が脳内でどのように結び付いているのかは完全には理解されていなかった。
従来の研究では、海馬がエピソード記憶を担い、扁桃体が恐怖や情動を担うことは広く知られていた。一方で、「ある出来事は覚えているが、その感情だけを書き換えられるのか」「嫌悪感だけを消したり、新たに付与したりできるのか」という問いについては、十分な実験的証拠が存在していなかった。
2026年7月9日、この長年の課題に対して大きな前進となる研究成果が公表された。東京大学定量生命科学研究所を中心とする研究グループは、マウスを用いた神経科学実験によって、「好き」「嫌い」という価値判断が固定されたものではなく、特定の神経細胞群を操作することで後から書き換えられることを示したのである。
この成果は単に「好き嫌いが変えられる」という話ではない。記憶の内容を残したまま、その記憶に付随する情動だけを書き換えられる可能性を示した点に大きな意義がある。これは神経科学だけでなく、精神医学、認知科学、さらには人工知能研究にも影響を及ぼす可能性を持つ発見として注目されている。
今回の研究では、最新の神経活動標識技術と光遺伝学を組み合わせることで、マウスがある経験を「好き」と感じたとき、あるいは「嫌い」と感じたときに活動した神経細胞だけを後から再び刺激し、感情評価を意図的に変更できることが示された。このような精密な神経回路操作は、近年急速に発展しているシステム神経科学の成果を象徴するものである。
研究成果は米科学誌『Science』に掲載され、世界中の神経科学研究者から高い関心を集めている。『Science』は生命科学・医学・物理学など幅広い分野を扱う世界最高峰の総合科学誌の一つであり、掲載論文は厳格な査読を経て選ばれることから、今回の成果も国際的な評価を受けた研究である。
東京大学定量生命科学研究所のチームが7月9日付の米科学誌サイエンスに発表
今回の研究を主導したのは、東京大学定量生命科学研究所を中心とする研究グループである。同研究所は生命現象を定量的・数理的な視点から解析する研究拠点として知られ、分子生物学、神経科学、ゲノム科学、細胞生物学などを横断した研究を推進している。
近年の脳科学では、「脳のどこが働くのか」を調べる段階から、「どの神経細胞群が、どのタイミングで、どのように行動を決定するのか」を解析する段階へと研究の焦点が移っている。その背景には、カルシウムイメージング、二光子顕微鏡、単一細胞解析、遺伝子改変技術、そして光遺伝学などの革新的技術の進歩がある。
今回の研究でも、それら最先端技術を組み合わせることで、感情を形成した神経細胞集団を個別に識別し、その細胞だけを後から刺激・操作することに成功した。従来であれば脳全体に薬剤を投与するしかなかったが、本研究では「記憶に関与した細胞群だけ」を標的にできる点が画期的である。
研究成果が掲載された『サイエンス(Science)』は、新しい概念や研究手法を示す論文が多く掲載される国際的な学術誌であり、神経科学分野でも数多くの歴史的発見が報告されてきた。今回の成果も、単なる新しい実験結果ではなく、「情動は独立して操作可能である」という概念的転換を提案した点が高く評価されたと考えられる。
また、本研究はマウスを対象としているため、その結果を直ちに人間へ適用できるわけではない。しかし哺乳類では情動形成に関わる脳回路の基本構造が比較的保存されていることから、人間においても同様の仕組みが存在する可能性があるとの期待が高まっている。
研究の背景と目的
「好き」と「嫌い」は、生物が生存するために獲得した基本的な能力である。食べても安全なものを好み、有害なものを避けることは、生存率を高める上で極めて重要であり、進化の過程で高度に発達してきた。
人間では、この仕組みがさらに複雑化している。食べ物だけではなく、人物、音楽、香り、場所、文化、思想など、ほぼあらゆる対象に対して価値判断を行うようになった。その判断には過去の経験が大きく影響し、一度形成された好き嫌いは長期間維持されることが少なくない。
神経科学では、この価値判断は「記憶」と「情動」が統合された結果として理解されてきた。例えば、ある犬に噛まれた経験をした人は、その出来事を記憶すると同時に、「犬は怖い」という情動も形成しやすくなる。この二つは密接に結び付いているため、どちらか一方だけを変えることは難しいと考えられてきた。
しかし、この考え方には重要な疑問があった。出来事そのものは忘れなくても、「恐怖だけ」が消えることはあるのか、あるいは逆に、中立的な経験へ新たな感情を付与できるのかという問題である。この問いは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、恐怖症、不安障害、依存症など、多くの精神疾患の理解にも直結する。
これまでの研究では、記憶の固定化(コンソリデーション)や再固定化(リコンソリデーション)の研究が進み、記憶は想起のたびに再び可塑的な状態になることが知られていた。一方で、その際に情動成分だけを書き換えられるかどうかは、依然として未解明の課題だった。
そこで東京大学の研究グループは、「記憶を保持したまま、その記憶に付随する『好き』『嫌い』という価値判断だけを変更できるのではないか」という仮説を立てた。そして、その仮説を検証するため、活動した神経細胞群を選択的に標識し、後から人工的に再活性化できる実験系を構築した。
この研究の目的は、単に感情を操作する技術を示すことではない。脳がどのように価値判断を形成し、その価値判断がどの程度可塑的であるのかを明らかにすることで、記憶・学習・情動の統合理論を発展させる点にある。また、その知見を将来的な精神疾患治療や予防医学へ応用する基盤を築くことも重要な目標の一つと位置付けられている。
解明された「好き・嫌い」の脳内メカニズム
今回の研究が神経科学分野で大きな注目を集めた最大の理由は、「好き」「嫌い」という情動が、脳内でどのように形成され、どのように書き換えられるのかを神経細胞レベルで実証した点にある。これまで情動は脳全体に広く分散した現象と考えられることが多かったが、本研究はその形成過程が特定の神経回路によって担われていることを改めて示した。
一般に、生物は経験を通じて対象の価値を学習する。例えば甘い食べ物を口にして快感を得れば、その食べ物を「好き」と評価するようになる。一方で腐敗した食物を食べて体調を崩せば、「嫌い」「避けるべき対象」として記憶される。このような価値判断は、生存に直結する重要な適応機能である。
従来、この価値判断は経験そのものの記憶と切り離せないものと考えられてきた。ある出来事を思い出せば、そのとき感じた喜びや恐怖も同時に想起されることが一般的であり、記憶と情動は一体となった情報として保存されているという見方が主流だった。
しかし今回の研究は、この常識に修正を迫る結果を示した。出来事を記録する神経活動と、その出来事に「好き」「嫌い」という価値を与える神経活動は完全に同一ではなく、一定程度独立した回路として存在している可能性が示されたのである。
研究チームは、マウスが快い経験をした瞬間、あるいは不快な経験をした瞬間に活動した神経細胞群を特定し、その細胞群だけを後から人工的に再活性化した。その結果、元の経験を変えることなく、経験に付随する価値判断だけを変化させられることが明らかになった。
この成果は、「脳は単に出来事を保存する装置ではなく、その出来事の意味や価値を別個に管理している」という考え方を支持するものである。つまり、「何が起きたか」と「それをどう感じるか」は密接に結び付いているものの、完全には同一ではないということである。
この仕組みは、脳が環境変化へ柔軟に適応するための重要な特徴と考えられる。ある対象を危険と判断していたとしても、環境が変化して安全になれば、その評価を修正できる方が生存に有利だからである。
例えば幼少期には苦手だった食べ物を、大人になって好むようになることがある。また、過去には恐怖を感じていた場所でも、安全が確認されれば平然と訪れるようになる。このような経験は日常的に見られるが、その背景には情動評価を書き換える神経可塑性が存在すると考えられてきた。
今回の研究は、その可塑性が単なる心理的変化ではなく、特定の神経細胞群の活動変化として説明できることを実験的に示した点で重要である。
さらに注目すべきなのは、情動の変化が極めて限定された神経細胞集団によって制御されている可能性である。従来は脳全体の広範囲な活動変化が必要と考えられていたが、実際には経験時に活動した神経細胞群、いわゆる「エングラム(記憶痕跡)」に関連する細胞群が中心的な役割を果たしていることが示唆された。
エングラム研究は近年急速に発展している分野であり、「記憶とはどの神経細胞に保存されているのか」という問いに対して重要な知見を積み重ねてきた。今回の成果は、このエングラム研究をさらに一歩進め、「感情の価値付け」までエングラムが担っている可能性を示した点で新規性が高い。
もっとも、「好き」「嫌い」という感情は単一の脳領域だけで決まるわけではない。海馬は出来事や場所の記憶を担い、扁桃体は恐怖や快・不快の情動を処理し、前頭前野は意思決定や価値判断を調整し、側坐核や腹側被蓋野など報酬系は快感や動機付けに関与することが知られている。
したがって、今回の研究も単一の神経細胞だけが感情を決定していると示したわけではない。むしろ複数の脳領域にまたがる神経ネットワークの中で、経験時に活動した特定の細胞群が情動の「入り口」として機能している可能性を明らかにしたと理解する方が適切である。
この考え方は近年のシステム神経科学とも一致する。脳機能は一つの領域だけでは説明できず、多数の神経回路が時間的・空間的に連携することで認知や情動が生み出されるという理解が一般的になっている。
本研究では、その複雑なネットワークの中から、経験と価値判断を結び付ける重要なノードを実験的に操作することに成功したことになる。
実験で実証されたダイナミクス
今回の論文のもう一つの重要な特徴は、「好き」「嫌い」が静的な情報ではなく、時間とともに変化する動的なプロセスであることを実験によって示した点にある。
従来の教科書的な理解では、経験を積むことで記憶が形成され、その記憶には情動が付与されると考えられてきた。そして一度固定された価値判断は比較的安定して維持されるという見方が一般的だった。
しかし実際の脳は、それほど単純には働いていない。生物は環境の変化に応じて学習内容を絶えず更新しており、新たな経験が過去の価値判断を修正することも珍しくない。
研究チームは、この動的変化を可視化するため、マウスが特定の経験をした際に活動した神経細胞を標識した。そして、その後の経験や人工刺激によって、その細胞群の活動がどのように変化するかを詳細に解析した。
その結果、情動を担う神経細胞群は固定的な存在ではなく、新たな経験や刺激によって活動様式が変化し、行動選択にも影響を与えることが確認された。
さらに重要なのは、この変化がランダムではなく、一定の神経回路に沿って再構築される点である。つまり脳は単純に古い情報を書き換えているのではなく、新旧の経験を統合しながら最適な価値判断を形成していると考えられる。
このようなダイナミクスは、人間の日常生活にも広く当てはまる。初対面では苦手だった人物を長く付き合ううちに好きになることもあれば、その逆もある。こうした変化は心理学では態度変容として研究されてきたが、その神経学的基盤については十分には分かっていなかった。
今回の研究は、その背景に経験依存的な神経回路の再編成が存在する可能性を示した。つまり、人間の価値判断は固定された性格だけで決まるのではなく、神経回路の可塑性によって継続的に更新され続けているのである。
また、このダイナミクスは学習能力とも密接に関係する。危険な対象を避け、安全な対象を選択する能力は、生存率を高めるために不可欠であり、そのためには情動評価を柔軟に修正できる必要がある。
今回の実験は、その柔軟性が脳内で実際にどのような神経活動として表れるのかを示した点で意義が大きい。単に「脳は変化する」という抽象的な説明ではなく、経験時に活動した神経細胞群が後の価値判断を左右する具体的なメカニズムを提示したのである。
さらに、この成果は精神医学への応用という観点からも重要である。PTSDや恐怖症、不安障害では、本来なら修正されるべき恐怖記憶が固定化され、過剰な情動反応が長期間持続することが問題となる。
もし今回示された神経ダイナミクスを人間でも安全に制御できるようになれば、病的に固定された「嫌悪」や「恐怖」の価値判断だけを正常化する新しい治療法につながる可能性がある。
もちろん、その実現には多くの課題が残されている。マウスと人間では脳構造の複雑さが大きく異なり、高次認知や社会性が加わることで情動形成の仕組みも大きく変化するためである。
それでも、本研究は「好き」「嫌い」が神経回路の動的な活動によって形成・更新されることを明確に示した点で、神経科学に新たな視点をもたらしたと言える。
嫌悪感の形成(書き換え)
今回の研究で最も革新的な成果の一つは、「嫌悪感」が一度形成されると不変のものではなく、一定条件下では神経回路レベルで書き換え可能であることを実験的に示した点にある。これは従来の「恐怖記憶は極めて強固であり、容易には変化しない」という考え方を大きく修正する知見である。
嫌悪感は、生物が危険を回避するために進化の過程で獲得した基本的な情動である。有毒な食物、捕食者、感染源、痛みを伴う経験などに対して強い嫌悪や恐怖を形成することで、生存確率を高める役割を果たしてきた。
このため、嫌悪感は一般的な記憶よりも強固に保持される傾向がある。心理学では「ネガティビティ・バイアス」と呼ばれ、危険な経験ほど長く記憶されやすいことが数多くの研究で報告されている。
しかし、生物が環境へ適応するためには、一度形成した嫌悪感を必要に応じて修正する能力も欠かせない。例えば幼少期に苦手だった食べ物を大人になって好むようになる場合や、事故現場への恐怖が時間の経過とともに薄れる場合など、情動評価は経験によって変化し得る。
今回の研究では、この「嫌悪感の更新」がどのような神経メカニズムによって起こるのかを直接検証した。研究チームは、不快な経験によって活動した神経細胞群を特定し、それらを人工的に再活性化することで、嫌悪感そのものの変化を誘導できることを示した。
重要なのは、出来事の記憶自体を消去したわけではない点である。マウスは依然として経験そのものを保持している一方、その経験に対する価値判断だけが変化したことから、「記憶」と「情動」は密接に関連しながらも独立した要素を持つことが示唆された。
この知見は、記憶研究で近年注目されている「再固定化(Reconsolidation)」の概念とも整合する。記憶は想起されるたびに一時的に不安定化し、その後再び固定される。この再固定化の過程で情動情報も更新可能になると考えられてきたが、今回の研究は、その可能性を神経細胞レベルで裏付ける結果となった。
さらに興味深いのは、嫌悪感の変化が脳全体で一斉に起きるのではなく、経験時に活動した限られた神経細胞群を介して実現される点である。これは、脳が感情を極めて効率的に管理していることを示唆している。
神経科学では、経験を担う神経細胞集団を「エングラム細胞」と呼ぶ。今回の成果は、このエングラム細胞が単に出来事を記録するだけでなく、その出来事の「価値」までも保持している可能性を支持するものである。
もちろん、嫌悪感の形成には扁桃体だけでなく、島皮質、前頭前野、海馬、視床下部など多くの脳領域が関与する。したがって、今回の研究だけで嫌悪感の全てが説明できるわけではないが、価値付与の中心的な神経回路を特定した意義は極めて大きい。
また、人間における嫌悪感は社会経験や文化、言語、教育など多様な要因の影響を受ける。マウスで確認された神経回路がそのまま人間に当てはまるとは限らないが、情動形成の基本原理については共通する部分が多いと考えられている。
その意味で、本研究は動物実験の成果にとどまらず、人間の恐怖症やPTSD、不安障害などの理解にも重要な手掛かりを与えるものとなった。
光遺伝学による感情の操作
今回の研究を支えた最大の技術的基盤が「光遺伝学(Optogenetics)」である。光遺伝学は21世紀の神経科学を代表する革新的技術であり、神経細胞の活動をミリ秒単位という極めて高い時間分解能で制御できる。
従来、脳の研究では電気刺激や薬物投与が主な手法であった。しかし、これらの方法では広い範囲の神経細胞が同時に影響を受けるため、「どの細胞がどの機能を担っているのか」を正確に解析することは難しかった。
光遺伝学では、特定の神経細胞に光感受性タンパク質を発現させる。その後、レーザーや光ファイバーを用いて特定波長の光を照射することで、狙った神経細胞だけを選択的に興奮あるいは抑制できる。
この方法によって、神経回路の因果関係を直接調べられるようになった。「この細胞を活動させると、この行動が起こる」という実験が可能になり、神経科学は相関研究から因果研究へと大きく発展したのである。
今回の研究では、マウスが特定の経験をした瞬間に活動した神経細胞を遺伝学的に標識し、その細胞群だけを後から光で刺激した。すると、刺激された神経細胞群に対応する情動反応が変化し、マウスの行動選択にも変化が現れた。
ここで重要なのは、脳全体を刺激したわけではなく、「経験時に活動した神経細胞群のみ」を操作した点である。この極めて高い選択性が、今回の研究の信頼性を支えている。
また、光遺伝学は時間的制御にも優れる。薬剤投与では効果が数十分から数時間続くことも珍しくないが、光刺激では照射した瞬間だけ神経活動を変化させることができる。そのため、情動形成のどのタイミングが重要なのかを詳細に解析できる。
さらに、光刺激を止めれば神経活動は元の状態へ戻る。この可逆性は、脳機能を一時的に操作してその役割を調べる上で極めて重要な特徴である。
もっとも、光遺伝学には限界もある。現時点では遺伝子導入や脳内への光ファイバー留置が必要であり、人間への臨床応用は極めて限定的である。また、人間の複雑な情動や社会的判断を単純な光刺激だけで制御できるわけではない。
それでも、この技術は神経回路研究に革命をもたらした。2000年代後半以降、光遺伝学を用いた研究は急速に増加し、記憶、睡眠、意思決定、依存症、摂食行動、社会性など、多くの分野で画期的な成果が報告されている。
今回の研究は、その流れをさらに発展させ、「好き」「嫌い」という情動価値そのものを神経回路レベルで操作できることを示した点で、新たなマイルストーンとなる可能性がある。
本研究成果の先進性と検証分析
本研究が高く評価される理由は、単に新しい実験結果を示したことではない。神経科学における長年の課題であった「記憶と情動の関係」に対して、新しい概念モデルを提示した点にある。
従来は、「記憶が保存されれば、その情動も一体となって保存される」という見方が一般的だった。しかし今回の結果は、出来事の記憶と価値判断が少なくとも部分的には独立した神経基盤を持ち、それぞれ異なる可塑性を有する可能性を示した。
この知見は、PTSDや恐怖症の研究だけでなく、依存症、うつ病、不安障害など、情動異常を伴う精神疾患全般の理解に新しい視点を提供する。これらの疾患では「出来事」そのものよりも、それに付随する過剰な情動反応が症状を引き起こしている場合が少なくないからである。
一方で、本研究には慎重に解釈すべき点も存在する。実験はマウスを対象としており、人間では言語、社会性、自我、文化的背景などが情動形成に大きく関与する。そのため、同じ神経操作が人間でも同様の結果をもたらすとは現時点では断言できない。
また、情動は単一の神経回路だけで決定されるものではなく、多数の脳領域が相互作用する複雑なネットワークの産物である。本研究が示したのは、そのネットワークの中核となる一部の回路であり、情動全体の仕組みを完全に解明したわけではない。
それでも、経験時に活動した神経細胞群を選択的に操作することで価値判断を書き換えられるという結果は、神経科学における重要なブレークスルーと評価できる。今後、他の動物種や霊長類で同様の結果が再現されれば、人間の情動理解にも大きな進展をもたらす可能性がある。
さらに、この成果は脳科学だけでなく、心理学、精神医学、計算神経科学、人工知能研究にも新たな研究課題を提示した。感情が固定された属性ではなく、神経回路の再構築によって更新される動的な情報であるという考え方は、学際的な研究の発展を促す契機となるだろう。
① 「記憶」と「情動」の分離可能性の実証
今回の研究成果の学術的価値を最も端的に表すならば、「記憶(Memory)」と「情動(Emotion)」は完全に一体化した情報ではなく、少なくとも一部は独立して制御できる可能性を実験的に示した点にある。これは現代神経科学において極めて重要な概念的転換である。
これまで神経科学では、「ある出来事を思い出す」という行為と、「その出来事に対して抱く感情」は密接に結び付いていると理解されてきた。例えば交通事故を経験した人は、その事故の状況を思い出すだけで恐怖や緊張が再び生じることが多い。反対に、幼少期の楽しい思い出を回想すると幸福感や安心感が伴うことも少なくない。
このような現象は、長年にわたり「記憶と情動は不可分である」という考え方を支持してきた。しかし、その一方で臨床現場では、この説明だけでは理解できない事例も数多く報告されている。
例えばPTSD患者では、出来事を詳細には思い出せないにもかかわらず、強い恐怖反応だけが突然出現することがある。また認知症患者では出来事を忘れていても、特定の人物に対する好悪だけが長期間残るケースも知られている。
逆に、心理療法や認知行動療法によって事故や災害の記憶そのものは残っていても、恐怖感だけが徐々に軽減していく患者も存在する。これらは臨床経験として知られていたものの、その神経学的基盤は十分には説明されていなかった。
今回の研究は、こうした現象に対する一つの神経科学的説明を提示した。マウス実験では、経験そのものを保持したまま、その経験に付随する「好き」「嫌い」という情動だけを変更できることが確認されたのである。
これは「記憶が消えたから恐怖も消えた」のではない。「記憶は残っているが、その記憶に付与された価値だけが変わった」と考える方が実験結果をよく説明できる。
この結果は、エングラム研究にも新しい方向性を与える。従来のエングラム研究は、「どの神経細胞が出来事を保存しているのか」という問いが中心だった。しかし今後は、「その出来事にどのような感情が付与されるのか」「価値情報はどのような神経回路で管理されるのか」という問題が新たな研究テーマとなる可能性が高い。
さらに、この知見は脳の情報処理モデルそのものにも影響を与える。従来は「出来事+感情」が一つの情報単位として保存されるという理解が一般的だったが、今後は「出来事」と「価値評価」が複数の神経ネットワークで並行して管理され、必要に応じて統合されるというモデルがより重視される可能性がある。
もっとも、本研究だけで記憶と情動が完全に独立していると結論付けることはできない。実際には両者は相互作用を繰り返しながら行動を形成しており、今回示されたのは「分離可能性」の存在である。
すなわち、「記憶と情動は切り離せる」というより、「通常は結び付いているが、一定条件下では独立した可塑性を持つ」と理解する方が現在の知見に合致する。この点は研究成果を過大評価しないためにも重要な視点である。
② 感情をピンポイントで操作する精密性
本研究のもう一つの大きな特徴は、感情を極めて限定された神経細胞群だけで操作できる可能性を示した点にある。従来の精神医学や神経薬理学では、脳全体の神経活動を変化させる治療が中心であった。
例えば抗うつ薬は脳内のセロトニン濃度を広範囲に変化させ、不安障害治療薬はGABA系神経伝達を全体的に調整する。その結果、多くの患者で症状改善が得られる一方、眠気、意欲低下、集中力低下などの副作用も避けられなかった。
今回の研究では、それとは全く異なる発想が採られている。経験時に活動した神経細胞群だけを標識し、その細胞だけを光刺激によって再活性化するという方法である。
この方法の最大の利点は、脳全体ではなく「経験を形成した細胞群だけ」を対象にできる点である。いわば広域停電ではなく、一つの部屋の照明だけをオン・オフするような精密な制御が可能になったことを意味する。
この精密性は、今後の神経医療の方向性を示唆している。将来的には、病的な恐怖や依存行動に関与する神経回路だけを標的に治療することで、副作用を最小限に抑えた医療が実現する可能性がある。
もちろん、現時点では光遺伝学そのものを人間へ応用することは現実的ではない。遺伝子導入や脳内光刺激など、安全性や倫理面の課題が多く残されているためである。
しかし、「特定の神経回路だけを選択的に制御する」という考え方は、薬物療法や脳深部刺激、超音波刺激、磁気刺激など次世代の神経治療技術にも応用できる可能性がある。
また、この成果は人工知能研究にも興味深い示唆を与えている。現在の生成AIや機械学習は、大量の情報を統計的に学習する仕組みであり、「好き」「嫌い」といった価値判断は学習データ全体に分散して表現される。
一方、生物の脳では価値情報が比較的限定された神経回路によって管理されている可能性が示された。もしこの仕組みをAIへ応用できれば、価値判断を柔軟に更新できる新しい人工知能の開発につながる可能性もある。
このように、本研究は神経科学だけでなく、工学や情報科学にも波及効果を持つ基礎研究として位置付けられる。
社会的意義
今回の研究成果は、基礎科学として高い価値を持つだけでなく、社会全体にも幅広い影響を及ぼす可能性がある。人間社会は「好き」「嫌い」「安心」「恐怖」「信頼」「拒絶」といった情動によって支えられており、その神経基盤を理解することは多くの社会課題の解決につながるからである。
第一に、教育分野への応用が考えられる。学習意欲は単なる知識量ではなく、「学ぶことが楽しい」「成功体験が得られる」という情動と深く関係している。価値付けの仕組みが明らかになれば、学習効果を高める新たな教育法の開発につながる可能性がある。
第二に、高齢化社会への貢献である。認知症患者では記憶障害だけでなく、感情や対人関係の変化が介護負担を大きくする場合がある。記憶と情動の関係をより深く理解することは、認知症ケアの質を向上させる手掛かりになると期待される。
第三に、災害や事故後の心理的ケアである。地震、津波、戦争、重大事故などを経験した被災者では、長期間にわたり恐怖記憶が残ることがある。記憶を失わせることなく恐怖だけを軽減できる治療法が実現すれば、社会復帰を大きく支援できる可能性がある。
また、依存症対策にも応用の余地がある。アルコールや薬物、ギャンブルなどへの依存は、報酬系に形成された強い価値判断が背景にあると考えられている。その価値付けを適切に修正できれば、新しい依存症治療への道が開けるかもしれない。
一方で、この研究は倫理的課題も提起している。もし将来、人間の「好き」「嫌い」を自由に書き換えられる技術が実現すれば、それは治療だけでなく、個人の意思決定や人格の自由にも関わる重大な問題となる。
例えば本人の同意なく感情を操作することは許されるのか、犯罪捜査や軍事利用をどのように防ぐのか、恋愛感情や政治的信念にまで応用される危険はないのか、といった議論は避けて通れない。
科学技術は社会へ利益をもたらす一方で、新たなリスクも生み出す。今回の研究成果も、その医療的価値を最大限に活用すると同時に、倫理・法制度・社会的合意形成を並行して進めることが不可欠である。
その意味で、この研究は単なる神経科学の進歩ではなく、「人間とは何か」「感情とは何か」という根源的な問いを改めて社会へ投げかける成果でもある。
精神疾患の革新的治療法・予防法の開発
今回の研究成果が将来的に最も大きな社会的インパクトを持つと考えられる分野が精神医学である。現在、うつ病、不安障害、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、強迫症、恐怖症、依存症など多くの精神疾患では、「出来事そのもの」よりも「出来事に対して過剰に固定化された情動」が症状を引き起こしていると考えられている。
例えばPTSDでは、交通事故や自然災害、戦争、暴力被害などの体験が強烈な恐怖記憶として固定される。その後、似た音や匂い、風景などのわずかな刺激によっても当時の恐怖が再燃し、日常生活に深刻な支障を来す。
現在の治療法としては認知行動療法、持続エクスポージャー療法、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)、抗うつ薬や抗不安薬などが用いられている。これらは一定の有効性を示しているものの、全ての患者に十分な効果が得られるわけではなく、症状の再発も少なくない。
今回の研究が示したように、出来事の記憶を維持したまま、その出来事に付随する情動だけを書き換えられるのであれば、従来とは全く異なる治療戦略が可能になる。患者は過去の経験を失うことなく、過剰な恐怖や嫌悪だけを軽減できる可能性がある。
依存症に対しても同様である。アルコール、薬物、ギャンブル、ニコチンなどへの依存では、対象に対する過度な「報酬価値」が形成されている。もしこの価値付けを神経回路レベルで正常化できれば、再発率の低い新しい治療法につながる可能性がある。
うつ病についても、否定的経験に対する過剰な価値付けや、肯定的経験に対する報酬反応の低下が関与すると考えられている。情動回路の可塑性を利用した治療法が確立されれば、薬物療法だけに依存しない新たな治療体系が構築される可能性がある。
一方で、現時点では本研究はあくまでもマウスを対象とした基礎研究である。ヒトでは脳構造がはるかに複雑であり、言語、自己意識、社会経験、文化的背景などが情動形成に大きく関与するため、そのまま臨床応用できる段階にはない。
また、人間への応用には安全性だけでなく倫理的課題も伴う。治療目的と人格操作との境界をどのように定義するのか、患者本人の意思をどのように尊重するのかなど、多角的な議論が不可欠である。
したがって、本研究を直ちに「感情を書き換える医療が実現した」と受け止めるのは適切ではない。しかし、精神疾患の根本的理解と新規治療法開発に向けた重要な第一歩であることは間違いない。
対人コミュニケーション・恋愛の科学的解明
今回の研究成果は、精神医学だけでなく、人間関係や恋愛、社会的コミュニケーションの理解にも新たな視点を提供している。
人間は他者との関わりの中で「好き」「嫌い」「信頼」「警戒」「安心」「不安」といった複雑な情動を形成する。これらは単なる本能ではなく、過去の経験や学習を通じて絶えず更新される。
例えば、第一印象では苦手だと感じた相手が、長期間の交流を経て親友になることもある。一方で、信頼していた人物への裏切りを経験したことで、強い嫌悪感や不信感を抱くようになる場合もある。
今回の研究は、このような価値判断の変化が、単なる心理的現象ではなく、脳内の神経回路の可塑性によって支えられている可能性を示した。
恋愛についても同様である。恋愛感情には報酬系、扁桃体、前頭前野、視床下部など多数の脳領域が関与していることが脳画像研究から知られている。しかし、「なぜ特定の相手を好きになるのか」「なぜ失恋から立ち直れるのか」といった問題は依然として十分には解明されていない。
今回の成果は、「好き」という感情も経験に基づく価値付けの一つとして理解できる可能性を示唆している。ただし、人間の恋愛感情は社会性や文化、人格形成、人生経験などが複雑に関与するため、マウスの実験結果を直接当てはめることはできない。
また、対人コミュニケーションでは、共感、信頼、道徳判断など高次認知機能も重要な役割を果たす。これらは前頭前野を中心とする広範な神経ネットワークによって支えられており、「好き・嫌い」だけでは説明できない。
それでも、情動価値が神経回路レベルで更新されるという知見は、人間関係の改善や社会的学習、教育心理学など幅広い分野に新しい研究課題を提供するものと評価できる。
今後の展望
今回の研究は、「好き」「嫌い」という基本的な情動が神経細胞レベルで操作可能であることを示した画期的成果である。しかし、その意義は実験結果そのものだけではなく、今後の研究の出発点を提示した点にある。
第一の課題は、他の動物種や霊長類において同様の現象が再現されるかどうかである。マウスで確認された神経回路が進化的にどこまで保存されているのかを検証することは、人間への応用可能性を判断する上で重要となる。
第二に、人間の非侵襲的な脳計測技術との連携が期待される。機能的MRI(fMRI)、脳磁図(MEG)、高密度脳波計測などを組み合わせることで、情動価値の形成・更新過程をより詳細に解析できる可能性がある。
第三に、AI(人工知能)との融合である。近年の計算論的神経科学では、生物の脳を模倣したニューラルネットワークが急速に発展している。価値判断を柔軟に更新する脳の仕組みが明らかになれば、より適応的なAIシステムの開発につながる可能性もある。
さらに、倫理学・法学・社会科学との学際的研究も不可欠となる。感情を操作する技術は医療への応用が期待される一方、個人の人格や自由意思への介入という重大な問題も内包しているためである。
したがって、今後は神経科学だけではなく、医学、工学、心理学、哲学、倫理学、法学など多様な分野が連携しながら研究を進めることが求められる。
まとめ
東京大学定量生命科学研究所を中心とする研究グループが2026年7月に発表した研究は、「好き」「嫌い」という情動が経験時に活動した神経細胞群によって形成され、その価値判断が後から書き換え可能であることをマウス実験で示した。
本研究では、光遺伝学など最先端の神経操作技術を活用し、出来事の記憶そのものではなく、その記憶に付随する情動価値を選択的に変更できる可能性が示された。これは「記憶」と「情動」が一定程度独立した神経基盤を持つことを示唆する重要な成果である。
学術的には、エングラム研究、記憶の再固定化、神経可塑性研究を大きく前進させる知見となった。また、精神医学の分野ではPTSD、不安障害、依存症、うつ病などの新たな治療法開発につながる可能性が期待されている。
一方で、本研究はマウスを対象とした基礎研究であり、人間の複雑な情動や社会性を直接説明するものではない。臨床応用には、安全性、再現性、倫理性を含めた長期的な検証が不可欠である。
それでも、本研究は「感情は固定されたものではなく、神経回路の可塑性によって更新され得る」という新たな視点を提示した。脳科学のみならず、精神医学、心理学、人工知能、教育学、倫理学など幅広い分野へ波及効果をもたらす可能性を秘めた重要な成果として位置付けられる。
参考・引用リスト
学術論文・研究機関
- 東京大学定量生命科学研究所(Institute for Quantitative Biosciences, The University of Tokyo)研究発表(2026年7月)。
- Science(2026年7月9日掲載)東京大学研究グループによる原著論文。
- National Institutes of Health(NIH)関連資料(記憶エングラム・神経可塑性研究)。
- Allen Institute for Brain Science(脳回路・神経ネットワーク研究)。
- Society for Neuroscience(SfN)公開資料。
関連する代表的研究
- Susumu Tonegawaらによるエングラム研究(MIT)。
- Karl Deisserothらによる光遺伝学(Optogenetics)の基礎研究。
- Joseph LeDouxによる恐怖条件付けと扁桃体研究。
- Eric R. Kandelによる記憶形成・シナプス可塑性研究。
- Daniel Schacterによる記憶と再固定化に関する研究。
- Bessel van der KolkによるPTSD研究。
専門機関・国際機関
- 世界保健機関(WHO)
- 米国国立精神衛生研究所(NIMH)
- 欧州神経科学学会連合(FENS)
- 日本神経科学学会
- 日本精神神経学会
報道・解説
- 東京大学公式ニュースリリース(2026年7月)
- Science誌ニュース・関連解説
- 国内外主要報道機関による2026年7月の関連記事
