1日の歩数:「社会経済的背景」による地域内の格差
東京大学研究チームによる大規模研究は、日本全国の自治体間で平均歩数に最大約3700歩の格差が存在することを明らかにした。
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現状(2026年6月時点)
2026年6月、東京大学大学院工学系研究科および医学系研究科の研究グループは、日本全国の自治体レベルにおける歩数格差を分析した研究成果および関連データセットを公表した。この研究は100万人超、後続公開資料では約120万人規模のスマートフォンアプリ利用者データを活用したものであり、日本における身体活動の地域格差を市区町村単位で可視化した初めての大規模研究として注目を集めている。
従来、日本人の歩数に関する研究は国民健康・栄養調査などを中心に行われてきたが、自治体レベルで全国を網羅的に比較することは困難であった。今回の研究はデジタル技術によって取得された大規模位置情報・歩数データを利用することで、地域環境と身体活動の関連性を詳細に検証した点に特徴がある。
研究結果の中でも特に注目されたのは、自治体間で平均歩数に最大約3700歩の差が確認されたことである。この数値は単なる運動習慣の違いではなく、都市構造や交通環境、社会経済状況などが住民の日常的身体活動に大きな影響を与えている可能性を示している。
日本人の歩行実態
日本は国際的に見れば比較的歩行量が多い国として知られている。しかし高齢化、自動車依存、テレワーク普及などの影響により、国民全体の身体活動量は長期的に減少傾向を示している。
東京大学の鎌田真光らは、身体活動不足が生活習慣病、循環器疾患、認知症など多様な健康リスクと関連していることを指摘している。また身体活動とはスポーツだけでなく、通勤、買い物、家事、移動など日常生活全体を含む概念であると説明している。
近年の研究では、1日7000~8000歩程度の歩行でも死亡リスクや認知症リスクの低下が期待できることが示されている。一方で地域によっては平均歩数が5000歩台にとどまる自治体も存在し、健康格差の温床となる可能性が指摘されている。
調査データの概要と基本結果
本研究はスマートフォンアプリ利用者から得られた大規模歩数データを用いて実施された。研究チームは自治体別の平均歩数、歩数分布、人口特性などを分析し、日本全国における歩行実態を地理的に比較した。
分析の結果、自治体ごとの平均歩数には顕著な地域差が存在した。特に都市部では歩数が多く、地方部や自動車依存度の高い地域では歩数が少ない傾向が確認された。さらに同じ自治体内でも社会経済的属性による差が認められた。
研究チームはこれらの結果から、「歩数は個人の努力だけで決まるものではなく、居住環境や社会環境によって大きく規定される」と結論付けている。
対象データ
対象は100万人超、後続資料では約120万人超のスマートフォンアプリ利用者である。これほど大規模な歩数データが全国レベルで解析された例は国内では極めて珍しい。
研究では市区町村単位の平均歩数、人口規模、人口密度、年齢構成などの指標が整理され、自治体ごとの比較が可能となった。加えてインタラクティブマップも作成され、行政や研究者が活用できる環境が整備されている。
全体平均歩数
公開資料によると、日本人の平均歩数は概ね6000歩台後半から7000歩前後の水準に分布している。自治体間の差は大きいものの、多くの自治体はその範囲に集中している。
ただし平均値だけでは実態を十分に把握できない。歩数分布を見ると、同じ自治体内でも活動量の多い住民と少ない住民が混在しており、内部格差も重要な分析対象となっている。
最多自治体
研究報道によると、最も平均歩数が多い自治体は大都市圏に位置する高密度市街地であった。具体的な自治体名は公開資料によって異なるが、東京圏や大阪圏の鉄道利用率が高い地域が上位を占める傾向が示されている。
これらの地域では通勤・通学時の徒歩移動、駅構内移動、商業施設へのアクセスなど、日常生活そのものが歩行を伴う構造になっている。住民が意識的に運動しなくても一定量の歩数を確保しやすい環境である。
最少自治体
一方、最少歩数自治体は人口密度が低く、自動車利用が中心となる地域に集中している。特に地方圏や郊外型都市では生活機能が広域に分散しており、日常移動の大部分が自動車に依存している。
こうした地域では買い物、通勤、通院などの移動も自家用車が主体となるため、日常生活において自然発生的な歩行機会が少なくなる。結果として住民の平均歩数が低くなる傾向がみられる。
最大格差
研究チームは自治体間で最大約3700歩の差が存在すると報告した。2024年段階の学会発表では約3500歩差と報告されていたが、その後の分析では約3700歩規模の格差として報じられている。
3700歩とは距離換算で約2.5~3kmに相当する。年間では100万歩を超える差となり、長期的には肥満、糖尿病、心血管疾患などのリスク格差につながる可能性がある。
なぜ「3700歩」もの差が生まれるのか?(要因分析)
研究結果からは、歩数格差は単純な個人差ではなく、都市環境、交通体系、所得、就業状況など複数の要因が重なって形成されていることが分かる。特に重要なのがウォーカビリティと社会経済的背景である。
都市計画研究では、人々は「歩きたいから歩く」のではなく、「歩かなければ生活できない環境」によって歩行量が規定されることが繰り返し示されている。今回の研究はその知見を全国規模で裏付けたものといえる。
① 「ウォーカビリティ(歩きやすさ)」と公共交通網の有無
ウォーカビリティとは、徒歩で移動しやすい都市環境の程度を示す概念である。歩道整備、交差点設計、土地利用の混在、公共交通へのアクセスなどが主要要素とされる。
歩きやすい都市では、駅、商店、公共施設、公園などが徒歩圏に配置されている。そのため日常生活の中で自然に歩数が増加する。研究でも人口密度が高い地域ほど歩数が多い傾向が確認されている。
また交通手段と歩行量の関係を分析した研究では、鉄道利用割合が高い都市ほど総歩行時間が長くなることが報告されている。公共交通は「歩くことを前提とした移動システム」であるためである。
大都市圏(東京・大阪など)
東京圏や大阪圏では、通勤者は駅まで歩き、駅構内を移動し、目的地まで再び歩く。このような多段階移動が日常化している。結果として意識的な運動をしなくても歩数が増加する。
また商業施設や公共施設が徒歩圏内に集中しているため、自動車を使わなくても生活が成立する。都市構造そのものが身体活動を促進しているのである。
地方都市(東北地方や宮崎県など)
地方都市では人口密度が低く、住宅地と商業地が離れている場合が多い。その結果、自動車利用が生活の前提となる。
特に郊外型ショッピングセンターやロードサイド店舗が発達した地域では、移動のほぼ全てが車になる。徒歩移動の必要性が低いため、平均歩数も低下しやすい。
② 「社会経済的背景」による地域内の格差
研究では自治体間格差だけでなく、自治体内部における社会経済的格差も確認された。所得、就業状況、教育水準などが身体活動量と関連していた。
同じ歩きやすい都市に住んでいても、個人の生活条件によって歩数は大きく異なる。つまり環境だけでは説明できない格差も存在する。
指標が高い市区町村内での「無職者」と「有職者」の歩数差
研究報告では、歩行環境に恵まれた自治体であっても無職者の歩数は有職者より低い傾向が示された。職業活動には通勤や業務上移動が伴うためである。
この結果は、環境整備だけでは十分でないことを意味する。生活パターンや社会参加機会の確保も重要な政策課題となる。
男性
男性では就業状況による歩数差が比較的大きい傾向がみられる。通勤距離や職種による影響を受けやすいためである。
特にデスクワーク中心の職業では、都市部居住であっても身体活動量が十分でない場合がある。歩数増加には職場環境改善も重要となる。
女性
女性では就業状況だけでなく家事、育児、介護などの役割が歩数に影響する。買い物や送迎など日常活動によって一定の歩数が確保される場合もある。
しかし、高齢女性や社会参加機会が少ない層では歩数低下がみられるため、地域活動への参加促進が重要となる。
この研究が示唆する社会的課題
本研究は健康格差の根源が個人の意思だけではないことを明確に示した。住む場所によって日常的身体活動量が大きく左右されるのである。
これは健康政策を個人責任論から環境改善へ転換する必要性を示している。健康づくりは都市政策や交通政策とも不可分な課題となっている。
自治体に求められるアプローチの転換
従来の健康施策は運動教室や啓発活動が中心であった。しかし研究結果は、それだけでは歩数格差を解消できないことを示している。
自治体は「歩きたくなる街」ではなく、「歩かずには生活できない街」を構築する視点を持つ必要がある。環境整備と個人支援を統合した政策が求められる。
ハード面の対策(都市計画)
第一に、公共交通中心のコンパクトシティ形成が重要である。住宅、商業施設、医療機関、公共施設を徒歩圏内に集約することで歩行機会を創出できる。
第二に、歩道整備やバリアフリー化、公園整備が必要である。近年の研究では、公園へのアクセス経路の質が歩行量に影響することも確認されている。
ソフト面の対策(ターゲットを絞った介入)
高齢者、無職者、在宅勤務者など歩数が少ない集団への重点介入が重要である。地域活動やボランティア参加を促進することも有効である。
またスマートフォンアプリやポイント制度など行動科学を活用した介入も期待される。個人特性に応じた支援が今後の鍵となる。
車社会がもたらすもの
自動車は利便性を高める一方で、日常生活から歩行機会を奪う。特に地方部では数百メートルの移動でも車を利用する文化が形成されている。
その結果として身体活動量が低下し、肥満や生活習慣病リスクが上昇する可能性がある。高齢化が進む中で、この問題はさらに深刻化する可能性が高い。
今後の展望
今回公開された自治体別歩数データは、健康政策のエビデンス基盤として大きな価値を持つ。今後は歩数と疾病発生率、医療費、介護費との関連分析が進むと考えられる。
さらに気候変動、高温化、人口減少などの影響も考慮した研究が必要となる。都市環境と健康を統合的に評価する新しい政策形成が期待される。
まとめ
東京大学研究チームによる大規模研究は、日本全国の自治体間で平均歩数に最大約3700歩の格差が存在することを明らかにした。この差は個人の意識や努力だけでは説明できず、都市構造、公共交通網、人口密度、社会経済的背景など複数要因の影響を受けている。
特にウォーカビリティの高い大都市圏では歩数が多く、自動車依存型地域では歩数が少ない傾向が確認された。また自治体内部でも無職者と有職者の差など社会経済的格差が存在した。
本研究は、健康格差対策を個人への啓発から環境整備へ転換する必要性を示している。今後は都市計画、交通政策、健康政策を統合したアプローチによって、誰もが自然に歩ける社会環境を構築することが求められる。
参考・引用リスト
- 東京大学データリポジトリ「Municipality-level step count data on regional inequalities in Japan」, 2026.
- ジオテクノロジーズ株式会社プレスリリース「120万人超のデータで全国自治体の歩数分布を明らかに」, 2024.
- 樋野公宏ほか「都市の代表交通手段別構成比と平均歩行時間の関係」.
- Ihara M. et al., “A cross-sectional study of the association between city scale and daily steps in Japan”, Japanese Journal of Public Health, 2016.
- 東京大学「世界から運動不足をなくすために―アクティブな社会を“共創”する」, 2025.
- 大阪公立大学「公園への経路景観が良いと歩行量が増える―AI画像認識と歩数データを用いた縦断研究」, 2026.
- 千葉大学研究チーム「ショッピングモール訪問が悪天候時の歩数減少を抑制する効果を全国調査で実証」, 2026.
「やる気」を「環境」が凌駕するメカニズム
東京大学研究チームの分析結果が示す最大の示唆は、「歩くかどうか」は必ずしも本人の意志だけで決まらないという点にある。従来の健康政策では、「運動しましょう」「1日8000歩を目指しましょう」といった啓発活動が中心であったが、自治体間で3700歩もの差が存在するという事実は、この前提そのものに再考を迫っている。
行動科学や公衆衛生学では、人間の行動は「個人要因」と「環境要因」の相互作用によって決定されると考えられている。その中でも日常的な身体活動については、環境要因の影響が極めて大きいことが国際的にも確認されている。
例えば、鉄道駅まで徒歩10分の場所に住む人は、通勤だけで往復20分以上歩くことになる。一方、自宅の前に駐車場があり、職場にも駐車場がある地域では、同じ通勤者でも歩数は大幅に減少する。
この場合、両者の健康意識や運動意欲が同じであったとしても、日常的な歩数は数千歩単位で異なる可能性がある。つまり「歩こうと思うか」よりも、「歩かざるを得ない生活構造かどうか」の方が実際の歩数に強い影響を及ぼすのである。
都市計画分野ではこれを「選択アーキテクチャ」と呼ぶ。人間は常に合理的な判断をしているわけではなく、与えられた環境の中で最も手間の少ない行動を選択する傾向がある。
エレベーターと階段が並んでいる場合、多くの人はエレベーターを利用する。だが駅まで徒歩でしか行けない環境では、特別な意思決定をしなくても歩行が発生する。
したがって健康政策の本質は、「住民のやる気を高めること」だけではなく、「健康行動が自然に発生する環境を整備すること」にある。今回の研究は、まさにその重要性を全国規模のデータで裏付けたものといえる。
自治体が直面する「データ把握」の壁と突破口
今回の研究が注目された理由の一つは、自治体がこれまで把握できなかった住民の身体活動実態を可視化した点にある。
従来の自治体健康政策は、国民健康・栄養調査や住民アンケートに依存してきた。しかしこれらには複数の限界が存在する。
第一に、サンプル数が少ないことである。自治体単位になると数十人から数百人規模になることも珍しくなく、地域全体の実態を正確に反映しているとは言い難い。
第二に、自己申告バイアスである。「どれくらい歩いていますか」という質問に対する回答は主観的であり、実際の歩数と乖離する場合が多い。
第三に、頻度の問題である。大規模調査は毎年あるいは数年に一度しか実施されず、政策介入後の変化を迅速に把握することが難しい。
今回の研究で活用されたスマートフォン歩数データは、こうした課題を大幅に改善する可能性を持つ。住民が日常生活を送るだけで継続的にデータが収集されるため、リアルタイムに近い形で地域の身体活動状況を把握できるからである。
さらに今後は、歩数データだけでなく、GPSデータ、交通利用データ、商業施設利用データ、医療データなどとの連携が進む可能性がある。
例えば、「新しい歩道を整備した結果、その周辺住民の歩数がどれだけ増えたか」「コミュニティバス導入後に高齢者の外出頻度がどう変化したか」といった政策評価も可能になる。
これまで自治体は「施策を実施すること」が目的化しやすかった。今後は「住民行動をどれだけ変えたか」を定量的に検証するエビデンスベース政策(EBPM)がより重要になると考えられる。
「地域×住民特性」に合わせたピンポイント健康政策の具体像
今回の研究は、自治体間格差だけでなく自治体内部格差の存在も明らかにした。これは今後の健康政策において極めて重要な意味を持つ。
従来の行政施策は、「市民全体向け」に設計されることが多かった。しかし実際には、歩数が不足している層は地域ごとに異なる。
例えば東京都心部では、高齢者よりも在宅勤務者の身体活動不足が課題になる可能性がある。一方で地方都市では、自動車依存度の高い中高年層が主要ターゲットとなる場合が多い。
つまり、「どこで」「誰が」「なぜ歩いていないのか」を細かく把握しなければ、効果的な介入は難しい。
今後期待されるのがセグメント別健康政策である。住民を年齢、性別、職業、所得、居住地域、交通手段などで分類し、それぞれに異なる施策を提供する考え方である。
例えば高齢者には徒歩圏内交流拠点の整備が有効である。定期的に訪れる場所が増えることで自然な歩行機会が創出される。
働き盛り世代には通勤歩行促進や職場健康経営が重要になる。企業と自治体が連携し、歩数ポイント制度やウォーキングイベントを導入する方法も考えられる。
無職者や社会的孤立リスクの高い層に対しては、身体活動そのものより社会参加促進を入口とした施策が効果的である可能性が高い。歩数増加は結果として生じるものであり、目的ではないからである。
今後は自治体単位ではなく、「自治体内のどの地区にどのような住民がいるか」というミクロな分析が重要になる。
健康寿命の地域格差を縮めるために
歩数格差の問題が重要視される最大の理由は、健康寿命との関係にある。
健康寿命とは、介護や支援を必要とせず自立して生活できる期間を指す。日本は世界有数の長寿国であるが、健康寿命には地域差が存在することが知られている。
厚生労働省などの分析では、都道府県間で健康寿命に数年規模の差が存在する。背景には所得格差、医療アクセス、教育水準、生活習慣など多様な要因が関与していると考えられている。
その中でも身体活動量は最も重要な要因の一つである。歩数が多い人ほど心血管疾患、糖尿病、認知症、フレイルのリスクが低下することが多くの研究で確認されている。
仮に自治体間で3700歩の差が継続した場合、その差は年間100万歩を超える。10年間では1000万歩以上になる。
この累積差は単なる運動量の違いではない。筋力維持、体重管理、血糖コントロール、認知機能維持、社会参加頻度など、多方面に影響を与える可能性がある。
したがって健康寿命格差を縮小するためには、医療や介護の充実だけでは不十分である。病気になった後の対策ではなく、病気になりにくい生活環境を整備する必要がある。
そのためには都市計画、交通政策、住宅政策、商業政策、福祉政策を統合した「健康まちづくり」の視点が不可欠である。
具体的には、徒歩圏で生活が完結するコンパクトシティ形成、公共交通ネットワークの維持、歩道・公園整備、地域コミュニティ活性化などが挙げられる。
さらに重要なのは、「平均歩数を上げること」だけではなく、「歩数が少ない集団を重点的に底上げすること」である。健康格差の縮小とは、上位層をさらに健康にすることではなく、取り残される層を減らすことだからである。
今回の東京大学研究チームの成果は、健康寿命格差の原因を個人責任論ではなく地域環境の問題として捉える視点を提供した。その意味で本研究は単なる歩数研究ではなく、日本の健康政策全体の方向性を再考させる重要な知見である。
今後は「どの自治体が歩いているか」という比較から、「なぜ歩いているのか」「誰が歩けていないのか」「どの政策が効果を持つのか」という因果分析へ研究が発展していくと考えられる。そしてその先にあるのは、住む場所によって健康格差が生じにくい社会の実現である。歩数データは、その実現に向けた新たな政策インフラになりつつある。
総括
東京大学研究チームが公表した自治体別歩数データは、日本における身体活動の地域格差を初めて全国規模で可視化した研究として極めて大きな意義を持つ。約120万人規模のスマートフォン歩数データを分析した結果、自治体間には最大約3700歩もの差が存在することが明らかとなった。この差は単なる統計上のばらつきではなく、住民の日常生活そのものが地域環境によって大きく規定されている現実を示している。
3700歩という数字は一見すると小さく感じられるかもしれない。しかし、距離に換算すると約2.5~3kmに相当し、年間では100万歩を超える差となる。さらに10年間継続すれば1000万歩以上の差となり、その蓄積は体重管理、筋力維持、循環器疾患予防、糖尿病予防、認知症予防、フレイル予防など多方面に影響を及ぼす可能性がある。すなわち今回の研究が示した歩数格差とは、単なる運動量の差ではなく、将来的な健康格差や健康寿命格差の一端を表しているのである。
研究結果から明らかになった最大の特徴は、歩数が個人の意識や努力だけで決定されるものではないという点である。従来の健康づくり政策では、「もっと歩きましょう」「運動習慣を身につけましょう」といった啓発活動が重視されてきた。しかし実際には、住民がどれだけ歩くかは、居住する地域の都市構造、人口密度、交通手段、土地利用、公共交通網の整備状況などによって大きく左右されていた。
特に東京圏や大阪圏などの大都市圏では、鉄道を中心とした公共交通網が発達しているため、駅まで歩き、駅構内を移動し、目的地まで再び歩くという行動が日常的に発生する。さらに商業施設や公共施設も徒歩圏内に集中しているため、自動車を利用しなくても生活が成立する。このような環境では、特別に運動を意識しなくても自然と歩数が増加する。
一方で地方都市や郊外型都市では、自家用車が生活の前提となっている地域が少なくない。住宅地、商業施設、医療機関、行政施設などが広範囲に分散しているため、短距離移動であっても自動車を利用することが一般化している。その結果として徒歩移動の機会が減少し、住民の平均歩数も低下する傾向がみられる。つまり歩数格差とは、個人の健康意識の差というよりも、都市構造の違いによって生じる構造的格差であると考えられる。
このことは、「やる気」と「環境」の関係を考える上でも重要な示唆を与えている。多くの人は健康行動を個人の意思によって決定していると考えがちである。しかし行動科学の知見によると、人間は必ずしも合理的な意思決定を行うわけではなく、その時々の環境に最も適応しやすい行動を選択する傾向がある。歩かなければ生活できない環境では歩行が増え、車を使う方が便利な環境では車利用が増える。今回の研究は、健康行動を規定する力として環境要因が極めて強力であることを改めて裏付けたといえる。
さらに注目すべき点は、自治体間格差だけでなく自治体内部にも大きな格差が存在することである。研究では、同じ自治体に居住していても、就業状況や社会経済的背景によって歩数に差が生じていることが示された。特に有職者と無職者の間には顕著な差が確認されており、通勤や業務上の移動が身体活動量に大きな影響を与えていることが分かる。
これは環境整備だけでは十分ではないことを意味する。どれだけ歩きやすい街を整備しても、社会参加の機会が少ない人や外出目的を持たない人の歩数は必ずしも増えない。したがって身体活動の促進には、都市環境の改善と同時に、社会参加や地域交流を促進する施策が必要になる。
今回の研究は、自治体が抱えるもう一つの課題も浮き彫りにした。それは住民の身体活動実態を把握するためのデータ不足である。従来の健康政策はアンケート調査や限られたサンプル調査に依存してきたため、地域全体の実態を正確に把握することが難しかった。しかしスマートフォン由来のビッグデータを活用することで、自治体単位、さらには地区単位で住民の行動を可視化できる時代が到来しつつある。
今後は歩数データに加え、GPSデータ、交通データ、商業施設利用データ、医療データなどを統合することで、より高度な健康政策の立案が可能になると考えられる。例えば、新たな歩道整備が実際に歩数増加につながったか、コミュニティバスの導入が高齢者の外出頻度を高めたかといった政策効果を定量的に評価できるようになる。これはエビデンスに基づく政策形成(EBPM)の推進において極めて重要な変化である。
また今後の健康政策では、「地域ごとに異なる課題に応じた個別最適化」が重要になる。東京都心部では在宅勤務者の運動不足が課題となるかもしれない。一方で地方都市では高齢者や自動車依存層への介入が優先課題となる可能性が高い。つまり全国一律の健康施策ではなく、「どの地域の、どの住民層が、なぜ歩いていないのか」を把握した上で対策を講じる必要がある。
その意味で、これからの自治体に求められるのは平均値を改善する政策ではなく、格差を縮小する政策である。健康づくりの本質は、健康な人をさらに健康にすることではない。身体活動が不足し、健康リスクを抱える人々をいかに支援するかにある。特に高齢者、無職者、社会的孤立者、交通弱者など、歩数が少なくなりやすい層への重点的な支援が重要になる。
さらに長期的な視点では、歩数格差は健康寿命格差と密接に結び付いている。日本は世界有数の長寿国である一方、健康寿命には地域差が存在することが知られている。身体活動量の違いは、生活習慣病や要介護状態の発生率に影響を及ぼすため、歩数格差の縮小は健康寿命格差の縮小にもつながる可能性が高い。
そのため今後は医療政策だけでなく、都市計画、交通政策、住宅政策、福祉政策、地域振興政策などを横断的に連携させる必要がある。歩きやすい歩道の整備、公共交通の維持、徒歩圏内に生活機能を集約するコンパクトシティ形成、公園や交流拠点の整備、地域コミュニティ活動の活性化など、多方面からのアプローチが求められる。
今回の研究が社会に投げかけた最も重要なメッセージは、「健康は個人だけの責任ではない」ということである。人々の健康行動は、その人が暮らす社会や都市環境によって大きく規定される。したがって健康格差の解消には、個人への啓発だけでなく、健康行動が自然に生まれる社会環境を構築することが不可欠となる。
自治体間で3700歩もの差が存在するという事実は、単なる歩数の違いではなく、日本社会に存在する健康機会の格差を映し出している。そしてその格差を縮小することは、医療費抑制や介護予防だけでなく、誰もが健康で自立した生活を送ることのできる社会の実現につながる。今回の東京大学研究チームの成果は、その課題を可視化し、今後の健康政策の方向性を示した重要なエビデンスであると評価できる。
