サウジアラビアがマンガビジネスに力を入れる理由「国家を変える装置」
サウジアラビアがマンガビジネスに力を入れる背景は、単なる流行追随ではない。
.jpg)
現状(2026年5月時点)
2026年5月時点で、サウジアラビアはマンガ・アニメ・ゲームを国家戦略の一部として位置づけ、単なる娯楽市場ではなく、産業政策・外交政策・若年層政策を横断する成長分野として扱っている。政府系・準政府系組織が制作会社、イベント、教育、投資、海外提携を束ねる構造が形成されつつあり、中東地域では最も制度的に整備されたケースの一つといえる。
その象徴が国際イベントへの継続出展、日本企業との共同制作、テーマパーク・IP投資、配信事業への参入である。従来の「海外コンテンツの輸入市場」から、「自国発IPの創出市場」への転換を目指している点に特徴がある。
中東の雄サウジアラビアとマンガ・アニメの関係
サウジアラビアでは1980年代以降、日本アニメが衛星放送・アラビア語吹替を通じて広く浸透した。『キャプテン翼』や『ドラゴンボール』などは世代共有的コンテンツとなり、現在の30代〜40代政策層にも親和的記憶が存在する。
この蓄積は重要である。国家が新規市場を創る際、消費者教育コストが低い分野ほど政策効率が高いが、サウジにおけるアニメ・マンガは既に需要が顕在化していたため、政府はゼロから嗜好形成する必要がなかった。既存人気を産業化へ転換できる土壌があった。
国家改革計画「ビジョン2030」
サウジのあらゆる文化産業政策を理解する鍵は、2016年に始動した「ビジョン(Vision)2030」である。これは石油収入への過度依存から脱却し、民間部門拡大、雇用創出、国際競争力向上、社会改革を同時に進める包括計画である。
マンガ・アニメ政策はその周辺施策ではなく、中核的な「文化経済化」の一部である。映画館再開、観光都市開発、スポーツ投資、ゲーム投資と並び、若年層に直接届く産業として優先度が高い。
脱石油依存と経済の多様化
石油国家の最大課題は資源価格変動と長期的需要減少リスクである。エネルギー転換が進む中、サウジは非石油GDP比率の引き上げを急いでおり、知的財産型産業は有力候補となる。
マンガ・アニメ産業は、原油と異なり複製費用が低く、世界市場へ展開しやすく、二次収益源が多い。出版、配信、映画、ゲーム、玩具、イベント、テーマパーク、広告、教育教材へ波及できるため、資源国家が好む「高付加価値・非資源型輸出モデル」と整合する。
クリエイティブ産業の育成
現代国家において、創造産業はGDP寄与だけでなく都市魅力・観光・若者定着率にも影響する。サウジは首都リヤドや大型開発都市において、エンターテインメント集積地形成を進めている。
アニメ・マンガは映像、音楽、デザイン、翻訳、IT、マーケティングを束ねる複合産業である。よって一社の成功より、関連産業群全体の育成装置として価値が高い。これは製造業誘致よりも初期参入障壁が相対的に低い分野でもある。
雇用創出
サウジは人口構成上、若年層比率が高く、毎年大量の雇用需要が発生する。公務員依存だけでは吸収できず、民間ホワイトカラー職の創出が重要課題となっている。
マンガ・アニメ産業は、作画、脚本、編集、CG、配信運営、営業、法務、ライセンス管理、イベント運営など多様な職種を生む。理工系・文系双方の人材を吸収できる点で、雇用政策との相性が良い。
文化的ソフトパワーの強化と国家イメージの刷新
サウジは長らく「石油国家」「宗教保守国」「地政学リスク国家」という固定イメージに晒されてきた。近年は観光・文化・スポーツ投資を通じ、より開放的で近代的な国家像を提示しようとしている。
マンガ・アニメは政治宣伝色が弱く、若年層へ自然に浸透する媒体である。国家広報よりも抵抗感が少なく、親近感を伴ってブランド再構築できるため、イメージ刷新ツールとして極めて有効である。
ソフトパワー戦略
ソフトパワーとは、軍事力や資金力ではなく、文化・価値・魅力によって他者へ影響する力を指す。日本のアニメ、韓国のK-POP、米国のハリウッドが典型例である。
サウジはその成功事例を観察し、自国も文化発信国家へ転じようとしている。アニメは言語壁を越えやすく、視覚表現とキャラクター性が強いため、新興国でも比較的短期間で国際到達しやすい。
自国文化の輸出
サウジの制作作品にはアラビア半島の伝承、家族観、勇気、共同体倫理などが盛り込まれている。これは輸入コンテンツ依存から、自国物語の輸出へ進む試みである。
重要なのは、伝統文化を教科書的に説明するのではなく、娯楽作品へ埋め込む点である。視聴者は楽しみながら異文化理解を進めるため、文化外交として効率が高い。
次世代の教育と技術移転
サウジ政策文書や関連企業説明では、若者育成と技術移転が繰り返し強調されている。これは単発作品制作より、人材基盤整備が主眼であることを示す。
アニメ制作では、プリプロダクション、ストーリー開発、3DCG、音響、国際流通など高度な工程管理が必要となる。日本企業との協業は、完成品購入ではなく産業ノウハウの学習機会として意味が大きい。
人材育成
サウジ国内には従来、成熟したアニメ制作エコシステムが十分存在しなかった。そのため最初の10年は、海外連携を通じた育成期間とみるべきである。
制作現場でのOJT、共同スタジオ運営、海外研修、大学連携などを通じ、ローカル人材を蓄積できれば、中長期的に外注依存を減らせる。これは国家産業育成で一般的なキャッチアップ戦略である。
価値観の形成
若年人口が多い国家では、娯楽コンテンツは価値観形成装置でもある。努力、友情、挑戦、科学志向、チームワークなど、物語を通じて社会規範が共有される。
サウジが青少年向けコンテンツに関心を持つのは、単なる市場性だけでなく、国家近代化に必要な行動様式を文化的に浸透させたい意図もあると考えられる。
戦略的組織と投資の枠組み
サウジの特徴は民間自然発生型ではなく、国家主導型エコシステムである。財団、政府系資金、投資機関、開発都市、国際提携が相互接続されている。
この方式は意思決定が速く、大型案件に強い。一方で、市場競争による淘汰が弱まりやすく、作品の自発的創造性をどう確保するかが課題となる。
ミスク財団
ミスク財団は若者の教育、能力開発、起業支援を目的とする組織であり、文化・技術分野の人材育成拠点として機能してきた。マンガ・アニメ事業もこの文脈に置かれている。
ここで重要なのは、マンガ事業が娯楽単独ではなく、教育・能力開発政策と接続されている点である。したがって予算正当性が高く、継続投資されやすい。
マンガプロダクションズ
マンガプロダクションズはサウジのマンガ・アニメ戦略の実働部隊である。制作、配信、ゲーム、ライセンス、国際提携、人材育成を担うハブ企業として位置づけられる。
東映アニメーションとの共同制作、日本市場放送、AnimeJapan(アニメジャパン)出展などは、単なる話題作りではなく、日本のサプライチェーンへ入り込む試みである。世界最大級のアニメ生産国との接続は、品質認証の意味も持つ。
サウジ・日本・ビジョン2030
日サ関係はエネルギー取引にとどまらず、近年は投資・観光・エンタメ・教育へ拡張している。ビジョン2030関連協力枠組みは、その制度基盤として機能する。
企業単位の提携だけでは継続性が弱いが、政府間枠組みがあると人材往来、投資調整、イベント連携、規制対話が進みやすい。マンガ分野もその恩恵を受ける。
分析:なぜ「日本」なのか
第一に、日本はアニメ・マンガの本場であり、ブランド価値が圧倒的である。ハリウッド映画会社と組むのと同様、日本企業と組むこと自体が信頼シグナルになる。
第二に、日本は技術移転先として現実的である。米国企業はIP囲い込み傾向が強い一方、日本企業は制作受託・共同制作・ライセンス協業の経験が豊富で、中間層企業も多い。
第三に、日本文化はサウジ若年層に既に浸透している。需要が存在する市場で供給者と組む方が、ゼロから欧米文化商品を育てるより合理的である。
文化的な親和性
日本作品には、家族、礼節、努力、共同体、世代継承といったテーマが多い。これらはサウジ社会の保守的価値観と完全一致ではないが、一定の共鳴可能性を持つ。
また露骨な性的表現や政治風刺が中心ではない作品群も多く、ローカライズしやすい。文化摩擦コストが比較的低い点も提携理由とみられる。
非欧米的な価値観
サウジにとって、日本は西洋近代化を達成しつつ独自文化を保持した非欧米先進国の代表例である。これは「近代化=西洋化ではない」という政策物語と相性が良い。
したがって、日本コンテンツ導入は単なる娯楽輸入ではなく、発展モデル参照の意味も持つ。文化産業を通じた制度学習の側面がある。
今後の展望
短期的には、日本IPのライセンス、共同制作、イベント、テーマパーク型投資が続く可能性が高い。既存人気IPの活用は失敗リスクが低い。
中期的には、アラビア語圏向けオリジナル作品の量産が焦点となる。中東・北アフリカ人口圏を市場として押さえられれば、地域覇権的プレイヤーになり得る。
長期的課題は、国家主導から民間主導への移行である。補助金依存では持続しにくく、自律的ヒット作を生む創作者コミュニティ形成が成否を決める。
まとめ
サウジアラビアがマンガビジネスに力を入れる背景は、単なる流行追随ではない。脱石油依存、若年雇用、産業高度化、国家ブランド刷新、ソフトパワー獲得、人材育成を同時に達成しうる戦略産業として位置づけているためである。
その際、日本は技術・ブランド・文化親和性を兼ね備えた最適パートナーとなる。ゆえに「なぜサウジがマンガか」という問いの答えは、「マンガが好きだから」ではなく、「国家改革に使えるから」である。
参考・引用リスト
- Saudipedia, “Manga Productions”
- Manga Productions Official Website / Company Information
- Manga Productions Official News, AnimeJapan 2026 Participation
- Manga Productions Official News, Future’s Folktales Japan Broadcast Partnership
- The Week, “Why Saudi Arabia is muscling in on the world of anime”
- Reuters, “World's first Dragon Ball theme park to be built in Saudi Arabia”
- LinkedIn, Manga Productions Corporate Profile
- Reddit公開投稿(サウジにおける日本アニメ受容の定性的参考情報)
知恵の源泉:若年層のエネルギーを「消費」から「創造」へ
サウジアラビアのマンガ・アニメ戦略を理解するうえで、最も重要な視点の一つが「若年層のエネルギーの転換」である。人口構成上、サウジは若者比率が高く、国家の将来は若年層の能力活用に大きく依存している。
若年人口が多い国家では、若者が大量の消費者として存在するだけでは不十分である。輸入コンテンツを視聴し、海外ゲームに課金し、国外ブランドを消費するだけでは、資金流出は起きても国内の生産能力は蓄積されにくい。
そこで政策課題は、若者を「市場」として扱う段階から、「生産者」「創作者」「起業家」「知識労働者」として再定義することに移る。マンガ・アニメ・ゲーム産業は、この転換装置として極めて相性が良い。
たとえば、絵を描く若者はイラストレーターになりうる。動画編集を趣味にする若者はアニメーター、映像クリエイター、配信制作者になりうる。SNSで物語を発信する若者は脚本家、マーケター、コミュニティマネージャーになりうる。
つまり、若年層の「遊び」「趣味」「ファンダム」は、制度設計次第でそのまま産業人材の予備軍になる。これは重工業や石油化学産業にはない特徴である。大規模設備投資がなくとも、人的資本の育成から始められる。
さらに、創作産業は若者の社会参加意識を高めやすい。国家が用意した職を待つ受動的モデルではなく、自ら作品を作り、市場で評価される能動的モデルへ移行するからである。これは経済政策であると同時に、市民意識形成政策でもある。
サウジがマンガ産業に注目する背景には、若者を管理対象ではなく、価値創出主体へ変える発想がある。若者の時間・感性・熱量を消費市場で終わらせず、生産市場へ転換することこそ、知恵の源泉といえる。
感性の融合:日本との「戦略的補完関係」
サウジと日本の協力は、単純な発注者と受注者の関係ではなく、相互補完的構造として理解する方が実態に近い。双方が不足する要素を補い合うことで、単独では得られない価値を生む関係である。
日本側の強みは明確である。世界的なアニメ制作ノウハウ、脚本構成力、キャラクター設計、IP運営経験、長年蓄積された制作工程管理、国際ファンダム形成能力を持つ。これは短期間で模倣できる資産ではない。
一方、サウジ側にも独自の強みがある。豊富な投資余力、新市場開拓意欲、中東・北アフリカへの地理的アクセス、若い人口構成、国家主導による迅速な意思決定、大型プロジェクト推進力を持つ。
日本のアニメ業界は世界的人気を持ちながら、制作現場の人材不足、低収益構造、国内市場成熟、資金調達制約という課題を抱えてきた。そこへサウジ資本や新市場需要が加われば、制作余力拡大の可能性が生まれる。
逆にサウジは資金があっても、コンテンツ制作の暗黙知が不足する。脚本の間の取り方、演出テンポ、キャラクター商品化、長期シリーズ運営など、数字化しにくい技能は日本企業との協業で吸収しやすい。
このため、両国関係は「技術は日本、資本と市場拡張はサウジ」という補完構図を持つ。そこに文化的物語素材としてアラブ世界の神話・歴史・風景が加われば、新しいジャンル形成も可能になる。
さらに重要なのは、双方とも欧米巨大資本への過度依存を避けたいという共通利害である。グローバルコンテンツ市場で米国プラットフォームが強い中、日本とサウジの連携は第三極形成の意味を持ちうる。
ゆえに「なぜ日本なのか」という問いに対し、答えは単なる人気国だからではない。サウジにとって日本は、技能・信頼・文化資産を持つ戦略的補完相手だからである。
中東の「クリエイティブ・ハブ」への野心
サウジの狙いは、自国内で作品を作るだけではなく、中東全体の創造産業の中心地になることである。これは金融都市、物流都市を目指す国家が地域本部を集積させる発想と同じである。
中東・北アフリカ圏は人口規模が大きく、若年層も多い一方、統一的なコンテンツ供給拠点は限定的であった。言語的にはアラビア語圏という共通市場がありながら、世界的IP創出拠点は十分育ってこなかった。
ここにサウジは空白市場を見る。資本力、メディア投資、イベント開催能力、インフラ開発力を使えば、アラブ世界の制作会社、人材、声優、翻訳者、デザイナー、配信企業を集積できる。
もしリヤドやジッダが中東版の東京・ソウル・ロサンゼルスのような創造都市になれば、周辺国の若者は就職・起業・制作機会を求めて集まる。人材集積はさらに新産業を呼び込む。
イベント産業との連動も大きい。アニメエキスポ、ゲームショー、eスポーツ大会、映画祭、コスプレイベント、IP展示会などは、観光消費と都市ブランドを同時に生む。これはホテル、航空、飲食、小売にも波及する。
また、中東の価値観や言語環境を理解した検閲・年齢区分・宗教配慮のノウハウを持つ拠点は、海外企業にとっても魅力的である。欧米や日本企業が中東展開する際のゲートウェイにもなりうる。
したがってサウジの野心は、国内市場育成にとどまらない。中東全域のコンテンツ流通・制作・投資・イベントを束ねる「地域中枢国家」になることにある。
コンテンツによる第2の産業革命
サウジにとって第1の産業革命は、いうまでもなく石油である。石油は国家財政、インフラ整備、国際的地位、近代化資金をもたらした。だが同時に、資源依存という構造的制約も残した。
第2の産業革命としてコンテンツ産業が注目される理由は、価値の源泉が地下資源ではなく、人間の頭脳と感性にあるからである。知識、物語、デザイン、技術、ブランドが資本となる。
石油は掘れば減るが、IPは使うほど増殖する。人気キャラクターは映像化、ゲーム化、商品化、テーマパーク化、教育教材化、国際展開によって価値を拡張し続ける。これは再生産可能な資産である。
さらにコンテンツ産業は、国民一人ひとりを生産要素に変える。資源産業は限られた企業・設備・専門職に集中しやすいが、創造産業は作家、絵師、プログラマー、声優、編集者、広告人材など裾野が広い。
国家経済の観点では、石油収入の再分配国家から、知的生産の参加国家へ変わる可能性がある。これは経済構造だけでなく、社会契約の変化を意味する。
また、コンテンツは外交資産にもなる。ある国の作品を好きになった若者は、その国への旅行、留学、投資、学習への関心を持ちやすい。文化が経済・外交・教育を連鎖的に刺激する。
もちろん、コンテンツ産業は成功率が低く、ヒット依存性が高い。不確実性も大きい。しかし、だからこそ国家が初期投資し、教育・法制度・市場形成を後押しする意味がある。
サウジが本気でこの分野を育てるなら、第2の産業革命とは単なる比喩ではない。地下資源国家から、想像力資源国家への転換を意味する。
サウジのマンガ戦略は娯楽政策・若者政策・外交政策・産業政策が一本化された複合戦略である。そこでは若者の情熱を市場消費で終わらせず、創造的労働へ変えることが中核目標となる。
日本との連携は、その目標達成のための現実的手段である。日本は技能とIP文化を提供し、サウジは資本・市場・地域拠点機能を提供する。
そして最終到達点は、単に日本作品を輸入する国ではなく、中東の創造経済を主導する国になることにある。もし成功すれば、石油で世界に知られた国家が、次は物語とキャラクターで世界に影響する国家へ変貌する。
この意味で、サウジのマンガ投資は周辺的政策ではない。国家モデルそのものを書き換える試みとして見るべきである。
総括
サウジアラビアがマンガ・アニメ・ゲームなどのコンテンツ産業に本格的な関心を示し、国家的規模で投資を進めている現象は、一見すると意外性を伴って受け止められやすい。石油大国、宗教的保守国家、伝統的産業構造という既存イメージから見れば、日本型ポップカルチャーへの傾斜は異質に映るためである。しかし、ここまで検証してきた諸要素を総合すると、この動きは突発的な流行追随ではなく、国家の長期戦略に基づく合理的選択であることが明確になる。サウジにとってマンガビジネスとは娯楽分野の一施策ではなく、経済構造改革、若者政策、国際広報、教育政策、技術獲得戦略を同時に推進する多機能型の国家プロジェクトである。
その中核に位置するのが、国家改革計画「ビジョン2030」である。サウジは長年、石油収入を基盤として高水準の国家財政と社会保障を維持してきたが、世界的な脱炭素化、原油価格変動、人口増加、雇用需要の拡大などを背景に、資源依存モデルの持続可能性に課題を抱えてきた。石油は巨大な富をもたらした一方で、産業の多様化、人材活用、民間主導の経済活力という面では限界もあった。ゆえにビジョン2030は、単なる経済政策ではなく、資源国家から多角的知識国家へ移行する国家再設計計画として位置づけられる。マンガ・アニメ産業への注力は、その文脈において初めて意味を持つ。
なぜコンテンツ産業なのか。その理由は、現代経済において知的財産が高い付加価値を持つからである。原油は採掘・輸送・価格変動・埋蔵量制約という物理的制約を受けるが、キャラクター、物語、ブランド、映像作品は複製コストが低く、国境を越えて展開できる。ひとつの人気IPが生まれれば、出版、配信、映画、ゲーム、玩具、イベント、テーマパーク、観光、広告、教育教材などへ多面的に収益化できる。これは単一資源販売とは異なる、連鎖的価値創出モデルである。サウジがこの構造に着目するのは当然であり、コンテンツ産業は脱石油依存の有力な受け皿となる。
さらに重要なのは、サウジ社会の人口構成である。若年層比率が高い国家では、若者の進路と雇用が国家安定の核心課題となる。従来の公務員中心モデルでは、増え続ける高学歴若年層を吸収しきれない。重工業や資源産業だけでも雇用創出には限界がある。その点、マンガ・アニメ・ゲーム産業は職種の裾野が広い。作画、脚本、翻訳、CG、音響、マーケティング、ライセンス管理、イベント運営、法務、配信技術、商品企画など、文系・理系双方の人材を受け入れられる。国家にとってこれは単なる文化投資ではなく、雇用創出装置への投資でもある。
ここで特筆すべきは、若年層のエネルギーを「消費」から「創造」へ転換しようとする発想である。若者が海外作品を観て、ゲームを遊び、SNSで語り合うだけなら、国内に残るのは消費行動である。しかし、その熱量を制作・編集・起業・配信・デザインへ誘導できれば、若者は受動的市場ではなく、能動的な生産主体へ変わる。趣味と熱狂を職業能力へ転換することこそ、現代型産業政策の核心である。サウジがマンガ分野に注目する背景には、若者の時間と感性を国家資産へ変える意図がある。これは極めて戦略的な視点である。
同時に、この政策は文化的ソフトパワー戦略でもある。サウジは長く、石油、宗教保守、地政学リスクといった硬質なイメージで語られてきた。近年、観光開放、スポーツイベント誘致、都市開発、文化施設建設を進めているのは、国家像の再構築を狙うためである。その中でマンガ・アニメは特に有効である。政治色が薄く、若者に自然に受容され、感情移入を伴って拡散されるからである。国家広告よりも、魅力的なキャラクターや物語の方が人々の記憶に残る。つまりコンテンツは、外交と広報を日常的な感情のレベルで行う装置となる。
また、サウジが単なる輸入市場ではなく、自国文化の発信市場へ転じようとしている点も重要である。アラブ世界には豊かな神話、歴史、砂漠文化、海洋交易史、宗教文明、部族伝承が存在するが、これまで世界的ポップカルチャーとして十分商品化されてきたとは言い難い。もしそれらを現代的ストーリーテリングとキャラクター表現で再構成できれば、新鮮な世界観として国際市場に訴求しうる。サウジは日本の形式知を借りながら、自国の物語資産を国際商品へ変える道を模索している。
そこで浮上するのが、「なぜ日本なのか」という問いである。第一に、日本はアニメ・マンガ分野で世界的ブランドを持つ本場である。日本企業との提携自体が品質保証として機能しやすい。第二に、日本には制作工程、シリーズ運営、キャラクター商品化、ファンダム形成など、数十年かけて蓄積された実務知がある。第三に、サウジ社会には既に日本アニメへの受容基盤がある。過去数十年にわたり中東地域では日本作品が放送され、世代的な親和性が形成されてきた。需要が既に存在する市場で、日本と組むのは合理的である。
加えて、日本とサウジの関係は単純な依存関係ではなく、戦略的補完関係として理解できる。日本は技術・経験・ブランドを持つが、制作現場の人手不足や収益性の低さという課題も抱える。サウジは資本力、新市場開拓意欲、若い人口、迅速な政策決定力を持つが、制作ノウハウが不足する。双方が不足部分を補い合えば、新たな市場と生産体制が生まれる可能性がある。これは単なる発注受注ではなく、共同成長モデルに近い。
さらにサウジの野心は、自国作品制作にとどまらない。中東全域の「クリエイティブ・ハブ」になることである。中東・北アフリカ圏には大きな人口市場と若年需要がありながら、世界的コンテンツ産業の中心地はまだ定まっていない。サウジが資本、イベント、都市開発、物流、規制調整能力を活用し、制作会社、人材、配信企業、国際企業の地域拠点を集積させれば、リヤドやジッダは中東版の創造都市となりうる。これは金融センターや航空ハブを目指す発想と同じく、創造産業の地域中枢化戦略である。
この動きは「コンテンツによる第2の産業革命」とも表現できる。第1の革命が地下資源の採掘によって富を得るモデルなら、第2の革命は人間の想像力・感性・知識から価値を生むモデルである。石油は有限で価格変動も大きいが、物語やキャラクターは使うほど価値を増殖させうる。しかもその生産主体は国民一人ひとりになりうる。若者が描き、書き、作り、発信すること自体が経済活動となるなら、国家の富の源泉は地下から人材へ移る。ここにサウジが描く未来像がある。
もっとも、課題も小さくない。国家主導投資は初速を生みやすい反面、自律的創造性を損なう危険もある。ヒット作品は行政計画から生まれるとは限らず、現場の自由競争、失敗許容、才能流動性、表現の多様性から生まれやすい。補助金依存型モデルに留まれば、産業は継続的競争力を持ちにくい。また、文化輸出には世界市場との感性調整、検閲・価値観の整合、グローバル配信プラットフォームとの競争など、多面的な課題が伴う。ゆえに本当の勝負は、巨額投資そのものではなく、創造生態系を自律的に育てられるかにかかる。
総じていえば、サウジアラビアのマンガビジネス強化は、娯楽への散財ではなく、国家変革のための先行投資である。脱石油依存、若者雇用、国際イメージ刷新、教育高度化、技術移転、地域覇権、文化輸出という複数の国家目標が、この分野に凝縮されている。そして日本は、その実現に最も適した知識パートナーとして位置づけられている。サウジが求めているのは、日本の作品そのものだけではない。作品を生み出し続ける仕組み、産業として成立させる方法、文化を国力へ変える知恵である。
したがって、「なぜサウジがマンガなのか」という問いに対する最終的答えは明快である。マンガが人気だからではなく、マンガが国家を変える装置になりうるからである。もしこの挑戦が成功すれば、サウジは石油で知られた国家から、物語・キャラクター・創造力で知られる国家へと歴史的転換を遂げる可能性がある。そこにこそ、この政策の本質がある。
