SHARE:

江戸時代:青木昆陽の「サツマイモ(甘藷)栽培」に隠された国家機密

青木昆陽による甘藷栽培の普及は、江戸時代の農政と食料確保の歴史を考えるうえで重要な事例である。1735年の試作事業は、甘藷を救荒作物として活用する可能性を関東地方で確かめ、栽培知識を広めるための契機となった。
江戸時代中期の儒学者・蘭学者である青木昆陽(Getty Images)
現状(2026年10月時点)

江戸時代のサツマイモ栽培をめぐる歴史には、飢饉対策、幕府の農政、地域間の農業技術の伝播、そして食料を確保するための政治的判断が深く関わっている。その中心人物として知られるのが、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の時代に甘藷の栽培普及に取り組んだ青木昆陽である。

昆陽は1735年、甘藷の栽培法や食料としての有用性を論じた『蕃薯考』を著し、幕府の支援を受けて江戸周辺で試作を進めた人物として知られる。甘藷は米が十分に収穫できない場合の代替食料として期待され、関東地方への普及を進める重要な契機となった。

では、なぜこの歴史が「国家機密」という刺激的な言葉と結び付けられるのだろうか。最初に確認すべきなのは、甘藷栽培が幕府によって秘密指定され、国家機密として厳重に管理されていたことを示す確かな史料があるのかという問題である。

現時点で確認できる歴史資料からは、青木昆陽の甘藷栽培事業が、秘密兵器や秘匿された国家計画のような意味での「国家機密」だったとはいえない。むしろ、幕府が食料不足という社会的な危機に対応するため、有用な農作物と栽培技術を調査し、試験栽培を通じて普及させようとした政策として理解するのが妥当である。

ただし、当時の食料政策には、現代の国家安全保障にも通じる重要な側面があった。食料の不足は、物価の上昇、農村の困窮、都市住民の生活不安、さらには社会秩序の動揺につながり得るため、米以外の食料を確保することは、幕府にとって単なる農業振興ではなく、統治の安定にも関わる課題だったのである。

したがって、本稿では「国家機密」という言葉をそのまま史実として受け入れるのではなく、食料供給の確保、農業技術の管理、地域ごとの栽培事情、政策情報の伝達という複数の観点から検証する。青木昆陽個人の功績だけに注目するのではなく、昆陽以前に甘藷を広めた人々や、幕府の政策を支えた関係者の存在も含めて、江戸時代の食料安全保障の実態を明らかにすることが目的である。

なぜ甘藷栽培は「国家機密」だったのか?

最初に結論を述べれば、甘藷栽培そのものが国家機密だったと断定することはできない。しかし、甘藷が持っていた食料供給上の価値や、栽培技術を各地へ伝える必要性を考えれば、幕府や藩がその生産力に強い関心を持ったことには十分な歴史的合理性がある。

江戸時代の社会は、米を年貢の基準とする政治・経済の仕組みに支えられていた。大名の石高は領地の生産力を示す基準となり、武士の給与や藩の財政も米を中心とした制度と結び付いていたため、米の不作は農民だけでなく、藩や幕府の財政にも影響を与えた。

しかし、米は天候不順や水害、冷害、害虫の発生などによって収穫量が大きく変動する作物だった。凶作が続けば農村で食料が不足し、米価が上昇し、生活に必要な食料を購入できない人々が増えるという連鎖が生じる。こうした危機に備えるには、米の増産だけでなく、異なる気候条件や栽培環境でも収穫できる作物を確保する必要があった。

甘藷が注目された理由は、その性質にある。適した気候と土壌のもとでは、地下にできる芋を食用にでき、米とは異なる形でエネルギー源を確保できるため、主食が不足した際の補助的な食料として有用だった。とりわけ、米作に適さない土地や、米の収穫が不安定な地域において、栽培条件を見極めたうえで甘藷を導入することには大きな意味があった。

もっとも、甘藷も万能ではない。低温や霜に弱く、地域によっては生育期間が足りないほか、種芋や苗の確保、栽培方法の習得、収穫物の保存にも工夫が必要だった。したがって、甘藷を導入すれば直ちに飢饉が解消するわけではなく、地域の自然条件に合わせた栽培技術と、収穫物を食料として利用する仕組みが不可欠だった。

ここから見えてくるのは、甘藷の価値が単に「よく育つ芋」という点にあったのではなく、食料生産の選択肢を増やし、米への依存によって生じる危険を分散できる点にあったということである。これは現代でいう食料安全保障の考え方に通じるが、当時の人々が現代と同じ概念を持っていたと解釈するのではなく、当時の農政と社会構造に即して理解する必要がある。

また、「国家機密」という表現には注意が必要だ。幕府が甘藷の栽培方法を調査し、試験地を設け、種芋を配布したことは、政策としての重要性を示しているが、それだけで情報が秘密にされていた証拠にはならない。むしろ、栽培法を広く伝えることが普及の目的だったと考えられるため、秘密裏に独占する計画だったとする説明は、史料上の裏付けを別途必要とする。

この点を踏まえると、「国家機密」という言葉は、史実を説明するための厳密な用語というよりも、食料確保が当時の政権にとってどれほど重大な課題だったかを強調する表現として扱うのが適切である。歴史的に重要なのは、秘密が存在したと想定することではなく、なぜ幕府が甘藷に注目し、どのような手順で試作と普及を進めたのかを具体的に検証することである。

藩の防衛・生存戦略

江戸時代の各藩にとって、領内の食料を確保することは、領民の生活を守ると同時に、藩政を維持するための基本条件だった。凶作によって農民が食料を失えば、年貢の納入が難しくなり、藩の財政収入も減少するため、食料不足は農村と藩財政の双方に影響する問題だった。

こうした状況に対し、藩は米の備蓄や救済措置をはじめ、地域の自然条件に応じた農業振興など、さまざまな対応を取った。甘藷の栽培も、その土地で安定して育てられる場合には、米への依存を軽減し、凶作時の食料確保を補う手段となった。

薩摩では、江戸で青木昆陽が活動する以前から甘藷が伝わり、地域に根付いていた。鹿児島大学の解説などが紹介する伝承では、1705年に前田利右衛門が琉球から甘藷を持ち帰り、栽培を広めたとされる。薩摩での普及は、幕府による関東での試作とは異なる経路をたどっており、甘藷の導入が単一の人物や政策だけで実現したわけではないことを示している。

この事実は、甘藷をめぐる歴史を「幕府が発見した秘密の作物」という物語だけで理解することの限界を明らかにする。すでに各地で栽培されていた作物の価値を、幕府が政策課題として再評価し、別の地域に適用しようとした点にこそ、吉宗政権の取り組みの重要性があった。

ただし、藩が甘藷を栽培していたからといって、すべての藩がその技術や種芋を軍事上の秘密として扱っていたとまではいえない。領内の食料生産を維持することは重要だったが、具体的な栽培政策や情報管理の方法は、藩ごとの事情と史料に基づいて判断する必要がある。

情報封鎖と密輸

江戸時代の農業技術や作物の種苗が、どのように地域間を移動したのかという問題も、甘藷の歴史を考えるうえで重要である。当時は現代のように情報や農業技術を瞬時に共有できる環境ではなく、人の移動、商取引、書物、領主間の交流などを通じて知識や作物が伝わった。

甘藷の場合も、中国から琉球を経て日本へ伝わったとされる経路や、薩摩などで栽培が広がった経緯が知られている。ただし、伝来の年代や具体的な経路には複数の説があり、すべての地域について一律に説明できるわけではない。

このような歴史を「情報封鎖」や「密輸」という言葉で説明するには、特別な注意が必要である。甘藷の種芋や栽培法が地域を越えて移動したことと、それが禁制品として秘密裏に持ち出されたことは、別の問題だからだ。特定の藩が甘藷の流出を禁止した、あるいは他藩が秘密裏に種芋を持ち込んだと主張するなら、藩の法令、行政記録、書簡などの具体的な史料が必要になる。

むしろ、甘藷の普及史から確認できるのは、地域ごとに蓄積された農業知識が、さまざまな経路を通じて別の土地へ伝わっていったという事実である。栽培に適した土地や気候を見極め、種芋を確保し、育て方を学び、収穫物を食料として利用できるようにすることが、普及の成否を左右した。

したがって、「情報封鎖と密輸」という見出しで扱うべきなのは、秘密の組織的な活動を根拠なく描くことではない。江戸時代の交通・流通・行政の制約のもとで、農作物と栽培技術がどのように伝わり、どのような条件が普及を妨げ、あるいは促したのかという問題である。

青木昆陽の発掘と徳川吉宗の「国家プロジェクト」

青木昆陽の功績を理解するには、彼が甘藷を日本へ初めて持ち込んだ人物ではなく、すでに知られていた作物の救荒上の価値を論じ、幕府の支援による関東地方での試作と普及に貢献した人物であることを押さえる必要がある。

吉宗は、幕府の財政再建や農政改革に取り組んだ将軍として知られる。農業生産の改善や実用的な知識の活用を重視した政策環境のなかで、米以外の食料源を確保するという昆陽の提案は、幕府が抱えていた課題と結び付いた。

昆陽は1735年に『蕃薯考』を著し、甘藷の性質や栽培方法、食料としての有用性を論じた。この著作を通じて、甘藷を単なる珍しい作物ではなく、凶作時の食料不足を補うために活用できる作物として示したことが、政策上の意味を持った。

その後、江戸の小石川御薬園や関東の試作地で栽培が行われた。幕府の支援のもとで試作を進めたことは、作物の性質を実地で確かめ、栽培方法を蓄積し、種芋を通じて周辺地域へ普及させるための重要な段階だった。

この一連の事業を現代的な意味で「国家プロジェクト」と呼ぶことは、説明上の比喩としては可能である。ただし、当時の制度や行政組織は現代の国家事業とは異なるため、史実を厳密に論じる際には、幕府主導の試作・普及事業と表現する方が正確である。

昆陽の役割は、作物を発見したことよりも、既存の知識を整理して政策担当者に提示し、幕府の支援を得て実地での栽培へつなげた点にあった。その成果は、個人の知識だけでなく、政策決定、試験栽培、種芋の確保、地域への伝播が結び付くことで、農業技術の普及が進むことを示している。

【背景】享保の大飢饉(1732年)

青木昆陽の活動の背景を理解するうえで、享保の大飢饉は欠かせない。この飢饉は1732年を中心に西日本などで深刻な被害をもたらし、長雨や害虫の発生などによる農作物の不作が、当時の食料供給の脆弱性を浮き彫りにした。

農業生産が天候に大きく左右される社会では、米の収穫量が減ると、農村の食料不足だけでなく、米価や流通、年貢の徴収にも影響が及ぶ。備蓄や救済策だけでは対応しきれない事態に備えるため、平時から複数の食料源を確保しておくことの重要性が認識されるようになった。

もっとも、享保の大飢饉が青木昆陽の活動を単独で生み出したと説明するのは単純化しすぎる。甘藷はすでに西日本などで知られ、農書にも記述されていたため、昆陽の取り組みは、それ以前から蓄積されていた知識と、飢饉を受けて高まった救荒作物への関心が交わるなかで進んだと考えるべきである。

【抜擢】青木昆陽の論著『蕃薯考』

青木昆陽の功績を理解するうえで重要なのは、甘藷を初めて発見したことではなく、その食料としての価値を整理し、幕府の政策につながる形で論じたことである。昆陽は儒学を学んだ人物であり、実用的な知識を政治や社会の課題に結び付ける姿勢を持っていた。

1735年に著した『蕃薯考』は、甘藷の性質や栽培、食用としての有用性を考えるうえで重要な著作として知られる。「蕃薯」は甘藷を指す語であり、昆陽はこの作物を、米が不足した場合に人々の食生活を支える可能性のあるものとして取り上げた。

当時、農業政策を考えるうえでは、作物の名前や特徴を知るだけでは不十分だった。どのような土地で育つのか、いつ植え付けるのか、収穫までにどれほどの期間が必要なのか、収穫物をどう保存するのかといった実務的な情報がなければ、政策として広く普及させることは難しかった。

昆陽の意義は、甘藷の有用性を主張するだけでなく、その栽培を実際に試すべき課題として提示した点にある。これは、経験や伝承に頼っていた農業知識を整理し、試作と観察を通じて有効性を確かめるという、実証的な取り組みにつながった。

ただし、『蕃薯考』を現代の農学論文と同じものとして扱うことはできない。当時の農書や実用書には、経験に基づく有益な記述が含まれる一方、現代の科学的な実験で求められる対照条件や統計的な検証が必ずしも備わっているわけではないため、内容を評価する際には時代背景を考慮する必要がある。

また、昆陽が甘藷の栽培法をまとめたことと、甘藷そのものを初めて日本に伝えたことは明確に区別しなければならない。日本各地には昆陽以前から甘藷が伝来していた地域があり、地域の農民や有力者が栽培を試み、食料として利用してきた歴史があった。

昆陽は、こうした先行する知識や経験を幕府の政策課題と結び付け、関東地方での普及に貢献した人物として評価するのが適切である。その功績は、単独の発明者というよりも、既存の知識を政策に接続した実務的な提案者、そして普及の推進者として捉えることで、より正確に理解できる。

【実行】幕府主導の試作・普及プロジェクト(1735年〜)

1735年、徳川吉宗の時代に、甘藷の試作栽培が幕府の支援によって進められた。千葉市の文化財解説によると、青木昆陽は吉宗の命を受けて甘藷を試作し、現在の千葉市花見川区幕張にあたる地域でも栽培に取り組んだとされる。

試作の目的は、甘藷が関東地方の気候や土壌でも育つかどうかを確かめることにあった。薩摩などの温暖な地域で育つ作物を関東へ導入するには、単に種芋を運ぶだけでは足りず、植え付けまでに苗を育てる方法や、寒さを避ける管理方法を工夫する必要があった。

当時の関東地方では、冬の低温が甘藷の栽培上の制約となった。甘藷は霜に弱いため、種芋を適切に保存し、苗を育て、気温が十分に上がった時期に畑へ植え付けることが、収穫を得るための重要な条件だった。

このため、試作事業は作物を植えて終わるものではなかった。種芋の保存、苗床の管理、植え付け時期の調整、収穫の確認など、栽培の各段階で得られた知識を整理し、関東の農家が実行できる方法へとつなげる必要があった。

試作地として知られる場所には、小石川御薬園や、現在の千葉市幕張にあたる地域などがある。千葉市の文化財解説は、幕張の試作地を県指定史跡として紹介しており、甘藷の導入が書物上の提案にとどまらず、実際の土地での栽培を伴う事業だったことを示している。

こうした試作で重要だったのは、甘藷が関東でも栽培できるという実例を示すことだった。新しい作物を農民に勧める場合、栽培に成功する見込みがなければ、農家が限られた土地や労働力を割いて導入することは難しい。実際の収穫を通じて栽培可能性を確かめることは、普及を進めるうえで大きな意味を持った。

幕府による取り組みは、試作の成功だけで完結したわけではない。種芋や栽培知識が各地へ伝わり、地域の農家が栽培を続けられるようになって初めて、救荒作物としての効果が期待できるからである。

甘藷の普及においては、幕府が関わった事業に加え、地域の農民が栽培方法を学び、それぞれの土地に合わせて工夫する過程も重要だった。農業技術は命令を出すだけで定着するものではなく、実際に栽培する人々が利点を理解し、種芋を確保し、収穫を得られることによって広がっていく。

また、甘藷の栽培法をまとめた書物が刊行され、種芋が各地に分け与えられたという記録も伝わっている。こうした普及活動は、栽培技術を一部の人々が独占するというより、知識を共有し、作物を広い地域で利用できるようにする方向の取り組みだったと理解できる。

ここに、甘藷栽培を「国家機密」と呼ぶ説明との大きな違いがある。幕府が食料確保を重要な政策課題と考え、試作や普及に一定の資源を投入したことは確かだが、その事業の本質は、秘密の技術を隠すことではなく、栽培の実用性を確認して広めることにあった。

ただし、1735年の試作事業だけで、江戸時代の飢饉問題が解決したと考えるのは適切ではない。甘藷の生産量が増えるには時間がかかり、気候や土地の条件によって収穫量にも差が生じるため、米の備蓄、流通、救済制度など、ほかの対策と組み合わせて考える必要があった。

青木昆陽の取り組みは、飢饉への備えを個人の善意や一時的な救済だけに頼らず、作物の選定、試験栽培、技術の整理、種芋の配布という複数の段階を通じて進めようとした点に意義がある。これを現代の言葉で表すなら、農業技術の実証と普及を組み合わせた政策だったといえる。

実証された効果:天明・天保の大飢饉における「救世主」

青木昆陽による甘藷栽培の普及を評価する際、重要になるのが、その後の江戸時代に発生した大飢饉との関係である。甘藷は米の不作を補う食料として各地で利用されるようになり、地域によっては人々の生命を支える重要な作物となった。

ただし、昆陽が1735年に進めた試作事業と、数十年後に起きた天明・天保の大飢饉を、直接的な因果関係だけで結び付けることはできない。甘藷が救荒作物として役立ったことと、昆陽個人の活動が後世の飢饉被害をどの程度軽減したかという問題は、分けて検証する必要がある。

甘藷の最大の利点は、米とは異なる作物として食料供給を補える点にあった。米が不作でも甘藷が収穫できれば、地域の食料不足を一定程度緩和できる可能性があるため、栽培に適した地域では食料生産の危険を分散する役割を果たした。

一方、甘藷があれば必ず飢饉を防げるというわけではない。冷害や長雨などの気象条件、作付面積、種芋の確保、保存状態、流通の状況によって供給量は変わり、被害が広範囲に及べば甘藷だけで不足分を補うことは難しかった。

そのため、甘藷の歴史的な意義は、あらゆる飢饉を解決した「万能の救世主」としてではなく、米への依存を補い、地域によっては食料不足を緩和する手段となった点に求めるべきである。救荒作物の効果を正確に評価するには、栽培が行われた地域、当時の気候、収穫量、被害状況などを個別に調べる必要がある。

天明の大飢饉(1782〜1788)

天明の大飢饉は、1782年頃から1788年頃にかけて、東北地方を中心に広範な地域へ深刻な被害をもたらした飢饉である。冷害や長雨などによる凶作が続き、米を中心とする食料供給が大きく損なわれ、農村の困窮や人口への影響が生じた。

この飢饉の背景には、当時の東北地方が抱えていた農業上の制約があった。気温の低下や生育期間の短さによって稲作が不安定になりやすい地域では、冷害が発生すると収穫量が急減し、地域の食料事情が急速に悪化する危険があった。

甘藷は、こうした危機に対する代替食料の候補ではあったものの、寒冷な東北地方全域で安定して栽培できたわけではない。甘藷は生育期に一定の温度を必要とし、霜にも弱いため、東北地方の厳しい気候条件では、温暖な地域と同じように普及させることが難しかった。

したがって、天明の大飢饉を甘藷が救ったと一括して説明することには問題がある。甘藷の栽培が広がっていた地域では食料の補完に役立った可能性があるが、被害の中心となった東北地方では、気候条件そのものが栽培の拡大を制限する要因となった。

天明の大飢饉から得られる教訓は、救荒作物の価値が全国一律ではないという点である。ある地域で有効な作物でも、別の地域では気候や土壌の条件によって十分な収穫を得られないことがあるため、飢饉対策には地域ごとの自然環境を踏まえた作物選びが欠かせなかった。

また、飢饉の被害は農作物の収穫量だけで決まるわけではない。備蓄の有無、食料の輸送、価格の高騰、領主による救済、地域間の流通などが重なり、同じような凶作でも被害の程度は異なり得る。甘藷の栽培普及は、こうした複数の条件のうち、食料生産の選択肢を増やす取り組みとして位置付けるのが適切である。

天保の大飢饉(1833〜1837)

天保の大飢饉は、1833年頃から1837年頃にかけて発生し、東北地方をはじめとする各地で深刻な食料不足を引き起こした。冷害や長雨などによる凶作に加え、流通や物価の問題も人々の生活を圧迫し、農村だけでなく都市部にも影響が及んだ。

この時代には、青木昆陽が活動した享保期から約100年が経過していた。甘藷はすでに各地で知られる作物となっており、温暖な地域を中心に食料として利用されていたが、普及の程度や栽培条件には地域差があった。

甘藷が救荒作物として役立つためには、飢饉が起きてから栽培を始めるのでは遅い。平時から畑を確保し、種芋を保存し、栽培技術を継承しておかなければ、食料不足が深刻化した時点で必要な量を確保することは難しいからである。

また、収穫した甘藷を食べられる状態で維持することも重要だった。収穫後の保存環境が悪ければ腐敗などによって食料として利用できる量が減り、地域の需要を満たすことができなくなるため、栽培技術と保存技術は一体として考える必要があった。

天保の大飢饉に関しても、甘藷が全国的に被害を防いだとする単純な説明は避けるべきである。特定の地域で甘藷がどれほど人々を支えたのかを判断するには、地域の農業記録や飢饉に関する記録を照合し、米以外の食料がどの程度利用されていたかを確かめなければならない。

それでも、甘藷の普及が長期的な食料確保の選択肢を増やしたことには歴史的な意味がある。昆陽の取り組みは、後世の飢饉を単独で解決したわけではないが、米以外の食料を生産する知識を広めるという点で、江戸時代の救荒政策の歴史を考えるうえで重要な位置を占めている。

体系的分析:昆陽の成功要因(成功の3本柱)

青木昆陽の活動を歴史的に評価するには、本人の知識や努力だけでなく、栽培環境の選定、幕府の制度的支援、そして保存・加工を含む食料利用の仕組みを総合的に考える必要がある。甘藷の普及は、ひとりの人物が優れた作物を紹介しただけで達成されたものではなく、農業技術と行政、地域社会の取り組みが組み合わさって進んだものだからである。

気候・土壌適合性の見極め

第1の要因は、甘藷を栽培できる地域と条件を見極めることである。甘藷は適切な温度と水分があれば育つ一方、低温や霜に弱いため、地域の気候や土壌を考慮せずに導入しても、十分な収穫を得られるとは限らなかった。

関東地方で試作を行う意義は、すでに栽培されていた温暖な地域の経験を、そのまま移すのではなく、異なる自然環境のもとで実際に確かめることにあった。試作を通じて栽培の可能性を示し、地域の条件に合わせて方法を調整することが、普及の前提となった。

この点は、昆陽の取り組みが単なる農作物の紹介ではなかったことを示している。作物の性質を理解し、どの土地で生産できるかを検討することは、限られた農地と労働力を有効に使い、食料生産の安定性を高めるための重要な作業だった。

制度・官民連携(大岡忠相・吉宗のバックアップ)

第2の要因は、幕府の支援によって個人の提案を実地の試作へとつなげたことである。昆陽が甘藷の有用性を論じても、試験栽培を実施する場所や資材、種芋の確保、普及に向けた行政上の協力がなければ、その知識を広く社会へ伝えることは難しかった。

徳川吉宗の農政改革は、実用的な知識を取り入れ、農業生産を改善しようとする政策環境を形成した。昆陽の活動は、このような幕府の関心と結び付いたことで、個人の研究を超えた試作・普及事業へ発展することができた。

大岡忠相も、吉宗の時代に行政や都市政策などで重要な役割を果たした人物として知られる。ただし、甘藷栽培の普及に関する具体的な指示や支援をどの程度担ったのかについては、個別の史料を確認する必要があり、吉宗と大岡を一括して事業の直接的な推進者と断定するのは慎重であるべきだ。

さらに、実際に栽培を担った農民の役割を忘れてはならない。幕府が試作を支援しても、各地の農民が栽培法を学び、土地に合わせて工夫し、種芋を次の作付けへつなげなければ、甘藷は継続的な食料源にはならなかった。

このように、甘藷の普及は、幕府による政策支援と地域社会の実践が結び付くことで進んだ。現代的な意味での官民連携と完全に同じ制度ではないものの、行政の支援と現場の知識が相互に作用することの重要性を示す事例といえる。

保存・加工技術の体系化

第3の要因は、収穫した甘藷を食料として有効に利用するための保存と加工である。作物が畑で育つことと、収穫物を長期間にわたって食料として利用できることは別の問題であり、飢饉対策としての価値を高めるには、収穫後の取り扱いも重要だった。

甘藷は収穫後の温度や湿度の管理によって保存状態が変わり、低温や傷によって腐敗しやすくなる場合がある。適切な保存方法を身に付けることは、収穫した食料を無駄にせず、次の収穫まで利用するうえで欠かせなかった。

また、甘藷は蒸す、煮る、干すなどの方法で食用にできる。地域の食文化や加工技術に応じて利用方法が増えれば、生の芋をそのまま消費するだけでなく、保存性や調理の利便性を考慮した食料利用が可能となる。

ただし、保存や加工の技術がすべて昆陽によって体系化されたとするのは正確ではない。甘藷の利用法は各地の生活経験を通じて蓄積されてきたものであり、昆陽の功績と地域社会が長年にわたり培った知識は区別して評価する必要がある。

以上の3つの要因から、昆陽の取り組みの意義は、作物の紹介、試作の実施、政策支援、地域への普及という複数の段階が結び付いた点にあると分かる。甘藷の歴史は、食料不足への備えが単一の発明や命令によって成立するのではなく、自然条件に合った生産、制度的支援、地域の経験が重なって初めて機能することを示している。

知っておくべき事実にまつわる「歴史的リアリティ」

青木昆陽の甘藷栽培をめぐる歴史を検証するとき、最も注意すべき点は、史実と後世の解釈を混同しないことである。「国家機密」という言葉は興味を引くが、甘藷の栽培方法が幕府によって秘密指定され、他藩への流出が厳しく禁じられていたと断定するには、具体的な法令や行政記録などの裏付けが必要になる。

現在知られている昆陽の活動の中心は、甘藷の有用性を著作で論じ、幕府の支援のもとで試作を進め、関東地方への普及に貢献したことにある。栽培の試験と普及を進めた事実は確認すべき歴史的事項だが、それを秘密の国家計画だったとする説明は、別の証拠が示されない限り採用できない。

一方、食料確保が幕府の統治にとって重要だったことは、歴史的な背景から十分に理解できる。米の不作は年貢収入や物価、農民の生活に影響し、飢饉が深刻化すれば地域社会の安定も揺らぐため、米以外の食料を確保することには政治的な意味があった。

この意味で、甘藷の普及を食料安全保障の歴史として読み解くことには意義がある。ただし、現代の国家安全保障という概念をそのまま江戸時代に当てはめるのではなく、当時の年貢制度、農業生産、流通、救荒政策の仕組みを踏まえて考える必要がある。

また、甘藷の歴史を昆陽ひとりの功績として語ることにも限界がある。昆陽以前から栽培を進めていた人々、種芋を運んだ人々、地域に合う栽培方法を工夫した農民、幕府の試作を支えた関係者など、多くの人々の活動が普及の基盤となった。

歴史的なリアリティを保つには、功績を認めることと、過大評価を避けることを両立させなければならない。昆陽は甘藷の発明者でも、日本への最初の伝来者でもないが、甘藷の価値を政策に結び付け、関東地方での試作と普及を推進した人物として重要なのである。

昆陽以前にも広めていた人物たちがいた

甘藷の伝来と普及は、青木昆陽の活動より前から進んでいた。日本への伝来については複数の経路や年代が知られており、琉球を経由した伝来などを通じて、南西諸島や九州地方を中心に栽培が広がっていった。

薩摩地方の伝承では、1705年に前田利右衛門が琉球から甘藷を持ち帰り、栽培を広めたとされる。この伝承は、昆陽が幕府の支援を受けて関東地方で試作を行う約30年前に、すでに日本の一部地域で甘藷が食料として利用されていたことを示す例として知られる。

ただし、伝承として語られる人物の行動と、史料によって直接確認できる事実は区別する必要がある。甘藷の伝来時期や経路については地域ごとの記録を確認しなければならず、前田利右衛門ひとりが日本全体への普及を実現したと解釈することも適切ではない。

甘藷の普及には、地域の農民や有力者による栽培の試みが欠かせなかった。種芋を確保し、栽培に適した土地を選び、収穫物を食用として利用するという一連の経験が積み重なることで、甘藷は地域に定着していった。

昆陽の功績は、こうした先行する取り組みを否定するものではない。むしろ、各地で知られていた甘藷を、幕府の政策支援を受けながら関東地方で試作し、広域的な普及へつなげる契機をつくった点にある。

このように整理すると、甘藷の歴史は「ひとりの学者が未知の作物を発見した」という物語ではなく、複数の地域と人々の経験が結び付いて形成された歴史として理解できる。昆陽を正しく評価するには、彼以前の伝来と栽培の歴史を踏まえ、そのうえで幕府の農政における役割を検討する必要がある。

商品作物としての江戸経済への貢献

甘藷は救荒作物としての役割だけでなく、地域の食生活や経済活動にも関わっていった。栽培が定着した地域では、食料としての自家消費に加え、余剰分を市場で販売する可能性も生まれ、地域の農業生産を支える作物のひとつとなった。

江戸時代の経済では、都市人口の増加に伴って食料需要が拡大し、周辺地域から農産物を供給する仕組みが発達していた。甘藷も、栽培地域や流通条件に応じて都市住民の食料需要を補う役割を担ったと考えられる。

ただし、甘藷が江戸時代を通じて全国一律に主要な商品作物となったわけではない。気候や土壌による栽培適性の違いに加え、輸送費、保存性、市場の需要などが生産と流通を左右したため、地域によって経済的な重要性は異なっていた。

また、商品作物としての価値と、救荒作物としての価値は必ずしも同じではない。市場で高く売れる作物であっても、飢饉時に必要な地域へ十分に届かなければ救荒効果は限定される一方、自家消費を中心とする栽培でも、家庭の食料を確保するという重要な役割を果たすことがある。

甘藷の経済史を考えるうえでは、単純に生産量や販売価格だけを見るのではなく、誰が栽培し、誰が消費し、どのような流通経路を通じて食料が移動したのかを考える必要がある。こうした視点は、甘藷が農民の暮らしを支えた作物であると同時に、江戸時代の地域経済を構成する農産物のひとつでもあったことを理解する助けとなる。

今後の展望

青木昆陽の甘藷栽培事業を現代から振り返ると、食料不足への備えには、作物の生産技術だけでなく、地域の自然条件に合った農業政策と、知識を社会へ広める仕組みが必要であることが分かる。江戸時代の経験は、食料供給が不安定になった場合に備え、複数の食料源を確保し、生産と流通の両面から危機への対応力を高めることの重要性を示している。

現代の日本でも、気候変動による農作物への影響、農業従事者の減少、肥料や燃料の価格変動、輸入への依存など、食料供給をめぐる課題は複雑化している。こうした状況では、特定の作物や供給経路に依存しすぎず、地域の気候や土壌に適した作物を育て、保存や加工、流通の仕組みを整えることが重要になる。

甘藷は、用途の広い農作物として、食料生産だけでなく、加工食品やでんぷんの原料としても利用されてきた。千葉市立郷土博物館の展示解説では、江戸時代の甘藷栽培の普及から、近代におけるでんぷん製造業の発展までが紹介されている。これは、救荒作物として導入された農産物が、時代の変化に応じて地域経済を支える産業資源にもなったことを示す事例である。

歴史研究の面では、青木昆陽の功績を評価するだけでなく、幕府の政策決定に関わった人物、各地で栽培を広めた人々、農民の経験、甘藷の流通と加工の発展などを総合的に調べることが求められる。公的な文化財資料や博物館の展示、古文書、農書、地域史を照合すれば、甘藷の普及がどのように進み、どの地域でどの程度の効果を持ったのかを、より具体的に明らかにできる。

「国家機密」という言葉についても、今後は伝説的な説明をそのまま受け入れるのではなく、実際の史料によって検証する姿勢が必要である。食料政策が統治の安定に関わっていたことと、甘藷栽培が秘密指定されていたことは別の主張であり、後者を裏付ける証拠が見つからない限り、両者を同一視するべきではない。

まとめ

青木昆陽による甘藷栽培の普及は、江戸時代の農政と食料確保の歴史を考えるうえで重要な事例である。1735年の試作事業は、甘藷を救荒作物として活用する可能性を関東地方で確かめ、栽培知識を広めるための契機となった。

その背景には、享保の大飢饉をはじめとする食料不足への危機感と、米を中心とする社会制度の脆弱性があった。徳川吉宗政権が甘藷に注目したことは、農業生産の選択肢を増やし、凶作への備えを強化するという政策上の合理性を持っていた。

一方、甘藷を日本へ初めて伝えた人物が昆陽だったわけではない。薩摩などでは昆陽以前から栽培が行われており、各地の人々が蓄積してきた知識や経験が、甘藷の普及を支える重要な基盤となっていた。

天明・天保の大飢饉についても、甘藷がすべての地域の被害を防いだとする説明は正確ではない。気候や土壌、栽培面積、流通、備蓄、救済制度などの条件によって効果は異なり、甘藷は米不足を補う重要な選択肢ではあっても、飢饉を必ず防ぐ万能の作物ではなかった。

そして、本稿の中心的な問いである「甘藷栽培に隠された国家機密」という表現については、現時点で確認できる資料から、甘藷栽培そのものが幕府の秘密計画として厳重に管理されていたと断定することはできない。史料によって裏付けられるのは、幕府が救荒作物としての価値を認め、試作と普及を進めたという歴史であり、秘密の国家計画という解釈には別途の証拠が必要である。

したがって、この歴史から学ぶべきなのは、隠された秘密の存在を想像することではなく、食料確保が政治と社会の安定に深く関わっていたという事実である。青木昆陽の功績は、既存の農業知識を政策に結び付け、試作と普及を通じて食料生産の選択肢を増やすことに貢献した点にあり、そこにこそ歴史的な意義がある。


参考・引用リスト

公的機関・博物館資料

- 千葉県教育委員会「青木昆陽甘薯試作地」

- 千葉県教育委員会「青木昆陽不動堂甘薯試作地」

- 千葉市「青木昆陽甘藷試作地(県指定史跡)」

- 千葉市立郷土博物館「甘藷先生の置き土産―青木昆陽と千葉のさつまいも―」

- 千葉市史編纂資料「千葉市史 第2巻 近世・近代編」デジタルアーカイブ

原史料・専門研究

- 青木昆陽『蕃薯考』。甘藷の効用と栽培法を論じた著作。国立国会図書館の書誌情報から関連資料を確認できる。 

- 青木昆陽『甘藷之記』。国立国会図書館デジタルコレクション所収資料。

- 今井秀「享保の飢饉と救荒作物甘藷について―書物奉行深見有隣と青木昆陽の功績」『医譚』117号、2023年6月、日本医史学会関西支部。

- 国立国会図書館サーチ「重刻甘藷記」。青木昆陽の甘藷関連著作の刊行・流通を調べるための書誌情報。


追記:青木昆陽は何を成し遂げたのか

青木昆陽の功績を正確に理解するには、甘藷の「伝来」「試作」「普及」という3つの段階を区別する必要がある。伝来は作物が地域へ持ち込まれること、試作はその土地で栽培できるかを確かめること、普及は栽培技術が広く共有され、継続的な生産につながることを意味する。

昆陽は甘藷を日本へ初めて持ち込んだ人物ではないが、1735年に『蕃薯考』を著し、幕府の支援を受けて関東地方での試作に取り組んだ人物として知られる。この活動によって、すでに西日本などで知られていた作物の価値が、幕府の農政という枠組みのなかで改めて検討されることになった。

この違いは、歴史上の人物を評価する際に重要である。新しい作物や技術を最初に発見した人物だけが歴史を動かすのではなく、既存の知識を整理し、政策担当者に提案し、実地での試験や普及につなげる人物も、社会に大きな影響を与えることがある。

昆陽の事業は、まさにそのような事例として理解できる。彼の功績を過小評価する必要はないが、日本の甘藷栽培の歴史全体を昆陽ひとりの発明や功績に帰することも、歴史の実態を見誤る原因となる。

補足検証:試作の成果を示す記録と、その読み方

幕張の試作地について、千葉県教育委員会の文化財解説は、1735年に青木昆陽が甘藷の試作を行ったことを紹介している。同解説では、試作に用いた種芋の数と収穫量にも言及しており、幕府の取り組みが実地での栽培を伴っていたことを確認できる。

こうした数値は、当時の試作事業を具体的に理解するうえで有用だが、数字だけから関東地方全体の生産性や飢饉対策の効果を推定することはできない。試作地で得られた収穫量は、その土地の条件と特定の栽培結果を示すものであり、他の地域や異なる気候条件で同じ成果が得られることを保証するものではない。

また、幕張の試作地に関する地域史では、甘藷の普及と天明の大飢饉における地域の被害軽減が関連付けられている。こうした記録は、地域社会が昆陽の事業をどのように記憶し、評価してきたかを知るうえで重要だが、個別地域の伝承を全国規模の飢饉全体にそのまま当てはめることは避けるべきである。

この区別は、歴史研究の基本的な姿勢に関わる。文化財の解説は、史跡の由来や地域の歴史を理解するうえで有益だが、より広い歴史的因果関係を論じるには、同時代の記録や複数の研究資料との照合が必要となる。

補足検証:享保の大飢饉の年代について

享保の大飢饉は一般に1732年を中心とする飢饉として知られているが、地域や資料によって、被害の発生から継続までを含めた年代の示し方に違いがある。千葉県教育委員会の文化財解説では、吉宗が甘藷の試作を命じた背景として、1733〜1734年の飢饉対策に言及している。

このような年代の違いは、必ずしもどちらかが誤りであることを意味しない。飢饉は特定の日に始まって終わる単一の事件ではなく、凶作の発生、食料不足の拡大、地域ごとの被害、社会への影響が異なる時期に現れるため、資料が何を基準に年代を区切っているかを確認することが大切である。

したがって、本文では一般的な呼称として「1732年の享保の大飢饉」を用いつつ、試作事業の政策的背景を説明する場合には、関連する被害がその前後に及んだ可能性も考慮するのが適切である。年代を1つの数字だけで固定するより、飢饉と政策の時間的な関係を丁寧に説明する方が、歴史的な実態を正確に伝えられる。

「国家機密」説を検証するための判断基準

「国家機密」という主張を歴史的事実として認めるには、少なくとも次の点を検討する必要がある。

  • 秘密指定の有無: 甘藷の栽培や種芋の取り扱いを秘密にするよう命じた法令、通達、行政記録が存在するか。

  • 情報の制限: 栽培方法や種芋の移動を、特定の人々や地域に限って許可していたことを示す記録があるか。

  • 違反への対応: 種芋の持ち出しや栽培情報の流出を理由に、処罰や取締りが行われた記録があるか。

  • 政策の目的: 甘藷の栽培を広めることが目的だったのか、それとも特定の地域や組織が独占することが目的だったのか。

これらの条件を満たす証拠が確認できなければ、「甘藷栽培は国家機密だった」という説明を確定した史実として扱うことはできない。現在確認できる公的な文化財解説が主に示しているのは、救荒作物としての有用性、幕府による試作、栽培の普及であり、秘密指定や組織的な密輸を立証する内容ではない。

このことは、江戸幕府が食料政策を軽視していたという意味ではない。むしろ、食料不足が社会の安定に与える影響を考慮し、利用可能な作物を調査して普及させようとした点に、当時の農政の重要性がある。

したがって、題名にある「国家機密」は、厳密な史実の名称ではなく、食料確保が政治上の重要課題だったことを強調する表現として扱うのが妥当である。読者が知っておくべきなのは、秘密の存在を前提とした物語ではなく、史料で確認できる政策と、確認できない説との違いである。

最後に

青木昆陽の甘藷栽培事業は、江戸時代の食料政策、農業技術の普及、地域社会の適応を理解するための重要な事例である。昆陽は甘藷を日本へ初めて伝えた人物ではないが、1735年に『蕃薯考』を著し、幕府の支援を受けて関東地方での試作と普及を進めた点で大きな役割を果たした。

その歴史的意義は、単にサツマイモを広めたことだけではない。米の収穫が不安定になる危険に対し、別の食料源を確保する方法を検討し、知識を実地の栽培へ結び付けたことにある。

一方、甘藷の普及は昆陽ひとりの功績によって成立したわけではなく、先行する伝来と栽培の歴史、幕府の政策支援、農民の経験、各地域の自然条件が相互に作用して進んだ。天明・天保の大飢饉に対する効果も地域差があり、甘藷だけで被害を防げたとする説明は避けなければならない。

結論として、甘藷栽培が「国家機密」だったと裏付ける十分な証拠は、今回参照した公的資料からは確認できない。より史実に即した理解は、幕府が食料不足への備えとして甘藷の可能性を認め、試作と普及を政策的に支援したというものである。


参考・引用リスト(追記)

- 千葉県教育委員会「青木昆陽甘薯試作地」

- 千葉県教育委員会「青木昆陽不動堂甘薯試作地」

- 千葉市「青木昆陽甘藷試作地(県指定史跡)」

- 千葉市立郷土博物館「甘藷先生の置き土産―青木昆陽と千葉のさつまいも―」

- 千葉市地域情報デジタルアーカイブ『千葉市史 第2巻 近世・近代編』「甘藷栽培の普及」

- 今井秀「享保の飢饉と救荒作物甘藷について―書物奉行深見有隣と青木昆陽の功績」『医譚』117号、2023年6月、日本医史学会関西支部。

この記事が気に入ったら
フォローしよう
最新情報をお届けします
あなたへのおすすめ