退職金廃止に動く企業の本音、若手は歓迎、中高年は猛反発
退職金廃止の動きは単なる福利厚生改革ではなく、日本型雇用システムそのものの変容を象徴する現象である。
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現状(2026年6月時点)
2026年現在、日本企業において退職金制度、とりわけ「退職一時金」の縮小・廃止を検討する動きが徐々に広がり始めている。直ちに日本企業全体の潮流となっているわけではないが、従来の終身雇用型人事制度を前提とした退職金制度の見直しが本格化していることは確かである。
戦後日本の退職金制度は、長期勤続を奨励し、人材流出を防ぐ「後払い賃金」として機能してきた。勤続年数が長いほど支給額が増える設計が一般的であり、企業への忠誠心や定着率を高める重要な人事施策であった。
しかし近年は転職市場の活性化、人材流動化、ジョブ型雇用への移行、若年層の価値観変化などを背景として、長期勤続を前提とした制度設計そのものが現実と合わなくなりつつある。こうした状況の中で、一部企業は退職金を給与へ前倒し支給する「退職金前払い制度」や企業型確定拠出年金(DC)への移行を進めている。
日本企業における退職金(特に退職一時金)の縮小・廃止
退職金制度には大きく分けて、退職時に一括支給する退職一時金制度、企業年金制度、確定拠出年金制度(DC)が存在する。近年見直しの対象となっているのは主として退職一時金である。
退職一時金は企業にとって将来債務であり、従業員の高齢化や長寿化が進む中で財務上の負担となりやすい。さらに転職者が増加すると制度のメリットを十分に享受できない社員が増えるため、制度そのものの合理性が問われるようになっている。
特に大企業では、退職金の一部を給与や確定拠出年金へ振り替える形の改革が増えており、「退職時にまとめて払う」から「働いている間に払う」への発想転換が進行している。
構造変化の背景:なぜ今「退職金廃止」なのか
背景には複数の構造変化が存在する。
第一に、日本型雇用の前提であった終身雇用が事実上崩れつつあることである。一社で定年まで勤め上げる労働者の割合は低下し、転職を通じたキャリア形成が一般化しつつある。
第二に、人手不足の深刻化である。少子高齢化による生産年齢人口減少によって企業は採用競争を激化させており、将来受け取る退職金よりも現在の給与水準が採用競争力を左右するようになった。
第三に、企業会計上の問題である。退職給付債務は長期的な財務リスクとして認識されており、経営の柔軟性を低下させる要因となる。経営環境の不確実性が高まる中、固定的な将来負担を減らしたいという経営側の意向が強まっている。
激化する若手・新卒の採用難
現在の日本企業が直面している最大級の課題の一つが若手採用である。
新卒採用市場では売り手市場が常態化しており、多くの企業が学生確保に苦戦している。特に理系人材やデジタル人材では採用競争が極めて激しい。企業は学生に対して「将来の退職金」ではなく「初任給」「年収」「成長機会」を提示しなければ選ばれにくくなっている。
若年層にとって30年後、40年後に受け取る退職金の価値は実感しづらい。一方で毎月数万円の給与上昇は極めて分かりやすく、採用競争上の武器になるため、企業側は退職金原資を月例給与へ移す方向へ動いている。
中途・流動型採用へのシフト
中途採用比率の上昇も重要な要因である。
従来の退職金制度は長期勤続者ほど有利であり、途中入社者は不利になりやすい。これは現在の人材市場の実態と整合しなくなっている。
政府も労働移動の活性化を成長戦略の柱として位置付けている。企業側も即戦力採用を重視するようになり、「長く勤めた人を優遇する制度」から「成果を出した人を評価する制度」への転換を進めている。
退職金税制の見直し議論
近年、退職所得控除を中心とする退職金税制の見直し議論も活発化している。
現行制度では長期勤続者ほど税制上優遇される仕組みとなっている。このため政府内では雇用流動化を阻害しているとの指摘が続いている。
企業経営者の一部には、将来的な税制変更によって退職金制度の魅力が低下する可能性を見越し、制度改革を先行的に進める動きも見られる。退職金制度そのものの存在意義が改めて問われている段階に入ったといえる。
企業の本音(動機と狙い)
企業が掲げる公式理由は「多様な働き方への対応」「人材流動化への適応」である。
しかし経営学的に見れば、その背後には採用競争力向上、財務リスク削減、人件費管理の柔軟化といった現実的な経営判断が存在する。退職金制度改革は福利厚生改革というより、人材戦略と財務戦略の一体改革と位置付ける方が実態に近い。
採用原資の確保
企業にとって最大の狙いは採用競争力の強化である。
同じ総人件費でも退職金として積み立てるより、給与へ振り替えた方が求職者への訴求力は高い。特に若年層では「将来の1000万円」より「今の月給3万円増」の方が魅力的に映る傾向が強い。
企業側は退職金を採用コストへ転換し、人材獲得競争で優位に立とうとしているのである。
実力主義への移行
退職金制度は勤続年数を重視する仕組みである。
一方、成果主義やジョブ型雇用では職務価値や成果が重視されるため、長期勤続優遇型の退職金制度は整合性を欠く。企業は報酬体系全体を見直し、勤続年数ではなく市場価値や成果に応じて報酬を支払う方向へ移行しようとしている。
財務リスクの軽減
退職給付債務は企業財務における潜在的リスクである。
景気変動や金利変動の影響を受けやすく、将来負担額も変動する。退職金を給与化または確定拠出年金化することで、企業は将来債務を削減し、財務の予見可能性を高めることができる。
【事例】王子ホールディングス(2026年春以降の導入事例)
2026年春、製紙大手の王子ホールディングスは、2026年4月以降入社の新卒・中途社員を対象に退職一時金制度を廃止した。廃止分は給与への上乗せまたは企業型確定拠出年金への追加拠出として還元される。
同社では中途採用比率が約5割に達しており、長期勤続前提の退職金制度が実態に合わなくなっていた。若年層のモチベーション向上や定着率向上も導入理由として挙げられている。
既存社員には原則として従来制度を維持し、新規入社者から適用することで不利益変更リスクを回避している点も特徴である。
利害の対立:若手と中高年のリアルな視点
退職金改革は世代によって評価が大きく分かれる。
若年層は歓迎する傾向が強い一方、中高年層は強い不安や反発を示す場合が多い。この世代間ギャップこそが今後の最大の課題となる。
若手・中堅層:【歓迎・肯定的】
「今、お金が欲しい」
若年層は住宅費、教育費、物価上昇など目先の支出負担が大きい。
そのため30年後の退職金よりも、毎月の給与増加を歓迎する傾向が強い。資産形成を自ら行いたいという考え方も広がっている。
転職前提のキャリア観
現在の若年層は転職を前提としてキャリアを設計することが多い。
一社で勤め上げる前提が弱いため、長期勤続優遇型の退職金制度に魅力を感じにくい。むしろ転職時に失われる退職金の方が不合理だと考える傾向がある。
制度への無関心
若手社員の多くは退職金制度の詳細を理解していない。
採用時も給与や福利厚生には関心を持つが、退職金制度まで詳細に比較検討する学生は少数派である。このことも制度改革を後押ししている。
中高年層:【猛反発・落胆】
梯子を外された喪失感
中高年社員にとって退職金は老後資金の重要な柱である。
長年会社へ尽くしてきた見返りとして認識されているため、制度廃止は心理的な裏切りとして受け止められやすい。特に既存社員への適用となれば強い反発を招く。
ライフプランの狂い
退職金を前提に住宅ローン返済や老後設計を行っている層は少なくない。
制度変更は人生設計そのものに影響を与えるため、不安や不満が大きくなりやすい。税制変更とも重なることで懸念はさらに強まる。
不利益変更への懸念
労働契約法上、退職金制度の変更は不利益変更として争われる可能性がある。
特に既得権に近い性格を持つ制度であるため、企業には慎重な説明と合意形成が求められる。
課題
退職金制度改革は合理性がある一方で、運用を誤れば深刻な副作用を生む。
企業は単なるコスト削減策としてではなく、人材戦略全体の中で位置付けなければならない。
労働条件の不利益変更リスクの回避
最も重要な課題は法的リスクである。
王子HDのように新規入社者から適用する方式は比較的安全であるが、既存社員へ遡及的に適用する場合には慎重な労使協議が必要となる。
世代間の分断・モチベーション低下の防止
若手優遇と受け止められる制度改革は組織内の対立を生みやすい。
企業は給与体系全体の公平性を示し、各世代が納得できる説明を行う必要がある。説明不足はエンゲージメント低下や離職増加を招く恐れがある。
個人のマネリテラシー向上
退職金前払い制度の拡大は、個人に資産形成責任を移転する側面を持つ。
給与として受け取った資金を消費してしまえば、老後資金不足に陥る可能性がある。NISAやiDeCoなどを活用した長期資産形成の知識がこれまで以上に重要になる。
今後の展望
今後、日本企業の退職金制度は「全面廃止」よりも「多様化」が進む可能性が高い。
退職一時金、企業型DC、退職金前払い制度を組み合わせたハイブリッド型が主流となり、従業員が選択できる制度設計が増えると考えられる。
また、人的資本経営やジョブ型雇用の普及が進めば、退職金は忠誠心への報酬ではなく、総報酬パッケージの一要素へと変化していく可能性が高い。日本型雇用の象徴であった退職一時金は、今後10年で大きな転換点を迎えることになるだろう。
まとめ
退職金廃止の動きは単なる福利厚生改革ではなく、日本型雇用システムそのものの変容を象徴する現象である。終身雇用、年功序列、長期勤続優遇という戦後日本の人事制度が、人材流動化と採用競争激化によって再編を迫られているのである。
企業側の本音は、採用競争力の強化、実力主義への移行、退職給付債務の削減にある。特に若手人材の確保が経営課題となる中で、退職金を給与へ振り替える方が合理的と判断する企業は今後増加する可能性が高い。
一方で、中高年層にとって退職金は人生設計の中核であり、制度変更は深刻な不利益と受け止められる。若手歓迎・中高年反発という世代間対立を生みやすく、企業には丁寧な説明責任が求められる。
今後の焦点は、企業の制度改革と個人の資産形成能力向上をどのように両立させるかにある。退職金制度は消滅するのではなく、「会社が管理する老後資金」から「個人が管理する資産形成」へと重心を移しながら再設計されていく可能性が高い。その意味で、退職金廃止論は単なる人事制度論ではなく、日本社会における働き方・老後保障・資産形成の在り方を問い直す議論なのである。
参考・引用リスト
- 東洋経済オンライン「若手歓迎も中高年は猛反発!『退職金廃止』に動く企業の本音と、いまだ転職者を冷遇する制度の時代錯誤」(2026年6月8日)
- 社会保険労務士法人T&M Nagoya「退職一時金は『廃止』できるか――王子HD事例から考える退職金制度の再設計と法的論点」(2026年5月9日)
- 神戸新聞NEXT「王子HDが退職金を給与上乗せに 一時金給付廃止でやる気向上」(2026年5月5日)
- 日本ニュース「王子HD、退職金を給与に上乗せへ 一時金廃止で若手のやる気向上狙う」(2026年5月5日)
- 福利厚生.jp「退職金前払い制度とは」
- カオナビ人事用語集「退職金前払い制度とは?メリット・デメリット、確定拠出年金」
- マネーフォワード クラウド給与「退職金前払い制度とは?企業と従業員のメリット・デメリットを徹底解説」
- ABEMA TIMES「退職金廃止→給与上乗せが新常識?」(2026年5月16日)
- 王子ホールディングス 人財マネジメント関連資料
- 首相答弁・退職金税制見直し関連報道(2025年)
法的リスクの深掘り:「不利益変更」を回避する企業のリアルな防策
退職金制度改革において企業が最も恐れるものは、従業員の反発そのものではない。真に警戒しているのは、制度変更が「労働条件の不利益変更」と認定されることである。
日本の労働法制では、賃金や退職金は労働条件の中核を構成する要素とされている。特に退職金は長年勤務した従業員にとって単なる福利厚生ではなく、「将来受け取る予定の賃金」として認識されているため、その変更には極めて慎重な対応が求められる。
退職金制度が就業規則や退職金規程に明記されている場合、企業が一方的に制度を廃止して支給額を減少させれば、労働契約法第10条における不利益変更の問題が発生する可能性が高い。過去の判例でも退職金は既得権的性格を有するものとして扱われる傾向が強い。
そのため企業は表向きには「退職金廃止」と言いながら、実際には法的リスクを回避するための複数の防御策を同時に講じている。
最も典型的なのが「新規採用者限定方式」である。既存社員には従来制度を維持し、新卒・中途入社者のみ新制度を適用する方式である。
王子ホールディングスの事例もこの手法に近い。既存社員の権利には手を付けず、新たな契約条件として退職金なしの雇用契約を提示することで法的リスクを最小化している。
企業から見れば極めて合理的な方法である。新制度導入後も既存社員の退職までは数十年かかるが、法廷闘争や労使紛争に比べれば十分許容可能なコストと判断されている。
第二の手法が「総報酬維持方式」である。
例えば退職金原資を月額給与へ上乗せする。企業は「退職金を廃止した」のではなく、「支払い時期を前倒ししただけ」と説明する。
法律上も、総支給額が大きく減少していない場合には合理性が認められやすい。従業員から見れば心理的損失感は残るが、企業は法的正当性を主張しやすくなる。
第三の手法が「確定拠出年金(DC)移行方式」である。
企業が拠出額を負担し続けるため、完全な制度廃止ではないと説明できる。従業員にとっても老後資金形成という本来目的は維持されるため、反発を緩和しやすい。
近年の制度改革では、このDC移行が最も現実的な落とし所になりつつある。
さらに企業は制度変更前に長期間の説明会を実施する。数か月から1年以上かけて労働組合や従業員代表との協議を行い、「十分な説明を行った」という証拠を残す。
ここで重要なのは従業員を説得することではない。後に訴訟が起きた場合に備え、「会社は誠実な説明義務を果たした」と立証できる状態を作ることである。
つまり企業が本当に恐れているのは制度改革そのものではない。制度改革によって発生する法的紛争なのである。
組織マネジメントの深掘り:40代〜50代「不機嫌な結節点」がもたらすリスク
退職金制度改革を語る際、多くの経営者が見落としがちな存在がある。
それが40代後半から50代前半の中間管理職層である。
組織論の観点から見ると、この層は企業の「結節点(ノード)」である。経営層と現場を接続し、若手とベテランをつなぎ、業務知識や組織文化を継承する中核人材である。
経営者は若手の採用難ばかりに注目しがちである。しかし実際には、この中間層の機嫌が組織全体のパフォーマンスを大きく左右する。
なぜなら彼らは会社に対して最も大きな心理的投資を行ってきた世代だからである。
1980年代後半から2000年代初頭に社会人となった世代の多くは、「会社に尽くせば老後まで面倒を見る」という暗黙の契約を信じて働いてきた。
長時間労働も転勤も受け入れた。家庭との時間を犠牲にした人も少なくない。
その見返りとして期待していたのが昇進と退職金であった。
ところが近年は役職定年が導入され、昇進機会は減少し、賃金カーブは平坦化している。さらに退職金まで見直されるとなれば、「契約違反だ」と感じる人が出てくるのは自然なことである。
ここで生じるのが「不機嫌な結節点問題」である。
彼らは表立って反乱を起こさない。退職もしない。
しかし心理的離職状態に陥る。
最低限の仕事しかしない。若手育成への熱意を失う。改善提案をしなくなる。会社へのロイヤルティを失う。
組織論ではこれをサイレント・ディスエンゲージメントと呼ぶ。
経営陣が最も恐れるべきなのは若手の退職ではない場合がある。むしろ中間層の静かな諦めである。
若手は採用できる。しかし、熟練管理職は短期間で育成できない。
40代〜50代の不満が組織全体へ波及すると、若手の育成速度は低下し、現場の生産性も落ちる。
さらに問題なのは、若手がその空気を敏感に察知することである。
人は制度そのものではなく、周囲の感情から会社を評価する。
ベテラン社員が不満を抱えながら働いている組織では、若手も将来への不安を感じるようになる。
結果として退職金改革が若手採用のために行われたにもかかわらず、若手定着率を低下させる逆説的な結果を招く可能性がある。
したがって優れた企業は制度変更そのものよりも、「中間層の納得形成」に最大の労力を投入する。
退職金改革の成否は制度設計ではなく、40代〜50代の感情マネジメントにかかっているのである。
マクロ社会への深掘り:「老後の自己責任化」と企業の教育義務
退職金改革は企業内部の問題に見える。しかし、本質的には日本社会全体のリスク分配構造の変化である。
かつて日本社会では老後リスクを三者で分担していた。
第一に国家が公的年金を提供する。第二に企業が退職金や企業年金を提供する。第三に個人が貯蓄を行う。
しかし、現在は国家も企業も負担能力が低下している。
少子高齢化によって年金財政は圧迫され、企業はグローバル競争によって長期雇用保障を維持しにくくなっている。
その結果、リスクは徐々に個人へ移転している。
退職金前払い制度や確定拠出年金制度は、その象徴的存在である。
企業は資金を渡す。しかし運用責任は本人が負う。
運用成果が悪ければ老後資金不足になるが、その責任は企業ではなく個人に帰属する。
これは米国型システムに近い発想である。
しかし、ここで大きな問題が発生する。
日本人の金融リテラシーは必ずしも高くない。
長年の低金利環境の下で、日本人は投資より預金を重視してきた。企業が退職金制度を縮小しながら金融教育を行わなければ、多くの人が老後資産形成に失敗する可能性がある。
そのため近年では人的資本経営の文脈で金融教育を福利厚生として導入する企業が増えている。
NISA、iDeCo、資産配分、長期積立投資などを学ばせる動きである。
従来の企業は「資金を用意すること」が責任だった。
しかし今後は「資金を管理する能力を育てること」も責任になる可能性が高い。
これは人事制度改革ではなく、企業の社会的役割そのものの変化といえる。
「戦後日本が築き上げた、会社が社員の人生を丸抱えするシステムの終焉」
退職金廃止論の本質は制度論ではない。
戦後日本が構築した社会契約の終焉なのである。
高度経済成長期の日本企業は単なる雇用主ではなかった。
住宅融資を提供した。社宅を提供した。結婚祝い金を出した。保養所を整備した。企業年金を運営した。退職金を支給した。
社員の人生全体を支える共同体として機能していた。
その代わり社員は会社に忠誠を誓った。
転職は裏切りとみなされ、長時間労働も受け入れられた。
これは企業と社員の巨大な交換契約であった。
しかし、グローバル競争が激化した現在、このモデルは維持困難になっている。
企業は終身雇用を保証できない。年功賃金も維持できない。退職金も見直し対象になる。
つまり企業は「人生を保証する共同体」から、「仕事を提供する契約主体」へ変化しつつある。
一方で個人も変化を求められる。
会社に依存する人生設計から、自らキャリアを構築し、自ら資産を形成し、自ら老後を準備する人生設計へ移行しなければならない。
これは自由の拡大でもある。
転職しやすくなり、働き方を選びやすくなる。
しかし同時にリスクも個人が負担することになる。
戦後日本は「安心の代わりに自由を制限する社会」であった。
令和の日本は「自由の代わりに自己責任を求める社会」へ移行しつつある。
退職金制度改革は、その巨大な歴史的転換を最も分かりやすく示している現象の一つである。
したがって「退職金がなくなる」という表面的な議論だけでは本質は見えない。真に起きているのは、企業・国家・個人の関係性の再編であり、「会社が社員の人生を丸抱えする時代」の終焉なのである。そして今後の最大の課題は、その移行過程で生じる世代間格差や資産形成格差をいかに抑制し、新たな社会契約を構築できるかにある。
全体まとめ
日本企業における退職金制度、とりわけ退職一時金制度の見直しや廃止の動きは、単なる人事制度改革として理解すべき現象ではない。その本質は、日本型雇用システムそのものの構造転換であり、戦後日本社会が長年維持してきた「企業・国家・個人」の関係性の再編を象徴する歴史的変化である。
戦後の日本企業は、単なる雇用主ではなかった。社員に仕事を提供するだけでなく、住宅、福利厚生、教育機会、企業年金、退職金などを通じて人生全体を支える共同体として機能してきた。終身雇用、年功序列賃金、企業内教育、退職金制度は、それぞれ独立した制度ではなく、一体として機能する巨大な社会システムであった。
企業は社員に対して長期的な生活保障を提供し、社員は企業に対して忠誠心と長期勤続を提供する。この交換関係によって日本企業は高度経済成長期から安定成長期にかけて高い組織力を維持してきたのである。
退職金制度は、そのシステムの中核に位置していた。
退職金は単なる退職時の一時金ではなく、「最後まで会社に残ることへの報酬」であり、「長期勤続へのインセンティブ」であり、「老後保障機能」であり、「企業への忠誠心の対価」でもあった。企業にとっては人材流出防止策であり、社員にとっては老後生活を支える重要な資産形成手段であった。
しかし2020年代に入り、その前提条件が急速に崩れ始めている。
最大の要因は労働市場の流動化である。
少子高齢化による人手不足の深刻化、デジタル人材獲得競争の激化、ジョブ型雇用への移行、中途採用比率の上昇などによって、一社で定年まで働くことを前提とした制度設計が現実と合わなくなりつつある。
企業は若手人材を採用できなければ事業継続そのものが困難になる。
そのため採用市場において魅力的に映る給与水準や処遇改善へ人件費を振り向ける必要が生じている。将来支払う退職金よりも、現在支払う給与の方が採用競争力を高めるという判断が広がっているのである。
若年層の価値観も大きく変化している。
現在の若手世代は転職を前提としたキャリア形成を志向する傾向が強い。一社で定年まで勤め上げることを前提としていないため、数十年後に受け取る退職金よりも、現在の給与やキャリア形成機会を重視する。
多くの若手にとって退職金は実感しにくい将来利益である一方、毎月の給与増加は極めて分かりやすい利益である。そのため退職金原資を給与へ転換する企業の動きに対して、比較的肯定的な評価が見られるのである。
一方で、中高年層の受け止め方は大きく異なる。
40代から50代の社員にとって退職金は人生設計の重要な前提条件である。住宅ローン返済計画、教育費負担、老後資金準備など、多くのライフプランが退職金を前提として構築されている。
さらに彼らは長年にわたり会社への忠誠を尽くし、転勤や長時間労働を受け入れてきた世代でもある。そのため退職金制度の見直しは単なる金銭的損失ではなく、「約束が反故にされた」という心理的な裏切りとして受け止められやすい。
この世代間ギャップは今後さらに拡大する可能性がある。
企業が若手採用を優先して制度改革を進める一方で、中高年層の不満が蓄積すれば組織全体のエンゲージメント低下を招く。
特に問題となるのは、40代後半から50代前半の中間管理職層である。
この層は経営と現場をつなぐ結節点であり、組織知識や企業文化の継承を担う存在である。彼らが心理的離職状態に陥れば、若手育成力の低下、現場マネジメント力の低下、組織学習能力の低下など、企業競争力そのものに影響が及ぶ。
退職金制度改革は若手のための制度改革であると同時に、中間層の納得形成に失敗した場合には組織力を毀損するリスクを内包しているのである。
企業側もこうした問題を認識している。
そのため近年の制度改革は、単純な退職金廃止ではなく、法的リスクを回避しながら段階的に制度移行を進める形を採用することが多い。
代表的な手法として、新規採用者のみを対象とする方式、退職金を給与へ前払いする方式、企業型確定拠出年金へ移行する方式などがある。
これらは企業側から見れば合理的な対応である。
既存社員の権利に直接手を付けず、不利益変更リスクを抑えながら制度改革を進めることができるからである。
しかし、ここで見落としてはならないのは、退職金制度改革が実質的にリスクの所在を変化させているという事実である。
従来は企業が退職金を積み立て、老後資金形成の一部を担っていた。
しかし、退職金前払い制度や確定拠出年金制度では、企業は資金を提供するだけであり、その運用責任は個人に移転される。
運用成果が良ければ個人の利益となるが、失敗した場合の損失も個人が負担することになる。
これは日本社会全体で進行している「老後の自己責任化」の一側面である。
公的年金制度だけでは十分な老後保障が難しくなり、企業も長期雇用保障を維持できなくなった結果、老後資金形成の責任は徐々に個人へ移転している。
NISAやiDeCoの普及も、この流れと無関係ではない。
企業が社員の老後を保証する時代から、個人が自ら資産形成を行う時代への移行が進んでいるのである。
しかし、この変化には重大な課題も存在する。
日本人の金融リテラシーは必ずしも高いとは言えない。
退職金制度を縮小しながら十分な金融教育を行わなければ、将来的に老後資金不足に直面する人々が増加する可能性がある。
したがって今後の企業には、単に退職金制度を見直すだけでなく、社員の金融リテラシー向上を支援する責任も求められることになる。
人的資本経営が重視される現在、金融教育は福利厚生の一部として位置付けられる可能性が高い。
退職金制度改革の最終的な意味は、「会社が社員の人生を丸抱えする社会」の終焉にある。
企業は共同体から契約主体へ変化しつつある。
社員もまた、会社への依存を前提とした人生設計から、自らキャリアを形成し、自ら資産を築き、自ら老後を準備する人生設計へ移行することを求められている。
これは自由の拡大であると同時に、責任の拡大でもある。
転職の自由は増すが、雇用保障は弱まる。働き方の選択肢は広がるが、老後リスクは個人が負担する。企業への依存度は下がるが、自己管理能力の重要性は高まる。
退職金制度改革は、その変化を最も分かりやすく示している現象の一つである。
したがって、「退職金廃止」という言葉だけを見れば単なる人事制度改革に見えるが、その背後で進行しているのは日本社会全体の社会契約の再構築である。
企業、国家、個人の役割分担は大きく変化しつつある。その中で問われているのは、誰が老後リスクを負担するのか、誰が人生保障を担うのか、そして個人はどのような能力を身に付けるべきなのかという根源的な問題である。
今後10年から20年にかけて、日本企業の退職金制度はさらに多様化していくと考えられる。しかし、その本質は退職金の有無ではない。企業と個人の関係性そのものが変わることにある。
退職金制度改革とは、日本型雇用の終焉と新しい働き方の時代への移行を象徴する出来事なのであり、その成否は制度設計だけではなく、世代間の納得形成、金融教育の充実、そして新たな社会契約の構築にかかっているのである。
