がん克服への道⑦:「医工連携」やアカデミア創薬によるイノベーションの加速
がん克服への道は、画期的な新薬や診断装置が一つ登場すれば完成するものではない。がんの多様性を理解し、早期診断、精密な治療選択、治療効果の監視、再発予防、患者の生活支援を連続した医療として構築することが必要である。
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現状(2026年11月時点)
がん医療は、従来の手術、放射線治療、抗がん剤を中心とする時代から、患者ごとのがんの特性を解析し、最適な治療法を選択する個別化医療の時代へと移行している。分子生物学、遺伝子解析、免疫学、再生医療、人工知能などの進歩によって、これまで治療が困難だったがんに対しても、新たな治療手段が生まれつつある。
一方、がんは依然として世界的に重大な公衆衛生上の課題である。国際がん研究機関などが2026年に公表した最新の世界推計によると、2024年の新規がん患者数は約2,060万人、死亡者数は約980万人に達したとされる。さらに、人口増加と高齢化などを背景に、2050年には新規患者数が約3,400万人に増加すると予測されている。
この状況は、治療薬の開発だけではがん問題を解決できないことを示している。予防、早期発見、精密診断、治療、再発監視、治療後の生活支援までを一体的に改善する医療イノベーションが必要である。
日本でも、政府が2023年12月に策定した「がん研究10か年戦略(第5次)」を軸として、基礎研究から臨床応用までをつなぐ研究開発が推進されている。日本医療研究開発機構は、革新的がん医療実用化研究事業や次世代がん医療加速化研究事業などを通じ、大学や研究機関が生み出した研究成果を実際の医療に結びつける取り組みを進めている。
2026年11月時点で重要なのは、個々の技術の進歩だけでなく、それらを組み合わせて新しい医療を生み出す研究開発体制の構築である。その中核を担うものが、医学、工学、情報科学、薬学、生命科学などの異分野を結びつける医工連携と、大学などの研究機関から革新的な医薬品を生み出すアカデミア創薬である。
がん克服に向けたイノベーション加速の背景
がん研究においてイノベーションの加速が求められる最大の理由は、がんという疾患の複雑性にある。がんは単一の病気ではなく、発生する臓器や遺伝子変異、細胞の性質、周囲の微小環境などによって、増殖の仕組みや治療への反応が大きく異なる。
同じ臓器に発生したがんであっても、患者によって有効な薬剤や治療法が異なる場合がある。また、治療によって一部のがん細胞が減少しても、薬剤に抵抗性を持つ細胞が生き残り、再発や転移につながることもある。こうした問題に対応するには、がん細胞の特徴を分子レベルで理解し、治療標的を特定する研究が欠かせない。
さらに、従来の医薬品開発は長期間と多額の資金を必要とし、研究成果が実際の治療薬として患者に届くまでには大きな障壁が存在する。大学や研究機関が優れた発見をしても、製造技術、品質管理、安全性評価、臨床試験などの専門的な開発機能が不足していれば、実用化には至らない。
そこで重要になるのが、研究者、医師、工学技術者、製薬企業、医療機器メーカー、規制当局などが早期から協力する体制である。研究の初期段階から臨床現場の課題と事業化の可能性を考慮することで、実用性の高い技術を効率的に開発できる可能性が高まる。
特に、大学病院などが持つ患者の臨床情報と、工学分野が持つ計測、解析、装置開発の技術を融合することは、従来の研究手法では実現が難しかった診断・治療技術の創出につながる。がん克服に向けたイノベーションは、単独の研究分野の成果ではなく、異なる専門領域の知識と技術を統合することによって加速する段階に入っている。
モダリティ(治療手段)の多様化
がん治療の進歩を象徴する変化の1つが、モダリティ、すなわち治療手段の多様化である。従来の低分子医薬品や抗体医薬品に加え、免疫細胞療法、遺伝子治療、核酸医薬品、放射性医薬品など、異なる作用機序を持つ治療法の研究開発が進んでいる。
代表的なものが、抗体薬物複合体である。これは、がん細胞に結合する抗体と、細胞を傷害する薬剤を結合させた医薬品であり、薬剤をがん細胞へ選択的に届けることを目指す技術である。従来の抗がん剤と比較して、正常組織への影響を抑えながら治療効果を高めることが期待されているが、標的の発現状況や薬剤の性質によって効果と副作用は異なる。
免疫細胞療法では、患者自身の免疫細胞を取り出して加工し、がん細胞を攻撃する能力を高めて体内に戻す方法が注目されている。代表例である遺伝子改変T細胞療法は、一部の血液がんで大きな治療効果を示している一方、固形がんへの応用や重篤な副作用への対応、製造コストの低減などが課題となっている。
また、がん細胞の遺伝子変異を利用する個別化治療や、放射性物質を利用してがん細胞へ放射線を届ける放射性医薬品も重要性を増している。これらは、がん細胞の性質や患者の状態に応じて治療を設計する精密医療の発展を支える技術である。
ただし、新しいモダリティが登場すれば、直ちに従来治療を置き換えられるわけではない。有効性と安全性を確認する臨床試験、安定した製造工程の確立、長期的な治療成績の検証、医療費負担の評価が必要である。
今後の重要な方向性は、単一の治療法に依存するのではなく、手術、放射線治療、薬物療法、免疫療法などを適切に組み合わせることである。患者のがんの特性と病期に応じて、治療効果を最大化しながら身体的負担を抑える治療体系の確立が求められる。
スマート医療・先端診断機器の台頭
治療技術と並んで進歩しているのが、人工知能や高精度センサー、画像解析、遺伝子解析などを活用したスマート医療と先端診断機器である。これらの技術は、がんの早期発見、診断精度の向上、治療効果の予測、再発の監視など、がん医療の幅広い領域に影響を及ぼしている。
特に注目されるのが、人工知能を利用した画像診断支援である。医療画像を大量に学習した人工知能は、画像に現れる微細な異常や病変の特徴を解析し、医師の診断を支援する。検査の見落としを減らし、診断の均質化を進める可能性があるが、最終的な診断には医師による判断が不可欠である。
また、血液などの体液を用いてがんの情報を調べるリキッドバイオプシーも研究開発が進んでいる。血液中に存在するがん由来の遺伝子断片などを解析することで、組織を採取する従来の検査では難しかった病状の把握や治療効果の評価を支援できる可能性がある。ただし、早期がんでは検出に必要な情報量が少ない場合があり、単独の検査で確実な早期発見を実現できる段階には至っていない。
さらに、微量の血液や組織から複数の生体情報を測定する小型分析装置や、検査工程を自動化する装置、体内の状態を継続的に把握するセンサーなども開発対象となっている。こうした機器の小型化と高性能化は、検査時間の短縮や患者の負担軽減、医療資源が限られた地域での診断機会の拡大につながる可能性がある。
この分野では、医学と工学の連携が特に重要となる。医師が必要とする検査精度や操作性を工学技術者が理解し、実際の診療環境に適合する装置を設計することで、研究室内の技術を医療現場で利用できる製品へと発展させられる。
一方、人工知能の診断精度を評価するためのデータの質と量、患者情報の保護、施設間の性能差、医療機器としての承認、導入後の安全管理など、解決すべき問題も多い。技術的に優れた装置を開発するだけでなく、医療現場で継続的に利用できる仕組みを整えることが、スマート医療の普及には欠かせない。
医工連携・アカデミア創薬の主要なアプローチ
がん医療の革新を実現するには、優れた研究成果を生み出すだけでは不十分である。研究室で発見された新しい治療標的や薬剤候補、診断技術を、実際の患者に使用できる医薬品や医療機器へと発展させる研究開発の仕組みが必要となる。
この過程で重要な役割を担うのが、医工連携、アカデミア創薬、橋渡し研究支援の3つである。それぞれは独立した取り組みではなく、基礎研究から技術開発、非臨床試験、臨床試験、承認、製造、普及までをつなぐ一連の仕組みとして機能する。
医工連携は、医学と工学の知識や技術を組み合わせ、新しい診断・治療技術を開発する取り組みである。アカデミア創薬は、大学や公的研究機関などで生まれた基礎研究の成果を起点として、新しい医薬品を創出する活動を指す。
橋渡し研究支援は、これらの研究成果を実用化へ進めるために必要な技術評価、知的財産管理、品質管理、非臨床試験、臨床試験の設計、規制対応などを支援する仕組みである。3つの機能が連携することで、研究成果が実際の医療に届くまでの時間と不確実性を減らすことが期待される。
日本では、日本医療研究開発機構を中心に、大学、研究機関、医療機関、製薬企業などを結びつける研究開発支援体制が整備されてきた。特に、基礎研究の成果を臨床応用へ移行させるための支援や、大学発の創薬技術を企業へ導出する取り組みが、医療イノベーション政策の重要な柱となっている。
医工連携
医工連携は、医療現場が抱える課題を医学的に把握し、それを工学技術によって解決する研究開発の取り組みである。がん医療では、診断装置、手術支援ロボット、放射線治療装置、画像解析システム、細胞培養装置、薬剤投与装置など、幅広い領域で医学と工学の融合が進んでいる。
この連携の特徴は、医師や研究者が必要とする技術を、工学系研究者や企業が具体的な製品やシステムとして設計できる点にある。例えば、外科医が手術中にがん組織と正常組織の境界をより正確に識別したいという課題に対して、光学技術、画像処理、人工知能、微細加工技術などを組み合わせた診断支援機器を開発することが考えられる。
がんの画像診断では、磁気共鳴画像装置やコンピューター断層撮影装置、陽電子放射断層撮影装置などの画像情報を高精度に解析する技術が重要となっている。工学分野の計測技術や情報処理技術を組み合わせることで、病変の位置や大きさだけでなく、組織の性質や治療反応を推定する研究も進んでいる。
手術支援の分野では、ロボット技術や高精細な立体映像、力覚制御などの導入が進んでいる。人間の手の動きを補助し、狭い空間での精密な操作を可能にする技術は、複雑な手術の安全性や操作性を高める可能性がある。ただし、ロボット支援手術がすべてのがんや患者に対して従来手術より優れているわけではなく、術式ごとの治療成績、合併症、費用、医療従事者の習熟度などを踏まえた評価が必要である。
放射線治療でも、医工連携の重要性は大きい。画像誘導技術や放射線照射の精密制御、治療計画の自動化などによって、がん組織へ放射線を集中させ、周囲の正常組織への影響を抑える研究が進められている。患者の呼吸や臓器の動きに応じて照射位置を調整する技術も、治療精度の向上に寄与する。
さらに、細胞療法や遺伝子治療の発展に伴い、細胞の培養、加工、品質検査、輸送、保管などを支える工学技術も重要になっている。特に患者ごとに製造工程が異なる細胞医薬品では、製造の自動化や標準化、品質の均一化が実用化を左右する要素となる。
日本医療研究開発機構は、医療機器研究開発課を中心に、人工知能、情報通信技術、計測技術、ロボット技術などを活用した医療機器の研究開発を支援している。また、厚生労働省が進める次世代医療機器連携拠点整備等事業では、大学病院などを中心に、医療現場の需要を起点とした機器開発や人材育成、企業との連携が推進されている。
医工連携を成功させるためには、研究者が開発した技術を医療現場へ持ち込むだけでは足りない。医師、看護師、臨床工学技士、放射線技師などが日常診療で感じている問題を研究開発の初期段階から共有し、試作品の評価と改良を繰り返す必要がある。
また、医療機器は一般的な工業製品とは異なり、人体への安全性や診断・治療の有効性を証明しなければならない。開発段階から薬機法に基づく規制や品質管理を意識し、製造後の保守、操作教育、医療事故への対応まで考慮することが重要である。
アカデミア創薬
アカデミア創薬とは、大学、大学病院、公的研究機関などで得られた研究成果を起点として、新しい医薬品の創出を目指す活動である。製薬企業が既存の研究基盤や市場性を重視して開発を進めるのに対し、アカデミア創薬では、大学などが蓄積してきた独自の生命科学上の発見や、臨床現場から得られた知見が出発点となる。
がん領域では、がん細胞の増殖や転移に関与する分子の発見、免疫機能の解明、薬剤耐性の仕組みの特定などが、新しい創薬標的の発見につながる。例えば、特定の遺伝子変異を持つがん細胞だけに作用する薬剤や、がん細胞が免疫から逃れる仕組みを妨げる薬剤などは、基礎研究の成果が創薬へ発展する代表的な方向性である。
アカデミア創薬の大きな強みは、企業がまだ十分に取り組んでいない研究領域や、患者数が少ない希少がん、既存薬では治療が難しい難治性がんなどに対して、新しい治療標的を探索できることである。大学の研究者は、長期間にわたって特定の分子や細胞の働きを研究できるため、企業の既存の開発方針だけでは見つけにくい創薬の可能性を発見できる。
一方、研究成果が新しい医薬品になるまでには、多くの段階を経る必要がある。一般的には、疾患の仕組みを解明する基礎研究から創薬標的を特定し、薬剤候補を探索・最適化した後、動物や細胞などを用いた非臨床試験によって有効性と安全性を評価する。
その後、必要な品質・安全性・有効性に関するデータを整え、規制当局の手続きを経て臨床試験へ進む。臨床試験では、初期段階で安全性や投与量を検討し、その後、患者を対象として有効性と安全性を段階的に確認する。最終的に承認審査を通過し、製造販売体制や供給体制が整って初めて、医療現場で使用できるようになる。
この過程で、大学が得意とする基礎研究と、製薬企業が得意とする医薬品開発には大きな違いがある。大学の研究者が優れた薬剤候補を発見しても、安定した製造方法、薬物動態、毒性評価、臨床試験の設計、事業化に必要な資金などを自力で確保することは容易ではない。
そこで、大学発の創薬ベンチャーや製薬企業との共同研究が重要になる。大学が独自の研究成果と知的財産を保有し、創薬ベンチャーが開発を主導したり、製薬企業が技術導入や共同開発を通じて臨床試験を進めたりすることで、研究成果の実用化を目指すことができる。
2026年の日本では、創薬ベンチャーの育成と資金供給を強化する政策も進んでいる。日本医療研究開発機構は、創薬ベンチャーエコシステム強化事業などを通じて、大学発の創薬技術を事業化する企業や、その成長を支援する投資家との連携を促進している。
ただし、創薬ベンチャーを設立すれば実用化が進むわけではない。研究成果の独自性を証明する知的財産戦略、開発計画の妥当性、経営人材の確保、追加資金の調達、製薬企業との交渉力などが必要となる。
また、アカデミア創薬では、研究成果の学術的な価値と、医薬品としての価値を区別することが重要である。論文で高い評価を受けた発見であっても、患者に投与した際の有効性や安全性が証明されなければ、医薬品として成立しない。
そのため、研究の初期段階から、どの患者を対象とするのか、既存治療と比べてどのような優位性があるのか、どのような臨床試験によって効果を証明するのかを明確にする必要がある。研究成果を論文として発表することだけでなく、患者に届けるための開発戦略を持つことが、アカデミア創薬の成否を左右する。
橋渡し研究支援
橋渡し研究とは、基礎研究で得られた知見を、実際の患者を対象とする臨床研究や医薬品・医療機器の実用化へつなげる研究活動である。英語の表現に由来する「トランスレーショナル・リサーチ」とも呼ばれ、基礎研究と臨床応用の間に存在する技術的・制度的な隔たりを埋める役割を持つ。
がん研究では、研究室で発見された新しい治療標的が、本当に患者のがんでも重要な役割を果たしているのかを確認する必要がある。さらに、その標的に作用する薬剤が十分な効果を示すか、副作用が許容できるか、どの患者に投与すべきかなどを段階的に検証しなければならない。
橋渡し研究支援機関は、こうした研究開発の各段階を専門的に支援する組織である。研究者に対して、研究計画の評価、知的財産の確保、薬剤候補の品質評価、非臨床試験の実施、臨床試験の準備、規制当局との相談などを支援する。
日本では、日本医療研究開発機構の橋渡し研究プログラムを通じて、大学病院などを中心とした支援拠点が整備されている。これらの拠点は、自施設の研究成果だけでなく、地域の大学や研究機関が保有する研究シーズの発掘と実用化支援にも取り組んでいる。
重要なのは、研究シーズの成熟度に応じて支援内容を変えることである。基礎研究段階では、創薬標的の妥当性や知的財産の可能性を評価し、応用研究段階では薬剤候補の選定や製造方法の検討を進める。さらに臨床試験に近い段階では、品質・安全性に関するデータの整備や試験実施体制の構築が必要となる。
特に、医薬品や再生医療等製品では、研究室で使用した試料と、患者に投与する製品が同じ品質であることを保証する仕組みが欠かせない。製造工程の管理、原材料の規格、品質試験、保存条件、輸送条件などを整備し、再現性のある製造体制を構築する必要がある。
また、臨床試験の設計には、対象患者の選定、評価項目、症例数、比較対象、観察期間などの専門的な判断が求められる。研究者が期待する治療効果を科学的に検証できる試験計画を作成し、倫理審査や規制上の手続きを適切に進めることも、橋渡し研究支援の重要な機能である。
日本医療研究開発機構の医学系研究支援プログラムも、大学や医学部の研究環境の改善と、国家戦略上重要な医学研究の推進を一体的に支援する取り組みとして位置づけられている。生命科学と人工知能・データ駆動型研究の融合、基礎医学と臨床医学の協働などが重点課題に含まれており、研究成果を生み出す環境そのものを強化する方向性が示されている。
橋渡し研究支援の意義は、研究者に不足している専門機能を補完するだけではない。開発の早い段階で実用化の可能性や課題を見極めることで、成功可能性の低い研究に過剰な資金を投入することを避け、限られた研究資源を有望な技術へ集中させる効果も期待できる。
ただし、支援拠点が存在するだけで、すべての研究成果が実用化されるわけではない。支援人材の専門性、企業との連携、研究資金の継続性、臨床試験を実施する医療機関の能力などが不足すれば、研究成果は途中段階で停滞する。
したがって、橋渡し研究支援は研究者への助言や資金提供にとどまらず、研究開発全体を管理する機能を持つ必要がある。研究者、医師、知的財産専門家、薬事担当者、臨床試験の専門家、企業経営者などが一体となり、実用化までの道筋を共有することが重要である。
3つの仕組みを統合することの重要性
医工連携、アカデミア創薬、橋渡し研究支援は、それぞれ異なる役割を持つが、がん医療のイノベーションを実現するためには、相互に連携させることが重要である。
例えば、新しいがん診断技術を開発する場合、医師が臨床上の課題を発見し、工学研究者が診断装置や解析技術を開発する。その技術を大学や研究機関が検証し、橋渡し研究支援機関が性能評価、知的財産、規制対応などを支援し、企業が製品化と製造販売を担うという流れが考えられる。
新薬の開発でも同様である。大学の研究者が新しい治療標的を発見し、薬学や工学の研究者が薬剤候補や送達技術を開発する。その後、創薬ベンチャーや製薬企業が非臨床試験、臨床試験、製造体制の構築を進めることで、研究成果を患者に届けることが可能になる。
このような統合型の研究開発では、研究の初期段階から出口戦略を明確にすることが重要となる。どれほど優れた研究成果であっても、実用化に必要な製造技術や資金、臨床試験の実施体制が確保できなければ、患者に届く医療にはならないからである。
日本の課題は、個々の研究者や大学が持つ技術力だけではなく、それらを結びつける組織的な能力を強化することにある。研究成果を発見する能力、開発する能力、事業化する能力、医療現場へ普及させる能力を一体的に高めることが求められる。
特に、大学と製薬企業、医療機器メーカー、創薬ベンチャーとの間をつなぐ専門人材の育成は急務である。研究内容を理解しながら、知的財産、薬事規制、事業性、資金調達まで判断できる人材が増えれば、日本のアカデミア創薬と医工連携の実効性は大きく向上する可能性がある。
構造的な課題と直面している障壁
医工連携やアカデミア創薬は、がん医療を大きく変える可能性を持つ一方、研究成果が実際の医療として普及するまでには多くの障壁が存在する。大学や研究機関で画期的な発見があっても、それが直ちに新薬や医療機器として実用化されるわけではない。
特に問題となるのは、基礎研究から臨床応用へ移行する過程で、研究の継続性が失われやすいことである。基礎研究では有望な結果が得られても、非臨床試験で十分な安全性や有効性を示せない場合があり、臨床試験に進んでも期待した治療効果が確認できないことがある。
医薬品開発では、研究段階から臨床試験、承認に至るまでに長い期間と多額の資金が必要となる。一般に新薬開発には10年以上を要することも珍しくなく、開発費用も数百億円から1,000億円を超える規模に達する場合がある。ただし、開発期間や費用は対象疾患、開発段階、算定方法によって大きく異なり、すべての新薬に一律の数字を当てはめることはできない。
さらに、がん治療薬では、患者の遺伝子変異や病状によって治療効果が異なるため、臨床試験の対象患者を適切に選定する必要がある。対象患者が少ない希少がんや特定の遺伝子変異を持つ患者を対象とする場合、十分な症例数を確保すること自体が難しい。
こうした問題は、研究者の能力不足だけで説明できるものではない。研究資金の供給構造、大学と企業の組織文化の違い、専門人材の不足、規制対応の複雑さ、医療費負担などが複合的に影響している。
したがって、がん医療のイノベーションを加速するには、個々の研究成果を評価するだけでなく、研究から実用化までの全過程に存在する構造的な問題を解消しなければならない。
アカデミアと産業界のギャップ(開発言語・ルールの違い)
医工連携やアカデミア創薬の実用化を妨げる大きな要因の1つが、大学・研究機関と産業界の間に存在する考え方や評価基準の違いである。両者は同じ研究成果を扱っていても、重視する目標や判断基準が必ずしも一致していない。
大学や研究機関では、新規性、科学的な独創性、論文発表、学術的な評価が重視される。研究者にとって重要なのは、未解明の生命現象を解き明かし、新しい知見を世界に示すことである。
一方、製薬企業や医療機器メーカーは、研究成果が実際の製品として成立するかどうかを重視する。具体的には、有効性、安全性、製造可能性、品質の再現性、知的財産の保護、市場規模、投資回収の可能性などが判断材料となる。
この違いは、研究成果を企業へ導出する段階で顕在化する。研究者が画期的な発見と評価している技術でも、企業側が求める非臨床試験データや製造条件、薬物動態、安全性評価などが不足していれば、事業化の判断は難しい。
例えば、大学で特定の遺伝子変異を標的とする新薬候補が発見されたとする。細胞実験では優れた効果を示していても、人体に投与した際に必要な濃度を維持できるのか、正常細胞への影響はどの程度か、薬剤を安定的に製造できるのかといった問題が残る。
企業は、こうした未解決の問題を開発リスクとして評価する。研究者が有望な成果と考えていても、企業側が追加検証に必要な費用や時間を確保できないと判断すれば、共同研究や技術導入は成立しない可能性がある。
また、知的財産の取り扱いも重要な問題である。大学側は研究成果の論文発表や学会発表を重視する一方、企業側は特許による独占的な権利確保を重視する。特許出願前に研究成果を公開してしまうと、新規性の喪失などによって権利化が難しくなる場合があり、研究成果の公表時期と知的財産戦略の調整が必要となる。
さらに、共同研究の契約条件、研究データの帰属、特許の共有、ライセンス料、将来の収益配分なども交渉の対象となる。こうした問題を解決できなければ、技術的には有望な研究であっても、企業との連携が進まない。
このギャップを埋めるためには、大学側に研究成果の事業化を支援する専門機能を整備する必要がある。大学の産学連携部門や技術移転機関が、知的財産、薬事規制、事業性評価、企業との交渉を支援することが重要である。
特に求められるのは、研究者と企業の双方の言語を理解できる人材である。研究内容を理解したうえで、開発計画、必要な資金、臨床試験の実現可能性、知的財産の価値などを整理できる人材がいれば、研究成果の企業導出は進めやすくなる。
また、企業側も研究初期から大学と協力し、実用化に必要な条件を共有することが望ましい。研究が成熟してから初めて企業へ持ち込むのではなく、研究の初期段階から開発上の課題を明らかにすることで、実用化に向けた無駄な遠回りを減らせる。
開発コストと承認・普及のハードル
創薬における最大の障壁の1つが、研究開発に必要な資金と時間である。新薬は、候補物質の発見から承認までに多数の検証を必要とし、その過程で開発中止となる候補も少なくない。
日本製薬工業協会の医薬産業政策研究所が2024年に公表した調査では、日本の製薬企業の研究開発データを基に、世界展開を前提とした新薬1品目の期待研究開発費用を、資本コスト10%の条件で約1,415億円と推計している。これは単一の薬剤候補に実際に投入された費用ではなく、開発に失敗した候補への投資なども考慮した期待費用であり、新薬開発の経済的な負担の大きさを示す指標である。
さらに、2025年に公表された日本の製薬企業22社、631件の開発案件を対象とした臨床試験費用の分析では、第1相試験の費用中央値は約8.59億円、第2相は約17.39億円、第3相は約41.83億円だった。試験期間の中央値も、それぞれ20か月、29か月、31か月に達しており、後期の臨床試験ほど大規模な資金と時間が必要になる実態が示されている。
特に、海外での承認を目指す開発では費用負担が大きくなる。同調査では、第3相試験の費用中央値が日本国内のみを対象とする案件では約30.5億円だったのに対し、米国または欧州での承認を含む案件では約80.83億円となっており、開発地域によって必要な投資規模が大きく異なる。
こうした費用構造は、資金力に乏しい大学発ベンチャーにとって深刻な問題となる。大学で有望な創薬候補を発見しても、非臨床試験から臨床試験へ進む段階で必要資金が急増し、研究開発を継続できなくなる場合がある。
この問題は、創薬分野で「死の谷」と呼ばれる。基礎研究の成果が実用化に近づくほど、製造、品質、安全性、薬事規制などに関する専門的な検証が必要となり、研究費だけでは対応できない開発資金の確保が求められる。
特に、細胞医薬品や遺伝子治療薬などの新しいモダリティでは、従来の低分子医薬品とは異なる製造設備や品質管理体制が必要となる。患者ごとに製品を製造する場合には、原材料の調達、細胞の採取、加工、輸送、保管などの工程が複雑になり、製造コストが治療普及の障壁となる。
また、創薬の成功確率そのものも高くない。日本製薬工業協会の2025年の分析では、臨床試験段階に進んだ案件について、第1相から承認までの成功確率は約14.6%と推計された。ただし、これは調査対象や集計方法に依存する数値であり、すべての医薬品やがん治療薬に共通する確率ではない。
がん領域では、腫瘍の種類や遺伝子変異、治療歴によって薬剤の効果が異なるため、開発の不確実性がさらに高くなる。臨床試験で期待した効果が得られない場合、研究に投じた資金だけでなく、開発に費やした時間や人材も失われる。
承認に至るまでの規制上のハードルも大きい。医薬品の場合、薬機法に基づき、品質、有効性、安全性を示す十分なデータを提出しなければならない。新しいモダリティでは、従来の医薬品と異なる製造上のリスクや長期的な安全性についても評価が必要となる。
医療機器の場合も、機器の性能だけでなく、実際の診療でどの程度の有用性があるのかを検証しなければならない。人工知能を利用した診断支援機器では、学習に使用したデータと実際の患者集団の違いによって診断性能が変化する可能性があり、施設や患者背景による性能差の確認が重要となる。
さらに、承認を取得しても、直ちに全国の医療機関へ普及するとは限らない。医療現場で使用するためには、薬価や保険適用、設備投資、医療従事者の教育、診療報酬上の評価、安定供給などの条件が整わなければならない。
例えば、高額な細胞医薬品が承認されても、製造費用や治療施設の制約によって、実際に治療を受けられる患者が限られる可能性がある。また、先端診断機器についても、導入費用や維持管理費用に加え、操作できる専門人材が不足すれば、地域の医療機関への普及は進まない。
このように、創薬や医療機器開発の評価は、承認取得だけで完結しない。患者が必要なときに、適切な医療機関で、安全かつ経済的に利用できる状態を実現して初めて、イノベーションが社会的な価値を生み出したと評価できる。
エコシステムと資金・人材の不足
がん医療の研究開発を持続的に発展させるためには、大学、研究機関、病院、製薬企業、医療機器メーカー、創薬ベンチャー、投資家、政府などが相互に協力するエコシステムが必要である。しかし、日本では研究成果を生み出す基礎研究の力に比べ、事業化や臨床開発を支える仕組みが十分に成熟していないという課題がある。
特に、大学発の創薬ベンチャーは、研究成果を事業化するための資金調達に苦労することが多い。一般的な情報技術分野の企業と異なり、創薬ベンチャーは製品が市場に出るまで長期間を要し、開発に失敗するリスクも高いため、投資家が資金を回収できるまでの見通しを立てにくい。
日本医療研究開発機構が2026年に公表した大学発創薬ベンチャー設立に関する支援資料でも、日本には有望な創薬シーズが存在する一方、創薬ベンチャーの設立数や投資の規模が十分ではないという問題意識が示されている。世界の第1相臨床試験において、2023年にはベンチャー企業が関与する案件が約3分の2を占めたとされ、日本の創薬ベンチャー育成の遅れは国際競争力にも関係する問題である。
また、資金不足だけでなく、専門人材の不足も深刻である。創薬には、生命科学、薬学、医学、化学、統計学、臨床試験、品質管理、薬事規制、知的財産、事業経営など、多様な専門知識が必要となる。
しかし、大学の研究者が研究と教育を担いながら、事業計画の策定や投資家との交渉、製造体制の構築まで担当することには限界がある。研究者の能力に依存する体制では、研究成果が優れていても、事業化を進める段階で停滞する可能性が高い。
特に不足しているのが、創薬開発全体を統括できる経験豊富な人材である。開発候補の評価、臨床試験の戦略、規制当局との相談、資金調達、企業との提携などを総合的に判断できる人材は、大学やベンチャーにとって極めて重要である。
さらに、医工連携では、医師と工学研究者の間をつなぐ人材が必要となる。医療現場の課題を工学的な設計要件に変換し、試作品を臨床現場で評価し、製品化に必要な品質や安全性を確保できる人材が不足すれば、技術開発と実用化の間に隔たりが生じる。
研究資金の供給方法にも改善の余地がある。公的研究費は重要な役割を果たしているが、年度単位の予算や研究期間の制約によって、長期的な開発計画との整合性が取りにくい場合がある。創薬は数年単位で成果を評価できる分野ではないため、研究の進捗や成果に応じて資金を段階的に供給する仕組みが必要となる。
また、大学や研究機関が持つ研究設備を、複数の研究者や企業が共同利用できる環境も重要である。高額な細胞製造設備や分析装置を各研究機関が個別に整備することは効率が悪く、共用施設や受託開発機関を活用することで、初期投資の負担を軽減できる可能性がある。
日本の創薬エコシステムを強化するには、大学発ベンチャーの設立を促すだけでなく、設立後の成長を支える資金、人材、設備、企業との連携を継続的に確保しなければならない。研究成果を生み出す大学、開発を担うベンチャー、資金を供給する投資家、製造と販売を担う企業が、それぞれの役割を果たせる環境づくりが不可欠である。
日本の研究開発体制に求められる改革
日本のがん研究は、大学や研究機関における基礎研究、臨床研究、医療技術の開発などで高い研究能力を持つ一方、その成果を世界市場で競争できる医薬品や医療機器へ発展させる段階に課題を抱えている。研究成果の創出と産業化の間に存在する隔たりを縮小することが、今後の重要な政策課題となる。
そのためには、研究費の増額だけでなく、研究開発の各段階に応じた資金供給の仕組みを構築する必要がある。基礎研究、非臨床試験、初期臨床試験、後期臨床試験、製造体制の確立など、それぞれの段階で必要となる資金の性質は異なるため、公的資金と民間投資を適切に組み合わせることが重要である。
また、大学の研究者が研究成果の事業化に過度な負担を負わないよう、専門的な支援組織を強化する必要がある。知的財産、薬事規制、臨床開発、製造、経営、資金調達などの専門家を大学や研究支援機関に配置し、研究者が本来の研究活動に集中できる環境を整えるべきである。
さらに、国際共同研究や海外企業との提携を積極的に進めることも欠かせない。日本国内だけで開発を完結させるのではなく、海外の研究機関、製薬企業、投資家、臨床試験ネットワークと連携することで、研究成果の価値を高め、世界規模での実用化を目指すことができる。
重要なのは、研究開発の成功を論文数や特許数、ベンチャー設立数だけで評価しないことである。臨床試験への移行率、承認取得数、患者への治療提供数、治療成績、医療費への影響などを含め、研究成果が実際に社会へどのような価値をもたらしたかを評価する仕組みが必要となる。
がん克服に向けたイノベーションは、研究者個人の努力や一部の企業の投資だけでは実現できない。研究、開発、資金、人材、規制、医療提供体制を一体的に改善し、長期的に機能する研究開発エコシステムを構築することが求められている。
今後の展望と解決への方向性
がん医療のイノベーションを加速するためには、研究開発の個々の課題を解決するだけでなく、基礎研究から臨床応用、製造、承認、普及までを一貫して支える仕組みを構築する必要がある。特に重要なのは、研究成果が生まれた段階から実用化を見据え、必要な技術、資金、人材、臨床試験の体制を計画的に整備することである。
日本では、2025年度から2029年度を対象とする「第3期医療分野研究開発推進計画」に基づき、日本医療研究開発機構を中核として、基礎研究から実用化までを一貫して支援する政策が進められている。同計画では、医薬品、医療機器、再生・細胞医療、データ利活用、基礎研究、橋渡し研究、医療イノベーションのエコシステムなどを重点領域として位置づけている。
この計画で注目されるのは、研究成果の創出だけでなく、企業への技術導出や治験への移行など、実用化に直結する成果を重視している点である。研究シーズの企業導出年間130件、治験への移行年間60件という目標も掲げられており、研究成果を産業化につなげる仕組みの強化が重要視されている。
ただし、数値目標の達成そのものが最終目的ではない。重要なのは、企業へ導出された研究成果が実際に開発され、承認され、患者に利用されるまでの経路を確立することである。そのためには、研究成果の質を評価する仕組みと、実用化に向けた進捗を継続的に確認する仕組みを組み合わせる必要がある。
また、研究開発の初期段階から、患者や医療従事者の意見を取り入れることも重要となる。患者が本当に必要としている治療効果や生活の質の改善を明確にし、それを研究開発の目標に反映することで、科学的に優れた成果を社会的価値の高い医療へと発展させることができる。
出口を見据えた統合的プロジェクトの推進
今後のがん研究では、基礎研究、応用研究、非臨床試験、臨床試験、製造、承認、医療現場への普及を個別に進めるのではなく、最初から一体的に設計する統合的プロジェクトが重要となる。研究開始時点で実用化までの道筋を描き、各段階で必要な成果と評価基準を明確にすることが、開発の停滞を防ぐための基本となる。
従来の研究開発では、研究者が基礎研究で成果を上げた後、次の段階である非臨床試験や臨床試験の準備に取り組むケースが多かった。しかし、この方法では、実用化に必要な品質管理や製造技術、知的財産、薬事規制などの問題が後から判明し、追加の研究や資金が必要になる場合がある。
これを改善するには、研究の初期段階から医学、薬学、工学、統計学、薬事規制、知的財産、事業開発などの専門家が参加する体制を整える必要がある。研究成果の科学的な価値だけでなく、製造可能性、臨床的な有用性、開発費用、将来の市場性などを並行して評価することが重要である。
例えば、新しいがん免疫療法を開発する場合、免疫学の研究者が治療標的を発見するだけでは実用化に至らない。薬学研究者が薬剤の作用機序を検証し、工学研究者が細胞の培養や加工、品質検査の技術を開発し、医師が患者を対象とする臨床試験を設計する必要がある。
さらに、製薬企業や創薬ベンチャーが早期から参加し、製造設備、品質管理、薬事規制、資金調達、事業化の可能性を検討することが望ましい。研究段階から企業が関与すれば、将来の製品化に必要な条件を早期に把握でき、研究成果の導出や共同開発を円滑に進めやすくなる。
統合的プロジェクトでは、開発段階ごとに達成目標を設定するステージゲート方式も有効である。各段階で科学的妥当性、安全性、製造可能性、事業性などを評価し、継続、修正、中止を判断することで、限られた研究資金を有望な開発案件へ重点的に配分できる。
また、研究成果を企業へ移転する際には、単に特許や技術を譲渡するだけでなく、研究者が一定期間にわたって技術支援を行う仕組みも必要である。大学側の研究知識と企業側の開発能力を継続的に結びつけることで、技術移転後に発生する問題への対応力を高められる。
日本医療研究開発機構が推進する産学官共同型の研究開発支援も、こうした統合的な開発体制を強化する取り組みの1つである。複数の大学や企業が協力し、複数年度にわたって研究開発を進めることで、単独の研究機関では実施が難しい大規模なプロジェクトを実現することが期待される。
特に、がん領域では、患者数が限られる希少がんや難治性がんを対象とした研究において、複数の医療機関が参加する共同研究体制が重要となる。患者の情報や検体を適切に共有し、施設間で統一された評価方法を用いることで、臨床研究の効率と信頼性を高めることができる。
出口を見据えた研究開発とは、短期間で利益を得ることを意味するものではない。科学的な価値を尊重しながら、患者に届くまでの時間、費用、技術的な課題を初期段階から考慮し、研究成果を確実に次の開発段階へつなぐことである。
オープンイノベーションとエコシステムの深化
がん医療の研究開発を加速するためには、大学や製薬企業がそれぞれの組織内で研究を完結させる従来型の開発体制から、外部の知識や技術を積極的に取り込むオープンイノベーションへの転換が必要である。オープンイノベーションとは、自組織が保有する技術や研究成果だけに依存せず、大学、企業、研究機関、ベンチャー、医療機関などが知識や技術を共有し、新たな価値を生み出す取り組みである。
がん研究は、生命科学、免疫学、遺伝子工学、情報科学、材料工学、医療機器工学など、多数の専門分野にまたがる。そのため、1つの大学や企業がすべての研究能力や設備を保有することは難しく、外部との連携によって不足する技術や専門知識を補完することが合理的である。
例えば、大学が発見した新しいがん治療標的について、国内の創薬ベンチャーが薬剤候補を開発し、海外の製薬企業が大規模な臨床試験や国際的な製造販売を担うという連携が考えられる。また、大学病院が患者の臨床情報を提供し、情報技術企業が人工知能による解析システムを開発し、医療機器メーカーが診断装置として製品化することも可能である。
こうした連携を成立させるには、研究成果や技術情報を適切に共有する仕組みが必要となる。ただし、患者の個人情報や未公開の研究データ、特許出願前の技術情報などは、無条件に共有できるものではない。研究データの利用目的、知的財産の帰属、秘密保持、成果の公表条件などを事前に明確にする必要がある。
また、オープンイノベーションでは、大学と企業の間だけでなく、企業同士の協力も重要となる。例えば、製薬企業が薬剤の開発を担当し、別の企業が薬剤を標的部位へ届ける技術を提供し、医療機器メーカーが投与や診断を支援する装置を開発するなど、複数の企業が異なる専門領域を担当することで、単独企業では実現が難しい治療体系を構築できる。
日本医療研究開発機構の創薬ベンチャーエコシステム強化事業は、こうした産学連携を促進する政策の1つである。同事業では、創薬を専門とするベンチャーキャピタルを認定し、その投資を受ける創薬ベンチャーの実用化開発を支援する仕組みを採用している。公的資金と民間投資を組み合わせることで、開発初期から臨床試験段階までの資金調達を支援し、大学発の技術を産業化へつなぐことを目指している。
2026年11月時点でも同事業は継続しており、同年11月4日にはベンチャーキャピタルの認定と創薬ベンチャーの公募に関する新たな募集情報が更新されている。これは、創薬ベンチャーの育成を一時的な政策ではなく、継続的な産業基盤の形成として進めていることを示す動きである。
さらに、国際的な研究開発ネットワークの構築も重要である。がん治療薬の開発では、国内だけで十分な臨床試験参加者を確保できない場合があり、海外の研究機関や医療機関との連携が必要になる。国際共同治験を通じて複数国の患者データを収集できれば、薬剤の有効性や安全性をより広い患者集団で評価できる可能性がある。
ただし、国際共同研究には、各国の規制、倫理審査、医療制度、データ保護制度の違いに対応する必要がある。研究成果の共有や知的財産の管理についても国際的なルールを整備しなければならない。
オープンイノベーションの本質は、単に共同研究の数を増やすことではない。各組織が持つ強みを明確にし、研究成果を実用化するために必要な機能を適切に結びつけることである。大学、企業、投資家、医療機関、行政が継続的に協力できるエコシステムを形成することが、日本の創薬競争力を高める重要な条件となる。
デジタル技術(人工知能・データ駆動型研究)のフル活用
がん研究の将来を大きく左右する技術として、人工知能とデータ駆動型研究が挙げられる。従来の創薬研究は、研究者が仮説を立て、実験によって検証する方法が中心だったが、近年は大量の生物学的データや臨床データを解析し、従来の手法では見つけにくかった関係性や治療標的を探索する研究が進んでいる。
特に、がん細胞の遺伝子情報、タンパク質の発現、代謝情報、病理画像、治療歴、臨床経過などを統合的に解析することで、がんの発生や進行に関係する分子の働きをより詳細に理解できるようになっている。人工知能は、こうした膨大な情報から特徴的なパターンを抽出し、新しい創薬標的や診断指標の候補を見つけるための支援技術となる。
創薬の初期段階では、人工知能を用いた化合物探索や薬剤設計が注目されている。従来は多数の化合物を実験によって評価する必要があったが、計算機上で分子構造やタンパク質との結合可能性を予測することで、有望な候補を絞り込める可能性がある。
また、タンパク質の立体構造予測や分子間相互作用の解析が進歩したことで、創薬標的の構造に基づいて薬剤候補を設計する研究も発展している。こうした技術は、研究者が新しい薬剤候補を発見するまでの時間を短縮し、実験資源をより有望な候補へ集中させることに役立つ。
ただし、人工知能が予測した薬剤候補が、そのまま患者に有効な医薬品になるわけではない。計算上の予測と実際の生体内での反応には差があり、細胞実験、動物実験、非臨床試験、臨床試験による検証が不可欠である。人工知能は研究者や医師の判断を代替するものではなく、研究開発の効率と精度を高める補助技術として位置づける必要がある。
がん診断の分野でも、デジタル技術の活用は進んでいる。病理画像を人工知能で解析することで、がん細胞の形態や組織内の分布、免疫細胞の浸潤状況などを定量的に評価する研究が進められている。医師の経験に依存しやすかった評価を標準化し、診断の再現性を高める可能性がある。
さらに、複数の検査結果を組み合わせて、患者ごとの治療効果や再発リスクを予測する研究も重要である。遺伝子解析、病理画像、血液検査、治療歴などを統合することで、患者の状態をより多角的に把握し、治療方針の決定を支援できる可能性がある。
このようなデータ駆動型医療を実現するためには、質の高い医療データを継続的に収集し、適切に管理する基盤が必要である。日本医療研究開発機構は、ゲノムデータや健康・医療データの基盤整備を進め、研究成果から得られたデータを医薬品や医療機器の開発などに活用するための環境整備に取り組んでいる。
日本では、がんゲノム医療の基盤として、がんゲノム情報管理センターが重要な役割を担っている。全国のがんゲノム医療中核拠点病院などから集められた遺伝子解析情報と臨床情報を適切に管理し、研究や治療薬開発に活用する仕組みが整備されている。
この基盤をさらに発展させることで、日本人のがんに特徴的な遺伝子変異や薬剤反応の傾向を把握し、国内の患者に適した治療法の開発につなげられる可能性がある。特に、希少がんや患者数の少ない遺伝子変異を対象とする研究では、複数の医療機関がデータを共有することの意義が大きい。
一方、医療データの活用には慎重な対応が求められる。個人情報保護、研究利用への同意、データの匿名化・仮名化、情報漏えい対策、利用目的の制限などを徹底しなければ、患者や社会からの信頼を失う可能性がある。
また、医療機関ごとに電子カルテの形式や検査データの記録方法が異なることも課題である。データ形式や用語、測定条件を標準化しなければ、異なる施設の情報を単純に統合して解析することは難しい。
人工知能の性能を高めるためには、学習に使用するデータの偏りにも注意する必要がある。特定の年齢層や地域、医療機関の患者に偏ったデータで学習した場合、別の患者集団では診断精度が低下する可能性がある。したがって、複数施設のデータを用いた検証や、実際の診療環境での継続的な性能評価が不可欠である。
今後は、人工知能による創薬支援、ゲノム解析、病理画像診断、臨床試験の患者選定、治療効果予測などを個別の技術として利用するだけでなく、相互に連携させることが重要となる。研究データと臨床データを循環させ、実際の患者の治療結果を次の研究開発へ反映する仕組みが整えば、がん医療の進歩を継続的に加速できる可能性がある。
研究開発基盤の国際競争力を高めるために
人工知能やデータ駆動型研究を活用するうえで、日本が取り組むべき課題は、個々の技術開発だけでなく、研究データ、計算資源、研究設備、専門人材を共有できる基盤の整備である。特に、大学や研究機関が保有するデータを企業が適切な条件で利用できる環境を整えることは、創薬の効率化に直結する。
日本医療研究開発機構は、創薬支援推進事業などを通じて、人工知能による創薬標的の予測や研究シーズの探索を進めている。また、産学連携による創薬人工知能基盤の構築を目指す取り組みも進行しており、複数の人工知能システムを創薬過程に組み込むことで、研究開発全体の効率化を図る方向性が示されている。
医工連携・人工知能実装研究事業では、人工知能を活用した診断・治療技術の改善や、医療従事者の業務負担を軽減する製品・サービスの開発も支援対象となっている。こうした取り組みは、研究室内の技術を実際の医療現場で利用できる製品へ発展させるうえで重要である。
ただし、国際競争力を高めるためには、研究成果を国内にとどめず、海外の研究機関や企業と共有し、国際的な臨床試験や製品開発につなげる必要がある。日本独自の研究成果を世界市場で実用化できる体制を整えることが、今後の創薬産業の成長を左右する。
また、人工知能による研究開発の効率化が進んでも、最終的な医療の質を決めるのは患者に対する有効性と安全性である。計算上の予測精度や論文上の成果だけでなく、臨床試験での治療効果、患者の生活の質、医療費への影響までを評価する姿勢が不可欠となる。
今後の日本のがん研究では、医学、工学、薬学、情報科学を融合した研究開発基盤を整備するとともに、国際的な産学連携とデータ共有を進めることが重要である。研究成果を生み出す能力と、それを世界水準の医療へ発展させる能力の双方を強化することが、がん克服に向けた持続的なイノベーションの条件となる。
今後の展望:がん医療はどこまで進化するのか
がん医療の将来を考えるうえで重要なのは、単一の治療法がすべてのがんを克服するという発想から離れることだ。がんは臓器や組織によって性質が異なるだけでなく、同じ患者の腫瘍内部でも細胞ごとに遺伝子変異や薬剤への反応が異なるため、診断、治療、再発監視を一体として最適化する必要がある。
今後は、遺伝子解析や血液中の腫瘍由来物質を調べるリキッドバイオプシー、画像診断、病理診断、治療経過の情報を組み合わせ、患者ごとに治療方針を選択する医療がさらに発展すると考えられる。治療後も血液検査などで微小な残存病変や再発の兆候を早期に捉えられれば、再発リスクに応じた追加治療や経過観察が可能になる。
ただし、検査技術が進歩することと、患者の生存期間や生活の質が改善することは同じではない。検査結果が治療選択を変え、その選択が患者にとって有益であることを臨床試験で確かめる必要がある。過剰診断や偽陽性、検査費用、結果の解釈の難しさにも対応しなければならない。
治療分野では、抗体薬物複合体、二重特異性抗体、遺伝子改変免疫細胞療法、放射性医薬品など、新しい作用機序を持つ治療手段の開発が続く。これらは従来の抗がん剤が十分な効果を示さなかった患者に新たな選択肢をもたらす可能性がある一方、重い副作用や製造費用、適応となる患者の範囲など、実用化に向けた課題も残されている。
将来のがん治療は、手術、放射線、薬物療法、免疫療法を競合する選択肢として扱うのではなく、病期や遺伝子変異、患者の体力、併存疾患、生活環境に応じて組み合わせる方向へ進む。治療効果を高めるだけでなく、身体への負担を減らし、治療後の社会生活を維持できることも、医療の成果として評価されるべきだ。
医工連携とアカデミア創薬がもたらす長期的な変化
医工連携の意義は、医療現場の課題を工学技術によって解決することにとどまらない。医師や研究者が発見した現象を、測定装置、診断機器、治療機器、情報処理技術へと発展させ、患者に届く形に変換する仕組みそのものを強化する点にある。
例えば、手術支援ロボットや高精度画像診断装置、放射線治療機器、細胞製造装置などは、医学と工学の協力によって進歩してきた。今後は人工知能による画像解析や治療効果予測、ロボティクス、微細加工技術、材料科学などが融合し、診断から治療、術後管理までを支える技術基盤が広がると考えられる。
一方、アカデミア創薬は、大学や公的研究機関が生み出した基礎研究の成果を、新薬や治療技術へとつなげる役割を担う。企業が短期的な事業性を判断しにくい初期段階の研究や、患者数が少ない希少がん、既存薬では対応できない分子標的などは、大学発の研究が突破口になる可能性がある。
ただし、大学の研究成果がそのまま医薬品になるわけではない。標的分子の妥当性、薬効と安全性、製造方法、品質管理、臨床試験の設計、知的財産、薬事規制などを一つずつ検証しなければならない。研究成果を論文として発表する能力と、医薬品として再現性のある品質で製造し、規制当局の審査を経て患者に届ける能力は別のものである。
この隔たりを埋めるには、大学の研究者、医師、薬剤師、工学者、製薬企業、医療機器企業、規制当局、投資家が、研究の早い段階から協力することが欠かせない。研究者が開発の出口を意識し、企業側が初期研究の不確実性を理解することで、実用化の可能性を高められる。
日本の研究開発・創薬産業が目指す方向
日本が国際競争力を高めるためには、研究費を増やすだけでなく、研究成果を臨床試験や事業化につなぐ過程を強化する必要がある。基礎研究の水準が高くても、創薬を担う人材、臨床試験を実施する医療機関、資金供給、製造設備、規制対応の専門家が不足すれば、成果は国内で実用化されず、海外企業に開発の主導権を渡すことになりかねない。
特に重要なのは、創薬ベンチャーが研究初期から臨床開発まで成長できる環境である。大学発の技術を評価する専門家、創薬に理解のある投資家、製薬企業との提携を仲介する組織、治験を支える医療機関が連携すれば、研究者が起業する際の負担を軽減できる。
また、国際共同治験への参加を促進し、日本の患者が新しい治療法にアクセスできる体制を整えることも必要だ。国内だけで患者を集めることが難しい希少がんや遺伝子変異の少ない集団を対象とする治療では、海外の研究機関や企業との協力が開発の成否を左右する。
その一方で、海外との連携を進めるほど、国内の研究基盤やデータの管理、知的財産の保護、製造技術の蓄積が重要になる。研究成果を海外に移転するだけでなく、日本国内で研究開発を継続し、製造や臨床試験の能力を育てる視点が欠かせない。
日本には、大学病院や国立研究機関、がん専門病院、製薬企業、医療機器企業が集積している。これらの資源を個別に運用するのではなく、研究成果や臨床データ、人材、設備を適切に共有できる仕組みを整えることが、長期的な競争力につながる。
患者中心の医療と医療格差の解消
技術革新の評価基準は、特許の数や新薬の承認件数だけではない。新しい治療を必要とする患者が、適切な時期に、経済的・地理的な障壁を過度に負うことなく利用できるかどうかが重要である。
高度な遺伝子検査や個別化治療は、医療機関の設備や専門人材、地域の医療資源によって利用機会に差が生じる可能性がある。都市部の大病院に患者が集中し、地方では検査や治験へのアクセスが限られる状況が続けば、技術革新の恩恵は一部の患者に偏る。
この格差を縮小するには、地域の医療機関とがん専門病院の連携、検体や診療情報を適切に共有する仕組み、遠隔診療や専門家による診断支援が必要になる。患者が居住地によって不利益を受けないよう、検査や治療の提供体制を全国的に整備することが求められる。
さらに、治療費の問題も避けて通れない。高額な新薬や細胞治療が登場しても、医療保険制度の持続可能性が損なわれたり、患者の経済的負担が過度に増えたりすれば、社会全体に普及させることは難しい。治療効果だけでなく、費用対効果、製造効率、投与方法、長期的な医療費への影響を評価し、持続可能な価格と供給の仕組みを検討する必要がある。
患者の意向を研究開発に反映させることも重要だ。治療による生存期間の延長だけでなく、痛みや倦怠感の軽減、通院回数、仕事や家庭生活への影響など、患者が実際に重視する評価項目を臨床試験に取り入れるべきである。患者は研究成果を受け取るだけの存在ではなく、研究課題の設定や治験計画の検討に参加する重要な当事者である。
まとめ:がん克服に向けたイノベーションの本質
がん克服への道は、画期的な新薬や診断装置が一つ登場すれば完成するものではない。がんの多様性を理解し、早期診断、精密な治療選択、治療効果の監視、再発予防、患者の生活支援を連続した医療として構築することが必要である。
その実現を支えるのが、医工連携とアカデミア創薬である。医学が発見した課題を工学が技術に変え、大学や研究機関が生み出した知見を企業が開発し、医療機関が臨床で検証する。この循環が機能すれば、従来は治療が難しかったがんに対しても、新たな選択肢を生み出せる可能性がある。
ただし、研究成果を患者に届けるには、資金、人材、知的財産、臨床試験、製造、規制、医療保険という複数の課題を同時に解決しなければならない。研究者の努力だけに依存するのではなく、産学官と医療現場が長期的な視点で協力することが不可欠だ。
がんを完全に克服するという目標は、依然として容易ではない。それでも、予防と早期発見によって発症や死亡を減らし、治療によって長期生存を可能にし、再発を抑え、患者が自分らしい生活を続けられるようにすることは、着実に追求できる目標である。
イノベーションの本質は、最先端技術を開発することだけではない。その技術を必要とする患者に届け、医療として有効に機能させ、社会全体で継続的に支えられる仕組みをつくることにある。医工連携とアカデミア創薬をその仕組みの中核に据え、研究から実用化までの断絶を埋めることが、がん克服に向けた次の一歩となる。
参考・引用リスト
1. 国際がん研究機関(IARC)・米国がん協会(ACS)「Global cancer statistics 2024: GLOBOCAN estimates of incidence and mortality worldwide for 34 cancers in 186 countries」2026年。
2. 日本医療研究開発機構(AMED)「革新的がん医療実用化研究事業」。
3. 日本医療研究開発機構(AMED)「次世代医療データ利活用推進課」。
4. 日本医療研究開発機構(AMED)「創薬エコシステム推進事業課」。
5. 日本医療研究開発機構(AMED)「医薬品研究開発課」。
6. 内閣官房・健康・医療戦略推進本部「第3期医療分野研究開発推進計画(2025〜2029年度)」。
7. 日本医療研究開発機構(AMED)「第3期医療分野研究開発推進計画の実行状況について(令和7年度版)」。
