イギリス「安楽死」合法化案、議会攻防で頓挫
反対派は安楽死制度が導入されれば高齢者や障がい者、社会的に弱い立場の人々が「家族への負担を減らしたい」という心理的圧力を感じて死を選ぶリスクがあると主張する。
.jpg)
イギリス議会で終末期の成人が医師の支援の下で自らの死を選択できるようにする「安楽死合法化」を目指す法案が、大きな政治的対立により成立の見通しを失いつつある。下院(庶民院、定数650)では可決に成功したものの、上院(貴族院)で強い反発に直面し、法案は事実上行き詰まっている。
問題となっているのは「終末期成人法案(Terminally Ill Adults ”End of Life” Bill)」で、余命が限られた終末期の成人が自発的に死を選ぶことを医師の支援付きで合法化する内容を含む。立法はイングランドおよびウェールズを対象とし、本人が判断能力を有し、二人の医師の承認や文書による申請など複数の条件を満たす場合に限り適用する厳格な要件が設けられていた。
この法案は2025年6月、下院で賛成314ー反対291という僅差で可決された。これにより安楽死合法化は大きな前進を果たしたかに見えたが、その後の審議が難航。上院は法案内容について、「弱い者を十分に守れていない」「強い社会的圧力が弱者に死を選ばせる可能性がある」といった懸念を表明し、数百にも及ぶ修正案を提出。法案支持側が了承したのはわずか2件にとどまり、両院間の対立が深刻化した。
反対派は安楽死制度が導入されれば高齢者や障がい者、社会的に弱い立場の人々が「家族への負担を減らしたい」という心理的圧力を感じて死を選ぶリスクがあると主張する。また、緩和ケアの充実こそが優先されるべきであり、安楽死の合法化は問題の本質的な解決にならないとの見方を示している。
一方、支持派は耐え難い痛みや苦しみに直面する患者に選択肢を与えることは「人間の尊厳」に関わる基本的な権利だと訴える。世論調査では、条件付きではあるものの約8割の国民が安楽死合法化に賛成しているとされ、社会的支持は比較的高い。だがこの支持は単純な賛成というよりも、慎重な制度設計を求めるニュアンスを含んでいると分析されている。
イギリスでは現在、医師による自殺幇助は1961年施行の自殺法により禁じられ、違反すれば最大で14年の禁錮刑が科される可能性がある。このため、毎年数十人規模のイギリス人が安楽死が合法のスイスなど海外に渡って自らの死を選んでいるという。安楽死合法化の議論は、こうした現状を変えることを目的に進められてきた。
上院での対立が長引く背景には、法案の措置や手続きの厳格さに対する意見の隔たりがある。例えば当初は高等法院(裁判所)の承認を要件とする案が盛り込まれたが、審査能力の限界などを理由にこの要件が削除された経緯があり、一部議員の反発を招いた。上院では数百もの修正案が提案され、支援側が受け入れなかったことが両院の溝をさらに深めている。
また、議会手続き上の時間切れも大きな要因となっている。法案は上院での審議時間が限られているため、十分な審議を行うことができず、議会会期中に成立しない可能性が高いとの見方が出ている。このため、法案は今国会での成立を断念せざるを得ない状況にあり、両院の「綱引き」は失敗の様相を呈している。
政治的な影響も無視できない。スターマー(Keir Starmer)首相は個人的に法案に賛成しているが、党議拘束を設けず各議員の良心に委ねる形を取っているため、政府として積極的に関与することには慎重な姿勢を示している。また、5月に予定される地方選挙を控え、安楽死を巡る議論が政治争点化する可能性も指摘されている。特にポピュリスト政党が反対姿勢を強めるなど、政治的な緊張が高まっている。
支持派は上院の壁を乗り越えるため、パーラメント法(Parliament Act)を適用し、上院の同意を経ずに法案を成立させる可能性も検討しているが、その実現は容易ではないとの見方が強い。また、次期議会会期での再提出を目指す動きもあるが、法案の成否は依然として不透明なままである。
安楽死を巡る議論は個人の自己決定権と社会的弱者の保護という根本的な価値観の対立をはらんでおり、イギリス社会に深い分断をもたらしている。制度設計や倫理面、公衆衛生の観点からの慎重な検討が求められる中、法案が再び議会で扱われる日が来るかは不透明である。
