目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
・ナゴルノ・カラバフ紛争
基本情報(目次に戻る
国名:アルツァフ共和国(Republic of Artsakh)
・ナゴルノ・カラバフ共和国と呼ばれている。
・アゼルバイジャンの土地と公式に認められている。
・アルメニア人によって運営されている。
・アゼルバイジャンとアルメニアの紛争地。
・国家として認めている国は3国のみ。
・アメリカの一部の州は独立を認めている。(連邦政府は認めていない)
・独立記念日は12月10日。
首都:ステパナケルト(Stepanakert)
人口:150,932人(2015年推定)
面積:11,430㎢
気候:温暖
・年平均気温は10~13℃
・7月は22~30℃、暖かく過ごしやすい。
・山間部エリアの年間降水量は600~700mm。
・国道の36%は森林エリア
・国内の植物数は2,000種以上
経済:
・開発途上国
・金と銅の採掘が進められている。
・GDPは不明
・ワインの生産と販売に力を入れている。
・過去10年ほどで観光客が大幅に増加した。
・有名観光地の救世主大聖堂は紛争で半壊した。
・アゼルバイジャン政府の許可なく入国した場合、不法占拠された土地に立ち入ったと見なされる。
・不法入国(扱い)された者の情報はオンラインで一般公開される。
・首都ステパナケルトには空港がある。しかし、アゼルバイジャン政府はこの運用を認めず、不法占拠地帯に近づく航空機は撃墜すると警告しており、使用されたことは一度もない。
人種:人口の99.7%はアルメニア人(2015年推定)
・ロシア人(0.1%)
・グルジア人
・ウクライナ人
・その他
言語:アルメニア語
宗教:キリスト教
・軍当局は国内の宗教活動を禁じている。
ナゴルノ・カラバフ(アルツァフ共和国)
政治(目次に戻る
大統領:アライク・ハルチュニャン(Arayik Harutyunyan)
政治体制:複数政党制
・議会は33人の国会議員で運営されている。
・1党が過半数を占めることはまずない。
法律:アルツァフ共和国の憲法
・2017年の国民投票で承認された。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・アゼルバイジャンとの国境周辺では退避勧告発令中。(2020年10月時点)
治安:非常に悪い
・アルメニアーアゼルバイジャン間の紛争は継続中。
・アルメニアでは戒厳令が発令されている。
・アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)内での戦闘は継続中。
・ロシアの仲介で停戦強引に至ったものの、戦闘は散発的に続いている。(2020年10月時点)
・入国はおすすめしない。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は1社のみ
・テレビ局はない
・ラジオ局はない
・インターネットは首都ステパナケルトなどで利用可能
【国営メディア/設立年】
なし
【その他メディア】
・Azat Artsakh
軍隊(目次に戻る
2020年軍事力ランキング:-位
・軍人数:18,000人(推定)
即戦力 18,000人
予備兵 0人
・主力は陸軍(海軍は保有していない)
・国防予算:-億ドル
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1700年代
・18世紀以前、現在のアルツァフ共和国およびアゼルバイジャンは「ハチェン公国」の一部だった。
・その後、ハチェン公国は5つの小さな公国に分割される。
・5つの公国を含む周辺一帯はペルシャ帝国の支配下に置かれていた。
・1722年、ロシア・ペルシャ戦争が始まる。ロシア軍は公国の一部を奪取し、これに勇気づけられたアルメニア人はグルジア人と連携、現在のアルツァフ共和国エリアに軍を集めた。
・同年、現在のアルツァフ共和国の一部にオスマン帝国が侵攻、占領する。市民は戦火に飲み込まれた。
・1733年、土地を占領されたアルメニア人が蜂起、オスマン帝国軍兵士を虐殺する。
・1748年、カラバフ・ハン国(アルツァフ共和国の前身)設立。
・以降、領土争いが激化し、カラバフ・ハン国および周辺地域の情勢は著しく悪化した。
1800年代
・1813年、カラバフ・ハン国やジョージアなどは、ロシア・ペルシャ戦争を制したロシア帝国に併合された。
・1822年、カラバフ・ハン国は解体、ロシア帝国の一部になった。
・1826年、ペルシャ軍が旧カラバフ・ハン国エリアに侵攻する。しかし、ロシア軍がこれを阻止し、市民(アルメニア人)は保護された。
・1828年、多くのアルメニア人がペルシャからアルメニア地方に移住した。なお、旧カラバフ・ハン国に移住したアルメニア人は200人ほどだった、と記録されている。
・1823年に行われたロシア帝国国勢調査によると、現在のアルツァフ共和国の都市、シュシャ市民(約1,100人)の72.5%はアゼルバイジャン人、27.5%がアルメニア人だったという。
・1897年の国税調査の結果、シュシャ市民(約25,600人)の43.2%はアゼルバイジャン人、56.5%がアルメニア人だった。
・多くのアルメニア人が現在のアルツァフ共和国に移住したことで、アゼルバイジャン人の立場は弱くなった。
1900年~第一次世界大戦
・1905年のロシア革命後、アルメニア人とアゼルバイジャン人の武力衝突が頻発する。
・1918年、アルメニア民主共和国、アゼルバイジャン民主共和国(旧カラバフ・ハン国領土を含む)、グルジア民主共和国が独立を宣言する。
・1918年3月、アルメニアとアゼルバイジャンの民族および宗教的緊張が高まる。
・この時、アゼルバイジャンの旧カラバフ・ハン国領土内はアルメニア人の土地になっていた。
・アゼルバイジャン政府は、旧カラバフ・ハン国領土を自国のものと宣言する。しかし、そこに住むアルメニア人は宣言を拒否した。
・1918年7月、アルメニア人は旧カラバフ・ハン国で議会を招集、「ナゴルノ・カラバフ」の独立を宣言し、人民政府を配置した。
・1918年7月24日、ナゴルノ・カラバフ人民政府宣言が採択された。
・1918年9月、人民政府は「ナゴルノ・カラバフのアルメニア国民評議会」と名を改める。
・1918年10月、オスマン帝国が第一次世界大戦の敗北を認める。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・1919年、アゼルバイジャン政府はイギリスの援助を受け、ナゴルノ・カラバフに侵攻する。
・1919年1月15日、アゼルバイジャン政府はナゴルノ・カラバフの国民評議会に領土を明け渡すよう要求した。
・1919年2月19日、ナゴルノ・カラバフの国民評議会はアゼルバイジャンの要求を拒否。
・1919年8月22日、ナゴルノ・カラバフの国民評議会はパリ講和会議に合意した。
・1920年2月19日、アゼルバイジャンはナゴルノ・カラバフに対し、「編入の問題」を解決するよう再度要求。しかし、国民評議会はこれを拒否した。
・1920年2月22日、アゼルバイジャン軍がナゴルノ・カラバフに侵攻、シュシャなどの市民(アルメニア人)を虐殺した。
・1920年3月、アゼルバイジャンとの戦い、「ナゴルノ・カラバフ紛争」が始まる。
・戦闘は1カ月ほど続き、2万~4万人のアルメニア人が死亡した(推定)。
・1920年4月、ナゴルノ・カラバフの国民評議会は、同地をアルメニアの一部と宣言した。しかし、この宣言はソビエト連邦に破られ、アゼルバイジャンはナゴルノ・カラバフの支配権を取り戻した。
・1921年7月4日、ソビエト連邦はナゴルノ・カラバフをソビエトアルメニアに統合すると発表。しかし、この決定はスターリンの介入で破棄され、同年7月5日、ソビエトアゼルバイジャンに留まることが決まった。
・1923年、スターリンの後ろ盾を得たソビエトアゼルバイジャンは、ナゴルノ・カラバフ自治州を設立した。
・ナゴルノ・カラバフ(アルツァフ共和国)の市民は、スターリンの陰に隠れて好き放題したアゼルバイジャン政府への怒りを募らせた。
終戦~現在
・1988年2月、ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの併合を求める国民投票(非公式)が行われ、可決される。この結果を受け、ソビエト連邦はアゼルバイジャンにナゴルノ・カラバフの離脱を許可するよう求めた。
・1988年2月24日、アゼルバイジャン政府はソビエトの申し出に憤慨し、ナゴルノ・カラバフ(アルメニア軍)と小競り合いを開始、両軍合わせて100人近くの死傷者を出した。
・以降、ナゴルノ・カラバフをめぐる小さな争いが各地で発生し、数百名の死者を出す。
・1988年2月20日、ナゴルノ・カラバフ紛争が再燃する。
【ナゴルノ・カラバフ紛争(1988年~1994年)の死者数】
・アルメニア(ナゴルノ・カラバフ)軍:6,000人(推定)
・アゼルバイジャン軍:40,000~50,000人(推定)
・1991年、ソビエト連邦崩壊。アルメニア、アゼルバイジャン、アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)が独立を宣言する。なお、アルツォフ共和国の独立は非公式。
・1994年5月12日、ロシアの仲介により、アルメニアとアゼルバイジャンが停戦に合意。アルツォフ共和国の独立が事実上認められる。
・アルツァフ共和国および隣接する地域で生活していたアゼルバイジャン人は、土地を追われた。
・2020年9月27日、ナゴルノ・カラバフ紛争が再々撚する。
・2020年10月9日、ロシアの仲介により、アルメニアとアゼルバイジャンが一時停戦に合意。しかし、合意直後に戦闘が勃発、戦いは現在も続いている。
ナゴルノ・カラバフ紛争
・2021年3月9日、野党議員と数千人の支持者たちが首都エレバンの国会議事堂を占領。
・2021年2月27日、アルメン・サルキシャン大統領が軍のトップに対して出された解任要求を却下。
・2021年2月25日、ニコル・パシニャン首相が軍将校を解任すると発表。
・2021年1月11日、ロシア、アゼルバイジャン、アルメニアによる3カ国首脳会談。ナゴルノ・カラバフをめぐる紛争で麻痺した地域の輸送ルートの再開について話し合う。
・2020年12月13日、アゼルバイジャンの国防省、アルメニア軍の攻撃で兵士4人が殺害されたと発表。
・2020年12月12日、アルメニアとアゼルバイジャン当局、ナゴルノ・カラバフ紛争の和平協定に違反したとお互いを非難。
・2020年12月5日、アルメニア、ニコル・パシニャン首相の辞任を求める大規模な抗議活動が行われる。
・2020年12月1日、アゼルバイジャン政府、アルメニア軍から取り戻したナゴルノ・カラバフの一部地域の開拓を完了したと宣言。
・2020年11月16日、トルコ議会、アゼルバイジャンとアルメニアの和平協定を監視する平和維持軍派遣を承認。
・2020年11月16日、アルメニアのゾラブ・ムナサカニャン外相、辞任。
・2020年11月11日、アルメニア市民がアゼルバイジャンとの和平協定に抗議。国会を占領し、首相の辞任を求めた。
・2020年11月9日、アルメニア、アゼルバイジャン、ロシアがナゴルノ・カラバフの紛争を終結させる和平協定に調印。
・2020年11月9日、アゼルバイジャンの領土であるナヒチェヴァン自治共和国付近を飛行していたロシアの軍用ヘリ「Miー24」がミサイル攻撃を受け墜落。アゼルバイジャンはロシアに対し、誤った撃墜したと謝罪した。
・2020年11月8日、アゼルバイジャン軍がナゴルノ・カラバフの戦略的に重要な町、シュシャをアルメニア軍から奪取。
・2020年11月、中東の過激派勢力2,000人が紛争に加わったと伝えられている。アルメニアはアゼルバイジャンの同盟国、トルコが関与したと非難。
・2020年10月28日、アゼルバイジャンのバルダ県への空爆(クラスター爆弾)で民間人21人が死亡。
・2020年10月25日、アメリカの仲介による停戦合意が破綻。戦闘再開。
・2020年10月25日、アメリカの仲介でアルメニアとアゼルバイジャンが停戦に合意。
・ロシアのプーチン大統領によると、9月末からの戦闘で少なくとも5,000人が死亡。.
・2020年10月17日。10月9日の停戦合意は破綻し、民間人13人が死亡、40人以上が負傷した。
・約4,400平方キロメートルの山岳地帯。
・キリスト教のアルメニア人とイスラム教徒のトルコ人が生活していた。
・ソビエト連邦時代、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンの自治区に加えられた。
・公式にはアゼルバイジャンの領土と認められているが、人口の大部分はアルメニア人で構成されている。
・現在、ナゴルノ・カラバフは分離主義勢力(自称当局)に占領されている。
・ナゴルノ・カラバフの大統領(自称)はアライク・ハルチュニヤン。
・自称当局は、アルメニアを含む全ての国連加盟国に認められていない。
・1988年から1994年の紛争で約3万人が死亡、推定100万人が避難を余儀なくされた。
・1994年の停戦合意後も膠着状態は続いていた。
・アルメニアは分離主義勢力(自称当局)を認めていない。
・アゼルバイジャンは「分離主義勢力=アルメニア軍」と認識している。
・トルコはアゼルバイジャンを積極的に支援している。
・ロシアはアルメニアに軍事基地を持っている。
文化(目次に戻る
・国内の有形無形の遺産は「アルツァフ文化遺産」と呼ばれ、政府が管理している。
・キリスト教関連の歴史的建造物(修道院、教会、礼拝堂など)が多数残されている。
【有名な建築物】
・アマラス修道院
・救世主大聖堂
・ハンダバード城
・アスケラン要塞
・ハチュカル(十字架を形どった石のモニュメント)
・グティチャバンク修道院
・ダディヴァンク修道院
・アルツァフ共和国固有のフレスコ画はほとんど残っていない。
・アルツァフ織物(シルク)が有名。国際展示会などに出展することも多い。
・アルツァフ共和国の名物料理は新鮮なハーブを練り込んだフラットブレッド「Zhingalov khats」。
・アルメニア料理が主食。
スポーツ(目次に戻る
・人気スポーツはサッカー。
・アルツァフ・フットボールリーグが2018年に結成された。
・アルツァフ共和国代表サッカーチームは2012年に結成された。ただし、FIFAとUEFAに承認されていないため、ワールドカップや欧州選手権に出場する権利はない。
・アルツァフ共和国主催の「2019 Sportsbet.io CONIFA欧州サッカーカップ」が2019年に開催された。
・サッカー以外のスポーツは個人レベルで行われているものばかり。
・オリンピックの出場実績なし。
その他(目次に戻る
・アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)をめぐる紛争は続いている。
・入国はおすすめしない。
・紛争さえなければ、温暖で非常に過ごしやすい。