武田信玄:あの有名な「不敵な髭面・僧形の肖像画」のモデルは誰か?
成慶院本は、現在も「武田信玄の肖像」として極めて有名な作品である。しかし、その知名度と、肖像画に描かれた人物が武田信玄本人であることの確実性は、同じ問題ではない。
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「武田信玄」の肖像画として最も広く知られている作品の一つに、高野山成慶院に伝来した「武田信玄像」がある。現在は原本そのものではなく、東京国立博物館などに伝わる模本を通じて広く知られているが、近年の研究では、この肖像画を本当に武田信玄とみなしてよいのかという根本的な疑問が提示されている。東京国立博物館も現在の作品解説で、信玄の肖像として有名である一方、「能登の戦国武将・畠山義続を描いたとする別人説」が提唱されていることを明記している。
つまり、現在の研究状況は「有名な信玄像が偽物だった」という単純な話ではない。正確には、長年「武田信玄像」として伝承されてきた肖像画について、そこに描かれた人物を信玄と断定できるだけの史料的根拠が十分なのか、そして肖像そのものが示す人物・家紋・制作地域・作者の経歴を総合すると、別の戦国武将を想定した方が説明しやすいのではないか、という問題が提起されているのである。
この問題を考えるうえで重要なのは、肖像画そのものの見た目だけではない。戦国時代の肖像画は、後世に人物名が付されたり、寺院への伝来過程で人物比定が固定化したりすることがあるため、作者、制作地、服装、家紋、伝来記録、同時代史料を相互に照合する必要がある。
一方で、「成慶院本は絶対に信玄ではない」とまで結論づけることにも慎重さが必要である。現在確認できる専門機関の説明も「別人説が提唱されている」としており、別人説を確定した事実として扱ってはいないためだ。
問題の肖像画の概要(通称「成慶院本」)
問題となっている作品は、高野山成慶院に伝来した「武田信玄像」である。原本は安土桃山時代、16世紀の作品とされ、作者は長谷川等伯とされているが、現在一般に目にする機会が多いのは、明治時代に山名貫義が模写した東京国立博物館所蔵の「武田信玄像(模本)」である。
この肖像の最大の特徴は、一般的な武田信玄のイメージとして定着している、巨大な体格と剃髪した僧形の人物ではなく、髭を蓄えた武将が正面に近い姿勢で描かれている点にある。口髭と顎髭を伸ばした顔、鋭い目つき、やや厳しい表情から、戦国大名らしい威圧感を感じさせる肖像として長く受け入れられてきた。
そのため、現代の歴史番組、歴史書、人物紹介などでは、この画像が「武田信玄の肖像」として掲載されることが非常に多い。信玄を扱った図版を検索すると、この成慶院本系統の画像が登場することが多く、一般社会における信玄の顔のイメージ形成にも大きな役割を果たしてきた。
ところが、肖像そのものを細かく観察すると、信玄の肖像としては無視できない問題が浮上する。特に重要なのが、人物の身につけた武具などに描かれた家紋であり、ここから「本当に武田氏の当主を描いたのか」という疑問が生まれることになる。
さらに作者とされる長谷川等伯の経歴を調べると、別の問題が現れる。等伯は能登を活動基盤の一つとしており、その地域には戦国期の能登畠山氏という有力大名が存在していたため、肖像画の制作事情を考えると「甲斐の武田信玄」だけを候補とする必然性が薄くなるのである。
世間の認知
成慶院本が信玄像として広く認知された背景には、高野山と武田家との深い関係がある。高野山の寺院には武田家ゆかりの肖像や遺品が伝来しており、現在の持明院にも武田信虎・武田信玄・武田勝頼の肖像画が所蔵されているため、「高野山に伝わった信玄像」という情報そのものには一定の歴史的説得力がある。
しかし、ここで「武田家ゆかりの寺院に伝来した」という事実と、「その肖像に描かれた人物が武田信玄である」という事実を区別する必要がある。伝来先が武田家の菩提寺だったことは重要な証拠ではあるものの、それだけで肖像の像主を確定することはできないからである。
むしろ成慶院本をめぐる現在の議論で重要なのは、伝来先の情報だけを採用するのではなく、肖像画そのものに残された情報を検証することである。そこで最初に問題となるのが、武田信玄の肖像であるなら当然整合しているはずの「家紋」である。
「モデルは武田信玄ではない」とされる根拠
成慶院本の像主を武田信玄とすることに疑問が呈された大きな理由の一つが、肖像に描かれた家紋である。研究上、この点は単なる細部ではなく、描かれた人物の所属を推定するための重要な手掛かりとして扱われている。
さらに、作者とされる長谷川等伯と武田家との直接的な接点が確認できないことも問題となる。これに対して等伯は能登との関係が深く、能登畠山氏との地理的・人的な接点を考える方が自然だとする見方が生まれた。
そして第3の問題が、他の武田信玄像との比較である。特に高野山持明院に現存する「武田晴信(信玄)像」は、武田家との伝来関係が明確で、武田家の家紋や武田氏に結びつく意匠を備えているため、成慶院本と比較することで両者の違いが浮かび上がる。持明院の公式資料によれば、この作品は作者不詳ながら、若き日の武田晴信の寿像とされ、直垂には花菱紋とつがいの鷺の図様が描かれている。
したがって問題は、「顔が信玄に似ているか」という主観的な比較ではない。家紋、作者、制作地域、伝来、服装、他の信玄像との一致・不一致を総合した場合、成慶院本を武田信玄とする従来の比定をどこまで維持できるのかという、史料批判の問題なのである。
① 武田家の家紋と描かれている家紋の矛盾
成慶院本をめぐる議論で最も重要な論点の一つが、肖像画に描かれた家紋である。一般に武田信玄の家紋として知られているのは「武田菱」と呼ばれる四つの菱形を組み合わせた図柄だが、実際の武田家当主が用いた家紋については、江戸時代以降に形成された「武田信玄=武田菱」というイメージだけで判断してはならない。
国立国会図書館のレファレンス資料が藤本正行の研究などを整理しているように、武田家当主の正式な家紋として特に重要なのは花菱である。信玄に伝来するとされる文箱や、信頼性の高い武田家当主ゆかりの甲冑などを調べると、花菱が確認される一方、一般に「武田菱」と呼ばれる割菱は、幕などの消耗品や後世の図像で使用された可能性を含めて区別する必要がある。
したがって、「成慶院本に武田菱がないから信玄ではない」という説明だけでは正確ではない。より重要なのは、成慶院本の腰刀や太刀に描かれている紋が、武田氏の花菱・割菱とは異なる「二引両」と解釈されている点である。
二引両は、円の内部に2本の横線を描いた紋であり、足利氏およびその一族・分流に広く使用された。細川、今川、吉良、斯波、畠山などにも関連するため、これだけで特定の一族まで絞り込むことはできないが、少なくとも「武田家の当主を描いた肖像」として考えた場合には説明を必要とする図像なのである。
ここで重要なのは、家紋の存在をどう評価するかである。肖像画に描かれた紋が本人の家紋なのか、それとも本人が所持した刀や拝領品などに付された別家の紋なのかによって、意味は大きく変わるからだ。
信玄説を維持する立場からは、二引両を信玄本人の家紋ではなく、足利将軍家などから拝領した刀に付された紋と解釈する可能性が示されてきた。つまり、武田家の家紋が描かれていないことを、そのまま「武田信玄ではない」という決定的証拠にはできないという反論である。
しかし、この反論にも問題が残る。肖像画に描かれた刀が本当に足利将軍家から信玄に贈られたものだったことを示す同時代史料が確認できなければ、「二引両=将軍からの拝領品」という説明は、成慶院本を信玄像とするための仮説にとどまるからである。
ここに肖像画研究の難しさがある。家紋が一致しないことだけで別人と断定することもできない一方、信玄であることを前提にして「この紋は拝領品だから問題ない」と説明してしまえば、証明したい結論を使って証拠を説明することになってしまう。
藤本正行が問題にしたのも、このような史料上の循環である。成慶院本を信玄像とする確実な同時代史料が存在し、そのうえで二引両の意味を考えるのであれば話は別だが、そもそもこの肖像を信玄像と特定できる根拠そのものが十分なのかが問われているのである。藤本の著書『武田信玄像の謎』では、この問題を含め、家紋、髪型、作者、伝来などから従来の像主比定が再検討されている。
さらに注意すべきなのは、「武田菱」という言葉自体が現代人の想像するほど単純な意味を持たないことである。山梨県立図書館の調査資料でも、武田氏の家紋として武田菱と花菱の双方が挙げられる一方、信玄本人については花菱を重視する資料が紹介されている。
この点を踏まえると、成慶院本の家紋問題は「武田菱がない」という話ではない。武田氏当主の肖像として描くなら、なぜ武田家の主要な紋ではなく、足利一門に広く用いられた二引両が刀に明確に描かれているのかという問題なのである。
② 作者・長谷川等伯と武田家の接点のなさ
第2の大きな問題が、作者とされる長谷川等伯と武田信玄との関係である。成慶院本の原本は長谷川等伯、より正確には能登時代の号である長谷川信春の作品とされ、東京国立博物館も「武田信玄像」を長谷川等伯(信春)筆として扱っている。
長谷川等伯は1539年に能登国七尾で生まれたとされる。東京国立博物館などの資料によれば、幼少期から能登で活動し、能登時代には長谷川信春の名で仏画や肖像画を制作しており、その作品は現在の石川県を中心とする地域に残っている。
さらに注目されるのが等伯の家系である。等伯の実父は畠山家の家臣だった奥村文之丞とされ、養父の長谷川宗清は染色業を営んでいたとされるため、等伯は能登の政治・社会環境から完全に切り離された画家ではなかった。
一方、武田信玄の本拠地は甲斐である。信玄と等伯との間に、等伯が信玄から直接肖像画を依頼されたことを示す確実な史料や、両者の具体的な接触を裏付ける記録は現在確認されていない。
ここで「等伯が信玄を描くことは不可能だった」と考える必要はない。戦国時代の肖像画では、本人と画家が直接会わなくても、別の肖像をもとに制作したり、依頼者を介して制作したりすることがあり得るため、接点が確認できないことだけで信玄説を否定することはできない。
問題は、反対方向の事情である。等伯が能登を活動基盤としていたこと、そして能登には畠山氏という有力な戦国大名が存在したことを考えると、等伯が能登の畠山氏関係者を肖像画のモデルとした可能性は、少なくとも歴史的環境として十分に成立する。
東京国立博物館が紹介する別作品「伝名和長年像」も、この問題を考えるうえで重要である。この作品も長谷川等伯の作とされるが、現在では南北朝時代の名和長年本人ではなく、能登畠山氏に関係する人物ではないかという説が提起されている。
つまり、等伯の能登時代の肖像画については、後世に付された人物名をそのまま受け入れるのではなく、制作地域や人物関係を含めて像主を再検討する動きがすでに存在している。成慶院本だけが特別に疑われているのではなく、等伯の肖像画そのものに「伝称された人物と実際の像主は一致するのか」という美術史上の問題が存在するのである。
この点は、成慶院本の評価を大きく変える。もし等伯の能登時代の作品群に、能登畠山氏に関係する人物を描いた可能性が複数認められるなら、成慶院本についても「信玄であることを前提にして等伯との接点を探す」のではなく、「等伯が当時誰を描くことができたのか」という逆方向から検証する必要が出てくる。
実際、等伯と能登畠山氏との関係については、長谷川信春の能登時代の活動を研究した遠藤幸一らの研究があり、等伯が畠山氏の政治的環境の中で活動していた可能性が論じられてきた。また、能登畠山氏の人物を成慶院本の像主候補とする議論も、こうした等伯の経歴を背景として形成された。
③ 「家紋」と「作者」を組み合わせて考える
ここまでの2つの論点を別々に見ると、どちらも決定打とは言いにくい。二引両が描かれているからといって信玄ではないと断定できるわけでもなく、等伯と信玄の直接的接点が確認できないからといって、等伯が信玄を描けなかったと証明できるわけでもない。
しかし、歴史研究では複数の弱い証拠が同じ方向を示す場合、その組み合わせが重要になる。成慶院本については「武田家の主要な家紋とは異なる二引両」「等伯と信玄の直接的接点を示す史料が確認できない」「等伯自身は能登畠山氏と接点を持つ環境にいた」という3つの事情が同時に存在する。
もちろん、これだけで像主を畠山義続と確定することはできない。むしろ現段階で確実に言えるのは、「成慶院本を武田信玄とする従来の比定には、検証すべき複数の問題点が存在する」というところまでである。
そして、ここからさらに重要になるのが、成慶院本そのものと、他の「武田信玄像」を比較する作業である。特に高野山持明院に伝わる武田晴信像は、武田家との関係が明確な別系統の肖像として存在するため、両者を並べることで、信玄像の「確度」を考える手掛かりになる。
他の「信玄・武田一族の肖像画」と比較する
成慶院本を評価するうえで重要なのは、単独で作品を見ることではない。武田信玄本人や、その父信虎、子の勝頼について伝来が確認されている肖像画と比較し、人物の描き方、服装、家紋、制作・伝来事情にどのような共通点と相違点があるのかを見る必要がある。
とりわけ重要なのが、高野山持明院に伝来する武田晴信(信玄)像である。持明院の公式資料によれば、この作品は絹本著色で無落款、作者不明とされるが、「甲斐の虎」として知られる武田信玄の若年期の寿像と伝えられており、現在は高野山霊宝館に収蔵されている。
この持明院本は、成慶院本とは外見上かなり異なる。人物は上畳に座り、侍烏帽子をかぶり、直垂を着用し、右手に中啓を持つ姿で描かれているため、一般に知られる「僧形の信玄」というイメージとは一致しない。
ここで重要なのは、戦国武将の肖像画では「僧形だから信玄」「髭があるから信玄」というような外見上の特徴だけでは人物を特定できないことである。肖像画には、その人物が生前に制作を依頼した寿像、死後に追善供養のため制作された像、既存の画像をもとにした後世の模写など、複数の成立形態が存在するからである。
高野山持明院所蔵「武田晴信(信玄)像」
持明院本で特に注目されるのが、直垂に描かれた花菱紋である。持明院の公式説明は、この作品について「花菱の紋」と「つがいの鷺の図様」が直垂に描かれていると明記している。
この点は成慶院本との比較において重要である。成慶院本では刀に二引両と解釈される紋が確認されるのに対し、持明院本では武田家との関連を考えるうえで重要な花菱が人物の衣服に明確に組み込まれているからである。
もちろん、これだけで持明院本を「完全に真正な信玄像」と断定することもできない。持明院自身が作者を不明としていることからも分かるように、肖像画研究では作品の制作時期、作者、伝来、像主の関係を一つずつ確認する必要がある。
それでも持明院本には、成慶院本にはない重要な特徴がある。すなわち、武田家に伝来する複数の肖像画と同じ寺院に関係し、信玄だけでなく父信虎、子勝頼の肖像も伝えられているという点である。
持明院は公式に、武田家、土屋家、京極家などの大檀主の供養や祈願を行ってきた寺院である。また、武田信虎像、武田信玄像、武田勝頼妻子像を所蔵しており、武田家との関係が単独の肖像画だけから成り立っているわけではないことが確認できる。
特に勝頼妻子像については、持明院の説明に具体的な伝来事情が残されている。勝頼の遺言によって、甲斐の慈眼寺尊長和尚が肖像や遺品、金子などを高野山持明院へ届けたことが古文書に記録されているとされている。
さらに信虎像についても、持明院は勝頼妻子像と同じく慈眼寺尊長によって納められた肖像と説明している。つまり、持明院における武田家肖像の伝来には、少なくとも信虎と勝頼について具体的な歴史的背景が存在している。
この点を成慶院本と比較すると、伝来の質に差があることが分かる。成慶院本は「高野山成慶院に伝わった武田信玄像」という伝承自体が重要なのに対し、持明院の武田家肖像には、武田家との関係を裏付ける寺院側の伝承や古文書が組み合わされているのである。
「信玄像」として有名な成慶院本の特殊性
成慶院本が特異なのは、その肖像が現代人の持つ武田信玄像を強烈に規定していることである。堂々とした体格、剃髪した頭部、濃い髭、鋭い目つきという組み合わせは、現在「武田信玄」と聞いたときに多くの人が思い浮かべる姿になっている。
国立国会図書館の『武田信玄像の謎』の書誌情報も、成慶院本について「堂々たる体躯」「大入道のような頭」「鋭い眼差し」「髭をたくわえ威厳に満ちた容貌」の肖像として一般に知られていることを紹介している。ところが同書の中心的な問題設定は、まさに「像主は本当に信玄なのか」という点にある。
藤本正行の研究が重要なのは、この問題を単なる「顔が似ているか」という議論から引き離した点にある。国立国会図書館の同書の目次を見ると、藤本は髷、家紋、絵師長谷川信春の印、二引両紋、甲冑などを個別に検討したうえで、「これぞ信玄」と考えられる別の肖像を分析し、最終的に「畠山義続の登場」へ議論を進めている。
この研究構成そのものが重要な意味を持つ。つまり、「成慶院本を信玄とするかどうか」という問題は、単独の証拠によって一気に決着する問題ではなく、複数の図像資料を比較して最も矛盾の少ない説明を探す問題として扱われているのである。
成慶院本と持明院本の違い
両者を比較すると、最も目立つ違いは人物の姿勢と服装である。成慶院本は剃髪した人物を描いた、いわゆる僧形の肖像として知られるのに対し、持明院本は侍烏帽子を着用した若い武将として描かれている。
この違いは一見すると「どちらかが偽物なのではないか」という印象につながる。しかし、信玄自身が出家した後の姿と、出家以前の晴信時代の姿が異なるのは当然であり、持明院本が若年期の寿像とされていることを考えれば、両者の外見の差そのものは矛盾ではない。
むしろ重要なのは、人物の外見以外の部分である。持明院本には花菱紋が描かれ、武田家との伝来関係を示す資料も複数存在するため、像主を信玄とする際の根拠を、単なる顔貌以外にも求めることができる。
一方、成慶院本については、武田信玄と結びつけるために、二引両紋を拝領品の紋とする解釈や、後世の伝来を重視する必要が出てくる。つまり、成慶院本の信玄説には「描かれているものを説明する追加仮説」がより多く必要になるのである。
これは「仮説が多いから間違い」という意味ではない。歴史研究では複雑な説明が正しい場合もあるため、問題は、それぞれの仮説を裏付ける独立した史料が存在するかどうかにある。
武田信玄の肖像は1種類ではない
さらに注意すべきなのは、「本物の信玄像はこれ1枚」という考え方そのものが適切ではないことである。信玄は16世紀の人物であり、肖像画には生前に制作されたもの、死後に制作されたもの、さらに後世に模写されたものが混在しているため、作品ごとに成立事情を区別しなければならない。
東京国立博物館の資料でも、長谷川等伯(信春)筆の「武田信玄像」は16世紀の作品として扱われている一方、同じ等伯の肖像画には「伝名和長年像」など、人物の比定そのものが問題となっている作品が含まれている。
この「伝」という言葉は非常に重要である。「伝○○像」と記された場合、それは「現在の研究で○○本人だと確定している」という意味ではなく、伝承上その人物とされているという意味を含むからである。
したがって、成慶院本についても「武田信玄像」という現在の作品名だけを根拠にしてはいけない。作品名そのものが後世の伝承を反映している可能性があるため、像主を独立した史料によって再検討する必要がある。
「本物の信玄像」とは何か
では、どの肖像なら信玄本人を描いた可能性が高いのか。この問いに対しては、「武田信玄の顔を最も正確に描いた肖像」という意味ではなく、制作時期、伝来、家紋、人物関係などを総合して、信玄本人とする根拠が最も具体的な作品という意味で考えるべきである。
その観点から重要なのが、先述した高野山持明院本である。持明院本は作者不詳であるものの、若年期の武田晴信の寿像と伝えられ、花菱紋が描かれ、さらに同寺には信虎像や勝頼妻子像など武田家関係の肖像がまとまって伝わっている。
したがって、「成慶院本が偽信玄像で、持明院本だけが真の信玄像」という二者択一にするのも適切ではない。現段階で重要なのは、成慶院本の信玄比定には検証すべき問題があり、持明院本にはそれとは異なる種類の伝来・図像上の根拠が存在するという事実である。
「畠山義続説」への入口
ここまでの検証を踏まえると、次の問題が浮上する。もし成慶院本の像主が信玄ではないとすれば、いったい誰なのかという問題である。
その有力候補として登場するのが、能登畠山氏の当主である畠山義続である。これは単なる「信玄に似ていない人物を適当に選んだ説」ではなく、成慶院本の作者とされる長谷川等伯の能登時代、二引両という家紋、肖像画の制作環境などを組み合わせて考えた場合に浮上する説である。
国立国会図書館が掲載する藤本正行『武田信玄像の謎』の目次でも、最終部分に「接点のある人物」「畠山義続の登場」が置かれている。これは、藤本の議論が単に「信玄ではない」と指摘して終わるものではなく、代替となる具体的な像主候補を提示する方向へ進んでいることを示している。
では本当のモデルは誰なのか?(有力説)
ここまでの検証から分かるのは、成慶院本を武田信玄とする従来説には、家紋、髷、作者との接点、伝来記録の解釈など、いくつかの検討課題が存在するということである。一方で、「信玄ではない」とした場合に直ちに別人を確定できるわけでもなく、像主については現在も研究上の議論が残っている。
その中で特に注目されているのが、能登畠山氏の当主を描いた肖像ではないかという説である。東京国立博物館は現在、成慶院本について「能登の戦国武将・畠山義続を描いたとする別人説」が提唱されていると紹介しており、この説が現在の成慶院本研究を考えるうえで無視できない仮説となっている。
ただし、ここでも「畠山義続で確定した」と表現するのは正確ではない。国立国会図書館に登録された藤本正行の『武田信玄像の謎』は、最終章を「畠山義続の登場」としているものの、これは成慶院本の像主を直接証明する決定的な史料が発見されたという意味ではなく、従来の信玄説よりも整合性のある候補として義続が浮上する過程を論じたものと理解する必要がある。
有力説:能登畠山氏の当主(畠山義続など)
能登畠山氏が候補として浮上する最大の理由は、作者とされる長谷川等伯の出自にある。等伯は1539年、能登国七尾に生まれたとされ、実父は畠山家の家臣だった奥村文之丞であり、能登時代には長谷川信春の名で仏画や肖像画を制作していた。
これは極めて重要な事実である。成慶院本を信玄像と考える場合、甲斐を本拠とする武田信玄と、能登出身で能登を活動基盤としていた等伯との間に、肖像制作を成立させる具体的な接点を想定しなければならない。
もちろん、等伯が甲斐以外の人物を描いたからといって、信玄を描けないわけではない。戦国時代の肖像画は本人との直接面会を必要条件とするものではなく、既存の画像や第三者から提供された情報をもとに制作することも可能だからである。
しかし、問題となるのは「信玄を描いた可能性」と「能登の武将を描いた可能性」を比較した場合である。等伯の生育環境、父親の経歴、能登時代の活動実態を考えると、能登畠山氏周辺の人物を顧客・依頼者・肖像制作の対象として想定することには具体的な背景が存在する。
東京国立博物館によれば、等伯の能登時代の作品には肖像画が含まれ、その後の作品として成慶院本「武田信玄像」や「伝名和長年像」が位置づけられている。特に「伝名和長年像」は、現在では南北朝時代の名和長年本人ではなく、能登畠山氏に関係する人物、あるいは斎藤好玄ではないかという別の像主候補まで提示されている。
ここから見えてくるのは、等伯の肖像画には「後世に伝えられた人物名と、実際に描かれた人物が一致するのか」という問題が存在するということである。成慶院本だけを特別扱いするのではなく、等伯の肖像画をまとめて再検討する必要があるという点で、この問題は美術史上も重要である。
なぜ「畠山義続」なのか
能登畠山氏の歴代当主の中でも、とりわけ名前が挙がるのが畠山義続である。義続は能登守護畠山氏の当主で、等伯が活動していた16世紀中頃の能登政治史と時代的に重なる人物であり、肖像画の制作年代を考えるうえで候補になり得る。
また、成慶院本の二引両紋もこの説を考えるうえで重要である。二引両は足利氏とその一門に広く用いられ、畠山氏も足利一門に属するため、少なくとも家紋の系統という点では「武田氏より能登畠山氏の方が説明しやすい」という論理が成立する。
ただし、ここにも注意が必要である。二引両を使用したのは畠山氏だけではないため、「二引両がある=畠山義続」という一対一の対応は成立しない。
つまり、家紋は「信玄説に疑問を投げかける材料」にはなっても、「義続説を確定する材料」にはならないのである。義続説を成立させるには、家紋だけでなく、作者の出自、制作地域、制作年代、人物関係、肖像画の様式、伝来などを組み合わせる必要がある。
この点について藤本正行の研究は非常に興味深い。国立国会図書館が掲載する同書の目次には、「信春は信玄を描けたか」「接点のある人物」に続いて「畠山義続の登場」が置かれており、等伯と信玄との接点を検討した後に、別の具体的な人物として義続を登場させる構成になっている。
つまり義続説は、最初から「この絵は義続だ」と決めて進める議論ではない。むしろ「信玄説を支える証拠を一つずつ検討した結果、それらに問題があるなら、同時代の能登において等伯と接点を持ち得た武将は誰だったのか」という逆算から導かれる候補なのである。
畠山義続だけでなく「畠山氏の誰か」という可能性
さらに研究上は、畠山義続だけに候補を限定することにも慎重さが必要である。能登畠山氏は複数の当主と一族を擁しており、等伯が接触した可能性のある人物も1人とは限らない。
能登の長谷川等伯研究を扱う資料では、成慶院本について畠山義続だけでなく、畠山義総などの名前も候補として言及されている。したがって「能登畠山氏説」と「畠山義続説」は同義ではなく、前者の中でも特に義続が有力候補として取り上げられている、と整理する方が正確である。
この区別は非常に重要である。もし今後、肖像画に描かれた人物と特定の畠山家当主を直接結びつける新史料が発見されれば、現在の候補順位そのものが変わる可能性があるからだ。
「畠山義続の肖像」としての決定的証拠はあるのか
現時点で最大の問題は、成慶院本の人物を畠山義続と直接名指しする同時代史料が確認されていないことである。家紋や作者の出自から「畠山氏の人物ではないか」と推測することはできても、それだけで義続本人と断定することはできない。
この点は、成慶院本を信玄とする従来説にも共通する問題である。信玄説を否定する材料がいくつか確認されたからといって、その空白を自動的に義続という人物名で埋められるわけではない。
したがって現時点で最も慎重な表現は、「成慶院本は武田信玄像として伝来してきたが、その像主比定には疑問があり、能登畠山氏の当主、とりわけ畠山義続を候補とする説が有力な研究仮説の一つとなっている」というものである。
この表現なら、東京国立博物館が現在も「別人説」として紹介していることとも整合する。研究上の有力仮説と、史料によって確定された事実を区別することが重要なのである。
それでも「信玄説」は完全に消えたのか
ここで一度、反対側から考える必要がある。成慶院本を信玄ではないとする議論が存在する一方、信玄説には長い伝来史があり、単なる近代の誤認として片づけることもできないからである。
成慶院は武田信玄の菩提寺として知られ、信玄との関係を示す伝承がある。さらに、武田勝頼が信玄の画像や遺物を成慶院に納めたことを示す寄進状が存在することから、「高野山成慶院に信玄の肖像が伝わった」という大枠の伝承自体には歴史的背景がある。
ただし、ここで注意すべきなのが、その寄進状が現在の成慶院本そのものを指しているかどうかである。藤本正行の議論では、勝頼が信玄の画像を納めたことと、現在「成慶院本」と呼ばれる肖像画がその画像であることは別問題だとされる。
この区別によって、問題の構造が明確になる。「信玄の肖像が成慶院に納められた」ことと、「現在知られている等伯筆の肖像がその信玄像である」ことは、同じ命題ではないのである。
この2つを混同すると、成慶院に信玄像が伝わったという事実だけから、現在の肖像画の人物まで信玄だと結論づけてしまう。しかし肖像画研究では、伝来資料と現存作品を直接結びつけるための追加証拠が必要になる。
「伝承」と「像主比定」を分ける
成慶院本をめぐる議論から得られる最も重要な教訓は、歴史上の人物を描いた肖像画では、「誰の絵として伝わったか」と「誰が描かれているか」を分けて考える必要があるということである。
これは成慶院本だけの問題ではない。東京国立博物館が「伝名和長年像」について、名和長年以外に能登畠山氏関係者などの可能性を紹介していることも、肖像画の人物比定が後世の伝承によって変化し得ることを示している。
したがって、成慶院本の問題は「有名な信玄の顔が間違っていた」という単純な話ではない。むしろ、戦国時代の肖像画がどのように伝承され、後世の人々がどのような根拠によって人物名を付与してきたのかを考える格好の事例なのである。
現段階での評価
2026年9月時点で整理すると、成慶院本については「武田信玄像」という伝承が長く定着している一方、藤本正行による研究を中心として、その像主を再検討する議論が存在する。東京国立博物館も現在の作品解説で、畠山義続説を明確に紹介している。
その一方で、畠山義続説についても決定的な同時代史料が不足しており、「真のモデルは畠山義続だった」と断定する段階にはない。したがって現時点で最も妥当なのは、信玄説には相当程度の疑問が呈されており、能登畠山氏の人物を像主とする説が有力な代替仮説として存在するが、像主の最終確定には至っていないという整理である。
そして、この検証をさらに進めるためには、「信玄の本物の肖像とは何か」をもう一度確認する必要がある。
本物の「武田信玄(晴信)像」とされるもの
成慶院本の像主問題を考えるには、「では、武田信玄本人を描いた可能性が高い肖像とはどのようなものか」を確認する必要がある。ここで重要な比較対象になるのが、高野山持明院に伝来する「武田晴信(信玄)像」である。
持明院の公式資料によれば、この肖像は武田信玄の若年期、すなわち出家前の武田晴信を描いた寿像とされる。作者は不明であるが、人物は侍烏帽子をかぶり、直垂を着て、右手に中啓を持つ姿で描かれている。
この作品で特に重要なのが、直垂に描かれた花菱紋である。持明院はこの紋について明確に「花菱」と説明しており、さらに直垂にはつがいの鷺の図様も描かれている。
これは成慶院本との比較で重要な意味を持つ。成慶院本では刀に二引両と解釈される紋が描かれているのに対し、持明院本では武田家と結びつく花菱が人物の衣装そのものに表現されているからである。
もっとも、持明院本についても「作者不明」という問題は残る。したがって、持明院本だけを絶対的な基準として、それ以外の肖像画をすべて否定することはできない。
重要なのは、肖像画の人物比定において、複数の独立した情報が一致しているかどうかである。その点で持明院本は、花菱紋、武田晴信という伝承、武田家関係の肖像群、高野山における武田家との関係という複数の要素が重なっている。
高野山持明院と武田家
持明院の資料を確認すると、同寺と武田家の関係は単独の肖像画だけによるものではない。武田信虎像、武田晴信像、武田勝頼妻子像など、武田家に関係する複数の作品が伝来している。
特に勝頼妻子像については、持明院の公式説明が具体的な伝来事情を紹介している。武田勝頼の遺言によって、甲斐の慈眼寺尊長和尚が高野山持明院へ肖像や遺品などを届けたとされ、肖像の伝来を裏付ける古文書も伝わっている。
信虎像についても、持明院は慈眼寺尊長によって納められた肖像と説明している。つまり、持明院における武田家肖像は、単に「高野山の寺に武田信玄の絵がある」というだけではなく、武田家と寺院との継続的な関係の中で理解できる資料群なのである。
この点は、成慶院本を考えるうえで非常に重要である。成慶院にも武田信玄との深い関係があるため、伝来先だけでどちらが正しいと決めることはできないが、肖像画の像主を判断する場合には、寺院にどのような武田家資料がまとまって伝来しているかも考慮する必要がある。
成慶院本と持明院本を比較する
両作品の最大の違いは、人物の外見ではない。信玄は出家前と出家後で服装や髪型が変わるため、僧形と俗人姿の違いだけを根拠に両者を比較することはできない。
比較すべきなのは、家紋、制作環境、伝来、作者、年代、そして像主を裏付ける資料である。持明院本には花菱紋が描かれ、武田家に関係する肖像群の中に位置づけられる一方、成慶院本には二引両とされる紋が描かれ、その像主比定そのものが研究上の問題となっている。
さらに、成慶院本の作者とされる長谷川等伯は能登出身であり、青年期を能登で過ごしている。東京国立博物館の解説でも、等伯は1539年に能登国七尾に生まれ、能登時代には長谷川信春の名で活動したと説明されている。
したがって、成慶院本を信玄像とするには、「能登出身の等伯が甲斐の武田信玄を描いた」という制作事情を説明する必要がある。これに対して畠山氏説では、等伯の出身地、家族関係、活動地域と像主候補の地域が一致するため、少なくとも制作環境については説明が容易になる。
ただし、これは「能登で描かれたから能登の人物だ」という単純な論理ではない。等伯は後に京都へ移り、全国的な画家として活動しているため、能登出身であることだけから肖像のモデルを能登の人物に限定することはできない。
この点を踏まえても、信玄説と畠山氏説の双方に、それぞれ説明すべき点がある。だからこそ、家紋や伝来などの個別情報を組み合わせた総合的な検証が必要になる。
「成慶院本=信玄」をめぐる検証結果
これまでの検討をまとめると、最初に確認できるのは、成慶院本が長期間にわたり武田信玄像として伝承されてきたという事実である。高野山成慶院と武田家の関係も実在するため、その伝承を最初から根拠のないものとして扱うことはできない。
しかし、像主を具体的に検証すると問題が現れる。第一に、描かれた二引両が武田氏の代表的な家紋との関係で説明を必要とすること、第二に、作者とされる長谷川等伯と信玄との直接的な制作上の接点が明確ではないこと、第三に、等伯自身が能登を活動基盤としていたことが挙げられる。
さらに、成慶院本を信玄像とする伝承と、勝頼が信玄の肖像を成慶院に納めたという史料を同一視することにも注意が必要である。信玄の肖像が成慶院に納められたことと、現存する等伯筆とされる成慶院本がその肖像であることは、別々に証明しなければならない命題だからである。
一方、能登畠山氏説には、等伯の出生地と活動歴、畠山氏との人的関係、二引両という紋の存在など、複数の要素がある。東京国立博物館が畠山義続説を現在も紹介していることからも、この説が単なるインターネット上の俗説ではなく、美術史・肖像画研究の文脈で検討されていることが分かる。
ただし、ここから「したがってモデルは畠山義続である」と断定することはできない。義続本人を像主と明記する同時代の肖像銘や制作記録が確認されていない以上、現状では「有力な別人説」と位置づけるのが妥当である。
有力説をどう評価するべきか
「武田信玄ではない」という説と、「畠山義続である」という説は、同じ強さの命題ではない。前者は、従来の像主比定に複数の疑問を提示する議論であり、後者は、その疑問を説明する代替モデルとして提示された仮説だからである。
この違いは非常に重要である。信玄説の根拠に問題があることが確認されたとしても、それだけで義続説が自動的に証明されるわけではないからだ。
したがって、現在の研究状況を最も正確に表現するなら、「成慶院本は従来、武田信玄像として伝承されてきたが、像主には疑問が呈されており、能登畠山氏の当主、特に畠山義続を候補とする説が存在する」とするのが適切である。
東京国立博物館の作品解説も、まさにこのような慎重な立場を取っている。信玄像としての伝承を紹介したうえで、「能登の戦国武将・畠山義続を描いたとする別人説」が提唱されていると記しており、義続説を確定事項として扱ってはいない。
今後の展望
今後の研究で最も重要になるのは、成慶院本の制作事情を直接裏付ける一次史料の発見である。特に、制作年代、注文者、像主、納入先を具体的に記した文書が見つかれば、現在の議論は大きく進展する可能性がある。
また、長谷川等伯の能登時代の作品をまとめて比較する研究も重要である。肖像画の顔貌、衣服、家紋、筆法、絹地や顔料などを科学的に分析し、同時期の等伯作品との共通点を確認できれば、作品の制作時期や制作環境をより客観的に推定できる。
さらに、武田家、能登畠山氏、高野山寺院の文書を横断して調査することも必要になる。寺院に残る古文書、武田家文書、能登畠山氏関係史料、後世の寺社縁起を相互に照合すれば、肖像画がどのような経路で現在の寺院に伝来したのかを再構成できる可能性がある。
デジタル画像の高精細化も有効である。肉眼では判別しにくい紋章や衣服の文様、落款、補筆、表装の痕跡などを高精細画像や赤外線・蛍光分析などで調査すれば、後世の修理や模写による変化と、制作当初の図像を区別できる可能性がある。
まとめ
成慶院本は、現在も「武田信玄の肖像」として極めて有名な作品である。しかし、その知名度と、肖像画に描かれた人物が武田信玄本人であることの確実性は、同じ問題ではない。
検証すると、家紋、作者と武田家との接点、作品の伝来、他の武田家肖像との比較など、いくつかの重要な論点が浮かび上がる。特に二引両とされる紋は、武田氏の家紋との関係を説明する必要があり、成慶院本の像主比定を考えるうえで重要な手掛かりとなっている。
一方、長谷川等伯が能登出身で、能登畠山氏と人的・地域的な接点を持つことは、畠山氏説を検討するうえで重要である。そこから、畠山義続をはじめとする能登畠山氏の当主が像主候補として浮上する。
ただし、現在確認できる研究資料だけから「成慶院本のモデルは畠山義続だった」と断定することはできない。現段階で最も史料に忠実な結論は、成慶院本を武田信玄とする伝承には再検討すべき問題があり、能登畠山氏の人物、特に畠山義続を像主とする説が有力な研究仮説の一つとして存在するが、最終的な像主の確定には至っていないというものである。
そして、この問題を考える際に忘れてはならないのが、高野山持明院に伝わる武田晴信像の存在である。花菱紋を備え、武田家関係の肖像群の中に位置づけられるこの作品は、成慶院本とは異なる形で「武田信玄」という人物を伝えているため、両者を区別して研究することが重要になる。
結局のところ、成慶院本の問題は「有名な信玄の顔が本物か偽物か」という単純な話ではない。それは、戦国時代の肖像画がどのように制作され、どのように寺院へ伝来し、後世の人々によって誰の肖像として認識されてきたのかという、歴史資料そのものの読み方を問う問題なのである。
参考・引用リスト
1. 東京国立博物館・国立文化財機構関係資料
東京国立博物館「武田信玄像」関連資料。長谷川等伯(信春)筆とされる成慶院本系統の肖像画について、作品情報および像主に関する別人説を紹介している。
東京国立博物館・国立文化財機構「伝名和長年像」関連資料。長谷川等伯の能登時代と肖像画について、伝称される像主と実際の人物比定をめぐる研究上の問題を紹介している。
2. 高野山持明院
高野山持明院「文化財・所蔵美術品」関係資料。武田晴信(信玄)像、武田信虎像、武田勝頼妻子像など、武田家に関係する肖像資料の解説を掲載している。
特に武田晴信像について、若年期の晴信を描いた寿像とする伝承、侍烏帽子・直垂・中啓という人物表現、直垂に描かれた花菱紋とつがいの鷺の図様について確認できる。
3. 国立国会図書館
藤本正行『武田信玄像の謎』、平凡社、2005年。成慶院本をめぐる従来の信玄説について、家紋、髷、長谷川信春、二引両紋、甲冑など複数の観点から再検討している。
同書では、成慶院本の像主問題を検討したうえで、長谷川信春と接点を持つ人物として能登畠山氏関係者を取り上げ、畠山義続を具体的な候補として論じている。
4. 国立国会図書館レファレンス協同データベース
武田氏の家紋に関する調査事例。武田菱、花菱などの家紋について、武田家資料や研究文献をもとに整理しており、武田信玄の家紋を考える際に「武田菱」という通称だけで判断することの問題を確認する資料となる。
5. 石川県七尾市・能登地域の長谷川等伯関係資料
長谷川等伯の出生地、能登時代の活動、長谷川信春時代の作品、畠山氏との関係などを扱う地域資料。等伯が能登を活動基盤としていたことを確認するための補助資料として参照できる。
6. 関連する肖像画研究
戦国期肖像画については、像主の伝称、寺院伝来、家紋、服装、落款、制作年代などを総合して人物比定を行う研究が蓄積されている。成慶院本についても、単一の図像的特徴ではなく、これらを総合して判断する必要がある。
総合的な検証結果
成慶院本=武田信玄という名称と伝承は現在も広く残っているが、研究上は像主に疑問が呈されている。能登畠山氏の人物、特に畠山義続をモデルとする説は重要な有力仮説であるが、2026年9月時点で確定説とはいえない。
したがって、「あの有名な不敵な髭面・僧形の肖像画のモデルは誰か」という問いに対する、現段階で最も慎重な回答は、従来の武田信玄説には再検討の余地が大きく、畠山義続を含む能登畠山氏関係者が有力な候補として研究されているが、真の像主はなお確定していない、となる。
