石田三成:豊臣家への忠義を貫き、関ヶ原の戦いで西軍を率いた義の将
石田三成は豊臣秀吉に仕えた単なる側近でも、関ヶ原で敗れた単なる敗将でもない。秀吉の天下統一を行政面から支え、検地や領地支配、軍事・外交などに関与し、豊臣政権の実務を担った政治家であった。
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「石田三成」は日本史上でも特に評価の振幅が大きい人物の1人である。かつては「豊臣秀吉に取り立てられた文官」「人望のない官僚」「関ヶ原で敗れた西軍の首謀者」といった否定的な人物像が強く語られてきたが、近年の研究では、豊臣政権の実務を担った政治家としての能力や、秀吉の政策を具体的に遂行した行政官としての側面が改めて重視されている。
とりわけ2017年に刊行された中野等『石田三成伝』は、三成を単純な「文治派」「智の参謀」「関ヶ原の敗将」という類型に押し込めず、一次史料からその生涯を再構成することを試みた研究書である。国立国会図書館の書誌情報でも、本書は「従来のイメージを超えた人間三成の実像」を明らかにするものとして紹介されており、現在の三成研究を考えるうえで重要な位置を占めている。
現在の研究で重要なのは、「三成は本当に義の人だったのか」という単純な人物評価そのものではない。むしろ、三成がどのような政治的立場に置かれ、豊臣政権の中で何を担当し、秀吉の死後にどのような政治判断を重ね、その結果として関ヶ原へ向かったのかを、後世の物語から切り離して検討することである。
したがって、現代の三成像は「忠義の英雄」か「嫌われ者の奸臣」かという二者択一では捉えにくい。豊臣政権を支えた有能な実務家である一方、政治的対立を激化させた当事者でもあり、さらに関ヶ原では自らが中心となって軍事行動に踏み切った政治家でもあったという、多面的な人物像として理解する必要がある。
石田三成とは
石田三成は1560年、近江国坂田郡石田村の土豪層につながる家に生まれ、豊臣秀吉の家臣として頭角を現した人物である。秀吉の天下統一が進むにつれて、三成は単なる側近ではなく、検地、年貢、領国支配、外交、軍事動員など、豊臣政権の運営に関わる実務を担うようになった。
三成の経歴を理解するうえで重要なのは、彼が最初から「関ヶ原で家康と戦う武将」だったわけではないことである。むしろ長い期間にわたって秀吉の政策を実際に動かす側に立ち、九州平定、関東・奥羽の仕置、朝鮮出兵など、豊臣政権の拡大と統治に関係する多くの事業に携わった。
そのため、三成を「武勇に優れた戦国武将」という基準だけで評価すると、人物の重要な部分を見落とすことになる。三成の強みは、戦場で敵を圧倒する武勇よりも、大量の情報と人員、財政、領地、命令系統を扱い、巨大化した豊臣政権を実務面から動かす能力にあった。
豊臣政権の中で三成が担った仕事は広範囲に及んだ。秀吉の命令を文書化し、各地の大名や代官に伝え、検地や知行の処理を進め、必要に応じて軍事行動を支えるという仕事は、華々しい合戦とは異なるが、統一政権を維持するためには不可欠なものであった。
この意味で三成は「豊臣家に仕えた家臣」というだけではなく、豊臣政権という政治機構を動かした中枢人物の1人だったと位置付けられる。国立国会図書館が紹介する三成研究でも、秀吉の側近としての台頭から国内統一、対外侵攻、政権中枢への進出、秀吉死後の政治活動、そして関ヶ原までが一連の過程として扱われている。
伝統的イメージ:「義の将」と豊臣家への忠義
一方、後世に形成された三成像には、別の特徴がある。それが「豊臣家への忠義を最後まで貫いた義の将」という人物像である。
このイメージでは、三成は秀吉から受けた恩を忘れず、秀吉の死後もその遺志と豊臣家を守るために徳川家康と戦った人物として描かれる。関ヶ原で敗北しても降伏して生き延びることを選ばず、最後まで豊臣家への忠節を貫いたという物語が、この人物像の中心にある。
こうした三成像には、後世の軍記や講談、歴史小説、映像作品などが大きく影響している。三成は徳川家康の政権成立を阻止しようとした人物であり、最終的には敗者となったため、江戸時代以降の歴史叙述では「豊臣方の忠臣」という性格と、「豊臣政権を壊した人物」という否定的評価が同時に形成されていった。
しかし、「義の将」という表現をそのまま16世紀末の政治状況に当てはめることには注意が必要である。三成が豊臣家への忠誠を持っていたことと、彼の政治判断が常に豊臣秀頼や豊臣家の利益と完全に一致していたことは、同じ意味ではないからである。
そもそも豊臣秀吉が1598年に死去した時点で、豊臣政権は極めて不安定な構造を抱えていた。幼少の豊臣秀頼に代わって政権運営を担う五大老・五奉行の体制が置かれたが、前田利家の死などによって政治的な均衡が崩れ、徳川家康の影響力が急速に増大していった。
この状況では、「豊臣家を守る」という目的そのものについても、複数の解釈が成立する。家康の勢力拡大を抑えることが豊臣家を守る行為だったと考えることもできる一方、豊臣家の安定を優先するならば、武力衝突を避けて政治的妥協を探るという選択肢も存在した。
したがって、三成の「忠義」を検証する場合には、本人の忠誠心だけを見るのではなく、「誰に対する忠義だったのか」「その忠義を実現するために何をしようとしたのか」「その政治行動が実際に豊臣家へどのような結果をもたらしたのか」という3つの問題を分けて考える必要がある。
豊臣家への絶対的忠誠
三成の人物像を語る際、「秀吉への忠義」と「豊臣家への忠義」は区別しなければならない。秀吉個人への強い恩義や忠誠があったとしても、それがそのまま秀吉死後の豊臣家に対する政治的判断へ直結するとは限らないからである。
秀吉の死後、三成が置かれた立場は極めて複雑だった。五奉行の一員として政権運営に関与する一方、徳川家康を中心とする大名勢力との政治的緊張が高まり、さらに三成自身に対して反感を持つ武将も存在した。慶長4年には加藤清正ら豊臣家の武将たちによる三成襲撃事件が発生しており、三成と豊臣家臣団内部の対立が深刻化していたことが分かる。
この事件は、後世には「三成が諸将から嫌われていた」という単純な説明で語られがちだが、実際には政治的対立の構造を考える必要がある。三成が秀吉の政策を忠実に実行する立場にあったことは、秀吉の死後、朝鮮出兵や大名間の利害対立などをめぐって、他の豊臣系武将との関係を悪化させる要因にもなった。
さらに、三成自身も単なる受動的な忠臣ではなかった。秀吉死後の政治過程では、増田長盛、長束正家、前田玄以、大谷吉継らと連携しながら徳川家康の勢力拡大に対抗する動きを見せており、最終的には毛利輝元を中心とする反家康勢力の形成へとつながっていく。
ここから見えてくるのは、三成の忠義が「命令されたことを黙って実行する家臣」というものではなかったという点である。彼は豊臣政権をどう維持するかについて自ら判断し、その判断に基づいて他の大名や奉行と連携し、政治的・軍事的行動へ進んでいった人物だった。
したがって、「豊臣家への絶対的忠誠」という表現は、三成の行動を理解するための入口にはなるが、結論にはならない。むしろ、その忠誠心が具体的な政治行動へ変換された過程を追うことによって、三成という人物の本当の特徴が浮かび上がってくる。
徳川家康との対峙
三成を語る場合、徳川家康との対立は避けて通れない。もっとも、両者の対立を単純な「正義の三成対野望の家康」という構図で理解するのは、現在の歴史研究から見ると不十分である。
家康は秀吉死後の豊臣政権において五大老の筆頭格として強い政治的影響力を持っていた。一方、三成は五奉行の一員として政務を担っていたため、両者は立場の異なる政治勢力として接近し、協力する場面もあれば、政権運営をめぐって緊張する場面もあった。
重要なのは、家康と三成が最初から「天下を奪う者」と「それを阻止する者」として固定されていたわけではないことである。秀吉の死後に生じた権力の空白、諸大名の利害、豊臣家内部の対立、上杉景勝をめぐる政治情勢などが複雑に絡み合い、結果として両者の対立が武力衝突へ発展した。
三成にとって家康は、単なる個人的な宿敵というより、豊臣政権の政治秩序を変化させる最大の勢力だったと考える方が理解しやすい。だからこそ三成の行動を評価する際には、個人的な好き嫌いや「義理人情」の問題ではなく、豊臣政権の権力構造の中で彼が何を守ろうとし、何を危険と判断したのかを見る必要がある。
そして、この政治的対立が最終的に関ヶ原という軍事衝突へ至ったことが、三成の歴史的評価を決定的なものにした。国立公文書館の解説でも、秀吉死後の政権内で家康の影響力が増大し、それに対して三成らが反家康勢力を形成して挙兵したという流れが整理されている。
「三献の茶」などの美談
石田三成を語る際に最も有名な逸話の1つが、若き日の三成と豊臣秀吉を結び付ける「三献の茶」である。寺の小姓だった三成が、喉の渇きを覚えた秀吉に対して最初はぬるい茶を大きな茶碗で出し、次に少し熱い茶を出し、最後に熱い茶を少量出したという話であり、相手の状態を観察して適切に対応する機転を示した逸話として広く知られている。
この逸話では、三成の人物像が非常に分かりやすく表現されている。相手の要求をただ聞くのではなく、その状況を観察して先回りする能力があり、秀吉はそこに非凡な才覚を見いだして三成を召し抱えたという筋書きである。
しかし、歴史上の三成を検証する場合、この逸話をそのまま事実として扱うことには慎重でなければならない。「三献の茶」は後世に形成された三成像を理解するうえでは重要だが、三成が実際にどのような人物だったのかを証明する一次史料とは性格が異なるからである。
つまり、「三献の茶が史実か」という問題と、「三成に観察力や実務能力があったのか」という問題は分けて考える必要がある。前者については逸話の成立過程そのものを検証しなければならないが、後者については三成が実際に残した文書や、豊臣政権で担当した仕事を調べることで、より直接的に検討できる。
この区別は、三成研究全体に通じる重要な視点である。現在の研究では、後世の物語を三成本人の性格を直接証明する材料として使用するより、同時代の文書、政務記録、書状、命令書などから具体的な行動を復元することが重視されている。
2017年に刊行された中野等『石田三成伝』も、まさにこうした方向から三成を再検討した研究である。国立国会図書館の書誌情報では、本書は「文治派」「智の参謀」「関ヶ原」といった従来のイメージを超え、一次史料から三成の実像を明らかにする研究として紹介されている。
史料に基づく検証・分析:実態の多面性
三成の実像を考える場合、まず確認すべきなのは、彼が豊臣政権の中で実際にどのような仕事を担当していたかである。三成の経歴を見ると、秀吉の側近として国内統一事業に関与し、各地の仕置、検地、領地支配、軍事動員、外交など、極めて広い範囲の政務に関わっていたことが分かる。
中野等の研究では、三成の活動が九州平定、関東・奥羽の仕置、太閤検地、朝鮮出兵、日明講和交渉、豊臣政権中枢での政務、そして秀吉死後の政治活動へと連続的に描かれている。これは三成が一時的に秀吉の寵愛を受けた側近ではなく、豊臣政権の発展そのものとともに職務と権限を拡大させた人物だったことを示している。
ここで重要なのは、「三成は文官だった」という表現の意味である。現代の感覚で文官という言葉を使うと、軍事とは無関係な事務職のように受け取られやすいが、16世紀末の豊臣政権における政務は軍事と行政が明確に分離していたわけではない。
検地によって土地と年貢を把握することは、領国支配だけでなく軍役負担を確定することにつながる。大名への命令を伝達し、兵粮や人員を調達し、占領地の支配を整えることも、軍事行動を実施するための重要な仕事であった。
したがって、三成を「戦場に弱い文官」とだけ説明するのは適切ではない。彼の仕事は、豊臣政権が全国規模の軍事力を動員し、支配地域を統治するための制度的基盤を整えることと深く結び付いていたからである。
① 優れた行政・官僚能力(文治派の筆頭)
三成の能力を考えるうえで、最も確実に評価できるのは行政実務の部分である。彼が秀吉の側近として早い時期から各地の政治・軍事処理に関わり、やがて豊臣政権の中枢に入ったこと自体が、一定の実務能力を持っていたことを示している。
特に注目されるのが、豊臣政権による検地や領地支配への関与である。検地は単に土地の面積を測る作業ではなく、誰がどの土地を支配し、どれだけの年貢を納め、どれだけの軍役を負担するのかを把握するための基礎となる政策だった。
三成は島津領や佐竹領などの検地にも関与しており、豊臣政権が大名領国を再編する過程で重要な役割を果たした。国立国会図書館に登録された『石田三成伝』の目次でも、三成が島津領・佐竹領の検地を担当したことや、奥羽仕置、大名としての三成、蔵入地代官としての活動が独立した項目として扱われている。
これは三成を「秀吉の秘書」のように理解することが不十分であることを示している。彼は政権の命令を文章にして伝えるだけでなく、実際の領地支配や財政的基盤に関わる政策を現地で処理する立場にあった。
また、三成の活動範囲が国内だけに限定されていなかったことも重要である。朝鮮出兵では現地の状況把握や軍事・外交上の処理に関わり、戦争の継続と終結をめぐる豊臣政権の意思決定にも接近していた。
この経験は、三成の政治的性格を考えるうえでも重要である。彼は秀吉の命令を現地の状況に合わせて処理しなければならない立場にあり、中央の命令と現場の事情との間を調整する仕事を経験していたからである。
そのため、三成を単純に「理想論を掲げる忠臣」とすることにも問題がある。実務家としての三成は、命令を実現するために人員、土地、財政、軍事、外交など複数の要素を同時に処理しなければならなかった。
一方で、行政能力が高かったことと、人間関係の構築に優れていたことは別問題である。三成が他の豊臣系武将との間に深刻な対立を抱えたことを考えると、行政官としての能力だけで彼の政治家としての評価を決めることはできない。
「嫌われ者」という人物像も単純化できない
三成には、後世から「人望がなかった」「他の武将から嫌われていた」というイメージが強く付着している。関ヶ原で敗北した西軍の中心人物だったことに加え、加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の武将と対立したことが、この人物像を強くした。
しかし、ここでも注意が必要なのは、「三成が嫌われていた」という個人的性格の問題だけでは説明できないことである。秀吉の政策を実施する側に立った三成は、検地、領地処分、朝鮮出兵などをめぐって大名の利害と衝突することがあり、その政治的立場そのものが反感を生みやすかった。
さらに、豊臣政権の中では、武功を基盤とする武将と行政・政務を担当する奉行との間に役割の違いが存在した。両者が同じ「豊臣家臣」であっても、政策をめぐる利害や評価が一致するとは限らなかった。
したがって、「三成は人間的に嫌われていたから失敗した」という説明では、豊臣政権内部に存在した構造的な対立を説明できない。むしろ三成が政権の中枢にいたからこそ、政策を実行する過程で多くの利害関係者と衝突したと考える必要がある。
三成の行政能力と「義」のイメージ
ここで、三成の行政能力と「義の将」という伝統的イメージを結び付けて考えることができる。三成が豊臣家に忠実だったという評価は、単なる感情的な忠義ではなく、秀吉が構築した政治秩序を実務面から維持することに彼自身の職務と人生を結び付けていたという側面からも理解できる。
秀吉の政策を実行するために検地を行い、領地支配を整え、軍事動員を支え、外交交渉に関与するという行動は、結果として豊臣政権の維持に直結していた。三成にとって「豊臣家に仕える」ということは、戦場で主君のために槍を振るうことだけではなく、政権の日常的な運営を担うことでもあった。
この点から見ると、「義の将」という後世の人物像には、一定の歴史的背景がある。ただし、それは三成が常に私心なく行動したことを証明するものではなく、彼の政治行動をすべて「純粋な忠義」に還元できるという意味でもない。
むしろ、三成の特徴は、豊臣政権の秩序を維持することと、自分自身の政治的立場を維持することが重なっていた点にある。秀吉の死後、この2つが次第に複雑に絡み合い、やがて徳川家康との対立を決定的な段階へ押し進めることになる。
史料から見える「三成像」の限界
三成については、後世の評価が極端に振れやすいという問題もある。「忠義の英雄」と「嫌われた奸臣」という両極端な人物像が存在するため、どちらか一方に依存すると史実から離れてしまう。
現在の研究で重視されるのは、三成の人格を先に決めてから史料を読むのではなく、残された史料から彼の行動を積み上げる方法である。中野等『石田三成伝』が565ページに及ぶ研究書として、三成の台頭から豊臣政権での活動、朝鮮出兵、秀吉死後の政治、関ヶ原、そして後世の三成像の形成までを扱っていることも、この人物を単純な英雄譚だけでは説明できないことを示している。
その意味で、「三献の茶」は三成の実像を証明する決定的な史料ではないが、後世の人々が三成をどのような人物として理解してきたかを考える材料としては重要である。逸話から人物像を作るのではなく、逸話と同時代史料を区別することによって、初めて三成という政治家の輪郭が明確になる。
そして、三成の実像をさらに深く理解するためには、彼が豊臣政権の中でどのような政治的権力を持っていたのかを検討しなければならない。行政能力に優れていた三成が、なぜ秀吉の死後に政治的孤立を深め、最終的に家康との武力衝突へ進んだのかが、次の問題となる。
② 「豊臣家のため」と現実の政治力学の乖離
石田三成を「豊臣家への忠臣」として理解する場合、最も重要になるのが、秀吉死後の政治状況である。秀吉が1598年に死去すると、幼い豊臣秀頼を支えるために五大老・五奉行を中心とした政権運営が続けられたが、前田利家の死などによって均衡が崩れ、徳川家康の政治的影響力が急速に強まった。国立公文書館も、この過程を豊臣政権の力関係が変化し、家康が政務の中心となっていった時期として整理している。
三成にとって、この変化は単なる人間関係の問題ではなかった。秀吉が構築した政権秩序の中で、五奉行として実務を担ってきた三成から見れば、家康が諸大名との婚姻や政治的結び付きを強めながら独自の影響力を拡大することは、豊臣家を中心とする政治秩序そのものを変化させる動きとして認識された可能性が高い。
しかし、ここで「家康に対抗すること」と「豊臣家を守ること」を完全に同一視するのは危険である。三成が豊臣政権の維持を意図していたとしても、そのために選択した政治的手段が、豊臣家の全構成員やすべての豊臣系大名から同じように支持されていたわけではないからである。
豊臣家臣団には、それぞれ異なる利害が存在していた。秀吉の親族、大名、奉行、旧織田系の武将、外様大名などでは、家康に対する警戒の程度も、秀頼政権に対する考え方も異なっていた。
このため、三成が「豊臣家のため」と考えて行動したとしても、その政治行動が必ずしも「豊臣家臣団全体の意思」と一致するわけではなかった。ここに、三成の忠義を評価するうえで極めて重要な問題がある。
三成失脚と政治的孤立
秀吉の死後、三成は政治的に大きな打撃を受けることになる。1600年の関ヶ原に至る過程を理解するには、三成が最初から反徳川勢力の絶対的指導者だったと考えるのではなく、豊臣政権内部の対立の中で次第に政治的立場を狭めていった過程を見る必要がある。
特に1599年の三成襲撃事件は重要である。加藤清正、福島正則ら豊臣系武将との対立が表面化し、三成は政治的に孤立する方向へ進んだ。ただし、この事件を「三成の性格が悪かったため武将たちから嫌われた」とだけ説明するのは単純化が過ぎる。
三成が秀吉の政策を実施する側に立っていたことが、豊臣家臣団内部の利害対立を生んだことも考慮する必要がある。特に朝鮮出兵やその評価をめぐる対立では、現地の戦況を報告する奉行側と、前線で戦った武将側との間に深刻な認識の違いが存在した。
その結果、三成は「豊臣政権を支える実務家」であると同時に、「豊臣家臣団内部の対立を象徴する人物」にもなった。この2つの側面が重なったことが、後の政治行動を制約することになる。
西軍の総大将問題
関ヶ原を語るとき、三成はしばしば「西軍の総大将」と表現される。しかし、この表現には注意が必要である。軍事的な指揮を三成が全面的に統括していたという意味で使うのであれば、実態はそれほど単純ではない。
国立公文書館の一般的な解説では、三成ら反家康勢力が毛利輝元を総大将として挙兵したと整理されている。つまり、三成自身が西軍の最高位に立ったというより、五奉行として反家康勢力を組織した三成と、五大老である毛利輝元を中心とした政治・軍事勢力が形成されたと見る方が実態に近い。
この点は近年の研究で特に重視されている。白峰旬は2016年の論文で、1600年7月から9月にかけて、石田三成と毛利輝元を中心とする「石田・毛利連合政権」が形成され、豊臣秀頼を直接推戴する形で「豊臣公儀」としての政権が成立したと論じている。これは、関ヶ原を単純な「三成対家康」という構図だけでは捉えられないことを示す研究上の重要な視点である。
この見方を採用すると、三成の役割は「西軍全体を独裁的に指揮した総司令官」ではなく、反家康勢力を形成し、豊臣秀頼を擁する政治体制を構築するうえで重要な役割を果たした政治家として位置付けられる。
もちろん、三成が西軍形成の中心人物であったことまで否定する必要はない。実際、国立国会図書館の蔵書情報には、三成を「西軍の組織者」として扱い、豊臣政権が内包していた矛盾と関ヶ原への過程を分析する研究書も登録されている。
問題は「中心人物だった」という事実と、「すべてを三成が決めていた」というイメージを混同しないことである。関ヶ原の西軍には毛利輝元、宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、大谷吉継、長宗我部盛親ら多数の大名が存在し、それぞれが異なる政治的事情を抱えていた。
毛利輝元という存在
特に重要なのが毛利輝元である。毛利氏は西国最大級の大名勢力の1つであり、輝元自身は五大老の一員でもあったため、政治的な地位は三成とは大きく異なっていた。
光成準治の『関ケ原前夜』は、秀吉死後から関ヶ原に至る政治過程について、毛利輝元をはじめとする西軍側の外様大名に焦点を当てている。同書の構成でも「豊臣秀吉の死と石田三成失脚」「関ケ原への道」「西国の統括者・毛利輝元」といった項目が設けられており、関ヶ原を三成個人の物語ではなく、西国大名を含む複数勢力の政治過程として捉えている。
毛利輝元が西軍側の最高位級の人物として存在していたことは、三成の位置付けを考えるうえで極めて重要である。三成が実務と政治工作において中心的役割を担ったとしても、五大老である輝元の政治的地位を無視して「三成が西軍を率いた」と説明すれば、当時の権力構造を正確に反映できない。
また、輝元自身の行動にも慎重な分析が必要である。毛利家が西軍に参加したからといって、毛利家全体が三成と同じ政治的目的を持っていたとは限らない。
関ヶ原前夜の西軍は、家康への対抗という一点では接近していたものの、その内部には複数の利害が存在した。三成と毛利輝元の連携も、単純な主従関係ではなく、豊臣秀頼を中心とする政治秩序を維持しながら、家康の勢力拡大を抑えようとする政治的連合として見る必要がある。
豊臣本家のスタンス
ここで最大の問題となるのが、豊臣秀頼とその母・淀殿を中心とする豊臣本家の立場である。三成の行動を「豊臣家のため」と評価する場合、豊臣本家自身がどのような立場を取っていたのかを無視することはできない。
関ヶ原の戦いは、豊臣秀頼の直接的な指揮によって行われた戦争ではない。三成ら反家康勢力は「豊臣公儀」を掲げ、秀頼を政治的正統性の根拠として位置付けたが、秀頼自身が関ヶ原へ出陣したわけではなく、豊臣本家が三成の軍事行動を全面的に統括したわけでもない。
この点から見ると、「三成が豊臣家を守るために関ヶ原で戦った」という表現は、三成側の政治的論理を説明する言葉としては理解できるが、豊臣本家の意思そのものと完全に同義ではない。
むしろ、ここには大きな政治的矛盾があった。三成らは秀頼を奉じることで自らの行動を豊臣公儀の正当な政治行動として位置付けようとした一方、家康側もまた「豊臣家の秩序を守る」という立場を掲げることができたからである。
つまり、1600年の政治対立では、双方が豊臣家との関係を正統性の根拠として利用していた。三成側だけが「豊臣家を守ろうとした」、家康側が「豊臣家を倒そうとした」と単純に区別することはできない。
「豊臣家のため」という言葉の意味
ここから、三成の「忠義」について重要な問題が浮かび上がる。三成が豊臣家への忠誠を持っていたことを否定する必要はないが、その忠誠が具体的な政治行動として表れたとき、それは必ずしも豊臣家内部の全員が共有する意思ではなかった。
三成にとって豊臣政権とは、秀吉が築き上げた政治秩序であり、秀頼を中心に維持されるべきものだったと考えられる。一方、諸大名にとっては、自分たちの領国と家の存続、知行、官位、軍事的安全なども重要な政治判断の基準だった。
したがって、「豊臣家への忠義」という理念だけでは、なぜ一部の豊臣恩顧大名が三成側につかず、家康側についたのかを説明できない。福島正則や加藤清正らが家康側へ接近した背景には、三成との個人的対立だけでなく、豊臣政権内部で形成された政治的・軍事的な利害関係があった。
この意味で、三成は「豊臣家のために戦った忠臣」であると同時に、「豊臣政権の内部対立を政治的・軍事的対決へ進めた当事者」でもあった。この2つは矛盾するように見えるが、実際には同じ政治状況の中で同時に成立していた。
「悪臣・野心家」説からの再評価の揺り戻し
三成の評価は、江戸時代以降、徳川政権側の歴史認識や軍記物語などの影響も受けながら形成されてきた。家康によって成立した政権の視点からすれば、三成は天下の秩序を乱した人物として描かれやすく、その結果、「奸臣」「悪臣」「野心家」といった否定的な人物像が定着する余地があった。
国立公文書館が「歴史と物語」という展示で指摘しているように、後世の編著書では既存の書物を引用・改編しながら、さまざまな逸話が付け加えられていった。したがって、江戸時代以降に広まった逸話については、史実の記録と物語としての形成過程を分けて検討する必要がある。
しかし、近代以降の研究では、こうした否定的な三成像に対する修正も進んだ。中野等『石田三成伝』が「貶められた人物像とその実像」を出発点としていることは、その研究史を象徴している。
ただし、ここで「従来の悪評はすべて誤りだった」と反転させることも適切ではない。三成には政治的対立を生み出した側面があり、関ヶ原に至る政治過程で彼自身が積極的な役割を果たしたことも事実だからである。
重要なのは、三成を善人へ作り替えることではない。後世の悪臣像をいったん相対化したうえで、行政能力、政治的判断、対人関係、豊臣家への忠誠、反家康勢力の組織化という複数の側面を同時に評価することである。
「義」はどこまで三成を説明できるのか
ここまで整理すると、石田三成の「義」という言葉の意味も変わってくる。三成の義は、単純な道徳的美徳というより、秀吉が構築した豊臣政権の政治秩序を守ろうとする政治理念と、自身がその政権を支えてきたという職務意識の結合として理解する方が実態に近い。
そのため、三成の関ヶ原への道を「秀吉への恩返し」という個人的感情だけで説明するのは不十分である。そこには、豊臣家、豊臣公儀、五大老・五奉行の政治体制、諸大名の利害、家康の勢力拡大、そして三成自身の政治的立場が重なっていた。
関ヶ原の西軍は、三成個人の私兵集団ではなかった。国立国会図書館に登録されている研究書『石田三成――関ケ原西軍人脈が形成した政治構造』が示すように、研究上も西軍を形成した大名たちの人脈や政治構造を検討することが重要な課題となっている。
したがって、三成を「義の将」と呼ぶこと自体を否定する必要はないが、その言葉だけで彼の政治行動を説明することはできない。「義」は三成の行動を理解する1つの概念であって、すべてを説明する万能な答えではないのである。
そして、この問題は1600年9月15日の関ヶ原そのものに直結する。三成はなぜ武力による対決を選んだのか、西軍は何を目的として挙兵したのか、そしてその政治的構想はなぜ短期間で崩壊したのかを検討しなければ、「義の将」としての三成の最終的な評価には到達できない。
関ヶ原の戦いと三成の「義」の結末
石田三成の生涯を考えるうえで最大の転換点となるのが、1600年の関ヶ原の戦いである。ここまで見てきたように、三成は豊臣政権の実務を担う立場から、秀吉死後の政治的混乱の中で反徳川勢力の形成に関与し、最終的には軍事衝突という手段を選択することになった。
国立公文書館の整理では、秀吉死後に家康の政治的影響力が強まり、それに対して三成が大谷吉継や増田長盛、長束正家、前田玄以らと連携し、毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したとされる。1600年9月15日、関ヶ原で両軍が激突し、最終的に三成側が敗北した。
ただし、関ヶ原を「三成が家康に喧嘩を売り、天下を取ろうとした戦い」と説明するのも、「三成が豊臣家を守るためだけに戦った」と説明するのも、いずれも単純化である。実際には、豊臣政権の正統性、家康の政治的台頭、諸大名の利害、三成自身の政治的立場が重なった結果として戦争が発生したと見る必要がある。
挙兵の論理
三成の挙兵を理解するには、1600年の政治状況を時間軸に沿って見る必要がある。家康は上杉景勝の動向を問題として会津征伐に向かい、そのため東国へ軍勢を進めたが、この家康の出陣によって反家康勢力が軍事行動を起こす余地が生まれた。
三成らは家康が豊臣政権の秩序を逸脱して権力を拡大していると捉え、家康に対抗する政治的・軍事的連合を形成した。このとき重要なのは、単純な反徳川というだけではなく、豊臣秀頼を政治的正統性の根拠として掲げたことである。
つまり、三成側の論理では、家康を討つことそのものが目的なのではなく、秀頼を中心とする豊臣公儀を維持することが重要だったと考えられる。ここに三成の「豊臣家への忠義」を政治的行動として理解するための重要な手掛かりがある。
しかし、この論理には大きな問題もあった。家康側もまた、豊臣家の秩序を守ることを掲げることが可能であり、三成側だけが豊臣家の正統性を独占できたわけではなかったからである。
さらに、西軍側の諸大名がすべて同一の目的を共有していたわけでもない。2022年刊行の『石田三成――関ケ原西軍人脈が形成した政治構造』では、関ヶ原に至る西軍大名の葛藤や、三成と毛利輝元、宇喜多秀家らとの関係などが個別に論じられており、西軍を一枚岩の政治勢力として扱わない研究視角が示されている。
「勝てる」と考えていたのか
三成の挙兵を後世から見ると、家康の政治力と軍事力に対して無謀な戦いを挑んだようにも見える。しかし、三成側にまったく勝算がなかったと断定することもできない。
反家康勢力には毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、島津氏などの有力大名が存在し、家康が東国へ向かっている間に西から挟撃する可能性も存在した。家康方の軍勢が全国のすべての大名を完全に掌握していたわけではなく、情勢は流動的だった。
また、三成側にとっては、戦場で家康軍を正面から撃破することだけが唯一の勝利条件ではなかった可能性もある。家康の政治的基盤を崩し、諸大名を豊臣公儀側へ引き戻すことができれば、戦争の展開そのものを変えることができたからである。
この点から見ると、三成の戦略は単純な軍事作戦ではなく、政治と軍事を組み合わせたものだったと考えられる。実際、三成については国立国会図書館にも「西軍の組織者」として位置付け、豊臣政権が内包していた矛盾から関ヶ原を分析する研究書が登録されている。
ただし、政治的連合が形成されたことと、その連合を統一的な軍事組織として運用できることは別問題である。西軍には大名ごとの利害があり、三成がすべての武将を直接指揮できる体制が完成していたわけではなかった。
関ヶ原で起きたこと
1600年9月15日、関ヶ原で東西両軍が激突した。国立公文書館は、東軍約7万人、西軍約8万人という数字を紹介しているが、近世の合戦における兵数は史料によって差があり、現代の研究では数字をそのまま絶対視することには注意が必要である。
戦闘そのものは、必ずしも朝から一方的に東軍が優勢だったわけではない。西軍側の諸部隊も戦闘に参加し、局地的には激しい戦闘が行われたため、「三成が何もできないまま敗走した」という後世的なイメージでは実態を十分に説明できない。
一方で、西軍には重大な政治的・軍事的問題が存在していた。毛利勢が本格的に動かず、島津勢も限定的な戦闘にとどまり、小早川秀秋の動向も戦況に大きな影響を与えた。
特に小早川秀秋をめぐる逸話は、後世の関ヶ原物語の中で非常に有名になった。国立公文書館は、徳川家康が小早川秀秋の陣に鉄砲を撃たせて動向を確認したという逸話を紹介しているが、その出典となった史料自体が後世の編纂物であり、逸話部分と実録的部分を区別して扱う必要があるとしている。
この点は三成研究にも重要な意味を持つ。関ヶ原の敗北を「小早川秀秋の裏切りだけが原因だった」と説明すれば、西軍内部の政治的分裂や指揮系統、各大名の判断といった複数の要素を見落とすことになる。
国立公文書館も小早川秀秋の寝返りを勝敗を決めた要因の1つとして紹介しているが、「要因の1つ」としている点が重要である。関ヶ原の結果を1人の武将の行動だけに還元するのではなく、複数の政治・軍事要因が重なった結果として見るべきである。
三成の敗北
三成自身は関ヶ原で戦闘を指揮し、敗北後に戦場から離脱した。ここでも「総大将として西軍全軍を自由自在に指揮した」というイメージは修正する必要がある。
三成は政治的には西軍形成の中心人物の1人だったが、毛利輝元や宇喜多秀家など、三成より格式の高い大名も西軍側に存在した。したがって、戦場での三成の指揮権と、西軍全体の政治的指導権を同一視することはできない。
むしろ三成の敗北は、彼個人の軍事能力だけでなく、西軍という連合体が持っていた構造的な問題を反映していたと考える方が適切である。三成がどれほど強い意志を持っていても、参加した大名それぞれの判断を完全に統一することは困難だった。
この点は、三成の「義」を考えるうえでも重要である。三成が最後まで戦ったことは忠義の象徴として語ることができる一方、その戦いが豊臣家臣団全体の統一された意思によって行われたものではなかったことも同時に認識しなければならない。
敗走と捕縛
関ヶ原で敗れた三成は逃亡し、最終的に捕らえられた。三成が敗戦後にどのような行動を取ったかについては後世の逸話が多数存在するが、ここでも史料の成立時期と信頼性を区別する必要がある。
三成の最期をめぐる物語では、彼が最後まで毅然としていたことや、家康に対して屈しなかったことが強調されることが多い。こうした描写は「義の将」という人物像を完成させるうえで非常に大きな役割を果たした。
しかし、三成が敗北後も豊臣家への忠誠を維持していたことと、後世に語られたすべての最期の逸話が史実であることは別問題である。国立公文書館が関ヶ原関係の史料について、後世の編著書では既存の書物を引用・改変しながらさまざまな逸話が形成されたと説明していることは、この点を考えるうえで重要である。
一方、三成の最期そのものは1600年に訪れる。三成は捕縛された後、家康のもとに送られ、最終的に京都で処刑された。
敗北と最期
石田三成は1600年10月1日、京都六条河原で処刑された。享年41である。
この最期が後世の三成像に与えた影響は非常に大きい。関ヶ原で敗北しながらも生き延びようとした政治家としてではなく、敗北を受け入れながらも自らの立場を変えなかった人物として描かれることで、「最後まで豊臣家に忠義を尽くした」という物語が強化された。
しかし、ここでも重要なのは、死に方だけで生涯全体を評価しないことである。三成が処刑されたことは、彼が徳川家康の政治秩序に対抗した結果として重要だが、それだけで三成のすべての政治判断が正しかったことを意味するわけではない。
逆に、関ヶ原に敗れて処刑されたことをもって、三成の政治的判断がすべて誤っていたとするのも適切ではない。歴史的な結果と、その人物が当時どのような情報と政治条件の中で判断したかは、分けて考える必要がある。
「義」の結末
こうして見ると、三成の「義」の結末は、非常に複雑なものだったと言える。彼は豊臣政権のために働き、その秩序を維持することを政治的使命の1つとして行動し、最終的には家康との武力衝突に進んだ。
その結果、三成は敗北し、豊臣家も関ヶ原後に政治的主導権を失っていく。つまり、三成が守ろうとした政治秩序は、彼自身の敗北によって大きく後退することになった。
しかし、それをもって三成の行動を単純に「無意味だった」と評価することもできない。彼の挙兵は、秀吉死後に急速に進んでいた権力再編に対する明確な政治的抵抗であり、豊臣秀頼を中心とした政治秩序を再構築しようとする試みでもあったからである。
三成の悲劇は、忠義そのものにあったというより、豊臣政権という政治体制がすでに秀吉の死によって大きく変質していたことにあったと見ることができる。彼が守ろうとした「豊臣の秩序」と、諸大名がそれぞれ生き残るために選択した現実政治との間には、大きな隔たりが生じていた。
現代から見た三成
2026年現在の研究状況から見ると、三成を「義の将」と呼ぶことには一定の意味があるものの、それを歴史的事実そのものとして扱うべきではない。三成は豊臣家に忠実だった政治家であり、同時に行政能力を持った実務家であり、さらに反家康勢力を組織して武力衝突へ進んだ政治的当事者でもあった。
2017年刊行の中野等『石田三成伝』は、三成の生涯を秀吉側近としての台頭から国内統一、朝鮮出兵、豊臣政権中枢、秀吉死後の政治、関ヶ原、最期、そして後世の三成像の形成まで一続きの過程として扱っている。つまり、現在の研究では三成を「関ヶ原の敗将」という一点から逆算するのではなく、40年余りの生涯全体から捉えることが重視されている。
さらに2026年2月には三池純正『石田三成――関ヶ原への道のり』が刊行されており、現在も三成と関ヶ原をめぐる研究・一般向け歴史叙述が続いていることが確認できる。
石田三成は、「善い忠臣」か「悪い政治家」かという2つの箱のどちらかに入れるべき人物ではない。むしろ、豊臣秀吉によって形成された巨大な政治体制を実務面から支え、その体制が崩壊していく過程で最後まで旧秩序を守ろうとした政治家として見ることで、彼の行動の一貫性と限界の双方が見えてくる。
そして、そこに三成という人物の歴史的な重要性がある。関ヶ原で敗れたからこそ「義の将」という物語が形成されたのではなく、豊臣政権の成立、発展、矛盾、崩壊という16世紀末の政治史そのものを体現する人物だったからこそ、400年以上にわたって評価が繰り返されてきたのである。
今後の展望
2026年現在の石田三成研究では、三成を「義の将」という1つの人物像だけで説明する見方から、政治家、行政官、豊臣政権の実務担当者、反徳川勢力の形成者という複数の側面から捉える方向へ研究が進んでいる。とりわけ、秀吉の死後に三成と毛利輝元を中心とする政治勢力が形成された過程を検証する研究は、関ヶ原を単純な「三成対家康」の構図から捉え直すうえで重要である。
今後さらに重要になるのは、三成個人の性格や忠義を論じるだけではなく、豊臣政権そのものの構造を明らかにすることである。2021年の研究では、1595年の起請文を分析し、秀吉の死後を想定して秀頼を頂点とする新たな政治体制が構想されていた可能性が論じられており、三成の政治行動も秀吉死後に突然始まったものではなく、豊臣政権の制度的な問題と連続して考える必要がある。
また、三成の行政官としての実像についても、個々の文書をさらに積み重ねて検証する余地がある。国立歴史民俗博物館が公開する1589年の「石田三成掟書」には、百姓への不法行為の抑制、年貢納入、逃亡百姓の扱い、計量の統一など具体的な村落支配の指示が記されており、三成が現実の行政を細部まで処理していたことを確認できる。
こうした史料を積み上げれば、「三成は頭脳派だった」「文治派だった」という抽象的な人物評からさらに踏み込み、どの政策をどのように実行し、どの程度の裁量を持っていたのかという具体的な政治史へ進むことができる。これは「義の将」という人物評価を否定するためではなく、その「義」が実際の政治活動としてどのように表現されたのかを明らかにするために必要な作業である。
三成の「義」をどう捉えるべきか
石田三成の「義」を考える際、最も避けるべきなのは、それを現代的な道徳観だけで判断することである。三成が豊臣家に忠実だったことは、秀吉から受けた恩義という個人的な要素だけではなく、豊臣政権の政治秩序そのものを維持することが自らの職務と結び付いていたという事情からも理解できる。
三成は秀吉の命令を実行する側に立ち、検地、領地支配、財政、軍事動員、外交などに関与してきた。そのため、秀吉の死後に家康が政治的影響力を拡大すると、それを単なる権力者の交代ではなく、自分が長年支えてきた政治秩序の変化として捉えた可能性がある。
しかし、ここから「三成の判断は常に豊臣家の利益と一致していた」と結論づけることはできない。三成が豊臣家を守ろうとしていたとしても、その方法が他の豊臣系大名や豊臣本家と完全に一致していたわけではなく、政治的対立を激化させた側面も存在する。
したがって、「義の将」という表現は、三成の政治的行動を理解するための1つの視点として扱うのが適切である。三成の忠義そのものを否定する必要はないが、「忠義だったからすべて正しかった」というところまで評価を広げると、史料に基づく歴史分析から離れてしまう。
「文治派の筆頭」という評価
三成について比較的確実に確認できるのは、豊臣政権における実務能力である。国立歴史民俗博物館が所蔵する「石田三成掟書」のような同時代文書は、三成が単なる書類作成担当者ではなく、村落支配や年貢徴収、役負担など具体的な行政問題に関与していたことを示している。
さらに、三成の活動は国内行政だけに限定されなかった。秀吉による全国統一事業や朝鮮出兵など、豊臣政権の大規模な政治・軍事事業に関与したことを考えれば、三成を現代的な意味での「官僚」とだけ捉えるのも適切ではない。
「文治派」という言葉も、武断派と対立する単純な二分法として使用すると問題がある。豊臣政権では行政と軍事が密接に結び付いており、検地や財政、兵站、軍役の把握そのものが軍事力を支える基盤だったからである。
したがって三成は、「戦が苦手な文官」というより、豊臣政権の軍事力を行政面から支えた政治家として理解する方が実態に近い。これは三成の歴史的評価を考えるうえで、現在でも比較的安定した出発点になる。
「西軍の総大将」というイメージの再検討
関ヶ原における三成の位置付けについても、従来の一般的な説明から修正が必要である。国立公文書館は、三成らが反家康勢力を形成し、五大老の毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したと説明している。
さらに白峰旬は、1600年7月から9月にかけて石田三成と毛利輝元を中心とする「石田・毛利連合政権」が形成され、豊臣秀頼を直接推戴する「豊臣公儀」として政権が形成されたと論じている。これは学界全体の唯一の定説というより、史料に基づく重要な研究上の見解として位置付けるべきだが、少なくとも「三成が単独で西軍を率いた」という単純な理解を再検討する材料になる。
毛利輝元や宇喜多秀家など、三成とは異なる政治的地位と利害を持つ大名が存在していたことも重要である。関ヶ原の西軍は三成の意思だけで動く単一組織ではなく、豊臣秀頼を政治的正統性の根拠としながら、各大名の判断が交錯する連合体だったと見る方が理解しやすい。
この視点に立てば、関ヶ原の敗北についても「三成の指揮能力が低かった」という個人評価だけでは説明できない。戦場での各大名の動向、政治的結束、軍事的指揮系統、家康側の外交・調略など、複数の要素を総合的に検討する必要がある。
「悪臣・野心家」から「忠臣」への反転だけでもない
三成研究で注意すべきもう1つの点は、旧来の否定的評価を修正することと、三成を完全な英雄として描くことは同じではないということである。江戸時代以降の物語には三成を悪役として描くものがあり、それに対する反動として近現代には忠義や能力を強調する三成像が広がった。
しかし、後世の悪評をすべて否定し、反対に三成を完全無欠の忠臣として描けば、結局は別の物語を作ることになる。三成が政治的対立の当事者であり、家康との対決を避けず、最終的に武力行動へ進んだことも史実として考慮する必要がある。
重要なのは、人物の評価を善悪の2択にしないことである。三成には優れた行政能力があり、豊臣政権への強い帰属意識があった一方、政治的な敵対関係を形成し、関ヶ原という大規模な内戦に至る過程にも積極的に関与した。
そのすべてを合わせて初めて、歴史上の石田三成という人物になる。これは英雄像を壊すための見方ではなく、英雄像だけでは捉えられない政治家としての三成を理解するための方法である。
2026年現在から見た石田三成
2026年にも三成を扱った新刊が刊行されている。三池純正『石田三成――関ヶ原への道のり』は2026年2月に刊行されており、国立国会図書館の書誌情報でも石田三成を主題とする新しい人物研究・一般向け歴史書として確認できる。
また、2023年には光成準治が「石田三成、毛利輝元…西軍を主導した男たちの思惑」を発表しており、関ヶ原を三成だけではなく西軍を構成した複数の政治主体から考える研究・解説も続いている。
このような研究状況から考えると、2026年現在の三成像は、「義の将」という従来の人物像を完全に捨てる段階ではなく、その意味を史料に即して細分化する段階にあるといえる。忠義、行政能力、政治的対立、豊臣公儀、関ヶ原というそれぞれの問題を分けたうえで、それらを再び1人の政治家の生涯として結び直す必要がある。
まとめ
石田三成は豊臣秀吉に仕えた単なる側近でも、関ヶ原で敗れた単なる敗将でもない。秀吉の天下統一を行政面から支え、検地や領地支配、軍事・外交などに関与し、豊臣政権の実務を担った政治家であった。
その一方で、秀吉の死後には徳川家康の勢力拡大に対抗し、豊臣秀頼を中心とする政治秩序を維持しようとする勢力の形成に深く関わった。1600年の関ヶ原は、その政治的対立が軍事衝突へ転化した結果であり、三成個人の感情だけで説明できる出来事ではない。
三成を「義の将」と呼ぶことには、彼が最後まで豊臣政権の秩序に立脚して行動したという意味で一定の根拠がある。しかし、その「義」は後世の美談だけから理解するべきものではなく、彼が実際に担当した行政、政治的判断、諸大名との関係、反家康勢力の形成という具体的な行動から検証する必要がある。
「三献の茶」のような逸話は三成の後世の人物像を理解する材料にはなるが、それ自体を三成の実像を証明する史料として扱うことはできない。同じように、「嫌われ者」「悪臣」「野心家」という否定的な評価も、それだけで三成の人物像を決定するものではない。
最終的に石田三成を理解する鍵は、「善人だったのか、悪人だったのか」という問いではない。豊臣政権という巨大な政治体制を支えた実務家が、その体制の崩壊局面で何を守ろうとし、どのような政治判断を行い、なぜその判断が関ヶ原という結末に至ったのかを追うことである。
その意味で三成は、「義の将」という一言では収まりきらない人物である。豊臣政権の行政能力、政治的正統性、家臣団の利害対立、徳川家康の台頭、関ヶ原の政治構造という16世紀末の日本政治の重要問題を、1人の人物の生涯を通じて観察できる存在なのである。
参考・引用リスト
主要研究書・人物研究
中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年。三成の生涯を一次史料に基づいて再検討した主要研究書であり、秀吉側近としての活動から関ヶ原、最期、後世の人物像までを扱う。国立国会図書館にも所蔵情報が登録されている。
光成準治『関ケ原前夜――西軍大名たちの戦い』角川ソフィア文庫、2018年。秀吉死後から関ヶ原に至る政治過程を、西軍側の外様大名や毛利輝元などの動向を含めて分析する研究書である。
三池純正『石田三成――関ヶ原への道のり』宮帯出版社、2026年。2026年2月刊行の石田三成論であり、現在時点の人物研究・一般向け研究の動向を確認するうえで参照価値がある。
関ヶ原・豊臣政権研究
白峰旬「慶長5年7月~同年9月における石田・毛利連合政権の形成について」『別府大学紀要』52、2011年。1600年の石田三成・毛利輝元を中心とする政治勢力形成を検討した研究である。
白峰旬「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」『史学論叢』46、2016年。石田・毛利連合政権が豊臣秀頼を直接推戴する「豊臣公儀」として形成されたという研究上の見解を提示している。
光成準治「石田三成、毛利輝元…西軍を主導した男たちの思惑」『歴史街道』427、2023年。西軍を主導した複数の人物に焦点を当て、関ヶ原前夜の政治的思惑を扱っている。
一次史料・史料データベース
国立歴史民俗博物館「石田三成掟書」。1589年に三成が村に宛てて発給した文書で、役負担、年貢、逃亡百姓、不法行為、計量などに関する具体的な支配方針を確認できる。
公的機関による解説
国立公文書館「関ヶ原の戦い」。豊臣秀吉死後の五大老・五奉行体制、徳川家康の台頭、石田三成らの反家康勢力形成、毛利輝元を総大将とした挙兵、関ヶ原の戦闘までを概説している。
国立公文書館「歴史と物語」。関ヶ原に関する後世の物語や編纂史料について、史実と後世の物語を区別して検討する際の基礎資料となる。
豊臣政権の政治構造に関する研究
「文禄四年の霊社上巻起請文をめぐって――秀吉の死を想定した政権構想」『史林』104巻5号、2021年。1595年の起請文を分析し、秀頼を頂点とする秀吉死後の政権構想について検討している。三成を秀吉死後の政治だけから理解するのではなく、秀吉存命中から形成されていた政権構想との連続性を考えるための重要な研究である。
