コラム:日本で”歩行訓練士”不足深刻、対策は?
日本の歩行訓練士不足は、福祉人材問題の中でも極めて深刻な分野である。
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現状(2026年3月時点)
日本では、視覚障害者の自立生活を支える専門職である歩行訓練士の不足が深刻な社会課題となっている。歩行訓練士は、視覚障害者が白杖などを用いて安全に歩行するための訓練や生活技能の指導を行う専門職であり、視覚障害リハビリテーションの中核を担う存在である。しかし、需要に対して人材供給が圧倒的に不足している。
日本にはおよそ30万人以上の視覚障害者が存在するが、その移動や日常生活訓練を担う歩行訓練士は約200人程度にすぎないとされる。これは単純計算で、1人の訓練士が約1,500〜1,700人の視覚障害者を支える計算となる。実際には訓練対象者のすべてが訓練を受けるわけではないが、それでも供給不足が極めて深刻であることに変わりはない。
さらに、歩行訓練の需要は高齢化の進展とともに拡大している。加齢に伴う視覚障害(加齢黄斑変性、緑内障など)の増加によって、中途視覚障害者が増え、歩行訓練を必要とする人が増加している。このため、専門職不足は今後さらに深刻化する可能性が高い。
歩行訓練士(視覚障害生活訓練指導員)とは
歩行訓練士とは、視覚障害者が安全に歩行し、自立した生活を送るための訓練を提供する専門職である。主な業務は以下の通りである。
白杖歩行訓練
手引き誘導の指導
屋内外の安全な移動方法の訓練
視覚以外の感覚を用いた空間認識訓練
点字やICT機器の活用指導
日常生活技能(調理・掃除・金銭管理など)の指導
つまり、歩行訓練士は単に歩き方を教える職種ではなく、生活全体の自立を支えるリハビリテーション専門職である。
この職種は欧米では「Orientation and Mobility Specialist(O&M Specialist)」として専門職として確立しているが、日本では国家資格ではなく、制度的基盤が弱いという特徴がある。
実務に従事する訓練士は200名程度
日本の歩行訓練士は、資格取得者の数よりも「実務に従事している人数」がさらに少ない。
2026年前後の報道によれば、実際に現場で訓練を行っている歩行訓練士は約200人程度とされる。
また、別の調査では189人程度との推計もあり、実数は200人未満とする見方もある。
この人数は全国規模の福祉専門職としては極めて少ない。例えば理学療法士は約20万人、社会福祉士は約30万人以上存在する。これらと比較すると、歩行訓練士は桁違いに少ない専門職である。
深刻な実態
歩行訓練士不足は、単なる人材不足ではなく、視覚障害者の生活の質(QOL)に直接影響する問題である。
歩行訓練を受けることによって、視覚障害者は以下のような生活変化を得ることができる。
・単独外出の実現
・就労機会の拡大
・社会参加の促進
・心理的自立
しかし現状では、訓練を受けたことがある視覚障害者は約6割にとどまり、約4割が専門訓練を受ける機会を持っていないとされる。
これは福祉サービスとしては重大な供給不足であり、障害者の社会参加を制限する構造的要因となっている。
極端な地域格差
歩行訓練士不足の特徴の一つは、地域格差の大きさである。
一部の都市部には複数の訓練士が存在する一方で、地方では配置がほとんどない地域もある。
報道によれば、山形県や岩手県などでは訓練士が不在の期間があり、県外からの派遣に依存している。
つまり、日本全国で均等にサービスが提供されているわけではなく、地域によっては歩行訓練を受けること自体が困難な状況がある。
待機期間の長期化
訓練士不足の結果として、歩行訓練の待機期間が長期化している。
現場では「訓練開始まで2年待ち」といったケースも報告されている。
これはリハビリテーションとしては極めて深刻である。視覚障害を発症した直後は、心理的にも身体的にも支援が必要な時期であるが、支援が遅れることで自立機会を失う可能性がある。
高齢化による需要増
日本では視覚障害者の多くが高齢者である。
特に以下の疾患が増加している。
・緑内障
・加齢黄斑変性
・糖尿病網膜症
これらは高齢化社会の進展とともに増加するため、歩行訓練の需要は今後さらに増加する。
つまり、現状の200人程度の体制では将来需要に対応することは困難である。
不足の根本原因(ボトルネック)
歩行訓練士不足の原因は単純な人材不足ではなく、制度的・構造的問題にある。
主なボトルネックは以下の通りである。
養成機関が極端に少ない
養成期間が長い
職業認知度が低い
雇用が不安定
公的制度が弱い
これらが複合的に作用し、人材供給を阻害している。
養成機関の少なさ
日本で歩行訓練士を養成する主な機関は以下の2か所のみである。
・国立障害者リハビリテーションセンター学院
・日本ライトハウス養成部
養成課程は通常2年間であり、大学卒業者などを対象としている。
つまり、日本全国の歩行訓練士は実質的に2つの教育機関のみで育成されている。
育成コストとハードル
養成課程は専門性が高く、履修負担も大きい。
・原則全日出席
・2年間のフルタイム教育
・専門的実習
これらの条件は社会人にとって参入障壁となる。
不安定な雇用と待遇
歩行訓練士の雇用は施設依存型であり、安定性が低い。
給与水準は月収18万〜35万円程度とされ、非常勤職員も多い。
専門性に対して待遇が十分とは言えず、職業としての魅力が弱い。
解決に向けた5つの対策案
歩行訓練士不足を解決するには、制度・教育・財政の三位一体の改革が必要である。
本稿では以下の5つの政策を提案する。
養成体制の拡充
地域拠点の分散化
公的財政支援の強化
資格制度の整備
テクノロジーとの共生
養成・研修体制の拡充
最も重要なのは教育機関の拡大である。
大学・専門学校での養成課程設置を推進し、年間養成数を増やす必要がある。
拠点の分散化
地方のリハビリセンターや盲学校を拠点に訓練士を配置し、地域格差を解消する政策が必要である。
オンライン・ハイブリッド研修
ICTを活用した研修も重要である。
理論教育やケーススタディはオンラインで実施し、実習のみ対面で行うハイブリッド教育が可能である。
自治体による財政支援
自治体による奨学金制度や研修費補助が必要である。
すでに一部自治体では養成支援を検討している。
補助金制度の導入
国の補助制度として
・養成費補助
・施設配置補助
などを導入することが望ましい。
公的報酬体系の見直し
歩行訓練の公的報酬を引き上げる必要がある。
現状では自治体委託事業として低単価で提供される場合が多い。
「歩行訓練」の単価引き上げ
診療報酬や障害福祉サービス報酬に相当する制度を整備することで、職業としての持続性を高める。
認知度向上と「専門職」としての法制化
歩行訓練士は社会的認知度が低い。
医療・福祉専門職として法的地位を確立することが重要である。
国家資格化の検討
長期的には国家資格化が必要である。
理学療法士・作業療法士のような制度整備が求められる。
テクノロジーとの共生(補完策)
歩行支援ではテクノロジーも重要な役割を果たす。
しかし、技術は人間の訓練を完全に代替するものではない。
AI・デバイスの活用
近年は以下の技術が開発されている。
・AIナビゲーション
・触覚デバイス
・スマートフォン支援アプリ
研究では触覚モデルなどの支援技術が視覚障害者の身体動作理解を助ける可能性が示されている。
求められるのは「移動の権利」の保障
歩行訓練は単なる福祉サービスではなく、人権問題でもある。
国連障害者権利条約では、移動の自由は基本的人権として位置付けられている。
今後の展望
今後、日本では以下の方向が重要になる。
・専門職制度の整備
・人材養成の拡大
・ICTとの融合
これらを同時に進めることで、持続可能な支援体制が構築できる。
まとめ
日本の歩行訓練士不足は、福祉人材問題の中でも極めて深刻な分野である。
約30万人の視覚障害者に対して、実働訓練士は約200人程度しかおらず、地域格差や長期待機などの問題が発生している。
その背景には、養成機関の不足、制度的基盤の弱さ、待遇問題など複合的要因が存在する。
解決には、養成拡大、制度改革、財政支援、国家資格化、テクノロジー活用など多面的な政策が必要である。
視覚障害者の「歩く自由」を保障することは、包摂的社会の実現に不可欠である。
参考・引用
・読売新聞「歩行訓練士が全国200人と不足、4県でゼロ」
・しゃかさぽ「歩行訓練を受けられた人は6割」
・埼玉県「歩行訓練士とは」
・WAM NET「視覚障害生活訓練等指導者」
・文化放送ロービジョンプロジェクト
・中国新聞「歩行訓練士増員へ島根県が支援」
・Tanaka et al. (2026) Touching Movement: 3D Tactile Poses for Supporting Blind People in Learning Body Movements
追記:国レベルでの配置基準の策定
歩行訓練士不足の問題を構造的に解決するためには、まず国レベルでの「配置基準」の策定が必要である。現状の日本では、歩行訓練士の配置は法律によって明確に義務付けられていない。そのため、自治体や福祉施設の裁量に委ねられており、結果として地域によってサービス提供体制が大きく異なっている。
日本の福祉制度には、すでに専門職配置に関する制度的枠組みが存在する。例えば、介護保険制度ではケアマネジャー、医療分野では理学療法士や作業療法士などの配置基準が制度的に定められている。これに対して、視覚障害者の歩行訓練に関しては、全国的な配置基準が存在しない。この制度的空白が、人材不足と地域格差を生む大きな要因となっている。
国レベルでの配置基準として考えられるのは、例えば以下のような指標である。
・人口または視覚障害者数に応じた配置基準
・都道府県単位での最低配置数
・広域圏単位の支援拠点の設置
例えば、仮に「視覚障害者1,000人につき1名」という基準を設けた場合、日本全体では少なくとも300名以上の歩行訓練士が必要となる。現在の実働人数が約200名程度であることを考えると、最低でも1.5倍程度の人材拡充が必要となる計算になる。
さらに重要なのは、配置基準を策定することによって、自治体の責任範囲を明確化できる点である。現在は、歩行訓練が「必須サービス」ではなく「努力義務的サービス」として扱われることが多く、自治体によっては十分な予算が確保されないケースもある。配置基準が法制度として整備されれば、自治体が歩行訓練体制を整備する動機づけが強まり、結果として地域格差の是正につながる可能性が高い。
また、配置基準の整備は国家資格化とも密接に関連する。専門職制度として制度化されることで、教育課程、業務範囲、責任体制などが明確になり、専門職としての社会的地位が向上する。これは人材確保の観点からも重要な要素となる。
養成所へのアクセシビリティ改善が急務
歩行訓練士不足のもう一つの重要な要因は、養成機関へのアクセスの困難さである。日本では歩行訓練士養成機関が非常に限られており、現在は主に二つの教育機関に集中している。これは教育資源の集中という観点では合理的であるが、全国から人材を集める上では大きな障壁となっている。
まず地理的な問題がある。養成機関が特定地域に集中しているため、地方在住者が入学する場合、転居や長期の単身生活が必要になることが多い。特に社会人からのキャリア転換を希望する人にとっては、この負担は非常に大きい。結果として潜在的な志願者が進学を断念するケースが少なくない。
次に経済的負担の問題がある。養成課程は通常2年間のフルタイム教育であり、学費に加えて生活費や機会費用(働けない期間)が発生する。このため、志願者の経済的ハードルは高く、結果として人材供給が制限される。
さらに、教育内容そのもののアクセシビリティ改善も重要である。現在の養成課程は対面中心であり、地方在住者が参加しにくい構造になっている。ICTを活用した遠隔教育やハイブリッド型教育を導入することで、教育機会の拡大が可能となる。
具体的には、以下のような改革が考えられる。
・オンライン講義の導入
・地域実習拠点の分散化
・社会人向け夜間・短期コースの設置
・奨学金制度の拡充
こうした改革により、歩行訓練士養成の裾野を広げることが可能になる。専門職養成においては「教育アクセスの平等」が人材確保の鍵であり、養成所のアクセシビリティ改善は極めて重要な政策課題である。
「訓練士が1人増えることは、その地域で年間数十人の『外に出る自由』が生まれることを意味する」
歩行訓練士の社会的価値を理解するためには、単純な人数だけでなく、社会的影響を考える必要がある。歩行訓練士1人が担当できる利用者数は年間数十人程度とされる。これは訓練が個別指導であり、利用者の生活環境に合わせて実施されるためである。
しかし、この「数十人」という数字の意味は非常に大きい。歩行訓練を受けることによって、多くの視覚障害者が初めて単独外出を可能にするからである。
外出できるようになることは、単なる移動能力の改善ではない。社会参加の可能性そのものを広げる変化である。例えば以下のような変化が生まれる。
・一人で買い物に行けるようになる
・公共交通機関を利用できるようになる
・就労や通学が可能になる
・地域活動に参加できる
つまり、歩行訓練士が一人増えることは、その地域で数十人の社会参加の可能性が広がることを意味する。これは「移動の自由」が社会参加の前提条件であることを示している。
視覚障害者の社会参加を阻む最大の障壁は、しばしば「移動」である。建物や制度のバリアだけでなく、移動手段そのものが確保されていなければ、教育や就労の機会も制限される。その意味で、歩行訓練士は社会参加を支えるインフラ的存在といえる。
この観点から見ると、歩行訓練士の増員は単なる福祉人材政策ではなく、社会参加政策の一部である。専門職1人の配置が地域社会に与える影響は、数値以上に大きい。
教育・福祉・テクノロジーの三位一体の改革が必要
歩行訓練士不足の問題は、単一の政策では解決できない複合的課題である。そのため、教育政策、福祉政策、技術政策を統合した「三位一体の改革」が必要である。
第一に教育政策である。養成機関の拡充、教育課程の整備、資格制度の確立など、専門職育成の基盤整備が不可欠である。専門職制度が安定しなければ、長期的な人材供給は実現できない。
第二に福祉政策である。歩行訓練を公的サービスとして制度化し、安定した財源を確保する必要がある。現在は自治体事業として運営されるケースが多く、財政基盤が不安定である。公的報酬体系を整備することで、職業としての持続性を高めることができる。
第三にテクノロジー政策である。近年はAIやスマートフォンアプリなど、視覚障害者の移動を支援する技術が急速に発展している。音声ナビゲーション、画像認識、触覚フィードバックなどの技術は、歩行支援の新しい可能性を広げている。
しかし、テクノロジーは歩行訓練士の代替ではなく補完である。どれほど高度なナビゲーション技術があっても、基本的な歩行技能や空間認識能力がなければ安全な移動は難しい。したがって、技術と人間の専門職を組み合わせた支援体制が重要になる。
例えば以下のような連携が考えられる。
・AIナビゲーションと歩行訓練の併用
・スマート白杖とO&M訓練の統合
・遠隔支援システムの導入
このように、教育・福祉・テクノロジーの三つの領域を統合することで、持続可能な歩行支援体制を構築することができる。
追記まとめ:移動の自由を支える社会へ
歩行訓練士不足は、日本の障害者福祉の構造的課題を象徴する問題である。制度整備の遅れ、教育資源の不足、財政基盤の弱さなど、多くの要因が複雑に絡み合っている。
しかし同時に、この問題は解決可能な課題でもある。配置基準の策定、養成体制の拡充、技術との連携などを進めることで、支援体制を大きく改善することができる。
歩行訓練士が一人増えることは、その地域で数十人の「外に出る自由」を生み出す。それは単なる福祉サービスの拡充ではなく、人々の社会参加を支える社会基盤の整備である。
高齢化社会が進む日本において、視覚障害者の移動支援は今後ますます重要になる。教育・福祉・テクノロジーの三位一体の改革を通じて、「誰もが自由に移動できる社会」を実現することが求められている。
