チャド共和国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

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国名:チャド共和国(Republic of Chad)

首都:ンジャナメ(N'Djamena)

人口:16,877,357人(2021年推定)

面積:1,284,000㎢(日本の3.4倍)

気候:熱帯砂漠気候
・年間降雨量は地域によって異なる。北部のサハラ砂漠エリアは50mm未満、中央は200mm程度、南は1,000mm以上。
・サハラ砂漠エリアは気温の変化が大きい。(最低:14~26℃、最高:30~50℃)
・中央エリアの雨季は6月~9月。乾期は10月~5月。
・南エリアの雨季は4月~10月。乾期は11月~5月。
・砂漠化、水不足、イナゴの大量発生による農作物災害に悩まされている。

・中央エリアのチャド湖の面積は、過去50年間でほぼ半分に減少した。
・観光に適した時期は12月~1月。2月に入ると最高気温は40℃を超える。

経済:
・開発途上国
GDPは107億ドル(2020年推定)
・主要産業は農業とサービス業。
・主要輸出パートナーはアメリカ(59%)、インド(13%)、日本(11%)
・主要輸入パートナーはフランス(17%)、中国(14%)、カメルーン(11%)
・主要農作物はソルガム、ピーナッツ、雑穀、サトウキビ、山芋、トウモロコシ。
・深刻な干ばつ、水不足、インフラの欠如、政治的混乱に悩まされている。
・人口の約65%が貧困ライン以下の生活を送っている。
・世界で最もビジネスに向いていない国のひとつ。
・石油収入の大半は政治家のポケットもしくは武器の購入に使用されている。

人種(民族):
・サラ族 30%(推定)
・アラブ人 10%
・カネンブ族 9%
・マサリート人 7%
・ゴラン族 6%
・200以上の先住民族

言語:
・アラビア語(公用語)(CIAワールドファクトブック)
・フランス語(公用語)
・サラ語
・120以上の先住民族の言語

宗教:
・イスラム教 51.8%(CIAワールドファクトブック)
・ローマカトリック 20.3%
・プロテスタント 23.5%
・アニミスト 0.6%
・その他のクリスチャン 0.3%
・不明 0.6%
・無宗教 2.9%

チャド共和国

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暫定大統領:マハマト・イドリス・デビ・イトノ(Mahamat Déby Itno)

政治体制:共和制
世界で最も腐敗した国のひとつ
・2021年4月20日に現職のイドリス・デビ・イトノ大統領が反政府勢力との戦闘で死亡したと伝えられている。
・1990年以来、軍事政権を維持している。
・国家元首は大統領。任期は死亡するまで。
・一院制。議員定数は155人。任期は4年。
・政府と議会は2021年4月20日に解散し、故デビ大統領の息子のマハマトが暫定議会の指導者に就任した。

法律:チャド共和国の憲法
・司法の独立を保障しているが、市民の大半は公正な裁判にアクセスできない。
・イスラムジハード組織と反政府勢力は政府と憲法を認めていない。
・基本的人権を保障しているにもかかわらず、軍や警察による超法規的殺人、拷問、強姦、殴打が各地で報告されている。
・女性の人権を保障していない。
・子供の人身売買が常態化しており、売られた子供たちは戦闘員、警備員、料理人、見張り役などに利用される。

2020年5月20日/チャド、首都ンジャメナ、故イドリス・デビ・イトノ大統領(ロイター通信)

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渡航情報:
外務省ホームページ
・退避勧告発令中(2021年4月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年4月時点)

治安:極めて悪い
・イスラムジハード組織と反政府勢力が国内で活発に活動している。
イスラムジハード組織ボコ・ハラムとの戦闘が続いている
・チャド軍やナイジェリア軍などで構成される多国籍軍とボコ・ハラムの戦闘が各地で発生しており、渡航は危険。
・2021年4月20日に現職のイドリス・デビ・イトノ大統領が反政府勢力との戦闘で死亡した。
・北部国境付近には地雷と不発弾が多数放置されており、極めて危険。
・自爆テロ、強殺、殺人、強姦、誘拐などの凶悪事件に巻き込まれる可能性がある。
・リビアのイスラムジハード組織と反政府勢力が攻勢を強めている。
・首都ンジャメナでも反政府勢力が頻繁に活動している。
・チャドに日本大使館はない。(カメルーンの大使館が兼任)

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・新聞社は数社あると伝えられている。
・国営テレビ局は2社。
・民間テレビ局は6局あると伝えられている。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は12局あると伝えられている。
報道と言論の自由を保障しておらず、ジャーナリストは命の危険にさらされている
・主要メディア媒体はラジオ。
・インターネット普及率は0.5%。
・検閲は極めて厳しいが市民の大半はインターネットにアクセスできない。
・2018年2月にソーシャルメディアへのアクセスをブロックし、2019年7月まで復元されなかった。

【国営メディア/設立年】
・テレチャド 1987年
・テレチャド地方 1987年

【民間メディア】
・AL NASSOUR TV
・LALE TCTCHAD
・AFRIQUE MEDIA
・その他

チャド共和国/荷物を運ぶ女性たち

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2021年軍事力ランキング:90位

・軍人数:35,000人(推定)
  即戦力 30,500人
  予備兵 0人
  準軍組織 4,500人

・陸軍と空軍を保有。

・国防予算:8,200万ドル(推定)

チャド共和国/政府軍

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1700年代

・1700年代、現在のチャド共和国と周辺地域はバギルミ王国とワダイ王国が支配していた。

・バギルミ王国とワダイ王国は自国の領土外には進出せず、比較的良好な関係だったと伝えられている。

・先住民族たちは独自のコミュニティを構築し、土地固有の農作物を育て生活していた。

1800年代

・1800年初頭、ワダイ王国の王は地域の北側に新たな貿易ルートを構築し、通貨システムを確立させた。

・1810年~1830年代、バギルミ王国とワダイ王国の住民はほぼ全てイスラム教徒だったが、ヨーロッパから持ち込まれたキリスト教を信仰する者も少なからずいたと伝えられている。

・1850年代、フランス軍による征服作戦が本格化。チャドの王国と一部の武闘派先住民族はこれに強く抵抗した。

・1870年代、フランス軍の侵攻を防いだチャドの王国は国内の先住民族を鼓舞し新たな戦いに備えるよう促したが、王国の支配に非協力的な先住民族は応援要請に応じなかったと伝えられている。

・1891年、フランスは抵抗の少ない地域への侵攻を本格化させ、少しずつ支配エリアを拡大させた。

・一部の先住民族はフランスの比較的リベラルな統治スタイルを支持し、王国に反旗を翻した。

チャド共和国/牛の群れ

1900年~第一次世界大戦

・チャドは第一次世界大戦に関与していない。

・1900年4月、フランス軍が先住民族の戦闘が勃発し、両軍の指導者は共に死亡した。

・1905年、先住民族と王国軍はフランスの猛攻に屈し、チャドはフランス領赤道アフリカ(AEF)の管理下に置かれた。

・フランス政府はチャドを最低ランクの植民地と判断し、主に南部の生産的な地域で栽培されている綿の輸出以外には注目しなかった。

・フランス政府はチャドの広大な土地をほとんど放置し、利益を生み出す南部のごく一部だけを統治した。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・1920年、フランスはチャドの完全な支配権を確立し、フランス領赤道アフリカ(AEF)の一部に組み込んだ。

・1939年9月、第二次世界大戦勃発。

・1940年6月末、フランスはナチスドイツに敗れ、チャドはナチスの支配下に置かれた。

・1941年、チャドと周辺地域を統治したフランス人のフィリップ・ルクレール・ド・オートクロク大佐は先住民族軍を指揮し、ンジャメナの北でリビア軍と交戦した。

・1942年1月21日、ドイツの爆撃機がンジャメナを空爆。数百人が死亡したと伝えられている。

・1943年、チャドの先住民族軍はイギリス陸軍の後援を受け、リビア軍を打倒した。

・1945年9月、第二次世界大戦終結。

チャド共和国/市民

終戦~現在

・1960年7月12日、フランス議会がチャドの独立を承認。

・1960年8月11日、「チャド共和国」がフランスから独立。フランソワ・トンバルベイが初代大統領に就任した。

・トンバルベイ大統領は権威主義を強化し、民主主義を主張する野党を叩きのめした。

・1962年1月、トンバルベイ大統領はチャド進歩党(PPT)以外の政党の活動を禁じ、逆らう者はひとり残らず刑務所に収監するか処刑した。政府の取り締まりは非常に厳しく、刑務所に収監された政治家や活動家は数千人に上った。

・1963年、トンバルベイ大統領は中央部と北部の先住民族に対する差別を強化し、国を二つに分断した。

・1965年11月、北中部のゲラ県で不当な税の徴収に反対する大規模な反乱が発生した。軍はこれを力でねじ伏せ、少なくとも500人を殺害し、首謀者を処刑した。

・1966年、北中部の反政府勢力がチャド国立解放戦線(FROLINAT)を設立した。

・トンバルベイ大統領はフランスに支援を要請し、FROLINATを含む反政府勢力と戦ったが、反乱を完全に鎮圧することはできなかった。

・1970年代初頭、トンバルベイ大統領はリビアの独裁者ムアンマル・カダフィ大佐との友好関係を構築し、反政府勢力の主要な武器供給源を断った。

・トンバルベイ大統領はますます非合理的かつ残酷に行動し始め、軍隊、公務員、与党のすべての重要な地位を支配した南部のエリート層にも攻撃を仕掛けるようになった。

・1975年4月13日、軍事クーデター発生。トンバルベイ大統領は戦闘で重傷を負い、死亡した

・1975年4月13日、軍事クーデターを主導したひとり、ノエル・ミラリュー・オディンガー将軍が最高軍事評議会を設立し、暫定議長に就任した。

・1975年4月15日、軍事クーデターを主導したフェリックス・マル―ム将軍が最高軍事評議会の議長兼大統領に就任した。ンジャメナの市民はトンバルベイ元大統領の死と軍事政権の誕生を盛大に祝った。しかし、軍の指導者たちは、トンバルベイ政権の転覆によって得た人気を長く維持することができなかった。

・1978年、イッセン・ハブレが初代首相に就任。

・1979年2月、ハブレ首相率いる反政府勢力は首都に軍隊を送り込み、マルーム大統領を追放し、中央政府を打倒した。

・1979年、チャド・リビア紛争勃発。(反リビアのハブレ首相連合軍vs親リビアの政府勢力軍)チャドの崩壊はフランスの指導力低下を引き起こし、権力の空白を埋めるために介入を決断したリビアは内戦に巻き込まれた。

・1979年11月、国民統一暫定政府(GUNT)が創設され、ググーニ・ウエデイが暫定大統領に就任した。

・フランス軍とナイジェリア、セネガル、ザイール連合(アメリカは資金提供のみ)で主に構成された平和維持軍は、紛争中、中立を維持した。

・1982年6月、ハブレ首相が大統領に就任。

・1983年、親リビアのGUNT軍はリビアの支援を受け、北部と東部を支配する連合軍への攻撃を開始した。これに対し、ハブレ大統領を支持するフランスとザイール軍は激しく反撃し、GUNT軍を押し返した

・1984年9月、フランス政府とリビア政府は、チャドから軍を撤退させる協定に合意した。

・1984年末、フランスとザイール軍はチャドから完全撤退したが、リビア軍は北部地域にとどまった。

・1985年、ハブレ大統領は親リビアの政府勢力と和解し、リビア軍を領土から追放した。

・1987年9月、チャド・リビア紛争終結。フランスなどの支援を受けた反リビアのハブレ大統領連合軍が勝利した。

<チャド・リビア紛争>
・両軍参加者:10万~15万人(推定)
・両軍負傷者:数万人
・両軍死亡者:8,000~12,000人(推定)

・1989年4月、ハブレ大統領の側近のひとり、イドリス・デビがスーダンに亡命。その後、スーダンのザガワ族の支援を受け、チャドへの攻撃を開始した。

・1990年12月、リビアの支援を受けたイドリス・デビの軍隊がチャドに侵攻。フランスはこれを黙認し、ンジャメナは制圧された。ハブレ大統領はチャド国軍が崩壊したため、家族、閣僚の一部らを引き連れ、隣国カメルーンに逃亡した

・1991年2月、イドリス・デビは愛国救済運動(MPS)を創設し、全国憲章を制定したうえで大統領に就任した。

・1992年~1993年、デビ大統領は2度クーデターに直面し、反政府勢力組織の「民主主義と開発のための運動(MDD)」「平和と民主主義のための国家復興委員会(CSNPD)」「チャド国民戦線(FNT)」「西部軍(FAO)」と激しく衝突した。

・1994年、政府とCSNPDは和平協定に合意したが、協定は数カ月で破綻し、全国各地で戦闘が再燃した。

・1996年、初めての複数政党による大統領選挙が実施され、デビ大統領のMPSはカモウゲ将軍率いる野党を破った。

・1997年1月、初めての複数政党による議会選挙。MPSは125議席中63議席を獲得したが、国連のオブザーバーは1996年の大統領選挙と議会選挙を不正選挙と判断した。

・1997年半ば、政府は主要反政府勢力組織の指導部と和平協定を結び、これらの勢力を支援していた中央アフリカ共和国とカメルーンの排除に成功した。

・1997年10月、政府はチャド国民戦線(FNT)などとも和平協定を結んだが、数カ月で新たな衝突が発生し、協定は破綻した。

・デビ大統領は政府の基本的な機能を徐々に回復し、世界銀行および国際通貨基金(IMF)と実質的な経済改革を実施するための協定を締結した。

・2000年6月、世界銀行理事会が石油開発プロジェクトの一部であるチャド・カメルーン石油開発プロジェクトへの資金提供を承認。このプロジェクトは、将来の石油収入が市民に利益および貧困の緩和をもたらすことを保証するために、世界銀行、民間部門、政府、市民社会で独自のメカニズムを構築した。

・2001年5月、大統領選挙。デビ大統領が第一ラウンドで63%を獲得し、勝利を宣言した。

・2003年、スーダン西部ダルフールの難民受け入れを開始。

・2003年中頃、チャド・カメルーン石油開発プロジェクトなどの石油関連事業が竣工。チャドは石油輸出国になった。

・2005年12月、チャド内戦勃発。(チャド・フランス連合軍vs反政府勢力連合軍)

・2006年、チャドは世界銀行と約束した経済開発計画を放棄し、石油収入を国家安全保障に充てると宣言した。これにより、政府は内戦期間中に6億ドル以上の戦闘機、攻撃ヘリコプター、装甲兵員輸送車などを購入し、戦いを有利に進めた。

・2006年4月、反政府勢力のリーダー、マハマト・ヌール・アブデルカリムは、変化への戦線(FUC)などの後援を受け、首都ンジャメナを包囲した。しかし、フランス軍の支援を受ける政府軍はこれを撃退し、数百人を殺害した。

・2006年4月14日、チャド政府がスーダンとの国交断絶を発表。

・2006年11月、反政府勢力はウアダイ地域の都市アベジェを占領したが、政府軍の猛攻に屈したと伝えられている。

・2008年2月1日、反政府勢力のマハマット・ヌーリ、元防衛大臣、デビ大統領の甥などが首都ンジャメナに侵攻し、大統領宮殿を包囲した。しかし、政府軍はこれをことごとく打ち負かし、戦闘に関与した反政府勢力の関係者約20,000人が国外に逃亡した。

・2008年8月、チャドの裁判所は戦争犯罪および人道に対する罪でセネガルに逃亡したハブレ元大統領に死刑を宣告した。

・2010年1月、チャド内戦終結、チャド・フランス連合軍が勝利した。

<チャド内戦>
・両軍参加者:12万~15万人(推定)
・両軍負傷者:数万人
・両軍死亡者:7,000人(推定)
・国内外避難民:20万~25万人(推定)

・2013年、チャド政府は、イスラムジハード組織ボコ・ハラムとマリ連合軍の戦争に介入した。

・2013年6月30日、セネガルの警察がハブレ元大統領を逮捕。

・2016年5月30日、臨時アフリカ商工会議所(セネガルの裁判所)はハブレ元大統領に、大統領在任期間中のレイプ、性的奴隷制の施行、推定4万人の殺害に関与した罪で終身刑を言い渡した。

・2019年1月、イスラエルとの外交関係を回復。

・2021年4月、デビ大統領が北部で発生した反政府勢力との戦闘で死亡した。これを受け、政府と議会は解散し、息子のマハマト・イドリス・デビ・イトノが暫定軍事評議会の暫定議長に就任した。

文化(目次に戻る

・先住民族の文化は一切文書化されておらず、分からないことが多い。

・200を超える先住民族の文化が複雑に入り混じっており、多種多様。

・人口の50%以上が文盲。識字率は30~35%と伝えられている。

・5歳~14歳の就学率は35~40%。(2013年調査)

・主食はキビと米。主菜はトウモロコシ、山芋、輸入魚介類など。

チャド共和国/民家

スポーツ(目次に戻る

・人気スポーツはサッカー、バスケットボール、陸上競技、ボクシング、柔道、釣り。

・バスケットボール代表チームは2011年に初めてアフリカ選手権に出場した。

・オリンピックでメダルを獲得したことはない。

・冬季オリンピックに出場したことはない。

・貧困ライン以下の生活を余儀なくされている市民(人口の約65%)はスポーツにアクセスする機会が極めて少ない。

その他(目次に戻る

・世界で最も腐敗した国のひとつ。

イスラムジハード組織ボコ・ハラムおよび反政府勢力組織との戦いは今も続いている

2008年2月6日/チャド、首都ンジャメナ、故イドリス・デビ・イトノ大統領(中央右)とフランスのエルヴェ・モラン国防相(中央左:当時)(AP通信)
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