◎フジモリ氏は83歳で1990年から2000年までペルーの大統領を務めた。
ペルーの憲法裁判所は17日、殺人と汚職の罪で2010年に禁固25年の実刑判決を受けたアルベルト・フジモリ元大統領を赦免した。
AP通信によると、裁判所の関係者はこの決定について、「2017年に当時のクチンスキ大統領がフジモリ氏に与えた恩赦を復活させたもの」と説明した。
最高裁は2018年の判決でフジモリ氏に対する恩赦を覆している。
クチンスキ元大統領は当時、フジモリ氏の心臓病が悪化したため赦免したと述べていたが、野党勢力はこの決定を議会内のフジモリ派閥の支持を得て弾劾を阻止する試みと非難した。クチンスキ大統領は恩赦から3か月後に辞任した。
地元メディアによると、フジモリ氏の赦免が決まったというニュースが流れると、同氏が収監されている刑務所周辺に多くの支持者が集まったという。
フジモリ氏の弁護士はAP通信の取材に対し、「いくつかの法的手続きを行う必要があり、出所は21日か22日になる見込み」と述べた。
フジモリ氏は83歳で1990年から2000年までペルーの大統領を務めた。
ペドロ・カスティジョ大統領は17日、「ペルーの裁判所は憲法に基づき決定を下す」とツイートした。
トーレス首相は地元ラジオ局の取材に対し、「この決定は国を害するが、政府は司法の決定を尊重する」と述べる一方、「裁判所は大犯罪者の擁護者になっている」と不快感を示した。
フジモリ氏は偏った人物であり、毛沢東を敬愛するゲリラ組織を打ち負かしたことで称賛を集めたが、多くの人権侵害を推進した。
フジモリ氏が大統領に就任した時、ペルーはインフレとゲリラの暴力で荒廃していた。彼は国営産業の大規模な民営化で経済を立て直し、狂信的な極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ」の撲滅に成功し、幅広い層から支持を得た。
フジモリ氏は自作クーデターなどを経て三選を果たしたが、2000年の大統領選後に議員に賄賂を贈る映像が流出し、国外に逃亡した。同氏は両親の故郷である日本で辞表(ファックス)を提出している。
5年後、フジモリ氏はチリで逮捕され、紆余曲折の末、ペルーに送還された。この時同氏は2006年の大統領選に再出馬すると公言していたが、代わりに裁判にかけられた。
昨年の大統領選に立候補した娘のケイコ・フジモリ氏は、当選したら父を釈放すると公言していた。しかし、決選投票でカスティジョ大統領に敗れた。
1985年以降に就任したペルーの大統領は何かしらの汚職問題に直面し、一部は逮捕投獄されている。そのうちの一人は警察に拘束される前に自殺した。
<フジモリ氏の変遷>
1962年:ラ・モリーナ国立農科大学の数学講師に。
1971年:同大学の教授に。
1990年:大統領選挙に立候補、初当選を果たす。
1992年:自作クーデターで議会を解散。司法権も停止。
1992年:ゲリラのリーダーを逮捕。
1995年:再選。
1996年:強制避妊政策を推進。2000年までの間に30万人以上が不妊手術を受けた。
1996年:憲法で禁じられている三選を可能にする憲法の真正解釈法と呼ばれる法律を施行。憲法裁判所はこの法律を違憲としたが、最高裁は支持した。
2000年:三選を果たすも議員に賄賂を贈る映像が流出し、国外に逃亡。
2005年:次期大統領選に出馬すると発表。しかし、亡命先のチリで逮捕された。
2007年:チリ最高裁がペルーへの身柄引き渡しを承認。
2010年:1990年代にペルーで発生した民間人殺人事件を主導した罪などで禁固25年が確定。
2017年:クチンスキ大統領が獄死を防ぐために恩赦を与えると発表。
2018年:リマ市内の病院を退院し自由の身になるも、9か月後に最高裁が恩赦を覆し、拘束、収監された。
2021年:リマ市内の病院に入院。