レソト王国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

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国名:レソト共和国(Kingdom of Lesotho)

首都:マセル(Maseru)

人口:2,108,328人(2018年推定)

面積:30,355㎢(九州の0.8倍)

気候:温帯気候
・内陸の小さな山岳国。
・気候は標高によって異なるが、おおむね温帯。
・最高峰は標高3,482mのタバナ・ヌトレニャナ山。
・南半球のため、四季は日本の逆。
・年間降水量は地域によって多少異なるが、おおむね1,000mm以下。
・首都マセルの夏場(11月~2月)の平均気温は最低が11~15℃、最高は26~28℃。

・首都マセルの冬場(6月~8月)の平均気温は最低が1~2℃、最高は16~19℃。
・観光に最適な時期は11月~3月。
・夏場でも標高の高い地域はかなり涼しいため、羽織れるものを準備しておくこと。

経済:
・後発開発途上国
GDPは20億ドル(2020年推定)
・主要産業は農業とサービス業。
・主要輸出パートナーはアメリカ(60%)、欧州(17%)、アフリカ関税同盟(19%)
・主要輸入パートナーはアフリカ関税同盟(85%)、中国と台湾(14%)

・主要輸出品は衣類、水、ダイヤモンド。

・経済活動は隣国の南アフリカ共和国と統合されている。
・人口の約50%が非公式の農作物栽培または畜産を通じて収入を得ている。
・国の収入の約3分の2を農業部門から得ている。
・人口の約70%が農村部で生活しており、その大半が自給自足農業に従事している。
・アフリカ関税同盟(SACU)加盟国間の貿易は関税免除。
・重要な天然資源は水とダイヤモンド。水は1986年に始まったレソト高地水プロジェクト(LHWP)を通じて関係国に輸出されている。
・貧困ライン以下(生活費:1日1ドル以下)で生活している国民は人口の約60%。

人種(民族)
・ソト族 99.7%(2019年世界人口レビュー推定)
・その他 0.3%

言語:
・ソト語(公用語)
・英語(公用語)
・その他

宗教:
・プロテスタント 47.8%(2014年推定)
・ローマカトリック 39.3%
・その他のキリスト教 9.1%
・無宗教 2.3%
・その他 1.4%

レソト王国

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君主:レツィエ3世(Letsie III)
首相:モエケツィ・マジョロ(Moeketsi Majoro)

政治体制:立憲君主制
・イギリス連邦加盟国。
・国家元首は国王だが、行政権は持っておらず、権限は限られている。
・二院制。イギリスのウェストミンスターシステムをモデルにしており、上院の権限は限られている。
・上院の議員定数は33人、任期は5年。
・国民議会(下院)の議員定数は120人、任期は5年。
・議会の多数派の党首が自動的に首相に任命される。

法律:レソト王国の憲法
・基本的人権と司法の独立を保障している。
・HIV/AIDS患者の権利(差別の禁止など)を保障している。
・同性愛はタブーと見なされているが、LGBTの支援グループは全国で自由に活動していると伝えられている。
・児童労働が全国各地で横行している。
・ギャングによる刑務所内強姦が蔓延しており、国内のHIV/AIDS率が高いため、特に危険と考えられている。レソト矯正サービスによると、女性囚人の約60%がHIV患者だという。

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渡航情報:
外務省ホームページ
コロナウイルス注意情報発令中(2021年6月時点)

治安:普通
・近年、自爆テロや大量殺人などの凶悪事件は発生していない。
・イスラムジハード組織や反政府組織の活動は報告されていない。
・アフリカの中では比較的治安のよい国と考えられている。
・首都マセルでは観光客を標的にした強盗やカージャックなどの事件が複数報告されている。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない方がよい。
・パスポートやキャッシュカードなどの貴重品は極力持ち歩かず、安全な場所に保管すること。
・流しのタクシーには乗車しない方がよい。無許可のタクシーは危険。
・野生動物が徘徊しているため、夜間の外出は控えた方がよい。
・デモや抗議活動が開催されている場所には近づかない。
・治安当局は不審者を厳しく取り締まる可能性があるため、当局者の目につく行動は避けること。

レソト王国/子供たち

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・新聞社は4社。(日刊紙は1社)
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局はない。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は3局。
・報道と言論の自由を保障している。
・主要メディア媒体はラジオ。
・インターネットの普及率は5%未満。
・南アフリカのテレビとラジオを受信できる。
・英BBCワールドサービス(ラジオ)を受信できる。
・検閲はない。

【国営メディア/設立年】
・レソトテレビ 1980年

【民間メディア】
・ー

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2021年軍事力ランキング:ー位

・軍人数:2,000人(推定)
  即戦力 2,000人
  予備兵 0人
  準軍組織 0人

・陸軍と空軍を保有。

・国防予算:7,000万ドル(推定)

レソト王国/レツィエ3世

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1700年代

・1700年代:現在のレソト王国を含む周辺地域の領土は、様々な民族グループによって争われていた。

・ソト語を話す人々は、現在のレソトの領土に定住し、自分たちをバソトと呼んだと伝えられている。

・当時の記録はほとんど文書化されておらず、分からないことが多い。

1800年代

・1820年代:モショエショエ1世はズールー人の侵略を撃退し、様々な民族グループを団結させ、バストランド王国を建国した。

・1834年:先住民族のひとつ、ボーア人がバストランドに侵攻。一連の戦争は数十年続き、バストランドは現在の「失われた領土」と呼ばれている多くの土地を失った。

・1843年:南アフリカのグリクアランド王国とボーア人が停戦協定に合意。

・1853年:ボーア人とイギリスは小さな戦争の後、停戦協定に合意。ボーア人は多くの軍事的成功を収め、バストランドの兵士約1,500人の殺害し、多くの耕作地を併合した。

・1867年:バストランドの領土の大半はボーア人に占領された。モショエショエ1世はイギリスの高等弁務官フィリップ・エドモンド・ウォードハウスに支援を求めた。

・1868年3月:イギリス議会はバストランドを保護領にすることに合意し、ボーア人に土地から去るよう命じた。

・1869年2月:イギリスとボーア人はバストランドの保護領の境界を定めたアリワルノース条約に合意した。

・1870年:モショエショエ1世死去。遺骨はタバボシウの頂上に埋葬された。

・1871年:バストランドはケープ植民地(現在の南アフリカ)に組み込まれた。

・1879年:南部の首長ムーロシが反乱を起こした。しかし、抵抗軍はケープ植民地の自治政府に打倒され、ムーロシは死亡した。

・1880年~1881年:ケープ植民地に反対する民族が各地で反乱を起こしたが、イギリス軍に圧倒された。

・1881年:イギリスはバストランドとの平和条約締結を目指したが、民族グループの首長たちは要求を却下した。

・1884年:バストランドはケープ植民地支配に反抗し続け、イギリスに征服された。しかし、首長は高度な自律性を保持すると宣言し、イギリスもこれを容認した。

・記録によると、人口は1875年の12万人から1901年には31万人に、1904年には約35万人に増加した。

レソト王国/農村部の集落

1900年~第一次世界大戦

・バストランドは第一次世界大戦に関与していない。

・1905年:首都マセルと南アフリカを結ぶ鉄道が完成した。

・1910年:南アフリカ連邦設立。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・1939年9月:第一次世界大戦勃発。

・バストランドの兵士約2万人がイギリス軍に仕えた。

・1945年9月:第二次世界大戦終結。バストランドの兵士の正確な死者数は明らかにされていないが、1万人以上が犠牲になったと伝えられている。

レソト王国/親子

終戦~現在

・1950年代:植民地支配に反発する政党が活動を本格化させる。

・1965年4月:最初の議会選挙。バソト国民党が65議席中31議席、バソトランド会議党が25議席を獲得した。

・1966年10月4日:バストランドはイギリスから独立。国名を「レソト王国」に変更し、モショエショエ2世が国王、バソト国民党のレアブア・ジョナサンが初代首相に就任した。

・1970年1月:独立後最初の議会選挙。リベラル派の野党バソトランド会議党がバソト国民党を破ったが、ジョナサン首相は非常事態を宣言したうえで憲法を一時停止し、モショエショエ2世を一時的に亡命させた。

・1973年:ジョナサン首相は暫定議会を任命し、1970年の議会選挙の結果をあらためて却下した。

・1986年1月:南アフリカはレソトとの国境を閉鎖し、反アパルトヘイト活動家を国外に追放するよう要求した。

・1986年1月:軍事クーデター発生。ジャスティン・レハンヤ少将率いるクーデター軍はジョナサン首相を追放したうえで、モショエショエ2世および議会と協力してレソトを統治すると宣言した。

・1990年2月:レハンヤ首相はモショエショエ2世から行政権と立法権を剥奪したうえで国外に追放し、閣僚評議会を粛清し、レハンヤ3世としてレソトを統治すると宣誓した。

・レハンヤ3世は軍隊の規律を弱体化させ、既存の権威を破壊し、レソトのイメージを傷つけた外交政策の行き詰まりを引き起こした議会を厳しく非難した。

・1991年:軍事クーデター発生。エリアス・ツツォアン・ラマエマ大佐主導の将校グループはレハンヤ3世を追放した。

・1993年:議会選挙。リベラル派のバソトランド会議党が第一党に躍進した。

・1993年:新憲法公布。国王は行政権を持たず、政治に関与することを禁じられた。

・1994年8月:軍事クーデター発生。追放されたレツィエ3世は軍の一部のメンバーと協力して政府を攻撃し、議会活動を一時停止させ、軍事評議会の再開を宣言した。しかし、国内外から圧力を受けた結果、バソトランド会議党は1か月以内に政権に復帰した。

・1995年5月:警察が賃金の見直しを求めるストライキを決行した。

・1995年~1996年:モショエショエ2世は王位に復帰したが、1996年1月に交通事故で死亡した。これに伴い、レツィエ3世が再び王座に返り咲いた。

・1997年1月:賃金の引き上げを求める一部の警察官が暴動を引き起こした。政府軍はこれを厳しく取り締まり、リーダーを逮捕した。

・1998年5月:議会選挙。レソト民主会議(LCD)が勝利し、パカリタ・モシリが首相に就任した。その後、議会選挙の結果に反発する野党が暴動を起こしたため、南アフリカ開発共同体(SADC)は秩序回復を支援するために軍隊を派遣した。

・1998年8月:議会選挙の結果に反発する暴力的なデモが王宮の外で開催され、前例のないレベルの暴力と略奪に発展した。

・1998年9月:国軍の反乱勢力が軍事クーデターを起こしたが、政府はこれを何とか阻止し、治安を安定させるために、再びSADCに支援を求めた。

・1998年9月:南アフリカ主導のSADCがレソトに入り、反乱勢力を鎮圧した。

・1999年5月:SADCの主力部隊がレソトから撤退。レソト軍の兵士を訓練する小隊は治安維持活動を継続した。

・2002年6月:議会選挙。LCDが勝利し、モシリ首相の2期目が始まった。

・2004年2月:モシリ首相が非常事態を宣言し、国際社会に食糧援助を呼びかける。人道団体は、干ばつと約3年にわたる政治闘争の影響で、数十万人が深刻な食糧不足に直面していると警告した。

・2004年3月:政府は南アフリカに水を供給する数十億ドル規模のレソト高地水プロジェクトを開始した。

・2007年2月:議会選挙。与党LCDが80の選挙区のうち61で勝利した。主要野党の全バソト会議(ABC)は選挙結果に異議を唱えた。

・2007年7月:モシリ首相が非常事態を宣言。レソトは過去30年で最も深刻な干ばつに直面し、数十万人が食料支援を求めた。

・2012年5月:議会選挙。野党ABCが勝利し、トーマス・タバネが首相に就任した。

・2014年8月:タバネ首相はケネディ・トライ・カモリ中尉率いるクーデター軍が政府の転覆を企てていると主張し、南アフリカに逃亡した。

・2015年2月:議会選挙。パカリタ・モシリが連立政権の首相に就任した。

・2017年6月:議会選挙。モシリ首相は敗れ、南アフリカから帰還したトーマス・タバネ元首相が首相に復帰した。

・2017年9月:陸軍将軍が何者かに射殺され、緊張が高まる。南アフリカ主導の多国籍治安部隊が緊張を和らげるために配備された。

・2020年5月19日:元妻を殺害した容疑で告発されたタバネ首相は数カ月間圧力に耐えたが、辞任した。

・2020年5月20日:モエケツィ・マジョロが首相に就任。

文化(目次に戻る

・ソト族とイギリスの文化が混ざり合っている。

・ソト族を含む先住民族の文化はほとんど文書化されておらず、分からないことが多い。

・茅葺き屋根の住宅が今でも一般的。首都マセルは波板が主流と伝えられている。

・主食は米。主菜は地元でとれる野菜、豆類全般、羊肉、山羊肉、トウモロコシなど。

・特に人気の高い伝統料理はカレー、シチュー、ケバブ。

レソト王国/市場

スポーツ(目次に戻る

・人気スポーツはサッカー、クリケット、バスケットボール。

・レソトプレミアリーグ(アマチュアサッカー)を運営している。

・オリンピックでメダルを獲得したことはない。

・冬季オリンピックに出場したことはない。

その他(目次に戻る

・アフリカの中では比較的治安のよい国と認識されている。

・南アフリカの支援に大きく依存している。

レソト王国/首都マセル
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