今回は豊後大野市他4市1郡の最恐心霊スポット12カ所(PART1)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
大分県内には、隠れキリシタンの関連遺構が数多く残されている。
豊後国の藩主たちは、キリスト教に寛容だったと考えられている。しかし、全ての藩がキリスト教を受け入れたわけではなく、結果、様々な軋轢を生むことになった。
隠れキリシタン関連遺構の一部では、頻繁に霊が目撃されている。今回も様々な方にご協力いただき、「何かしらのトラブルあったのだろう」とイメージしながら調査を行った。
目次
1.豊後大野市
・下赤嶺キリシタン墓群
・滞迫峡
2.竹田市
・若宮井路笹無田石拱橋
・キリシタン洞窟礼拝堂
3.佐伯市
・三国峠
・北川ダム
4.玖珠郡
・西椎屋の滝
・新中塚トンネル
5.日田市
・永山城跡
・曽田ノ池
6.宇佐市
・平家七人塚
・凶首塚古墳
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下赤嶺キリシタン墓群
豊後大野(ぶんごおおのし)市三重町の繁華街から少し離れた住宅地の一角に『下赤嶺(しもあかみね)キリシタン墓群』はある。これは、その名の通りキリシタンたちを埋葬した墓所である。
豊後国(大分県)はキリスト教に寛容な土地だった、と言い伝えられている。キリスト教を信仰する有力な「キリシタン大名」も多く、戦国時代に活躍した「大友宗麟(おおともそうりん)」はその代表格だった。
しかし、江戸徳川幕府の時代になり、潮流が変わった。キリスト教は異端、邪教と名指しで批判され、1612年の禁教令発布後、取り締まりと弾圧は激しさを増した。
下赤嶺キリシタン墓群では、頻繁に霊が目撃されている。目撃された霊は、「血だらけの女性が立ち尽くしていた」「悲鳴が聞こえた」「遺体が山積みにされていた」など。
同墓所には、過酷な取り締まりや拷問の末に憤死したキリシタン数十名が眠っている。三重町で生まれ育った老婆曰わく、「この墓所には、豊後国で捕縛されたキリシタンの一部が眠っている。当時、すぐ近くにキリシタンたちを投獄した監獄や処刑場があり、そこにさらされた遺体を隠れキリシタンたちが秘かに供養した」という。
江戸時代前期、仏教徒であると上手く偽った隠れキリシタンたちは、処刑場や河原などにさらされ、骨になった同胞の遺体を回収し、手厚く供養した。同地を治めていた高田藩は、遺体の後処理を領民に任せていたため、隠れキリシタンたちは苦労することなく骨を集めることができたのである。
邪教を信仰するキリシタンの遺体が手厚く葬られていると噂になったのは、厳しい取り締まりが始まってから数年後のことだった。領民たちは隠れキリシタンたちに引導を渡すべく調査を開始。遺体が埋葬されていると噂になった墓所を監視した。
足しげく墓所に通う男女数名を確認した領民たちは、キリシタンのアジトと思われる施設を突き止めることに成功する。そこには、領民たちとも付き合いのある商人、農民、女性たちが一堂に会し祈りを捧げていた。
領民たちはクワ、ナタなどを持参し、施設を包囲。一斉攻撃を仕掛け、ロザリオを隠し持った男女計35名の捕縛に成功した。
領民たちが自分たちの考えでキリシタン狩りを実行したと聞き、高田藩藩主は大いに喜んだ。そして、成功を収めた成果として金、米、作物などを与えたという。
捕縛された35名は、四畳ほどの広さしかない牢獄に無理やり押し込まれた。全員直立不動、押し合いへし合い状態で、身体が押され持ち上がる者すらいたという。
35名は、立ったまま眠り、糞尿はその場で垂れ流し。食料は与えられず、上部からぶちまけられた水で喉の渇きを癒した。
一週間後、半数以上が死に、腐りかけていた。生き残った数名も餓死寸前、身動きは一切とれず、死を待つのみだった。
腐乱臭を解消すべく、役人たちはキリシタンたちに枯れ葉、松の葉、松ぼっくり、火薬と油をぶちまけ、火を放った。瀕死状態ながらも生き延びていた数名は遺体と共に焼却処理された。
彼らの遺体は、キリシタンを供養したとされる墓所に遺棄され、野生動物のエサになった。以来、同地には悲惨な死を遂げた隠れキリシタン35名の怨霊が出没すると噂になり、誰も寄り付かなくなったという。
<まとめ>
◎同胞たちのために活動した隠れキリシタン35名は、人間以下の扱いを受けたのち、焼却処理された。
◎苦痛の末に憤死した35名は、下赤嶺キリシタン墓群で怨霊化し、今もその周囲を彷徨っている。
基本情報 | |
心霊スポット | 下赤嶺キリシタン墓群 (しもあかみねきりしたんぼぐん) |
所在地 | 〒879-7111 大分県豊後大野市三重町赤嶺 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約2時間5分 【高速】大分空港から約1時間35分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 豊後大野市 公式ホームページ |
滞迫峡
標高1,756mの祖母山(そぼさん)に端を発する一級河川「奥岳川(おだだけがわ)」および、その中流域に形成された『滞迫峡(たいざこきょう)』は、豊後大野ジオパークを代表するジオサイトのひとつである。
滞迫峡は、高さ数十メートルの絶壁と見渡す限りの大自然に覆われ、川(渓谷)でトレッキングや水遊びを楽しみたい方向けの自然系観光スポットとして人気を集めている。
同エリア周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。「男女が断崖絶壁から身を投げた」「川から髪の長い女性が這い出てきた」など、夜に近づくと恐ろしいものを見る、と噂になった。
豊後国の歴史を研究する歴史家のE氏に連れられ、私は滞迫峡のある豊後大野市緒方町を訪ねた。理由は、同地で生まれ育ったM氏という御仁から、貴重な伝承資料を持っている、と伺ったためである。
M氏曰わく、「滞迫峡は自殺の名所と呼ばれていた。そう呼ばれるようになったのは、江戸時代中期頃から。戦国時代から100年以上経過し、人々の生活にある変化が生じた。平穏で代わり映えのしない生活にウンザリした一部の男女が不倫に走り、町や集落はその噂話で大変盛り上がった」とのこと。
当時、不倫は重罪中の重罪だった。特に既婚の女性が別の男と密通した時は「切り捨て御免」が適用され、夫は妻とその相手を殺しても一切罪に問われなかったのである。なお、妻子を持つ夫が未婚の女性と密通しても罪には問われなかった。
夫との関係に辟易した女性は、若く健康な男や武士に憧れ、不倫に走った。しかし、バレれば切り捨て御免。夫に切られなかった場合は、取り調べののち、斬首刑。いずれにしても死は免れない。
ある日、うだつの上がらない下級武士がライバルの上級武士を排除すべく、妻と結託して美人局作戦を実行した。妻は素晴らしい美貌の持ち主だったが、ひねくれた性格の持ち主で、下級武士に嫁がざるを得なかったという。
妻は夫を出世させるべく、昇進の障害になる上役の排除を決断。標的の男に忍び寄り、美貌の虜にした。後は肉体関係を結べばOKである。夫は切り捨て御免により、ライバルを排除した。
この流れでいくと妻も斬首されてしまうため、下級武士は「妻と和解した」と同僚たちを上手く言いくるめた。しかし、何度も同じ手が通用するほど世の中甘くない。二人は別の作戦を考えた。
下級武士と妻は、若い女子を騙し、標的(ライバル)の元に放った。そして、ライバルが若い女子と密通している現場を押さえ、強迫したのである。この作戦は大成功だった。
若い女子に惚れ込んだライバルたちは、身分を捨てる覚悟で逃亡した。しかし、下級武士は不倫の末に二人が逃亡したと通報、追撃隊の指揮を執る地位に出生していたおかげで、心置きなくライバルを捕縛することができた。
逃亡に成功した数組は、滞迫峡で愛を育み、谷底(渓谷)に身を投げたと言い伝えられている。なお、若い女子を騙しライバルを排除し続けた下級武士は、最後の仕上げとして、妻に不倫の疑いをかけ、叩き切ろうとした。しかし、切り捨てた妻の隠し持っていた短刀に気づかず、喉を掻かれ死んだ。
その後、二人の悪事は公にあり、遺体は市中引きずり回しののち串刺し。首および胴体は滞迫峡の河原にさらされたという。
<まとめ>
◎滞迫峡は自殺の名所。若い男女が高さ数十メートルの断崖から身を投げた。
◎美人局作戦を実行した下級武士と妻の死後も、不倫に走り渓谷に身を投げる男女は後を絶たなかった。
基本情報 | |
心霊スポット | 滞迫峡 (たいざこきょう) |
所在地 | 〒879-6863 大分県豊後大野市緒方町滞迫 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約2時間25分 【高速】大分空港から約1時間55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間15分 【高速】大分駅から約1時間15分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | ツーリズムおおいた 公式ホームページ |
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若宮井路笹無田石拱橋
『若宮井路笹無田石拱橋(わかみやいろささむたせっきょうきょう)』は、一級河川「笹無田川(ささむたがわ)」の中流域に架橋されたアーチ型水路橋である。
工事竣工は1917年。現在も現役の水路として機能しており、周辺地域の田畑などに水を供給している。昨年、友人のシャーマン(鹿児島在住、テレビ出演経験あり)が、同橋周辺に出没する霊の供養(除霊)を依頼され、なぜか私も同行することになった。
私は、シャーマンを放置し、依頼者のご両親から同地の伝承資料を見せてもらった。K氏曰わく、「水路橋が架橋される100年程前、同地である事件が発生し、以来、憤死した男女の霊が出没するようになったと言い伝えられている。主(しゅう)殺しの罪を償うのは当然だと思うが、霊が出没するようになった結果、水路橋の工事中に事故が頻発し、さらに、笹無田川でも水の事故が相次ぐようになった」という。
K氏の伝承資料には水路橋の工事中に事故が複数回発生した、と記されていた。しかし、竹田市史にはなぜか記されておらず、真偽を確認する手立てはなかった。水の事故についても同様である。
1820年、同地の有力な土地持ちだった臼田氏は、領民に金を貸しつけ、返済できない者の土地を奪う、という手法で力を蓄えていた。また、好色家として知られ、若い女子を遊女奉公(性奴隷)として20人以上飼育していた。
若い女子の中でも飛びぬけて美しかった「ハル」は、11歳の時に性奴隷として奉公。以来、臼田氏の大のお気に入りになった。ハルは、連日連夜、主に恥ずかしめられた。
ハルは女児を二人出産したが、奴隷の子は処理される運命だった。女児はいずれも生まれた直後に殺処理され、笹無田川の河原に埋められた。
生きる気力を失っていたハルは、臼田氏の元で働く男子に恋をした。二人はすぐに意気投合し、夜な夜な密会を重ね、愛し合ったという。しかし、臼田氏お抱えの性奴隷だったハルは、人生を諦めていた。
最愛の人の運命を憂いた男子は、「主を殺し駆け落ちしよう」と提案。ハルはこれを受け入れた。
夜、臼田氏の寝床に乱入した男子は、包丁で主の喉を掻き切った。その直後、異変に気付いた屋敷内の者たちが臼田氏の遺体を発見し、役所に通報。ハルと男子のみ姿がなく、役人たちは二人の犯行と断定し捜索を開始した。
二人は駆け落ちに備えて準備を進めていたが、役人たちの追跡をかわすことはできず、事件発生から2日後に捕縛された。
男子は主殺しの罪に問われ、身分剥奪ののち、皮剥ぎの刑に処された。ハルは男子が目の前で切り刻まれるところを見せつけられた。
ハルは男をたぶらかし、お世話になった主を殺した主犯に仕立て上げられた。まず、髪の毛を1本残らずそり落とされ、百叩きの刑に処された。そして、半死半生状態になると、湯立った窯の中に押し込まれ、焼け死んだ。その後、二人の遺体は笹無田川の中流域にさらされたという。
シャーマンが除霊を行った直後、私は若宮井路笹無田石拱橋の下を流れる笹無田川で女性の霊を目撃した。二人組だったように思えるが、詳細は分からずじまい。同橋周辺で目撃されてきた霊が成仏したか否かについても不明である。
<まとめ>
◎若宮井路笹無田石拱橋は現役のアーチ型水路橋。霊が出没すると以前から噂になっていた。
◎同地周辺に出没する霊は、主殺しの罪で処刑されたハルと男子だと思われる。
基本情報 | |
心霊スポット | 若宮井路笹無田石拱橋 (わかみやいろささむたせっこうきょう) |
所在地 | 〒878-0005 大分県竹田市大字挟田2296-3 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約2時間 【高速】大分空港から約1時間40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 農林水産省 公式ホームページ |
本日最後の名所は若宮井路笹無田石拱橋、名前長い。
— (椎)イケニタ(茸) (@ikenita6) March 11, 2018
一時ゆっくりしたら帰路につきます。 pic.twitter.com/nrLyHxokv8
キリシタン洞窟礼拝堂
竹田(たけた)市には隠れキリシタン関連の遺構が数多く残されている。この地域を治めた岡藩はキリスト教に寛容で、江戸幕府の禁教令(1612年)発布後も、キリシタンたちの存在を黙認した、と考えられているようだ。
ここで紹介する『キリシタン洞窟礼拝堂』は、同地を代表するキリシタン関連遺構である。洞窟内に設けられたドーム状の祭壇と礼拝堂にキリシタンたちが集まり、祈りを捧げていたと言い伝えられている。
同礼拝堂は、ただならぬ不穏な気配を放っている。見た目もかなり不気味なので、夜に近づくことはおすすめしない。
目撃された霊は、「遺体が山積みにされていた」「炎に包まれた人間を見た」「血だらけの男女が襲いかかってきた」など、人間に敵意を向けるものも確認されている。
私は先に述べた「若宮井路笹無田石拱橋(わかみやいろささむたせっきょうきょう)」の除霊を終えた友人のシャーマンと、同地の歴史に詳しい某大学教授のご自宅を訪ねた。
H氏曰わく、「キリシタン洞窟礼拝堂の司祭は、キリスト教に対する厳しい取り締まりと弾圧の影響で他国(藩)から逃れてきた者たちも受け入れていた。その後、コミュニティは数百名規模にまで膨れ上がった。結果、キリスト教に一定の理解を示してきた岡藩も、これを意図的に見逃すことは難しくなった」という。
キリスト教を邪教と信じている周辺住人たちは、コミュニティが拡大する様を見て恐怖した。しかし、この事実を岡藩に伝えても、なぜか厳しい取り調べは行われなかった。
周辺住人のリーダー的な存在だった裕福な商家は、キリシタンが集結していることを江戸の知人から幕府の実力者に伝えた。禁教令を発布していた幕府は、藩ぐるみでキリシタンが確保されていると考え、岡藩に使いを送った。
幕府は岡藩に対し、「通報されたことがもし事実であれば、お家取り壊し、藩主、その親族、家臣および関係者は全員死罪」と強烈な圧力をかけた。
岡藩はキリシタンを指導する司祭にありのままの事実を伝え、生け贄を差し出すよう命じた。従わねばキリシタンだけでなく、岡藩も江戸幕府に打ち滅ぼされるのである。
司祭は自分自身と使いの者、そして、仲間たちのために命を捨てると申し出た男女15名を生け贄にすると決めた
数週間後、幕府関係者立ち合いのもと、キリシタン洞窟礼拝堂の調査が行われ、男女20名がその場で処刑されることになった。岡藩は河原の処刑場を使うつもりだったが、幕府関係者は信者の血で礼拝堂を汚し尽くし、二度と人が立ち入らないようにしたい、と考えたのである。
キリシタンたちは、ひとり残らず「鋸(のこ)引きの刑」に処された。
この刑は残酷極まりないものだった。まず、足を広げた状態で逆さまに吊るし上げる。その状態で股に長いノコギリを当て、頭頂部めがけて身体を真っ二つに切り裂くと、礼拝洞内は血肉と内臓にまみれた。その後、遺体は干物のように吊るされ、三日三晩さらされたのち、焼却処理された。
生け贄になった男女20名のおかげで生き延びた隠れキリシタンたちは、彼らの血肉と内臓を全て回収し、キリシタン洞窟礼拝堂近くに埋葬。墓にクルスを設置することはできなかったが、同胞たちの死を悼み、未来永劫その死を忘れないと誓ったという。
<まとめ>
◎キリシタン洞窟礼拝堂内は不穏な雰囲気に包まれており、今も霊が頻繁に目撃されている。
◎同胞たちのために命を捨てた20名の男女は、鋸引きの刑の処され、地獄の苦痛の果てに怨霊化した、のかもしれない。
基本情報 | |
心霊スポット | キリシタン洞窟礼拝堂 (きりしたんどうくつれいはいどう) |
所在地 | 〒878-0013 大分県竹田市大字竹田 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約2時間5分 【高速】大分空港から約1時間40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 竹田市観光ツーリズム協会 公式ホームページ |
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三国峠
戦国時代、臼杵(うすき)藩、岡藩、佐伯(さえき)藩の境界に位置する『三国(みくに)峠』では、三藩(三国)による激しい領土争いが繰り広げられていた。また、約300年後に発生した西南戦争でも同地は激戦地となり、多くの死傷者を出した。
現在の三国峠は車両で通行可能。ただし、別の県道や町道が建設されたため、通行量は決して多くない。さらに、走行中のドライバーやハイカーなどから霊を見たという目撃情報が相次いで寄せられ、好んで通行する者はさらに少なくなったという。
この峠およびその周辺では、幾度となく合戦が繰り広げられた。その中で最も規模の大きな戦いと言い伝えられているものが、岡藩vs佐伯藩の一騎打ち、通称「本匠(ほんじょう)の戦い」である。
この戦いを取り扱う歴史書は非常に少なく、私も大分県の心霊スポット調査を行うまで全く知らなかった。佐伯市で生まれ育ったI氏曰わく、「本匠の戦いにおける両軍の死者数は数百名にのぼったと言われている。特に、敗れた佐伯藩の損耗は激しく、この戦い以降、領土拡大を諦め、自国の防衛にのみ戦力を注がざるを得なかった」とのこと。
1577年、標高630mの三国峠周辺に到着した佐伯軍は、800名の本部隊と200名の別動隊を編制し、合戦に備えた。なお、別動隊は岡藩の横っ腹に狙いを定め、本部隊とは別の場所で攻撃のタイミングを伺っていた。
一方、同地での戦いに精通していた岡軍は、佐伯軍が別動隊で急襲を仕掛けてくると読み切っていた。しかし、これに対処すれば時間と兵力を失う可能性があったため、藩主は敵本軍到着次第、一斉攻撃を仕掛けると決めていた。
合戦場に到着した佐伯軍は、ゆったりとした動きで本陣をこしらえていた。この様子を確認した岡軍は、全軍に突撃指示を出す。
佐伯軍は、敵兵約1,500名が怒号と共に動き出したため、泡を食わされた。一部の兵士はのんびり弁当を食べており、鎧すら来ていない。佐伯軍は隊列を整えることに失敗した。
予想通り、統率をとる間もなく急襲された佐伯軍は総崩れとなり、徹底を余儀なくされた。一方、狙い通りの展開になった岡軍は、敵軍別動隊200名が大慌てで合戦場に現れたところを狙い打った。
佐伯軍別動隊200名中180名が討ち取られ、残りは捕虜になった。報告を受けた佐伯藩藩主は、岡軍に使いを送ったうえで敗北を認め、捕虜の開放を求めた。
しかし、岡軍はこの申し出を拒否し、さらに使いの者を叩き切った。以前、岡藩は別の合戦で佐伯藩の夜襲を受け、兵士数十名を失っていたのである。
岡軍は捕虜を自国の集落まで移送、全身の皮を剥ぎ、火刑に処した。この様子を見た領民たちは、佐伯藩の完全敗北に大喜びし、花見を催したという。
数日後、岡藩の領地で処刑された捕虜たちは、三国峠の境界点、佐伯藩のエリアに遺棄され、野生動物のエサになった。なお、この情報を入手した佐伯藩は遺体を回収しようと現地に出向いたが、時既に遅しだったという。
三国峠およびその周辺で目撃される霊は、「槍を構えた騎兵隊が襲いかかってきた」「遺体があちこちに散乱していた」「悲鳴が聞こえた」など。
<まとめ>
◎三国峠およびその周辺は、戦国時代の合戦場。西南戦争でも激戦が繰り広げられた。
◎合戦場(戦場)に霊は付き物。なお、同地周辺には街灯が一切ないため、散策は明るい時間で終えること。
基本情報 | |
心霊スポット | 三国峠 (みくにとうげ) |
所在地 | 〒876-0216 大分県佐伯市本匠大字山部 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約2時間25分 【高速】大分空港から約1時間50分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間10分 【高速】大分駅から約1時間5分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 大分県 公式ホームページ |
北川ダム
『北川ダム』は、一級河川「北川」の中流域に建設された治水および水力発電用多目的ダムである。貯水用人造池は大分県最大の貯水容量を誇り、周辺地域および下流域の安全と電力供給の一部を担っている。
同ダムは1962年の工事竣工以来、霊の目撃情報が後を絶たず、一部の周辺住民に「幽霊ダム」と呼ばれている。なお、幽霊が出ると恐れられてはいるものの、それが出没する理由を知っている者は非常に少ない。
私は大分県出身の某大学教授のE氏の誘いで北川ダム調査に同行した。同ダムの人造池の底に沈む「田代橋」と「時間橋」は、渇水期のみ見学可能できる幻の橋である。
E教授曰わく、「江戸時代、人造池のエリア付近に無間(むま)集落と呼ばれる人口数十名の小さな集落が存在した。彼らは平家一族の末裔と噂されていたが、それを証明する証拠はなく、また、住人たちはひとり残らず真面目に税を納め、佐伯藩からの評判も抜群に良かった。しかし、1679年に発生した事件以降、同地は呪われた土地と呼ばれるようになった」という。
E教授が入手した伝承資料によると、無間集落の住人たちは平家一族の末裔と噂されていたものの、皆素行が良く、働き者ばかり。商家として大成功した者が集落内に数名おり、納税の遅延も皆無だったため、佐伯藩からの評判はすこぶる良かったらしい。
1677年、同地および周辺の広い範囲で大規模な飢饉が発生した。雨が数カ月降らず、田畑は枯れ、川の水も干上がった。しかし、無間集落には天然の井戸が10カ所ほどあり、その水は全く枯れなかったという。さらに、住人たちは日頃から米や作物を皆で協力して蓄えていたため、普段と変わらぬ生活を送ることができた。
米の在庫量は10年飢饉が続いても耐えられるほどだった。この噂を聞きつけた他の集落住人は、無間集落に助けを求めた。
無間集落の人々は飢えた者を助け、コミュニティを少しずつ拡大させた。他の集落から移動してきた者たちは、肥沃(ひよく)な大地と水に感動し、土地を開墾。作付面積を少しずつ広げた。
2年後、飢饉は完全に解消され、人々はようやく本来の生活を取り戻した。無間集落はこの2年で作付面積を大きく増やし、佐伯藩に献金できるほどの財力を得た。
1679年、飢饉時に無間集落へ移住した者たち数十名の行方が分からなくなっている、という噂が流れた。しかし、佐伯藩は税金だけでなく献金まで収めてくれる住人たちを中傷する悪い噂と決めつけ、これを一蹴した。
一方、「無間集落には何かある」と勘繰った周辺集落の住人たちは、独自に調査を開始。しかし、消えた数十名に関連しそうな証拠は何一つ見つからなかった。
追いつめられた住人たちは、若い男たちを武装させ、無間集落を乗っ取ったうえで真実を白状させると決心。真夜中に襲撃を仕掛けるべく動き出した。
数日後、佐伯藩の役人数名は、行方不明になった若い男たちを捜索すべく、無間集落を訪れた。住人たちは集落内の施設を隅から隅まで開放し、「ここには何もない」ことを証明した。
結局、飢饉時に移住した者たちと若い男たち数十名に関する証拠は何一つ見つからなかった。なお、無間集落の住人たちは、下流域の広大な土地に全員移住し、消えた男たちに代わって町を治めた。
この大移住後、無間集落は完全閉鎖され、なぜか霊が出没するようになったと言い伝えられている。目撃された霊は、「人間が磔にされていた」「バラバラ遺体が道端に転がっていた」など。
<まとめ>
◎北川ダムの人造ダム池周辺には、無間集落と呼ばれる謎の村があった。
◎行方不明になった者たちがどうなったかは分からずじまい。また、無間集落と平家一族の関連についても真偽不明である。
基本情報 | |
心霊スポット | 北川ダム (きたがわだむ) |
所在地 | 〒879-3302 大分県佐伯市宇目大字南田原 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約2時間35分 【高速】大分空港から約2時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間20分 【高速】大分駅から約1時間15分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 大分県 公式ホームページ |
田代橋(大分県佐伯市/1908年)
— 藤沢うるう / 建築・土木・遺産・近代 (@u_ru_u) September 9, 2017
1962年に完成した北川ダムに沈み、渇水期しか見ることができません。橋の袂までは現道の脇から近づくことができますが、入って3歩目でヤマビルが私にお辞儀していたため早急に退散。近くに紀念碑も残ります。 pic.twitter.com/p94Qh3Xy9g
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西椎屋の滝
玖珠(くす)郡と宇佐市の境界、二級河川「日出生川(ひじゅうがわ)」の中流に建設された「日出生ダム」は、周辺地域の田畑に水を供給する灌漑(かんがい)ダムである。
ここで紹介する『西椎屋(にししいや)の滝』は、日本の滝百選に選出され、西日本一美しいと言われていた。しかし、日出生ダム建設に伴い、滝つぼ周辺の大規模開発が進んだことで、かつての圧倒的な美しさは失われてしまったという。
この滝は、ダムが建設される以前(1979年竣工)から霊が出没すると噂になっていた。目撃された霊は、「滝つぼから男が這い出てきた」「途中の林道に生首がさらされていた」など。
私は大分県出身の某大学教授、E氏と共に、玖珠郡玖珠町出身で同地の伝承に詳しいA氏のご自宅を訪ねた。A氏曰わく、「江戸時代、西椎屋の滝周辺には大名家ばかりを狙う賊のアジトがあった、と言い伝えられている。この一味は、お家取り壊しなどで行き場を失った元武士たちによって立ち上げられ、九州中で悪事を働いたと言われている」とのこと。
A氏の伝承資料によると、一味の名は不明、大名家ばかりを狙い、手に入れた金、米、その他の作物などは、貧しい者たちに分け与えていたという。周辺集落の住民たちは、一味のことを「義賊」と呼んでいたようだ。
しかし、狙われた大名家の関係者たちは、いずれも悲惨な最期を迎えていた。ある有力者は、家族、親族、友人、知人が一堂に会した場を襲撃され、ひとり残らず切り殺されている。この有力者を狙った事件は、「日出生事件」と呼ばれ、同地を治めていた森藩の逆鱗に触れた。
1666年、藩主の久留島通清(くるしまみちきよ)は、賊の殲滅を家臣に指示。この命を受け、桑原氏は200名の大隊を編制し、西椎屋の滝を目指した。
大隊は滝を取り囲むようにゆっくり進軍、賊たちの動きを封じ込めたと信じていた。数時間後、滝つぼに到達した先陣部隊から「アジトらしき施設はない」と報告が入った。
大隊は滝つぼおよびその周辺を入念に捜索したが、人間はおらか、人の気配すらない。気勢を殺がれた桑原氏は、大隊に休憩を指示。兵糧として準備した山盛りの握り飯が運ばれ、戦闘ムードは吹き飛んでしまった。
数分後、握り飯を最初に食べた兵士数十名が突然嘔吐し、倒れた。この時、既に半数以上がそれを口にしていたため、大隊は大混乱に陥った。桑原氏は握り飯を運んだ周辺集落の農民を問い質した。
農民たちは返事をせず、短刀で桑原氏を突き殺した。これを見た大隊は農民たちに切りかかるも全く歯が立たず、一人またひとりと殺され、戦況の混乱に拍車をかけた。
生き残った兵士約50名は滝つぼから撤退、林道の入り口めがけて駆けた。しかし、途中、賊の一味と思われる集団が待ち伏せしており、兵士たちは銃弾と弓の雨にさらされた。
結局、生き残った者はひとりもいなかったようだ。後日、周辺集落の河原に約200名分の生首がさらされ、村は大騒ぎになった。ただし、壊滅的な被害を受けた森藩は、賊の追撃を諦めざるを得なかった。
この伝承および賊に関する情報は、大分県史や玖珠町史には一切記載されていない。意図的に隠されたのか、それともこういった事件自体がそもそもなかったのか、真偽は不明である。
<まとめ>
◎西椎屋の滝は、義賊と呼ばれた賊集団のアジトだった。
◎賊集団が大名家ばかり狙たを理由は不明。周辺住人に手出ししなかったため、いつしか義賊と呼ばれるようになった。
基本情報 | |
心霊スポット | 西椎屋の滝 (にししいやのたき) |
所在地 | 〒879-4406 大分県玖珠郡玖珠町大字日出生3065 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
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関連サイト | 道の駅 童話の里くす 公式ホームページ |
新中塚トンネル
『新中塚トンネル』は、玖珠郡玖珠町の中西部を走る県道48号線の中でも比較的新しいトンネルである。2001年に運開するまでは、狭い旧道を通過しなければならず、対向車と離合できない「旧中塚隧道(ずいどう)」が最大のネックと言われていた。
旧中塚隧道は知る人ぞ知る心霊スポットとして人気を集めていた。しかし、現在、入り口はバリケードで封鎖されている。
封鎖された隧道のすぐ近くを通過する新中塚トンネルでも、霊の目撃情報が相次いでいる。目撃された霊は、「歩道に血だらけの集団が立ち尽くしていた」「壁面から人間のものと思われる腕や足が突き出ていた」など。
玖珠町出身で同トンネルの工事に携わったY氏にお話を伺うことができた。曰わく、「トンネル工事が始まる前、旧中塚隧道は埋め戻した方がよい、と意見提起された方がいた。しかし、トンネルの埋め戻しにはかなりの予算と手間、地質などに与える影響調査などを行わねばならず、実現しなかった。封鎖できないことをお伝えすると、意見提起された方はとても残念がっていた」という。
後日、意見提起した男性、I氏にお会いし、「なぜ旧中塚隧道は埋め戻した方がよいのか」確認した。
1930年代、旧中塚隧道の開通工事を行っている最中に林道から数十名分の人骨が発見され、大騒ぎになった。当時の新聞記事は残されていなかったものの、玖珠町出身のI氏が関連する記録と資料を保管していた。
1835年、東海地方で始まった大飢饉の影響は九州にも飛び火した。豊後国の作物は毎年7割から8割が枯れ、人々は土や草を食べて飢えをしのいだという。
玖珠郡の山間部、人口数十名の椛松(かばまつ)集落は、疑いの目を向けられていた。周辺集落の住人たちはガリガリにやせ細り、連日餓死者を出していた。一方、椛松集落の住人たちは血色がよく、腹の出ている者までいたのである。
同地を治めていた森藩は、飢えに苦しむ住人の訴えを確認すべく、椛松集落に足を運んだ。しかし、米や作物の蓄えは皆無。話を聞くと、皆で協力してイノシシを狩り、その肉を分け合って食べていたことが分かった。
役人たちは「飢えに苦しむ住人たちにも猪肉を恵んでやれ」と命じ、訴え出た者たちに椛松集落へ向かうよう指示した。
数日後、とある集落の住人たちがひとり残らず消えた、という訴えが森藩に届いた。役人たちはウンザリしながらも調査を実施。数十名が住んでいたとされる集落はもぬけの殻だった。
さらに二日後、今度は別の集落の住人たちが消えたと問い合わせが入った。森藩は集団自決を疑い山狩りを行ったが、遺体らしきものはひとつも見つからなかった。
後日、椛松集落を訪ねた役人数名は、住人たちに猪肉を振舞われた。この時、食事を食べたある役人は、自分でイノシシをさばき食用にした経験のある男だった。
男はそれを一口食べた瞬間、イノシシのものではないと見抜き問い質した。が、問い質すべきではなかった。斧を持った屈強な農民に囲まれ、役人たちは捕縛、解体された。
I氏によると、椛松集落は旧中塚隧道から東に100mほど進んだ場所にあったらしい。そして隧道近くに人骨を遺棄し、何食わぬ顔で生活していたが、役人殺しが公になり、全員斬首刑に処されたという。
<まとめ>
◎新中塚トンネルおよび旧中塚隧道に出没する霊は、椛松集落の事件で犠牲になった者たち、と思われる。
◎天保の大飢饉は九州でも猛威を振るい、遺体喰いは至る所で発生していた。
基本情報 | |
心霊スポット | 新中塚トンネル (しんなかつかとんねる) |
所在地 | 〒879-4522 大分県玖珠郡玖珠町 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
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関連サイト | 玖珠町観光協会 公式ホームページ |
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永山城跡
「久大(きゅうだい)本線 日田駅」の北、大分県の史跡に指定される『永山城跡』は、築城当時の石垣や堀などをそのまま残す歴史遺産である。なお、築城者は同地を治めた小川氏。築城年は1601年、破却年は1639年。
永山城跡およびその周辺では、霊の目撃情報が相次いでいる。目撃された霊は、「生首を持った男が立っていた」「遺体がさらされていた」など。
日田市で生まれ育ち、400年以上前の伝承資料を受け継いだS氏曰わく、「1639年の城破却後、永山城の南側エリアは罪人たちの処刑場として利用された。多い年には一度に数十名が処理されることも珍しくなく、処刑は周辺住人の貴重なエンターテイメントになった」という。
永山処刑場は1870年に閉鎖。処刑場として機能した240年の間に、数千名が処刑されたと考えられている。
S氏の伝承資料に記されていたある男の処刑は、酷く残酷なものだった。1801年、同地に他国との交易で財を成した小田氏という商家がいた。
小田氏は10代で物売りを志し、長いこと貧乏生活を送ってきたが、30代で成功を収め、一気に階段を駆け上がった。しかし、その成功を妬む者も多く、酷い嫌がらせを受けることもあったという。
ある日、小田氏の娘が行方不明になり、後日、近くの河原で遺体となって発見された。衣服は一切身につけておらず、全身に青あざがあり、辱めを受けて殺されたことは明らかだった。
役人たちは殺人と断定し調査を開始するも、犯人につながる証拠は見つからず、事件は闇に葬られた。しかし、小田氏はどうしても諦めることができず、内偵に長けた武士などを雇い、犯人探しを続けた。
数か月後、犯人と思われる男の情報が寄せられた。ある役人が浪人たちと共謀し、事件を起こした可能性が極めて高く、これを聞いた小田氏は愕然とした。主犯と思われる役人は、自分の幼馴染だったのである。
小田氏は、独自に行った調査を役所に報告、主犯と思われる役人、杉田氏の拘束を依頼した。しかし、情報の真偽を確認する術がなかったため、役所は情報のみを預かり、再調査を行うと回答。小田氏は応じるしかなかった。
数日後、小田氏の妻が人けのない路上で何者かに叩き切られ、遺体の近くに大量のビラがばら撒かれていた。
ビラには「不倫女に天誅を下した」と書かれており、その噂は町中に広まった。役所は小田氏を犯人と決めつけ捕縛、「妻が不倫していた証拠を提示すれば、切り捨て御免で無罪放免になる」と唆した。
数日後。小田氏の幼馴染の役人が、数カ月前の殺人について次のように証言した。「小田氏の娘を殺したのは小田氏本人、委託殺人の可能性が高い。理由は、娘の死後、取引先はお悔やみも兼ねて同氏との取引を倍以上に増やし、商家の売り上げが激増したためである」
身内に優しい役所はこの証言を信用した。小田氏は娘と妻殺しの罪を着せられ、処刑されることになった。
小田氏は市中引きずり回りののち、斬首。「この怨みは死んでも忘れない」と最期の言葉を残したという。
この処刑以降、同地で霊が目撃されるようになった。小田氏が妻と娘を殺したか否かは誰にも分からない。しかし、少なくとも現世に怨みつらみを残して死んだことだけは確かである。
<まとめ>
◎永山城の南エリアは、処刑場として利用された。
◎小田氏は妻と娘を失い、さらに、身に覚えのない罪を着せられた可能性が高い。
基本情報 | |
心霊スポット | 永山城跡 (ながやまじょうあと) |
所在地 | 〒877-0008 大分県日田市丸山2-1-23 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
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関連サイト | 日田市 公式ホームページ |
永山城跡
— せとか🏯👘 (@vermelh0) December 29, 2019
横穴パラダイス #墳活 #城ガール隊 pic.twitter.com/aqbt3oqhsK
曽田ノ池
日田市天瀬町(あまがせまち)は、雄大な自然に囲まれた小さな田舎町である。高い建物はほとんどなく、住宅地から少し離れると見渡す限りの緑と山。満天の星空を楽しめる公園や展望台は、知る人ぞ知る観光スポットとして人気を集めている。
ここで紹介する『曽田ノ池(そたのいけ)』は、灌漑(かんがい)用に造られた人造池である。鎌倉時代初めに整備されたと言い伝えられており、周辺住人の生活を支えてきた。
この池に関連する伝承は、同地でもタブー視されているらしい。情報提供いただいた方に実名は教えられないと言われたため、無駄な質問はせず、30分ほどで話を打ち切らせてもらった。
I氏(仮名)曰わく、「戦国時代、曽田ノ池周辺で大きな合戦が起き、数百名の死傷者を出した。戦いに勝利した豪族は、敵兵の遺体を数日さらしたうえで、曽田ノ池に遺棄。この池は湧水をせき止めて造られたため、水の流れはないに等しい状態だった」という。
数百名分の遺体は生暖かい水に浸かり、ゆっくり腐った。そして、体内にたまったガスの影響で浮き上がり、水面を覆い尽くしたという。水の流れがほとんどなかった結果、池の水質は急速に悪化し、酷い匂いを放つようになった。
数週間後、曽田ノ池の水を田畑に引き込んだ農民たちが奇怪な疫病に感染した。患者の肌は一目見ただけで異常と分かるほど腫れあがり、表面を押すと膿が噴き出し、酷い匂いを放ったという。
患者の皮膚や膿に触れた家族も同じ疫病に感染、曽田ノ池の水を引き込んだ集落の住人たちは、「化け物」と呼ばれ、酷い差別を受けるようになった。
数か月後、集落住人の半数以上が死亡。生き残った住人たちは集落外に出ることを禁止され、拒否する者は槍で突き殺された。
同地を治めた豪族は、集落を跡形もなく燃やし尽くすべく準備を進めた。まず、集落一帯を防御柵で完全に封鎖。人間、猫や犬などの動物は全て疫病に感染したものと想定し、不穏な動きを見せれば殺すと脅した。
豪族は数百名規模の大隊を編制し、集落を取り囲んだ。そして、合図とともに火矢を放ち、住居を燃やし尽くしたのである。数時間後、煙が鎮火したため、兵士たちは防御柵から集落内に入った。
疫病から逃れた住人たちは、集落内に点在する小さな池に身を隠し、火と煙から逃れていた。しかし、兵士たちに見つかり、ひとり残らず矢で射抜かれたという。
その後、集落内で発見された50名分の遺体は曽田ノ池に遺棄され、付近への立ち入りは固く禁じられた。
数年後、同地を治めていた豪族は大友氏との合戦に敗れ、藩主、親族、家臣はひとり残らず捕縛された。
捕縛された者たちは切腹を申し出たが、大友氏はこれを拒否。隣国でも噂になっていた曽田ノ池の麓で公開処刑を行うと領民に発表し、皆の度肝を抜いた。
大友氏は捕虜たちに対し、「殺された集落の領民たちに詫び、死を受け入れよ」と宣告。全員を皮剥ぎ火刑に処した。
その後、大友氏は曽田ノ池の麓と集落跡地に慰霊碑を建立し、慰霊祭を行った。この習慣は江戸時代に入っても続き、いつしか汚染された水は元の清らかな状態に戻ったという。
<まとめ>
◎曽田ノ池周辺では、霊の目撃情報が相次いでいる。
◎集落の住人たちが患った疫病は天然痘もしくはハンセン病と噂されているが、真偽不明。
基本情報 | |
心霊スポット | 曽田ノ池 (そたのいけ) |
所在地 | 〒877-0114 大分県日田市天瀬町出口 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約2時間15分 【高速】大分空港から約1時間30分 ※クリックでGoogle map起動 |
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関連サイト | 日田市観光協会 公式ホームページ |
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平家七人塚
九州の各地に伝えられている「平家落ち人伝説」は、謎とロマンに満ちている。
宇佐市院内町(いんないまち)に建立された『平家七人塚』も、壇ノ浦の戦い(1185年)後に滅亡した平家一族と深い関りがある、と信じられてきた。
同地に落ち延びた者は、平家の親族だったと言い伝えられている。ただし、平家ではなく、別の性を名乗っていたため、親族と疑われることはなかったようだ。
平家は鎌倉幕府の創始者、征夷大将軍「源頼朝」に仇成す朝敵であり、壇ノ浦の戦い以降も各地で残党狩りが行われ、捕縛された平家一族、関係者などはひとり残らず処刑されたと言い伝えられている。
同地の伝承に詳しいY氏という方が、平家落ち人伝説に関わる情報を教えてくれた。曰わく、「平家七人塚は一族の霊を祀る記念碑として建立されたと伝えられてきた。しかし、実態は全く異なる。実は、平家の末裔とは関係ない、ひとりの男を祀る墓なのだ。なお、この事実は後世に伝えるべきでないと考えられ、知る者は非常に少なくなった」という。
1615年、同地で生まれ育った兵太(へいた)は、家族と協力して田畑を開墾し、馬車馬のように働いた。地主や商家のような収入は得られなかったものの、毎年期限内に税を納め、困っている友人や知人に米や作物を分け与えるなど、誰からも好かれ信頼される性格だった。
20年前、当時無一文だった兵太は、同地で財を成した「楠田(くすだ)氏」という商家に見いだされ、荒れ果てた土地をタダ同然で与えられた。兵太はひとりで土地を開墾、誰よりも真面目に働き、結婚。素晴らしい成果を上げた。
兵太は家族だけでなく、ありとあらゆる者を全力で助けた。結果、その名は同地だけでなく周辺集落にも伝わり、「働き者の兵太」と呼ばれるようになった。
1618年、「楠田氏が豊前国藩主の暗殺を企てている」という噂が流れ、同地を治めていた中津藩が調査を開始した。
中津藩が調査を開始してから数日後。楠田氏は平家一族の末裔で、日本中に潜伏する同士と討幕を狙っている、というとんでもない噂が流れた。
この噂を聞いた兵太は、命の恩人が危機的状況にあると察し、行動を開始した。まず、妻と離縁し財産を全て渡したうえで実家に戻した。
その後、兵太は友人数名に声をかけ、「私の住いに槍やクワなど、武器になるものを持ってきてほしい」と依頼。友人たちは不安に思いながらも、働き者の兵太から初めてお願いごとをされたため、拒否できなかった。
武器を集めた兵太は、友人たちに帰宅を促し、「このことは誰にも言わないでほしい」と念を押した。
数日後、「兵太という男が藩主の命を狙っている。彼は農民のフリをしているが、実は平家の末裔であり、来たるべき時を伺っていた」という噂が町中に広まった。
その後、幽閉されていた楠田氏は開放され、事件の顛末を聞いた。
兵太は取り調べに訪れた役人3名を殺害したのち捕縛。厳しい拷問の末、平家の末裔であることを白状した。さらに、楠田氏に関連する噂は全て自分が流したと認め、財産を奪い、討幕の資金に当てるつもりだったと供述した。
働き者の兵太は「極悪人」として処刑された。
兵太の遺体は数週間さらされたのち廃棄される予定だった。しかし、ある日、その遺体が跡形もなく消え、またしても町は大騒ぎになった。
楠田氏は兵太の遺骨を清め、丁重に供養した。そして、その地こそが現在の平家七人塚である、とY氏は述べた。
<まとめ>
◎平家七人塚の伝承は真偽不明。頻繁に霊が目撃されているため、何かしらのトラブルがあったことは間違いないと思う。
◎兵太は恩人の楠田氏を助けるために命を投げ出し、処刑された。
基本情報 | |
心霊スポット | 平家七人塚 (へいけななにんづか) |
所在地 | 〒872-0344 大分県宇佐市院内町大門569 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約1時間20分 【高速】大分空港から約1時間5分 ※クリックでGoogle map起動 |
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関連サイト | 宇佐市観光協会 公式ホームページ |
凶首塚古墳
『凶首塚(きょうしゅづか)古墳』は、大分県を代表する心霊スポットのひとつである。これまでに目撃された霊は、「敷地内に生首が転がっていた」「女性の悲鳴が聞こえた」など。
同古墳には、朝廷に対し反乱を起こした「隼人」と呼ばれる者たち100名分の首もしくは胴体が埋葬されているという。ただし、これは古墳時代、1300年以上前の伝承であり、真偽は不明。
私は大分県出身の某大学教授、E氏と共に、宇佐市出身で元歴史学教授のT氏宅を訪ねた。T氏曰わく、「1300年以上前の記録を記す伝承資料は残っていないが、約200年前のものならある。凶首塚古墳周辺で発生した大虐殺は、豊後国を恐怖のどん底に叩き落し、同地を治めた中津藩にもかなりのダメージを与えた」という。
1787年、中津藩藩主、奥平氏の家臣およびその御供が何者かに叩き切られ、首と四肢を全て切断されるという凶悪事件が発生した。なお、切り落とされた首と四肢は発見されずじまいだった。
数日後、凶首塚古墳の南にあった集落が何者かに襲撃を受けた。住人数十名が殺害され、首と四肢はいずれも切断されていたという。役人たちは大量殺人事件として調査を開始し、同古墳の東にある「百体神社」の境内で切り取られた首と四肢を発見した。
奥平氏は常軌を逸した凶悪犯に鉄槌を加えるべく大隊を組織。山狩りや情報収集を行った。
調査の結果、数十名規模の賊集団が一連の殺人に関与していると結論づけられ、アジトの捜索が始まった。
アジト捜索開始の翌日、凶首塚古墳近くを探索していた役人十数名が賊と思われる集団に急襲を受け、皆殺しにされた。犯人たちは、被害者全員の首と四肢を切り取り、逃亡。パーツは同塚の南側を流れる「寄藻川(よりもがわ)」で発見された。
またしても賊の急襲を受けた大隊は、巨大な本陣を凶首塚古墳の近くに建設。敵の襲撃に備え、最高レベルの警戒態勢を敷いた。
数日後、今度は寄藻川のさらに南、雑木林に覆われた広大なスペースで役人十数名が夜間の巡回中に急襲を受け、首と四肢を奪われた。
賊と思われる集団は逃亡時に痕跡を残していた。奥平氏は一千名超の応援部隊を派遣、広大な雑木林のどこかに潜伏する謎の一団に正面攻撃を仕掛けた。
雑木林を取り囲んだ大隊は、火縄銃および火矢による一斉攻撃を開始。落ち葉に火が付き、辺り一面火の海になった。
大隊は焼け野原になった雑木林跡を進んだ。周辺調査を行い、エリアの中央付近で消し炭になった小屋を発見。中から首と四肢のない数十名分の遺体が発見された。
この遺体を調べたところ、全員女性であることが判明。大隊を束ねていた奥平氏家臣、井田氏は撤収を指示。本陣近くの集落へ大隊を移動させた。
井田氏が集合を指示した集落では、先日子供や赤子を含む女性20名が行方不明になり、調査が進められていた。
集落に突撃した大隊は、そこに打ち捨てられた女性や赤子の首を発見。女性たちの額には、「卍(まんじ)」という文字が刻み込まれており、目はくりぬかれ、鼻と耳はそぎ落とされていた。
その数分後、今後は本陣で大規模な火災が発生。炎は周辺集落に延焼し、住人数十名が焼死した。
井田氏は大隊に完全撤退を指示。その後、賊に好き放題やられた責任をとり、腹を切った。なお、この賊集団がその後どうなったかはT氏の伝承資料にも記されていなかった。
<まとめ>
◎凶首塚古墳およびその周辺で発生した大量殺人事件の結末は不明。
◎賊集団の正体は分からずじまい。同古墳に出没する霊は、賊に殺された者たちと思われる。
基本情報 | |
心霊スポット | 凶首塚古墳 (きょうしゅづかこふん) |
所在地 | 〒872-0103 大分県宇佐市大字北宇佐1712 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約1時間 【高速】大分空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間10分 【高速】大分駅から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 宇佐市観光協会 公式ホームページ |
『凶首塚(きょうしゅづか)古墳』
— KJ (@cool_japan1016) November 7, 2017
宇佐の八幡神の軍隊が、隼人族の首を持ち帰って葬った場所です(首塚)。百体社の隣にあります。以前、隼人(熊襲)を調べて鹿児島・霧島に行った事があります。なかなか朝廷に服従しなかった強者(つわもの)の跡。 pic.twitter.com/Ohht9MHXMI
まとめ
今回は豊後大野市他4市1郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
夏の大分市はとにかく暑い。心霊スポットを探索する際も、こまめな水分および塩分補給をお忘れなく。また、体調に異変を感じた時は探索を中止し、涼しい場所に避難しよう。最後までお読みいただきありがとうございました。