今回は豊後大野市他4市1郡の最恐心霊スポット12カ所(PART1)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

大分県内には、隠れキリシタンの関連遺構が数多く残されている。

豊後国の藩主たちは、キリスト教に寛容だったと考えられている。しかし、全ての藩がキリスト教を受け入れたわけではなく、結果、様々な軋轢を生むことになった。

隠れキリシタン関連遺構の一部では、頻繁に霊が目撃されている。今回も様々な方にご協力いただき、「何かしらのトラブルあったのだろう」とイメージしながら調査を行った。

目次

 1.豊後大野市
   ・下赤嶺キリシタン墓群
   ・滞迫峡
 2.竹田市
   ・若宮井路笹無田石拱橋
   ・キリシタン洞窟礼拝堂
 3.佐伯市
   ・三国峠
   ・北川ダム
 4.玖珠郡
   ・西椎屋の滝
   ・新中塚トンネル
 5.日田市
   ・永山城跡
   ・曽田ノ池

 6.宇佐市
   ・平家七人塚
   凶首塚古墳

まとめ

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下赤嶺キリシタン墓群

豊後大野(ぶんごおおのし)市三重町の繁華街から少し離れた住宅地の一角に『下赤嶺(しもあかみね)キリシタン墓群』はある。これは、その名の通りキリシタンたちを埋葬した墓所である。

豊後国(大分県)はキリスト教に寛容な土地だった、と言い伝えられている。キリスト教を信仰する有力な「キリシタン大名」も多く、戦国時代に活躍した「大友宗麟(おおともそうりん)」はその代表格だった。

しかし、江戸徳川幕府の時代になり、潮流が変わった。キリスト教は異端、邪教と名指しで批判され、1612年の禁教令発布後、取り締まりと弾圧は激しさを増した。

下赤嶺キリシタン墓群では、頻繁に霊が目撃されている。目撃された霊は、「血だらけの女性が立ち尽くしていた」「悲鳴が聞こえた」「遺体が山積みにされていた」など。

同墓所には、過酷な取り締まりや拷問の末に憤死したキリシタン数十名が眠っている。三重町で生まれ育った老婆曰わく、「この墓所には、豊後国で捕縛されたキリシタンの一部が眠っている。当時、すぐ近くにキリシタンたちを投獄した監獄や処刑場があり、そこにさらされた遺体を隠れキリシタンたちが秘かに供養した」という。

江戸時代前期、仏教徒であると上手く偽った隠れキリシタンたちは、処刑場や河原などにさらされ、骨になった同胞の遺体を回収し、手厚く供養した。同地を治めていた高田藩は、遺体の後処理を領民に任せていたため、隠れキリシタンたちは苦労することなく骨を集めることができたのである。

邪教を信仰するキリシタンの遺体が手厚く葬られていると噂になったのは、厳しい取り締まりが始まってから数年後のことだった。領民たちは隠れキリシタンたちに引導を渡すべく調査を開始。遺体が埋葬されていると噂になった墓所を監視した。

足しげく墓所に通う男女数名を確認した領民たちは、キリシタンのアジトと思われる施設を突き止めることに成功する。そこには、領民たちとも付き合いのある商人、農民、女性たちが一堂に会し祈りを捧げていた。

領民たちはクワ、ナタなどを持参し、施設を包囲。一斉攻撃を仕掛け、ロザリオを隠し持った男女計35名の捕縛に成功した。

領民たちが自分たちの考えでキリシタン狩りを実行したと聞き、高田藩藩主は大いに喜んだ。そして、成功を収めた成果として金、米、作物などを与えたという。

捕縛された35名は、四畳ほどの広さしかない牢獄に無理やり押し込まれた。全員直立不動、押し合いへし合い状態で、身体が押され持ち上がる者すらいたという。

35名は、立ったまま眠り、糞尿はその場で垂れ流し。食料は与えられず、上部からぶちまけられた水で喉の渇きを癒した。

一週間後、半数以上が死に、腐りかけていた。生き残った数名も餓死寸前、身動きは一切とれず、死を待つのみだった。

腐乱臭を解消すべく、役人たちはキリシタンたちに枯れ葉、松の葉、松ぼっくり、火薬と油をぶちまけ、火を放った。瀕死状態ながらも生き延びていた数名は遺体と共に焼却処理された

彼らの遺体は、キリシタンを供養したとされる墓所に遺棄され、野生動物のエサになった。以来、同地には悲惨な死を遂げた隠れキリシタン35名の怨霊が出没すると噂になり、誰も寄り付かなくなったという。

まとめ
同胞たちのために活動した隠れキリシタン35名は、人間以下の扱いを受けたのち、焼却処理された

苦痛の末に憤死した35名は、下赤嶺キリシタン墓群で怨霊化し、今もその周囲を彷徨っている

基本情報
心霊スポット下赤嶺キリシタン墓群
(しもあかみねきりしたんぼぐん)
所在地〒879-7111
大分県豊後大野市三重町赤嶺
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】大分空港から約2時間5分
【高速】大分空港から約1時間35分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】大分駅から約50分
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関連サイト豊後大野市 公式ホームページ
画像はイメージです

滞迫峡

標高1,756mの祖母山(そぼさん)に端を発する一級河川「奥岳川(おだだけがわ)」および、その中流域に形成された『滞迫峡(たいざこきょう)』は、豊後大野ジオパークを代表するジオサイトのひとつである。

滞迫峡は、高さ数十メートルの絶壁と見渡す限りの大自然に覆われ、川(渓谷)でトレッキングや水遊びを楽しみたい方向けの自然系観光スポットとして人気を集めている。

同エリア周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。「男女が断崖絶壁から身を投げた」「川から髪の長い女性が這い出てきた」など、夜に近づくと恐ろしいものを見る、と噂になった。

豊後国の歴史を研究する歴史家のE氏に連れられ、私は滞迫峡のある豊後大野市緒方町を訪ねた。理由は、同地で生まれ育ったM氏という御仁から、貴重な伝承資料を持っている、と伺ったためである。

M氏曰わく、「滞迫峡は自殺の名所と呼ばれていた。そう呼ばれるようになったのは、江戸時代中期頃から。戦国時代から100年以上経過し、人々の生活にある変化が生じた。平穏で代わり映えのしない生活にウンザリした一部の男女が不倫に走り、町や集落はその噂話で大変盛り上がった」とのこと。

当時、不倫は重罪中の重罪だった。特に既婚の女性が別の男と密通した時は「切り捨て御免」が適用され、夫は妻とその相手を殺しても一切罪に問われなかったのである。なお、妻子を持つ夫が未婚の女性と密通しても罪には問われなかった

夫との関係に辟易した女性は、若く健康な男や武士に憧れ、不倫に走った。しかし、バレれば切り捨て御免。夫に切られなかった場合は、取り調べののち、斬首刑。いずれにしても死は免れない。

ある日、うだつの上がらない下級武士がライバルの上級武士を排除すべく、妻と結託して美人局作戦を実行した。妻は素晴らしい美貌の持ち主だったが、ひねくれた性格の持ち主で、下級武士に嫁がざるを得なかったという。

妻は夫を出世させるべく、昇進の障害になる上役の排除を決断。標的の男に忍び寄り、美貌の虜にした。後は肉体関係を結べばOKである。夫は切り捨て御免により、ライバルを排除した。

この流れでいくと妻も斬首されてしまうため、下級武士は「妻と和解した」と同僚たちを上手く言いくるめた。しかし、何度も同じ手が通用するほど世の中甘くない。二人は別の作戦を考えた。

下級武士と妻は、若い女子を騙し、標的(ライバル)の元に放った。そして、ライバルが若い女子と密通している現場を押さえ、強迫したのである。この作戦は大成功だった。

若い女子に惚れ込んだライバルたちは、身分を捨てる覚悟で逃亡した。しかし、下級武士は不倫の末に二人が逃亡したと通報、追撃隊の指揮を執る地位に出生していたおかげで、心置きなくライバルを捕縛することができた。

逃亡に成功した数組は、滞迫峡で愛を育み、谷底(渓谷)に身を投げたと言い伝えられている。なお、若い女子を騙しライバルを排除し続けた下級武士は、最後の仕上げとして、妻に不倫の疑いをかけ、叩き切ろうとした。しかし、切り捨てた妻の隠し持っていた短刀に気づかず、喉を掻かれ死んだ

その後、二人の悪事は公にあり、遺体は市中引きずり回しののち串刺し。首および胴体は滞迫峡の河原にさらされたという。

まとめ
滞迫峡は自殺の名所。若い男女が高さ数十メートルの断崖から身を投げた

美人局作戦を実行した下級武士と妻の死後も、不倫に走り渓谷に身を投げる男女は後を絶たなかった

基本情報
心霊スポット滞迫峡
(たいざこきょう)
所在地〒879-6863
大分県豊後大野市緒方町滞迫
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】大分空港から約2時間25分
【高速】大分空港から約1時間55分

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【一般道】大分駅から約1時間15分
【高速】大分駅から約1時間15分

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関連サイトツーリズムおおいた 公式ホームページ
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豊後大野市にある滞迫峡に行ってきたよ🚙 この滞迫峡は、9万年前に阿蘇山が大爆発して流れ出した火砕流が固まったつくりだした溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)岩壁が70メートルを超える高さあるんだよ🌋 縦に長いひび割れは、マグマが冷えて固まる時にできる柱状節理(ちゅうじょうせつり)というんだよ🙂 大分県では、姫島村と豊後大野市が日本ジオパークに認定されていて、10月31日から第10回日本ジオパーク全国大会2019おおいた大会が開催されるんだよ😃 詳しい内容は、10月19日(土)10時40分から放送のOBSラジオ📻「たんねるけん」で紹介するから是非聞いてみてね✨ #大分 #大分県 #おんせん県 #おんせん県おおいた #oita #めじろん #ゆるキャラ #ぬい撮り #豊後大野市 #滞迫峡 #ジオパーク #日本ジオパーク #第10回日本ジオパーク全国大会 #柱状節理

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若宮井路笹無田石拱橋

若宮井路笹無田石拱橋(わかみやいろささむたせっきょうきょう)』は、一級河川「笹無田川(ささむたがわ)」の中流域に架橋されたアーチ型水路橋である。

工事竣工は1917年。現在も現役の水路として機能しており、周辺地域の田畑などに水を供給している。昨年、友人のシャーマン(鹿児島在住、テレビ出演経験あり)が、同橋周辺に出没する霊の供養(除霊)を依頼され、なぜか私も同行することになった。

私は、シャーマンを放置し、依頼者のご両親から同地の伝承資料を見せてもらった。K氏曰わく、「水路橋が架橋される100年程前、同地である事件が発生し、以来、憤死した男女の霊が出没するようになったと言い伝えられている。主(しゅう)殺しの罪を償うのは当然だと思うが、霊が出没するようになった結果、水路橋の工事中に事故が頻発し、さらに、笹無田川でも水の事故が相次ぐようになった」という。

K氏の伝承資料には水路橋の工事中に事故が複数回発生した、と記されていた。しかし、竹田市史にはなぜか記されておらず、真偽を確認する手立てはなかった。水の事故についても同様である。

1820年、同地の有力な土地持ちだった臼田氏は、領民に金を貸しつけ、返済できない者の土地を奪う、という手法で力を蓄えていた。また、好色家として知られ、若い女子を遊女奉公(性奴隷)として20人以上飼育していた

若い女子の中でも飛びぬけて美しかった「ハル」は、11歳の時に性奴隷として奉公。以来、臼田氏の大のお気に入りになった。ハルは、連日連夜、主に恥ずかしめられた。

ハルは女児を二人出産したが、奴隷の子は処理される運命だった。女児はいずれも生まれた直後に殺処理され、笹無田川の河原に埋められた。

生きる気力を失っていたハルは、臼田氏の元で働く男子に恋をした。二人はすぐに意気投合し、夜な夜な密会を重ね、愛し合ったという。しかし、臼田氏お抱えの性奴隷だったハルは、人生を諦めていた。

最愛の人の運命を憂いた男子は、「主を殺し駆け落ちしよう」と提案。ハルはこれを受け入れた。

夜、臼田氏の寝床に乱入した男子は、包丁で主の喉を掻き切った。その直後、異変に気付いた屋敷内の者たちが臼田氏の遺体を発見し、役所に通報。ハルと男子のみ姿がなく、役人たちは二人の犯行と断定し捜索を開始した。

二人は駆け落ちに備えて準備を進めていたが、役人たちの追跡をかわすことはできず、事件発生から2日後に捕縛された。

男子は主殺しの罪に問われ、身分剥奪ののち、皮剥ぎの刑に処された。ハルは男子が目の前で切り刻まれるところを見せつけられた。

ハルは男をたぶらかし、お世話になった主を殺した主犯に仕立て上げられた。まず、髪の毛を1本残らずそり落とされ、百叩きの刑に処された。そして、半死半生状態になると、湯立った窯の中に押し込まれ、焼け死んだ。その後、二人の遺体は笹無田川の中流域にさらされたという。

シャーマンが除霊を行った直後、私は若宮井路笹無田石拱橋の下を流れる笹無田川で女性の霊を目撃した。二人組だったように思えるが、詳細は分からずじまい。同橋周辺で目撃されてきた霊が成仏したか否かについても不明である。

まとめ
若宮井路笹無田石拱橋は現役のアーチ型水路橋。霊が出没すると以前から噂になっていた

同地周辺に出没する霊は、主殺しの罪で処刑されたハルと男子だと思われる

基本情報
心霊スポット若宮井路笹無田石拱橋
(わかみやいろささむたせっこうきょう)
所在地〒878-0005
大分県竹田市大字挟田2296-3
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】大分空港から約2時間
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関連サイト農林水産省 公式ホームページ

キリシタン洞窟礼拝堂

竹田(たけた)市には隠れキリシタン関連の遺構が数多く残されている。この地域を治めた岡藩はキリスト教に寛容で、江戸幕府の禁教令(1612年)発布後も、キリシタンたちの存在を黙認した、と考えられているようだ。

ここで紹介する『キリシタン洞窟礼拝堂』は、同地を代表するキリシタン関連遺構である。洞窟内に設けられたドーム状の祭壇と礼拝堂にキリシタンたちが集まり、祈りを捧げていたと言い伝えられている。

同礼拝堂は、ただならぬ不穏な気配を放っている。見た目もかなり不気味なので、夜に近づくことはおすすめしない。

目撃された霊は、「遺体が山積みにされていた」「炎に包まれた人間を見た」「血だらけの男女が襲いかかってきた」など、人間に敵意を向けるものも確認されている。

私は先に述べた「若宮井路笹無田石拱橋(わかみやいろささむたせっきょうきょう)」の除霊を終えた友人のシャーマンと、同地の歴史に詳しい某大学教授のご自宅を訪ねた。

H氏曰わく、「キリシタン洞窟礼拝堂の司祭は、キリスト教に対する厳しい取り締まりと弾圧の影響で他国(藩)から逃れてきた者たちも受け入れていた。その後、コミュニティは数百名規模にまで膨れ上がった。結果、キリスト教に一定の理解を示してきた岡藩も、これを意図的に見逃すことは難しくなった」という。

キリスト教を邪教と信じている周辺住人たちは、コミュニティが拡大する様を見て恐怖した。しかし、この事実を岡藩に伝えても、なぜか厳しい取り調べは行われなかった

周辺住人のリーダー的な存在だった裕福な商家は、キリシタンが集結していることを江戸の知人から幕府の実力者に伝えた。禁教令を発布していた幕府は、藩ぐるみでキリシタンが確保されていると考え、岡藩に使いを送った。

幕府は岡藩に対し、「通報されたことがもし事実であれば、お家取り壊し、藩主、その親族、家臣および関係者は全員死罪」と強烈な圧力をかけた。

岡藩はキリシタンを指導する司祭にありのままの事実を伝え、生け贄を差し出すよう命じた。従わねばキリシタンだけでなく、岡藩も江戸幕府に打ち滅ぼされるのである。

司祭は自分自身と使いの者、そして、仲間たちのために命を捨てると申し出た男女15名を生け贄にすると決めた

数週間後、幕府関係者立ち合いのもと、キリシタン洞窟礼拝堂の調査が行われ、男女20名がその場で処刑されることになった。岡藩は河原の処刑場を使うつもりだったが、幕府関係者は信者の血で礼拝堂を汚し尽くし、二度と人が立ち入らないようにしたい、と考えたのである。

キリシタンたちは、ひとり残らず「鋸(のこ)引きの刑」に処された。

この刑は残酷極まりないものだった。まず、足を広げた状態で逆さまに吊るし上げる。その状態で股に長いノコギリを当て、頭頂部めがけて身体を真っ二つに切り裂くと、礼拝洞内は血肉と内臓にまみれた。その後、遺体は干物のように吊るされ、三日三晩さらされたのち、焼却処理された。

生け贄になった男女20名のおかげで生き延びた隠れキリシタンたちは、彼らの血肉と内臓を全て回収し、キリシタン洞窟礼拝堂近くに埋葬。墓にクルスを設置することはできなかったが、同胞たちの死を悼み、未来永劫その死を忘れないと誓ったという。

まとめ
キリシタン洞窟礼拝堂内は不穏な雰囲気に包まれており、今も霊が頻繁に目撃されている

同胞たちのために命を捨てた20名の男女は、鋸引きの刑の処され、地獄の苦痛の果てに怨霊化した、のかもしれない

基本情報
心霊スポットキリシタン洞窟礼拝堂
(きりしたんどうくつれいはいどう)
所在地〒878-0013
大分県竹田市大字竹田
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】大分空港から約2時間5分
【高速】大分空港から約1時間40分

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②アクセス
【一般道】大分駅から約1時間
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Hidden Christian in Japan (1873) 外国のゴージャスな教会とは 打って変わって〜 日本の隠れキリシタンに 会いに行ったことがあった🌈 江戸時代に厳しい弾圧を 受け神道や仏教を隠れ蓑に、 キリスト教の信仰を 密かに続けてた信者達。 平戸・生月で禁教時代から 崇拝の対象とした密かに 納戸にまつった御神体。 聖画や木札、聖水などが あり、普段は箱に入れて 保管し、年に数回納戸に 飾りつけて礼拝したらすぃ〜 オラショという日本の キリシタン用語で 「祈り」 という言葉。 祈りを捧げてた方々の 想いは同じなはずなのに、 生まれた場所の違いで、 . . たくさんの命が 奪われたんだよね〜 なので〜 この場所は 祈りを捧げていた場所だけど〜 . . . なんかとても悲しい感じがした😢 . . . 今は平和でよかったね🕊 何を祈るかは自由であり どの神様もその人にとって 救われる道であれば 信仰して生きる道も アリなんだと思うなぁ〜 . . . 私は自分しか信じて いないのだけれど〜笑笑 . . 神さまの存在は 否定はしていないかなぁ〜 . . 幸せに生きるための、 信仰も大切な気がするから〜 . . この地で私もね〜 一緒に祈りましたぁ〜🤲 . . どうか人々の心が 幸せであります様に〜 . . . でわ💕 今日もハッピーで お過ごし下さぁ〜い💕 。 。 ラブ❤️ノン . . . . #隠れキリシタン#祈りを込めて #ありがとう#感謝#自由 #祈り#スピリチュアル#ジャーニー #信仰心 #リスペクト #japan #九州#竹田#キリシタン洞窟礼拝堂 #平和#未来#幸せな時間 #過去pic #ダレカニミセタイケシキ #日本#神秘

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三国峠

戦国時代、臼杵(うすき)藩、岡藩、佐伯(さえき)藩の境界に位置する『三国(みくに)峠』では、三藩(三国)による激しい領土争いが繰り広げられていた。また、約300年後に発生した西南戦争でも同地は激戦地となり、多くの死傷者を出した。

現在の三国峠は車両で通行可能。ただし、別の県道や町道が建設されたため、通行量は決して多くない。さらに、走行中のドライバーやハイカーなどから霊を見たという目撃情報が相次いで寄せられ、好んで通行する者はさらに少なくなったという。

この峠およびその周辺では、幾度となく合戦が繰り広げられた。その中で最も規模の大きな戦いと言い伝えられているものが、岡藩vs佐伯藩の一騎打ち、通称「本匠(ほんじょう)の戦い」である。

この戦いを取り扱う歴史書は非常に少なく、私も大分県の心霊スポット調査を行うまで全く知らなかった。佐伯市で生まれ育ったI氏曰わく、「本匠の戦いにおける両軍の死者数は数百名にのぼったと言われている。特に、敗れた佐伯藩の損耗は激しく、この戦い以降、領土拡大を諦め、自国の防衛にのみ戦力を注がざるを得なかった」とのこと。

1577年、標高630mの三国峠周辺に到着した佐伯軍は、800名の本部隊と200名の別動隊を編制し、合戦に備えた。なお、別動隊は岡藩の横っ腹に狙いを定め、本部隊とは別の場所で攻撃のタイミングを伺っていた。

一方、同地での戦いに精通していた岡軍は、佐伯軍が別動隊で急襲を仕掛けてくると読み切っていた。しかし、これに対処すれば時間と兵力を失う可能性があったため、藩主は敵本軍到着次第、一斉攻撃を仕掛けると決めていた。

合戦場に到着した佐伯軍は、ゆったりとした動きで本陣をこしらえていた。この様子を確認した岡軍は、全軍に突撃指示を出す。

佐伯軍は、敵兵約1,500名が怒号と共に動き出したため、泡を食わされた。一部の兵士はのんびり弁当を食べており、鎧すら来ていない。佐伯軍は隊列を整えることに失敗した。

予想通り、統率をとる間もなく急襲された佐伯軍は総崩れとなり、徹底を余儀なくされた。一方、狙い通りの展開になった岡軍は、敵軍別動隊200名が大慌てで合戦場に現れたところを狙い打った。

佐伯軍別動隊200名中180名が討ち取られ、残りは捕虜になった。報告を受けた佐伯藩藩主は、岡軍に使いを送ったうえで敗北を認め、捕虜の開放を求めた。

しかし、岡軍はこの申し出を拒否し、さらに使いの者を叩き切った。以前、岡藩は別の合戦で佐伯藩の夜襲を受け、兵士数十名を失っていたのである。

岡軍は捕虜を自国の集落まで移送、全身の皮を剥ぎ、火刑に処した。この様子を見た領民たちは、佐伯藩の完全敗北に大喜びし、花見を催したという。

数日後、岡藩の領地で処刑された捕虜たちは、三国峠の境界点、佐伯藩のエリアに遺棄され、野生動物のエサになった。なお、この情報を入手した佐伯藩は遺体を回収しようと現地に出向いたが、時既に遅しだったという。

三国峠およびその周辺で目撃される霊は、「槍を構えた騎兵隊が襲いかかってきた」「遺体があちこちに散乱していた」「悲鳴が聞こえた」など。

まとめ
三国峠およびその周辺は、戦国時代の合戦場。西南戦争でも激戦が繰り広げられた

合戦場(戦場)に霊は付き物。なお、同地周辺には街灯が一切ないため、散策は明るい時間で終えること

基本情報
心霊スポット三国峠
(みくにとうげ)
所在地〒876-0216
大分県佐伯市本匠大字山部
種別戦争
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】大分空港から約2時間25分
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【高速】大分駅から約1時間5分

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北川ダム

北川ダム』は、一級河川「北川」の中流域に建設された治水および水力発電用多目的ダムである。貯水用人造池は大分県最大の貯水容量を誇り、周辺地域および下流域の安全と電力供給の一部を担っている。

同ダムは1962年の工事竣工以来、霊の目撃情報が後を絶たず、一部の周辺住民に「幽霊ダム」と呼ばれている。なお、幽霊が出ると恐れられてはいるものの、それが出没する理由を知っている者は非常に少ない。

私は大分県出身の某大学教授のE氏の誘いで北川ダム調査に同行した。同ダムの人造池の底に沈む「田代橋」と「時間橋」は、渇水期のみ見学可能できる幻の橋である。

E教授曰わく、「江戸時代、人造池のエリア付近に無間(むま)集落と呼ばれる人口数十名の小さな集落が存在した。彼らは平家一族の末裔と噂されていたが、それを証明する証拠はなく、また、住人たちはひとり残らず真面目に税を納め、佐伯藩からの評判も抜群に良かった。しかし、1679年に発生した事件以降、同地は呪われた土地と呼ばれるようになった」という。

E教授が入手した伝承資料によると、無間集落の住人たちは平家一族の末裔と噂されていたものの、皆素行が良く、働き者ばかり。商家として大成功した者が集落内に数名おり、納税の遅延も皆無だったため、佐伯藩からの評判はすこぶる良かったらしい。

1677年、同地および周辺の広い範囲で大規模な飢饉が発生した。雨が数カ月降らず、田畑は枯れ、川の水も干上がった。しかし、無間集落には天然の井戸が10カ所ほどあり、その水は全く枯れなかったという。さらに、住人たちは日頃から米や作物を皆で協力して蓄えていたため、普段と変わらぬ生活を送ることができた。

米の在庫量は10年飢饉が続いても耐えられるほどだった。この噂を聞きつけた他の集落住人は、無間集落に助けを求めた。

無間集落の人々は飢えた者を助け、コミュニティを少しずつ拡大させた。他の集落から移動してきた者たちは、肥沃(ひよく)な大地と水に感動し、土地を開墾。作付面積を少しずつ広げた。

2年後、飢饉は完全に解消され、人々はようやく本来の生活を取り戻した。無間集落はこの2年で作付面積を大きく増やし、佐伯藩に献金できるほどの財力を得た。

1679年、飢饉時に無間集落へ移住した者たち数十名の行方が分からなくなっている、という噂が流れた。しかし、佐伯藩は税金だけでなく献金まで収めてくれる住人たちを中傷する悪い噂と決めつけ、これを一蹴した。

一方、「無間集落には何かある」と勘繰った周辺集落の住人たちは、独自に調査を開始。しかし、消えた数十名に関連しそうな証拠は何一つ見つからなかった。

追いつめられた住人たちは、若い男たちを武装させ、無間集落を乗っ取ったうえで真実を白状させると決心。真夜中に襲撃を仕掛けるべく動き出した。

数日後、佐伯藩の役人数名は、行方不明になった若い男たちを捜索すべく、無間集落を訪れた。住人たちは集落内の施設を隅から隅まで開放し、「ここには何もない」ことを証明した。

結局、飢饉時に移住した者たちと若い男たち数十名に関する証拠は何一つ見つからなかった。なお、無間集落の住人たちは、下流域の広大な土地に全員移住し、消えた男たちに代わって町を治めた

この大移住後、無間集落は完全閉鎖され、なぜか霊が出没するようになったと言い伝えられている。目撃された霊は、「人間が磔にされていた」「バラバラ遺体が道端に転がっていた」など。

まとめ
北川ダムの人造ダム池周辺には、無間集落と呼ばれる謎の村があった

行方不明になった者たちがどうなったかは分からずじまい。また、無間集落と平家一族の関連についても真偽不明である

基本情報
心霊スポット北川ダム
(きたがわだむ)
所在地〒879-3302
大分県佐伯市宇目大字南田原
種別事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】大分空港から約2時間35分
【高速】大分空港から約2時間

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②アクセス
【一般道】大分駅から約1時間20分
【高速】大分駅から約1時間15分

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西椎屋の滝

玖珠(くす)郡と宇佐市の境界、二級河川「日出生川(ひじゅうがわ)」の中流に建設された「日出生ダム」は、周辺地域の田畑に水を供給する灌漑(かんがい)ダムである。

ここで紹介する『西椎屋(にししいや)の滝』は、日本の滝百選に選出され、西日本一美しいと言われていた。しかし、日出生ダム建設に伴い、滝つぼ周辺の大規模開発が進んだことで、かつての圧倒的な美しさは失われてしまったという。

この滝は、ダムが建設される以前(1979年竣工)から霊が出没すると噂になっていた。目撃された霊は、「滝つぼから男が這い出てきた」「途中の林道に生首がさらされていた」など。

私は大分県出身の某大学教授、E氏と共に、玖珠郡玖珠町出身で同地の伝承に詳しいA氏のご自宅を訪ねた。A氏曰わく、「江戸時代、西椎屋の滝周辺には大名家ばかりを狙う賊のアジトがあった、と言い伝えられている。この一味は、お家取り壊しなどで行き場を失った元武士たちによって立ち上げられ、九州中で悪事を働いたと言われている」とのこと。

A氏の伝承資料によると、一味の名は不明、大名家ばかりを狙い、手に入れた金、米、その他の作物などは、貧しい者たちに分け与えていたという。周辺集落の住民たちは、一味のことを「義賊」と呼んでいたようだ。

しかし、狙われた大名家の関係者たちは、いずれも悲惨な最期を迎えていた。ある有力者は、家族、親族、友人、知人が一堂に会した場を襲撃され、ひとり残らず切り殺されている。この有力者を狙った事件は、「日出生事件」と呼ばれ、同地を治めていた森藩の逆鱗に触れた。

1666年、藩主の久留島通清(くるしまみちきよ)は、賊の殲滅を家臣に指示。この命を受け、桑原氏は200名の大隊を編制し、西椎屋の滝を目指した。

大隊は滝を取り囲むようにゆっくり進軍、賊たちの動きを封じ込めたと信じていた。数時間後、滝つぼに到達した先陣部隊から「アジトらしき施設はない」と報告が入った。

大隊は滝つぼおよびその周辺を入念に捜索したが、人間はおらか、人の気配すらない。気勢を殺がれた桑原氏は、大隊に休憩を指示。兵糧として準備した山盛りの握り飯が運ばれ、戦闘ムードは吹き飛んでしまった。

数分後、握り飯を最初に食べた兵士数十名が突然嘔吐し、倒れた。この時、既に半数以上がそれを口にしていたため、大隊は大混乱に陥った。桑原氏は握り飯を運んだ周辺集落の農民を問い質した。

農民たちは返事をせず、短刀で桑原氏を突き殺した。これを見た大隊は農民たちに切りかかるも全く歯が立たず、一人またひとりと殺され、戦況の混乱に拍車をかけた。

生き残った兵士約50名は滝つぼから撤退、林道の入り口めがけて駆けた。しかし、途中、賊の一味と思われる集団が待ち伏せしており、兵士たちは銃弾と弓の雨にさらされた。

結局、生き残った者はひとりもいなかったようだ。後日、周辺集落の河原に約200名分の生首がさらされ、村は大騒ぎになった。ただし、壊滅的な被害を受けた森藩は、賊の追撃を諦めざるを得なかった。

この伝承および賊に関する情報は、大分県史や玖珠町史には一切記載されていない。意図的に隠されたのか、それともこういった事件自体がそもそもなかったのか、真偽は不明である。

まとめ
西椎屋の滝は、義賊と呼ばれた賊集団のアジトだった

賊集団が大名家ばかり狙たを理由は不明。周辺住人に手出ししなかったため、いつしか義賊と呼ばれるようになった

基本情報
心霊スポット西椎屋の滝
(にししいやのたき)
所在地〒879-4406
大分県玖珠郡玖珠町大字日出生3065
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】大分空港から約1時間25分
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②アクセス
【一般道】大分駅から約1時間25分
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新中塚トンネル

新中塚トンネル』は、玖珠郡玖珠町の中西部を走る県道48号線の中でも比較的新しいトンネルである。2001年に運開するまでは、狭い旧道を通過しなければならず、対向車と離合できない「旧中塚隧道(ずいどう)」が最大のネックと言われていた。

旧中塚隧道は知る人ぞ知る心霊スポットとして人気を集めていた。しかし、現在、入り口はバリケードで封鎖されている。

封鎖された隧道のすぐ近くを通過する新中塚トンネルでも、霊の目撃情報が相次いでいる。目撃された霊は、「歩道に血だらけの集団が立ち尽くしていた」「壁面から人間のものと思われる腕や足が突き出ていた」など。

玖珠町出身で同トンネルの工事に携わったY氏にお話を伺うことができた。曰わく、「トンネル工事が始まる前、旧中塚隧道は埋め戻した方がよい、と意見提起された方がいた。しかし、トンネルの埋め戻しにはかなりの予算と手間、地質などに与える影響調査などを行わねばならず、実現しなかった。封鎖できないことをお伝えすると、意見提起された方はとても残念がっていた」という。

後日、意見提起した男性、I氏にお会いし、「なぜ旧中塚隧道は埋め戻した方がよいのか」確認した。

1930年代、旧中塚隧道の開通工事を行っている最中に林道から数十名分の人骨が発見され、大騒ぎになった。当時の新聞記事は残されていなかったものの、玖珠町出身のI氏が関連する記録と資料を保管していた。

1835年、東海地方で始まった大飢饉の影響は九州にも飛び火した。豊後国の作物は毎年7割から8割が枯れ、人々は土や草を食べて飢えをしのいだという。

玖珠郡の山間部、人口数十名の椛松(かばまつ)集落は、疑いの目を向けられていた。周辺集落の住人たちはガリガリにやせ細り、連日餓死者を出していた。一方、椛松集落の住人たちは血色がよく、腹の出ている者までいたのである。

同地を治めていた森藩は、飢えに苦しむ住人の訴えを確認すべく、椛松集落に足を運んだ。しかし、米や作物の蓄えは皆無。話を聞くと、皆で協力してイノシシを狩り、その肉を分け合って食べていたことが分かった。

役人たちは「飢えに苦しむ住人たちにも猪肉を恵んでやれ」と命じ、訴え出た者たちに椛松集落へ向かうよう指示した。

数日後、とある集落の住人たちがひとり残らず消えた、という訴えが森藩に届いた。役人たちはウンザリしながらも調査を実施。数十名が住んでいたとされる集落はもぬけの殻だった。

さらに二日後、今度は別の集落の住人たちが消えたと問い合わせが入った。森藩は集団自決を疑い山狩りを行ったが、遺体らしきものはひとつも見つからなかった。

後日、椛松集落を訪ねた役人数名は、住人たちに猪肉を振舞われた。この時、食事を食べたある役人は、自分でイノシシをさばき食用にした経験のある男だった。

男はそれを一口食べた瞬間、イノシシのものではないと見抜き問い質した。が、問い質すべきではなかった。斧を持った屈強な農民に囲まれ、役人たちは捕縛、解体された。

I氏によると、椛松集落は旧中塚隧道から東に100mほど進んだ場所にあったらしい。そして隧道近くに人骨を遺棄し、何食わぬ顔で生活していたが、役人殺しが公になり、全員斬首刑に処されたという。

まとめ
新中塚トンネルおよび旧中塚隧道に出没する霊は、椛松集落の事件で犠牲になった者たち、と思われる

天保の大飢饉は九州でも猛威を振るい、遺体喰いは至る所で発生していた

基本情報
心霊スポット新中塚トンネル
(しんなかつかとんねる)
所在地〒879-4522
大分県玖珠郡玖珠町
種別事故
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】大分空港から約1時間40分
【高速】大分空港から約1時間10分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】大分駅から約1時間40分
【高速】大分駅から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト玖珠町観光協会 公式ホームページ
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